わしおかずひと
神の稚児。
生まれつき神樹と霊的に強く繋がり、勇者や巫女になれば歴代でも最上位の存在に至れる素質。具体的に言えば、勇者になれば一人で西暦の勇者たちを一方的に圧倒できる戦力の勇者に至り、巫女になれば万象を見通し、ラプラスの悪魔じみた予言を行える 。
その才能を鷲尾和仁は生まれ持つはずだった。
天より、怒れる神の使徒たるバーテックスが降臨し、約三百年が経とうとしていた。人類は多大なる犠牲と無垢なる少女たちの生贄を捧げ続け、なんとか人類という種をこの神世紀にまで存続させていた。
いつからか無垢な少女たちを贄に捧げ続けることを大赦は躊躇わなくなった。それは少数の犠牲によって大勢の四国に住む最後の人類を守るため、必要な犠牲だった。
生贄に捧げられる少女から目を逸らし、生き残ったという結果だけを見る。自分たちが行なっていることのおぞましさは人類を守るという目的のために正当化されていた。
そんな世界になった神世紀285年、神樹から大赦へ一つの神託が下賤された。
——鷲尾の家に生まれる子は神の稚児である。
これを聞いた時、大赦内はかつてない動揺に見舞われた。
『七つまでは神のうち』
幼き子供はその魂が不安定な状態であり、あの世とこの世の境にいる状態にある。その為、その身は穢れからは程遠く、生きた人間でありながら神の領域に生きている存在になり、大人よりも幼い子供の方が神をその身に降ろすのに適した器になる。だからこそ勇者は幼い少女の中から選ばれた。
そして神の稚児という要素がこれに拍車をかける。稚児とは乳飲み子、つまりは親によって育成される幼い時期の子供という意味から来ている。子とは親から無償の愛情を注がれて育っていく。神の稚児とは生きた人間でありながら、生来の両親と同時に神にも愛情を注がれる器たる素質を持った人間。
それは生まれながら神に愛される素質であり、ひいては神への捧げ物としてこれ以上ない素質を意味する。
神世紀の人間には、何度も満開を繰り返し神樹が創り出した神造のパーツで体の欠損を補填した勇者たちが最終的に至る「御姿」の性質を生まれながらにして持っている人間と伝えるのが分かりやすいだろうか。
何よりも恐ろしいのは神の稚児は勇者とは違い、生来の全身が御姿であり、後天的に御姿になる勇者では混じり物故、どうやっても至ることのできない神への親和性を有している点だった。
現実的で先進的な物の見方をする大赦の派閥はこの神託を聞いた時、千載一遇の機会であると認識していた。おおよそ十数年後に来ることが判明していたバーテックスの襲来に合わせ、この生まれてくる神の稚児を対バーテックス、ひいては対天の神への戦力として使い潰そうと計画した。
神の稚児にはそれだけのことを行える潜在的な素質を間違いなく有していた。それはかつて西暦の時代の勇者たちが国津の神々から力をもらい受けたように、神の稚児そのものを器に、神樹の力を攻撃の為に顕現させようと画策した。
そして間違いなく、最終的に神の稚児はその負荷耐えきれなくなり絶命するも分かっていた。
誰もがそれを外道の行いだと判断した。他でもない、この計画を図った先進派自身も自分たちが行おうとしていることのおぞましさを理解していた。理解した上で計画が推進された。
神樹の寿命がもう数十年もなく、滅びゆくことが確定した人類に人道的な観念は考慮する余裕などなかった。
誰もがこれを間違っていると分かっていた。しかし人類を生かすためには手段を選ぶ余裕などもう存在しない。生まれてくる子供を人類のための生贄として使い潰す、この外道すぎる計画に声を荒げて怒っていた保守派の大赦神官も内心では、これで人類が存続できると安堵の息を漏らしていた。
きっと誰も悪くない。ただこの人類が生き残るためにはこれが最も犠牲の少ない手段だったのだ。たった一人の命で四国人口400万人の人間が活かされる。
数字だけ見れば四百万マイナス一の計算式。数字だけ見れば、これ以上なく効率の良い、良心さえ無視すれば最も正しい人類が生き残るための選択肢であった。
生まれながらにして人類存続のための生贄。それが鷲尾和仁が持つはずだった定めだった。
しかしその運命は同じ人間によって阻まれた。
それを心から良しとしなかった人がいた。
例え四百万人が犠牲になろうともまだ産まれぬこの子の幸せを願った人がいた。
他の誰でもない、鷲尾和仁の両親である。
彼らは若い夫婦ではなかった。それなりに年を取り、本当ならば小学生くらいの子供がいても良いくらいの年齢だった。それは一重に彼らが子供を作りにくい体質であったことに起因する。不妊に悩む夫婦は決して少なくない、その少なくない夫婦の一組が鷲尾夫妻だっただけのこと。だからこそ、妻が妊娠したと聞いた時の夫の喜び、やっと自分たちの子供ができたと知った時の妻の安堵は想像に難くないだろう。
そしてその子供が人類のための生贄として消費されると知った時の夫妻の絶望もまた喜びに比例した。
なぜ自分たちの子供なのだ。他の誰でも良いだろうに。やっと授かった子供。どうしてよりによってこの子なんだ。
親として当然の怒りだった。何度も大赦に懇願した。しかし当時から大赦内でそれなりに高い家格を持った鷲尾家であってもこの決定は覆せなかった。上里の家長も、赤嶺の家長もどちらも決まって申し訳なさそうに首を横に振った。
大を生かすために小を殺すのは正しいのだ。どうしようもなく。
変えられない定めに二人は絶望した。
一度は中絶も考えた。多くを生かすために殺される定めを持って生まれるならいっそのこと。しかし出来なかった。出来るわけがなかった。
だから二人は神樹に願った。涙を流す顔を覆いながら、必死に願った。
——どうかこの子を、不幸な定めから救ってほしい。人並みの幸せを持って生きてほしいと。
不幸なことは総じて神への願いとは歪に叶えられてしまうこと。神は人へは寛容だが必ずしもその善意が、人を人の価値観に基づいて救うとは限らない。人と神とでは根本的な観点が違いすぎる。微塵の悪意なく神樹は二人の願いを了承し、定めを少しだけ、鷲尾和仁にとっては地獄の幕開けとなる恵みを与えた。
生まれた時、検査によって、それまでは間違いなく女の子と思われていたその子は、取り上げられてみると、その性別が男の子へ変化していた。
仰天したのは大赦と両親の双方であった。
大赦からすれば計画していた勇者計画、巫女計画の両方が前提から頓挫した。勇者も巫女も前提として無垢な少女でなくてはならない。男子ではどうしてもどちらにもなれない。
両親は女の子ではなく、男の子に生まれたことには驚いたが、これでこの子も人並みの幸せを受けられると安堵した。
しかし、奇しくも現実は双方が願ったものが歪に叶えられた。
生まれてきた子は間違いなく神の稚児としての性質を生まれ持っていた。
双方の願っていた存在から少しだけ歪にずれて鷲尾和仁は生まれた。神樹への親和性が高いだけの勇者にも巫女にもなれない期待はずれの存在として。
生まれた和仁は普通の子の様にすくすくと育っていった。両親は安堵した。生まれてきた自分たちの子供は普通に育ってくれるのだと。生贄になることはないのだと。
地獄が始まったのはちょうど和仁が3歳になってすぐのことだった。
不安そうな顔で、父を見上げながら幼い和仁は聞いた。
——ねえ、お父さん。ぼくはきたいはずれなの? ぼくがおとこのこにうまれたからせかいはほろびるの?
その言葉を聞いた時、和仁の父は心臓が止まった様な気がした。
生まれつき、神樹と高い親和性を持っていた和仁は無意識に神樹からの神託では無く言葉を、この世界の情報を常に与えられていた。巫女が持つ神託の才能ではない、文字通り精神の一部が常時、神樹と同化し、神樹の方から情報が日々、とめどなく和仁に与えられていた。
その日、本当に偶然に、彼はかつて和仁を生贄として使おうとしていた急進派の思考を神樹を通して知ってしまった。彼らが漏らした呟きを聞いてしまった。そして神樹は無慈悲に、善意を持って、様々なことを知りたいと思っていた幼い和仁に、彼に関わる全ての知識を与えた。
四国の現状、残り少ない世界の寿命、勇者と巫女、そして生贄として期待されてきた自分自身の出自。そして生まれてみれば男子であり、勇者にも巫女にもなれない期待はずれ。
生まれる前から悪意なく死んでくれと思われていた事実は幼い和仁には重すぎる告知であった。幼い子供の心を壊すのには十分すぎるほどの重圧。
この時、和仁が世界よりも自分の方が大事だと思うことが出来ればどれほど幸せだっただろうか。しかし和仁はそう思うには聡明すぎた。
自分一人の命と四国の全人口、どちらを天秤にかけて、どちらを優先するべきか理解してしまっていた。それは全人口に大切な両親も含まれていたから、幼い和仁にはその事実だけで自分は何を選択するべきか理解してしまった。子供らしい家族が大切だという気持ちが和仁に選ばせた。
和仁の言葉を聞き、大赦へ抗議するために乗り込んだ両親についていった和仁。和仁の父は面会した、当時からの大赦の長、上里の家長に怒りのままに掴みかかった。
——上里! あのような小さな子どもに死んで欲しいなどと、大赦はいつからこうなった!
——落ち着け鷲尾! そのような言葉を吐いた馬鹿者は今こちらで探している! 子どもの前だぞ!
和仁は父に摑みかかられていた神官、上里の家長の袖を引いた。袖を引かれた上里の家長は自身を見る和仁と目が合った。
曇りひとつない瞳が上里の家長を見上げ、言った。
——ぼくをつかってください。おとうさんやおかあさん、みんなをまもるためにぼくをつかってください。
その言葉に、喧騒に包まれていた大赦本部は冷水をかけられたように静まった。
幼い和仁の言葉は周囲にいた大人全員を愕然とさせた。その言葉に声を荒げていた和仁の父も、それを静止させようとしていた神官たちも動きを止めてじっと彼を見ていた。
——自分たちはこんな幼い子供に何てことを言わせてしまったのだ。
静止した時間の中、はじめに動き出せたのは当時神官の見習いとして偶然居合わせた安芸だった。彼女はこの痛々しい子供を黙って見ていることなど出来なかった。
駆け寄り、抱きしめる。
——ごめんなさい、ごめんなさい。
この時、高校生であった安芸にまだ3歳になったばかりの和仁の言葉は余りにも重すぎた。泣きながら自分のせいでもないのに赦しを乞う。状況を理解しているが故に謝罪することしかできなかった。そんな必要は無いとは言えなかった。
抱きしめられ、謝罪する安芸を和仁は不思議そうに見ていた。大赦の人間は自分の死を願っていると思っていた和仁にとって目の前で泣いている安芸は不思議な存在だった。
ぼーっと安芸を見る和仁と、その和仁にしがみついて泣く安芸を見ていた神官が一人、近づいて膝を地につけて土下座の姿をとる。
土下座をしていたのは上里の家長であった。大赦の最高幹部の行動に他の神官たちもそれに倣って和仁に向けて平伏していく。
立っていたのは和仁、状況についていけなくなっていた和仁の父、そして未だ和仁を抱きしめ泣いていた安芸の三人で、それ以外の神官数十人は平伏し、こうべを垂れたまま先頭にいた上里が口を開く。
——鷲尾和仁様。いえ、神稚児様。これより大赦一同、貴方様の申し出、謹んで受け入れさせていただきます。どうぞ私たちをこの国の未来のためにお使い下さいませ。
神の稚児として和仁は自身を捧げる事を宣言し、大赦はそれを受け入れた。代わりの効かないただ一人の生贄として。
これが和仁が持つ最も古い記憶。鷲尾和仁の運命が決まった日の記憶。
そして2年の月日が経過した。
その日、大赦本部に和仁はいた。
異様な光景だった。仮面をつけた大赦の神官たちが壁を隠すように二列に並び、部屋の中央では椅子に座った和仁、ここ二年間で和仁のお目付役に抜擢された安芸がホワイトボードを背に説明を始めようとしていた。
「では皆様、書類は各自配られましたね。これより第一回、試作型宮司システムの説明会を始めさせて頂きます。ではまず概要から……」
次々とホワイトボードに宮司システムの説明するためのスライドが表示され、それを一つ一つ安芸は説明していく。
この二年間、大赦ではいかにして和仁を効率的に使うべきかと言う議論が幾度も行われた。その結果、いずれ襲来するバーテックスへの対抗手段として準備されてきた勇者システムの補助機構として、和仁を最大限活用できる宮司システムの開発が始まった。
根本的に現在の勇者システムではバーテックスが討伐できない。倒しきれないのだ。
そのため対バーテックス戦においては鎮花の儀という儀式によって四国内に侵入したバーテックスを追い払う戦法が取られ、いずれ開発中のバーテックスを真の意味で討伐できる勇者システムが完成するまでの時間稼ぎを行うことが現在の目的となっていた。
幼い少女しかなれない勇者のみによる戦いでは成功率に不安があった。
そこで神樹に接続した和仁を触媒にすることで、鎮花の儀によって追い払う力を増幅して稼げる時間を伸ばし、さらに鎮花の儀までの戦闘においては後方からの戦闘支援を行うことで確実に儀式を完了する役目が和仁に与えられた。
基本的な説明が終わり、安芸は和仁に向き直る。
「以上が宮司システムの基礎的な概要です。神稚児様、分からない所はありますか?」
「大丈夫です。神樹様に関係する情報は全部、神樹様から聞いています。この後は宮司システムの試験運用ですか?」
答える和仁の顔は儚く、暗く笑っていた。美しい笑顔だった。これから散りゆく花のような笑顔。
しかし、その表情を見ても安芸は胸が締め付けられる。自分を機械的に消費する装置の説明に微塵も不安を持っていない、進んで生贄になろうとする表情を安芸は恐ろしく感じた。
「……はい、では問題ないようですのでこれから宮司システムの試験運用の方へ移行します。では皆様、これより試験場へ移動します、ついてきてください」
説明が終わり、部屋内にいた者たちは揃って地下の試験場へ向かう。
試験場に着くと和仁は数人の神官に連れられて下層に向かい、安芸に連れられた神官たちは上層のシステム管理用のコンソールがいくつもあるモニタールームでガラス越しに和仁と付き従う神官たちを見下ろす形になる。
試作品なのだろうか、ところどころ配線がむき出しになったそれは試験場の中央奥に鎮座していた。
遠目から見れば大きな卵のように見えるそれだが、よく見れば半透明な膜に覆われ、人ひとりが座ることができる椅子部分と搭乗者に向けて伸びた針のついた部品が鎮座していた。
和仁は迷いのない足取りで装置に向かう。乗る直前に着ていた神官服の上を脱いで隣にいた神官に預ける。上半身が露わになり、事前の知識のない神官たちは息を飲んだ。
本来は白く傷ひとつないであろう上半身に異様な刺青が刻まれていた。両肩、肩甲骨、脇腹、そしてスリットの入った神官服の隙間から太ももの四対、計8カ所に刻まれたそれは黒々と存在感と子どもの肌に刻まれているという事実により一種の禍々しさを放っていた。
ひとりの神官が思わず安芸に尋ねる。
「あれはなんですか、安芸主任」
「……私語は慎んでください。あれは神稚児様と機械の接続を補助するための刻印です」
素材が生きた巫女たちの生き血であることは黙っていた。今ここでそれを言ってしまえば、余計な混乱を生み出しかねなかった。
息を飲む神官たちをよそに和仁は宮司システムに座る。システムは搭乗者である和仁を認識するとひとりでに動き出した。備え付けられたコンソールからは素人目には意味の分からない文字列が並んでは消えを繰り返し、座席に備え付けられていた機械の針がそれぞれの定位置に動くと、和仁を刺青の上から肌に突き刺す。
「痛ぅ……」
突き刺さった針が肉を掻き分け、神経に物理的に繋がっていく。事前に聞いていた通りの痛みが和仁を襲う。しかし知っているのと実際に体験するのでは全く違った。
神経に直接機器がつながる痛みに和仁は悶え、うずくまる。
うずくまり、息を荒げて痛みに耐える。痛みに耐えようと激しくなる自分の呼吸音に混ざって繋がった接続を経由して神樹への接続が確立されていく。普段は朧げな神樹との霊的なつながりが機械を触媒により明確なものへ変化していく。
吐いた息が100を超えたあたりでやっと痛みに慣れ、正面を向き、システム担当の神官たちに命じる。
「接続完了です。システムを起動してください」
和仁の言葉を聞いて仮面を被った神官が手元の機械を操作する。
操作が完了すると途端に感覚の変化が和仁を襲う。心が二人に分かれ、戻り、三人に分かれ、戻り、その手順が何度も繰り返される。精神がこの四国を包む神樹の結界と溶け合い、広がっていく。目で見ているはずの視覚は二重、三重と数を増やし、聴覚、触覚も同様に増加していく。ここにいるはずなのに自分が一帯に広がっていく。神樹を一体化していく感覚は体が融解し、分子になって広がるようだった。
感覚が捉えた全てが機械的に分析され、宮司システムに備え付けられたモニターや各種計測器に反映されていく。
同じものが様子を見守っていた神官たちの部屋のモニターにも映されていく。実験の成功に見守っていた神官たちは喜びの声を上げる。
——これで敵と戦う舞台を用意できる!
静かに眺めていた安芸も、ホッと息をひとつ漏らした。
「ん! あ……」
次の瞬間、異変は起きた。
和仁のバイタルを表示していた計測器が異常を知らせる。
そして次の瞬間、和仁の全身から血が噴き出した。吹き出た血液は辺り一面にしぶき、白い機械やモニターを赤く染めていく。
突然、血を吹き出した和仁を見て、動揺しながらも安芸は指示を飛ばす。
「稼働実験、停止。急いで! 待機している救護班は直ぐに医務室へ運んで!」
何が起こったか分からず狼狽える神官たちの中を安芸の鋭い指示が飛んでいく。指示された者たちは命令を実行しようと動き出す。
しかしそれを止める声がした。他でも無い、血を吐き、むせ返える和仁が指示を出す。
「ゲホっ! じ、実験を続けてください。……ケホっ、大丈夫です、負荷をかけすぎただけです。続行には支障をきたしません」
「し、しかしどう見ても……」
「いいから続けてください。ここで立ち止まっていてもいずれ敵は必ず来ます。待っている余裕はないです」
「あ、安芸主任……、ど、どしたら……」
「神稚児様の……、おっしゃる通りに……」
狼狽える技術スタッフに安芸は力なく答える。
人々を守るために今、目の前の少年は血を吐いている。それは人々のために流される彼の血だ。戦わねば傷つく人々のために流される彼の血。
目を背けることは、彼にその重役を押し付けたことから逃げることだった。目を背けることは許されない。しかしそれでもはっきりと和仁を見れていたのは二年間付き添った安芸だけだった。他は少しづつ目を背けながら彼を見ていた。
それ故に安芸だけは見逃さなかった。血を吐きながら、凄惨な状況でありながら喜色に染まる和仁の顔を。必要とされることに歓喜する痛々しい表情だった。
稼働実験は続行され、鎮花の儀の試験工程に入る。部屋にいくつも設置された鈴が鳴りだした。一つ一つの音が重なりはじめ、音が調和していく。
古来、鈴の音とは神聖なものであり、場を清め、神にふさわしい場を作る作用があるとされた。
鎮花の儀はその浄化作用を神稚児の霊媒体質を触媒にして、機械敵に場を神樹の力を振るいやすい空間に作り変える儀式であった。
計測器が場の浄化具合、穢れに満ち溢れた現世が神樹の神聖な空間に書き換えられていく状態を数値として表していった。グラフが目標値まで伸び、しばらくすると必要値まで伸びたまま、数値が維持される。
事前の説明では、今回は一分ほどの数値の維持が目標とされていた。しかし時計の秒針は優に周回し、三十分を迎えようとしていた。
血を吐き続け、ついに意識を維持できる限界まで血が失われ、倒れこむように和仁は宮司システムから離れた。
離れてすぐ、貧血を起こしてふらつき、自身の血液を踏んで滑り、倒れる。
見守ることしかできなかった神官たちは和仁が倒れたことで我に帰り、待機していた救護班が急いで彼を医務室へ運び、安芸はそれに付き添った。
神稚児の肉体は穢してはならない。それが大赦の新たなる原則だった。その為、穢れてしまっている普通の人間の血を輸血をすることは出来ず、何十本もの増血剤が和仁に緊急処置として投与される。
普通の人間であれば死に至る状況であったが、神稚児であれば問題はなかった。一時間もすれば、増血剤と神樹の加護によって正常な状態へ移行する。後に実装される勇者を生かすシステムの雛形たる神稚児の力だった。
血が通い出し、和仁は意識を取り戻す。体を起こし、周囲を見て安芸を見つけると淡々と話しはじめる。
「安芸さん、実験はどうでした? 上手くやれていましたか? 途中から視界が見えなかったのでよく分からないんです」
「……数値としてはこれ以上ないものです」
「それは良かったです。僕は役に立ったんですね」
無邪気に和仁は実験の成功にはしゃぐ。
そんな彼の様子に安芸は声を荒げる。子供が自分が死にかけたことよりも役に立ったことを気にすることが許せなかった。
「何が良かったものですか! あれ以上続けていたら、死んでいたかもしれないのですよ! もっと自分を大切にしなさい!」
「僕の身よりも大切にしなければならないものが沢山あります。それに、僕は神樹様の加護で守られて死なないはずです。現にこうして問題なく動けます」
「神樹様の加護も完全かはまだ分かっていないのですよ! なのにあの様な無理をして、もしも死んでしまったらどうするのですか!」
「それならそれでいいです。神樹様のために死ぬのなら、きっと神稚児としてはこれ以上ない死に方でしょ?」
安芸の言葉に和仁は自虐的な笑みを浮かべて答える。きっとみんなはこれを望んでいるのだと和仁はいつも思っていた。だからこそ自虐的に笑ってしまう。
そんな笑みを見て、思わず安芸は手を上げてしまった。
静かな医務室に乾いた音がこだました。
頬を叩かれた和仁は叩かれた左頬を触りながら、悲しそうに安芸を見つめる。
「安芸さん、不用意に僕を叩くとあなたにどんな厳罰が下るか分かりません。やめて下さい」
「そんな風に人を心配出来るのなら、どうして同じ様に自分を大切に出来ないんですか!」
「僕はいいんです。みんなの為に死ぬのが僕の仕事なんです」
端的に言えば、和仁は怒られていた。しかし和仁は自分を大切にしないことで怒られる意味を理解できなかった。自分が犠牲になることを義務に思う人間にとって、自分の存在は計算に含まれない。
「どうして、素直にごめんなさいと言えないの! それは自分を軽んじる理由にはならないでしょ!」
二度目の乾いた音が響く。まだ女子高生の安芸は感情に任せて行動してしまう。
ただあの時、あの場で唯一、和仁に謝罪できたこと、大赦内で言えば年齢が近かったことで和仁のお目付役に選ばれた安芸は和仁にどう接して良いのか今日まで分からなかった。
ただ今、目の前のこの子をこのままにしてはいけないことだけは分かった。
教育としては違っているのかもしれない。しかしこれが彼女に出来る和仁への接し方だった。無理にでも考え方を改めさせなければならなかった。
貧血で平衡感覚が弱っていたこともあり、二度目の平手打ちに和仁は耐えきれずに後ろに倒れこむ。
叩いた本人であった安芸も驚き、思わず和仁を両腕で抱えて抱きとめる。
抱きしめてみると驚くほど体が小さいことに安芸は気づく。当然だ。まだ和仁は五歳になったばかり、普通であれば幼稚園に通っている年齢なのだ。それなのにこの少年は人類のために身を捧げようとしている。そう思うと抱きしめる腕が力んでいく。
強く抱きしめられ、腕の中の和仁は抜け出そうともがき始める。
「……安芸さん、苦しいです。離してください」
「ダメです。今日みたいなことをしないと約束するまでこのままです」
そう言うと安芸は腕の力をさらに強める。細い、今にも折れてしまいそうなその存在が確かにそこにあることを確かめる様に。
「……ごめんなさい。……ほら、もういいでしょ?」
「ダメです。何についてごめんなさいと言っているのか分かりません」
安芸の言葉に和仁は唇を尖らせて答える。母親以外の女性に抱きしめられることに羞恥を覚え始め、急いで言葉を紡いでいく。
「んー、自分を大切にしなくてごめんなさい」
「本当にそう思ってますか?」
「思ってます。思ってます!」
「ならもう二度と今日の様なことはしないと約束できますね?」
「します! しますから離して!」
和仁が約束をしたことに安芸は腕の力を少し抜いた。和仁はそれを見逃さず、腕の中かすり抜けると安芸から距離を取り、シーツを被って顔を隠て丸まる。
母親とは違う女性らしい柔らかい体つきの感触に和仁は恥ずかしくなって顔を赤くする。
そんな和仁の様子を見て、恥ずかしがっていたことを分かっていない安芸は不安そうに聞く。
「もしかして、痛かったですか? 頬は大丈夫?」
安芸に質問され、和仁はシーツから顔だけを出して答える。頬は平手とは違う意味で赤くなっていた。
「別に痛くないです。頬もこの通り、すでに治ってます。安芸さんはもっと子供の気持ちを考えるべきです」
「……えっと、ごめんなさい? でも私見ての通り、子供など育てたこともないので……」
「そう言う意味じゃないです」
和仁は拗ねた様にベッドに横になる。顔だけは安芸から見えない様に壁を向いて転がる。
年齢相応の和仁の様子に安芸は思わず笑みをこぼす。そっと和仁の頭を引き寄せ、自分の膝の上に置き、そっと撫でる。
「……なにしてるんですか、安芸さん」
「子供がいたら、お母さんはこうするのかと思って。……どうですか?」
「僕に聞かないでください。……母とはもうしばらく顔も合わせていないのでよく分かりません」
「……それはどうして?」
「……おかあさん、僕と顔をあわせる度にいつもに申し訳なさそうにするんです。見れば分かります、あれは産んでしまってごめんなさいって顔です。……だからあんな顔見たくないので家の中でも極力顔を合わせない様にしてるんです。父とも二年前のあの日からほとんど口をきいてないです。下手に仲良くなっても僕が死んだ時に悲しまれるのが嫌なので」
「和仁様は優しいのですね」
安芸は優しく和仁の頭を撫でる。
「そうですね、人の顔を二度も叩く人よりもきっと優しいと思います」
言葉に手が止まる。そう言われ、安芸は申し訳なさそうな表情を作る。
「それは……、本当に失礼致しました。過ぎた真似でした、どの様な厳罰でも甘んじて受ける所存です」
一度だけ顔をこちらに向け、視線だけが安芸に向けられ、すぐに元に戻る。
「……もういいです、別に怒ってもいないですし。……もし普通の親子だったらあんな風に怒られるのですか?」
「どうでしょう? でも母親ならきっと自分を大切にしない我が子を怒ると思います。……まぁ、私のやり方は間違っていたかもしれませんが」
安芸の言葉を聞いて、少しの間、和仁は黙り込む。
急な沈黙に対し、安芸は不思議そうに和仁の顔を覗き込む。
「……安芸さんは先生みたいです」
「先生ですか? 私が? どの辺りがそう見えました?」
「神樹様は僕に知識を与えてくれます。でもそれだけです。教えてくれても、導いてくれることはしてくれません。今日まで僕に、安芸さんみたいに接してくる大人の人はいなかったです。前に神樹様を通してみた風景の中に学校があって、何か悪いことをしていた生徒が今の僕みたいに怒られていました。その時の先生と安芸さんが重なって見えます」
「そうでしたか。……いいかもしれませんね」
「何がです?」
「先生。ちょうど私、今高校の進路調査で何を答えるか迷っていたところなんです。せっかく神稚児様からのお墨付きが貰えたので先生になってみようかと」
安芸の言葉に驚いた和仁は体を起こし、目を合わせる。顔は驚いて目がパチクリと瞬きする。
「そんな簡単に将来のことを決めてしまっていいんですか。……なんていうかもっと慎重に決めることじゃないんですか?」
「いいんです。決めました。私先生になります。というわけで和仁様、今日からは私のことは安芸先生と呼んでください」
急な安芸の宣言に和仁は困惑する。決断の早さもさることながら、急に呼び名を変えることの意味がいまいち分からなかった。
「なんですか急に。そんなに急ぐこともないでしょう?」
「いえ、決めました。私はあなたを立派な大人にすると今、誓いましょう。という訳で今日から、私はあなたの先生です」
「何がという訳なのか、さっぱり分からないです」
「分かりませんか? 和仁様、私はあなたが大人になれる様に、大人になる年齢まであなたが生きられる様に私は頑張るってことです。これなら分かりますよね?」
「あ、……え? 僕が大人に?」
全く想像もつかない領域の話だと和仁は思った。きっと近い将来に死ぬと予感していた。だから将来のことなど何も想像できない。まるで夢物語の話の様な気すらして、思考が停止する。
「はい、和仁様もお役目を終えれば、あとは普通に生きられるはずです。そうしたら自分のために生きていくのに、何も学んでいないと大変なことになります。なので貴方が困らない様に私が教え導きます。……どうでしょうか?」
「不思議な感じです。未来のことなんて考えたこともなかったので、こうして聞かれても全然分からないです。……でもなんとなくだけどいいかなって思えます。本当によく分からないですが」
少し困った子で和仁は答える。でもその表情は来るかもしれない未来をぼんやりと想像して明るく、未来への期待が灯ろうとしていた。
という訳で本編の15年から始まる前日譚です。
こちらは本編の進み具合と兼ね合いしながら描いていこうと思います。
小説の書き方の研究の側面があるので読みにくい、読みやすいの意見が欲しいです。
もちろん感想、誤字報告も大歓迎です。それではまた次回。(テンプレ)