炎と雪に包まれた北欧、吸い込まれそうなほどに美しい青空の下、私はつい先程まで対峙していた空想樹の残骸を遠く眺めていた。
白く透き通った欠片が空へと霧散し消滅してゆく様は目を見開くほどに幻想的で、終焉を迎えようとしているこの世界が、その散り際に自身の美しさを私へ見せつけているような気さえしてしまうほどだ。
……けれど、そんなことはありえない。拭い去れぬ罪の意識から来る、酷い思い上がり。ずきりと痛む胸を欠けた令呪の滲む右手で押さえながら、私は震える声で呟く。
「勝ったよ……」
それは人に聞かせるための言葉ではなく、自らの胸の内へと向けた囁き。負けるなと、戦えと、心に刻みつけられた声へと向けたもの。
そう。私達は今度も負けなかった。女神によって守護された儚くも美しい世界を、三千年に渡って停滞し続けてきた世界を踏みにじって、生存の権利を勝ち取った。
今やその死の痕跡すら私達の記憶の中にしか無い異端のヤガを想いながら、胸を苛む痛みに耐え続ける。その痛みを投げ捨ててはならない。蹲って泣きわめいて、足を止めることも許されない。
溢れそうになる涙を拭い、私は傍らにそびえ立つ異形の巨体へと視線を向けた。私が人類最後のマスターとなったその日から、絶えず寄り添い歩みをともにしてくれた皇帝へと。
炎の巨人スルト、滅びに瀕した北欧を守護し続けてきた女神スカサハ=スカディ、そしてこの地に根付いた空想樹との連戦は、さしもの雷帝にとっても過酷な戦いであることは間違いなかったらしく、硬質化した強靭な表皮は一部剥がれ落ち、異形の体には戦闘の痕が刻まれている。
彼は疲労を滲ませた体で気だるげに佇み、極寒のロシアとは比べるべくもない優しい肌寒さを全身で味わっている様子だった。
ギザついた大顎の奥に見える虚空の穴からは、いつも通りなんの表情も読み取ることなどできないが、それでもどこか陰を感じさせる雰囲気を纏っているように思えた。
「……」
あの日、吹雪に閉ざされたロシアに陽の光が差すのを見たときと同様の、重たい沈黙。……どう声をかければいいだろうか。強靭な異形の体の中に、どれほどの苦悩が渦巻いているか知ってしまった今、月並みな思い遣りの言葉すらおいそれと口にすることが憚られる。
きらきらと輝きながら青空に消えてゆく空想樹の欠片を眺めながら、皮下に雷光を迸らせる大木じみた太さの脚へと身を寄せる。鎧のように堅い表皮にはじわりと電熱が籠もり、不思議な心地よさがあった。私の遥か頭上に座する虚空の穴が、こちらを見つめているのを感じる。
『……あまり、余を侮るでないぞ』
本気で気分を害したと言うよりは、腫れ物を触るように気遣われたことに対しての照れ隠し、虚勢を思わせる震え声だった。
言葉とは裏腹に寄り添う私を無理に引き剥がす気もなく、男の腕よりも太い指先がそっと肩に乗せられる。じんわりとした暖かさとともに、小刻みな震えが肩へ伝う。
……きっと彼も、私と同じなのだ。足を止めることなど許されないのに、進めば進むほどに打ちのめされる。傷つき心を軋ませながら、歩み続けるしか無い。きっと私達は同じ痛みを共有している。そんな実感があって、少しだけ救われた気がした。
肩に乗せられた指先へと右手を添えて、私へと向けられた深淵の穴をじっと見つめ返す。異形の皇帝は困ったように大顎を揺らしたあと、観念した様子でぼそりと呟く。
『……此度は何を白状せよと言うのだ。……愛し子よ』
疲弊を隠すこともできない弱々しい声。愛し子と、彼はそう私を呼びながら、堅い指先で髪を撫でる。
小山ほどの巨体を有し神霊にさえ匹敵する力を持った極寒の地の王。……だが私は知ってしまった。人であることを捨ててまで手に入れた力によって神話に語られる英霊たちと並び立っていても、その心までもが体と同様の強靭さを有しているわけではないと。
他の英霊たちと同様に全てを過去のことと達観するには、この旅路は彼の生涯と余りにも地続きなのだ。あのとき、青空の下の雪原で聞いた彼の慟哭によって、私はそれを知ってしまった。知ってしまったからには、見なかったことになどできるはずもない。
「貴方が、吐き出してしまいたいことを」
分厚い表皮を通してでも感じられるように、精一杯の力で彼の指先を握りしめながら、私はそう返事をする。
私が述べた意地の悪い言葉に雷帝は少しばかり困った様子て押し黙るが、その沈黙も長くは続かなかった。
『皇帝(ツァーリ)たる余に斯様な気遣いとは、甚だ不敬な女よ。……だが、さもありなん。此度の戦いが些かながら堪えたのも確かではある』
疲れ切った声からは、戦闘の際に見せる荒々しさなど少しも感じ取れない。縋るようにうなじを弄る指の動きを受け入れながら、私はただ彼に寄り添い、言葉の続きを待つ。
『この身に宿す力に不足があったのではない。……あの異教の女神だ。あの女の在り方こそが、余を苛立たせる。民草に対し苦しみに満ちた数百年を与えてやることしか出来なんだ己の無力さを、思い知らされるのだ。……魔獣の肉を食み、滅びに耐えうる強さを手に入れようとも、民に害なす怪物と成り果てていては意味もない。我が腕で民を救うつもりでいたはずが、結局のところ余に待っていたのは汝の手による救いだ。己の見苦しさを見せつけられる苦痛は、汝に付き従う亡霊として生前の余を直視したときに十分味わったと言うに、ままならぬものだ……』
一頻りその胸中を吐き出すと、彼は肩の力を抜いて、大きく息を吐く。その仕草が異形の姿とは不釣り合いなほどに人間的で、魔獣と混じり合ったところで、人は人であるという事実を告げていた。
人がどれだけ力を手に入れたところで、神になることなどできはしない。結局、彼も私と同様に人としての苦しみを抱えながら前に進むしか無いのだ。それが、どれだけの苦難だとしても。
「でも私は――私達は、貴方が持つ力で守られている。それは間違いないよ」
『口の減らぬ女だ。……まあ良い。汝がそこに在る限り、余は変わらずこの力を振るおうとも』
雷帝の声色に、再び活力が満ちてゆくのが感じられた。苦悩を吐き出したことで少しでも気が楽になってくれたのなら、それに越したことはない。
私もまた少しばかりの安堵からホッと息を吐くが、その隙をつくように肩に添えられた指先が腰へと伸ばされた。
『さあ、征くぞ。あまり長く話し込んで、あの賢人どもに下衆の勘繰りをされるのも腹立たしい』
「あっ……」
巨大な手によっていとも容易く胴体を包み込まれ、ひょいと体が浮き上がったかと思えば、逞しい肩から生えるツノへと座らせられる。
普段の目線とは比べ物にならない高所から見下ろす景色に驚きつつも、落っこちてしまわぬように上向きに反った大角へとしがみつく。
象の蹄を思わせる足がズシンと地響きを立てて地面を踏みしめるたび、体が大きく揺すられて今にも転げ落ちてしまいそうだ。だけれど、私は笑っていた。これから待ち受ける苦難も、ここに来るまでに背負った罪も、今だけは忘れて。
終