乗せてもらった自動車から降り、ワニーと分かれ、樹は姉の待つ自宅へ向かって歩いていた。
周囲はすでに暗く、街灯の明かりだけがマンションまでの道しるべであった。
初めて歩く暗い夜道に不安を覚え、他の明かりはないかとポケットに入れっぱなしにしていた電源を落としたスマホを取り出し、明かりをつけるために電源を入れるとスマホは樹にいくつもの着信とメールが来ていたことを教える。
ここで初めて樹は自分が周囲から見たら失踪した様にか見えない状態にいることに気がついた。特に姉からの着信は他のそれよりも多く、いかに自分が心配されているかに気づいた樹は顔を青くし、マンションまで大急ぎで走り出した。
到着し、扉の鍵を急いで開く。中を覗いてみるとリビングだけぼんやりと明かりがつき、それ以外の電気は一切消されて物音一つしない我が家がそこにあった。
夜遅いこともあり、樹はあまり物音を立てずにそっと玄関を閉じるとそのまま明かりのついたリビングに向かう。
——こんなに遅くなっちゃった、きっとお姉ちゃん怒るだろうな。
実際、時計の針はもうすぐ両の針が頂上を示そうという時間だった。何も言わずに出かけて帰ってくるのにはあまりにも遅い時間であり、いかに自分が周りに迷惑をかけてしまったのかを思うと樹は申し訳なさにいっぱいになった。
そっとリビングの扉を開くと食卓にある机の明かりを一つだけつけて、突っ伏して寝ている姉を見つける。着ている服も部屋着などではなく制服のままであり、きっと着替える時間も惜しんで樹を探していたのだろう。
そんな姉を起こそうと樹は優しく風の体をゆする。
「お姉ちゃん起きて、制服このままだとシワになっちゃうよ?」
「ううん、あれ?」
体を揺すられ、風は半覚醒した意識のまま、自分を揺する人物の方へ顔を向け、それが樹であることが分かると半開きだった目を見開く。
樹の両肩を掴み、風は石火のごとく樹にまくし立てる。安心したのか、目には涙が滲む。
「樹! あんたどこ行ってたの! 電話しても出ないし、勇者部のみんなで探してもどこにもいないし、心配したのよバカァ!」
「ごめんなさい、お姉ちゃん。その……、大橋の方に行っちゃって、送ってもらったんだ……」
「……大橋の方? なんでそんなところに?」
樹の口から出てきた懐かしい地名に風は首をかしげる。
不思議そうな姉の様子を見ながら樹は少しづつ、自分の話しやすい調子で今日起こったことを話し始める。
「お姉ちゃんたちに話したみたいに悩んでる事をワニー先輩にも話したの……。でもケンカみたいになっちゃって、色々あって送ってもらって帰ってきたの」
乙女的に大事なところはボカシながら今日のことを話す。少し赤くなった樹の頬を見て何かしらいい事があったのだなと風が思っていると樹の話に出てきたワニーという名前に引っかかりを覚える。
「ワニー? ワニーって誰のこと?」
「あれ? お姉ちゃんと同じクラスって聞いたよ? ほら、ギターをいつも持ってる先輩だよ?」
樹にワニーの特徴を伝えられ、風はクラスメイトに当てはめていき、一人のクラスメイトを思い当たる。
「もしかして鷲尾のこと? 髪が長くて、後ろでまとめてる?」
「うん、多分そうだと思う」
——ワニー先輩、鷲尾って名字なんだ
姉の言葉からワニー先輩の名字を知った樹。彼の家で父親らしき男性が呼ぶ彼の名前は和仁だった。
組み合わせれば、鷲尾和仁。わしお、かずひと。どこか雅な音のする名前で、上品な風格の彼にぴったりだと樹は思った。
納得していた樹は姉が微妙そうな顔をしていることに気がついた。
「お姉ちゃん? どうかしたの?」
「……うーん、鷲尾のやつそんなに人付き合いをしないほうだから、私そんなによく知らないのよ。放課後はいつもどこかに用事があってすぐ帰るし」
「それなら多分、ギターを弾きに行ってるんだと思うよ? 先輩ギターを弾くのが好きみたいだから。朝はいつも屋上で弾いてるよ?」
「あれ? あんた随分と鷲尾のこと詳しいのね。ん? ……んん! もしかして最近朝早く学校に行くのって、……そういう事?」
自分が知らない妹の一面の発見に風は動揺する。あくまで推測ではあったがもし正解なら自分の妹は毎朝男、それも自分のクラスメイトに会っていた事になる。可愛い妹が知らないうちに自分よりも何やら少女の階段を登っていることに風は少なからず動揺する。
過保護な風の姉妹愛が変な方向に向く。
質問され、自分の行動を改めて客観的に見ることになった樹は、それが傍目から見ればどのように映るのかを理解し、改めて意識して顔を赤くする。
そんな風に顔を赤くしたことが風への返答となった。風はへなへなと机に再度突っ伏してしまう。
「あぁ……、妹が、妹に彼氏が……、私にだっていないのに……」
「ち、違うよお姉ちゃん! 私とワニー先輩はそんなんじゃないよ!」
妹に女子力的な面で負けたと思い、さらに妹に彼氏が自分よりも先にできたことによる二重の衝撃で風は脱力しだらしなく机と同化していく。
勝手な推測で落ち込んでショックを受けている姉に樹は訂正していく。恋愛小説のテンプレ染みたセリフをきいて更に風は衝撃を受ける。樹が何か言うだけ更に風にショックを与えていた。
衝撃を受け、机にだらしなく突っぷす風と慌てて弁明して更に風に追い打ちをかける樹。しばらくそうしていると、ようやく落ち着きを取り戻した風が樹に顔だけ向けた。
「あー……、何か樹が帰ってきたら安心して、お腹すいてきたわ。樹、ご飯は食べてきた?」
「ううん、何も食べてないよ。その前に家を出てきて、今着いたところだよ?」
「そっか、なら遅いけど晩御飯にしましょうか」
いつも通りの声色、姉らしい態度に戻ると風は準備だけしてあった晩御飯の調理を始める。程なくして調理の終わったうどんが二人分机に並べられる。
手を合わせてから二人は食事を始めた。
うどんをすすりながら樹は風に話しかけ始める。
「……ねえ、お姉ちゃん?」
「どったの?」
何やら話しづらそうに切り出した樹に風はすすっていたうどんを噛み切って尋ねる。
「私ね、ずっとお姉ちゃんは凄いって思ってたの」
「おうおう? まぁ? 女子力の申し子たるこのお姉ちゃんに任せればそうなるわね。……それで、樹はどうしたの?」
突然、樹に褒められて風は悪い気はしなかった。しかしそう言う樹の表情が晴れやかではない事に気付き、本題がここからだと察する。
樹はずっと溜め込んでいた思いを、自分が思っていたこと素直な言葉にしていく。
「ずっと凄いって思ってて、でもそれに対して私は何もやりたい事も、できる事も無くて、お父さんとお母さんが死んじゃってからはお姉ちゃんが親代わりになってくれて、だったら私はお姉ちゃんに着いていけばいいって思って、でもそれしか選べない自分が嫌で……」
「樹……」
初めて聞く妹の本音、心からの本心を聞いて風は少なからず動揺するが、少しづつ樹の表情が変わっていくのを見逃さなかった。どういうことかと風が樹の一挙手一投足を見つめ、樹の話に耳を傾ける。
「だから、歌のテストでみんなが『できるよ』って言ってきた時は、応援されて嬉しいって気持ちと、どうしてみんなは私がそれを出来るって信じて言ってくるんだろうって思ってた
でも今はそんな風に思わないことにしたよ。私には私の出来ることがきっとあって、出来ないこともきっとあるんだって思えるんだ。
だから私は今、私が出来ること、やってみたいことを見つけていつか自分らしいことを出来るようになりたいって思ってる」
それが樹が今言えることの全てだった。
溜め込んでいた思い。変わってきた思い。彼女らしい成長が垣間見え、そんな妹の成長に風は笑みを浮かべる。
言いたいことを言い切り、少し恥ずかしくなったのか指同士を合わせて恥ずかしがる樹を風は優しく抱きしめ、頭を優しく撫でながら語りかける。
「そっか、樹はそんな風に思ってたのね……。お姉ちゃん、お母さんの代わりになろうって頑張ってて、樹のそういうところ見逃してた。ごめんね」
風は妹の成長に喜ぶ一方で悩んでいたことを見抜けなかった自分が情けなくなる。
いっぱいいっぱいだったのだ。どれだけしっかりしていても所詮、犬吠埼風は中学生だ。彼女自身も本当ならば親に甘えたい年頃、しかし樹のために、もういなくなってしまった両親の代わりをしなくてはという思いがあった。そんな彼女らしい責任感が余裕を奪っていた。
しかし手の中にいると思っていた妹はいつの間にやら自分の手を離れてどこか違う場所で成長を始めていた。
そんな変化を嬉しく思いながら、どこか寂しさもある。変わらないものなど、どこにもありはしない。
しかし変わってしまうことは決して悪いことではない。変化とは成長であり、発展なのだ。
守られるの存在の妹から、同じ歩幅で隣に立つ姉妹へ、その変化への最初の一歩を樹は歩き出した。
そんな前へ進む変化を風は嬉しく思い、受け入れた。
少しだけ前向きに変われ、自分に自信を持った樹は得意げに笑う。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。私だっていつまでも頼ってばかりじゃないんだよ?」
「そうね、なら明日からは自分一人で起きてもらいましょうか」
「そ、それとこれとは話が別だよー!」
成長した妹を風はからかう。まだ克服できていない弱点を挙げられ、樹は困った声を出す。
そんな樹のころころ変わる表情が面白かったのか風は笑い、からかわれた樹も恥ずかしそうにしながら一緒に笑う。
暫く笑って、二人は思い出したように食べかけのうどんを食べ終え、風は体を洗おうと風呂場に向かう。居間から出ようと扉に手をかけた時、ふと思い出し、振り返って樹に問うた。
「そういえば今、樹がやりたいことってなんだったの?」
質問されて樹はカバンの中に入ったカセットテープとその再生機の方へ視線を向け、少しだけ微笑んで、風が見てきた中で一番の笑顔を作って風に見せ、人差し指を唇に当てながら答えた。
「今はないしょ。いつか聴かせてあげるね」
「そっか、なら楽しみにしてる。いつか聴かせて? くれるのね?」
「うん。だから楽しみにしていて」
入浴に向かった風を見送って樹は自分の部屋に入る。カバンの中からカセットテーププレイヤーだけを持ってベットに飛び込む。
転がって、イヤホンを両耳にあて、再生ボタンを押して窓の外を見上げる。雨の上がった夜空は雲ひとつなく、晴れ渡って小さな星が瞬いていた。
瞳を閉じて聞こえてくる優しいギターの音だけを感じて、眠りに向かっていく。まどろんでいく中、樹は旋律を聴きながら、今日はきっといい夢が見れるだろうなと、そんなことを思いながら樹はいつのまにか夢を見始めていた。
体が揺れる。正しくは揺らされる。
耳から何かが抜ける感覚がすると急に真っ暗な世界に音が始まった。
「樹! もう朝よ、起きてー!」
「うわぁ! もう朝だ!」
「もう、やっぱりお姉ちゃんがいないと朝はまだまだね。ふふっ。」
イヤホンで曲を聴きながら、そのまま樹は寝てしまっていた。風に体を揺らされ、やっと起きる。昨日の決意はどこへ行ったのか、まだまだ一人では朝起きられない樹に風は私はいないとダメねと笑う。
笑われたことに樹は頬を赤くするが朝だということに、ぼーっとしていた頭がはっきりとし始めて慌てて学校に行く準備を終える。
最近はすっかりと早く学校に行くことに慣れ始め、素早く準備を終えると台所で皿を洗っていた風に一言伝えてから樹は学校へ向かう。
七月に入ったこともあり、通学路では気の早い蝉が鳴き始めていた。
なんだか気温が熱くなったような気がしてきた樹は急いで通学路を自転車で駆けていく。
いつものように靴を履き替え、屋上への階段を登っていく。
登りながら樹はいつも聞こえてくるギターの音がしていないことに気がつく。
少なくとも、今までワニー先輩が屋上にいなかったことはないが、間違いなくギターの音はしていない。
もしかして今日は先輩は休みなのかと不安に思いながら屋上の扉を開くと、ワニーが膝から崩れ落ちていた。
「せ、先輩! どうかしたんですか!」
驚き、樹はワニーに駆け寄る。駆け寄って、それを見つけた。
ワニーはいつもギターをハードのギターケースにしまっていた。そのケースが開けられ、中のギターの姿が現れていた。中が水に浸かった姿で。
「……そうだよな。雨の中ほったらかしにしたら当然、雨に浸かるよな。アハハ……」
雨水に使った木製のギターは一晩かけてじっくりと水を吸っていた。
とても弾ける状態ではなかった。
そんな無残なギターを見て樹は自分のせいだと思った。昨日、自分を探して彼が飛び出して言ったため、このギターは一晩ここで放置されてしまったのだ。
「ご、ごめんなさい。私のせいで大切なギターをこんなにしちゃって……」
「え、あ、んん! ああ、ごめん樹ちゃん、全然気がつかなかった。ごめんね、ちょっと待っててくれる?」
樹に話しかけられ、ここで初めてワニーは樹が来ていたことに気がつく。水瓶と化したギターケースをひっくり返して中の水を捨てる。流れ出た水が乾きかけた屋上を濡らしながら広がっていく。
ワニーはケースからギターを取り出し、触って状態を確かめていく。不安そうに樹はそれをただ黙って眺める。まるで判決を言い渡される被告人の心情であった。
少しして、ワニーは少しだけ安心してホッと息を漏らす。
「よかった。これなら修理に出せば直りそう。本当に良かった……」
「ほ、本当にごめんなさい。私のせいで……」
申し訳なく樹は頭を下げて謝罪する。自分が昨日あんなことをしなければこうはならなかったと罪悪感とやってしまったという後悔がぐるぐると胸の中を締めていく。
「ああ、いいんだよ樹ちゃん、フタを閉じるのを忘れた俺のせいだし」
「いえ、そもそも先輩が私を追いかけさせるようなことを私はしなかったら、こうならなかった筈です!」
「あー、……うん、そうかもしれないけど。修理すれば直りそうだし、そんなに気にしないでよ。直るなら問題ないでしょ?」
「でも……」
謝罪を続ける樹にワニーは困ったように頬をかく。このままでは埒があかないと思い、何か別の話題を考えていると樹の歌のテストのことを思い出した。
「そういえば樹ちゃん、今日歌のテストじゃなかった?」
「……あっ」
その言葉を聞いて先ほどまでとは別の理由で樹の顔から血の気が引いていく。結局、あれから対策らしい対策などすることをすっかり忘れていた。音楽の授業は1時間目。もうそれほど時間は残されていなかった。
同時に起きた二つの問題にどうしたらいいのだと樹は頭を抱え始める。
そんな困った様子の後輩を笑いながらワニーは樹の横に座り込む。
「それにほら……、樹ちゃんを追いかけたのは俺の選択だったわけだし、それを否定されるとちょっと悲しいかな? ……なんて少し厚かましいかな」
自分で言って恥ずかしくなったのか少し赤くなった頬をかき、そんな顔を見せまいとそっぽを向く。
そんな様子の彼を見て、樹は昨日ワニーが駆けつけてくれた時のことを思い出す。その時の気持ち、その後に髪を梳かしながら話した時の気持ちを思い出していく。
「別にそんな風に思ってないです……。来てくれた時、本当に嬉しかったです。だから厚かましいなんてこと、絶対にないです」
「そっか、なら良かった……。今日はギターが使えないから、おしゃべりでもしようか」
水が染み込み、ふやけたギターでは音は出ない。二人は座って話し始める。
先に話を始めたのは樹だった。
「歌のテスト、どうしよう……、もうすぐ始まっちゃいます」
「えっと……、そっか、もうすぐなのか。何か対策は考えて来たの?」
「全然です。結局何も思いつかなくて、どうしたものかと困っているところです。あれ?」
カバンの中から音楽の教科書を取り出し、物憂げにそれを眺める樹。ページをめくっていくと中から折り畳まれた一枚のルーズリーフが落ちる。
何かと思い、拾って紙を広げるとそこには勇者部のメンバーが彼女に宛てた応援のメッセージが綴られていた。
樹は温かいものが胸に染み込んでいくのを感じる。紙に書かれただけの文字、だがそれは何よりも背中を押してくれる文字だった。
樹の肩越しからそれを覗き込んだワニーは内容を見て微笑む。
「良かったね、樹ちゃん。君の先輩やお姉さんは君の応援、忘れてなかったみたいだよ?」
「はい、やっぱりお姉ちゃんたちは凄いです」
「今日は君が凄い方になる番だ。……そうだね、絶対大丈夫とは言わないよ、君が出来る限りのことをやってきておいで」
「はい! 私が出来ること、精一杯やってみます!」
虚勢でも、こうして応援されたのなら出来る気がしてくる。樹は根拠などなくてもそう思えるようになり始めていた。
それで、もう一押し、もうひと押しだけ樹は欲しくなる。他の誰でもない目の前の人から。
「先輩の方からは何かありますか?」
具体的に何とは言わない。言ってしまうと自分が図々しい子のように思われるような気がしたから。頬を朱に染めて俯く。
そんな樹を見てから、彼はぱちくりと瞬きして考えてみる。必要以上の言葉がなくてもそれとなく意思は伝わっていた。そんな風に頼られて悪い気はしない。むしろこれ以上なく嬉しいと彼は思った。だったら自分なりの応援を彼女にしたいと思う。
「そうだな、……上手く歌うコツって言ったらやっぱりアルファー波かな? 歌うときにアルファー波が出ると良いって聞くね」
「ごめんなさい、実はもうそれ、聞きました」
「おお! 音楽のなんたるかを分かってる子が勇者部にもいるのか! 是非とも今度その子と音楽談義をしたいね」
意外なところからの同志の出現にワニーは目を輝かせる。
彼が美森に興味を持ったことに樹は自分でもなぜか分からずにムッと唇を尖らせる。
「今はそんなこといいじゃないですか。それよりもほら、私の応援を考えてください!」
「え、あ、うん。そうだね、今は樹ちゃんが先決だね。……と言っても今からじゃあ、出来ることなんて……」
授業が始まるまでそれほどなく、もう少しで予鈴がなる時間。何かを準備するのには時間は残されていなかった。ワニーはふと水を全て抜いたギターケースのほうへ視線を向けた。
そしてギターをじっと見て、おもむろに立ち上がるとケース横の収納へ手を突っ込んで、中から何かを取り出す。
手を引き抜くと手の中には何か紐のような物が握られていた。
振り返ってそれを樹に差し出す。樹が差し出されたもをみるとそれはギターのピックだった。ギターピックとはギターの弦を鳴らす際に指で弾く代わりに使う三角形のプラスチック片。それに青、赤、紫の三色の飾り紐が結び付けられていた。
差し出されたそれを樹は両手で受け取る。受け取った姿勢のまま顔を上げて渡されたものについて聞く。
「これは一体?」
「ギターピックだよ。昔、人から貰ったものでね、それに模様がついてるでしょ? それスノードロップの花で希望って意味があるんだって。だからそれ、樹ちゃんに貸してあげるよ。上手くいきますようにって希望」
飾り紐を持ち、受け取ったピックを目線の高さまで持ち上げる。優しい朝陽に照らされ、描かれたスノードロップが輝く。ところどころすり減りながらも、磨かれて大事にされているのが分かる。
「なんだか素敵な贈り物ですね。でも私が預かって良いんですか?」
「良いよ。俺も樹ちゃんを応援したいし、今はギターも弾けなくて使えないからね。だったらそういう使い道でも、お守りとして役に立つなら持って行ってもらって構わないさ。……ちゃんと返してね?」
「はい、ならお借りします! そして歌のテスト、頑張ります!」
思わぬ借り物を授かり、樹は浮き足立つ。
浮かれる気分が行動にも現れ、小さくその場で跳ねる。
そんな樹を微笑ましそうにワニーは見ていた。
そんなこんなで時間は進み、朝礼を知らせる予鈴が鳴る。
予鈴が鳴ったことを確認すると樹はワニーに向き合って言った。
「それじゃあ、行ってきます! 頑張って良い報告ができるようにするので期待しててください!」
「うん、行ってらっしゃい。良い報告を待ってるよ」
優しい視線を背に樹は教室へと意気揚々と向かった。屋上の扉に手をかけて、動きを止め、朱に染まった顔で振り返った。
ワニーという名前はきっと知り合いが彼を呼ぶ名前。なら自分はそうではない名前で呼びたいと樹は思った。だからそうなるように小さな勇気を振り絞って言葉にする。
彼の名前を口にする。
「私が頑張るところ見ていてくださいね、和仁先輩!」
本名を呼ばれ、ワニー、和仁は目を見開く。見開いた目でじっと樹を眺め、それ以外の一切の動きがなくなる。
心底驚いたように固まった彼を見て樹が少し不安を覚える。
——もしかして、名前を呼ばれるのダメだったかな?
少しの時間、永遠のようにも思える沈黙が二人の間を流れる。そしてワニー、和仁が表情を嬉しそうに、それでいて少し恥ずかしそうに頬をかく。
「……あぁ、うん。いきなりだとちょっとびっくりするかな、うん。行ってらっしゃい、樹ちゃん」
「はい!」
言外に和仁は樹の呼び名を受け入れていた。拒まれず、受け入れられたことに少なからず樹は自分の心臓が早鐘のように音を鳴らすのを聞く。
送り出され、樹は階段を下って教室へ向かう。その足取りに迷いなど欠片も無く、しっかりと確かな足取りで前へ進み始めていた。
手に握りしめた飾り紐とギターピックが揺れながら樹はテストの待つ教室へ向かって行った。
ことさら、歌のテストの合否など言う必要もないだろう。
歌い終え、席に戻った樹は晴れやかな笑顔で預かったスノードロップのピックをそっと手で包み、自身の気持ちと同じように晴れやかな青空を薄紅に染まった顔で見上げていたことだけは確かなことだった。
今日、あの子に名前で呼ばれた。ワニーじゃない、本当の名前で呼ばれた。
鷲尾和仁。僕の名前。あの家と僕を繋げる祝福でもあり、呪いでもある名前。そしてかつては君との絆を表してくれる名前だった。
最初、呼ばれた時、心臓が止まるかと思った。嬉しさよりも恐怖が先にあった。でもそれを塗りつぶしてしまうように嬉しくて、恥ずかしくて、確かに笑っている俺がそこにいた。
確かに変わりつつあると思う。あれから二年、変わってしまったものがいくつもある。許せないものがいくつもある。
これから先どうなるのか想像するだけで底の見えない崖に追い込まれるような気がして、どうしようもなく不安になる。
優しいあの子を見ていると抑え続けてきた激情が、くすぶり続けてきた心がほだされていくのを感じる。あの子と一緒にいると自分が前に進み始めてしまっている。
僕と俺の境界がどんどん曖昧になって崩れていく。あの日々を、君との日々を過去に、終わった物にしようとしている。
君のいないこの世界は、君を忘れてしまったかのように変わらず続いていく。どうしたら良いんだ須美。
助けてよ。怖いよ。
宮司御記
試験の間をぬって小説を書くスリル、癖になりそう
はい、というわけでワニー先輩の本名は鷲尾和仁君でした。和仁と書いて「かずひと」と読みます。
今回の話でギャルゲー的に言うとワニー先輩ルートに入った感。
次回以降、過去編である「鷲尾和仁は勇者を殺した」を書くか、それとも単純に続きを書くか悩み中です。
詳細は活動報告にて。
小説の書き方の研究の側面があるので読みにくい、読みやすいの意見が欲しいです。
もちろん感想、誤字報告も大歓迎です。それではまた次回。(テンプレ)