七月に入り、山の中ではつがいを求めるセミやひぐらしの鳴き声が鳴り止まない。ジメッとした気温や湿度は今年も若干不快感を覚えるものであり、触覚と聴覚によって樹は今年の本格的な夏の到来を感じていた。
そんな真夏直前の気候の中で長袖、長ズボンを履いて山を登る自分に樹は疑問を覚えはじめていた。
「なんで私、山登ってるんでしょう?」
「ハハハッ、ごめんね樹ちゃん。でも今回のバイト先がこの上の神社だから登らなきゃ、ね?」
少し申し訳なさそうに笑うワニー。
そう、今二人はワニーの紹介で樹の自主的に負った借金を返すためのアルバイトに来ていた。
借金を負った本人からアルバイトを紹介してもらうのもなんだか本末転倒のような気がしてならないが、何はともあれ二人は山頂の神社へ向かって歩みを進めていく。
ふと気なって樹はワニーの方へ視線をやる。ルンルンという様子で楽しそうな様子が隣を歩く樹にも伝わってくるようだった。
長い髪は今日もバレッタによって纏められており、肩には大きなボストンバッグがかけられていた。曰く、アルバイトで使う道具が一式入っているらしい。
ずいぶんと大荷物に見えるが当の本人はすでに汗で服が背中に張り付きはじめている樹と違ってケロッとした様子で歩いていた。
持ってきたタオルで汗を拭いているとこちらを見て軽く微笑んでいるワニーと目が合う。
「樹ちゃん大丈夫? 少し休憩していく?」
「いえ、まだまだ大丈夫です。先輩は随分と余裕そうで羨ましいです」
「まぁね、これでも色々と鍛えてるから。そう易々と根をあげたりしないさ」
そんな軽口を言い合いながら山道を登っていき、そのうち開けた場所にたどり着いた。
それまで歩いていた自然そのままの土の道とは打って変わり、明らかに人の手が加わった舗装された石の道が顔を出した。
まず樹の目に入ったものはその先への道を進むことを拒む背の高いフェンスだった。見たところフェンスは視界の端の森の奥にまで続き果てしないようにすら思えた。
視線を正面に戻すとそこが一つの入り口である事に気がつく。丈夫な南京錠と鎖によって封印された扉はここから先へ進む者を拒んでいた。
その横には立て看板。『この先、大赦私有地につき立ち入りを禁ずる』一目見てここがどのような場所なのか理解できた。
四国を守る神樹様を奉る組織である大赦。その私有地であるのならば信仰的に重要な場所なのだろうと樹は一人納得する。
これからどうするのかとワニーに聞こうとしたところで彼は迷う事なく前へ歩き出した。
そびえ立つフェンスに近づき、服の中から鍵束を取り出す。多少慣れた手つきで束の中から一つの鍵を選ぶと南京錠に差し込み回した。南京錠から小気味いい音がするとぼとりと解錠された南京錠が地面に落ちた。それを拾ってフェンスに掛けてからワニーは樹に振り返ってちょっと自慢げにピースをしてみせた。
お茶目とも子供っぽいともとれるそんなワニーの様子に樹は苦笑を返事とした。
フェンスを通過するとそれまでの土の地面とは打って変わり、人の手によって整備された石づくりの階段を登っていく。
二人して黙って階段を登り続けて樹の息が切れそうになった頃、ようやく目的地の建物が姿を現した。
人気のない山の奥、そこに件の神社は鎮座していた。
一見して樹が最初に思ったのは妙に小綺麗に掃除されているということだった。
山奥の、それもフェンスによって隔離された場所にあるのだらか樹はてっきり寂れているのだと勝手に思っていたが、見れば社自体も建て替えたばかりなのか色が剥げたところもなく、日に焼けたような様子もない。落ち葉やその他のゴミもほとんどなく定期的に掃除されていることも分かる。
社もこんな山奥の誰も参拝できないところになりながら不自然に立派であり、神紋には大赦の印が使われていた。
何度か来たことがあるのか慣れた様子のワニーに案内されて本殿に上るとその一室に案内される。本殿の中も掃除が行き届いていて、戸棚からお茶の用意一式をワニーが取り出すと手慣れた様子で樹の分のお茶を出した。
しばらく待っているように言われ、言われた通りに樹が座布団に座ってしばらく待っている間、なんとなく部屋の中を見渡す。どうやら控え室のような部屋らしかった。押入れの中にはいくつかの座布団やちゃぶ台が収納されており、部屋にはコンセントや水道が備え付けられていた。山の奥ではあるがインフラはあるようだ。他には必要最低限のものしかなく人が生活するための部屋には見えない。この周囲の建物はこの神社しかなく、この神社のためだけにインフラを整備する事に樹は首をかしげる。
それほど詳しいわけではないが少なくとも授業でインフラを整備するのには多額の費用がかかることくらいは樹も知っていた。それほどにこの神社が重要なのかとも思ったがその割に常駐の管理人は見当たらない。普通、神社の本殿の外には神主や巫女が常駐する社務所があるはずであるがその建物は存在自体がなかった。
ならばこの神社そのものを立てておく事、それ自体が重要という事になるが手がかりがもうないのでそれ以上の推論を樹はすることができない。
謎の神社について知的好奇心を発揮していると控えめな強さで障子がノックされた。どうやらワニーが帰って来たようで立ち上がった樹は障子を引いて開けて息を飲んだ。
戻ってきたワニーは着替えていた。結論から先に言うとワニーが着ていたのは純白の神官服、以前テレビで見た事あるものと大きく違うのは体の至るところに鈴が備え付けられ、小さく動くたびに澄んだ音が鳴る。元々あった大和撫子めいた色香が巫女服と神官服の中間の印象を持つその衣装は肩が露出し傷一つない白い肌が見えることで一層引き立っていた。
しばらくの間黙って凝視していた事で樹は妙な既視感の正体に気づいた。よくよく見ればどことなく和式の花嫁衣装を略式した様にも見える奇妙な衣装だった。
「どう? 似合う?」
見惚れている樹が面白かったのかワニーは悪戯っぽく笑って感想を聞いてみた。
質問された当の本人は数秒してからハッと我に帰り、それから慌ててうなづいてみせた。
そんな樹の小動物的な所作に満足したのか「それでね……、樹ちゃんにはこれだね」そう言って、先ほどまでは着替えが入っていたのかすっかり細身になったボストンバッグに手を入れる。
そのままガサゴソとカバンの中に手を入れ、その中から二つ取り出して樹に手渡す。手渡されたのは鈴、大小二つの神楽鈴だった。何かの祭事を執り行う巫女が持っているイメージのそれを渡され、自分がどうしたらいいのかがさっぱりと分からず樹は首をかしげて疑問であると主張した。
「えっと、先輩? 私はどうしたらいいんですか? というかアルバイトって……?」
「樹ちゃんの仕事はね、俺の手伝い、まぁ合いの手みたいなものだよ」
そう言ってワニーはアルバイトの詳細を話し始めた。
曰く、ワニーは大赦から定期的に大赦の保有する各神社の内、重要ではあるものの大赦が囲う巫女たちを派遣するまでもない重要度の低い神社にて神楽舞の舞い手を任されているのだという。
扱いは臨時職員の様なものでありそれなりの報酬が出るとの事。
今回樹が任されたのはその儀式にてワニーが舞う神楽舞の合いの手、正しくは奉る側の神への呼びかけを意味する鈴の音の鳴らし手。そのため、樹にも臨時職員としての報酬が出るらしい。
早くやってしまえばそれだけ早く帰って良いとの事で二人は早速奉納の儀式場である本殿の最奥へと向かった。
本殿に足を踏み入れて、樹は本日何度目かになる驚愕に表情を変えた。
本殿の奥には大きな木製の箱、ちょうど棺のようにも見えるそれがこの神社の御神体らしく、いかにも大切なものであると言わんばかりに祀られている。よくよく見れば木箱にはいくつものお札が貼られ、封印されているような印象を受ける。
しかしそんなものよりも、その周囲に鎮座するものから樹は目を逸らさないでいた。
小さな明かり取りしか光源のない薄暗い本殿の中で幾人かの仮面と神官服の大赦職員たちが道具や楽器を手に座し、俯いて待機していた。
物言わぬ神官たちを見て薄暗い本殿の雰囲気も相まって不気味であり、思わずギョッという驚きの声が出そうになる。
思わず隣にいたワニーの腕にしがみついて彼の陰に隠れる。
そんな不安そうにする樹を「大丈夫だから」と優しくなだめてからワニーは袖についた鈴を揺らして早只、つまり二拍子のリズムで鳴らした。
すると伏せていた神官服たちがぎこちない動作で上体を起こし始め、それぞれが持った楽器を演奏するための姿勢になってからまた動かなくなった。
ここまで見れば樹にもこの不気味な神官たちの正体を理解出来た。
「……ろ、ロ、ロボット?」
樹の困惑を含んだ推測にワニーは小さく笑って肯定して、左手に持った神楽鈴を大きく振って鳴らした。
そしてその音を合図に本殿に設置された数十体の神官人形たちが定められた動作を開始した。大赦の持つ最先端の技術を駆使して製造された機械人形たちは十数年その楽器に慣れ親しんだ奏者に引けを取らない演奏を開始する。
そして樹が一斉に動き出して演奏を始めようとしている人形たちを見つめていると隣にいたワニーがその肩を優しく叩いてから彼女に微笑みかけた。
「大丈夫、演奏を聴きながら俺の動きを見て。そうすれば自然と君がどうすればいいのか分かるから」
そう言うや否やワニーは本殿の中央めがけて飛び出した。
右足を前に出し、滑らす様に左足を追随させる。右手には扇、左手には樹が手に持っているのとは更に違う音を鳴らす神楽鈴を持って舞う。
見事に整った人形たちの演奏は見事の一言であり、美しい旋律が舞を引き立てる。いつの間にか灯った蝋燭の灯りが薄く本殿と照らし、神楽舞を舞い始めた彼の姿をぼんやりと浮かび上がらせる。
神へと捧げられる舞はただただ美しく、見るものを魅了する。衣装の各所に結び付けられた鈴が舞の動作に合わせて清廉な音を響かせる。耳に入る音を聞いているうちにそれ以外の何もかもが意識の外へと追いやられ、熱に浮かれたように意識が希薄になっていく。
魅入られた樹はまるで暗闇の中でワニーただ一人が浮かび上がっている様な錯覚の陥って、そのうち舞を補助する人形たちの演奏に所々欠けたような、抜け落ちた様に音が足りないところがあることに気づく。
無意識のうちに、自然と足りない音を補う様に樹は手に持った神楽鈴を振るう。二種、別々の音を奏でる二つの神楽鈴。それでも何故かどちらを振るうべきなのか、何も教えられずに理解していた。まるで頭に直接譜面を書き込まれる様な感覚に頭が熱を持って熱くなっていく。
初めて聞く演奏、初めて見る舞、それなのにどうすればいいのかを一人でに理解していく。
演奏が頭の中に反芻して響く。目に見える舞も一つ一つの動作が複雑さを派生し、鈴の音が更に増して、もっと、もっと舞の価値、奉納の意味を重ねていく。
あまりの情報量に頭痛すらし始める。しかし体はそんな痛みにたじろぐ事すら出来ずに鈴を鳴らす手を止めない。いや、止められない。
そして頭の中で針の先端が乱反射するように反芻する鈴の音を背景にワニーの歌声が足されていく。歌詞などではなく単純な無旋律、単純な音階の歌声が人には理解できない奉納となって響いていく。
明らかに異常な状態でありながら、しかし最早何も樹は理解していない。ただ一心不乱に頭に書き込まれた様にして理解した舞を完成させていく。巨大な構造の一部、神楽舞の演じ手であり見届け人となって演奏と鈴の音と歌声と、それ以外の何も聞こえなくて、響いて、頭の中が軋んで痛みとなって、そしてそのうち限界を超えて、気がつけば視界が白く染まった。
先ほどまで聞こえていた頭を割るような鈴の音も演奏も歌も何も聞こえない。重たい水の中を漂うような不思議な感覚の中、どことも知れない場所で樹は自身の存在が浮かび上がって周囲から離れていく感覚。肉体から魂が離れてどこかここではないどこかへと向かうのをなんとなく理解する。
視覚、聴覚、触覚、嗅覚、外部の情報を知るための感覚の一切が意味を成さず、ただ白い無の地平線へと魂の第六感が到着する。
意味が分からずただ流されるまま、起きることを受け入れるだけのままで漂う。
そして受け入れ始めた新しい感覚が何かの到来を察知する。自分ではないなにかが自分に触れる。肉体を通過して魂そのものに自分ではない何かが触れる。ただ不思議と不快感はなく、どこか安心感だけがあって樹は無抵抗に触れたそれを受け入れて、あるがままに身を委ねた。
そしてそれまであった真っ白な世界が遠くになり、ブツリと音が鳴って視界が真っ黒に切り替わる。
——声が聞こえた。
驚いたような、不思議そうな、呆れたような、諦めたような、微笑んだような、無邪気な、いくつもの声が重なった人のそれとは明らかに違う。
「……あれ? どうして勇者がこんな所に? ……ま、いっか。求められたのなら叶える。それが僕らの存在理由だからね。隔てなく、君でさえも喜んで招くとも。ようこそ楽園へ。最新の勇者ちゃん」
どこかで聞いたような声、知っているはずの声なのに、樹にはそれが今日初めて聞く声であるような気がしたが深く考えようとする前に思考は闇に覆い尽くされて、それ以上何かを感じることも考えることもなかった。
そして逃れられない浮遊感と落下の感覚と共に樹は奈落の底へと落ちていく。
現実の樹は目の焦点が合わずに物言わぬ、奏でられ続ける神楽の一部と化していた。
そんな樹の様子など関係なく、神楽舞は続いていく。演奏を続ける人形たちとワニー、そこにどれほどの違いがあるのかも分からないまま。
忙しくてなかなか続きを書けない日々。時間をください(切実)