妖怪の山。
人里から遥か離れた場所に位置するその土地は、文字通り妖怪が跋扈している、人間から見れば地獄と変わらない場所である。
昔は鬼がその土地を治めていたとも噂される山。今では天狗を頂点とした厳しい統制システムが組み込まれているそうだが、真偽のほどは定かではない。
鬼が統治していた、つまり幻想郷はおろか幻と実体の境界すら張られていなかったころは毎日のように人攫いがあったと聞いており、そのときから比べればなるほど、確かに年に1度あるかないかとなった現在は平和といえるだろう。その平和が上記の厳格なシステムの賜物か、博麗の巫女による抑止力の為かは知らないが。
天狗攫い、といった言葉があるように人間が行方不明になった場合、まず真っ先に疑われるのが天狗である。それは世界と隔離され、妖怪の存在が当たり前である幻想郷でも、いや幻想郷だからこそその疑惑から天狗は逃れられない。
天狗社会自体が人攫いを禁忌として扱っているが、いくら力説したところで疑いの目は早々晴れない。鬼攫いの名残か、彼らが去った土地を治め始めた天狗にとばっちりが来た形である。これでも数百年前よりは冷たい目もマシになったとのことなので、努力自体は無駄ではなかったことが伺える。
最近では、交流も兼ねて頻繁に人里に訪れる妖怪も増えてきたとのこと。それは明るい烏天狗の少女だったり、自称ミステリアスな雰囲気を漂わせている月出身の兎だったり、外の世界にいて久しい化け狸だったりと多岐にわたる。それ以外にも人との触れ合いを望む妖は一定数おり、彼、彼女らのおかげか現在も少しずつ、本当に少しずつではあるが人と妖怪の距離は縮まってきている。
・・・・・・そしてもちろん、人との交流を望まない妖怪も存在する。いや、彼女の場合は人のみならず他の者、と言葉が変わるが。
だらん、と刃先が下がった鉈から血が滴る。軽く振るうと、飛び散った血が自分の服にも付着した。まあ元々返り血で汚れているのでどうでもいいが。
鉈を突き立ててから一旦地面に腰を下ろし、胡坐をかく。懐から布切れを取り出し、鉈の血を丁寧にふき取る。時間の経過はもちろん、雑な拭き方をした場合の代償は厄介な血糊として返ってくる。自らの相棒とも言える得物なのだ。手入れは欠かせない。
風が頬を撫でる。女心と秋の空という言葉があるが、ここ、妖怪の山の秋はお天道様の機嫌がいいことで有名である。夏の残暑をかすかに感じさせるこの季節は、自分にとってもお気に入りの時期である。生まれてこの方長い年月を一人で過ごしてきたが、人並み、いや妖怪並みの風情はあるつもりだ。舞い散る紅葉や眼下に広がる景色を見て何も思わないほど感情は枯れてない。
「・・・・・・ん、まーた刃ごぼれしてら。帰ったら研ぎなおさねぇどいげねえなぁ」
血糊が拭き終わり、鉈の状態を点検していたらまた欠陥が見つかった。ここ1ヶ月で既に3度目である。
はぁ、と息を吐いてから腰を上げる。生活柄、ほとんどのことは一人でこなしているが、決して万能ではないことは自身が一番理解している。
刃物についてもそうだ。扱うことならそれなりの自信を持っているが、修理に関しては玄人には程遠い。時間をかければある程度のレベルまでは仕上げられる、といったところか。何でもこなせるほど器用な性格ではないのだ。
「一度見でもらった方がえがもしれねぁ・・・・・・気進まねぁけれど」
騙し騙し使っていき、遠くない未来に取り返しのつかない事態に陥るよりは専門の者に預けたほうがいい。頭では理解しているが、自然と声は重くなる。
「・・・・・・ま、一旦家さ戻ってがらだな」
考えを振り払うようにうん、と背伸びをする。血のついた銀髪を靡かせながら、『仕留めた猪』を肩に担いだ。
「あややや、どーもどーも。お留守番中に失礼しております」
「けえれ(帰れ)」
不可侵条約とは何なのだろうか、そう思わせる光景が眼前にあった。
家の中で見知った顔(不本意ながら)の烏天狗がくつろいでいる。呼んでもいないのに月一の頻度で来る厄介な奴だ。カメラとメモ帳を持参しているあたり、取材の帰りなのだろう。だが、そんなことはどうでもいい。
ぐてーん、とだらしない格好をしている天狗の首根っこを掴み、思い切り外にぶん投げた。
あや?と言いながら彼女は空中で一回転し、何事も無かったかのように着地する。無駄に身体能力がいい相手だ。
「あややや、ひどいじゃありませんかー。私と坂田さんの仲でしょうに~」
「かっさばくぞ天狗」
家の中から取り出してきた解体包丁を構えるが、彼女はどこ吹く風といったような態度である。こちらが本気で言っているわけではないということもあるが、仮にガチで切りかかったとしても結果は目に見えている。
曲がりなりにも天狗は鬼と並び、妖怪最強の種族である。その天狗の中でも最上位に位置する烏天狗、そしてその中でも上位の実力を持つのが目の前の人物、射命丸文だ。自分も腕っ節に関してはそんじょそこらの妖怪に負けるつもりは無いが、さすがに彼女相手に勝負を仕掛けるほど頭がおめでたいわけではない。ムカつくが。ものすごく追い出したいが。
言いあっていても埒が明かないので、猪の解体作業に移ることにした。妖怪であるがゆえ、別段食を摂らずとも生きていけるが、なにぶんおいしい食事というのは大きな『娯楽』である。
にこにこと見守る烏天狗を鬱陶しいと思いつつも、裁く手は止めない。仕留めた場所で既に腹を裂き、簡単な血抜きをしているので皮剥ぎから始める。肉が痛まないように早めに裁いて干すか燻製にする必要がある。もちろん、調理の際は塩水でもう一度血抜きをする予定だ。食あたりなどとは無縁の体ではあるが、おいしいものはおいしく食べたいのだ。
目の前の烏は煮ても焼いても食えそうに無いが。
「天狗、用がねぇならとっととけえれ」
「あ、そうでした。坂田さんにお尋ねしたいことが会ったんですよ」
今思い出した、という体(てい)でポン、と手を打つ仕草が明らかにわざとらしい。ここまで行動の一つ一つが信用できない相手というのも珍しい。そんなに大勢とは会ったことは無いが。
血に染まってきた包丁を一旦拭き、そこでむっと顔を顰める。不運な日だ、ガタがきていたのは鉈だけではなかったらしい。前に鍛冶屋に持って行ってから十数年が経っている。
この際、持っている刃物類を全て見てもらうべきかと思案する。
・・・・・・そもそも天狗の小娘が来る日は決まって碌な事が起こらなかった気がする。よく考えれば思い出せる程度には不幸な出来事が起こったときは大抵視界にあのうざったい顔が映っていた。
つまり、今日の悪い出来事は全て目の前の少女が起こしたものだ。そう決めた。
「実は身寄りの無い人間の子供を拾っちゃいましてねー」
「断る」
「いや待ってくださいって!そこをなんとか!」
「あんたの都合は知らねぇ。ていうよりまーだ拾ってぎたんか」
土下座しそうな勢いで詰め寄ってくる天狗。仕事柄幻想郷を駆け回ることが多い彼女は、人、物限らず色々な拾い物をする。妖怪である以上、人間を襲うことは別段おかしいことではないし、人里から離れた人間についてはどうしようと博麗の巫女とやらも黙認する。
そんな中この天狗は、はぐれ人間を見かけたら基本博麗神社か人里に送り届けるという奇特なことをしている。以前、自分のことを「私は巷で里に最も近い天狗と呼ばれているんですよ~いや、人気者は辛いですね~」なんて自慢げに話していたが、あながち間違っていないだろう(顔がうざかったので叩き出したが)。
ただ、『人間の少年』に関しては人の保護下に送り届けず、妖怪の山に連れ去ってくるのだ。
若干涎たらしながら。一遍巫女に退治されたほうがいいのではないかと常々思う。
「うちに頼らず人里さ送り返せぇ。元々食う気さねぁのだべ」
「あー、いや、送り返したいのは山々なんですがねえ。保護した少年を返すちょっと『色々』してるんですが、今まで送り返した少年達がその事を里で話すみたいで・・・・・・。それが巫女の耳に入るたびに退治されかけてるんですよ~私。」
自業自得とはこのことである。というか、既に天罰が下っていたようだ。そのままくたばってくれないだろうか。
「そこそこ全力を出した私と互角なんてだなんてあの巫女人間ですか本当に。あと十年以内には私よりも・・・・・・。失礼、それでまあ、これからは送り返すまでにワンクッション置いてからにしようかと」
「やっぱ斬るわそこ動ぐな」
何かぶつぶつ行っていると思ったら突然の共犯以来をしてきた。あれか、自分が攫ってきたが送り返す人が別ならば無罪になるとでも思っているのかこの小娘は。
いやそれ以前に何故ナチュラルに赤の他人を巻き込もうとしているのか。カラスは凶兆の象徴とされているが納得である。というよりいい加減帰ってほしい。このままでは騒がしい者がいるせいで猪の解体作業に支障が出かねない。夏は過ぎたが冬には程遠いのだ。のんびりしていたら肉が痛みかねないのだ。
包丁を操り、丁寧に、そして慎重に皮を剥いでいく。うっかり手が滑って自分の体にぐさり、なんてなったら笑えない。妖怪なので死ぬことはないが、痛いもの痛い。
「ま、今回は伝えに着ただけですからね。これ以上いると邪魔になりかねませんし、私はここでおいとますることにしましょう。次会うときはいい返事を期待してますよ~坂田さん。」
現在進行形でお邪魔虫のカラスが何かほざいている。分かっていて言っている所が一番イラっと来る。そっけなく返事をし、解体作業に集中することにした。
「・・・・・・あややや、『まだ』無理みたいですね」
帰路につく一人の天狗。先ほどまでとは打って変わって真顔の彼女がつぶやいた言葉は秋の風に流され、しかし誰の耳にも入ることは無かった。