錯覚ダイヤモンドです、よろしくお願いします。
お互いに、愛し合っていると、錯覚していた。
「ダイヤ、俺たちの関係は、これで終わりにしよう。」
その言葉で現実へと戻される。
"偽りの恋人"だった事実へと戻される。
幻想は、一瞬の夢の中の出来事の様に。
彼のその言葉がそれを物語っている様に、あの時私が彼に強いた関係は、彼にとって辛い事だったのだろう。
ずっと隣居たい、と思うのは不可能で、許されない事。
返す言葉が見つからない。
一体彼に何を言えば良いのかも分からない。
何が正解なのかも分からない。
「あ、…」
そう呻くのがやっとで、彼の顔を直視出来ない。次に放たれる彼の言葉がすごく怖い。
嫌だ聞きたくない。
やめてそんな顔で私を見ないで。
もっと、もっと私に貴方の愛を…
そこまで考えて、ようやく自身の愚かさを知った。
勝手な都合に彼を付き合わせ、挙げ句の果てには私の自己満足を満たす為にと彼を縛って来たことに。
もしかしたら、彼自身に好きな人がいるのかもしれない。もしかしたら、もう心に決めたような人がいるのかもしれない、なんて今初めて考えた。
事情も省みず、私はこの1ヶ月もの間、文字通り彼の心を殺していたのかもしれない。
偽りの幸せの溺れて、幻覚を…錯覚を見ていたのかもしれない。
なんて、私は愚かなのだろう。
彼の瞳に映る私は、まるで鬼のように見えているに違いない。
でも…彼にとっては最悪の1ヶ月だったとしても…それでも、私にとっては幸せだった、大切でかけがえのない時間だった。
そう、儚く悲しげな表情をする彼の顔を見て、改めて思い起こすと同時に、やはり私は愚か者であると再認識した。
そうだ。
私は未だに…錯覚を見ているのかもしれないと、あの幸せだった時間を再び頭に巡らせた。
〜〜〜
数日前の事を、俺、柏木悠斗は最初から最後まで鮮明に思い出す事ができた。
その時、そのタイミングにいったいなにを考えて、なにを思って、どう返答したのかも事細かに脳裏に刻まれてる。
それを回想しながら、大きな講堂の固い木の椅子に座り、肘を突きながらペンを意味もなくクルクルと回す。
全く講義の内容なんて入ってこず、周りに聞こえないようにため息を吐いては、どうせなら寝てしまおうと顔を伏せの繰り返しをしていた。
「何かあったの?」
同じ講義を受けている一つ下の友達、渡辺曜が隣の席からこちらに顔を寄せ、こっそりと呟いた。
吹きかかった息が擽ったかったことは特に理由もないので言わないでおこう。
「いや、ほら…」
口籠もったのは、それ以上続けるのが非常に恥ずかしかったからである。
いやだって、だって…こんな事になるなんて誰も考えないでしょう普通は。
願ってもみなかった事だったのだけれど…、こんな予想外な形で長年の夢の様なものが現実になるなんて…。
数センチ首を動かして曜と目線を合わせた。
今か今かと俺の言葉の続きを待っているのか、ジーっと目を見て離さない。
こら、そんな可愛い犬みたいな目で見るんじゃない。他の男の子にしたら勘違いしちゃうでしょうが。
曜が大学内で男子からモテモテの理由が改めて理解できた気がした。うんそりゃあ人の目を見て、こんな近い距離で接されたら誰でも勘違いするし惚れちゃうよね?
この天然ジゴロめ。変な男にだけは引っかかるなよ。と目で訴えかけたが、曜は未だに続きを話さない俺を見て首を傾げた。
まぁ通じるわけないわな。
「その、色々あるんだよ。俺にも。」
彼女から目を逸らすと、少し先にある4層の大黒板に視線を移した。
講義の内容は全学部共通科目の心理学。面白そうという内容だけで取ってみると、やはり考える事は同じなのか一つ下の学年の曜と偶然に被った為、今日含めて4回の授業を共にこの端の席で受けている。
いや、なんで学内の男友達と受けないのか?だなんて質問が来そうだが、本当に偶々に友達が誰も履修していなかったのだ。
まぁ、4限目の授業だし?こんな夕方まで学校で心理学なんて講義受けるなら、帰って寝るかバイトに行くと言う思考になるのが確かに普通ではある。まだ2年だし、必修だけ取っておけばなんて友達もいるわけだから。
そしてそれは曜も同じらしかった。曜はこの後の5限目の生物学の授業までの時間潰しに、単位が取れるならと楽そうな心理学を選んだらしい。
ていうかなんだ5限目って。やっぱり理学部は忙しいらしい。聞くところによると1年で既に履修はギチギチだそうな。
「色々ってなに?教えてよぉ。」
「こら、深掘りするんじゃありません。」
「あ!わかったぁ!あれでしょ…
───"ダイヤさん"の事でしょ!
少し周りの人の視線が集まった気がしたので、慌てて口元に指を当てシッと曜に向けた。
もうこの子!ダイヤの名前出しちゃ目立つでしょうが!分かりやすい名前の上にただでさえあなたたちは目立つんだから!
ハッと気づいた曜は口に手を当て小さく萎縮した。
Aqoursというグループ名の曜を含めた9人で、高校時にスクールアイドル活動をしていた彼女達は、ラブライブという大きな大会で優勝して、解散後もそれなりに有名人なのである。
「ご、ごめん。」
「いや、別に構わないけど…、間違っちゃいないし。」
悩みの種はまさしくその人物との関係。
同じ小中学校で、昔からの縁で、彼女たちのスクールアイドル活動をその成り行きで手伝って、それで…、
「いくら昔からの幼馴染といえ、”付き合うと”それなりに悠斗とダイヤさんでも悩みは生まれるもんなんだね。」
何かに納得したようにうなずく曜を見て俺は小さくため息をつく。
悩み…と言えば悩みなのだが、いや、困っているという言葉の方が正しいのかもしれない。
再び、数日前の事象を鮮明に掘り起こす。
大学構内のコンビニでゼミのお供に飲む飲み物を、カフェオレにするかイチゴオレにするかという至極どうでもいい事で1人で悩みに悩んでいた時、ちょいちょいと後ろ袖を引かれ振り返るとそこには、学部は違えど同じ東京の大学に進学した幼馴染の黒澤ダイヤがいつものように涼しい顔、ではなく、深刻そうな顔をして立って俺を見つめていた。
どうした?と反射的に俺が問うと、夏らしく髪を後ろでまとめたダイヤは、自身の耳元に来るようにと手を小さくこまねいた。
なされるがままに耳元まで顔を寄せると、自身の心臓の鼓動が通常より数段階も上がっていることがばれないかという妙な緊張感に俺1人包まれていた。
「ここでは言いにくいので場所を変えましょう。」
はぐらかされたその内容がとてつもなく気になり、すぐそばにあったイチゴオレを手に取ると、外で待っていてくれと、俺は足早にレジに向かって数百円と引き換えにそれを購入した。
紙パックのそれだけしか入っていない小さなレジ袋を下げながら、無言で歩くダイヤの後ろについて歩く。
ゴールデンウィーク明けの大学内は多くの学生で賑わっていた。天気も良く、今日は気温もちょうど良い肌感覚。そんな日はやっぱりこうやって外のテラスやらに出たくなるものだ。
でもしかし、もう直ぐ来るであろう梅雨の季節でこの賑やかな光景も見れなくなることを俺は去年の1年の時に既に知っていた。
ゴールデンウィークが明け、梅雨で外にも出たくなくなり、ジメッとした暑さで身体が疎くなり、テスト前に授業に来れば単位くらい取れるだろうなんて考える学生は恐らく10を全てだとするならば、6はいるだろうなぁ。
最近暑くなった。なんて言う他の学生や友達の話を聞いたりすると、いやいや…海辺の街はもっとジメッとして纏わり付くような暑さだぞ、なんて言いたくなるが…、東京も夏は暑いというのは変わらぬ事実だ。
俺の生まれ育った場所がヌメっとした暑さなら、東京は蒸されるような灼熱。
まだ、大学やアパートが都会から少し外れた場所だから良いものの、夏場に原宿だの渋谷だのに行くと、茹だるような暑さで、嫌気が差したのが去年の記憶。
「ここでいいかな。」
昼を大きく過ぎた食堂は学生が先ほどとは違ってまばらだった。時刻は2時過ぎ。今頃お昼を取る学生は少ない。
ちらほらと談笑する男女の学生達が座っているだけの、静かな空間だった。
ギィと音を立てるプラスチックの安物であろう椅子を引いて腰掛けると、幼少期から見慣れた端正で美しい人形のような顔は、いつもより引きつっている気がした。
「付き纏われているの。」
視線を下に向けて言った彼女の言葉の意味があまり良く理解できなかった。
「え、付き纏われるって何が。」
「だから、ある男性に…。」
脳内でその言葉を処理すると同時に、え?!と言う大きな声が反射的に出てしまい、慌てて口を噤んだ。
周りを見渡し、今の事が聞かれていない事を理解すると、ふぅと安心したため息を吐いた。
「そんなに慌てなくても。」
「いや、だって、えぇ…。それってストーカー?」
「ストーカー、という言い方より、変に好意を抱かせてしまったが故の…という方が正しいわ。」
頭に手を当て肘を着いた。困っているという事が目に見えて分かる彼女の姿にモヤモヤとした気分が自身の身体を包む。
ダイヤに好意を抱いて…ってところが、こうなんだ…ムズムズすると言うか…。
いやしかし、こうも美という言葉が当てはまる人はそうは居ない。小さい時から彼女のことは知ってるつもりだが、才色兼備に秀外恵中という言葉はこのことであるというような女の子で、友達思いでもあって、でも少し抜けてるところというか天然というかおっちょこちょいな所もあってそれが可愛いというか…おっと、彼女のいい所を言い出したら1日あっても足りないから辞めておこう。
「なんか嬉しそうなのはなぜ?」
「いや、すまん。自分の世界に入ってただけだ気にするな。」
まぁ結局片思いだし?1人でダイヤとデートしたりする妄想をする事しかできない訳で。こんな気持ちの悪い事がバレたら嫌われるから言わないけど。
少し落ち着かない気持ちを収めるために、先ほど買ったイチゴオレにストローを刺し中の液体を吸い上げる。
甘ッ。やっぱりカフェオレにするべきだっか。と心の中で呟くと、目の前のダイヤに視線を戻した。
「で、その変に好意を抱かせてしまったとやらの男がどうしたの?」
「傷つけず、私を諦めて欲しい…って事で…」
そこまで言うと彼女は口籠った。え、その続きは?
少し顔を紅く紅潮させてモジモジと体を揺らしチラチラとこっちを見て何か俺の反応を確認しているようだ。
なに?十二分に可愛いよ?このまま連れ帰っちゃおうか?ん?そんな表情やら愛想やらを振りまくからそうやって変な男に付き纏われるんじゃないのか、と言ってやろうかと思ったが本題が本末転倒になってしまいそうなので辞めておいた。
「なになに?」
言葉の続きを言ってくれないダイヤに俺は催促した。ほら、そんな顔ずっとされてたらこっちの身が持たないしね?
「その…」
「…?」
「私の…私の…
───彼氏になって欲しくて。」
「───」
…
……
「はぇぇぇッ?!」
さっきの数倍の変な声が思わず出てしまった。流石に周りから目立った俺を見てダイヤは声がでかいと慌てて人差し指を口を当てて静かにしろと言うジェスチャーを取った。
「す、すまん。」
でも、え、なに?驚くなって言う方がむりな話でしょ?今さっき心の中で、やっぱりダイヤは可愛いよ好き好きぐへへってなってたばっかりだからね?君わからないかもだけどね?
「え、どどどどういう意味でしょうかぁ?」
「だから落ち着きなさいって」
そうだ、落ち着かなきゃ。うん。流石に今の感じは気持ち悪かったよ。あ、気持ち悪いのは元々か。
「……ッ、話を聞いて。その…、あれよ…、だから…、その男性に諦めてもらう為に一時的に彼氏になって欲しいって事よ。」
「あ…そ、そうだよな?!はは、あぁびっくりした。」
そりゃそうだ。ダイヤが本当に俺の事が好きで告白なんかするわけない。勝手に舞い上がって馬鹿なのか俺は。
「え、でも…」
幾ら一時的に仮の彼氏だとしても、俺からすれば10年以上も片思いしてる幼馴染の女の子。演じればそれでいいじゃないなんて思うかもしれないが、心臓と身が持たない未来が見えるのは分かりきった事である。
「貴方にしか…頼めなくて。」
それでも、憂愁がひしひしと漂う彼女の姿はそれ以上に見ていられない。彼女自身も、好きでもないされど幼馴染にこう言う事を頼みに来ている時点で、やはり悩ましい事態なのだろうから。
なら、俺のやるべき事は一つなのではなかろうか。彼女の為なら…ということで理由は十分である。
「分かった。俺で良かったら…」
その俺の返事に彼女はぱあっと表情を明るくさせた。
そんなこんなで、俺は長年片思いしている幼馴染の女の子と…願ってもいない状況と事象によって、一時的に付き合いことになったのである。
「はぁ。」
「またため息…!」
数日前のハッキリと鮮明に覚えていたその記憶と出来事を脳内で思い起こすと、思わず無意識に儚いため息を身体から外へと放出してしまっていた。
曜はそれを見てか、少し気を揉んだような表情をして机に突っ伏す俺の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫…?ダイヤさんと何かあったの?」
憂慮に耐えない曜を見て、あぁ、無駄な心配をさせてしまっているなと自覚した。
この子は気配り上手な分、こういうところにかなり敏感だ。
「うん、まぁ…」
それでも、曜にこの悩みを打ち明ける事は出来ないのだ。ダイヤとは、付き合っているという事を周りに認識させる事が大切である上に、それが仮で一時的なものであるという事は、"2人だけの秘密"という約束をしてしまったから。
確かに、その纏わりついてくる男に諦めてもらうという事を目的とするなら、当事者だけの秘密にしてしまう方が理にかなっているし、情報が漏れてしまう事は絶対に避けなければならない。
ダイヤが言うには、海外にいる俺とダイヤの幼馴染で、高校時代に同じスクールアイドル活動をしていた小原鞠莉と、同じく幼馴染で、数ヶ月前に海外から帰ってきて実家のダイビングショップを営んでいる果南には相談したとの事だから、それ以外には言ってはいけないと言う事。
そして、いくら曜でも、こんなややこしい事態に巻き込むのは、ダイヤも出来る限り避けたいと言う考えで…、他のAqoursのメンバーや妹のルビィちゃんにも例外なくそうなのだろう。
ルビィちゃんなんて、あんな性格の上、姉のことだからきっとかなり心配するだろうし。
だからこそ…
「大丈夫だよ。」
そう言う事しかできなかった。
実際問題、その纏わりついてくる男が、諦めるという根拠もない事や、俺には荷が重すぎるという事の悩みが尽きない上、仮にでも彼女と言う関係になってしまった事によるこれから先の読めない事象と、"片思い"している事によるとてつもない罪悪感が自身の心を蝕んでいく事など、考え悩むことは多くあった。
机の上にぐったりと体を預けながら、前の視線の大黒板に再び戻すと、先程より板書の数が増えていた。
慌てて起き上がり、レジュメにそれを書き写す。
心理学とは、観察、実験、調査を重ねて一般的な人間に見られる傾向を解明していく。
赤ペンで、観察実験調査という文字を書き写すと、ふとある言葉が頭によぎった。
目は口程にものを言う。
表情や目の動き、視線、声のトーン、しぐさ、癖、色んな要素で人の心を判断する事ができると言う、この基礎心理学の授業を数回受けてもしかしたら俺も、意識して隠していたとしても相手にはバレてしまっているのかもしれない。
例えば、悩みの種でもあり意中のダイヤなんかは、嘘をつけば口元のホクロを掻く癖があるわけで…。
そう言う癖が、自分でも分からない所で判断されているのなら少し怖いなと感じたのは…、10年以上もダイヤへの想いを隠し通してきたと思っているからであろう。
俺には可能性なんてない事はもう既に前から分かっている。無理に伝えて、人間関係が壊れてしまう事は避けたかったし、これからもダイヤや果南、鞠莉とのこの関係を続けていきたかったから。
玉砕覚悟で臨め。だなんて事は俺にはできない。
損な性格してる自覚はある。
一定したリズムの鐘の音を模した聴き慣れたチャイムが鳴り響く。
来週までにレジュメ読んでおけよと、片づけ立ち上がり先程の静謐さとは違い賑やかになり始めた講義室内に教授の声が虚しく響いた。
「やっと終わったあ!」
そう言って伸びをした曜はそそくさとレジュメと筆箱を鞄にしまう。
この後にゼミがあるらしい曜を気の毒だななんて思うと、大きな眠気と欠伸が俺を襲う。
夜になると考え事をしてしまって、気がついたら夜中だなんて事がここ数日のルーティン。今日はバイトも無いし、帰ったら寝よう。
「あ、ダイヤさん!」
その名前にびくりと身体を震わす。
嬉しそうに笑顔で俺の背後に視線を向ける曜はふるふると手を振った。
「あら曜さん、同じだったのね。」
「そうなんだよ。この時間は悠斗と一緒なんだあ。」
ギギギと錆び付いた機械のように振り返ると、後ろでお団子にして艶のある漆のような黒の長髪を纏めたダイヤが立っている。
「ほら!迎えに来てくれたんだからシャキッとする!」
少し元気の無かった俺を無理矢理にでも励ますようにバチンと背中を叩くと、大きなリュックを肩に背負い、お決まりの敬礼ポーズを取った。
「じゃあ、また明日ね2人とも!ヨーソロー!」
足早に彼女はこの後に控えている授業がある教室であろう方向へと去っていく。
他の学生達が帰り出す流れの中にその背中が消えていくのを見届けると、俺も立ち上がった。
「帰ろうか。」
「ええ、帰りましょう。」
授業中に悩んでいたので、少しぎこちなかったかなと心配したが、いつもと変わらぬダイヤの反応に、杞憂だったと少し安心する。
そよりと開けた窓から外の空気が入り込んで来たのを肌で感じた。身体が心地良いと感じるその風は、言葉通りの涼風だった。
まだ風は涼しいけれど、日向に出れば暑いのだろうなと、帰り際の賑やかな学生の声が無駄にだだっ広い講義室内に無数に響いている中で、脳裏を意味もなく掠めた。
〜〜〜
青になった信号機の道路を私、黒澤ダイヤは渡った。
信号を渡り終えると、辺りが薄暗くなり始めた世界に煌々と輝きを放つスーパーの目の前を慣れたように歩む。
通り過ぎようとした時に、ピタリと歩みを止めて冷蔵庫の中身の記憶を探った。
「あ、」
1人でに出た小さな声が周りに聞こえてしまったかとキョロキョロと首を振って確認したが、今この周りにには誰も歩いておらずほっと胸を撫で下ろした。
卵と食パンを今日で切らしていた事を思い出したのだ。
朝は目玉焼きにトーストと相場が決まっている。まぁ、私の中での話なのだけれど。
くるりと踵を返し、通り過ぎたいつものスーパーへと向かう。自動ドアが開くと同時に、スーパー独特のひんやりとした空気が肌を突いた。
ゴールデンウィークが開けてから、衣替えをして半袖を着るようになったが昼は暑くても、この時間帯は外もまだ肌寒かったりするから、上に羽織るものを持って行かなきゃ…と思いながら、学校へ行くのに朝出ると結局暑いのでどうしても忘れてしまう。
プラスチックの買い物カゴを腕でぶら下げて、何度も行き慣れた卵の売り場へと歩みを進める。
値段を見て、今日はチラシの日だった事をまた思い出した。結果良しと思い、お一人様2つと書かれた注意書き通りに2パックをカゴの中に入れた。
後、食パンと、ついでにハムも買っておこう…、それから…無駄な出費は出来る限り避けるのが限られた資金で生きていく上で必要な事であると理解しているから、頭の中で何を買うかを浮かべてそれ以上は買わない事が節約の秘訣…
そんな事をムフフとドヤ顔で歩く私は、その途中の冷蔵のショーケースの前で足を止めた。
プリン特価、3つ入り80円?!それに加えて、ちょっと大きくて生クリームとか乗ってるやつも特価格で100円?!
こ、これは…。
どうするべきなのだろうか…。
買っちゃいなよ、先月も節約したんだしそんな数百円程度我慢する事ないさ。と耳の奥で何かが囁きかけて来たので、うんこれは買いだと、3つ入りプリンを3つと良いプリンを2つカゴに入れる。
食パンとハム、その他必要なものもカゴにいれレジで会計を済ませる。今日はポイント2倍の日だった事とその恩恵が受けられた事に少し嬉しくなりながら、先程と同じ自動ドアの下をくぐった。
外に出ると、先程より肌感が暑く感じたのは、スーパー内の独特の寒さと外の気温との寒暖差の影響だろう。
片手でレジ袋をぶら下げながらスーパーから歩いて数分の自宅である学生女子寮へ到着した。
重厚な押しドアを開け、数字の押しボタンが並んだ機械の前へ立つと、パスワードを慣れた手つきで打ち込み、ロックが解除されて開いたドアからエントランスへと入る。
故障中と書かれたエレベーターの前を通り過ぎ、4階上の部屋へ行くために階段を登る。
ゴールデンウィーク前に壊れてから、業者が修理にまだ来ないと使えなくなったエレベーターはいつ治るのだろうか。私を含め、上の階にいる人は不便なのだから早く治して頂きたいところだと内心に愚痴を吐露しながら、重い足をよっこらよっこらと一段ずつ上げる。
階段を登り切り、1番奥の部屋の鍵穴に鍵を差し込み回すと、ガチャリと音を立てた。引き戸のドアを開け、部屋の中へと入る。
台所でうがいと手を洗い、買った中身を冷蔵庫に仕舞うためにレジ袋を開けた。
どっさりと入った商品を見て、プリン…買いすぎた、と後の祭り的な後悔に襲われながらそれらを冷蔵庫へ入れ終えると、2人がけのソファに腰かけ、テレビをつけて、夕方のニュースを意味もなく眺めながら今日あったことを思い出した。
ついさっきまで彼と2人で肩を並べて歩いていた。今日はお互いに授業がぎっちりの日だったからあまり2人きりになれる余裕は無かったけど、それだけでも嬉しかった。
他愛もない話をして…肩を並べて…手を繋いで…ウヘヘ。
おっと、はしたない。と思ったが、一人暮らしの家の中で妄想するくらい自由の権利の範疇だと思い、癖でピシッと伸びた背筋をだらんとさせてグッタリとソファにもたれかかった。
まぁ、妄想なんか今に始まった事では無いですがね!
"10年以上も片思い"してる私から言わせれば、彼とデートしたり"あんな事やこんな事"をしたりする妄想なんてお手の物。
毎日の様に彼と2人で写った写真で1人で……ぐへへ。
だからこそ、ここ数日は正に私の望んだ世界だった。
あんな距離感で手を繋いでなんて、10年以上の妄想が現実になる事と同義。まるで求めたユートピア。
明日は2人とも夕方前には予定が終わって、彼もバイト無いはずたがら、少し都会で買い物に出るのも良いし、近くのカフェで2人でゆっくりするのあり。想像すればする程に明日が待ち遠しい。
と、こんな風に毎日幸せの世界に入り浸っているわけなのであるが、こうなる為に、ある一つの"嘘を"私はついた。
彼とお付き合いできたのは良いが、それがある嘘の建前の上で成り立っているのだ。
その嘘は…
『付き纏われている男に諦めてもらう為に、一時的に私と付き合って欲しい』
という事。
そう言った時の彼の驚いた顔はそれはもうすごいものだった。
そりゃあそうか。10年以上も幼馴染としての関係を続けて来たはずの女からそんな事を言われるなんて思いもしなかっただろうし。
まぁ、その驚いた顔も可愛らしかったわけでそんな顔も一生見ていれるわけでゲフンゲフン…おっと。
全部嘘なんですけどね?
そう考えると、罪悪感が身体を纏う様に蝕む。
事の経緯は、母に見合いを勧められたからというのが始まり。
大学生の間は自由の裁量が与えられているが、卒業すれば地元の旧網元の家系である実家の黒澤家へと戻り家を継ぐ為の準備とやらを進めていかなければならなくなる。
そんな事はもうずっと前から分かっていることで、敷かれたレールの上を歩いてやるべき事をしなければならない事も理解して生きて来た。
ただし、将来の伴侶や、人間関係は自分で決めて生きていきたかった。父も母もそれは了承し理解を示してくれているし、スクールアイドルという活動がそう言った弊害無く出来たのも両親のおかげである訳で。
しかし、母は早く将来の伴侶候補を見せてくれと高校卒業が近づくにつれて言うようになった。
母と父は、学生の時にお互い好き同士で付き合い、父が母側の黒澤の性に改姓した婿結婚へと歩みを進めた。家柄を気にしての結婚なんて考えないはずの母が、お見合いでもする?なんて言い出したのは、私に男性の匂いがまるでしない事を焦ったからだろう。
いや、好きな人ずっと前からいるんですけどね?
小さな頃からの幼馴染の関係の悠斗の事は、一時期好きなのかとか付き合っているのかとかを茶化し半分興味半分で聞いて来ていたのを、私が恥ずかしさのあまりに、頑なに幼馴染なだけだと認めなかったから、それを本当と信じてしまっているから、こういう面倒くさい事になってしまったのだ。
付き合ってないのに、付き合ってるからお見合いはよしてよ…なんて言えないし、だからって悠斗という10年以上も愛している人がいるから、お見合いは嫌だし…。
いっそ、悠斗に告白する勇気や、それが叶う見込みがあるのならなぁ、なんて無理な事を考えて、鞠莉さんと果南さんに相談したすると…
果南さんから本当の気持ちを伝えるべきとの意見と、鞠莉さんから、建前を作って付き合う様に促してみるという意見が出た。
鞠莉さんに詳しく聞くと、
『気持ちの悪い男にストーカーされてるから、付き合うフリをして一緒に撃退してくれない?とでも言えば良いデース!』
なんていつもの様にお気楽に言った。
果南さんはあまり乗り気ではなかったが、私がもろに向き合って告白する勇気なんてない事はすでに露呈していたので、とりあえずそうしてみようという事になったという経緯である。
罪悪感や、その後の事をどうするのかということを考えて行かなければならないのはわかっているけれど…。
仮に一時的にでも、付き合えた事が嬉しいし、毎日こうやって2人で恋人らしい事ができたと嬉しく喜んでいる。
まあ、またその時が来れば考えればいいかと、鞠莉さんの様に楽観的に見ることした。
内容なんて全く入ってこないニュースを消して、明日のことを考えながらお風呂にでも入ろうと心躍らせながら立ち上がる。
一人暮らしの部屋には、梅雨の到来の始まりであるというアナウンサーの声が、静かに響き渡っていた。
〜〜〜
「罪悪感…?なんでさ。」
「いや、向こうの都合とは言え…この関係が続くのが…こう、なんか…」
机を挟んでプラスチックの椅子に腰掛け肘をつく果南を目の前に、俺は表現し難い心の中を手を使ったりして必死に伝えようとしていた。
「付き合えた…で良かったんじゃないの?」
はぁ、と面倒くさそうに溜息をつく果南を見て、なんだか妙な相談をしてしまっているなぁと自覚できた。
「いや、それはそうなんだけど…」
付き合えた。
所謂、恋人関係に俺とダイヤはなったわけだ。願ってもみない事なのだけれど…、何か引っかかる部分があってうまく表現できないでいる。
「そう言うのって、お互いがちゃんと好き同士でなるものなんじゃないかって…。」
今、俺が表現できるのはここまでだった。
勿論、俺はもうかれこれ10年以上もダイヤのことが大好きで、愛し合う関係になりたいだなんて数え切れないほどに願った事だ。
しかし、それが叶っている状況は一時的で、建前がある上に成り立っていると言う事実がある。そして俺はいつか近い内に来る、状況が良くなったのでこの関係は終わりだと告げられるのが日に日に怖くなっているのだ。
「嫌なの?ダイヤと恋人関係になるのが。」
「嫌じゃないさ。寧ろ嬉しい事だけど…。」
「けど?」
果南から目を逸らし俯く。
ダイヤと仮の恋人になってから、3週間が経とうとしている。一抹の悩みが日に日に大きくなる理由は、恐らく俺自身の心の問題なのだろう。
「この関係に依存しそうで…。」
好き合う関係が、俺にとっては心地が良すぎる。このまま続いていけば、近い日に来る別れに耐えられなくなる。
何かの間違いで、この関係がずっと続いて欲しいと、何度も願った。
それでも、冷静考えて、それは叶わないと現実に戻るの繰り返し。
彼女の温もりが、笑顔が、優しさが、全て俺に向けるものであって欲しいなんて、気持ちの悪いことを考えて、それが日を増して強くなる。
「ダイヤの気持ちって…考えた事ある?」
え、と思わず声が出たのは反射的なもの。
いや、そもそもダイヤの気持ちを考えてるから、こんな相談をしているんだけど…。
「そりゃあ…」
「それは自分勝手な考え。」
果南が何を言っているのかが、頭で理解できなかった。
「勝手に、自分でそうじゃないやって、決めるのは良くないよ。昔から私達、特にダイヤに変に気を遣いずきるのが悠斗の悪い癖だよ?だからさ…」
肘をついて達観した様な表情をして俺と向き合い話をしていた果南は、机に身を乗り出して、俺のすぐ前に顔を寄せた。
乗り出した彼女のTシャツからチラリと淀みのない綺麗な肌色の鎖骨が覗いた。
さっぱりとした清涼剤の様な匂いがするのは、昔から変わらない彼女の匂い。
「話し合う事が…大切なんじゃないかな。ほら、私と鞠莉がいい例だよ。」
目を細め、包み込む様に目の前の彼女は笑った。
確かに、果南の言う通りかもしれない。
今の彼女の状況を聞いて、それが解決した時の今後の事は、悩み揺れる自分の心で覚悟を決めて、しっかりと話し合わなければならない。
不定期にカモメが鳴く声と、均一に海の波の緩やかな音が混ざり合う。ゴールデンウィーク以来の、数週間前に帰ってきた筈のこの海辺の街に、懐かしさを感じた。
俺たちが座るテラスの横一面には、頭上に登った太陽の陽光が鮮やかに反射しているいつもの海があった。
ゆったりと、静かな風が吹くと潮の匂いがした。
目の前に置かれた、果南が入れてくれたグラスに入ったオレンジジュースを持ち上げると、氷が溶けてビッシリとついた水滴を左の手のひらで感じる。
ゴクリと一含み、その甘酸っぱい液体を喉に通すと同時に、この生まれ育った町に相応しい季節がやってきたなと、俺は濡れたグラスを静かに置いた。
〜〜〜
「それで、昨日借りたこの映画がね?」
大学から帰る道。彼女の住む家の近くまで来ていた。
ピッタリと俺の右隣にくっついた距離でダイヤは俺の顔を覗き込むようにして、楽しそうに話している。
この距離感、この雰囲気、この関係、これが続いてもう1か月が経った。
西空を見ると、細かい雲たちが夕焼けに照らされ、茜色に色づいている。
昼間の暑さや熱気が徐々に引いていき、今日も一日が終わろうとしていることが肌で感じられた。
「あ、悠斗このあと時間ある?スーパー着いてきて欲しくて…」
純粋な、なんの濁りもない彼女の綺麗な瞳に俺が映っているのが分かる。
この、擬似的で仮の関係が、まるで本物であるかのように錯覚してしまうのは…、恐らくダイヤの態度や一つ一つの表情が原因なのだろう。
そして恐らくそれは、信頼の類いのもの。十数年、付き添ってきたからこそのもの。
ただ、彼女の向けるそれが、幼馴染みとしての愛であったとしても、異性に向ける愛ではない事は、もうわかりきったことだった。
俺の彼女に向けるものが、彼女を好きだという気持ちが、同じく共有できるものではない事も、そんな奇跡が起こらない事も、もう知っている。
だからこそ、この仮の関係を終わらせなければならないと…そう思う。
この仮の関係が本物だと錯覚して、幸福で満たされた空間に依存して、取り返しのつかない事になってしまう前に…。
「ダイヤ。」
俺は彼女と一定の歩幅で歩いていた歩みをピタリと止め、彼女の名前を呼んだ。
俺より少し前に出た彼女は、肩越しに振り返るように俺を見ると、体をこちらに向けた。
「なんでしょう?」
優しく微笑みながら首を少し傾けた。
その、一つ一つの仕草も愛おしく感じてしまうほど、俺の心は彼女に奪われてしまっている。
これ以上、錯覚に溺れてしまわない様に。
「付き纏われてるって…あの話どうなったの?」
「あ、え?えっと…それは…。」
ダイヤは考え込む様に目を逸らした。まだ付き纏われてるのかな。
「解決…しました。お陰様で、諦めてくれました…。」
ありがとうございます。そう言って彼女は行儀良く頭を下げた。
律儀だなぁ。と感心して、そういう所もやっぱり好きなのだと改めて思った。
「じゃあさ…。」
ずっと、この関係が続いていけばと思った。でも、それはダメな事で、自分の独りよがりのエゴであると分かっている。
楽しかった。
すごくすごく楽しかった。
一緒に行った映画も、一緒に飲んだカフェで何時間も話した事も、こうやって一緒に帰りを共にできた事も。
幼馴染みであった関係から、仮にでも一歩踏み込んだ関係へと進められたことと彼女と過ごしたその一ヶ月間は、俺にとっては桃源郷そのものであるかの様に、幸せで居心地の良いものだった。
それでも、この"錯覚"から、現実へと戻らなければならない。
「ダイヤ、俺たちの関係は、これで終わりにしよう。」
〜〜〜
その言葉で現実へと戻される。
"偽りの恋人"だった事実へと戻される。
その言葉を放つと、彼の顔が少し強張った気がした。
「あ、」
狼狽を漂わせ、右手を彼の方へと伸ばす様に上げると、私は空中でピタリと止めた。
幻想は、一瞬の夢の中の出来事の様に。
あの時、私が彼に強いた関係は、彼にとって辛い事だったのだろう。
彼のその言葉がそれを物語っている様に…。
ずっと隣居たい、と思うのは不可能で、許されない事。
そこまで考えて、ようやく自身の愚かさを知った。
勝手な都合に彼を付き合わせ、挙げ句の果てには私の自己満足を満たす為にと彼を縛って来たことに。
もしかしたら、彼自身に好きな人がいるのかもしれない。もしかしたら、もう心に決めたような人がいるのかもしれない、なんて今初めて考えた。
事情も省みず、私はこの1ヶ月もの間、文字通り彼の心を殺していたのかもしれない。
偽りの幸せの溺れて、幻覚を…錯覚を見ていたのかもしれない。
なんて、私は愚かなのだろう。
別段、何か特別な出来事があって彼を好きになったとかそう言う訳ではない。
家柄や、堅苦しい性格の私に、邪の気持ちなく普通に接してくれた事が、嬉しかった。
気づけば彼への愛しさが、滴に落ちた水面の様に広がって、私の身体を優しく包んでいた。
毎日が、色鮮やかに鮮明に見える様になって。
ずっと見ていたくて、声を聞いていたくて。
気分が跳ねたり、そう思ったら沈んで苦しくなったり。反応に一々一喜一憂したり。
彼のどこがとか、何が好きなのだとか、そう言う事を聞かれると、返答に困ってしまうのは、そう言う次元では無かったから。
彼という人が、存在が、好きなのだ。
隣にいると心が躍る。
話すと心が満たされる。
触れると身体が熱くなる。
思い続けた10年以上の年月は、静かにそれでいてしっかりと気持ちを増幅させた。
そして、この1ヶ月。
再びに、改めて彼への愛を再認識したと同時に、もっともっと欲しいと言う欲が強くなってしまった。
その笑顔は、私だけに向けて欲しい。
その温もりは、私だけの為にあって欲しい。
その声は、匂いは、視線は、私だけに…私のものに…。
だからこそ、この1ヶ月間は、嘘の建前で彼を縛ってしまっていた事を忘れてしまうほどに、幸せで満ちたものだった。
ジッと私の返答を待つ彼の目を見る。
何か寂しそうで、悲しそうな、形容し難い表情を彼はしていた。
果たして、ここで終わってしまっても、元の関係に戻れるのか。
元の、あの幼馴染みであった関係に戻れるのか。
戻る?
また、あの片想いに?
そんなの、そんなの嫌。
隣にいてよ。私のそばにいて離れないでよ。
その笑顔をわた時だけに向けてよ。
あなたの温もりを私だけに。
錯覚でもいい。この関係を、貴方との距離を私は…
「───嫌…。」
「え?」
「だから…」
理解できていない、何を言っているんだ、と言うような顔をして彼は反応した。
なんで、さっきまで肩寄せ合った距離だったのに。この、この距離は何。
「この関係を終わらせるのが、嫌…。私は貴方とずっと…」
目の前の彼の目が、どんどん開いていくのが分かった。
「でも、この関係は一時的にって…。」
「違う!私は、私は嘘をついてた…。」
そう言って私は目を瞑る。嫌われるかもしれない。愛想を尽かされるかもしれない。
それでも、前の関係に戻るのは嫌だった。
愛し合う、愛を共有し合いたい。
貴方と…これから先も…。
「私は…貴方が好きです。面と向かって付き合って欲しいと言う事ができなくて…こんな嘘の建前を…。ごめんなさい。」
この先から何を言うのが正解なのか…わかりかねた。
好き。この文字、この表現方法しか、今の私には伝える事ができなかった。
嘘をついてまで、こんな事をして嫌われるかもしれないのにって心のどこかでは分かっていたのに。罪悪感が薄れていく事に、危機感よりも幸福感の方が優ってしまっていたから。
目を開けると、彼はもう後ろを向いて去っているかもしれない。もう彼は私の前に居ないかもしれない。
だから、この先のことが…とても怖い。
「目を開けて…ダイヤ」
その言葉と同時に、手に何か触れる感覚があった。
恐る恐る、閉じていた目を開けると、先程まで開いていた2歩分の距離から、すぐ目の前の距離へと変わっていた。
「俺も…俺もダイヤの事が好きだよ」
私の手をギュッと握ると…私の欲しかった言葉と笑顔をくれた。
いいの?
本当に?
こんな私の事を?
「私…嘘ついて、騙して…こんな事をして…。それなのに、それなのに何故。」
心地の良い暖かさが手の感触から伝わってくる。
「何故って…。そりゃあ…
握り締めた手の強さを、彼はもう一段階強めると、優しく暖かな瞳は、私をジッと見て捉えた。
────ずーっと、ダイヤの事が好きだったから」
胸のときめきを感じた。
魂に刻まれたような喜びを感じた。
女としての幸福を感じた。
抑えていた欲が弾け飛ぶように溢れ出した。
まるで、飢えた獣のように、目の前の愛しい存在に飛びつく。
私の好きな温もりを感じる。
私の好きな匂いがする。
私の好きな音がする。
優しく抱きしめ返してくれた、その感触にまた欲を抑えきれなくなる。
あれ、私ってこんな、我慢の出来ないような人間でしたっけ?
一つ背伸びして、彼の顔を引き寄せ、唇を重ね合わせた。
いいじゃない。
好きだって、お互いに想い合っているって、そう確信したから。
突然の事で驚いたのか…、呻き声のような音を上げる。
ダメ、離してあげない。だって…何年この時を待ったと思ってるの。
この、身体も心も満たされるような彼との幸せが、一生続いていけば良いなと思う。
彼の味がする。
初めての、感覚がする。
初めての、昂りを感じる。
初夏の強い夕方の陽光を、歩道の真ん中で2人で浴びる。この、燃えるような暑さは、その光のせいか…それとも彼との温もりのせいか…。
熱いと感じる感覚が、不快ではなく寧ろ幸福でもっと欲しいと感じているのは…恐らく後者だからだろう。
梅雨が始まる。それが終われば…夏が来る。
私が大好きな夏が来る。
今年の夏もこれからも…、いや、寒くて凍えそうな日や暑すぎて溶けそうな日の様などんな季節やどんな日であっても、愛しい彼となら、"愛の錯覚"できっと幸せで満ちた素晴らしいものになるであろうと、これからの日常に私は胸を躍らせた。
ありがとうございました。誤字脱字ありましたら報告お願いします。
私が思うに、ダイヤさんは欲深く一途な子なんだなと言う認識でこのお話を書きました。
では、また次回。