現れた黒髪の少女、千景は手に持った鎌の刃を友奈に見せることで牽制とした。
「いいかしら、赤嶺さん。この子の身柄は私が預かるわ。良いわよね?」
確認の言葉であったが、それはどう聞いても質問をしている言い方ではなく、ほぼ強制という様子だった。
問われた友奈は構えを解いてから深く息を吐き、
「はぁー……、断ったら本気でこっちのこと、潰しにくるんでしょう?」
「当然でしょ? どうしてそうならないと思うの?」
「あー、やだやだ。これだから話が通じない人って嫌いなんだよ。自分ルールで生きてる人ってほんと厄介」
「あら、私はあなたのこと、結構好きよ?」
千景の言葉に友奈は降参だと両手を挙げ、半目になって、
「……私の友奈要素以外で?」
「そこ以外は特にないわね」
千景はしれっと、特にこともなさげにそう言った。呆れた友奈の視線が千景を貫くが、当の千景はどこ風吹くという様子だった。
「あー、もうやだこの人。世界の価値基準が高嶋先輩か、その他になってるよ」
面倒な先輩にからまれた友奈は、もう嫌だと言わんばかりに身振り手振りで嫌そうな様子を見せ、あっさりと変身を解除した。
「じゃあ、私帰るんで、後のこととその子のこと、お願いしますよ、先輩。……またね樹ちゃん。多分また会うけど今度は仲良くできると、……いいね?」
最後は少し疑問系であった。
そう言って友奈は屋上の端から飛び降りて、姿が見えなくなった。
「……って、え⁉︎」
あまりにも友奈が自然に飛び降り、千景がそれに何も言わなかったから樹の反応が遅れた。様子を見ようとして駆け寄ろうとした樹を千景が制止する。
「あぁ、大丈夫よ。彼女、変身しなくても、元から学校の屋上くらいの高さなら無傷で着地できる人だから」
「人……?」
普通、人間は10メートル以上の高さから飛び降りて平気で済むのだろうか?自分は至極真っ当な疑問をしていると思うが、あまりにも千景の反応が平素のそれだと、自分が間違っているような気がした。
涼しげな表情の千景は樹を見て、あら、と樹の頬へ視線を固定した。
見れば友奈に殴られた箇所が大きく腫れ、痛々しく赤らんでいた。
「……仕方がないわね」
そう言って千景は手に持った大型の鎌を構え、なんの躊躇もなく樹に振り下ろした。
「え、はい⁉︎ って、あれ? どこも痛くない?」
振り下ろされた鎌は確かに体を通過して体を割いたはずだった。しかし体に痛みはなく、傷もない。
そう、先ほどまであった打撲痕、内出血、擦過痕、腫れ、その他の傷と言えるもの、一切が消失していた。
驚いて己の体をペタペタと触る樹に千景は申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい、樹ちゃん。私、キズをなかったことにできるけど、元からない胸は治しようがないの」
「今まさにキズを作りましたよ⁉︎」
優しいのかそうでないのか、全くわからない人だった。
樹の反応を見て、自分が面白いことを言えなかった事を察し、千景は今度は本当に申し訳なさそうに頬に手を当て、
「……ごめんなさい、場を和ませようと頑張ってみたのだけれど、ダメだったみたいね。
私、幼少期に母が不倫かましてから崩壊した家庭のせいで村単位でイジメに遭っていて、友達なんて人生のラスト二年で出来て青春する前に、そのまま死んだものだから面白い冗談とかどう言えばいいのか分からないのよね。次までに面白いこと考えておくわ」
「——」
あまりにも悲惨な過去をあっさりと言うものだから、樹はあんぐりと口を開けたまま言葉を失った。
「口を開けているのに閉口。へー、こういうことかい。……イケるわね」
——何をもってイケると思ったのか、どこが面白いのかを懇切丁寧に説明してほしい。というか、今——
「死んだって言いました?」
確認するように樹は恐る恐る問うた。
「えぇ、西暦2019年の6月が私の命日よ。仲間を背中から刺そうとして、逆に死んだわ。アッハッハ、なかなかマヌケな死に様ね」
特に重要でもないのか千景はあっさりと認め、乾いた笑いが屋上に響いた。ついでに死因も判明した。知りたくもない事も含め、情報が多すぎる。
「……あー、ここは死後の世界かー」
もう、頭が痛くなった樹は気が遠くなって、そのまま後ろに倒れこんだ。思考放棄することで己の脳とか心とかを守る。考えて頭を悩ませること自体が間違いなのだと精一杯、自分を慰める。
様々な疲労に負けた心と体は精魂尽きはて、力が抜けた事で動かなくなった。
「あら、病弱キャラ? 実は伊予島さんていう先発がいるからキャラ被りってやつね。……そういえば私、あの子が病弱なところ見た覚えがないのだけれど。これってキャラの雑な消費ね。後からキャラ被りを気にしなければならないから、あまり良くないのよ」
はっちゃけた郡千景は絶好調だった。
●
気がつくと、樹は暖かく、柔らかい布団に包まれていた。
むくりと上半身を起こし、周囲を見る。保健室独特の仕切りが目に入り、ここが学校の保健室だということが分かる。
「ええそうね、やはりここは意味もなくナースのコスプレでもして視覚的にあなたを楽しませる場面よね? 小説かゲームで読んだわ。でもあなた、起きるのがちょっと早いわ、まだ上しか着替えていないのに、もったいない」
制服のスカートの上に上半身だけナースの制服という奇妙な出で立ちの千景が真剣な様子で言った。手にはこれから着ろうとしたのか、ナース服のスカートが広げられていた。
さっき見えてはいたが、あまりにもバカバカしいものだから、意識的に視界から排除していたのに、どうしてこの人は空気を読んで存在感を消してくれないのだろう。
この人が現れてから緊張した空気が何処へやら消え去り、気の抜けた空気で満ちてしまっていた。
こんな状況を起こす様な珍妙な人間性を内包しているくせに、見てくれだけは一級品なのが余計に樹の眉をひそませる。
じっと見ると余計に思う。一級品の見た目だからこそ、耳に目立つ傷跡はよりはっきりと存在感を放っていた。
「何をそんなにボーッとしているのかしら。もしかしてこの傷? あぁ、いいのよ。ちょっと昔、イジメでやられた傷よ。なかなかアバンギャルドでしょ?」
過去のイジメの跡ですら、なんでもないように軽く言う千景に樹は眉をひそめる。
「その……、辛くはないんですか?」
何がとは言わない。痛々しく耳に残った傷は、どう見ても一生涯残るもの。普通は隠したがるものだろうに、それを堂々と見せる千景の内心が樹には分からなかった。
返ってきたのは微笑だった。
「あら、樹ちゃんは悲しい出来事は蓋をして、出来るだけ思い出さないようにして生きていくタイプ?」
「少なくともイジメにあった過去は大っぴらにはしないかな……、と」
「まぁ、普通はそうよね……」
一息ついて、千景はベッド横のパイプ椅子に腰を下ろして続ける。
「あなたもいずれ分かるわ。過ぎていった過去はどこまでいっても過去でしかなくて、たまに追いついてはくるけれど、それでもどうしたって否定できるものではないし、結局はそれも今の私を作った血肉の一つでしかないのよ」
「それって……」
「受け入れる事もまた力であり成長。案外、嫌な思い出があるのも悪いことじゃないって思うようになるわ。時間だけはあったから、考えるには事欠かなかったわけだし。
まぁ、私の身の上話なんていいのよ。立場上、色々と私はあなたに聞かないといけないのだけれど、あなたがどうしてここにやってきたのかはなんとなく察しているから、実は聞く意味がないのよね。逆にあなたから質問はある?」
「ずっと聞きたかったんですけど、結局ここはどこなんですか? 讃州中学みたいだけれど、私が知っている人は誰もいなくて、唯一見つけたワニー先輩は私の事を知らないって……」
状況がわからず、更に自分を知っているはずのワニーの態度を思い出して樹は肩を落とす。
そんな樹の様子を見て、千景は肩をすくめて笑った。
「まぁ、ここがなんなのか分からないと混乱するわよね。いいわ、樹ちゃん、ちょっと歩きましょうか。教えても支障のない範囲で少し、この世界の真実を教えてあげるわ」
●
学校を出た二人は道をただ歩いていた。しばらくすると人通りの多い方へたどり着く。
街の中、道脇のベンチに二人して座る。
「ねぇ、樹ちゃん? あれを見て頂戴」
そう言って千景は手で正面見るよう促した。
目に入るのは大通り。買い物をする主婦、学校帰りに遊ぶ女学生の集団、仕事の途中のサラリーマン、呼び込みを行う店員。
言ってしまえば、当然の日常がそこにあり、特別気になるものはない。
どれを見ろと言われたのか分からなかった。
その様子を見て千景は納得がいったように呟く。
「やはり正規の受け入れと同じように扱われているのよね。でもここがどこか分かってはいない。いわゆる裏口入学に当たるのかしら?」
状況を何となく理解し始めた千景はひとまず納得すると、何もない空中から大型の鎌を取り出した。
「——っ! 街中で一体何を——。……あれ?」
千景が鎌を取り出したことで驚いた樹だったが、周囲の様子の変化のなさに気がつく。
普通、街中で鎌を持った人が現れたら、それなりに騒ぎになるはずだ。しかし街を歩く誰も千景には目をくれず、各々の日常を進める。
深く息を吐き、祝詞を奏上する。
「言葉とは力である。これは葉を刈る刃であれば、それは意味を成さぬ」
手にした刃を力強く振るった。刃は風を鳴らし、何かが揺れた。
もう不要になったのか、千景は鎌を空中に消した。
振り返って得意げな顔、俗に言うドヤ顔を千景は樹に見せた。
「なかなかかっこいいでしょ? 三日くらい悩んで考えたオリジナルよ。」
「ふざけないと死んでしまうんですか?」
思わず真顔になっていた。
まあまあ、と言って千景は手近な地面に手を伸ばし、
——思いっきり
「——」
息を飲む。空間を掴み、めくりあげられるという、言葉にしても意味のわからない状況に樹は見ているしかできず、
「——よっと」
少しかかとを浮かせ、千景は紙のようにめくりあげた空間の一端を指で突き刺し、めくったままに固定する。
先ほどと同じように、樹に見るように促す。
少し身を屈め、めくられて闇しか見えない空間を覗き込む。
「——っ!」
そこにあったのは『ナニカ』だった。
色とりどりの色彩の光が集まって形を作り、道を、建物を、人を、ここにある何もかもを形作っていた。
「……これは一体?」
「まぁ、何というか、テクスチャって言葉で、分かってもらえるかしら? ……そう分からないのね。別に責めたりしないわ、要は化けの皮を剥いだのよ」
「それって一体……」
困惑した樹が言葉に困っていると二人に呼びかける声があった。
そちらを振り向くと女生徒の集団の中から千景を呼ぶ声があった。
そして樹は気づいた。テクスチャを剥がした視界越しでも、その女子生徒だけは他の全てのように光で形作られておらず、本来あるべき姿に見えていた。
同じように屈み、覗き込んだ千景がその女生徒を指差し、
「あれは私と同じように招かれた子。名前は確か……弥勒ナントカさん。あなたをボコった赤嶺さんの友達らしいわ。あれとお友達やってたなんて、きっと高嶋さんに似た聖人のような人格なのでしょうね」
「けっこう散々に言いますね」
「いいのよ、結構気心知れた仲だし。それに人殺しなんて、どうやったってろくでなしに違いないんだから」
自嘲するように千景は笑ってみせる。
「ひ、人殺しって……」
「ええ、あの子も私も、人を殺めたわ。それがこの楽園の守護者の雇用条件のようだし、そういう繋がりで私たち、互いに遠慮がないのよ」
なくならない過ちを千景は出身校を告げるような軽さで告白した。
絶句して何も言えなくなった樹に千景は肩をすくめ、
「平和な時代だとそういう反応になるわよね。私たちの時代は特に倫理観とか壊れた状況だったし。まぁ斬られた和礼さんが気に病むなっていうから、私は気にしないことにしてるけど」
「ともひろさんというのは?」
「和風の和に、お札の礼で和礼。変な読み方の名前だって彼女、いつも言ってたわ。何だかんだ仲も良かったし、……そう言えば彼女の遺言を聞いたのも私だったわね」
「そんなに仲が良かったのに、千景さんが手をかけたんですか?」
楽しかった思い出を思い出すように、語る千景に樹は事実との齟齬を感じた。
樹の質問に千景は少しだけ悲しそうな哀愁のある笑みを作って、
「仕方がないことだったのよ、彼女は神稚児で、殺せるのは神の力を持った勇者だけだったから。それに、他の人にこれを背負わせたくなかったから……」
「千景さん……」
仕方がなかったという言葉に後悔する声があった。
きっと自分からは測りきれない彼女たちの物語があってその結果、千景は友人を手にかけ、ここにいるのだろうと樹は想像するしかなかった。
辛い過去を聞き出そうと思わないし、答えてくれるとも思わない。
ただ一つ、聞きなれない単語があったから、話題を変える意味もあって聞いて見ることにした。
「神稚児というのは?」
「あぁ、そう。あなた達の時代では口伝ですら、規制されているのだったわね。ま、言ってしまえば生贄よ、生贄。そんな物に適性を持って生まれてくる人間が世の中にはいるのよ。」
「生贄って……」
物騒な言葉を聞いて樹が身をすくめる。
それを見て、千景は手を大きく否定の意味で振って、
「あー、そんな暗いものではないのよ。本人もバリバリの武闘派だったから、神稚児の性質もあって一人で日本まるごと守るくらいには元気な人だったのよ」
「それがどうして、最後は千景さんがその……、殺すことに?」
「それも神稚児の性質のせいね。最後の方は見ているこっちが辛いくらいだったわ……」
あまり思い出したくないのか、千景は言葉をぼかして伝える。
話してみて、少しだけ樹はこの少女、千景のことを理解し始めていた。
強い人だと樹は思う。
時折頭が痛くなるような冗談や漫才じみたことを平気するが、それは内側を隠すためのカーテンのようなもので、少しだけ見える本人は取り返しのつかない過去や痛みを受け入れ、仲の良かった友達を思いやる人だった。
そんな樹の内心が視線で伝わったのか、千景は恥ずかしそうに頬をかいた。
「その和礼さんはここにはいないんですか?」
「えぇ、神稚児はこの楽園、ひいては『大命』の完成には邪魔でしょうからね。やっぱり招かれてはいないわ。他の何人かの勇者や巫女も拒否して来ていないようだし」
「ここは一体何なのですか? 千景さんの言っていることをまとめると、まるで死んだ人ばかりがここに集められているみたいで——」
話す樹を、千景が手を出して制止する。
首を振り、それ以上の発言をやめさせる。
「樹ちゃん。あなたが勝手に想像することはあなたの自由だけれど、私からはなにも言えないわ。言ってはいけないの」
またもや何もない空中から鎌を抜き出し、千景は鎌を大きく振るう。
周囲の景色が歪み、エレベーターに乗った時のような体のゆらぎがあって。元に戻ると二人は橋の上にいた。
樹はこの橋に見覚えがあった。
瀬戸大橋だ。今では大事故で損傷し、使えなくなった大橋は、ここでは確かに健在だった。二人は瀬戸大橋の端、柵を乗り越えれば海に落ちるようなぎりぎりの場所にいた。
「橋というのはね、天と地を結ぶ場所。霊的に場所としてはとても曖昧なのよ。ここから飛び降りれば正規の方法で入っていない、あの子との繋がりの浅いあなたなら、元いた場所に多分戻れるわ。……その、死ぬほど痛かったらごめんなさい。」
「その、助けてくれて、ありがとうございます」
「礼なんていいのよ。出て行ってもらった方が私も楽ができるし、お互いに困らないから、これでいいのよ」
樹が柵の上に立つのを手伝い。千景は近くの手すりに体重を預け、成り行きを見守り姿勢に入った。
最後に振り返って、樹はここまで聞けずにいた質問を、無駄かもしれないと思いつつも、聞かずにはいられなかった。
「千景さん、ダメだったら答えてもらわなくてもいいです……。ただどうしても知りたいんです。どうして、死んだ人ばかりのこの世界に、生きているはずのワニー先輩が、鷲尾和仁先輩がいたんですか」
この世界で出会った和仁は樹を知らないと言い、この世界は死人と世界を形作るナニカが暮らしている世界なのだと予想した。そうすると今も生きているワニー先輩がいるのはおかしい。
疑問はそこに帰結する。
沈黙がしばしあって、
その質問に千景は何かを察してため息をつき、目を細くして、
「はぁ、そう。彼と知り合いなの。ここに迷い込んだのもそういう……」
呼吸で区切ってから続け、
「樹ちゃん、悪いことは言わないわ。彼とはこれ以上関わるのを辞めなさい。これは親切心からの忠告よ」
「ど、どうして、そんなことを言うんですか!」
千景の一方的な物言いに樹は食らいつく。それに対して千景は少し語気を荒くし、言い聞かせるように言う。
「このまま彼といるとあなた、不幸になるわよ」
「和仁先輩はそんな人じゃありません!」
違うと言葉を並べる。それを見ても千景の態度は一貫している。淡々と続ける。
「でもあなた、彼のことどれだけ知っているの? 何を知っているから、そんな風に断言できるのかしら。はっきり言うわ、私の方があなたよりも彼のことを知っていて、その上で私は忠告しているのよ」
樹はたじろぐ。構わず千景は樹を見て、
「彼がどう言う人で、何をしていて、何を隠しているのか、少しでもあなたは知っていて?」
「……それは」
何も答えられなかった。答える言葉を樹は持っていなかった。千景はそれを知っている。
出発点から違うのだ、言い合いにすらならないのは明白だった。
でも、言われているだけなのは嫌だと思う。
知らないからいい負けてしまうのは受け入れ難くて、悔しくて。だから、
「私は何も知らないのかもしれません。でもそれは、今はまだ知らないだけです! これからいっぱい、お互いのことを知って、それで、それで私はその先へ。
まだ自分がどうしたいかなんて分からないけど、でもいつか、自分のしたいことを見つけるんです! そうあの人と約束したんです!」
涙を溜めながら、樹は精一杯の去勢を張った。
樹の言葉を聞き、千景は何も言わずただ見つめる。そして諦めたように息を吐くと、背中を手すりに預けて思いっきり背中を伸ばして戻す。
そして晴れた表情に戻り、
「……そうよね、そういうデリケートな場所は他人に触って欲しくなんかないわよね。ごめんなさい樹ちゃん。危うく知り合いみたいな感じになるところだったわ。千景、反省。……ちょっとおせっかいが過ぎたようだわ。ま、ひどいことにならないよう頑張りなさい。先達としては、これくらいしか、かけられる言葉がないけど、幸運を祈ってるわ」
うなづき、千景の言葉に対し、海へ思い切りよく飛び込んだのが樹の答えだった。
不安が立ち込める方向へ、勇気を持って一歩を踏み出した。
落ちていく浮遊感を感じながら、水面が迫り来る。しかし目を閉じたりはしない。見えていないものも、必ず見つけようとする勇気がそうさせる。
水に当たる瞬間、やってきたのは衝撃と痛みではなく、薄い膜を破って突き進むような感覚。来た時のような無重力の浮遊感と存在が薄れる感覚を感じながら、樹の意識は戻るべき場所へと進み、意識は白く染まっていった。
●
樹が飛び降りた後を千景は確認していた。
しばらく待っても水死体は上がってこないことを確認し、一安心してホッと息をつく。
ここは一方通行の世界。入ることはできても、本来は出ることはできない。もっとも、今まで出て行こうとするものもいなかったし、今回のような非正規の侵入も初めてのことだった。
「あーらら、ぐんぐんセンパイ、やっさしー。別に処分しても良かったんだよ。そもそもこんな風に入ってくる人なんて今までいなかったんだから、消しちゃった方が後腐れないだろうに」
いつの間にか横にいた友奈が、同じように樹が消えた地点を見下ろしながら言った。
友奈を半目で見て、千景はつまらなさそうな様子で言う。
「彼女も勇者なのよ、だったらいずれここに呼ばれる資格はあるわ。その時を決めていいのは私たちじゃないの。自然な成り行きで来る方が絶対にいいわ」
ふーん、と興味なさそうにした友奈が首をかしげ、
「しっかし、原因が事故だと仮定して、神稚児様は何を考えてるんだろうね。『大命』だけを考えたら、今やってることって意味がないような?」
「さぁ? 神様に片足突っ込んでる人の考えなんて、それこそ神様にでもならないと分からないんじゃない?」
「それもそっかー」
話しながらどうでもよくなったのか、雑談に話を切り替え、楽園の守護者二人は帰りへの道を並んで歩いて帰りはじめた。
大命が始動するその日まで、服役者である二人は種であるこの世界を守護していた。
●
水に沈んでいた体が浮上するような感覚を経て、樹は自分の体の重さを実感した。
目を覚まし、起き上がる。
起こした上半身からの司会で、自分が布団に寝かされているのが分かった。
近くには持たされていた神楽鈴が置かれ、周囲を見渡してもワニーがいない。とりあえず起き上がり、体に異常がないか見ていると不意に扉がノックされた。
返事を待たず扉が開かれるとそこには白い、神官服を着たままのワニーがいた。
「あっ! 樹ちゃん、目が覚めたんだね!」
心底ホッとした様子で樹に駆け寄る。
「えっと、そのワニー先輩……」
「あ! 儀式のことだったら大丈夫。樹ちゃん、意識がなくても問題なかったからそのまま終わらせちゃったよ。いやーびっくり、終わってみたら樹ちゃん、意識がないものだから、とりあえず布団に寝かせて救急車を呼ぼうか迷ってたんだよ。でも起きて良かったー」
本当に心配していたようで、目元には小さく涙が溜まっていた。
——あなたは彼のこと何も知らないのね。
不意に千景の言った言葉を思い出す。
どれほど彼のことを知っているのか、樹自身分からなかった。
心配してくれていたこの様子も、もしかしたら演技なのかもしれない。疑いだせば何も信じられなくなる。まるで千景の言葉が真実であるかのようで。
だから意思を固め、見るべき方向だけを見て、樹は決意する。
未だ安心した反動か、喋りを止められないワニーの前に立つ。
「あれ、樹ちゃん、どうかしたの? やっぱり、どこか悪かった、だったら今すぐ——」
言葉はそれ以上続かなかった。否、続けさせなかった。
神官服の襟を掴み、力強く引き寄せ、唇で塞いだ。
驚いたワニーは目を大きく見開き、ただ黙ってされるがままだった。
唇を重ね、その時間がまるで永遠のように、二人だけの間で続いて、
「——ぷはっ!」
息が苦しくなってやっと離れた。
「い、樹ちゃん、い、いったい何を——」
驚いて顔を赤くするワニーを見る。息苦しさか、それとも恥ずかしさからか真っ赤になったまま、宣誓するかのように樹は真っ直ぐにワニーだけを見て言った。
「わたし、先輩のことちっとも知りません。好きなものも、嫌いなものも、本当に何も。でも、誰にも、わたしの気持ちの邪魔なんかさせません。もう何も知らないなんて言わせません。
あなたの何もかもをわたしは知って、その上であなたを好きだと言います。わたしはもう、あなたしか見てませんから。だから、覚悟してください、和仁先輩」
暴力的ともとれる宣誓を合図に、物語は始まった。
もう他事などには惑わされない。ただ真っ直ぐにあなただけを見るという誓いの言葉で樹は自分の思いを見せつける。
物語はここに堂々と幕をあけた。
結末を知る者など、どこにも存在しない。だってこれは彼女が自分の力で進み、見つける物語なのだから。
これは犬吠埼樹のためだけの恋の物語だ。
というわけで、これにてプロローグは終了です。
これから本格的に樹ちゃんも恋の物語がスタート。
しばし更新は止まりますが、二週間後には帰ってくると思いますので、どうかよしなに。