犬吠埼樹はワニー先輩のギターを弾く   作:加賀崎 美咲

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犬吠埼樹のモデュレーション 第2節

 バスの中から空を見上げると鈍く暗い色が見える。

 初夏の澄み切った青空は隠れ、今にも降り出しそうな暗雲が空を覆う。

 行き先のない樹の逃避行は目に入ったバスに乗る事から始まった。

 飛び乗った行き先のわからないバスは定められた道を進んで行く。それがかつて樹が住んでいた瀬戸大橋近くへ向かうものだったのは一重に偶然だった。

 意識してか、それとも無意識か、樹は家族がまだ四人だった頃の場所へ向かっていた。

 かつて両親が健在でまだ姉と自分を比べる前のことを思い出す。

 思い返せば自分はいつも姉の後ろについて行くばかりの子供だった。

 その頃はそれを嫌とは思わなかった。

 いつからだろうか、ついて行くしか出来ない自分に嫌気がさし始めたのは。

 いつからだろうか、やりたい事が思いつかないと自覚したのは。

 考えても答えは出ない。そう思うようになった理由もなければ、誰のせいでもない。自然とそうなっていた。自然と先を考えることを怠ってしまっていた。

 別に誰かが悪いわけではない。ただその結果、自分が苦しむことになっただけ。

 ——こんな事今まで考えたことなかった。あぁ、そっか……、ワニー先輩だ。先のことや将来のことに悩むワニー先輩に出会ったから、私も自分のことを考えるようになったんだ。

「……って、違うよね。先輩は何悪くないよ」

 まるで彼が悪いかのような言い分の思考に自分で反論して、そんな自分すら嫌になる。

 眉を下げ、表情を曇らせているとバスの表示が終点を知らせる。

 仕方なく樹はバスを降りて周囲を見渡す。

 ——ずいぶん遠くまで来ちゃった。あー……、そっか。ここ、昔住んでたところだ。どうして気がつかなかったんだろう。

 2年前までは住んでいたはずの場所なのにまるで知らない新天地に来てしまったような錯覚に陥る。

 それも当然であった。その光景を見ている樹自身が変わった。

 2年あれば誰だって変わる。良くも悪くも同じではいられない。変わったのだ、樹は。それが本人の望まない形であっても。

 もうあの頃の自分とは違うのだと自分自身の感覚が樹に宣告する。

 それがなんだか寂しいことのような気がして、樹は思い出せる道を記憶を頼りに進んで行く。

 かろうじて思い出せる道を歩いて行く。進むごとに懐かしい思い出がよぎって行く。

 ——あれは初めてお姉ちゃんと行った公園。

 ——あれは初めて一緒におつかいに行ったスーパー。

 進めば進むほど懐かしい思い出が蘇っていく。おぼろげだった記憶もしっかりしたものに変わり、確かに、家族四人で暮らしていた家に足を伸ばしていく。

 歩いて、歩いて、足を止める。

 そして目指していた場所にたどり着き、愕然とする。

『私有地』

 かつて家があった場所はまっさらな土地に変わっていた。

 人が変わってしまうのなら、世界だって変わる。

 かつて家族の集まる場所は今やただの不動産になってしまっていた。

 変わってしまう何もかもに樹は寂しく思う。

 変われない自分がもどかしくて、変われない自分が嫌になって、それでも結局変われない。

 そんな自分が樹は嫌いだった。何かができる誰かが羨ましい、何もやりたいことが見つけられない自分が嫌いだ。

 何よりそう考えるばかりで行動できない自分が大嫌いだ。

 ポツリ。落ち込んでいると鼻先を冷たいものが当たる。

 空を見上げると暗くなった雲が支え切れなくなった雨粒を落とし始めていた。

 それを見上げる樹の顔に少しづつ雨が当たる。

 ——どうしよう。このままだと濡れちゃう。

 帰ることよりも濡れることを心配してしまう。

 周囲に聞こえる雨音が次第に激しくなり、濡れるのを覚悟して目を瞑る。

 しかし少し時間が経っても濡れない。閉じた目をそっと開くと樹に当たろうと降って来た雨粒は空中で静止していた。

 樹はこの事象を知っている。これで四度目。バーテックスがやってくる。

 樹の気づきに一拍、間をおいてポケットのスマホが樹海化の警報を鳴らす。

 スマホを操作して警報を一度止めると気づかないうちに風や勇者部のみんなからの着信やメールがいくつも来ていた。

 東の方へ視線を向けると光が溢れ出し、思わず目を閉じる。

 そして次に開けた時、樹は見慣れた神樹が生み出す樹海の結界の中にいた。

 仕方なく勇者に変身する。

 戦わなければ、人類が終わってしまう。樹に選択肢はなかった。

 重い足取りの気分とは裏腹に神樹の力によって強化された脚力は樹を風たちの待つ方へ運んでいく。

 樹を見つけて最初に声をかけたのは風だった。いなくなった妹を見つけて風は安堵の表情を作る。

「ちょっと、樹! あんたどこにいたの! 電話を掛けても出ないし……」

「あー……、ごめんねお姉ちゃん。心配かけちゃって、大丈夫だから……」

「大丈夫な人はそんな表情で笑わないわよ!」

 明らかに無理をして笑顔を作る樹に風は怒る。ないよりも自分に相談してくれなかったことが悲しかった。

 そんな優しい姉だからこそ、樹は風に相談することができなかった。自分の問題なのに、自分はいなくても解決しそうな気がして、それが怖かった。

 お前の悩みなんてちっぽけなものだと言われているような気がした。

 だんまりしてしまう。互いにどう言葉を発していいか分からず、沈黙が二人の間を流れる。

 だんまりを続けざるを得なかった二人の沈黙を破ったのは第三者の声だった。

 宮司の声が聞こえる。

「犬吠埼樹。君は今日、待機だ」

「……え! どうしてですか!」

 ここでも自分は必要とされないのか。悪い方へ樹は考えてしまう。

 樹の心の声に応えるように宮司は続ける。

「今日の君の精神面で非常に不安定だ。集団で戦う以上、一人でも不安要素はないほうがいい。今日限りのことなら人事の再編成をするほどのことでもない。それ故の待機だ、いいな?」

「……はい」

 宮司の言うことは正しい。一度でも敗北すれば人類は終わりという戦いであり、何より一緒に戦う誰かの足を引っ張り、誰かが死んでしまうかもしれない。

 樹にもそれは分かっていたから、宮司の言葉にうなずく。

 そんな樹の様子を見て風はより心配そうな顔をする。

「帰ったら相談に乗るからそこで大人しく待ってるのよ?」

「……うん」

 そう言って風は先に戦っている友奈たちの方へ向かって飛ぶ。

 一人取り残された樹はその場に座り込み、膝を抱えて顔を伏せる。

 戦いが終わるのが嫌になる。戦いが終わったらこの気持ちを、自分のダメさに嫌になる心の内を話さなくてはいけなくなると思うと、いっそその時が来なければと思ってしまう。

 夏凜も参加し、連携のとれた勇者たちは一体でやって来た山羊座のバーテックスを囲み、追い込んでいく。彼女らの掛け声や互いにかける言葉が繋がった宮司を通じて樹にも届く。

 改めてみんなの優秀さを見せつけられ、同時に自分がいなくてもうまく行くのをありありと確認させられる。

 樹が膝を抱えていると宮司が声をかけた。

「……犬吠埼樹。今日はどうした?」

「別に宮司さんには関係ないです。私に構うよりお姉ちゃんたちを手伝ったほうがいいじゃないですか?」

 今までとは違う宮司の対応に樹は気づかずに突っぱねる。

「宮司システムは必要があれば搭乗者の精神を分割することが出来る。前線の勇者たちを支援しながら無駄話をすることくらいは楽なものだ」

「そんなことできるんですね。きっと宮司さんもそれは優秀な人なんですね」

 皮肉を多分に含んだ声色で樹は言う。

 ——あぁ、この人もお姉ちゃんたち側の人なんだね。

 どうしてかがっかりする自分がいることに樹は気がつかない。

「……そんなことはない。期待外れと言われた回数の方が多いよ……」

「……え! それはどういう……」

 始めれ樹は淡々とした、平坦でない宮司の声を聞いた。

 思ってもいなかった宮司の返答に樹は勢いよく顔を上げる。気になって詳しく聞こうとしたら遠くでバーテックスが敗北し砂になったのを感じる。

 言葉を続ける前に樹海の中は光に包まれ、樹は神樹の祠へ飛ばされる。

 ——帰ったら相談に乗るからそこで大人しく待ってるのよ?

 姉との約束を思い出す。

 ——いやだなぁ……。

 小さくつぶやいた。

 光が収まり、止まっていた時間が動き出す。

 次に樹が聞いたのは豪雨と言うべき雨足の音だった。目に入るのは降りしきる雨と捻じ曲がって大破した瀬戸大橋だった。

 樹が飛ばされた神樹の祠はいつも呼び出されていた学校屋上の祠ではなく、瀬戸大橋近くの初めて見る祠に樹は引っ張られて出現していた。

 2年前の大事故にて破損した瀬戸大橋は修復されることなく、そのままにされていた。

 まるで事故の記念碑のようにそりたったそれを見ていると、樹は事故が起きる前のことを思い出してしまう。

 しあわせな普通の家庭、普通に中の良かった姉妹、普通に笑っていた自分。もしあの頃に戻れたら、そう考えてしまう。

 雨に濡れながら、しあわせだった頃を思いだし、寂しく笑う。

 こんな自分は誰にも必要とされている気がしてしまう。私よりもきっと優秀な姉をみんなが頼って、みんなが彼女を好きになる。

 ——お姉ちゃんについていけば『犬吠埼風の妹』としてみんなが私を必要としてくれる。

 諦めにも似た結論が出る。

 体を濡らす雨が拍手に聞こえて、結論が正解だと言っている気がする。

「……はは、あはは……」

 濡れた体で乾いた笑いが口から垂れ流される。

 心がどこまでも凍りついているのに目頭だけは熱かった。

 顔に当たる雨と頬を伝う涙が一緒くたになって制服を濡らしていく。

 ——だれか私を必要としてほしい。

 諦めていたのに最後に思ってしまう。

 不変なものは何もない。何もかも、良くも悪くも変わってしまう。変わらないものはない。うまくいく人がどこにでもいる一方で、うまくいかない人も、何処にでもいる。

 必要とされていないとあなたは思いつめてしまうかもしれない。でもきっと、必ずどこかにあなたに手を伸ばしてくれる人は必ずいる。

 気づかないだけできっといる。ほら、ここにも。

「いた! 見つけた! 樹ちゃん!」

 呼びかけられたことに少女は驚き、涙に濡れた相貌を隠すことも忘れて振り返る。

 降りしきる雨の中、傘もささず、服が濡れるのにも構わず、何時もの上品な素ぶりを投げ捨て、いつもは纏められている髪をふり乱して、いつも持っているギターケースを屋上に投げ捨て、身一つで少年は駆けていた。

 探し続けていた少女を見つけて疲れて動きの悪くなった足に鞭打って年上の少年は、鳴子百合の少女の元へ駆け寄る。

 駆け寄って、少女の前に急停止すると息を切らして膝に手をついて肩で息を切らす。

 樹は動揺する。如何してここが分かったのか、如何して来たのか、聞きたいことはいくつもあった。

 しかし思考はうまく言葉にならない。どうして来たのか、差し出された手を払ったのは自分なのに。ぐちゃぐちゃの思考で精一杯の言葉を紡ぐ。

「……先輩どうしてここに?」

「ゼハッ、ゼハッ……。樹ちゃんが大橋の方のバスに乗ったのを見かけたんだ。確証はなかったけど、もしかしたらって思って。だから橋を追いかけてここまで走って来たんだ」

「ここまでって、学校からここまで50キロは離れてますよ?」

「実は樹ちゃんには言ってなかったんだけど、実はマラソンは得意なんだよ。樹ちゃんの歳の頃はよく走ってたよ」

 樹は笑って言う目の前の先輩の言葉が信じられなかった。普通バスでチラ見して、もしかしたら見間違いかもしれないのに、それなのに普通走って追いかけるだろうか。

 樹には理解できなかった。でもそれを嬉しいと思ってしまう自分がいた。

 でもそんな思いを素直に受け入れられず、顔をそらしてしまう。

「放っておいてください、手を払った人を探すなんて頭おかしいんじゃないですか!」

 探してくれたことが嬉しくても素直に認められず、逃げようと身を翻す。

 逃げようとして、以前は払った手が掴まれる。

 もう一度振り返るとワニーは自虐するように苦笑していた。

「自分でもこんなことするなんて思って見なかったけど、走っちゃったんだ。それに俺のせいで君を困らせちゃったなら、話くらいは聞いてあげたいよ。今度こそ樹ちゃんの話、聞かせてくれないかな?」

 真っ直ぐに見つめられ、樹は言葉に詰まってうつむいてしまう。でも今までのような悲しさや寂しさはない。

 繋がった手が、濡れて冷めてしまった腕が、確かに繋がった熱を教えてくれる。

 雨音にかき消されそうな中、樹の耳は確かに言葉に含まれた熱を彼女に伝える。

 そんな熱にたまらなくうれしく嬉しくなって頬を赤く染めながら答える。

「……うん、はい、お願いします」

「なら決まりだ。樹ちゃん? ちょっと重いけどこれ羽織って」

 ワニーは上着を脱いで樹の方にかける。

「え? でもどうして?」

「……えっと、その。透けてるよ?」

 さっきまでの真っ直ぐな視線は何処へやら、ワニーは頬を少し赤くして顔をそらす。

 如何してかと思い、樹は視線を下へ降ろすと濡れた制服が体に張り付いて下着がはっきりと制服の上から見えていた。

「きゃ! せっ、先輩見ないでください!」

「だっ、だから上着を貸したんだよ!」

 思わぬ羞恥案件に樹は驚き、肩にかけられていたワニーの上着を抱いて、丸くなる。凹凸などなくても恥ずかしいものは恥ずかしいものだ。

 そんなリアクションを取られ、ワニーも照れてしまう。

 手を繋いだまま、お互いの方を見ない変な二人組がそこにいた。

「このままじゃあ、風邪ひいちゃうな……。背に腹はかえられないか……」

 少し考え込んでから、街の方へ一瞥してからワニーは仕方がないと重い溜息を吐く。

 長い溜息を吐き切るとワニーは樹の方へ向き直る。いい加減、恥ずかしがるのにも慣れ始めてきた樹と目が合う。

「樹ちゃん? 少し歩くけどいいかい?」

「もうなんでもいいです……」

 若干、驚きの連続で樹は疲れ始めていた。

 立ち上がり、樹はワニーに手を引かれながら大橋の街を歩いていく。

 微妙な空気になり、雨に濡れながら二人は歩き、ワニーは慣れた様子で道を選び進んでいく。

 進んでいくと住宅街を抜け、閑静な高級住宅街に出る。

 家と家の間隔が広まっていき、なんだか不思議な方に来たと樹は思い始めていた。

 暫く歩き、ついに一軒の屋敷と比喩するべき家の前でワニーは開け放たれた門をくぐり、敷地内を迷いなく歩いていき、樹は繋いだ手に引かれてワニーについていく。

 立派な玄関の前に立ち、ワニーは二度扉を叩く。

 そうすると扉が一人でに開かれる。よく見ると内側から割烹着に身を包んだ女性が扉を開けていた。

 扉を開けた女性はまず始めに雨に濡れた樹に驚き、そしてワニーの顔を見て更に驚く。まるで幽霊にあったような顔をしていた。

 そしてハッとして顔を元に戻す。そして姿勢を正し、使用人としての態度を持ち直す。

「お帰りなさいませ、お坊ちゃま」

「よしてくれよ。それより彼女をお風呂に入れて。このままだと風邪をひく」

「おぼっちゃまはどうされます?」

「お客さんに風邪を引かせるわけにはいかないよ。……名折れになるだろう」

「畏まりました。ではお客様こちらへ」

 最後の方、少し不機嫌そうにワニーは言う。使用人は気に止めた様子もなく、樹を屋敷の奥へ案内する。

 樹は案内されるまま、屋敷の奥に通される。長い廊下を抜け、脱衣所に案内される。

「ではこちらで着替えを用意しますゆえ、ゆっくりご入浴ください」

 完璧な一礼をして使用人は部屋から退出する。一人置いてかれた樹は他にできることもないので濡れて重たくなった上着と制服を脱いで浴室に入る。

 ——うわぁ。すごい広い

 とても単純な感想で端的に風呂の様子を表していた。一般家庭とブルジョワジーの格差社会がそこにはあった。

 普段使うのとはかけ離れた広い浴室にたじろぎながらも樹は入浴を終える。

 浴室を出ると綺麗に折りたたまれた女物の洋服が用意されていた。

 これに着替えろと言うことだろうか? 一瞬そんなことを考えたがよく考えれば他に着るものもない。

 用意された服に袖を通す。なんだか胸部にかなり余裕があった気がするが気のせいだと思い込んだ。思い込んだと言ったら思い込んだのだ。

 服を正し、脱衣所を出る。出て最初に目に入ったのはずぶ濡れのワニーだった。

「先輩何をしてるんですか?」

「順番待ち、入ったなら変わるよ」

 一瞬、樹は服を凝視された気がしたが特に言葉もなくワニーは脱衣所に消えていった。

 濡れた髪をタオルで乾かしながら樹はこれまた使用人の人に案内された部屋に待機していた。

 十分ほどでワイシャツとスラックスを着たワニーが部屋に入ってくる。部屋に入るとワニーは樹を凝視する。

 ——色っぺぇー……

 初めて見た髪を下ろしたワニーを見て樹はオヤジくさい感想が出ていた。

「髪、梳かさないの?」

「え?」

 不思議そうにワニーは首をかしげる。言われて樹は髪を触る。ドライヤーを借りるのを遠慮してしまい、タオルで乱暴に乾かした髪は乱れて跳ねていた。

 そんな樹の仕草が面白かったのか、ワニーは手に持ったヘアブラシを樹に見せて微笑む。樹の座っているソファーの横、樹の背後に座る。

「髪、触るよ?」

「え! えっと、はい。お願いします」

 丁寧に優しくワニーは樹の髪を梳かしていく。まるでお姉ちゃんのようだと樹は思った。髪を梳かしていくのが上手い、きっと初めてでないのだろう。むしろ手慣れた様子すらあると樹は思った。

 樹の髪を触りながらワニーは少しづつ言葉を紡ぎはじめた。

「ねえ、樹ちゃん?」

「なんでしょうか?」

 何を聞かれるかは分かっていた。

「……朝は俺が無神経だった。ごめんね? だから樹ちゃんの話、聞かせてくれない?」

「どこから話したらいいですか?」

「樹ちゃんの話しやすい所からでいいよ」

 樹は一度考え込むように天井を見上げる。ふう、と一度だけ息を吐いて気持ちを整理する。

 そしてぽつりぽつりと言葉を並べていく。

「みんな凄いんです。得意なことがあって、好きなことがあって、やりたいことがあって。でも私はやりたいことも思いつかなくて、置いていかれていかれるような気がするんです。だからなんとかしたいと思っても何も思いつかなくて、みんなに見られていると緊張もして、結局何も出来ないんです」

「…………」

 初めて樹は心の中で溜めていた思いを言葉にしていく。ワニーは黙って樹の言葉を受け止めていく。

 髪を梳かしながら樹の言葉は続く。

「お姉ちゃんは本当に凄くてなんでも出来ちゃうんです。友奈さんも、東郷先輩も、夏凜さんもみんな凄くて、なのに私は何もなくて。みんな優しいから応援してくれてもそれは結局何かが出来る人の理屈でしかなくて、出来ない私にはそんな応援が痛いんです。痛くて痛くて、逃げ出したくなるんです」

 初めて人に聞かせる樹の胸の内。ワニーは黙って樹の言葉を受け止める。

「だから嫌いなんです、きっと出来るよなんて言葉。私には得意なことも、出来ることもないから。そういう言葉は何も出来ない人には毒みたいに聞こえるんです」

 樹の言葉を聞いて、ワニーは手を止めた。ヘアブラシを横に置き、ポケットの中からあるものを取り出す。

 それを見た樹は驚く。ポケットから出て着たのは新品のタロットカードの入ったケースだった。

 タロットカードをソファー横の机に広げ、何かしらを占いはじめ、カードを弄りながらワニーは口を開く。

「ねぇ樹ちゃん? これで合ってる? 君を探してる最中に売ってるお店の前を通ってね、ついでに買ってきたんだ」

「えっと、並べ方が違うと思います。それならこうしたほうがいいです。……先輩何を占ってるんですか?」

「うん? 樹ちゃんがどうしたらやりたいことを見つけられるかを占ってみてるよ?」

 並べられたカードを並べ直し、少なくとも占いの形に持っていっていた樹の手が止まる。

 思わず、ワニーの顔を見る。

「占いでどうにかなるとは思えません」

「いいからいいから。ここはこっちの札から持ってくればいいのかな?」

 少し時間をかけて、やっと結果らしきものが出る。

「それで、樹ちゃん? これはどういう結果になるんだい?」

「え? これですか? ……ええっと、はい。……とても大雑把に言うと上手くいくかもしれないし、いかないかもしれないです」

「そっかそっか」

 樹の言葉を聞いてワニーは満足そうに頷く。樹には何が起きているのか分からなかった。

「こんなこと占っても何にもならないですよ」

 不満げな樹にワニーは笑う。

「樹ちゃんは凄いね。俺はさっきからちんぷんかんぷんだよ。カードを見ても意味はよくわからないし、占いの手順だってよく分かってないよ」

「こんなこと、ちっとも凄くなんてないです。覚えれば誰に出来ちゃいます」

「どうしてそう思うんだい? 俺は出来ないよ? これは樹ちゃんの凄いところじゃないの?」

「凄くなんてありません。凄いのは先輩はギターとかを言うんです。私には絶対に出来ません」

「樹ちゃんもやってみる? 練習したらちょっとずつ出来ると思うよ? 俺だって始めは簡単なコードを鳴らす練習だったし」

 樹は何も言い返せなかった。確かに占いはワニーには出来なくて樹には出来る事だった。ギターは今は弾けない。でも未来でなら、弾けるようになるかもしれない。

 淡く、そんな未来を想像してしまう。

「私には将来の夢がありません」

「俺だって進路届けを未だに出し渋ってるよ?」

「私好きなことがありません」

「前に聖歌を歌ってくれた時、樹ちゃん楽しそうに歌ってたよね? 歌うのは好きじゃないの?」

 樹の思い悩んでいたこと一つ一つにワニーは疑問をぶつけていく。彼女の思い悩むことに正面から一つ一つを梳かしていく。

「別に私じゃなくてもいいじゃないですか。お姉ちゃんならなんでも出来るし、きっと他の誰かが私より上手く出来ますよ」

「毎朝、朝礼が始まる前まで俺のギターを聞きに来てくれるのは樹ちゃんだけだよ? 俺はそれを他の誰かに変わってほしいと思ったことはないよ」

 一つ一つの樹の自己否定をワニーは否定していく。最後にワニーは一番言いたかった言葉を音にする。

「樹ちゃんは自分が嫌いみたいだけど、俺は君のこと好きだよ?」

 ただ肯定する言葉に樹は今までの自分が足元から崩れるような気がした。樹が嫌いな自分自身が崩れていく。

 だから聞きたくなった。どうしてなのか。

「先輩は、先輩はどうして私にこうも優しくしてくれるんですか? 私なんて別に放っておいてもいいじゃないですか」

「嫌だよ。だって可愛い後輩が泣きそうになってるのに無視なんてしたら先輩失格だろ? 俺は君の先輩なんだぜ?」

 その言葉を聞いて、嬉しくて、涙が頬を伝っていく。嬉しくて泣きはじめた樹の手に自身の手を重ねてワニーは続ける。

「ねえ、樹ちゃん? 誰だって凄い自分になりたいって思ってると俺は思うよ。君はお姉さんや周りと自分を比べて自分を否定してたみたいだけど、それは間違ってると思う。君には君の得意なこと、好きなこと、やりたいことがあって、でもそれは自分じゃあ見つけにくいんだと思うんだ」

「だから、樹ちゃん? 君がもしやりたいことや将来のことに悩むなら俺に言ってよ。力になるし、それに言葉にしてくれないとやっぱり伝わらないんだ。いつでも聞くからさ。だからゆっくりでも樹ちゃんのしたいこと、見つけていこう?」

「……はい!」

 流れる涙をそっと青い菊のハンカチが拭っていく。

 結局、樹の問題は今、具体的には何も解決していない。ただ胸の中に詰まっていたものを吐き出したに過ぎない。しかしそれでも樹には充分だった。

 もう樹は自分を否定するように考えることはないだろう。なぜなら目の前に自分を否定する言葉を全て取っ払ってくれる少年がいるのだから。

 ならばこれから一つづつ、思い悩むことをなんとかしていけばいい。そんなことできないなんてはじめから否定する少女はもうどこにもいない。

 

 少しだけ泣いて、樹は落ち着く。

 自分のことを聞いてくれたから、今度は自分が目の前の人のことを知りたいと思った。

 自分のしたいことの参考しようと問いかけてみる。

「先輩は何かやりたいことあるんですか?」

「……俺のやりたいこと?」

 聞かれてワニーは考え込む。少しだけぼーっとして何かを思い出そうとする仕草をして、あぁっと切なそうに息を吐く。

「少し待ってて」

 そう言ってワニーは部屋を出る。廊下を歩き、階段を上っていく音が聞こえ、どこかの扉が開き、もう一度開いて戻ってくる足音が帰ってくる。

 ワニーの手にはカセットテープが握られていた。一緒に持って来たプレイヤーにカセットテープを差し込むとイヤホンの片方を樹に差し出す。

 樹はイヤホンを受け取り、左耳に差し込む。再生ボタンを押すと音楽は流れ始める。歌詞のないバラード調の曲、少なくとも樹は一度も聞いたことのない曲だった。

 歌詞など一切なくても樹には分かった。とても優しい曲、誰かの幸せや未来を願う気持ちのこもった曲だった。

 演奏が終わり、互いの視線が交わる。

「これが先輩のやりたいことですか?」

 樹の言葉にワニーは首を横に振る。

「うん、正確に言うとやりたかったことだよ」

「やりたかったってことが辞めちゃったんですか?」

「これはね、誰かに歌って欲しかった曲なんだよ。でも、それはもう叶わない夢なんだ」

 カセットテープのプレイヤーにそっと手を触れるワニーの表情は暗い。もう叶わなくなってしまったものを思い出し、傷ついてしまった心が目に見える。

 それは今だから、樹の話を聞いた今だからこそ見せられる彼の奥底の一つだった。決して悩んでいるのは君だけじゃないと言う、ワニーなりの無意識の意思表示だった。

 切なそうなその表情を見て、樹は胸の奥が締めつけられる気がした。自分の不出来に思い悩むのとは違う、この人に悲しい表情をしてほしくないと切に思う。

 人の痛みを自分のことのように分かろうとする彼女だからこそ得る痛み。

 気づけば樹はそっと自分の手をカセットテープに触れていたワニーの手に重ねていた。

 手を触れられ、ワニーは樹の方へ振り返る。樹は重ねた手を固く結んで口を開いた。

「先輩、もし、もし私でよかったらその歌、私が歌ってもいいですか? あなたのやりたいことを私も一緒に、私のやりたいことにしてもいいですか?」

 それを聞いて少しだけワニーは考える。樹の知らない彼の中で何かを葛藤する。考えて、考えて、答えを出す。

 少しだけ不安そうな声でワニーは言った。

「そうだね、樹ちゃんがいいなら、歌ってくれるなら、お願いしてもいいかな?」

「はい! 私こそお願いします!」

 樹の返事を聞いて、安心したのか彼は表情をやわらかくする。今までの笑顔とは違った優しい笑顔、それは樹にだけ向けられた表情だ。

 静かに穏やかに二人だけの優しい時間が流れていく。

 歌詞のカードや音程について話していると不意に2人のいた部屋の扉が開かれた。入って来たのは樹の知らない男の人だった。仕立てられた立派なスーツに身を包んだ中年くらいの、生きていればちょうど樹や風の両親くらいの年齢の男性がワニーの顔を見て驚きの表情を作る。

「和仁、帰ってきたのか?」

 その言葉には仄かな期待の色が含まれているのを樹は察した。期待する男の人に対して和仁と呼ばれたワニーの表情は硬く、声はどこまでも淡々としていた。

さっきまでの樹へ向けられていた優しい笑顔は霧散し、影も形もない。

「いえ、たまたま近くで雨に濡れたから風呂を借りただけです。迷惑をかけました、もう帰ります」

「ここから讃州までは遠いだろう。車くらいは出そう」

 とても親子の会話とは思えない冷めたやりとりだった。必要以上に目すら合わせようとはしない。

 男性は使用人を呼ぶと短く言葉を交わし、使用人は頷いて車を取りに行った。

 ワニーに手を引かれて樹は部屋を後にする。途中、脱水の終わった制服の入った紙袋を受け取り、2人は玄関へ向かう。

 見送りには先ほどの男性ともう1人、心配そうな顔をした、どこかワニーに似た顔の女性がワニーを見ていた。2人に見送られることになんとなく視界から外したときそれは目に入った。

 玄関で靴を履いていると来たときには気づかなかったそれに樹は気づいた。玄関に飾られた二枚の写真、一枚は三人の集合写真だった。左右にそれぞれ2人の女の子、髪を短くまとめた活発そうな女の子と、のんびりした性格を思わせる表情の髪の長い女の子に挟まれた、幼い頃のワニーに似た子供が女装させられたのか顔を真っ赤にした写真。髪は今と同じくバレッタを使って後ろで纏めていた。変わらないワニーを見て樹は微笑ましく思った。

 そして2枚目の写真を見て顔はそのままに、でも目だけは見開いて樹の表情が凍りつく。

 それは家族写真だった。仲の良さそうな4人家族がどこかの庭園を背景に写真を撮っていた。それだけならただの家族写真だ。しかし写っている人物が樹の表情を凍らせる。両親と思われる2人は今、樹とワニーを見送っていた2人に違いない。しかし問題は真ん中に挟まれた2人だった。1人は先ほどの幼いワニーらしき子供、しかしその横にいたのもワニー先輩の今より幼い頃と思われる子供、髪を短く肩ほどで揃えた男の子だった。

 もう一度先ほどの三人の写真と家族写真を見比べて、樹は気づく。

 ——あぁ、そうか。この娘がワニー先輩に似てるんじゃない、ワニー先輩がこの子に自分を似せているんだ。でもどうして?

 樹は何か重大なことに触れている気がした。でも考えても目の前の写真だけでは答えは出ない。

 黙って2人は車に乗り込み、使用人の運転する車は讃州の方へと向かっていく。

 無言の中、車は道路を進んでいく。なぜ、どうして、と樹は聞けなかった。

 それほどまでに写真の中のあの女の子と今のワニーは不自然なまでに似ていた。

 気づけが樹の住むマンションの前まで車は来ていた。車から2人はおり、一礼してから使用人は車を出した。車を見送り、ワニーは駅前の方へ向かって歩き出す前に一度、樹の方へ振り返った。

「じゃあ、樹ちゃん、またね」

 優しい笑顔を作り、そう言ってワニーは歩いて行った。その笑顔はどこまでも写真の女の子にそっくりだった。

 目の前から立ち去っていく人が誰なのか樹は分からなくなりそうだった。

 




貴方らしい貴方とはどういう貴方なのでしょう? と考えてみることからアイデンティティの再確認が始まるそうな。
もしかしたらしばらく学業で更新が停止するかもですが気長にお待ちいただけると幸いです。ではまた次回

小説の書き方の研究の側面があるので読みにくい、読みやすいの意見が欲しいです。
もちろん感想、誤字報告も大歓迎です。それではまた次回。(テンプレ)
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