話は少し戻って。
ランスが魔人ワーグを抱いた日の前日の事。
「……それで、話とは?」
そこは魔王城の最上階にあるホーネットの部屋。
ソファに掛ける部屋の主がそう尋ねると、
「実はな……と、そうだ。その前にちょっとサテラの事を聞きたいのだが」
その正面に座る男、話があるからとこの部屋を訪れたランスがそう答える。
「サテラの事ですか?」
「うむ、まぁ参考までにな。ちょいと小耳に挟んだ話なのだが、お前とサテラは昔っからの幼馴染なんだってな」
「えぇ、そうです」
小さく頷くホーネット。彼女は魔王ガイの一人娘であり、この魔王城で生まれ育った存在。
そんなホーネットの遊び相手になるようにと、幼き日にガイが人間世界から連れてきた少女、それがサテラである。
「ならホーネット、お前はサテラが魔人になる前から知ってるって事だよな」
「そうですね。私がサテラと出会ったのは彼女がまだ魔人になる前の事ですから」
「ならその時の……魔人になる前のサテラってのはどんなもんだった?」
「どうと言われても……今と比べて性格などは変わっていませんし、私の目で見る限りでは至って普通の人間の少女だったと思いますが」
「ほうほう……」
100年以上も昔、遠い過去の記憶を思い返しながらホーネットがそう答えると、ランスが興味深そうに相槌を打つ。
「普通の少女、か。て事はやっぱ人間だった頃のサテラはあんなに強くはなかったんだよな?」
「えぇ、そのはずです。普通の人間の少女だったサテラがあれ程に強くなった事、ガーディアンメイクの才能に目覚めた事などは全て魔人化した事による影響でしょう」
「だよなぁ……だとするとやっぱこれか……」
ランスは顎を擦りながら、とても難しそうな表情でむむむと唸る。
その悩みの様子、そして先程からの質問の意図が見えてこなかったのか、
「ランス。貴方は何を気にしているのですか?」
ホーネットはそう尋ねてみた。すると、
「いやな。実は俺も魔人になろうと思ってよ」
ランスは突然そんな事を言い出した。
「……え」
それは全く予期せぬ言葉だったのか、ホーネットは放心したように呟く。
「……貴方が、魔人に?」
「おう」
一方のランスは至極真面目な表情。
すでに覚悟を固めているのか、気まぐれや冗談などで言っているようには見えなくて。
「……けれど何故、急にそんな……」
「なんだ、俺が魔人になったら駄目か?」
「……いえ、別に駄目という訳では無いのですが……何か理由があるのですか?」
この時ホーネットは話しながらも、ついそのような光景を想像してしまった。
ランスが魔人になる。それは自分と同格の存在になるという事。共に派閥戦争を戦い、そしていずれはこの魔王城で共に魔王に仕える日々を送る。
それは中々に悪くないのでは。いやむしろとても満ち足りた日々になりそうな……。
……と、ホーネットはそんな感想を抱いてしまったのだが。
「理由か。それはワーグを抱く為だ」
しかしそんな思考は次の瞬間には彼方の先へと吹き飛んだ。
「……ワーグ?」
「あぁ。俺様も色々考えてみたのだが……やっぱりあいつを抱く方法は何も思い浮かばんのだ。となるとこれはもう小細工抜き、正攻法であの眠気を突破するしかないと思ってな」
「……正攻法と言うと……ワーグの眠気を自力で耐えるという事ですか?」
「そ。あの眠気はより強い相手には効果が薄くなるって話だったろ?」
「……まさか、貴方はそれで魔人に……?」
事がエロ目的だとは想定していなかったのか、驚愕の表情を向けるホーネット。
そんな彼女に向けてランスは「その通りだとも」と事も無げに言い放つ。
「だって魔人になりゃあ普通の少女だったサテラでもあれだけ強くなれるんだろ? ならすでに最強の俺が魔人となりゃもっと最強、恐ろしい位に強い魔人になるはずだ」
「……それは、そうかもしれませんが……」
「だろ? きっとお前よりも強い魔人になるに違いないぞ。そこまで強くなりゃさすがにあの眠気にだって対抗出来るはずだ。つー訳でホーネット、この前倒したメディウサかレッドアイの魔血魂をくれ」
全てはあの強烈な眠気を耐えて、魔人ワーグとセックスする為。その為だったら『魔人ランス』になる事だって何のその。
故にこうしてホーネットの部屋を訪れ、魔血魂を受け取りに来たランスだったのだが。
「……ワーグの眠気を耐える為、ですか。そのような理由で魔人になるなどとても勧められるものではありません。考え直した方が賢明でしょう」
「なに?」
しかしホーネットは魔人化というアイディアに賛成してくれないようで。
その瞳を真っ直ぐ合わせたまま、ランスが想定していなかった魔人化の欠点を指摘し始める。
「第一に、ワーグの眠気は魔人であっても効力を及ぼします。だとしたら魔人になったとて必ずしもあの眠気を打開出来るとは限りません」
「それは大丈夫、そこらの雑魚ならともかくこの俺様が魔人になるんだからな」
「第二に、貴方は魔人になると簡単に言いますが、どのようにして魔人になるつもりですか?」
「だから魔血魂だ、魔人になるなんて魔血魂を食えばいいだけだろ? 肝心の魔血魂もこの前潰したヤツらのが余ってるはずだし」
「魔血魂を摂取すれば魔人となれる……確かにそれは間違ってはいません。しかしそれは初期化された魔血魂に限った話です」
初期化された魔血魂。それは魔血魂の中に宿る魔人が完全に消滅している魔血魂の事を指す。
魔人は死ぬと魔血魂になるが、それは完全なる死とイコールではない。魔血魂となった魔人は言うなれば休眠状態のようなもので、場合によっては復活する事だって可能となる。
故に魔血魂の中で眠る魔人を初期化する事、それこそが魔人にとっての完全なる死。そして魔血魂を初期化する事が出来るのはこの世で唯一人、魔人を統べる存在である魔王だけとなる。
「ここに美樹様が居ない以上、ここに初期化された魔血魂はありません。初期化された魔血魂でない以上、摂取しても必ず魔人になるとは限りません」
「げ、そうなのか?」
「魔人を作るというのは魔王の権能、ならば魔王が意図していない魔人の存在が許されるか、そう考えればおのずと分かる事でしょう。あるいは適合次第によってはメディウサやレッドアイが復活するという事もあるかもしれませんが」
初期化していない魔血魂を摂取して魔人となるのはギャンブルのようなもの。確実に魔人となりたいなら初期化した魔血魂が必要となる。
その事を考慮していなかった、というか知らなかったランスは困惑したように口元を歪める。
「……ぬぅ、なら美樹ちゃんから初期化した魔血魂を貰ってこないと駄目って事か。ヤベェな、時間的に間に合うかどうか分かんねーぞこりゃ……」
「……ランス。その点が貴方に魔人化を勧められない一番の理由なのですが……」
そう前置きした後、ホーネットは相手を見定めるような真剣な目付きを向ける。
「そもそも魔人とは魔王様に対して絶対服従を誓う存在です。貴方は魔人となった後、美樹様に絶対服従するつもりがあるのですか?」
「無い」
「でしょうね。しかし、だとしたら貴方に魔人は向いていません」
清々しい程の即答だったが、そう言うだろうと分かっていたホーネットに驚きは無かった。
つい先程、ふと魔人になったランスとの日々を想像してしまったのだが、しかし考えれば考える程に無理筋というか、唯我独尊人間のランスに魔人として生きる事など到底不可能だと断言出来る。
(……ランスの性格を考慮すると……魔人というよりはむしろ──)
「けどなぁ、もう魔人になる以外にあいつを抱く方法が……。なぁホーネット、お前はあの眠気に対抗する方法とか知らねーのか?」
「……さぁ」
何事かを考えていた途中で話しかけられ、思考を中断したホーネットは小さく息を吐く。
「……ワーグの眠気への対処法、ですか。仮にこの私がそれを知っていたとしたら、ワーグがケイブリス派に属していた時にその方法を使用し、とっくに討伐しているはずだとは思いませんか?」
「……それはそーかもしれんが」
今でこそ派閥戦争からリタイアしたワーグだが、一時期は確かにケイブリス派に属していた。
そしてその頃のワーグによって数万に及ぶ魔物兵がケイブリス派に寝返ってしまった以上、その頃のホーネットに容赦する理由など一切無い。
あの眠気に有効な秘策があったとしたらワーグはとっくに魔血魂となっている、その指摘は至極妥当なものであった。
「あ~~……んじゃあ何か……アイディアだけでもいいから思い付く事はねーか?」
「アイディアと言われても……やはり地道に鍛錬を重ねて強くなるのが一番では?」
「この問題はあと二日で解決せにゃならんのだ。だからその案はボツ……あ、それともこの城に経験食パンが余ってたりはしないか? あれを大量に食えば……」
「……経験食パン?」
「……ま、そんなウマい話はねーわな。ならやっぱレベルを上げるっつー方法はボツだ」
ランスはつまらなそうに肩をすくめる。
やはりレベルを上げる方向性での突破は不可能。そして魔人化もオススメ出来ないとなると、残るは外的要因。自分以外の何かしらの力によってあの眠気を突破する方法はないか。
「んじゃやっぱアイテムだ。なぁホーネット、この城に何か良いマジックアイテムはないか? なんかこう……絶対に起きられる目覚まし時計とか」
「ありません。何なら自分で探しますか? 宝物庫の鍵ならお貸ししますよ」
「ちっ、……なら魔法、魔法はどうだ? なんかこう……魔人筆頭にだけ使用出来る特別な魔法みたいなのがあったりしねーのか?」
「ですからそのようなものはありません。魔人筆頭にだけ使用出来る魔法など、そんな都合の良いものあるはずが──」
食い下がってくるランスを諭すかのように、ホーネットが否定の言葉を口にしかけた時。
「──あ」
ふいに脳内に差し込んだか細い光のような閃き。
(……ワーグの眠気への対処法。……そう言えば、あそこにならばもしかしたら……)
ホーネットは唐突に思い付いてしまった。
ワーグの眠気を打ち破る方法そのものでは無い。では無いのだが、その方法が残されているかもしれない場所について。
先程のランスの言葉を聞いた途端、そんな心当たりが一つだけ思い浮かんだ。
だが。
(……けれど、あれは……)
これは言えない。
これだけは教えてはいけない。
何故ならその方法の在り処、あの場所は決して足を踏み入れてはならない場所。
魔物界の誰しもが、魔人筆頭たるホーネットですらもあの場所に入る事は許されない。数年前からそうと決めている場所。
故に彼女は一抹の罪悪感を抱えつつも、ランスにその事を教えるつもりは無かったのだが。
「ぬ?」
けれどもその様子の変化、特に先程「──あ」と呟いてしまったのが失敗だったらしい。
正面に座る魔人筆頭がどこか落ち着きのない雰囲気に変わった事、それはランスの方も目聡く気付いていた。
「ホーネット。さてはお前、何か良い方法を思い付いたのだな?」
「え、あ……いえ。そういう訳では、ありません」
「いーやそれは嘘だ。お前が嘘を吐いていると俺様センサーがビンビンに反応しているぞ。ホーネット、何を思い付いたのか教えろ」
「ですから、何も思い付いてなど……」
元々嘘を吐くのが得意じゃない性格、数秒前から明らかに歯切れの悪くなったホーネット。
その様子にクロだと確信を持ったのか、ランスはソファから身を乗り出して顔を近付ける。
「ホーネット。俺様の目をしっかりと見ろ」
「……なんですか?」
「そう、そうやって俺様の目を真っ直ぐ見たまま、自分は嘘を吐いていないと誓えるか?」
「……それ、は」
「ほーら目を逸したっ! やっぱり何かを思い付いたんだろ!」
すすっと横に逃げたその金の瞳に対し、ランスの容赦無い追求が刺さる。
するとホーネットは早々に観念したらしく「……ふぅ」と息を吐いてから姿勢を正した。
「……確かに、一つだけ思い付いた事はあります。けれど恐らくこの方法では不可能でしょう」
「不可能かどうかは俺様が判断する。とりあえず聞かせてみろ」
「……正直に言いますと、あまり口外したい方法では無いのです」
「いいから言え」
「………………」
返答は黙秘。
言えと言われても、魔人筆頭はその方法を教えようとはしない。
「ホーネット、早く教えろ」
「………………」
「おい」
「………………」
返答は相変わらずの黙りで。
「ホーネット、教えろっつってんだろーが。俺もあんま気の長い方じゃ──」
その態度に軽く苛立ち、ランスは少し語気を強めたのだが、
「………………」
「……ぬ」
すると思いの外強めに──まるでこの魔人と出会った頃のような目付きで睨まれ、少し気後れしたかのように声のトーンを落とす。
「……何だよ、そこまでして教えられない方法だってのか」
「……あ、いえ……」
自分の視線が強くなっている事に気付いたのか、ホーネットはばつが悪そうにその顔を伏せる。
「………………」
「………………」
そして気まずい沈黙。両者共に押し黙る。
何故ホーネットがここまで頑なに黙秘するのか。その理由に関して、ランスもこの魔人の性格をある程度理解してきており、なにか意地悪のつもりで黙っている訳ではない事は理解していた。
こうまでして言わないのはそれなりの理由があるのだろう。そうと理解していたのだが、しかしそれでも今はこれだけが一縷の望み、聞き出すのを諦めるという選択肢は無い。
「……分かった。ならホーネット、交換条件といこうじゃないか」
「交換条件、ですか?」
「あぁ、お前はその方法を俺に教える。その代わりに俺は……そうだな……よし、ならお前の願いを何でも一つ叶えてやろうじゃないか」
「え……」
その提示された条件に、顔を上げたホーネットの瞳が揺らぐ。
「何でも……ですか?」
「そうだ、何でも、だ。どんなお願いでも叶えてやろう」
「………………」
──どんな願い事も叶える。
ありきたりと言えばありきたりの提案だが、正直に言えば惹かれるものはあった。
頭の中にパッと思い浮かんだ願いが一つ、叶えて欲しい望みがあるにはあったのだが。
「……いえ。今の貴方に叶えて欲しい願いなど、特には何も……」
「お、おいおい。何もねーって事はねーだろう。本当に何でも良いんだぞ? 例えば青姦をしてみたい~とか、露出プレイをしてみたい~とか」
「……それは貴方の願いでしょう」
呆れたように呟きながら、ホーネットはその願望を心の奥底に封印した。
感情的な思考はそれを望んでいる事なのだが、しかし理性的な思考がそのような事は望んではならぬとストップを掛けている。
そして何より。たとえその望みを交換条件にしたとしても、先程思い付いたあの方法は到底教えられるようなものでは無くて。
(……私は、意地悪な事をしているのでしょうか。ランスが困っていると分かっているのに、このように突き放した態度を……)
ふとそんな事を考えてしまうと、ホーネットの心が更に重たくなっていく。
それこそ例えば今のこの状況、そもそもランスとワーグが夜を共にする方法について、自分が手助けしなければならない理由がよく分からない。
という感情、言わばヤキモチのような気持ちが無い訳ではなかったのだが。
(……けれど、それでもあれは……あそこに立ち入る事だけは……)
しかしホーネットの心中の大部分を占めるのはそういった感情では無く、もっと純粋な懊悩。
これだけは教えたくない。あの場所の事だけは秘しておきたい。そして自分自身あの場所にはもう二度と立ち入らないと誓った、その誓いを破りたくないという想い。
それは彼女にとって本当に、本当に大事な想いだったのだが、そんな頑な心を解したもの、それはランスが口にした意外な言葉だった。
「なぁホーネット。ここまで頼んでんだから教えてくれたっていいじゃねーかよ。俺様はどーしてもワーグを抱かねばならんのだ」
「……どうしても、ですか。貴方の女性を抱く事に関しての熱意は相変わらずですね」
「まぁな。それにこれは俺様だけの問題じゃない、ワーグたっての願いでもあるしな」
「……ワーグの?」
「そう、これはワーグの頼みだ。あいつの方から俺様とセックスしたいって言ってきたのだ」
「……そうなのですか?」
性交渉を求めたのはランスの方からでは無く、他ならぬワーグの方から。
その話が本当に予想外だったのか、ホーネットは驚きの目を向ける。
「……ワーグの方から……ですか。そうですか……それはなんと言うか……少し驚きました」
「おう、俺様もあれにはびっくりしたぞ。なんせあいつ、俺様とセックスがしたいのに出来ないーっつって泣き出しちまう程だからな」
「……泣いた? あのワーグがですか?」
「うむ。全く、モテる男がツラいってのは世の常だが、にしてもあれには参った。だから俺は何としてもワーグとセックスせねばならんのだ」
女の涙を拭うのは男の甲斐性。だからこそ自分はワーグを抱かないといけない。それこそたとえ魔人化という手段を使ってでも。
ランスのそんな固い決意に押された……という訳では無いのだろうが、その話を聞いた事でホーネットの心は大きく揺らき始めていた。
「……泣いた……ワーグが……」
ランスが今こうしてワーグの眠気への対処法を求める理由。それはランス自身がワーグとの性行為をしたいが故だと考えていた。
しかしその逆、ワーグがそれを求めているのだとすると、今までとは異なる思いが湧いてくる。
思い焦がれる相手がすぐそばに居る。
そして相手の方から自分を求めてくれている。
それなのに如何なるものが邪魔をしてか、そこに手を伸ばす事がどうしても出来ない。
(……それは、まるで……)
そんなワーグが置かれている状況。
それはまるで、少し前までの自分と重なっているように見えて。
「………………」
その切なさ、その辛さは痛い程に理解出来る。
幸いにも自分の場合はもう解決に至ったのだが、しかしワーグの場合はどうか。
自分のような単なるすれ違いとは違い、彼女が抱える問題は体質そのもの。だとしたら有効な手段がない限り永久に解決しない事だってあり得る。
そんな事を考えてしまうと、ここで自分が手を差し伸べてあげないのは酷なのでは、同じ思いを知る自分が見て見ぬ振りをするのはあまりにも薄情なのではと思えてきて。
「………………」
されど天秤の皿に乗るもの、それは彼女にとって一番と言ってもいい程に大事な想い。
「………………」
「……あれ、ホーネット?」
「………………」
「……おい、聞いとるか?」
ランスが声を掛けてもその耳には入らないのか。
ホーネットは深い悩みの表情のまま、しばらくの間熟考に熟考を重ねて。
「……ふぅ」
やがて、心の整理をつけるかのように大きく息を吐き出した。
「……ランス。貴方はこれまでホーネット派に対して沢山の協力をしてくれましたね」
「ん? あぁ、まぁな」
「先日のレッドアイの事もそうですが、それ以前にもメディウサやガルティアの事など、貴方の助けが無ければ解決出来なかった問題は多くあります。……そして何より、派閥の主たるこの私も貴方には一度救われている。もはやどれだけ感謝の言葉を尽くしても足りそうにありません」
「お、おぉ……」
突然の謝意に面食らった様子のランスをよそに、ホーネットは更に言葉を続ける。
「そしてそれはワーグにも言えます。この前シルキィから聞きましたが、ワーグにはレッドアイの件で協力して貰ったそうですね」
「レッドアイの? あー、ロナの事か。そうそう、ロナを助ける時にあいつの力を借りたのだ」
「ですがワーグはホーネット派ではありません。ホーネット派に属しない彼女にレッドアイ討伐への協力をして貰ったというのなら……私はこの派閥の主として彼女に礼をする必要があるでしょう。……そして勿論、貴方にも」
それは彼女にとって自らを納得させられる理由。
自分自身への誓いを破る事、そして大事な言付けを無視する事を自らに対して許せる理由。
「……派閥の主としてするべき事、それは私の感情よりも優先される事です。ですからこれは仕方の無い事なのでしょう。……ワーグの眠気の打開する方法について、私が思い付いた事を教えます」
「お! 遂に話す気になったか!」
「……えぇ」
そしてホーネットはソファから立ち上がる。
部屋の奥の方へと歩いていき、そこにあった執務机、その一番大きな引き出しを開く。
「………………」
その中から取り出したもの。それはくすんだ銀色の小さな鍵。
手に持ったそれをホーネットはじっと見つめる。
「なんだそれ? どこの鍵だ?」
「………………」
「……おい聞いてんのか、ホーネッ、と……」
それは思わずランスも声を掛けるのを躊躇ってしまう程。
「………………」
その小さな鍵を見つめる彼女の表情。
それは見ている方の胸が詰まりそうな程に、哀愁に満ちた切ない表情で。
「………………」
「……おーい」
その茶々を入れ難い雰囲気に呑まれ、ランスも少し声を弱める。
「………………」
「……ホーネットさーん、聞こえてますかー」
「……えぇ、聞こえています」
ようやく覚悟を固めたのか、ホーネットは思いを振り切ってその鍵から視線を外した。
「ではランス、付いてきてください」
「お、おう」
そしてランスもソファから立ち上がり、そのまま二人は部屋から出る。
魔王城の最上階、長い廊下をホーネットを先頭に真っ直ぐ進んでいく。
「……あらかじめ言っておきますが、これはあくまで可能性がある、というだけの事です。確実なものを保証する訳ではありませんから、もしかしたらこの方法でもワーグの眠気を打開するのは不可能かもしれません。それだけは覚悟しておいて下さい」
「あぁ、そりゃ分かってるって。……てかホーネット、一体何処へ行くのだ?」
「すぐに付きますよ」
その言葉通りほんの一分も掛からず、二人はとある部屋の前で立ち止まった。
「……ここです」
そのドアを見つめるホーネットの顔、それも先程と似た物憂げな表情で。
そこは彼女の部屋と同じく城の最上階、もう誰も使用する事の無い部屋。
「ホーネット、この部屋が何だってんだ?」
「ここは……」
それをありのままに伝えるべきか、彼女はほんの一瞬だけ悩んで。そして。
「……ここは魔王の部屋です」
「魔王の部屋? ……て事は、ここは美樹ちゃんの部屋なのか?」
ランスがそう尋ねると、ホーネットはゆっくりと首を横に振る。
「いえ、この部屋の主は美樹様では無く……美樹様より以前に世界を支配していた一人の魔王。今から千年程前、この魔王城が建てられた当時の魔王が私室としていた場所……そう聞いています」
「……へー、ならここは千年以上前の魔王が使っていた部屋って事か」
「えぇ、そういう事です」
この魔王城が建てられた時期、それはこの世界が人間界と魔物界に二分されたGI期以降の事。
つまりその部屋はGI期にこの世界を支配していた魔王──ガイの部屋。
「……本当はこの私ですら入ってはならない部屋なのですけどね」
「ぬ、そうなのか?」
「えぇ。なにせここは魔王の部屋ですから」
そしてそこはホーネットにとって父親の部屋。
魔王ガイの死後、彼女がホーネット派を率いる事となった時、甘えを切り捨てる為に二度と立ち入らないと自らに誓った部屋。
「まぁつっても当時の魔王はもう居ない訳だし、今更誰かに文句を言われる事もねーだろ」
「……そうですね」
ホーネットがその鍵を鍵穴に差し込む。
カチャリ、と小さな音が鳴ってロックが外れる。
およそ7年、その間ずっと閉じたままだった部屋のドアがついに開かれる。
「……ほーん、ここが魔王の部屋か」
「……えぇ」
「なんだかあれだな、魔王が使ってたっつーわりにはパッとしないな」
中に入ってきょろきょろと辺りを見渡した後、ランスはそんな感想を口にする。
先代魔王ガイが私室としていた場所。だが魔王の私室といっても内装などに特別な印象は無く、テーブルやソファや本棚など、何処の部屋にもあるようなものが当たり前に置かれている。
魔王の部屋と聞いて少し興味を抱いていたランスからしたら拍子抜け、それこそ先程まで居た部屋と変わらないような印象を受けた。
「魔王の部屋っつうんだから……もっとこうなんか派手なもんとかあるのかと……」
「……確かに飾り気の無い部屋です。この部屋を使っていた当時の魔王は過度な装飾を好まない性格だったのかもしれませんね」
「それに……なんか埃っぽいぞこの部屋」
「……そうですね。この部屋には掃除にも入らぬよう言いつけていますから……」
だが彼女にとってはその飾り気の無い部屋こそ、尊敬する父の思い出が残る場所。
魔人となってからは立場を弁えてこの部屋を訪れる機会も減ったが、魔人となる前、子供だった頃は頻繁にこの部屋を訪れ、奔放な性格をしている時の父に遊んで貰ったりしていた。
その頃の追憶に耽っているのか、ホーネットは遠くを見るような表情で佇んでいると、ランスが急かすかのようにその肩を突く。
「んで? この部屋に何があるのだ? 魔王の力が宿るアイテムとかがあったりするのか?」
「魔王の力が宿るアイテム、ですか。当たらずとも遠からずといった所ですが……」
記憶の中にある懐かしき父の姿を思い出しながら、ホーネットはそれを告げた。
「私が思い付いた方法、それはかの魔王が得意としていた秘術……禁呪を使う事です」