そして決戦前夜は過ぎて……翌日。
「……ぐがー、ぐがー……んが?」
今日は決戦の日……ではなく出発の日の朝、ランスはいつも通りに目を覚ます。
「ふぁ~あ、よう寝た……ってありゃ、ホーネットが居ない……」
むくりと身体を起こして早々、すぐ隣で眠っていたはずの昨夜のお相手が居ない事に気付く。
なんとなく気になったランスはすぐに身支度を終えて部屋から出る。そして宿舎の通路をぶらぶら歩いていると、その人物はすぐに見つかった。
「お、いたいた」
「あぁ、ランス。起きましたか」
そこにいたのは魔人ホーネット。
昨夜こそは少々様子が違っていたものの、一夜明けた今ではいつもと変わらない表情をしていた。
「む。その様子……さてはホーネット、朝風呂に入ったのか」
「えぇ。ここに詰める兵士達に尋ねたら好きに利用して構わないとの事だったので」
身体に残る昨日の残滓を洗い流す為か、どうやらホーネットはシャワーを借りたらしい。
その緑色の髪はしっとりと濡れ、服の隙間からよく見える肌も微かに上気している。その扇情的な姿にランスもにたりと口元を曲げる。
「うーむ、風呂上がりの美人というのはやっぱりエロいな……」
「……ランス。鼻の下が伸びていますよ」
「つーかホーネット、風呂入るんだったら何故俺様を誘わないのだ。俺達はもう毎日のように一緒に風呂入っている仲だというのに」
「っ、それは、……それは、魔王城での話ではありませんか。城の浴室とは違ってここの浴室は共用のものです、貴方を誘える訳など無いでしょう」
仮にこの宿舎の浴室が共用のものでなかったとしても、別にホーネットはランスを朝風呂に誘いはしなかっただろうが、それはともかく。
「そういやホーネット、昨日は色々話したけど覚えてっか? お前、明日に思い返したらこっ恥ずかしくなりそうだーとか言っとったが」
昨夜を思い出したランスがそう尋ねると、ホーネットは「えぇ、覚えています」とすぐに頷く。
「確かに、昨夜の私はなんというか……随分と口が軽かったですね。ただ、今思い返して羞恥を感じる程ではありません。むしろ少し胸が軽くなったような気がします」
「なるほどな。あれか、お前も色々とストレスが溜まってたっつー事なのか」
「……どう、でしょうかね」
今度はすぐに頷きはせず、ホーネットは曖昧に言葉を濁した。
どうやら昨夜に話したあれこれ。その内容よりもそれらを抱え込んでいたという事実、それをランスに指摘される事の方が今の彼女にとっては恥ずかしい事のようだ。
「まぁすっきりしたのなら良かったではないか。お前の愚痴を聞いてやった俺様に感謝しろよな」
「……そうですね。……あ、そう言えば……」
「あん?」
「……ランス。実は少し
その時のホーネットの表情の変化、それをランスはちゃんと目にしていただろうか。
目線をそっと斜め下方に落として、それは未知に対する不安に揺れるような、それでも何かに期待しているかのような。
ホーネットがたまに見せる憂いを帯びた表情の中でも、今のそれは特に深みのあるもので。
「気になる事?」
そして残念ながら、ランスはそれをちゃんと目にしてはいなかったらしい。
その表情の意味を深刻には捉えなかったのか、至って普段通りの調子で尋ねる。
「……その」
「なんだよ」
「……いえ。何でもありません」
それが仇となったのかどうか。
ホーネットは一瞬悩んだ後、その口を閉ざしてしまった。
「おい。勿体振るなよ、そう言われるとこっちだって気になるだろ」
「勿体振っている訳ではありません。ですが今話すような事ではないと思ったのです。もうすぐに出発の時間ですからね、今は余計な事に手を回している場合ではないでしょう」
ですから……、と呟きながら、ホーネットはその右手で自分の左手をぎゅっと握って。
「この話は後に。……ケイブリスとの戦いに勝利した後で構いません」
「……そか。分かった」
その言葉に、ランスは深く考えないで頷いた。
この時の二人には到底知る由も無い事なのだが、ここで一つ、二人の命運が大きく分かれた。
「けどまぁ、戦いに勝った後っつってもたかが数日の話だけどな」
「ですね。本日中にミダラナツリーまで進んで、そこから予定通りの流れで進めば2日か3日程度で……あぁ、そう言えば……
するとまたホーネットはそんな事を言い出す。
だが先程気にしていた事と比較して、心配の度合いで言うならこちらの方が断然上。
それは今から2週間程前、魔王城で交わした作戦会議の頃から彼女が気になっていた事。
「……ランス。貴方は……今回の作戦が上手くいくと思いますか?」
「あ?」
その言葉を聞いた途端、ランスは露骨な程に表情を顰めた。
「あのなぁ、今更んな事を言うなっつの。そんなん上手くいくに決まってんだろが。大体、今回の作戦に関してはお前だって納得してたじゃねーか」
「……えぇ、その通りです」
「だろ? だったらそう弱気になるな、もっと自信を持て」
「……私は弱気になっている訳ではありません。貴方やシルキィ達と考えたこの作戦に関して、何ら問題はないとは思っています。ただ……」
そこで表情を曇らせるホーネットと、相も変わらず強気な態度のランス。
この二人の調子の温度差、それは二人が歩んできた経験の違いからくるもの。
ランスは過去に魔人ケイブリスを討伐した経験があるが、それはホーネットには無い。
だからこその強気ではあるのだが、しかしその一方、ランスには無くてホーネットにはあるものだって存在している。
ホーネットが持ち得るもの。それはケイブリス派と戦っていたこれまでの日々。
ランスとは異なり、7年にも及ぶ長い期間ケイブリスと覇を競い合ってきた事からくる経験則。
「それでも私は……どうしてもケイブリスの事が気になるのです」
「ケイブリスの事?」
「えぇ。私は未だに……あのケイブリスが本当に戦場に出るのか、そこに確信が持てないのです」
◇ ◇ ◇
そして奇遇にも、というべきか何というか。
ホーネットが気にしていたその事は、遠く離れたこちらの魔人達も同様に気にしていた。
砂埃と共に吹き抜ける乾いた風。
見晴らす限りに広大な景色、目に入るものと言えば大地から隆起する巨大な角。
そんな光景に加えて──今はまだ遠くに見える、夥しい程の大軍勢。
それはここに集った者達、ホーネット派とケイブリス派双方にとって共通するもの。
魔物界中南部に広がる大荒野カスケード・バウ。
敵地侵攻を目論むケイブリス派、その阻止を図るホーネット派。両派閥の大軍勢が荒野の北側と南側に集結し、その衝突はもう間近。
戦場の空気はまだ静けさを保ってはいるが、けれども何処か重苦しい。兵達が秘める気勢はすでに弾け飛びそうなものとなり、荒野一帯が殺伐とした異様な雰囲気となっていた。
そんな中、カスケード・バウの北側。
ホーネット派が構築した陣地、その一角にある指揮官用の天幕内にて。
「……ほぼ全軍同士での衝突、か。さすがにこれまでには無かった規模だな」
サテラがそう呟けば、すぐそばにいたハウゼルも重ねるように口を開く。
「分かっていた事とはいえ、こうなるとホーネット様が居ないのは少し心細いですね」
「……そうだな。ホーネット様はどんな時もサテラ達の先頭で戦ってくれていたお方だからな」
そう言って二人は寂しげな表情を浮かべる。
派閥の主の不在というのは戦力としては勿論、精神面での影響も大きいのかもしれない……。
……と、二人の様子を見ていたシルキィはそんな思いを抱く。
「二人共。なにもホーネット様が亡くなった訳じゃないんだから」
「そんな事は分かってる。単にサテラ達とは別の場所で戦う事になったってだけの事だ」
「ええ、そうね。それだけの事だわ。向こうは向こうで頑張っているはずだし、だから私達も私達のするべき事をしましょう」
そう言い切った後、シルキィはその場に集った面々それぞれと一度顔を合わせる。
身震いする程の大軍勢にちょっと緊張しているらしい魔人サテラと魔人ハウゼル。
そしてこんな時でも、どんな時であっても何かを食べている魔人ガルティア。
仲間の魔人達に目を向けて、その次テーブル上にある荒野全体が記された地図に視線を落とす。
「それで私達のするべき事としては……これはもう変更無しで構わないわよね?」
「あぁ、良いと思うぜ。昨日の話し合いでも文句は出なかったしな。どの道こっちは囮っつーか、大事なのは裏に回っている奇襲部隊の方だし」
「えぇ。だから勝利の鍵を握っているのはホーネット様達で、その意味ではこれもいつもの戦いと変わらないわ。……だからこそ、私達がすべき事もいつもと同じ」
そこでシルキィは斜め後方に振り返って、そこに立つ一人の女性に視線を向ける。
「いつも通り本隊の指揮はケイコがお願いね。私達は向こうの魔人を迎え撃つのに手一杯だから」
今回の戦場にはホーネットが不在な為、魔人四天王であるシルキィに全権が委ねられている。
そんな総指揮官代理の言葉に、ホーネットが置いていった筆頭使徒のケイコが小さく頷く。
「全軍での出撃となりゃあ、やっぱしケイブリスの奴もきてんのかねぇ」
「どうだろうな。なんせあのケイブリスの事だし、この期に及んでも本拠地から出てこない可能性だって十分ありえると思うけど」
「あ、やっぱりサテラもそう思う? 私もそこだけが未だに気になっていて……」
「……実は私も。というかホーネット様もその点は不安だって仰っていたわ」
ふとガルティアがそんな話をしてみれば、サテラやハウゼル、シルキィからも声が上がる。
魔人ケイブリスが出てくるか否か。どうやらそれはホーネット派の全魔人共通の疑念らしい。
この戦いは決戦。故にさすがにここまで来て出てこない訳にもいかないだろう。そう思いはするのだが……しかし、それでもあるいは……。
……と、そう考えされられてしまうのがケイブリスという魔人の印象なのだろうか。
「まぁ出てこないなら出てこないで、それなら相手にする魔人が一体減るだけ。こっちが有利になるだけだからって話で、ホーネット様ともそれ以上深くは話し合わなかったんだけどね」
「まぁそれはそうですね。なんであれ私達はこの戦場に出てくる魔人との戦いに集中しましょう」
「けれど魔人もそうだけど、ケイブリス派にはまだ魔物大将軍が何体かいたはずだぞ」
「あー、そういやぁそうだな。今生き残ってんのは……どいつらだっけ?」
「ええっと……確か以前の戦いでホーネット様がヨシフを倒したから~……残るはツォトン、ルメイ、ピサロの3体かしら」
魔人に加えてもう一つ、ケイブリス派に残る3体の魔物大将軍。
魔物将軍を超す実力を有しており、それぞれが魔物兵ではとても太刀打ちできない強敵。今回の攻勢が全軍出撃である以上、当然この戦場に出てくると思わしき相手である。
「……とはいっても、サテラ達は魔人の相手をしなければならないからな……」
「うん。だから基本的には魔物兵達に頑張って貰って……それでもどうしようもない時は、近くに居て手の空いている者が戦うしかないわね」
「まぁあいつらは大将軍だし、そうそう前線に出張ってくる事もねーだろ。……いや、むしろその方が有り難いか」
「そうね。魔物大将軍は戦闘能力よりも指揮能力が驚異だから、出来れば早めに対処したい所ね。今回のような戦場では特に──」
とその時、話途中でシルキィが何かに気付く。
「──あ、戻ってきたみたいね」
「………………」
「……おかえりメガラス、偵察ご苦労さま」
天幕内に帰還した影、今しがた敵陣偵察を行ってきた飛行魔物兵部隊の長。
シルキィが挨拶と共にその労を労えば、魔人メガラスは無言のまま小さく顎を引く。
「どうだった? さすがに今回ばかりは大変だったんじゃない?」
「………………」
「……そう、そんなに飛行魔物兵が……やっぱり全軍での出撃ってだけはあるようね。それでも貴方だけは止められないでしょうけど」
両派閥陣営の空を覆う飛行魔物兵部隊。通常の魔物兵よりも価値の高い部隊であり、戦いにあって何かと渋りがちなケイブリス派なのだが、しかしここは出し惜しみせず使ってきたらしい。
その総数はホーネット派のそれを上回っており、となると数で勝る側が上空を支配してしまいそうなものだが、しかしそれを覆すのが魔人の存在。
無敵結界を有するメガラスなら飛行魔物兵に足止めを食らう事はない。そして飛行能力を持つ魔人サイゼルはケイブリス派から離脱し、地上から対空迎撃とばかりに強烈無比な魔法を放つ魔人レッドアイは討伐された為、魔物界の空はもう魔人メガラスの独壇場であった。
「それで、向こうはどんな感じだった?」
「………………」
「……ふむふむ、中央がルメイの軍、東がツォトンで西がピサロの軍ね」
「………………」
「……なるほど、それで恐らくレイが中央、パイアールが西側で、それ以外は今の所不明、と。うん、そこまで調べてくれれば十分だわ」
そんな空の支配者、魔人メガラスが持ち帰ってきたケイブリス派陣営の情報。
それを見事だと言う他無いコミュニケーション能力を駆使して読み取った後、シルキィは顎に手を置いて「うーん……」と悩む。
「……ケッセルリングがいない理由は分かるから良いとして……ケイブリスは何処かの天幕かなにかに隠れているって事なのかしらね」
「……それともまだカスケード・バウには到着していないか、あるいは……」
「……やっぱり出て来ない、か」
「………………」
ハウゼルの言葉をサテラが引き継いて、しばしその場に沈黙が流れる。
先程も言った通り、出てこないなら出てこないでこちらの有利となるだけの話。
だから問題は無いのだが、しかし……これはその可能性を十分考慮しておくべきかも……と、シルキィはそんな事を頭の片隅で考えながら。
「……ま、まぁさっきも言った通り、私達は私達のするべき事をするだけだから」
ともあれ、そんな言葉で話を纏めて。
「……さてと。それじゃあそろそろ私達も配置に付きましょうか」
◇ ◇ ◇
こうしてホーネットが、そしてシルキィ達が共に不安視していた事。
それはしかし、現状全くの杞憂であった。
如何な性根が臆病過ぎるリスとて、それでも今では最強最古と称される程の魔人。
それなのにあれ程にバカにされて、あれ程に虚仮にされてそのままでいられるはずが無い。
そもそもが今の状況から鑑みて、このままずっと引き篭もり続けている事はほぼ不可能。
勝つにはもう自分が戦うしかない。それを当人も心の底ではとっくに理解していた事で。
つまり──魔人ケイブリスは立ち上がっていた。
長らく手にしていなかった愛用の大剣、ウスパーとサスパーを腰に下げて。
長らく引き篭もったままだった自分の城、その城門から足を踏み出して。
長らく見ていなかったベズドグ山、その景色を横目に山道を下って。
長らく気にしていなかった本拠地、魔界都市タンザモンザツリーに立ち寄って。
そして進路を北に。
ケイブリス派全軍が集結している大荒野カスケード・バウ。
決戦の地に魔人ケイブリスは今まさに向かっている最中であった。
……だが。その道のりの途中。
「……む」
道を進む大元帥ストロガノフ、その下に伝令役の飛行魔物兵が近付いていく。
「……そうか。分かった、下がってよい」
そしてその報告を耳に入れる。
するとストロガノフは足を止め、固く引き締まっていた表情でその顎を撫でた。
「……ふむ」
「どうしたストロガノフ、何かあったのか?」
「……ケイブリス様」
その様子に気付いた派閥の主の視線が向く中、ストロガノフは瞬時に思考を巡らせる。
率直に言って、この報告を今ここでケイブリスの耳には入れたくなかった。
すでにケイブリスは重い腰を上げ、こうしてカスケード・バウへと向かっている最中。
腰にある二本の大剣を見ても分かる通り、ようやくこの魔人が戦う気になってくれた。それなのにここで余計な些事に気を取らせたくなかったのだ。
「おい、どうしたって聞いてるんだよ」
「……はい」
しかしそんな思惑はあくまで思惑、こう急かされてしまったら答える他に無い。
ストロガノフは結局、報告を受けた通りの内容をそのまま言葉にした。
「実は……まだカミーラ様が動いていないようなのです」
「……カミーラさんが?」
その報告とはすなわち、魔人四天王カミーラについての重大な命令違反。
派閥の主たるケイブリスが下した全軍出撃の大号令によって、ケイブリス派に身を置くあらゆる者達が今、カスケード・バウへと集結している。
あのケッセルリンクでさえも従うとの返事を返してきたその号令に、しかしカミーラただ一人だけが従わず、未だミダラナツリーにある自分の城を出ていない……というもの。
「……まだ命令を知らない、っつー事は……さすがにねぇよな?」
「はい。それは無いでしょう。指令書は確かにカミーラ様の下に届いているはずです」
「……だよな」
「……再び魔物兵を使いに送っても恐らく結果は変わらないでしょうし、ここは私が──」
──私がカミーラ様に会って説得をしてきます。
そう言おうとした途中、ストロガノフは思わず言葉を止める。
目の前に居る主から伝わってくる圧、それがあまりにも異様なものだったからだ。
「……なぁストロガノフ。ケイブリス派っつうのは……この俺様が一番偉いはずだよな?」
「……はい。それは勿論です」
「だったらよ……一番偉いこの俺様に従わないってこたぁ、どういうつもりなんだろうな」
「それは……」
魔人カミーラの命令無視、派閥の主である自分が下した指示に従ってくれない。
実のところ、そうした事はこれまでに何度もあった。そしてその都度「カミーラさんなら仕方ねぇ」とか「きっと何か事情があるんだ」と許してきたのがケイブリスという魔人だった。
しかし、この時ばかりはそうはならなかった。
この時のケイブリスの身にあった感情。それは一言で形容できるものではない。
自分の命令に従わない者に対しての怒りだとか、 長年向けていた片思いだとか、その思いが報われない理不尽さだとか、色々なものが混ざり合って。
それでもあえて表現するならば──それはやはり『苛立ち』だろうか。
この自分でさえも戦う時だと言うのに、そんな中でも戦おうとしない者が一人いる。
そもそもこの戦いはカミーラが切っ掛け。彼女が捕虜となっていた時に陵辱を受けていた、そのカミーラの無念を晴らしてやる為の全軍侵攻のようなものなのに。
(……そうだ、俺様はカミーラさんの為に、その為に色々してやったはずなのに……)
惚れた相手に振り向いて貰う為にと、これまでケイブリスは色々な事をしてきた。
この戦い以前からもそうだし、前にホーネットとの人質交換で助けてあげた事だってそうだ。
それなのに。それなのにカミーラは自分を蔑ろにする。思い返せば人質交換の件、そのお礼の言葉一つだってまだ聞いた覚えは無い。
そして何より……今回の一件によってケイブリスが知ってしまった事。
(……それなのに。それなのにカミーラさんは……よりにもよってあんな野郎と……)
それなのに。カミーラは自分ではない別の男に身体を許してしまっていた。
それが陵辱だとか、カミーラの意思どうこうは関係無い。なにもカミーラの純潔に拘ってるとか、そういう低次元の話をしている訳でもない。
そもそもケイブリスはカミーラの美貌だけに、その見てくれだけに惚れていた訳ではないのだ。
魔人カミーラ。あれは冠だった。
はるか昔、魔王アベルとドラゴン族との長きに渡る戦い、ラストウォー。
その時のケイブリスにはただ見上げる事しか出来なかった、遥か強者達の戦い。その中で魔王とドラゴン達が奪い合っていたもの、それが魔人にされた雌のプラチナドラゴン、カミーラだった。
この世界で絶対の存在たる魔王と最強種たるドラゴンが競い合った、言わば絶対強者の冠。
だからこそケイブリスもそれに焦がれた。だからこそカミーラが欲しかった。
あのプラチナドラゴンの魔人をこの手に掴む事。それこそが強さの証明のように思えたから。
(……そうだ。だからカミーラさんが欲しかったんだ……それなのに……)
それなのに。
それなのにカミーラという冠は、自分の知らぬ間に汚されていた。
どこぞの誰とも分からぬ、カオスマスターなどという男がその手に掴んでいた。
あれが魔王を越える程の男なのか? まさかそんなはずは無いだろう。
だったらそんな男に抱かれたカミーラは、もう絶対強者の証たる冠などではない。
……いや、もはや冠だとかどうこうとかはどうだっていい。
とにかく自分がずっと恋い焦がれてきたあのカミーラが、そんな男にさえ身体を許すのならば。
「……だったら、だったら俺様だっていいはずだよな……」
その呟きは。
その感情は、まるで憎き怨敵に向けるかのようにどす黒いもので。
「……ケイブリス様?」
「……ストロガノフ。お前は先にカスケード・バウに向かって戦いをおっ始めてろ」
「……は、了解しました。……しかし、それではケイブリス様は……?」
「なーに、別に引き返す訳じゃねぇよ。ちょっくら寄り道をするだけだ」
動揺を隠せないまま聞き返してきた大元帥ストロガノフに向けて。
ケイブリス派の主、魔人ケイブリスは自らの命運を分ける言葉を口にした。
「俺様はミダラナツリーに行く。カミーラさんに直接会って話を付けてくるからよ」
こうして魔人ケイブリスはミダラナツリーへ。
同じくミダラナツリーを目指して、ランス達がまもなくマジノラインを出発する。
一方カスケード・バウの方でも、やがて開戦の火蓋が切って落とされる。
そして──それぞれの戦いが始まる。