「泊まり、ですか」
リーザス王国、ノースの町。夕焼け色の空の下。
魔人ホーネットは、ランスの言葉を繰り返すようにそう呟いた。
「そうだ、泊まりだ。もう夕方だし、今からこの町を出発すると、パラオ山脈を越える頃には真っ暗になっちまうからな。それにほれ」
ランスはその顎でくいっと、先程迷子になっていた踊り子の方を指し示す。
「シャリエラの事を見ろ。こいつ昼間はしゃいだせいで、もうこっくりしてるじゃないか」
「……ん。シャリエラ、まだ眠くない」
そう答える彼女の瞼は半開きで、その頭はゆらゆらと前後に揺れている。
今までシャングリラの外には出た事が無く、このような旅は初めての経験。色々なものに興味を惹かれ、普段よりテンションの高かったシャリエラには、疲労から徐々に眠気が訪れていた。
「シャリエラよ、眠たい奴は皆そう言うのだ。とりあえず今日の所は宿を取るぞ。ホーネット、魔王城に帰るのは明日でいいだろ」
「……そうですね」
目をぐりぐりと擦るシャリエラの姿を横目で見たホーネットは、ランスの言葉を肯定した。
魔王城を出発してからここまでの道中、夜を越す時には何度かキャンプを行っており、それは同じ宿に泊まる事とそれほど大差が無い。
その為すでにホーネットにも宿泊に関して抵抗感は無く、この時点では然程警戒していなかった。
◇ ◇ ◇
「おうおやじ、三人で一部屋、一泊だ」
「あいよ、60Gね」
町の大通りからやや外れた場所にあった、あまり料金の高く無さそうな旅宿。
その宿の主人と宿泊のやり取りを行い、ランスはカウンターの上に小銭を置く。
「………………」
その様子を、眠たげなシャリエラに寄り掛かられたホーネットが、遠巻きから不審な目で見ていた。
少々疑問を抱いた彼女は、手続きを終えたランスが戻ってくるなり声を掛けた。
「ランス。どうして一部屋なのですか? 普通このような場合は、三部屋取るべきでは?」
「んなぜーたく言うな。一部屋あれば十分だろ」
基本的にケチな性格をしているその男は、あたかも当然の事を言うような表情でそう告げた。
だが、勿論その狙いは節約などでは無かった。
「つー訳で。今日は一つ屋根の下、同じ部屋で一緒に仲良く眠ろうじゃないか、なぁホーネットよ」
したり顔のランスはホーネットの隣にサッと寄ると、彼女の肩に遠慮無く腕を回す。
若干眉を動かしたものの、あえてその腕は避けなかったホーネットだったが、その思惑を理解して先の自分の見通しの甘さを少々後悔した。
同じ宿に泊まる事と、同じ部屋に泊まる事は当然ながら全くの別物。何度かキャンプを行った際も、使用したテントはそれぞれ別であり、同衾を許した事は無い。
ランスに肩を抱かれているホーネットは、少し考える仕草をした後、首を左右に振った。
「……私は外でも構いません。こう見えても戦争の中で、野宿の経験はありますから」
「おーっとぉ、そうはいかんぞホーネット。財布を握っているのは俺様だと言う事を忘れるなよ」
ランスは小銭の入った巾着袋をポケットから取り出すと、その魔人に見せつけるかのように指先でくるくると回す。
魔物界で箱入りの姫として生まれ育ったホーネットや、人形として主に仕えていたシャリエラは人間世界の通貨を所持しておらず、ランスが出発前にシィルからぶん取ってきた、その巾着袋の中身が彼らの全財産である。
「一文無しのホーネットちゃんは、つべこべ言わずに俺様に従った方が懸命だと思うがな?」
「野宿なら、お金は必要ありませんよ」
「違う、違うぞホーネット。お前さては分かってないだろ」
ちっちっち、と指を振るランスには、ホーネットと同じ部屋でお泊りをする絶対の勝算があった。
「お前。明日どーやって、ここから魔王城まで帰るつもりなんだ?」
「………………」
「まさか歩くのか? そりゃあすっごい時間が掛かるな、その間に派閥が負けてしまうかもしれんぞ。その点うし車を使えばすぐに着くだろうが、それを雇う金はだーれが出すのかなぁ?」
勝ち誇った顔のランスはホーネットの肩をゆっくり叩きながら、ぺらぺらと滑らかな口調でお金の重要性を説明する。
このリーザス王国に入ってから、町と町を移動するのにもうし車を雇っており、広いこの大陸を移動するにはうし車を欠かす事は出来ない。
沈黙してランスの言葉を耳にしていたホーネットだったが、人間世界での行動の決定権は現金を持つその男に握られているのだと理解すると、諦めたように瞼を閉ざした。
「……一晩だけです」
「宜しい。……大体お前な、俺様に裸を見られても何も気にしない癖に、一晩一緒に寝る位であーだこーだ言うなっての」
「……私がいつ、貴方に裸を見せたのですか」
その言葉と共に、思いの外ホーネットに鋭く睨まれたので、ランスはうん? と眉を顰める。
彼の頭の中には、その傷一つ無い見事な裸体を見た記憶が確かにある。あれはいつの事だっけと少し考えて、すぐにそれは前回の時の話だったなと思い出した。
「あぁ、そういやまだ見て無かったか。いやでも、気にしないだろお前。そもそも普段から、殆ど透けてる服着てるんだし」
「………………」
ホーネットは何も答えず、肩に触れるランスの手をそっと払った。
◇ ◇ ◇
そして案内された部屋。
そこは注文通り一部屋であって、ランス達が魔王城で使用している一室よりも狭い部屋。
その上三台もベッドが置かれている為、少々部屋の中は窮屈だった。
「狭いなこの部屋。ちょっとぼろっちいし、英雄の俺様が泊まるような部屋じゃないぞまったく」
「………………」
「一部屋にする事を選んだのは貴方でしょう。とでも言いたい様な顔をしてるな、ホーネット」
「……分かっているならば、私は何も言いません」
言ってるじゃねーか、と思いながらも、ランスは出発前奴隷に用意させた冒険に必要な荷物一式を、その肩からベッドの脇に下ろす。
同じくホーネットも自身の荷物である装備一式、街を歩く際には外していた巨大な肩当てや剣を下ろすが、特に持ち物の無かったシャリエラは、即座にその頭をベッドに向けて突っ込んだ。
「おいシャリエラ、まだ寝るな。風呂と夕飯食ってからにしろ」
「んー……」
ランスの右手が、毛布に潜り込むシャリエラをむんず、と引っ張り出した。
そして、風呂場。
「シャリエラ、お前はこっち」
「ん、分かった」
シャリエラは、とててっとランスの側に寄る。
「シャリエラ、貴女はこちらです」
「ん、分かった」
シャリエラは、そそっとホーネットの側に寄る。
「おいシャリエラ。お前のご主人様は俺様だろ」
「ランス、この宿には他の客も居ます。貴方は彼女の肌を他の大勢の前に晒すつもりですか」
「いやけど、ご主人様の世話をするのは……」
従者として、主人の世話のするのは当然の事。そう考えるランスを無視して、
「シャリエラ、行きますよ」
「うん」
ホーネットはそれだけ言うと、シャリエラの手を引きながらさっさと女湯へと入っていく。
そしてランスは一人男湯の入口の前に、ぽつんと残されてしまった。
「……ぬぅ。つーかホーネットの奴、意外と面倒見がいいな。あれは恐らく、近くにサテラが居たからだな、多分」
ランスは二人を追いかけて女湯に突撃しようかとも思ったが、すぐに考え直した。
あの二人は、裸を見るだけならば幾らでも方法はある。自分はその程度の事を目標にしている訳では無いし、大事な作戦は後に控えている。
今はあまりホーネットに警戒されない方が良い。そう考えたランスは一人男湯に向かった。
そして、夕食時。
宿に備え付けの食堂、三人用の丸い木製テーブルの上に様々な料理が並ぶ。
「ふむ。安宿だが、意外と飯は美味いな」
ランスはテーブルマナーなどお構い無しに、がつがつと夕食を食らう。
「うん、美味ちい。シャリエラね、これ作れるよ」
シャリエラはもぐもぐと咀嚼しながら、テーブルの上に置かれている本日の夕食、うし肉を使ったハンバーグを指差した。
「へぇ。シャリエラお前、料理出来るのか」
「前に言った。シャリエラ、ご主人様に命じられた時の為に、お料理の練習いっぱいしたから」
「ほーん……。ホーネット、お前は出来んのか?」
ランスは優雅な所作で食事を取っていた、ホーネットに視線を向ける。
彼女は肉を切るナイフを動かす手を止めて僅かに目を閉じた後、しっかりとランスを見て答えた。
「私は魔人筆頭です。魔人筆頭として、相応しくあるよう心掛けています」
「……で?」
「魔王様から命じられたら、そういう事もあるでしょう。そうでないならば、殊更そうはしません」
「………………」
妙に回りくどい事を言うので、ランスは少し眉根を寄せて首を傾げたが。
「……つまり、出来ないって事だよな?」
「出来ないとは言いません。必要があるなら習得するべき技能の内の一つで、今の私には必要が無いというだけです」
──それを出来ないというのでは。
ランスはそう思ったが、どうもホーネットは認めない気がしたので、そこら辺は突かない事にした。
そして、就寝の時間。
部屋に戻って身支度を済ませるとすぐに、シャリエラは三台並んだ内の窓側のベッドに潜り込む。すると程なくして小さな寝息が聞こえてきた。
「……こいつ、ご主人様より先に寝やがった。従者としてどうなんだろうな、こういうのは」
「従者として問題があると思うのなら、躾けるのは主である貴方の役目ですよ」
「……まぁいいや、起こすのもあれだし。それに、俺様ももう眠いしな」
くわー、と大きく欠伸をしたランスは、そそくさと中央のベッドに潜り込んだ。
「さてと、それでは俺様も寝るとしよう」
「………………」
「ホーネットよ、俺は寝るからな」
「……そうですか」
「ああ、そうなのだ」
ランスは表情を変えないホーネットの顔をじっと見つめながら、くどくどと確認を繰り返す。
「うむ、俺様は間違い無く寝るからな。ホーネット、お前もちゃんと寝るように」
「………………」
「いいなホーネット、絶対にちゃんと寝るんだぞ。絶対だからな、分かったか?」
「……分かりました」
「よし」
言質を取った事に満足した様子のランスは、枕に頭を置いて目を瞑る。
そして身体をホーネットの逆側に向けると、すぐにいびきが聞こえてきた。
妙に作為を感じる言葉、あるいはその様子に、ホーネットは何らかの意図を感じていたが。
「…………ふぅ」
小さく息を吐き、部屋の照明のスイッチを切る。
闇に包まれた部屋の中、彼女は入口側のベッドに入って身を横にした。
◇ ◇ ◇
そして、深夜。
窓からの月明かりだけが差す、暗い部屋の中。
横に三台並んだベッドからは、眠りに付いている者達の静かな息づかいだけが聞こえていた。
だが。
「……くくく」
抑えてはいるが、それでも隠せていない忍び笑いが、突然中央のベッドから聞こえた。
「……さぁーて、さてさて」
突然ランスの瞼がぱちりと開かれる。他の二人が寝静まるまで、ずっと狸寝入りしていたその男の顔は、眠気など全く感じさせないものであった。
「もう良い子は眠る時間だ。……つまり、悪い子の俺様はまだ起きているのだ」
しめしめと笑うランスは、両隣から聞こえてくる寝息の主を起こさないよう、ゆっくりとベッドからその身体を起こす。
左右のベッドで無防備に眠っているのは、未だ手を付けていないシャリエラとホーネット。
当然こんな絶好の機会を逃すランスでは無く、宿を取る事を考えた時から襲う気満々だった。
「よーし、こっちの良い子はどうかなぁ?」
ランスは抜き足差し足忍び足で、月明かりが差し込む窓側のベッドに近づく。
「……すぅ、すぴー」
そこに眠るのはシャリエラ・アリエス。
何度か寝返りを打ったのか、彼女は毛布を横に抱いて、小さく口を開いて眠っていた。
「つんつんつん……、うむ、ちゃんと寝てるな」
ランスの人差し指が、頬や胸など、シャリエラの身体のあちこちを突く。
だがその口から小さく漏れる、可愛らしい寝息が乱れる事は無かった。
「こっちの良い子はいつでも味わえるから、今日はこのまま寝かせてやろうじゃないか。……問題は、あっちの良い子だな」
元々そちらが今夜の目的。ランスは覚悟を決めた目付きで部屋の入口側のベッドを睨む。
「そーっと、そぉーっと……」
ひっそりと静かな部屋の中、出来る限り足音を殺してそのそばへと近づいていく。
「………………」
そこに眠るのは、誰あろう魔人筆頭。
いかなる時でも行儀の良い彼女は、仰向けのまま姿勢を全く崩さずに眠っていた。
「……うし、まずは……」
先程の様につんつんしようと、ランスは人差し指を近づける。しかし、
「……なんか、こいつ……」
その身体に触れる直前、手を伸ばし掛けたままの姿でしばし固まってしまう。
魔人筆頭たるその女性は、寝ている時だと言うのに隙が感じられず、少しでも触れようものならすぐに目を覚ましてしまうような気がした。
「……つーか、こいつ本当に寝てるか? 俺と同じで寝たフリしてるんじゃねーだろうな」
閉じられた瞼や規則正しく聞こえる呼吸音など、見た限りでは寝ているように見える。
けれども少し不安になってきたランスは、彼女の寝顔をじっくりと観察してみる。
「……うーむ」
だが閉じられた瞼の長い睫毛や引き結ばれた唇など、思わず息を呑んでしまうようなその美貌を眺めていると、寝ているかどうかなど些末な問題のように思えてきた。
「相変わらず美人だなこいつ。こんな美人と一緒に寝てるのに、襲わないなんて失礼な話だよな」
ランスは自らの言葉を肯定する様にコクコクと頷くが、その内心では結構ドキドキだった。
なにせこの美しい魔人は、その身に信じられないような力を秘めている。軽くあしらわれるならまだ良い方で、返り討ちにあったら死ぬ可能性もある。
城から砂漠までの道中、キャンプを行った際にも襲おうと思えば襲う事は出来たのだが、どうしても自分がホーネットの魔法で瞬殺されるイメージしか湧かず、決心する事が出来なかった。
しかしこの前その胸に触れた時の感触からして、失敗してもそこまで酷い事にはならないだろうと思い直したランスは、今夜寝込みを襲う事に決めたのだった。
「大体このランス様ともあろう者が、まだものにしていない美女を前にして、いつまでも手をこまねいている訳にはいかんのだ。と、言う事で……」
ふぅー、と大きく深呼吸すると、覚悟を決めたランスはサッと一瞬で素っ裸になる。
そして。
「ぴょーーーんっ!!」
眠るホーネットが被る毛布をバッと剥ぎ取ったランスは、無防備なその身体に向けて、掛け声と共に勢い良く飛び込んだ。
だが。
「………………」
「……ぐ、ぬぬ……! こいつ、やっぱ起きてやがったなぁ……!」
馬乗りになり、彼女の両胸を鷲掴みにする寸前、その両手首を彼女の両手が掴んでいた。
押しても引いてもびくともせず、腕の自由の奪われてしまったランスは、気が付けば目を開けていたホーネットと近距離で睨み合った。
「……先程からの貴方の声で、目が覚めたのです」
「いーや違う! 俺様を警戒してずっと起きていたに違いない! ホーネット、卑怯な奴め!!」
「……どちらがですか」
自分の行いを棚に上げるランスの言葉に、ホーネットは疲れたように嘆息する。
寝込みを襲われて、自らの身体の上を相手に跨がられながらも、彼女はまるで余裕の体を崩していなかった。
「……ランス。次があるとは思わないようにと、私は言いませんでしたか?」
その言葉と共に、その金の瞳から徐々に威圧感が強まっていく。
「あぁ、確かにそんな事言ってたな。だがそんなんで諦めるとは思うなと、俺様も言ったはずだぞ」
ランスは気圧されないようにと、ホーネットの胸を掴みかからんとする両腕にぐっと体重を乗せる。
重心が前に掛かるとその頭の位置が下がり、二人の鼻先が当たりそうな距離まで近づく。
「…………っ」
ホーネットは僅かに瞼を閉じたものの、すぐに開いたその瞳から、ランスの全身を硬直させるような強烈な威圧を放った。
「ぐっ、」
「……私の上から、退く気はありませんか」
「……この、毎度の事だがおっそろしい目をしやがって。……だがな」
その視線からひやりと身の危険を感じたが、それでもランスは不敵に笑う。
寝込みを襲うと決めた時からこうなる事も一応承知済みであって、彼も全くの無策で魔人筆頭に挑もうとした訳では無かった。
「ホーネットよ、窓側を見ろ。そこですやすや眠ってるのは誰だ?」
「……シャリエラですね」
「ああそうだ。この部屋にはシャリエラも寝ている。お前がここで魔法なんか使ったら、あいつの事を巻き込む事になるぞ、いいのか?」
にぃと口角を釣り上げたランスの狙いは、シャリエラを盾にする事でホーネットの抵抗を封じる事。
わざわざその為に三人で一部屋にしたのだが、しかしそれは彼女からすると、あまりに考えの足りない作戦と言わざるを得なかった。
「……別に、魔法など使いません」
「うおっ」
ホーネットがランスの肩を掴んだ。とその瞬間、彼女はするりとその下から抜け出すと、流れるように互いの体制を入れ替える。
ランスがハッと気付いた時には、押し倒していた筈の相手に見事に押し倒されていた。
「ちょ、おい、離せっ!」
つい先程までホーネットが眠っていた、ベッドマットに残る温もりを味わう余裕も無く、身動きが取れないランスはじたばたともがく。
だがその背中を押さえつけるホーネットの腕は、どれだけ暴れても微動だにしない。なにせ彼女は魔人筆頭、すらりとしたその細腕でも人間のランスより当然膂力は上だった。
そしてランスは毛布やベッドマットで身体中を巻かれると、更にその上から荷物袋の中にあった捕獲ロープによって、厳重に縛られてしまった。
「ぐぬー! ホーネット、解きやがれー!!」
「静かになさい。シャリエラが起きますよ」
毛布の簀巻きにされてしまったランスは、じったんばったんと身をよじって大暴れ。
だがそれでも埃が舞い上がるだけで、捕獲ロープの結び目はまるで緩まる気配が無かった。
「がー!! 良いじゃねーかよセックスの一回ぐらい!! この俺様がこーんなに何度も頼んでるのに!! ホーネットのいじわる!! ケーチ!! バーカ!!」
手も足も出せないランスは、唯一使えるその口でもって、ホーネットに対して悪口攻撃。
基本的に大した効果の無いそれだが、あまりに嘆かわしいその姿に気が抜けてしまったのか、相手の威圧感を消す事だけには成功した様子だった。
「頼んでいる様には思えませんが。……いずれにせよ、貴方はそろそろ弁える事を覚えなさい」
「わきまえろだぁ!? まーたそれか!! 何度も何度も同じ事を言いやがって!!」
いい加減、その事を言われるのにも苛ついたのか、ランスは首を起こしてギッと睨み上げる。
「魔人の格だなんだを、俺様が弁えるような奴じゃないって事、お前もそろそろ覚えろっつーの!!」
がなり立てるその男の、強い眼差しと目が合った魔人筆頭は、
「………………」
何を思ったのか、すぐにその顔を下に逸らした。
「………………」
「…………おい」
「………………」
「……おい、何とか言えよホーネット。つーか、この縄を解け」
「…………ふぅ」
長く顔を伏せていたその魔人は、一度小さく吐息を洩らす。
「……そうではありません」
それは普段の彼女からするととてもか細い、実に弱々しい声での呟きだった。
「そうではなく……場を弁えなさいと、そう言っているのです」
「……あん?」
どうにもその意味が分からず、眉根を寄せたランスの目に映ったその表情。
窓から差す月明かりだけでは顔色は分からなかったが、その表情は、今まで目にした記憶が無いような表情をしていた。
「……もう眠ります。明日には魔王城に出発しますよ。早く起きるように」
ホーネットは一瞬ちらりと窓際に視線を送ると、そのまま真ん中のベッドに横になって瞼を閉じた。
煩かった部屋の中に静寂が戻る。
「……つーか、俺様はこのままか」
身動きの取れないランスは、芋虫のような姿で夜を越した。