初めて彼と出逢った時の事。
まだ冷たい4月の海に落ちて、びしょ濡れになった姿でドラム缶にくべた火の前で座って話をした。
私は男という生き物が少し苦手だった。
父親は浮気をして母と離婚して、中学校の時は静かな環境が好きな私にとって騒がしい男の子達にうんざりしていたし、挙句に私に好意を伝えてきた男の子にやんわり断った時にはプライドが傷つくのが嫌だったのか罰ゲームでやらされてだのと御託を並べられたり…、。
そんなせいか、兎にも角にも男という人のイメージがあまり良くなかった。
だから、初めの彼の印象は自ずと悪い方向へと向いていた。
その日初めてあった千歌ちゃんと海に落ちた私を引っ張り上げてくれた事もあって、邪険にする事も嫌な顔をする事もできずに、千歌ちゃんがタオルを取りに行ってくれている間の数分に、彼と他愛もない話をした。
そこが、彼との初めての出逢いでもあり、私にとっての人生の大きな転換期でもあった。
その日初めて会った同じクラスの快活な蜜柑色の髪の女の子の幼馴染。
最初はそんな認識で、それまでの関係なんだと思っていたけれど、千歌ちゃんやAqoursの皆んなとスクールアイドル活動をする事になって、その活動を色々と手伝ってくれた彼と自然と交流も深くなっていった。
そして自然に、なんの脈絡もきっかけも無く、気づいた時には彼を好きになっていた。
気がつけば横顔を眺めていたり、話したくなったり、距離を詰めたくなったり、触れたくなったり…。
男が苦手だのと言っていた私は初めて男の人を好きになった。
それから、運が良かったのか巡り合わせが良かったのか、彼と付き合う事になった。
恋愛というものをした事が無かった私は、分からないなりに好きと言う気持ちを伝えて、それが功を制したのだろう。
付き合ってからも私は手探りだった。彼もお付き合いは初めてだったらしく、2人で何がどう正しいかも分からない状態だった。
ただ、そんな中である感情が強く根を張り芽生えだした。
───独占欲
恋愛がどう言ったものなのか分からない私は、深く…より深くと彼を愛してしまったが故に、重く彼を自分だけのものにしたいという欲望に駆られてしまった。
束縛をして、私の側から離れないように工夫も施して、出来る限り彼の行動も監視して把握していた。
四六時中ずっと彼と一緒にいたし、電話や連絡の相手ですらも報告を義務付けた。
やりすぎだと、千歌ちゃんや他のみんなにも言われていたけれど、それ以上に彼が私のもとから離れて行ってしまうことが怖かった。
優しい彼は、度が過ぎていると分かっていながらもそれに付き合ってくれたし、そのおかげで関係が壊れてしまうほどの喧嘩やすれ違いも無かった。
ただ、今日の朝を迎えるまでは。
「………んっ」
目が覚めると時計は夜の10時を指している。
夕方に作った料理には眠る前と同じようにラップがかけられているままであった。
ああやはり今日の朝の事が響いているのだと桜内梨子は再び机の上に項垂れた。
項垂れた腕の隙間から自身の左手の薬指を見ると、ここ数年感じることの無かった焦燥感と一抹の怒りが胸の隅にこびりついている。
昨日の夜からあの人のの様子がおかしかった。
話しても目を合わせてくれないし、話しかけてもはぐらかされて早々に切り上げられるし、何かずっと考え事をしているようで、2人で居ても落ち着きがない。
兎に角、何かを隠しているのが肌で分かった。
それが何なのか知りたくて、梨子は彼に夜の営みを誘ったけれど、それをそっけなく断られて意気消沈。今日の朝までそれを引きずった上に、「今日の夜は帰りが遅くなるから夕飯は済ましてて」なんてことを言うものだから、昨日の夜からの静かな怒りと寂しさに加えて、仕事で溜まりに溜まった鬱憤や苛苛が弾けて幾年ぶりかの喧嘩をしてしまった。
結婚して5年…。もう新婚ホヤホヤというわけにもいかず、子供が欲しいだとか持ち家はどうするかとかそういうステージへと関係を進めたくて、常日頃から2人のことを考えているのに…。
「…はぁぁ」
梨子は大きく息を吐いた。
結婚してからは、恋人同士の頃に意図的にしていた束縛や監視を緩めていた。恋人という関係から夫婦という関係になり、結婚をしているという事実がこれまで以上に無い梨子と彼との繋がりだと感じられたからであった。
やっぱり、私のもとに常に居させるべきだっかなと梨子は頭を抱えた。梨子のプロのピアニストという仕事では、全国各地で公演やコンサートが全国あちこち飛び回る為、彼との家を空けてしまうことが多かった。
彼は生まれ育った沼津という地で仕事をしている為、梨子の仕事都合で振り回すことも出来なかった。
浴を言えば、私のマネージャーか何かにでもなってもらって、全国に飛び回る度に付いてきて欲しいところだけれど…本人はちゃんと仕事をしたいと頑なにそれを拒むのだ。
将来、海外などの講演やコンサートも目指している梨子にとっては、いつか彼と海外に移住してゆっくり暮らしたいという願いもあった。
昨日だって、2週間ぶりに彼のもとへと帰って来たと言うのにあの態度をするもんだからつい強い口調で当たってしまった。
もしかしたら早く帰ってきてくれるかという期待も虚しく、つくったハンバーグはお皿と共にラップの中で冷えてしまっていた。
ああ、何時に帰ってくるのだろうか。早く会いたい。
眠ってしまう前に送ったメッセージは無く虚しさだけが胸を浸す。
少し頭を冷やそう。
そう思いぐいっと伸びをすると、梨子は立ち上がり独りでに外へと出掛けた。
〜〜〜
賑やかな声が漏れる木取手の居酒屋の扉の前で、桜内悠斗は伸ばした手を止めた。躊躇いがあったからなのだろう、手を下ろして扉の前から一歩横へと移動した。
斜め後ろを振り返ると、少しだけ遠くなった見慣れたバスロータリーの明かりが見えた。やっぱり帰ろうかな…、と思い一歩踏み出したけれど再び思考を巡らせて立ち止まった。
そんな変な動きをしている悠斗をスーツを着た年上の男の人が怪しげな顔をしながら入るか入らないかと瞑想している目的の中へと足早と入っていく。
少しだけ…、居酒屋に入るだけだなんだから。
そう考えてまた行ったり来たりを繰り返す。
早く決めなければ店の前で変な動きをしている男がいると怪しまれてしまう。
でも、いや、けれども…なんて何度も思考を巡らせる。普段はまっすぐ家に帰ってお酒は金曜日の夜に家で嗜む程度の悠斗にとって、平日の木曜日に居酒屋に入ろうなんて気を起こさない。
ならば帰ればいいじゃない。
なんて思うけれどそれを躊躇してしまっている。
理由は簡単。妻の梨子と喧嘩してしまったからである。
要するに、今帰ってしまうと気まずいのだ。
今日の朝の出来事を振り返っては眉間にきつく皺を寄せると大きく息を吐いて左手で顔を覆った。
自分の馬鹿げたマイナス思考のせいで、梨子が悠斗と2人で住んでいるそこまで大きくもない3DKの部屋に3週間ぶりに帰ってくるとなって妙に気持ちが落ち着かなくなっていたのだ。
それで、モヤモヤしている気持ちで朝に梨子を迎え入れてしまった訳で、それからと言うもの……梨子が怒ってしまい、チクチクと言われるて、今この場所にいるのだ。
帰るのは気まずいなぁ。
そう思って辺りを見渡すけれど、こんな夜に時間を潰そうなんて事ができる事も限られてくる。居酒屋か、大人の夜のお店くらいしか無くなってくる。
大人なお店は流石に妻持ちの悠斗は入るわけもいかず、やっぱり居酒屋で少しお酒を嗜んで帰ろうと言う気になった。
木取手に手を掛け引こうとすると、
ーーあれ?悠斗じゃん!
聞き慣れた声が聞こえて後ろを振り向くと、見慣れたアッシュグレーの髪を背中の辺りまで伸ばした渡辺曜がラフな格好をして立っていた。
〜〜〜
「いつ帰ってたの?」
悠斗がそう尋ねると、曜は箸でパクりと唐揚げを頬張った。もぐもぐと口いっぱいの唐揚げを噛み飲み込むと、「今朝だよ!」と満面の笑みで笑った。
渡辺曜は、船乗りなのである。勤め先の会社は一流企業で、海上貿易を主に事業展開している貿易会社で、そこの船の乗船員、航海員をしているらしい。一度出て行って仕舞えば、1ヶ月も帰ってこないなんて多くあるのだ。
「だったら連絡ほしかったなぁ。」
「今日帰ってきてゆっくりお酒飲んでからって思ってたの…ごめんね!」
ぺろりと舌を可愛らしげに出す。
まぁでも、こうして会って話が出来ているのだからそこはもう良いというにしておこうと悠斗はジョッキを少し傾けた。
「どう?桜内って名字はもう慣れた?」
ふわりとアッシュグレーの髪を靡かせると満面の笑みで曜は笑う。
「いやぁ、まぁ5年もこの名前なら流石に慣れるよ。」
桜内梨子と柏木悠斗。この2人が結婚する事になって戸籍の名字をどうするかで話し合った時、
「桜内って、ピアノ活動でも桜内梨子って名前なのよ。今更変えたりするのもできるのだろうけどなんだか面倒くさい感じになっちゃうわね。」
なんて言っていたから、じゃあ僕が名字を桜内にすれば万事解決と言う事になって、桜内悠斗という名前になったのだ。
「梨子ちゃんの曲、この前カフェで流れてたんだよ!すごいよね、CDが10万枚も売れてるだなんて!」
桜内梨子は、その見た目の端正で目尻の上った超絶世美女ピアニストとして大変有名な人なのだ。
大学時代の能力が評価されて、国内でプロの音楽劇団チームの1人にも入っているし、作詞作曲の才能が認められて国内での人気は素晴らしいもので…、そして去年辺りからは演奏力を買われて音楽大学の非常勤の講師を務めると共に、音楽の都ウィーンで交響楽団のメンバーにも入り、近々ソロ公演が控えている様な国内外でも超人気のピアニストになったのだ。
そんな梨子は結婚していようがいまいが家を開けることが多い。その留守をごく一般の会社で平社員として働いている悠斗が家の掃除等をするのが日課なのだ。
「で、梨子ちゃん次はいつ帰ってくるの?」
ワクワクと目を輝かせている様子が目の前で見られる。
「昨日の晩に帰ってきた。」
「えー?!そんなの聞いてないよ!!悠斗のばかぁ、早く連絡しなきゃ………」
「それどころじゃ無くて…」
そう言うと曜は「何があったの?」と真剣な眼差しで悠斗を見ている。
「帰りづらい……」
「何があったのさ。」
そう言われて、悠斗は今日の朝と昨日の夜のことを思い出した。
確かに、彼女の言うように素っ気なかったのかもしれない。けれどあんなに怒るほどでもないだろう……。所謂、男と女の温もりを肌で感じ合う行為をしたかったのだろうだけれど、悠斗自身は全くもってそんな気分には慣れなかった。
もちろんそれには理由もあるし、悠斗自身それを考えている最中なのであるから。
という理由で断ったんだけれど、それが上手く伝わらず一方的に断ったというような受け取り方をしてしまって、彼女は怒ってしまったのたまろう。
「喧嘩、と言うより…なんて言うんだろう、こう…思いがなかなか伝わらなくてモヤモヤしてそれを勘違いされて……ええっと、」
「すれ違いかぁ」
「そうそれ。」
「私も梨子ちゃんと最近話せてないからなぁ。2人の事情も分からないけど……、」
「けど?」
「そんな時にこんなとこでお酒なんかなんでて良いの?」
そう言われるとやはり罪悪感を感じてしまう。しかし、そのまま直帰していてもまた2人ですれ違うだけだったかもしれないと悠斗は思った。
「結婚したのも数年が経つけど、長期間ずっと一緒に居られるわけじゃない上に、突然仕事だって出て行く事だってある。僕からしたら結婚ってなんだろとか訳の分からないことを考え出して、そして極め付けは………」
「極め付けは……?」
曜は続きを知りたそうに前へ乗り出す。
「テレビや音楽番組で梨子が出たり紹介されたりしていると、テレビの前で一体俺は何をやっているんだろうという気分になる。なんで彼女は僕と結婚しようと思ってくれたのかなとか。お金も地位も名誉も持ってない僕がお金も地位を持ってる梨子のどんな部分の支えになれるのだろうかとか、どんどんマイナス思考になっていくんだ。」
「考え過ぎじゃないかなぁ…」
考え過ぎ、と言われればそうかもしれない。
「ちょっとした気のすれ違いなんて人間なんだから誰にでもあるよ。梨子ちゃんだってきっと色々考えるんだよ。だから邪険にしないで向き合ってあげる事が夫婦ってものじゃない?まぁ、結婚してないから分からないけど!」
全くもってその通りだと反省していると、最後の曜の言葉で飲んでいたビールを吹きそうになった。でも、曜も心配してそう言ってくれているのだ。今言ってくれた言葉通り、向き合うことが大切だと思う。
「今日は早く帰って、寄り添ってあげてよ。梨子ちゃん、きっと待ってるよ。」
白い歯を薄ら見せると、曜は残っていた酎ハイを飲み干した。
〜〜〜
やっぱり言い過ぎたかなと1人で反省していた。
彼にだって彼の今日の気分だってある訳なのだから。断られたからと言って、変な勘繰りをして動揺してしまった。
梨子にとって夫である彼は生き甲斐以外の何者でも無い。彼がいるからピアノが続けられるし、彼がいるから頑張ろうと思える。
そんな私に2週間会えないというのはかなり辛かった。いくら仕事だから仕方がないと割り切っていても、その気持ちは昂って収まらなかった。
だから、早く会って彼の温もりを感じたかった。
海沿いのアスファルトの道をいつもより半歩遅い速さで歩いている。
波の音が静かに聞こえるこの街が梨子は大好きだ。16歳の時にここに来たけれど、綺麗な海と街の雰囲気はいつも心を癒してくれる。
夏は照りつける日射にうんざりしそうになるけれど、青い空と日光に反射される煌びやかな海、そしてその海の音が何よりも好きだ。
彼との家は借り家だけれど、今は実家とも近いし沼津の方に行けばそれなりに物は揃うし、不自由ではない。バスの本数が少ないのが玉に瑕だけれど…。
うん、心は落ち着いた。
そう思って、梨子は歩いてきた道を引き返した。
怒ってるかな、嫌われたかな、そんなマイナス思考が頭をよぎるけれど……ううん、大丈夫。私たち夫婦だから…。
そう考えてバス停の近くで…………止まった。
バスが停まっていたから、この時間ならもう終バスかそれに近いバスだ。
「また連絡してよね!私は千歌ちゃんに会いに行ってくるから、メッセージしたら、こんな遅くでも会いたいって言ってくれたの!うへへ。あ、梨子ちゃんにも連絡しとかないと。今したら来るかな。」
「来るんじゃないか、家にはいると思うし。」
「やっぱり明日にしとくよ。今はほら、夫婦でね?」
バスから降りて来た見慣れたスーツに身を包んだ見慣れた男と、バスの反射光で照らされる少し伸びたであろうアッシュグレーの特徴的な癖っ毛が見えてしまった。
変な勘繰り、変な動揺、あぁまただ…また気持ちがぐちゃぐちゃしてしまう。
そう思って梨子は咄嗟に道の木の方に身を隠した。彼らに見つかってしまわない様に。
落ち着いたはずなのにな。
こんなの、曜ちゃんとお酒飲んでるだけでしょ。
何もない、それ以上は何もないのはもう分かっている。
でも、2人のお互いの気持ちがぐちゃぐちゃになっている時に、そんなに楽しそうな顔をして曜ちゃんのお酒飲まないでよ。私の事は二の次って事で良い訳?
あぁ、頭がぐちゃぐちゃになる。
もうどうすれば良いのか分からない。話し合えば済むのだろうけれど、今はそんな気分じゃななくなってしまった。
くるりと踵を返してバレない様にバス停から遠ざかる。近くに十千万があるからその前をバレない様に通って、もう家に帰ってしまおう。
梨子は彼がバスから降りて帰って行く後ろ姿を立ちすくんで見ているだけしかできなかった。
〜〜〜
時計を見ると22時30分を指していた。
鍵を回して家に入ると部屋の中は真っ暗な世界。
あれ、梨子はもう寝たのかな。
そう思って玄関を見ると、朝出る時にはあった梨子のスニーカーが無くなっていた。こんな遅くにどこに行ったのだろうかと不安になりながら靴を脱ぎ部屋に入った。
「梨子」
一言、彼女の名前を呼んでみたけれど反応はない。
寝室を開けてみても静寂が広がっているだけ。
どこか出掛けたのだろうか。夜も遅く心配になるけれど、自分の様に何処かに飲みに行ったりしているのかもしれないと悠斗はジャケットを脱いだ。
ぐっと背伸びをする。
肩甲骨の辺りで関節が擦れる音がすると大きく息を吐いた。
シャワーを浴びようと脱衣所に向かおうとすると、閉めた玄関の鍵がガチャリと音を立てて回った。
「あ」
その反射的な声と同時に扉が開くと、髪を後ろで纏めた梨子が帰ってきた。
「おかえり。」
そう言うと梨子はただいまと鍵をかけた。
少し梨子の表情がぎこちなく何処か暗い気がして脱衣所に入ろうとした足を止めて梨子の方へ向いた。
朝のあの出来事が蘇る。曜にも言われた通り、梨子と話す機会を作らなければならないと悠斗は話し始めた。
「朝の、ごめんね。ちょっと考え事というか悩んでたと言うか…。」
「ああ、そうなの。」
「えーっと…、」
この自分の悩みを当事者の梨子にどう説明して良いのか分からず詰まってしまう。梨子の反応と思ったものではないというか、心ここに在らずという感じがして話し込む事が出来なさそうだった。
「それより、」
「ん?」
下を向いて梨子は悠斗の話題を遮った。
「曜ちゃん、帰ってきてたのね。」
「え、あぁ、そうなんだよ。ていうか、さっきまで曜と飲んでて今さっき十千万に行くって行ってたから…、」
「どうして。」
話を遮り虚ろ気味な目で悠斗の目を見る。
「どうして連絡してくれなかったの。」
「あ…」
そこまで言われて、しまったと悠斗は後悔した。
朝の件で頭がいっぱいで、寧ろ本末転倒なことをしてしまっていた事に気がついた。
昔から梨子はこう言う事になると少しだけ人が変わる。
行動把握や連絡の徹底、悠斗の事になると重く深く考え込んでしまう癖があった。
悠斗はそれ自体は嫌ではなかった。梨子に愛されている事と感じられたし、心配してくれているんだろうということを分かっていたから。たまにうんざりしてしまう事もあったけれど、その求められる行為自体が嫌と言うわけでは無かった。
けれど、それも最近は無くなっていた。
結婚をしてからだと思う。
「私の事は、二の次なの?連絡せず、曜ちゃんとお酒を飲む事の方が重要なの?今朝のことがあったから、ちゃんと話をしたかったのに……こんなの……」
そう言うと梨子はしゃがみ込んでしまう。
声を詰まらせて、涙を堪えているのが背中越しに分かってしまう。
何をしているのだろうと、悠斗は自分自身に情けなさを感じた。
学生の時とはもう違う…。自分達は大人なのだと。
どんどん違う世界に行ってしまう梨子を見て、自分はどうすればいいのか分からなくなって、求められる事に罪悪感を感じてしまって勝手に悩んで。
傷つく事と傷つける事が怖くて、大切な事を忘れてしまっていた。
ただ、結婚したと言う事実に収まって考える事を無意識に放棄していたのだ。
自分の幸せは何なのか。梨子にとっての幸せは何なのか。
「梨子」
悠斗がそう呟くと、しゃがみ込んでいた梨子は泣いてくしゃくしゃになった顔を上げた。
「梨子の幸せって、何。」
「それは…」
そう言うと、泣き腫らした緋色の綺麗な目をこちらに向ける
「あなたの側にいる事。」
その一言で十分だった。
だって、悠斗自身もそうだったから。
「俺も…そうだよ。」
どんどんと音楽で有名になって、梨子がどこか遠くへ行ってしまう気がして、結婚という事実に縋って考える事を辞めていた、2人の幸せというカテゴリー。
2人の考えていることが一緒なんだと言うなら、自分のやるべき事は一つしかないと悠斗は思った。
「梨子の側にいたい。その為には…俺はどうすればいい?」
その問いに梨子はしゃがみ込んでいた体勢から立ち上がって悠斗の前に立った。
ジッと見つめるその宝石の様な瞳に呑まれそうになる。
「私と、ずっと一緒に居て。どこに行くにも私の側にいて欲しい。簡単でしょ?」
そう言うと、触れるだけのキスをした。不意打ちで少しびっくりしたけれど、梨子の表情はいたって真剣そのもの。
「仕事、辞めなきゃいけなくなっちゃうね。ほら、梨子は色んなところに行っちゃうから。」
「マネージャーっていう名前の仕事があるわよ?」
「具体的に何するのそれ。」
「私と常に一緒にいる仕事よ。あとは適当なスケジュール管理とか電話の窓口とか。」
梨子に雇われる…と言う形になってしまう事に、男としてどうなんだと思ってしまったけれど、それを彼女が求めていることで、そうする事で彼女のそばに居られるのならそれで良いと悠斗は思った。
「それから」
そう言って梨子は悠斗の正面から優しく抱きしめると、小さな声で囁いた。
「子どもが欲しい。」
その言葉にドクンと心臓が大きく跳ね上がる感覚がした。
「あなたと私の子ども。幸せの愛の形。」
悠斗は優しく梨子を包み込んだ。
今朝まで、求められることが怖かったのに、今ではこんなにも幸せだと感じる。
うん、と頷くと梨子は抱きしめる力を少しだけ強めた。
小さな事も大きな事もこれから先育んで作り上げていく梨子との日常が楽しみで仕方がないと悠斗も梨子も感じていた。
何故ならそれが、ずっと互いの側にいたいと言う2人にとっての、大切な幸せの範疇なのだから。