あの子とか、あの子とかが登場する章。
始まります。
意識がはっきりする。気がつくと樹は自室のベットで寝ていた。
——おかしい。先ほどまで自分が何をしてたのかが思い出せない。なにか大事な事があったような気がするが具体的には何も分からない。
ふと気になって時計を見る。デジタル表記の時計には今の時間と日付けが出ていて、それを認識した瞬間、樹は顔から血の気が引いていくのを感じた。
月曜日の朝、普段家を出ている時間なぞとっくに過ぎている。跳ね起きて、急いで身支度を済ませる。
「お姉ちゃんいつもは起こしてくれるのに……」
あまりの自体に気が動転して八つ当たりじみたつぶやきが漏れる。
それは置いといても不思議だった。常ならば樹が寝坊したら姉の風が様子を見に来る事がほとんどだ。姉も寝坊したのだろうか?
そんなことを考えながら制服に袖を通し終え、そこで違和感が気づいた。
「……ん? 部屋、こんなに広かったけ?」
部屋が妙に広い。内装や部屋に置いてあるものは樹自身、覚えのあるものばかりだ。しかし部屋そのもの、間取りがなんとなく広い。
眉をひそめたまま廊下に出て動きが止まった。違和感どころではない。明らかに知らない家の廊下だ。
自分の家はマンションの一室だったはず、だが長い廊下と家の中に階段、この場所は明らかに一軒家の様相だった。
目が覚めて突如自分が見覚えを持った違和感のある部屋と知らない廊下の組み合わせは寝起きの樹を混乱させる。
自分が今どこにいるのかが点で分からない。そう自覚してしまえば道への恐怖で足が固まってしまい、進むことも戻ることも出来ない。
「あら樹、もう起きたの? 今日は随分と早起きね」
廊下に出て一歩目が進めずオロオロしていると声がかかった。
良く知った声、聞き覚えがあるような声を聞いて安堵を覚えながら振り向いて、樹の表情は凍りついた。
声の主は樹の様子に朗らかに笑う。
「もう、どうしたの樹。そんな幽霊でも見たような顔をして。まだ寝ぼけてる?」
そこにいたのは風を成長させ、髪を短く揃えて快活そうな印象を受ける女性。
樹が見間違えることも、間違えることもない。そしてもう見ることも、声を聞くこともありえないはずの女性。
犬吠埼樹と風、二人の両親の片割れ、彼女らの母がエプロンを着た主婦姿で廊下になっていた。
しかしそれはおかしな事だった。彼女と夫、樹達の父は2年前の大橋の事故で亡くなっている。二人の葬式は樹と風が確かに執り行い、お骨も自宅の仏壇に置いてあるはずだ。
文字通り有り得ないはずのものを見た樹はどんな小さな反応も返すことが出来ず、パクパクと酸欠の魚のように口を開いては発語に失敗していた。
「ぷ、ぷはは! もう、樹ったら本当に寝ぼけてるのね。しょうがないわね、早く顔を洗って来なさい。朝ごはん、出来てるわよ?」
そんな樹の様子が面白かったのか樹の母はひとしきり笑って、朝食の準備を終えるために居間に戻っていった。
階段をパタパタと降りていく音だけが表情が凍りついたままの樹がいる廊下に響いていた。
ようやく理解する。樹がいるのはかつては住み、現在は引っ越してしまった家、犬吠埼家があった家だった。
「……ええ、と。その、いただきます」
顔を洗い終え、ひとまず冷静さを取り戻した樹は状況をおぼろげながらも理解しはじめていた。
——寝て起きたら死んでいたはずのお母さんが生きていて朝食を用意してくれていた。
ダメだ、状況が全くこれぽっちもわからない、と内心の自分にツッコミを入れる。
「なんで生きているの?」やら、「どうしてこのお家にまだ住んでいるの?」などなど聞きたい事は思いつくが相手がさも当然であると言わんばかりに日常生活を送っているのを見ていると自分が間違っているのではとすら思い始める。
食机の上を見る。大きすぎてマンションでは使えず捨ててしまったはずの食卓。部屋の中の家具はどれも捨ててしまったはずのものばかり。料理はいつも通り、ただ量が樹一人分だけ並べられている。
恐る恐るという様子で手を伸ばし、スクランブルエッグに口をつける。
「……あ、おいしい。おかあさんの味だ」
ひどく忘れていた味だ。両親が亡くなってからは姉の風が親代わりを務めようとしていた。料理もそのうちの一つ。美味しいけれど、量が多いのが気になるのが風の料理だった。そして味はいつも食べていたお袋の味、親がいなくなっても樹が寂しがらない様に頑張って風が再現した味だった。
そして今はそのオリジナルが目の前にあって、ただのスクランブルエッグですらこれ以上ないくらい美味しいと感じる。
懐かしさとまた食べられた嬉しさに、気がつけば樹は静かに涙を流していた。
口の咀嚼は変わらずに、涙が一雫頬を伝ってこぼれていく。
樹が食事をしているところを見ていた母はそんな娘の様子に狼狽する。
「あれ⁉︎ そんなに辛かった? コショウ入れすぎたかしら……?」
そこで初めて自分が涙を流していることに気がついた樹は慌てって涙を拭い去り、今できる最大限に笑って、
「ううん、気にしないでお母さん。朝ごはん、すっごく美味しかったからびっくりしちゃっただけだよ」
「おぉ! そっかそっか、いやー参っちゃいますなー! そんなにアタシの作るメシは美味しかったかー!」
涙を流した樹には狼狽したが料理を褒められ、母は上機嫌に照れ臭そうにしながらも自慢げに笑っていた。
どことなく調子に乗りやすい風に似た、正しくは風が母親似なのだが、そんな風を思い出させる母の仕草を見て樹は目を細め見つめていた。
そんなこんなで朝ごはんを終え、平日なのだから樹は学校へ向かう。
かつて見慣れていた玄関の収納棚から制服の靴を取り出し足を入れ、軽くつま先で床を蹴って履けたことを確認する。
そして見送りに玄関までやって来た母に振り返る。
「その……、いってきます」
「ええ、いってらっしゃい」
当たり前のやり取りを終えて樹は家を出た。
もう出来なかったはずの、当たり前の家族のやり取りに胸が暖かくなる。
しかしその暖かさも長くは続かなかった。一人になって落ち着いたことで、考えないようにしていた疑問がいくつも浮かんでくる。
今、私は当然のように通学路を歩いている。体は当然のように慣れた通学を多くの道から選別して進める。でも私はこんな道を知らない。お母さんもお父さんに2年前に死んでしまったはず。それなのに昨日まで一緒に生活していた記憶がある。
知らないのに知っている。矛盾した心と体。何が起きているのか正確なことが知りたい。
ひとまずは勇者部五箇条『悩んだら相談』を実行しよう。目的地もするべき事も分からない樹は他者の意見、頼れる先輩たちと姉に頼ろうと行動を開始した。
ポケットからスマホを取り出す。
SNSアプリであるNARUKOを起動して、それ以上進めなくなった。あるはずの勇者部の会話グループが見つからない。昨日だって使ったのだ少なくとも一覧の上の方にあるはず。
しかしいくら探しても見つからず、念のために電話帳を開いてみればそもそも勇者部部員のアドレスが一つも見つからない。それどころか姉の風の電話番号すら載っていない。
唯一覚えていた姉の番号を記憶を頼りに打ち込んで電話をかける。
「お掛けになった電話番号は現在使われておりません」
数回のコール音を挟まず、機械音声は無情に仕事を完遂する。確かに昨日まで姉と繋がっていたはずの番号が無意味なものとなり、頼れるはずの部活の先輩達にも連絡がつかない。
荒野に放り出されたような孤独感と嫌な予感が背筋を凍らせる。
「どうして、どうしてなの!」
半ば狂乱ともいうべき不安定な精神状態で樹は残った通学路を走り抜ける。とにかく状況を変えないと、何かしなければという焦燥感が足を急がせる。
理解の及ばない異常事態に自分はいる。怖くて足が震えて逃げ出したくなる。
それでも樹は逃げ出そうとは思わなかった。残された希望がまだ一つだけあった。
「ワニー先輩なら……、ワニー先輩ならきっと今日も屋上に……!」
根拠のない推測だったが不思議と樹には確信があった。いつもの時間、あの屋上にいればきっと彼に会える。それを疑う気持ちは微塵もない。
いつかのようにきっと自分がいて欲しいと願っていれば叶えてくれるとどうしてか思えてしまう。
窮地に見えた希望に樹は不安な様子は息を潜め、希望へと進む力強さが足取りを軽やかなものへと変えていく。
到着して見た目が変わっていない校舎に安堵しつつ、靴を変え屋上への階段を登っていく。急ぎすぎたから息が上がり自分の荒い息しか耳に入らない。しかしそんなことはどうでもいい屋上への扉さえ開ければまた今日も、あのギターの響きが樹を迎えてくれる。階段を駆け上がり、最後の段を飛び越え、屋上へのドアノブに手をかけ、ひねって回し、
——ガシャン
開かなかった。
「……へ?」
力を入れて回す。
——ガシャン
回しかたが悪かったのだろうか? 反対側に回す。
——ガシャン
そして確認するようにゆっくりと、確実に回していく。
——ガシャン
何度やっても結果は同じ。鍵がかかっているから扉が開かないという当然の現実が樹に突きつけられる。
両手で強く握り、思いっきり押しても、引いてもやはり扉は開かず、ようやく整った息は鳴りを潜め、辺りには樹が扉を無理やり開こうとして鳴った音以外音はなく。いつも小さく扉越しに聞こえていた演奏など影も形もない。
「なんで、なんで! 開いてよ!」
開かない事と状況が一気に積んでしまった事が樹を焦らせる。乗りかかる恐れが重く、気がつけば不安に泣きそうなっていた。
感情の高ぶりが冷静さを奪い取り、気がつけば樹は無意識にスマホを取り出し、勇者へと変身するアプリを起動していた。秒もかからず変身を終え、強化された膂力が鉄製の扉を軋ませる。
バーテックスを倒すのに十分な力を前に扉が耐えられるはずもなく鉄の扉は紙切れのように割かれ、空間を隔てるという機能を失わせた。
壊した扉を乗り越えて樹は屋上へと転がり出た。
何もない。ギターの演奏は聞こえず、そもそも誰もいない。
しんと静まり返った屋上に樹の息遣いだけが残る。
きっと居てくれるとう願いは裏切られ、ワニーの姿などどこにもなく、真に樹の見方となる者は誰もいなかった。
気がつけば長い時間が経っていた。低い位置にあった朝の太陽は大きく動き、夕方前の時刻を表していた。
その長い間、樹は屋上の片隅に背を預け、膝に顔をつけて動けずにいた。己の身を小さく縮こまる事だけが孤独から自分を守れる自衛手段だった。
終業のチャイムが鳴った。
もうここに樹がいる意味もない。
顔を上げた。泣き腫らして残った涙の跡を乱暴に拭って表面上だけは体裁を整える。しかしそんなことをしてもなにかが解決したわけではない。
ここにいる理由などなく、力なく肩を落として樹はもと来た通学路を朝とは逆に歩き始めた。夕暮れに照らされた道を歩き、足が止まった。
また明日も己が知る者達がいない学校に行くのかと思うとそこに意味も意義も見出せなかった。1日の終わりである帰宅に自然と足が遠のく。
だからまっすぐ帰らず、ただ早く家に帰らないために樹は行く当てもなく歩くことにした。
試しに部員達の家に行ってみることにした。友奈、三森、夏凜一つ順番に場所を思い出しながら歩いて行ってみたがそもそも家、またはマンション自体が存在せずただ時間の浪費とそもそも自分が知る者達の存在が消失している事実が分かっただけだった。
ならば余計に分からなくなるのは、かつて住んでいた我が家に変わった自宅と、朝食を作ってくれた母の存在だ。
知っている者の誰もがいなくなった現状で、ただ唯一の知った人物が亡くなったはずの母というのが引っかかる。あれは本当に自分が知る母なのか。
見慣れた顔も、懐かしい食事の味も本当にあれで正しかったのだろうか。もしかしてよく似たものをそうなのだと思い違いをしてはいないなどうか。
疑い始めたら止まらず、あれは自分の母だという証拠がなければ、偽物だと断言する確証もない。
ただ頼れる者が誰もいない状況が樹を追い込んで余裕を奪っていくだけだった。
「——おっ、と、っと」
考え込んで歩いていたからか正面をよく見ずに歩いていた樹は肩にあたる感触で人にぶつかってしまったことに気がついた。ぶつかった人物は樹に軽く当たった事で一歩足を戻そうとしてバランスを崩したらしい、上半身を大きくよろめかせて後ろに倒れこもうとしていた。
しかしぶつかってしまった少女は倒れることはなかった。
しかし完全に倒れる前、樹が反射的に手をのばず前に後ろに回り込んだ人物がバランスを崩した少女を後ろから支える。
「もう、銀。そんなに慌てたらダメだろう。現に人にぶつかってるし……」
「お前はあたしのお母さんか。ってイカンイカン。ぶつかって悪かった。この通りだ」
支えられた少女は支えた少年に悪態をつきつつ、ぶつかってしまった樹にひら謝るする。
ここでやっと我に帰った樹は、
「だ、大丈夫です。私こそ考え事していて前をよく見ていなかった……、……え」
謝罪は最後まで続かなかった。謝りながら顔を上げ、そこにいた人物の顔を見て樹は
言葉に詰まる。
見間違えるわけがない。腰まで伸びていた髪は肩ほどで切り揃えられたことで大和撫子の雰囲気は失われているが柔和な表情や上品な仕草は変わらずに健在だった。
やっと知っている誰かに会えた事で樹は安堵の息を吐き、
「先輩っ! 大変なんです! 私の知っている人が誰もいなくて、ここはいったいどこなんでしょうか」
自らが置かれた状況から助けて欲しいと頼って、その手を取る。
取ろうとして、距離が開いた。
「……え?」
樹は困惑して声を漏らす。顔を上げると、困った顔を作ってこちらを見る和仁がいた。
「えっと、その……、初めまして……、だよね?」
恐る恐るという様子で、確認するように和仁は樹に問いかけた。
今日初めてあった女の子に、まるで知り合いのように話しかけられた、という明らかな困惑の反応であった。
どうしてそんな目で見られるのか全く分からず、樹は思わず詰め寄って、
「私です! 犬吠埼樹です! 覚えてないんですか⁉︎」
「そんなこと言われても……、本当に僕たち知り合い?」
やはり思い当たる節がないのか和仁は困惑をより深くする。
そんな和仁の様子に隣いた少女は目を細め、ふーん、と面白くなさそうに鳴らす。
「ほうほう、和仁さんや。これまた、あー、随分とおモテになるようで。お邪魔ならあたしは帰るけど?」
「いや、だから本当に知らないんだよ、銀。僕が浮気してるとか本当に思ってるの? 君の前だからって知らないふりをしてるとでも?」
「……別に、浮気してるなんて微塵も思ってないけどさ。けど、どう見たってその子、嘘ついてる様子でもないだろ? なら、だいたいこういう場合は男の方に問題があるってのがお決まりのオチだろ?」
「そ、そんな理不尽な……」
銀の一方的な判決に力なく和仁は小さくなって萎れていく。
いつの時代もこういう話題で男子は女子に勝てず、しかし二人は自分達だけの空間を作ってこのやり取りをどこか楽しんでいた。
すっかり蚊帳の外に置かれた樹はただ見ているだけしかできない。
目の前にいるのは髪を短く切り揃えた少年らしい雰囲気の和仁。いつも樹へと向けられていた微笑みの全ては、余さず銀と呼ばれた少女へと宛てられ、その銀もまんざらでもない様子で笑って受け取っていた。
二人の意識から樹が消え去り、互いだけを見つめている。どこにも樹は介在する場所などありはしなかった。
見れば分かる。目の前の少年と少女は互いを思い合い、大切にしている。
和仁の隣に立っているのは樹ではなく銀。
瞳に映ったその事実が重くのしかかる。
——その場所は私がいたはずなのに。私の場所なのに……
心に湧いた黒い感情は生まれて、でも直ぐに消えてしまう。
分かっているのだ。自分は何も行動していない。だからそれに文句を言う資格などはない。
ただ気がつくと何もかもを奪われ、奪われてしまった後を見るだけしかできないというのは余りにも理不尽だと、心の中で言葉未満のつぶやきが泡となって、弾けて、消えた。
くちびるを噛み、泣きそうになるのを必死に堪える。
奪われた跡だけを見せつけられて、それでも残った小さなプライドが涙を押し止める。
泣いてしまったら、負けを認めるような気がして、しかしそれも長くは続かず、あなたは一体誰なんですか、と八つ当たりにも似た攻撃的な叫びを銀に向けようとして、
「あー、やっと見つけたよ。もう、こんなに動き回って……、探す身にもなって欲しいよ」
三人に乱入した声が樹を牽制した。
現れた声の主の方へ三人は振り向く。やってきた声の主は片方をあげ、のんびりとした様子で歩いてきていた。
「やっほー、かずくん。今日も銀ちゃんとアツアツだねー。ヒューヒュー」
「からかわないでよ、あっちゃん。僕たちは今日もいつも通りさ」
「……そのいつも通りがアツアツなんだけどなー。ま、いっか。……そうそう、今日は君に用事があったんだった」
思い出したようにやってきた少女は樹の方へ振り向き、その顔を見て樹は眉をひそめた。そこにあったのは紛れもなく結城友奈の顔だった。樹の知る友奈とは少し背が低い他に肌が色黒ではあるが顔はそっくりそのままだった。
「え、ゆうなさ——」
「おっと、話は後にしよう、ね? という訳でかずくん、この後輩ちゃん貰っていくね?」
樹の発言を彼女の唇に指を当てることで中断させ、確認のために和仁へ振り向いた。
和仁はうなづきをもって返答し、樹に向き直って安心したように笑みを作った。
「……えっと、犬吠埼さんだっけ? 僕に君の事情はよく分からないけど、そこにいるあっちゃん、赤嶺友奈が君を助けてくれるみたいだ。もし助けがいるのなら僕らを頼ってもいいからさ」
「何、さらっとあたしも頭数に入れてんだよ」
「でも銀ちゃん、頼ったら助けてくれるでしょ?」
「……そりゃあ、そうだけどさー、なんかお前に主導権を握られてると腹立つ」
「今日も銀ちゃんは理不尽だなぁ……。」
「やならやめるぞ?」
「これでやめられないのが惚れた弱みってやつだよねぇ……」
言っていて、恥ずかしくなったのか二人は背中合わせになって、頭を掻いたりし始めた。その顔は赤く、熟れた林檎の色だった。
「うへー、ここにいたら私まで暑くなってくる。それじゃあ、二人ともまた今度。お邪魔虫は退散することにしますよ、っと」
「えっと、あの……」
友奈は照れ臭そうに首元を仰いで風を送る仕草を作って、暗に二人に文句を垂れていた。
踵を返し、友奈は樹の手を掴んだまま歩き出し、樹はそれに引っ張られて連れられた。
樹を掴む友奈の握力は尋常ではなく、樹の骨が少し軋む程だった。樹がいくら声をかけても友奈は返事をせず、そのまま二人はしばらく歩き、学校に到着し、樹が壊した扉をまたいで屋上にやって来た。
どうしてか道中、平日の放課後でありながら生徒の誰にもすれ違わない。
いつの間にやら先ほどまであった緩い空気は霧散し、鋭い刃物のような緊張感が友奈から発されている。
屋上の中ほどでやっと足を止め、手が解放された。掴まれていた手は色が変わり、思わず樹は痛む手を守るように反対の手で隠していた。
振り返って互いの目が合う。もう樹は目の前の少女から見知った結城友奈を連想することは出来なかった。結城友奈からは見ることができない純粋な殺気を友奈は纏う。
「ねえ、貴女。何者?」
声には優しさは微塵もなく、攻撃の色が樹へと向けられている。
「わ、私は讃州中学の犬吠埼樹——」
「そういうことを聞いてるんじゃないの、分かってるよね?」
瀬戸際で抑えられていた殺気が動きとなって現れる。
ポケットからスマホを取り出し、アプリの起動画面に切り替える。
人の身で神の力の一部を行使するための装置。
「……ゆ、勇者の変身アプリ?」
見覚えのあるそれの名前を思わず呟く。
「へぇ……、これを知ってるなら、やっぱり貴女も勇者なんだ」
「あなたもって……」
樹の言葉によって、ようやく確信を持てたのか友奈は笑い、
「——変身」
アプリを起動し、姿が変わる。私服姿は赤い非対称な戦装束へと変わり、右腕に装着された大型の打撃用手甲が威圧感を放ち、樹へと向けられる。
腰を落とし、戸惑う樹など気にせず、友奈は殺す為に構える。
「——それじゃあ、どうやってここにやって来たのか、その方法だけ話したら、さっさと死んでくれるかな? 異物ちゃん?」
楽園の守護者、勇者である赤嶺友奈がその武をもって楽園の異分子である樹へと襲いかかった。