紙面に連なる活字を一字一句漏らさない様に丁寧に読む。
その文字の内容を頭の中で思い描く。
本を読む。
この行為が 私、国木田花丸はとても好きだ。
一冊一冊のそれぞれの物語の中に、第三者として入り、その本独自の世界観を我が身で体験する。
全く同じ物語など無い。それぞれのその本の世界があり、違った面白さがあるのだ。
少し体制を変えると、キシッとパイプ椅子特有の音が鳴った。
チラリと時計を見ると夕方の5時50分辺りを針は指している。
そろそろ、来る時間かな?
そう思い、四葉のクローバーが挟まった、長年愛用の栞を挟んで優しく本を閉じる。
ふと周りを見回すと、数名の学生がまばらに座っていた。
ここに来た時よりも数名増えたらしい。
勉強をしている者もいれば、私と同じ様に読書をしている人もいる。
ただ共通して言えることは、シンとした静けさ、外の音やちょっとした物音が敏感に聞こえるほどの静けさが、私達とこの独特な紙の匂いが舞う空間を包んでいる。
これも好きだ。静かな所は落ち着く。
ガラリと図書館を出ると、廊下の開けた窓の外からソヨリと風が吹いた。
冷たくも暖かくも無い、感覚的に気持ちのいい涼しい風に、11月上旬という、秋の季節を肌で感じた。
賑やかな外の声を聞きながら、図書館を出てすぐの角の壁に背中を預けた。
その人とは、いつもここで待ち合わせている。
この廊下をこの時間に歩く人は少ない。
この棟は、図書館と実験室しかないから。
テスト期間などの時は多くの人がコピー機の前に列を作るが、テストも何もない11月の夕方の時間ともなると、本を読む人か、実験の準備をしに来る教授くらいしかこの棟は使用しない。
暇になれば図書館にいる私にとっては好都合。
ドタドタと廊下を走る人も居なければ、大きな声で話す人も居ない。
純粋に図書館を利用しに来る人だけが来るこの場所は私にとって平和な場所。
そして、毎日のように来ていると、この棟を利用している人の顔を少し覚えたりもする。
図書館あるあるだ。
そんな事を考えていると、来るのを待っていた人物と、もう1人良く知った人物が外からこの建物に向かって歩いて来た。
あれ、今日は2人一緒なのか。
そう思うと、胸がキュッと締め付けられた。
「ごめんマル。待たせちゃった?」
一緒に帰る待ち合わせをしていた、私の小さい頃からの幼馴染の柏木悠斗が申し訳なさそうに謝った。
「ううん。むしろ時間より早いずら。今日はルビィちゃんも一緒なんだね。」
「うん!さっき、悠斗くんにそこで会ってね、花丸ちゃんと帰る待ち合わせしてるって言うから、私もって思って!一緒に帰ってもいいかな?」
赤毛の髪をいつものツインテールとは違い、キュッと後ろで括り、クリッとした緑色の大きな瞳を持った私の親友の黒澤ルビィが可愛らしく首を傾げながら聞いてきた。
「もちろんずら。」
そう、素直に返すと、彼女はニッコリと嬉しそうに笑った。
じゃあ帰ろうかと、幼馴染の悠斗が言い、彼等が入ってきた入り口から外に出る。
「これくらいの気温が一番マルは好きズラ」
「秋って感じするよな。」
「花丸ちゃん秋好きだもんね。」
「そうズラ〜。だって秋は読書の秋、食欲の秋ズラよ!」
「ええー。ルビィは断然夏だけどなぁ」
「ルビィちゃんは夏好きかぁ。」
「うん!海とか泳げるし!」
「俺は冬かなぁ。」
「なんで冬??」
「んー。なんとなく、?」
「何それ〜」
そんなたわいも無い会話をしながらあるいていると、自分の靴紐がほどけていたことに気づいた。
すぐに自分の履いている黄色いスニーカーの靴紐を慣れた手つきでキュッと蝶々結びする。
そして、少し離された2人に追いつこうと、前を向くと、楽しそうに2人が笑い合って話していた。
彼女、黒澤ルビィは重度の人見知りで男性恐怖症。
そんな彼女が、なんの濁りも無い笑顔で、男である幼馴染の悠くんと楽しそうに笑い合っている。
その光景を見て、またズキリと胸が痛くなった。
「マルー。どうしたー?置いてくよー?」
悠くんのその言葉にハッと我にかえり、私は、少し離れた、親友と幼馴染との距離を小走り気味に詰めた。
〜〜〜
考え事をしていると、思っていたより時間が過ぎている事がある。
今、まさにその瞬間だった。
目の前に置かれた一枚のトーストとホットミルクは、出来上がった当初よりも冷めてしまっているのだろうと言う事が、見た感覚で分かった。
インターホンのゆっくりとしたチャイム音がドキリと心臓を跳ねさせた。
手が全くつけられていないトーストと自分の間の空間を一呼吸見つめて、俺、柏木悠斗はゆっくりと立ち上がった。
モニターを見ずに、そのまま玄関先のドアへと足を運ぶ。この時間に訪ねてくる人は、1人しか居なかったからだ。
ガチャリという鍵独特の音を立て、ゆっくりと押しドアを開けると、眩しい日の光が差し込み、思わず顔をしかめた。
今日は快晴だなぁ、なんていつも思う事も、目の前の人物の存在せいか、周りの音も景色も消えてしまっていた。
「おはようずら」
栗色の茶髪のフワッととしたミディアムロングヘアの国木田花丸が、そう言ってニッコリ微笑んでいた。
「お、おはよう」
少しぎこちなかったかと、言葉を発してすぐ反省した。
いつも通り平常を保たなければならないと分かっていても、今日はそれが出来ないのは恐らく昨日のことが原因なのだろう。
彼女を家の中に招き入れ、リビングへと続く短い廊下を歩く。毎日のようにしている事なのに、緊張してしまっている自分が少し情けなくなった。
座ってと言うまでもなく、いつも通りに彼女は食卓の俺の隣の席の椅子を引いて静かに座った。
定位置、と言えば間違った表現になるのかもしれない。この家に住む家族でも無ければ、祖母や祖父のような関係でも無いから。
それでも、この席は彼女が自分の家に来た時に必ず座る席である事から、頻度的にも、あながち間違った表現では無いのかもしれないと思った。
「ごめん、ちょっと寝坊しちゃって。すぐに食べて用意するから。」
寝坊した事と、考え事をしていたと言う事実が重なり、いつものルーティンより数十分遅れてしまっているのは確かだった。
「ううん。時間、余裕あるからゆっくり食べて」
優しい声で話す彼女を見て、どうしていつも通りで居られるのか不思議になった。
だってあんな事があったっていうのに。
昨日の事が夢で、その出来事が無かった事かのように錯覚してしまう。
けれど、思い出せば思い出すほど、昨日の事が事細かに鮮明に頭に浮かんでくると言うことは、やっぱり現実に起きた事なんだと、昨日の夜から何度も何度も思ったことだ。
少し心の中で溜息をつき、目の前のトーストに手をかけ、頬張った。
「悠くん。今日、眠れなかったずら…?」
心配そうに眉を下げ、トーストをモフモフとかじる俺の目を綺麗なレモンイエローの瞳がジッと見つめている。
何故か目を逸らせず、数秒間お互いを目つめ合った。
しばらくの間見つめ合えたらそれは恋。だなんてどこかの心理テストが頭をよぎり、自分の方から目を逸らしてしまった。
「だ、大丈夫。ちょっと考え事してただけだから。」
考え事、と言う言葉がよく無かったのだろう。花丸は目尻を分かりやすく下げ、申し訳なさそうに謝った。
「ごめんね。昨日の事、だよね?」
「花丸は悪くない!その…なんて言うか…俺の問題だから花丸は気にしなくて良い。」
少し声量が大きくなってしまっているのが自分でも分かった。
「うん。それで…昨日の事なんだけど…」
昨日の事…という話の切り口で体が強張ってしまう。
「あんまり気にしないで欲しいずら。まるも、勢いみたいな感じで言っちゃたから。」
そう言って、何とも表現のしにくい笑顔を彼女はした。
後悔の有無。そのどちらが混ざり合っての笑顔なのだろうと勝手に解釈した。
俺はそんな彼女を横目に、味気のないトーストを口いっぱいにかじることしか出来なかった。
モフモフと半分以上無くなったトーストをホットミルクで胃の中に流し込む。
花丸は先程の顔とは違い、嬉しそうにそれを眺めている。
こんな、目つきの悪いだけしか特徴の無い顔を見て何がそんなに嬉しいんだか。
花丸は昔からこんな風に、話す時も、無言の時間を過ごす時も、何かをしている時も、嬉しそうに俺の横顔を眺めていた。
いつから花丸がこんな事をしだしたのかは覚えていない。ただ、こんな光景が日常の様に感じているという事は、相当昔からだったと言う事なのだろう。
思春期という異性に対して恥ずかしくなる時期に、さすがにどうしてそんな事をするのだろうかと気になり聞いた事があった。その時彼女は、マルがそうしたいから、としか言わなかった。
悪い気はしなかったので、無理に辞めさせるには至らなかったが…今でも少し恥ずかしいと思う時がある。
こちらを眺めている花丸の方を向くと、これまた幸せそうに微笑む。
こんな事が何年も続いている。
幸せそうに微笑む彼女を再び見て、また恥ずかしくなり残りのトーストを口の中に入れた。
時間を見ると、家を出ないと本当に遅刻してしまう場所に針を刺しているのを確認して、勢いよく立ち上がった。
ギィという椅子が床に擦れる音が静かに家の中に響いた。
〜〜〜
後悔した時にはもう遅かった。
思わず口に出た、と言うのが一番正しいだろう。
彼の驚く顔を見た時に、今まで保ってきた筈の関係が崩れてしまったと理解した。
友達以上の恋人未満。
この言葉が一番しっくりくる自分たちの関係は、たった数文字の言葉で終わってしまった。
そう思えば、十数年の関係なんて呆気ないものだなぁと悲壮めいた気持ちになる。
恋は落ちるものだと、誰かがそう言った。
でも、私はそうは思わない。
だって落ちている時は気づかなかったから。好きという気持ちの底に辿り着いて、ようやく恋をしている事に気づく。
積み重ねた時間や、2人の思い出を辿って、そこで初めて、この人の事が好きなんだと気づく。
けれど、好きという感情をこの人に向けた時、否定されたらどうしようという気持ちが芽生えた。
彼とは友達以上だというのは確信も自信もある。
しかし、それ以上を求めるのは彼にとってどうなのだろうか。
彼の気持ちは私とは全く同じだなんて事はなくて、そんな奇跡も起きるはずもない。
好きだと気づき、その後どーするのが私にとって正しいのか。
成熟していない心で、誰にも相談する事なく導き出した答えは、この想いは消してしまおうという事。
そう決意した筈なのに。
時間が経てば経つにつれて、そうもいかなくなって。
友達以上の関係を演じている時、鋭利なもので心をなぞられているように切なかった。
私に向ける笑顔に、優しさにいちいち気持ちがときめいて、抑え込まなければという意思が逆に苦しくて。この気持ちに解放されたいのともっと求めたいのと、相反する感情に何度も何度も引き裂かれそうになった。
「好き」
そのたった2文字の言葉を言うまいと、今まで押さえ込んできたと言うのに。
ルビィちゃんと2人で仲良くしているのが嫌だったのか。なんとも情けない。
2人は仲がいいな。なんて考える度に心がえぐられる。
もういっそ、彼の前から居なくなってしまおうか。そうすれば、幾分か心が楽になれるのでは無いか。
なんて、不可能な事を考えては諦める。
スクールアイドルをしていた時もそうだった。どう言う風になりたいのかを何度も考えた。
輝けたら…なんて思っていたけれど、結局、行き着く答えは同じ終着駅。
彼の求める"何か"になりたい。
私の輝きは、あなたが笑ってくれるかどうか。私はあなたに笑顔でいて欲しいと思う。
だから、スクールアイドルを続けられた。私が楽しそうにしていると、あなたも笑ってくれるから。私がみんなと輝くと、あなたも嬉しそうにしてくれたから。
彼の求める"何か"。
大雑把で、おおまかで、答えになっていないと思うけれど、それで心が納得する。
もういっそ、なんてさっきも考えたけれど、居なくなってしまって困るのは自分の方なんだと、改めて気づく。
好き、という感情をぶつけ合い、受け入れ合い、共有できる関係になりたいというのは、叶わぬ夢なのだ。
友達以上恋人未満という関係以上を望むのは間違いなのだ。
彼の、より近くに入れるだけで良いのだ。
1番は無理でも、2番目や3番目の人になれたら、もうそれで満足だと思うことにしよう。
今までの、関係にはもう戻れない。それでも、よりそれに近い関係になら修復できるはず。
幼馴染の家が見えて来た。いつも通り、平然に振る舞おう。そう思い、快晴の朝空の下を軽快に歩く。
ふと、誰かの家の花壇に咲いた新芽に目が止まった。
理由は無い。何か、予感めいたものが、その一つの芽にある気がした。
どんな風に咲くのだろう。
ここを歩く一つの楽しみが増えたと、我ながら幼稚だと思うが、それでも喜んだ。
片手に持った新書に挟んだ栞は、昨日と全く同じページに挟んだままだった。
〜〜〜
「はい、これみかんジュース」
赤毛の髪を後ろでまとめたルビィちゃんが、ニッコリと微笑みながらオレンジ色の缶を差し出して来た。
「あ、ありがとう」
「ううん。私が呼び止めたんだし」
広い講義室の中には、俺たち2人しか居なかった。講義が終わり、先程まで賑やかだったこの大きな部屋は、講義を聞く部屋そのものの静謐さが広がっている。
さっきまで一緒に授業を受けて、一緒に帰るはずだった花丸には、ルビィちゃんと話があるから先に帰っていて欲しいと伝えた。
ジッと俺の目を見つめた後、分かったと微笑んで講義室を出て行った。
講義台に近い前の方の机に固定されたスライド式の木製の椅子に2人で腰掛けた。
ルビィちゃんのプルタブを開ける音がこだまする。
美味しそうに缶を傾けると、小さく息を吐いた。それを見た俺も続いて蓋を開け、中身の液体を喉に流し込む。
「花丸ちゃんと、何かあった?」
その言葉に飲んでいた液体が気管に入りそうになり、少しむせてしまった。
それを見たルビィちゃんは、クスクスと可愛らしげに笑って、分かりやすいねと言った。
「な、なんで?」
「そりゃ、見れば分かるよ。2人とも…ルビィの大切な友達なんだから」
恥ずかしげ無く優しく笑って答える。こっちが逆に恥ずかしくなり目を逸らした。
スクールアイドル活動をしていたという影響か、元々内気だった筈の彼女は、自分の気持ちをハッキリと言うようになった。個性の強いメンバーに囲まれていたからなのだろうか。
「えっと…、その…」
昨日の事を言って良いものなのだろうか。こう聞いてくると言う事は、花丸はルビィちゃんにも言ってないという事。他言されると、嫌なんじゃなかろうか。
そう、答えあぐねていると、ルビィちゃんは小さく笑った。
「言いにくい事なら、言わなくていいよ」
「ありがとう、助かる」
そう言うと、視線を逸らし、前の黒板の方を見つめながら間を数秒ほど空け、少し小さな声で言った。
「悠斗くんが思ってる以上に、花丸ちゃんは悠斗くんの事、大切に想ってるよ」
「え?」
反射的に返した言葉を尻目に、ジュースの缶を再び傾け、先ほどと変わらぬ表情で口を開いた。
「aqoursはみんな個性的で、それぞれやりたい事や目指すものがあって。あの時のルビィも、憧れだったものに全力で向かって走った。輝きって意味では皆んな一緒だったと思うけど。」
言葉の節々が重くのしかかる様な話し方をルビィちゃんはした。
「それぞれが全く同じ輝きを目指す…だなんて事は無かったと思う。それは、ルビィと花丸ちゃんも同じ。でも、それぞれの輝きに向かって切磋琢磨して協力しあって、それができる場所があの場所だったんだって今では思う。」
ルビィちゃんの言いたいことが見えて来ず、彼女の言葉に慎重に耳を立てる。
「じゃあ、花丸ちゃんの輝きって、なんだったんだろう。」
少し上向きに呟いた。
「花丸ちゃんは、花丸ちゃんなりの考えや目指すものがあって、それを目指して頑張っていたんだと思う。でも、それが何なのかずっと分からなかった。」
そこまで言うと、チラリとこちらに目線を向けて言った。
「悠斗くんはどう?aqoursとしてじゃ無くて、花丸ちゃん1人としての輝きはちゃんと伝わってた?」
表情を崩さず、ルビィちゃんは俺にそう問いかけた。
俺と花丸は長い時間を共に過ごした幼馴染。
運動が苦手で読書が好きで。周囲の人々に気を配る優しい性格。気遣いや場の空気を読むことに長け、思慮深く年齢の割にはどこか達観した女の子。
俺が彼女の側から離れると、彼女は一人で読書をしていた。
小学生の時、そんな風に周りと群れるなんて事はせず、端っこで静かにお人形の様に座っている花丸に、友達作らないの??なんて、今ではデリカシーのかけらもないと分かる様な質問を一度した事がある。
悠くんがいれば、マルはそれでいい。
そう言ってニッコリと静かに笑ったのを鮮明に覚えている。
そんな彼女を見て、何故か、一人にさせちゃいけない様な気がして、俺は出来る限り隣に居続けた。
俺の隣にいる彼女はいつも幸せそうで、ニッコリと笑いながら、その日読んだ本の話をしてくれた。楽しそうに、嬉しそうに。
きっと、花丸のこんな顔は、俺以外誰も知らないのだろうなと、思っていた。
そんな花丸は高校生になり、性格と真反対のはずのスクールアイドル活動がしたいと言った。
驚きはしたが、隣に常に居た彼女が、ようやく、自分の巣から抜け出し、飛び立つ事が出来たのだと理解し、素直に祝福した。
その後、成り行きで花丸のaqoursの活動を手伝うことになり、メンバーの皆んなとふざけ合い、戯れ合い、笑い合う花丸を見た。
こんな花丸の姿を知っているのは俺くらいのものだった。
花丸は普段は口数は少ない方だが、無口なわけでもないのだ。むしろ、話す事は好きなんだと思う。そして、aqoursに入って、よく笑い、話すようになったと思う。花丸と戯れ合い笑い合う相手が増えたことが、俺は素直に嬉しかった。
マルのこと、見ていてね?
ライブ前、見違えるほどに変わった花丸は、必ず俺にそう言いに来た。
舞台で可憐に踊り舞う彼女は、もうあの時の隣に居なきゃいけないと思った幼馴染では無かった。
けれど、花丸は俺にそんな姿を見せて、何を伝えたかったのか。
輝き、という大まかな意味では捉えられるが、彼女が本当にあの場所で伝えたかった事は何だったのだろうか。
遠くへ行ってしまったと。
隣に居たはずの彼女が、違う世界へと自らの足で行ってしまった。
そう思っただけだった。
「ごめん…」
その一言で察したのか、優しくルビィちゃんは答えた。
「そっか…。」
開けた窓から、秋風が入り込んでくる。
自分の顔を撫でるように刺激する風は、そこから何か大切なものを奪っていくかの様に颯と、消えて無くなった。
学生の賑やかな声が聞こえてくる。なんの話をしているかは分からないが、楽しい話をしているという事だけは、その音で判断できた。
そんな少しの沈黙を優しくルビィちゃんは終わらせた。
「もし、花丸ちゃんから求められたら、ちゃんと向き合ってあげて。」
その言葉に俺は、ルビィちゃんの方を見た。
考えている事を当てられて、心を読まれているような気がしたから。
ルビィちゃんは真剣でいて、そして優しい表情をしていた。
「俺は、どーすれば…」
俺の消え入る様な言葉に、彼女は変わらず、優しく笑って返してくれた。
「それに振り回される必要なんて無いよ。ただ、誠実に向き合うこと。それだけできっと、花丸ちゃんは納得してくれると思うよ」
優しいエメラルドグリーンの瞳は、揺れる事なく俺の瞳を見つめて、だからと続けた。
「だから…花丸ちゃんの想いから、逃げないであげて。断っても受け入れても良い。ただ、花丸ちゃんの想いに、怖がらず恐れないで欲しい。」
優しさと、願いが混ざり合った目をした。
まるで、全てを見て来た、母親のような。
「ルビィからの話は、これで終わり。帰ろ?」
声のトーンを一つ上げ、そう言って立ち上がると、リュックを手に取り背中に背負った。
気がつくと、いつの間にか飲み干していたのか、ジュースの缶の中身が空っぽになっている。
それでも、俺の口の中には、蜜柑の酸味が微かに残ったままだった。
〜〜〜
先程まで話していた講義室のある第3講義棟を無言でルビィちゃんと出ようとすると、エントランスで西日の光に照らされた、よく知る栗色の髪の人物が小説片手にそこに立っていた。
「花丸」
俺がその顔を見るなり反射的に出たその名前に、その人はこちらを向いて反応した。
「あ、出てきた。待ってたずら」
軽く微笑みかけながら、花丸は言った。
「待たせると悪いから、先に帰っててって言ったのに…」
俺がそう言うと、申し訳なさそうに眉を下げた。
「うん。でも今日は、なんだか一緒に帰りたいなって」
そう言うと花丸は、西日の夕焼けの方を静かに見つめた。
いつも一緒に帰ってるだろ、と言う言葉が喉の辺りまで出かけて引っ込めた。
今、そう言う事は、言わない方が良いと感覚が教えるから。
「あ、ルビィこの後用事があるんだった。」
わかりやすく、ハッとした表情をしてニッコリ笑った。
「急がなくちゃだから、ルビィは御暇するよ。2人でゆっくり帰ってね?」
また明日。そう言って俺と花丸の間を抜けていく。足早に去っていく後ろ姿を少しの間眺めた後、2人で顔を見合わせて歩き出す。
拳一つ分。
いつもと同じ2人の距離を保ち、ゆっくりと言葉少なく、静かに歩く。
他愛もない話をして、時折流れる沈黙があって、また話す。
その、時折流れる沈黙は、決して話題が無く戸惑う空気では無い。無理に話さなくても、お互いに心地の良い空気感が漂うから、俺はむしろ好きだったりする。
「ルビィちゃんと、なんの話をしていたの?」
駅のバスターミナルまで差し掛かった頃、ポツリと花丸が呟く様に言った。
花丸の事。
なんて事は言えなくて、大した事じゃ無いよとはぐらかすと、何も言わずにコクリと花丸は頷いた。
バスが来ると同時に後ろの扉から乗り込んだ。後ろの2人がけの席の窓側に座ると、続いて俺の隣に花丸は腰掛けた。
運転手と合わせて3人しかいないバス内で、花丸の華奢な身体が俺の左側に密着する。
バスの中では、拳一つ分ではなく、ピタリと体を寄せ合う。
「今日、なんで待ってたの?」
西日に照らされた花丸がずっと頭から離れない。
「さっきも言ったずら。一緒に帰りたかったから。」
新書のページを一つめくり、ボソリと呟いた。
「花丸はさ、友達とか、遊んだり寄り道したりしないの?ルビィちゃんとか津島以外の。」
「大学内で、お話ししたりしてるずら。そんなに、友達が多いわけでもないし。」
俺が法学部で、花丸が文学部。今日の4限は、必修科目で同じだが、常に一緒にいる訳ではない。俺が居ない間、花丸が誰と何を話し、遊んでいるのかなんて知らないのだ。
「それに、悠くんの隣に居るのが一番落ち着くずら。」
花丸は、こう言う事を平気で言ってきたりする。だから、たまに恥ずかしくなって少し間の距離を取ろうとするのだが、花丸はいつもその距離を詰めて寄ってくる。
昨日の事を思い出す。
夢の中の出来事の様な、そんな感覚だった。モヤモヤした感情がずっと俺の身体に纏わりついている。
受け入れても断っても良い。ただ、逃げず、怖がらず、恐れずに誠実に向き合う。それが俺のするべき事だとルビィちゃんは言った。
受け入れても、きっとそれはそれで幸せなんだと思う。お互いの好みや嫌いなもの、何が苦手で何が得意で、長所や短所、そんなものはもう把握しているから。
この、居心地の良い空気が、今より長く続くのなら、それはすごく幸せな事なのだろう。
花丸が別の男の人と一緒に仲良く歩いている図を想像してみた。
あの笑顔が、他の知らない男の人に向けられるのだと、花丸が伝えたかった輝きを、その人は知っていたのだと考えてみた。
そこまで考えて、心臓を尖った何かで突かれる様な感覚になり、辞めた。
自分が酷い事をしているのだと。
きっと、花丸の方がずっと不安で悩んでいるに違いないのに。もしかしたら、傷ついているかもしれないのに。
花丸が伝えたかった輝きは何なのか。分かっていたようで、何も分かっていなかった。
俺は、花丸の事なら、何でも知っているつもりだった。でもそれはただのエゴで、実際には何も花丸の事を知らないのかもしれない。
ふと隣を見ると、彼女は表情変える事なく、新書をじっくりと読んでいた。
透き通った白い肌。薄ピンクに紅潮した頬。真剣な眼差し。
スクールアイドルをしてからの彼女が、とても遠く感じてしまっていた。
隣に居た筈の彼女は、もう、そこには居ない。
バスが、止まった。俺の家の近くのバス停だった。
「家、寄っていかない?昨日母さんが美味しい栗まんじゅう貰ってきてさ。」
咄嗟に出たその言葉は、少し早口になっていたと自分でも分かった。
変だと思われたかな。そう、花丸の顔を伺っていると、彼女は、うんと頷いただけだった。
定期券を運転手に見せて、バスから降りる。花丸もその後に続いて降りてきてくれた。
バスが走り去る音が遠くなるのを背中で感じながら、数分先の家を目指して再び歩き始める。
言いたい事がある筈なのに。それが口から出てこないでいる。
考えては口籠もり。思いついては口を閉じ。考えるフリをしているだけで、この問題から都合よく逃げようとしているだけなのかもしれない。
隣に違和感を感じて横を見ると、悩みの種はそこには居なかった。
肩越しに振り返ると、花丸は、俺の家の近所の家の花壇の前に、膝を抱えながらしゃがみ込んで居た。
俺は道を引き返し、数歩先の花丸の横にピタリと止まった。
「新芽ずら。」
「ああ、それ、チューリップだよ。春になったら赤やピンク色や黄色のチューリップが数本咲くんだ。」
「黄色い、チューリップ…」
消え入るように花丸が繰り返し言った。
「それが…どうかした?」
「この子、どんな風に咲くのかなって。ちゃんと、立派な花を咲かすのかなって。そう考えると、なんだか他人事とは思えなくて、気になって放って置けなくて」
秋風が吹き付けた。それは、花丸のフワリとした髪を静かに揺らす。
花丸の横顔が、寂しそうで弱々しかった。
もう一度風が吹けば、それに攫われて、目の前の幼なじみは居なくなってしまうような気がした。
「あのさ、」
そんな横顔を見ながら、俺は切り出した。
「なんで、俺の事…好きなの?」
自分でも恥ずかしい事を言っているのだと分かる。それでも、目の前の幼なじみにどうしても聞きたい事だった。
それが分かれば、俺の言いたいことも言葉にできるかもしれないから。
花丸はゆっくりとこちらを向き、優しく笑って返した。
「悠くんだから、かな…?」
俺は、恋愛をしたことも無いし、運命の人だなんてものにも会ったことが無い。
人を好きになるという感情が、いまいち理解できていない。
でも何故か、そう話す花丸の事を見ると、少しはその根幹が、ぼんやりとだけ分かった気がした。
優しくて、顔が好みで、面白くても、その人を好きになるとは限らない。
自分の理想の人間だとしても、その人のことを好きになるとは限らない。
一部分を見るのではなく、主観的に判断する。
その人だから、どうしても好きになるのだ。
俺は、俺の答えを、花丸に伝えなければいけない。
いざ言おうとすると、気持ちが高揚して上手く口が回らない。花丸も、昨日はこんな風だったのだろうか。
大きく深呼吸をした。その姿を見て、花丸は目をぱちくりさせている。
「昨日のこと。俺は、花丸の気持ちに、想いに応える事は出来ない。」
花丸は表情を変えず、俺をジッと見つめ返すだけ。
「花丸のこと、何でも知ってるようで、知らなかった。結局、自分の都合の良いように考えていただけだった。」
この答えが、2人のこれからにとって正しかった答えなのかは分からない。けれど、拙いこの言葉でも、俺の想いを花丸に知ってもらいたい。
「花丸の輝きが、俺に伝えたかったものが何だったのか。それが分からない俺には、今の花丸の隣に居るのは多分相応しく無いから。」
人を好きになる理由なんてものは、きっと後付けなのだろう。その人の事がどうしても好きになってしまった事実。その後に理由が付いてくるだけ。
「花丸の事を、本当の意味で理解しているわけでも無い俺が、俺にとって大切な花丸の本気の気持ちに、何となくで応えるのはきっと間違ってるから。だから、花丸の想いには、応えられない。」
この答えが、2人の関係を崩してしまうかもしれない、と言う心配もあるけれど、それ以上に、大切な花丸の気持ちに嘘をついてまで踏みにじる様な事はしたくなかった。
花丸が、また俺の前で笑ってくれると言う保証もないけれど、心地の良い関係はこれから先も続いて欲しいと切に願う。
でも、それを決めるのは花丸自身で、俺では無い。
自分勝手に、"昨日の告白"を断っておいて、その資格は無いから。
下を向き、花丸の返答を待つ。
また、そよりと風が吹いた。
目を開けたら、そこにはもう花丸は居ないかもしれない。さっきの風が、花丸を遠くへ連れて行ってしまったかもしれない。
ゆっくりと立ち上がる気配がした。
距離を数歩詰められる気配がした。
その気配に、あぁ、花丸はまだそこに居てくれたと安心する。
「そんなことずらか…」
「え?」
思いもよらぬ言葉が返ってきたので、目を開け、花丸を見た。
花丸は、頬を紅潮させ、うっとりと幸せそうな顔をしていた。
「そんな悠くんだから、好きになったずら」
そう言うと、ニッコリと目を細める。
「あなたを、好きになって良かった。あなたを好きで良かった。今、本気でそう思える。」
拳一つ分。
その距離をグイッと詰め、俺の顔に手を添え、身長の小さい花丸の鼻と鼻の距離まで顔を引き寄せられた。
「じゃあ、マルは勝手に待たせてもらうずら。」
そう言って、コツンとおでことおでこをくっつけた。
「あなたが、本当のマルを知るその日まで、いつも通りにずっと"あなたの隣"で待つことにするずら。そしてマルの事を知れた日に、また悠くんから告白してくれるのを待ってることにするずら。」
「い、いいの?」
「いいも何も、マルが決めた事。あなたの隣にこれからも居させてもらうんだから、マルがお礼を言わなくちゃ。」
そう言ってニカっと白い歯を見せた。
心の中で、表現したい言葉が浮かんでは、そうじゃ無いとを繰り返す。
「お腹すいたずら。栗まんじゅうとのっぽパンに緑茶が飲みたいずら。」
そう言って俺の横を通り抜け、俺の家の方へと歩き出す。
求めていた筈の気持ちが、分からなかった筈の気持ちが、曇り空の隙間から日の光が差し込む様に、パァっと鮮明になっていく気がした。
今日、ルビィちゃんに貰った、みかんジュースの酸味の様な。
遥か遠くの星の砂を掴む様な、はたまた、身近にある綺麗な花を摘もうとする様な。
その人の姿を見ると、燃え上がる様な熱を感じ、それが不快じゃなく、むしろ幸せだと感じる。
その人の事で、頭がいっぱいになったり。
その人の事を考えて、勝手に悩んだり憂いたり。
今まで悩みに悩んだこの気持ちを、どう表現しようかと考え、あぁでもないこうでもないと頭の中で何度も描き直す。
そして、幼なじみの背中を見ながら、形容し難い、この妙な気持ちに、あぁそう言う事なのかと、生まれてこの方初めて納得できた気がした。
フワリと秋風が三たび吹き付けた。チューリップの新芽が、それに震えるのを横目に、大切な人との距離を小走り気味に詰めた。
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