犬吠埼樹はワニー先輩のギターを弾く   作:加賀崎 美咲

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犬吠埼樹のモデュレーション

 犬吠埼樹という少女は自己評価が低い。

 よくある話では、兄弟姉妹がいると下の子が上の子と比較され、上の子はしっかりしているのにどうして下の子はダメなのだと言われる。そうして下の兄弟は自己否定的な性格になる。

 犬吠埼家には両親がいない。だから樹にそうしたことを言う親はもういない。姉の風が親代わりに樹を支えていた。だからこそ樹はそんな姉と自分を比べ、自分で自分を否定し続けてしまっていた。

 ——お姉ちゃんはすごい。

 それが樹の心の中の口癖だった。樹自身、自分には得意なことはないと思い込んでいた。きっと何か得意なことを見つけても、優秀な姉はその上を行ってしまうのだと思い込んでいた。

 夢も、得意なことも、やりたい事もない。そんな私は優秀な姉について行けばいいのだと自分に言い聞かせていた。

 何か得意なこと、好きなことを持っている誰かを樹は尊敬していた。

 ワニー先輩が鳴らすギターのきれいなメロディーが好きだった。

 ——だって自分には絶対にできないことだったから。

 

 六月の初旬、音楽室にて。犬吠埼樹は自身の顔から血の気が引いていくのを感じていた。

 立っているのは黒板の前の足場が一段高くなった教壇。普段よりも高くなった視界が教室にいるクラスメイトの顔を捉えてしまう。26対の瞳がじっと樹を見ていた。

「では犬吠埼さん、お願いします」

 端的にに言えば歌のテストだった。

 音楽の先生は朗らかに言うと、ピアノの演奏を始める。視界を少しだけ下に逸らすと両手で持った教科書に書かれた楽譜通りの音階が鳴り、音符を追って視線が右へ動いていく。

 手が震えて、教科書の位置が安定しない。嫌な汗が背筋を伝い、不快感で制服をあおぎたくなる。

 そして伴奏が終わり、歌詞の部分へ突入する。

「は、はるはわぁ」

 声が裏返る。音程が外れる。間違えてしまったことで顔が羞恥で赤くなる。

 ——あぁ、やってしまった。失敗してしまった。

 目頭が熱なった気がする。一度間違えてしまえばそこからはもっと酷い。失敗した動揺を引きずったまま、三小節を歌うころには音程の原型はなく、もはや何の歌なのか樹自身にすら分からなくなっていた。

 そんな自分の失敗を現在進行形で心配そうな顔を向けてくるクラスメイト全員に見られているのだと思うと、あまりにも恥ずかしくて、見えなくなるまで小さくなって消えてしまいたかった。

 先生の演奏が終わり、樹の歌も終わる。羞恥で潤んだ目を向けると先生は実に困った顔をしていた。そして切り替えて笑顔を作る。

「大丈夫ですよ、犬吠埼さん。本番まで時間がありますから、それまで歌えるように頑張りましょう」

 先生のフォローが痛い。いっそ何も言わないで席に返して欲しいと思った。

 意気消沈し、肩を落としながら樹は自分の席へすごすごと戻り、着席する。

 隣の席の瞳ちゃんが何やら慰めの言葉を言っているらしかったが消沈し俯いていた樹には聞こえてはいなかった。

 落ち込み、クラスメイトの歌声を聞き流しながら、真っ白になった思考のまま、時間は規則的に進んでいった。

 働かない思考、上の空のまま全ての授業が終わり、樹はポケーっとしたまま自然と日課のようになっている勇者部へ向かう。

 部室に入り、部屋の奥では友奈が定期的に出している勇者部新聞のレイアウトを変え、その隣では美森が勇者部のホームページをいじっていた。

「だからね、これは猫よ!」

「いや、どう見ても別に生きもんでしょ。夏凜は絵が下手ねぇ。完成型勇者様でも絵心は修行の範囲外と見た」

「う、うるさーい。猫と言ったら猫なのよ!」

 何やら言い争っているの見つけると樹はそちらへ視線を動かした。見れば夏凜と風が迷子の猫探しのポスターに描かれた夏凜曰く、猫について論議していたらしい。

 樹には少なくとも夏凜が主張しなければ猫には見えなかった。

 どうやら先日の夏凜の誕生日会以来、彼女は上手くこの集団に溶け込み始めていた。少なくとも風と軽口や他愛のない口喧嘩が出来るまでには仲は深まっていた。

 そんな楽しそうな二人を放っておいて樹は席に座り、カバンからタロットカードの入ったケースを取り出す。

 手慣れた手順を行い、タロットカードで占う。占うのは自分の歌のテストがうまくいくか。裏返したカード見てため息を吐く。

 死神のカード。色々と意味はあるがこの場合、うまくいかないという予兆である。

 一応、何度か別の結果が出ないかと試してみるが結果は連続した。死神のスリーカードが出るなんて運命の女神も首を横に振っているらしい。

 運にも見放され、ため息をこぼす。それを姉の風が目ざとく発見する。

「あら? 樹どったの? ため息なんてついて」

「あー、うん、お姉ちゃん。実は歌のテストがあって……」

 歯切れ悪く樹は話す。あまり姉の手を患わせたくないと、余計な心配をさせたくないと思っていた。

 しかし大切な妹の危機を察した風の行動は早かった。

「勇者、しゅーごー!」

 風の声を聞いて、何事かとみんなが振り返る。なんだなんだと集まり、樹を囲うように集合する。

「勇者部は困っている人を助ける。それは部員だって例外じゃないわ。というわけで今日の活動は樹の歌のテストを成功させること。いいわね!」

「はい、賛成です!」

 風の宣言に友奈は元気よく賛同する。人助けを、それも大切な友達の困りごとであれば断るわけはなく、それは美森と夏凜も同様だった。

「でも、歌のテストを上手くいかせるってどしたらいいのかな?」

 元気よく答えたはいいが具体的な案を友奈は思いつかなかった。人を助けるのに打算的な思考や躊躇いを持たないのは彼女の美点ではあるが必ずしも上手くいく案を思いつけるかは別であった。

 そして親友である美森はそういう友奈の側面を好意的に見ており、助け舟を出す事に苦はなかった。

「ふふふ、友奈ちゃん? こういう場合はね、アルファー波を出すといいのよ」

「アルファー波?」

「そう、アルファー波。いい音楽にはアルファー波が含まれているのよ、友奈ちゃん。正確には音楽には音の波形があって……」

 何やら聞きなれない単語に友奈は首をかしげる。それを美森は身振り手振りや専門的な解説を用いてなんとか説明しようとし、長々と説明をするが最終的に部室内でそれを理解していたのは東郷美森一人だった。

「知っている知識を人に伝えられない己の語彙力のなさが憎い!」

 車椅子で降伏だと言わんばかりに両手を投げる美森。

 ——ごめんなさい、東郷先輩。話の一割も分からなかったです。

 心の中で謝る樹であった。

 芸人としての素質を見せる美森を尻目に次は夏凜の番になった。

「サプリよ、サプリは全てを解決してくれるわ」

 サプリ教の信者がそこにはいた。

 ——あぁ、もうだめだ。

 その時点で樹は察した。

 カバンからは大小様々なサプリの瓶や袋が出てくる。全て出しきる頃には机の上はちょっとしたサプリの博覧会のようになっていた。少なくとも樹にはどのサプリがどのような効能があるかなど分からなかった。

「樹には、はい。喉に効くやつね」

 夏凜はそのうちのいくつかをラベルを確認しながら選び、樹に差し出す。

 差し出されたサプリの容器を受け取るが普段、サプリを飲まない樹にはよくわからない錠剤を飲むのは高いハードルだった。どうしていいか分からず、受け取った容器を両手で持って動きを止める。

 それを見た夏凜がフフンと鼻を鳴らして得意げに語る。

「そうね、初心者には中々サプリを飲むのって緊張するわね。いいわ、私が見本を見せてあげる。完成型勇者としてね!」

 意気揚々と夏凜は机に並べたサプリの容器を手元にひったくるとその中身を飲みこんでいく。良い所を見せたいのか、それとも意地を張ったのか、明らかに用法、容量を超える量のサプリが夏凜の中へ流れ込み、最後にオリーブオイルで口の中の錠剤を飲み込む。

「う!、ゔぇ……」

 用法用量とは安全に薬を飲むための基準である。そうでなくとも口いっぱいのサプリと喉がなるほどオリーブオイルを飲んで無事に済むわけがない。

 アホなことをした報いは往々にして本人に返ってくる。サプリを流し込んで数秒、口いっぱいに広がったオリーブオイルの香りを上書きするように酸っぱい臭いがした。

 大惨事になる前に夏凜はトイレ目指し、廊下に飛び出す。

「トイレは奥のところを左よー」

 風の声が廊下を走る夏凜を見送る。

 ——夏凜さんも順調に勇者部色に染まってきたなー

 廊下を走っていく芸人と化した夏凜を尻目に樹は呑気にそう思った。

 しばらくしてゼイゼイと息を切らした夏凜が帰ってきた。誰も何があったかは聞かない。勇者部は優しい人間の集まりなのだ。

 帰ってきて机に突っ伏した夏凜をチラ見しつつ、風は自信満々に自分の案を出す。

「何はともあれ、やって見ないことには始まらない。というわけで実践あるのみよ!」

 要はカラオケに行こうという話であった。

 場面は変わり、学校近くのカラオケ屋。

 五人でカラオケに入り、順番に歌いたい歌をデンモクに入れ、歌っていく。

 一番乗りは部長の風だった。樹は手に持ったタンバリンを合いの手として鳴らしながら、風の歌を聴く。

 やはりというかなんというか、風の歌はうまく、聴いている皆も歌声に合わせて体を揺すったり、声をあげたりとそれぞれのリアクションをとっていく。

 ——あぁ、やっぱりお姉ちゃんは何をやらせても凄いなー

 今まで見てきた事実を改めて突きつけられる。優秀な姉の姿を見て、人前では緊張してうまく歌えない自分とは大違いだと樹は思ってしまう。

 ぼーっと見てると歌詞を表示していた画面に歌の点数が表示される。

 92点。とても良い点数だった。

「それじゃあ樹? 次歌ってみる?」

「う、うん……。ありがとうお姉ちゃん……」

 歌い終えた風はマイクの持ち手を樹の方へ向けて差し出す。

 差し出されたマイクを樹は少し躊躇う様子で受け取る。

 歌の上手な姉の後という事もあって、ただ歌う事以上の緊張感が樹の両肩に乗る。

 見知った曲を入れ、歌の名前が画面に表示される。一度、振り返ると樹の歌い出しを待つ四人の目と樹の目が順に合う。

 いつも通り楽しそうな友奈、マラカスを構えた美森、何を歌うのかとチラ見する夏凜、そして自分の妹なのだからできると信じる風、四つの瞳が樹の歌を楽しみにして樹を見る。

 決して悪意のある視線ではない。むしろ好意的な視線。しかし、見られていると思うだけで体が硬くなっていくのを樹は感じる。

 マイクを握る手が力む。

 しかしそんな樹の心情とは関係なくメロディが始まる。歌詞が表紙される。

 歌う時がやってくる。

「うわ……、あ、あ、は、ぁ……」

 言葉にしようとした音がかすれ、裏返ったような声と空気が抜けるような風切り音。

 また上手くいかなかった、失敗してしまったという思いだけが堂々巡りに思考を支配して樹は黙り込んでしまう。

 軽快なポップスの音が痛々しく部屋に響いて歌が終わる。

 歌が終われば、画面に表示されるのは0点の文字。歌っていないのだから当然である。

 樹はうつむき、それを見ていた人たちも顔が引きつってしまう。

 なんと声をかければ分からない。

 いち早く再起動したのは友奈だった。友奈に続いてそれぞれが精一杯のフォローをする。

「だ、大丈夫だよ樹ちゃん。上手くいかない事もあるよ!」

「ええ、見ている人をみんなカボチャだと思えばきっと緊張もなくなるわ!」

「大丈夫よ、樹。勇者なんだからこれくらいの困難きっと乗り越えられるわ!」

「樹の歌が上手いのはお姉ちゃん知ってるから、樹ならきっとできるわ!」

 今だけはフォローが痛かった。変に気を使わせてしまって申し訳なく、また上手く歌えなことに落ち込んでしまう。

 ——お姉ちゃんは出来るのに。やっぱり私にはできなかった。

 でも暗い表情をしていたらみんなを困らせてしまう。だから無理しても明るく努めなければと樹は思った。

「うん……、次は上手くいくように頑張ります……」

 無理をして笑顔を作っているのは誰が見ても明らかだった。

 みんな心配して樹を見て、見られた樹は顔をそらす。

「ようし! 夏凜ちゃん! この歌、一緒に歌おう?」

「え?……、あ、ええ! そうね、一緒に歌ってあげるわ!」

 沈んだ空気を打破しようと友奈は夏凜をデュエット曲に誘い、場の空気を読んだ夏凜がその誘いに乗る。

 硬い表情の樹はそんな二人の歌う姿を見る。楽しそうに歌う二人を見て釣られて樹も口角が上がる。

 最後にネタなのか本気なのか判断に困る国防色の歌を美森が歌ってカラオケ会は閉幕となった。

 解散となり、自転車を押しながら夕暮れの帰り道を樹と風は歩く。

 まだ少し落ち込んだ樹を見て風が口を開く。

「今日は上手くいかなかったけど、大丈夫よ樹。だって樹は私の妹なのよ? 絶対出来るわ!」

「……あ、うん。そうだよね。きっと出来るよね」

 一切の疑いのない純粋な応援が樹に掛けられる。しかしそんな言葉をかけられた樹はどこか上の空だった。

 ——凄いお姉ちゃんならきっと頑張れば出来るんだろうな。でも私は?

 そんなことを考えても怖くて横にいる姉には聞けなかった。

 

 翌日、雨が降りそうな曇り空の下、樹は学校に向かっていた。

 雨が降りそうだからと自転車を自宅に置いて歩いて学校へ向かう。

 昨日のこともあり、樹は少し俯いたままだった。

 何時もの時間よりも少し遅いくらいに樹は屋上にたどり着いた。

 屋上にはいつものようにワニー先輩が腰を下ろしてギターを弾いていた。

 屋上の扉が開かれ、樹の姿を見つけたワニーは表情を柔らかくする。

 ワニーはふと時計を見て、いつもよりも時間が遅いことに気がつく。

 笑いながらワニーは樹に聞く。

「あれ? 今日は遅いね樹ちゃん。もしかして夜更かしでもした?」

「えっと、別に夜更かしとかじゃなくて、何となく寝られなくて……」

 そこでワニーは樹の表情が硬いことに気がつく。

「どうかしたの?」

「……え?」

「だって樹ちゃん、すごく表情が硬いよ?」

 言われ、樹は自分の顔を触る。言われて見てもよく分からない。

 自分の表情は硬いのだろうか? そんな事を思っているとギターを横に置いたワニーが樹の前にまで歩き、樹と対面する。

「もし何か悩んでるのなら、良かったら話してみてよ。話してみたら、楽になるかもよ?」

 出来るだけ安心させようとワニーは柔らかく言う。

 促され、樹は少しづつ想いを言葉にしていく。

「その……、歌のテストがあるんです」

「うん、それでそれで?」

「でもみんなの前に立って歌おうとすると緊張しちゃって上手く歌えないんです。お姉ちゃんやみんなにも相談したんです。でも結局、どうしたらいいか分からなくて、みんなを困らせちゃうんです」

「うんうん。みんなの前で歌えない事とみんなをこまらせちゃって申し訳なく思っちゃったんだね……」

「だから、私のことなんて気にしないでいいんです。別に歌なんて上手く歌えなくてもいいんです」

「そんな風に言うもんじゃないよ。みんな君を心配して色々頑張ってたんだよ? 大丈夫さ、樹ちゃんならきっと出来るよ」

 樹ちゃんならきっと出来るよ。

 ——あぁ、なんて真っ直ぐな応援だろう。どうしてみんな出来る事を前提に話すんだろう?

 一滴、一滴とズシリと重くて黒い水が自分の中に沈んでいくような気がした。

 樹は考えてしまう。

 ——みんなはすごい。だって何か得意なことがあって、好きなことがあって、何か凄いことができる。

 ——友奈さんは凄い。いつも元気で明るくてあの人の声を聞いているといつでも元気になれる気がする。

 ——東郷先輩は凄い。昔の日本のことにとっても詳しくて、パソコンの操作だったり、お菓子作りが得意だ。

 ——夏凜さんは凄い。幼い頃から勇者になるための修行をしていて、運動が得意で勉強もできる。バーテックスだって一人でやっつけられた。

 ——そしてお姉ちゃんは凄い。小さい頃からよく見てきた私が一番分かってる。お父さんとお母さんの代わりに私を育てて、家事もできて勇者部でみんなを引っ張っていってくれる。ついていけば間違いないと思わせてくれる。

 ——それじゃあ、私は?

 何ができるの?

 何が得意なの?

 何がやりたいの?

 どれだけ考えても何も思いつかない。

 みんなと比べて私には何にもない。そう考えてしまうと両手が震えてしまう。どうしてか目が熱くなる。

『きっと出来るよ』

 なんて無責任な応援だろう。どうしてそんなことが言えるのだろう。

 どうして上手くいくことが約束されているみたいにみんなは言うのだろう。樹は考えてしまう。

「樹ちゃん?」

「……、みんな勝手です。みんなは何か出来るからきっと上手くいくとか、大丈夫とか思えるんです。でも私には何もありません。得意なことも、出来ることも、やりたい事も。私にはそんなもの、一つもないのに勝手です!」

 言葉の最後の方は叫ぶようだった。目に涙を溜めた犬吠埼樹の魂の叫びだった。何か出来る他者と自分を比べて生まれてくる劣等感の悲鳴だった。握りしめた両手のように声は震えていた。

 突如、叫び出し、泣きそうになった樹を見てワニーは動揺する。何か気に触る事を言ってしまったのか。突然のことに理解が追いつかない。なんとか目の前の少女を落ち着かせようと手を伸ばす。

「待って、樹ちゃん。何か気に触るような事を言っちゃったのなら謝るよ。だから思っている事を話して、それじゃあちっとも君のこと分からないよ」

「ワニー先輩には絶対に分からないよ!」

 伸ばされた手を思わず樹は思いっきり払ってしまう。手と手がぶつかり、大きな音が鳴る。

 その音を聞いて樹はハッと我に帰る。

 決して痛いことはない。小さな樹の手では思いっきり叩いたくらいでは痛むほどのことは出来ない。しかし伸ばした手を払われたことに驚いてワニーは払われた手を反射的に反対の手で守るように握ってしまう。

 払われたことに少なからずワニーは動揺するがそれ以上に払った本人が最も動揺していた。

「ごっ、ごめんなさい、ワニー先輩。私、決して叩くつもりじゃなくて、でも、ええっと、えっと、違うんです、そう言ってくれるのは嬉しいんです、でも大丈夫って言われるのが嫌で、えっと、その、あ、ああ……」

 何が言いたいのか樹自身にも分からなかった。動揺が言葉を見出し、意味のない羅列を生んでいく。そんな自分すらも嫌になる。悪循環だった。

「ごめんなさい、私、せっかく気遣ってもらったのにでも、でも、でも……」

 泣きそうだったのが泣き始めていた。訳が分からなくなって言い訳の代わりに涙が頬をつたう。

 失敗した。差し出された手をよりにもよって叩いて拒否してしまった。

「ごめんなさい!」

 考える力はとうに止まっていた。その場から逃げるように樹は立ち去っていた。

「待って、樹ちゃん!」

 手をもう一度伸ばすが手遅れだった。ワニーには樹にどう言葉をかければいいか分からなかった。かける言葉のない彼に出来ることは見送る事だけだった。

 ワニーの制止する声は樹は届いていない。

 階段を走って降り、昇降口を通って校門の外へ走る。何処へ行くかなんて考えは微塵もなく、ただ走れる方向へ足を前にのばす。

 今はただそこから逃げ出したかった。

 決して辿り着く場所など無いのに樹はただ逃げるために走っていく。

 曇り空は次第に色を黒く変え、もうすぐ雨が降ろうとしていた。

 




出来る兄弟、友達がいるとどうしても自分と比べてしまうものです。
小説の書き方の研究の側面があるので読みにくい、読みやすいの意見が欲しいです。
もちろん感想、誤字報告も大歓迎です。それではまた次回。(テンプレ)
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