次の日も、その次の日も、そしてその次の日も。
彼女達がどれだけ待てども、派閥の主はビューティツリーに帰還する事は無かった。
その時から嫌な予感が脳裏を掠めていたものの、まだ信じたい気持ちが強くあった。
その後一旦魔王城に帰還していた魔人メガラスが拠点に戻り、話を聞いてすぐさまペンゲラツリーまで向かったが、その都市には誰の姿も無かった。
真っ黒に炭化して焼け落ちた世界樹の残骸など、都市内で激しい戦闘があった事を思わせる痕跡が残っており、その報告がさらに憂心を強めた。
そしてある日。彼女達が拠点としているビューティツリーから南、つまり敵の本拠地があるタンザモンザツリー方面から、ケイブリス派の軍使を名乗る飛行魔物兵がやって来た。
その魔物は大元帥からの命令を受けており、その任務は一通の書状と一枚の写真をホーネット派の魔人達に届ける事であった。
そうして彼女達の下に届いたその書状には、無条件での降伏を要求する文章が書きなぐったような字で書かれており。
そしてその写真には、ぼろぼろの姿で拘束されたホーネットが写っていた。
魔界都市ビューティツリー内に設置された、指揮官用の他より豪華なテントの中。
三人の魔人が居るそのテント内の空気は暗鬱たるものであり、周囲の喧噪とは比べ物にならない痛々しい程の静寂に包まれていた。
「……参ったな、こりゃ」
その場の空気に耐え切れず、魔人ガルティアが口を開く。だが常に悠然としているその魔人の表情も、さすがにこの時ばかりは強張っていた。
三人の魔人の前にある簡易机、その上にはつい先程敵の軍師を名乗る魔物から届けられた書状と写真が置いてある。
書状に書かれている内容と、なによりその写真に写る派閥の主の見るも無残な姿が、そこに居た3人の魔人達に敗北の事実を明確に突き付けていた。
「……私が、私があの時……」
血の気が引いた、酷く蒼白した顔をシルキィがその両手で覆う。
あの時、ホーネットの命令に逆らってでも自分がペンゲラツリーに向かっていれば。
そうすれば代わりに自分は魔血魂になっていたかも知れないが、この場にはホーネットが居る筈である。その方が彼女にとっては何倍も気が楽であったが、今更後悔してどうにかなる話では無かった。
「別にお前のせいじゃないだろ。俺もメガラスもこうなるなんて思わなかったし、それに最終的な決断したのはホーネットだ」
「……それは」
それぞれ意見を出し合い、その中で派閥の進む道を決めるのは常にホーネットの決断一つ。
確かにそれは事実であったが、それはシルキィにとって慰めになるような事でも無いし、そもそも何が悪かったかを考える事にも、もはや意味など無かった。
「シルキィ。一応聞くけどさ、この後って俺達どーすんだ?」
「……そんなの考えるまでもないわ、降伏しましょう。……ホーネット派が、ホーネット様を欠いて戦える訳が無い」
まだその顔を上げられない魔人四天王は、深く俯きながら答える。
ホーネット派とは、前魔王の娘であり魔人筆頭たるホーネットを中心とした派閥。よってホーネットだけは替えが利く存在ではない。
シルキィ含む他の魔人ならまだしも、ホーネットだけは欠いてはいけない。それが行方不明ならばまだともかく、敵に身柄を拘束されたと知った今、降伏する他に何一つ取れる選択肢など無かった。
(……この後、か)
派閥戦争には決着が付き、ホーネット派が敗北した。その後の事に目を向けた時、シルキィの脳裏にいつかのランスの言葉が浮ぶ。
ケイブリスが魔物界を掌握して、人間の世界に侵攻する。それを番裏の砦で耳にした時、絶対に阻止しなければならない事だと思った。
だが敗北した今となっては、その平和を脅かすのは自分のこの手によってなのかもしれない。
これからの事を考え、そんな悲惨な未来予想に思考を囚われていたシルキィを横目に、ガルティアは机に置いてあったケイブリスからの書状をひょいと摘み上げた。
「降伏か。まぁ、そりゃそうだな。けどこれさ、投降すれば命だけは助けてやる、なんて書いてあるけども、多分俺の事は例外だよな」
「……そっか。ガルティア、貴方は……」
その言葉の意図に気付き、思わずシルキィは俯いていたその顔を上げる。
ガルティアは元々ケイブリス派であり、その後寝返ってホーネット派となった魔人である。敵派閥の主の性格から考えて、そんな裏切り者の再度となる恭順を許すとは到底思えない。
つまりガルティアにはもうこの後は無い。その事を思いシルキィは沈痛な表情となるが、対して彼の表情は悲壮感などない普段通りのものだった。
「別にこっちに来たのは俺が自分で決めた事だ。何も後悔しちゃいねーし、シルキィが気に病む事じゃないって」
「ガルティア……」
「それにさ、俺は魔血魂に戻るだけだから、場合によっちゃお前達の方がキツいんじゃないか?」
命だけは助けてやる。その言葉の意味を少し考えればすぐ分かる事だが、投降した先での扱いに関しては推して知るべしというものである。
それがまさに先程考えていた事で、ガルティアの言いたい事はシルキィにもすぐ分かった。
「……それはそうかもね。けど仕方無いわ。……私達は、負けたんだもの」
「……そうだな」
そして再びその場を沈黙が支配する。
シルキィは未だ後悔の渦の中にある頭を何とか切り替え、そして先程から一言も発していないが、自分と同じように強く悔いている事が分かるその魔人に声を掛けた。
「メガラス、悪いけど私を魔王城まで運んでくれる? ……サテラやランスさん達にも、ちゃんと説明しなくちゃね」
◇ ◇ ◇
そして魔王城。
城内で普段通りの日々を過ごしていたランス達は、すぐさまシルキィの部屋に集められた。
そして魔人四天王が事の経緯を伝えると、その場は先程と似たような沈黙に包まれる。今度それを破ったのはサテラだった。
「……負けた?」
力が抜けたようなその声に、シルキィは頷く事でしか返事が出来ない。
ちゃんと説明しなくちゃいけない。そう思ってはいたのだが、しかし当人達を前にするとどうしても多くを言葉に出来ず、ホーネットが敵に捕らえられて、ホーネット派は派閥戦争に負けたという単なる事実だけを口にした。
するとそれだけでは到底納得が出来なかったサテラは、声を荒げてシルキィに詰め寄った。
「どういう事だシルキィ!! ホーネット様が負けるなんて、そんなの絶対あり得ない!!!」
「……サテラ」
その言葉に、シルキィは泣きたい気持ちになった。
自分もそう信じているし、そう信じたい。だがその思いを打ち砕く有無を言わせない現実がある。
「……これ」
シルキィがその手に持っていた写真をサテラに手渡す。それを目撃した途端に彼女の大きな瞳が驚愕に見開かれ、すぐにじわりと涙が浮かんだ。
「そ、そんな……。嘘だ、ホーネット様……!」
「おい、俺様にも見せろ!」
傍で話を聞いていたランスが、呆然と立ち尽くすサテラの手から写真を奪う。
「こ、れは……!」
それは単に偶然なのか。それともある種の運命のようなものなのか。
そこに写っていた姿にランスはとても見覚えがあった。それは前回の戦いの時に魔王城へと乗り込み、ホーネットを救出した時に目にした姿とまるで変わらないものだった。
「……おい、ホーネットの身に何があった!?」
「……私にも、詳しくは分からない」
シルキィは痛ましげに首を横に振る。派閥内で最強の力を有するホーネットがどうして敗北する事になったのか。それはこの場の誰にも知らぬ事。
シルキィも自分なりに推測はしている。ペンゲラツリーで何かが起きたのは間違いない。ケイブリス派の待ち伏せを受けたのかも知れないが、出立の前にホーネットは危険が迫ったら必ず退くと自分と約束してくれた。
ならばその判断を誤ったのか、あるいは撤退する暇も無かったのか。もしかしたらだが向こうの派閥の主が動いた可能性もある。
だがいずれも想像の域を超えず、今更言っても全て詮無い事であった。
「私に分かるのは、ホーネット様が敵に捕らえられたって事。……そして、私達が負けたって事」
「……負けたのかどうか、そりゃあまだ分かんねーだろ」
鬱々とした場の空気をかき消す為、あえてランスは腕を組んでふんぞり返る。
その男ははまだ何も諦めてはなかった。傍ですんすんと泣き始めたサテラの声を聞きながら、何か良いアイディアはないかとその頭を巡らせる。
「なぁシルキィ、今からホーネットの救出に向かう事は出来ないのか?」
「無理よ。今ホーネット様が何処に居るかも分からないのに……」
「ぬぅ……。け、けど、全くなんも手がかりが無いって事は無いだろ?」
「……可能性で言えば、多分ホーネット様の身柄はすでにケイブリス派の本拠地、タンザモンザツリーに送られていると思う。けれど……」
現在の最前線拠点となる魔界都市ビューティツリーからでも遠く、その道程の途中にケッセルリンクの居城があるタンザモンザツリーまでは、今まで一度たりともホーネット派は侵攻出来た試しが無い。
ホーネットが居た時でさえそうなのに、絶大な戦力であるその魔人を欠いた今、とてもそんな事を実行出来るとはシルキィには思えなかった。
「……それに何より、向こうにホーネット様の命が握られてる以上、私達に選択肢なんて無いわ」
「……ぐ、ぬ」
送り付けられた書状には、とっとと降伏しないとホーネットの命は無いと書かれている。どうにか救出しようにも下手に動いてそれを察知されたら、彼女の身にどのような危険が及ぶか分からない。
ランスもどうにか出来ないものかと考えてみたものの、名案は浮かばず唸り声しか出なかった。
「私達はこれからケイブリス派に降伏する。けれどランスさん、貴方達まで付き合う事は無いわ。貴方達はすぐにでも元居た世界に戻って。それで、この後起こり得る魔軍の侵攻に備えて欲しい」
「……しかしだな」
「いいの、貴方達は人間なんだから。……それと、こんな事になってしまって本当にごめんなさい」
シルキィは目を瞑り、深く頭を下げる。
ランスはそんな彼女の姿を見ていられず、隣に居るサテラに視線を移す。
「サテラ、お前も降伏すんのか?」
「……当たり前だ。ホーネット様の命が掛かってるんだから」
目元を拭いながら、とても悔しそうな表情でサテラは答える。
両魔人の悲痛な様子を目にしたランスの心中では、納得のいかない思いを通り越して苛立ちがふつふつと湧き始めた。
(……おかしい。最強の英雄である俺様が味方したホーネット派が負けるなんて、ぜーったいにおかしい。これは何かの間違いだ)
前回の時、ホーネット派は敗北した。だからと今回はこの自分がわざわざ魔物界に乗り込んでまでホーネット派に協力したのに、同じ結果になってしまうなどと彼は想像すらしていなかった。
しかしランスは魔人ガルティアの引き抜きという功績は上げたものの、その後は特に何もせず城内でだらけた日々を送っていた。
そしてそもそもホーネット派は負ける運命にあった。それはそうなるだけの戦力差があったという事であり、先を知る筈のランスが何も手を打とうとしないのなら結果が変わる筈は無かった。
「ランス様……」
熟考していたランスの服の裾を、彼の奴隷がちょんと引っ張る。
その場に居たシィル、かなみ、ウルザの三人は皆一様に、不安そうな顔で彼を見つめていた。
「……なんだ、シィル」
「その、シルキィさんの言う通り、早くランス城に帰った方が……あいたっ!」
言い終わる前に、ランスはその頭を叩いて黙らせる。
「ランス。ここに居ても、私達に出来る事なんて無いような……」
「やかましいぞ、かなみ。それを今こうして考えてんだろうが」
かなみの言葉にもランスは全く取り合わない。
「ランスさん。気持ちは分かりますが……」
「ウルザちゃん。軍師として何か良い作戦は思い付かんのか」
「……軍師として私がランスさんに提案するなら、やはりシルキィさんの言う通りに私達の世界に戻り、各国と今後起こるであろう戦争について協議すべきだという事です」
この先起こる事をすでに知らされているウルザは、一刻も早い対処を取る事を促す。
しかし信頼する軍師にそう言われても、ランスは首を縦には振らなかった。
「まだだ、まだ出来る事はある筈だ。この俺様がここにいるのに、敗北するなんてありえん」
「しかし、派閥の主の命が敵に握られている現状では……」
「……えぇ。ランスさん、どうにかしようとしてくれている貴方の気持ちは本当に嬉しいわ。けれど、今はホーネット様の身の安全が最重要なのよ」
ホーネットの生殺与奪を相手に握られている以上、どんな有効な策が思いついたとしても実行は出来ない。
ウルザとシルキィから同じように諭されても、それでもランスは納得しなかった。
「……つーかお前等はそれでいいのか? ここでケイブリスに下ったら、ホーネットを人質に取られて何でもかんでも言いなりになるって事だぞ」
「それは……仕方ない。サテラ達に残された手段は、ケイブリスに従う事だけだ」
「……シルキィちゃんもいいのか。君は人間を守りたいんだろ? このままじゃ奴の命令で人間の世界に侵攻する事になるんだぞ」
「……覚悟の上よ」
二人共その表情には苦渋の色があったが、それでも決意は固い。彼女達にとって、派閥の主であるホーネットはそれ程の存在だった。
「……ぬ、ぬ、ぬ」
静まり返った部屋の中で、その呻き声も虚しく響くのみ。
ランス以外の皆はすでに、ホーネット派が敗北したという事実を受け入れていた。この場において、まだ抗う方法を考えているのは彼だけだった。
何だか自分だけが聞き分けの無い奴であるかのような気がしてきたランスは、他の面々の諦めの良さに苛つき、自分に向けられるその視線が嫌になって思わず天を仰いた。
(これだと前回となんも変わらねーじゃねーか。これだと……)
ランスは派閥戦争の結果を変える為にこの魔王城までやってきた。同じ結末になってしまうのなら自分がここに来た意味が無い。
(……とはいえ、こうなった以上はさすがに……。大体ケイブリスの奴が攻めてこようが何だろうが、また俺様が世界総統になっちまえば楽勝でけちょんけちょんに出来る筈だ)
今後ケイブリスが魔軍を率いて人間世界に侵攻を行い、その結果第二次魔人戦争が勃発する。それは前回の通りだろうが、そもそもランスは一度それを経験し、それに見事打ち勝ってきた。
各魔人の弱点やキナニ砂漠の問題など、今からなら採れる対策は幾つもあり、前回よりも遥かに有利な条件で戦える。一度経験したランスにとって、今回の第二次魔人戦争は驚異には感じなかった。
(……だが)
ランスの前には魔王城に来てから何度もその肌に触れた二人の魔人、サテラとシルキィがいる。
ランスが未だに諦め切れない、この現実を受け入れられない理由。それは自分が居たのに負けたという悔しさ以上に、彼の最大の行動原理であり、時に自分の命よりも優先する程に大事な自分の女達の事。
ホーネットという人質を取られた彼女達は、ケイブリス派の中でどのように扱われるだろうか。
(……間違い無くめちゃくちゃにされるな。つーか俺様だったらそうする。サテラもシルキィも、ついでにハウゼルもホーネットもみーんな俺様の女だぞ。ケイブリスなんぞにやる訳には……ッ!!)
このまま自分が引き下がったら、ホーネット派の面々は投降した先で陵辱されるだろう。ほんの一瞬そんな光景を思い浮かべただけで、煮えたぎるような怒りが込み上げきつく噛み締めた奥歯が軋む。
この場に居る皆からもう打てる手は無いと言われても、大切自分の女をケイブリスに捧げる事などランスに我慢出来る筈が無かった。
(ぐぬぬぬ、何か良い方法はねーのか!! このままじゃ俺様の女が奴の言いなりに……! 人質を使って言いなりになんて、俺様の得意分野なのに……! なにか手は……て、ん?)
人質を取るなどという卑怯な手段は、自分がされる事では無くて、自分がする事な筈である。
そんな益体も無い事を考えた時、ランスはふと思い付いた。思い付いてしまう辺り、確かに得意分野と言えた。
「そうだ、人質だ。こっちにも人質が居るじゃねーか。……サテラ、シルキィ! 諦めるのはまだ早いぞ、ホーネットを助ける方法はある!!」
その言葉に、二人の魔人が目を見開く。
もうなにも手の打ちようが無い。そう分かっている筈なのに、何故だかその声には希望を湧かせる不思議な響きがあった。
「ランス、本当に? 本当にホーネット様を助けられるの?」
サテラの涙に濡れる紅い瞳に、その男の自信に溢れる表情が映る。
ランスの脳裏にあるのは、絶世の美貌を持つドラゴンの魔人。その閃きが間違い無くこの現状を打開出来ると確信があった彼は、サテラに向けて力強く頷いた。
「心配すんなサテラ、全部俺様に任せろ。……ホーネット救出作戦開始だ、ゼスに向かうぞ!」