ランス(9.5 IF)   作:ぐろり

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魔人ワーグに近づけない

 

 

「うーむ……いでっ!! って、ありゃ?」

「目が覚めた?」

 

 ぱちん!! と頬を張られた衝撃と痛みによって、ランスの意識が一気に覚醒する。

 クリアになったその視界には、魔人四天王の心配そうな表情が映った。

 

「おお、シルキィちゃん」

「良かった……。貴方、今殆ど眠ってたわよ。心配したんだからね」

「ランス様、大丈夫ですか?」

 

 ホッとしたように笑顔を見せるシルキィのすぐ隣には、一足先に叩き起こされていたシィルの姿。

 

「……ぬぅ」

 

 今しがた永久の眠りに落ちかけていたランスは、奴隷に支えられるようにして体を起こす。そして微かに残る眠気を払うように頭を乱暴に掻いた。

 

「……さっきはびっくりする位にクソ眠かったぞ。……けど、今はもう眠くないな」

「それはきっと、ワーグの能力の影響が及ぶ範囲を離れたからね。二人をここまで運んでくるの、結構大変だったのよ?」

 

 ランス達の乗るうし車は現在、両魔界都市のちょうど中間辺りの道の脇に停車していた。

 先程、一向はここより少し先で魔人ワーグの能力に触れた。突如急激に湧いたその眠気に耐えきれず、眠りの淵に沈みかけた二人を守る為、シルキィは安全な場所まで全力で逃げてきたのだった。

 

「どう、二人共。さっきの眠気がワーグの能力よ。あのまま二人が眠ってしまったら、そのまま二度と目覚める事は無い。魔物界でワーグが恐れられている理由が分かるでしょ?」

「二度と、目覚めない……」

「ぬぅ……」

 

 その言葉にシィルは表情を凍らせ、さすがのランスも苦虫を噛んだような表情を見せる。

 ワーグの意思によってなら目覚める事は可能であるが、敵対している現状ではそれは望めない。魔人すらも恐れると言われるワーグの能力、その文句に何一つ偽りは無かった。

 

「……でも、どうしようかしら。さすがにこうなった以上は……」

 

 顔に困惑の色を浮かべるシルキィが考えるのは、ランスとシィルの二人の事。

 このまま二人を自分に同行させるのは、やはりとても危険な事だと彼女は再認識した。

 

 ここまで連れて来ておいて追い返すのは心苦しい事であるし、ランスには個人的に協力して貰いたい事もあったのだが、それでも二人は城に戻った方が良いだろう。

 しかしどうやって二人を、特にランスを説得するか、シルキィが頭を悩ませていたその時。

 

「そうだな。こうなった以上、もう一回行くか」

「えっ!」

 

 先程のあの散々な結果を受けて、そんな言葉が出てくるとは微塵も思っていなかったシルキィは、驚きの余りに少し声が裏返ってしまった。

 

「どした?」

「……え。ランスさん、また行くの?」

「そりゃそーだ。だって、行かなきゃワーグちゃんには会えんだろ?」

 

 当然の事を言うかの様な表情のランスに、シルキィはその胸に得も言えぬ不安を覚える。

 一応、先程逃げてきた時に回収した二匹のうし達もぎりぎり起きていたので、まだうし車を動かす事は出来る。なので、行こうと思えばもう一度行く事も可能ではあるのだが。

 

「……けどランスさん。あの眠気はどうするのよ。今行ってもまたさっきみたいに……」

「さっきのあれは、いきなりだったから少し油断してしまっただけだ。今度は大丈夫」

「……本当に?」

「ほんとほんと。なぁシィル」

「え、ええと……どうでしょうかね……」

 

 シィルは何とも曖昧な表情で首を傾げる。あの強烈な眠気に打ち勝てるか、彼女には正直言って自信が全く無かったのだが、ランスは一切の有無を言わせない勢いで立ち上がった。

 

「とにかくもう一回挑戦だ。すぐに出発するぞ」

「………………」

「シルキィ、そんな顔をするな。俺様は無敵の英雄だ、油断さえしなければ眠気などには負けん」

「……そう、そうね。分かったわ」

 

 ランスのとても強気な言葉に感化されたのか、シルキィも大きく頷いて立ち上がる。

 止めておいた方がいいのでは。と心の内では何度も何度も警鐘が鳴っていたのだが、あえて彼女はそれを無視する事にした。

 

 何故ならランスと言う人間は、自分の想像を遥かに超える規格外の人間だからである。

 ガルティアを引き抜き、ホーネットの命を救い、メディウサを倒した彼の言葉をシルキィは信じる事にしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、二度目の挑戦。

 シルキィが運転するうし車は、先程その歩みを止めてしまった地点まで戻ってきた。

 

 ここからは車で進む事は不可能なので、この先に居るらしきワーグと戦うには徒歩で進むしか無い。

 そのように声を掛けようと、荷台を振り返ったシルキィの瞳に映ったのは。

 

「ううーん……」

「むにゃむにゃ……」

「て、ちょっとっ!! 二人共!! 大丈夫なんじゃなかったの!?」

 

 その光景は数時間前に見たそれと何も変わらず、二人は安らかな死に瀕していた。

 

「ランスさんの言葉を信じた、私が馬鹿だった……!!」

 

 シルキィは再び全ての魔法具を展開、装甲の巨人は同じ道をのっしのっしと戻っていった。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

「うーむ……痛ってえ!! って、ありゃ?」

「……目が覚めた?」

 

 ぱしーんっ!! と、先程よりも心なしか強めに頬を張られ、ランスの意識が一気に覚醒する。

 クリアになったその視界には、魔人四天王のちょっと疲れた表情が映った。

 

「おお、シルキィちゃん」

「……ランスさん。貴方、また殆ど眠ってたわよ。本当に心配したんだからね……」

「ランス様。その、大丈夫ですか?」

 

 はぁ、と息を吐くシルキィの隣、先に起きていたシィルは不安そうにランスの顔を覗き込む。

 

「……ぬぅ」

 

 今しがた、再びの永久の眠りに落ちかけていたランスは体を起こすと、まだ微かに残る眠気を払うように頭を乱暴に掻いた。

 

「……うーん」

 

 とそんなランスの様子を眺めながら、シルキィは密かに考える。

 

 やはりと言うかなんと言うか、薄々分かっていた事だが二人がワーグに接近するのは無理そうだ。

 とはいえここで二人を追い返す事もあれなので、今日はもうサイサイツリーに戻ろう。

 そして明日出発する時、ランスから何を言われても同行を断る。断固として絶対に断る。

 

 シルキィはそう決心して、本日は引き返す事にした。何より彼女はもう結構疲れていた。

 

「とりあえずランスさん、今日の所は……」

「よし、もう一回行くぞ」

「えー!!」

 

 それはシルキィだけでは無く、シィルの驚く声も綺麗に重なっていた。

 

「ら、ランス様。また行くんですか!?」

「おう。だって、進まない限りはワーグちゃんとセックス出来んからな」

「……ランスさん。でも貴方、眠気は……」

「大丈夫大丈夫。三度目ともなれば流石にもう慣れるだろ」

「……いや、けど……それに、私もちょっと疲れたって言うか……」

「それも大丈夫。俺は全然疲れてないから」

 

 胸を張るランスの様子に、顔を引き攣らせたシルキィは似た表情のシィルと顔を見合わせる。

 二人の目はお互いに対して「ランスを何とかしてくれ」と語っており、そしてお互いに「自分には無理だ」と語っていた。

 

 

 

 

 

 

 そして。結局ランス達は三度目の挑戦をしたが、分かっていた事だが結果は同じであった。

 

 魔人ワーグの姿が見える距離に近づく前に、ランスとシィルの身に強烈な眠気が襲い掛かる。

 どうしても二人はそれに抗う事が出来ず、眠りに落ちる前にシルキィによって助けられる。

 

 そして三度叩き起こされたランスは「よしもう一回」と宣言しようとしたその時、その腹から空腹を訴える音が聞こえた。

 

 ふと見れば常に暗い魔物界の空は更に暗く、そろそろ晩ご飯の時間が近い。

 その事に気付いたランスは今日の所はワーグに会うのを諦めて、サイサイツリーに戻る事にした。

 

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 サイサイツリーに帰って来たランス達を待っていたのは、ハウゼルの優しい笑顔と夕食だった。

 

「ほー。これ、ハウゼルちゃんが作ったのか」

「えぇ。きっとお腹が空いてると思って。具を出汁で煮込んだだけの簡単なものですけれどね」

 

 ハウゼルはにこりと笑って、ランスに炊き出しをよそった食器を手渡す。ふわりと漂う出汁の香りが食欲を大いに刺激した。

 

「はい、シルキィも。今日はお疲れ様」

「ありがとハウゼル。本当に今日は疲れた……」

 

 うし車が走った道程をランス達を抱えて何度も逆走する羽目になったシルキィの顔には、深い疲労の色が浮かんでいた。

 

 夜の闇と静寂に包まれたサイサイツリーの中、ランス達は焚き火の周りにそれぞれ腰を下ろし、ハウゼルが用意してくれていた夕食を味わう。

 ハウゼルは戦地にあっても魔物達に混じって料理の手伝いをする程に、他者を思いやる気持ちに溢れている優しい魔人であった。

 

「はぁ、美味しい。ハウゼルの作った炊き出しを食べるのって、すごく久しぶりな気がする」

「単なる炊き出しでも、ハウゼルちゃんが作ったのだと思うと格別に感じるな。うむ、うまいうまい」

「はい、美味しいです。それに夜はちょっと肌寒いので、これなら暖まりますね」

「ふふっ、皆にそう言って貰えると作った甲斐がありますね」

 

 それぞれの賞賛の言葉にハウゼルは柔らかく微笑む。そんな彼女の作った美味しい夕食を食べながら、しかしシルキィは少し疑問を抱いていた。

 

「けれどハウゼル、夕食を作っている暇なんてあったの? 貴女は捜索隊を指揮していたのよね?」

「それはシルキィ達のお陰。ワーグの居場所に当たりを付けてくれた事で、捜索も大分楽になったわ」

「ああ、そういう事か。それなら、今日の頑張りも無駄じゃなかったって事ね」

 

 殆ど無駄足と思えた本日の一連の行動に、僅かなりとも意味があったのだと知ったシルキィは、安心したように眼を閉じる。

 

 ハウゼルの言葉通り、シルキィ達がワーグの能力が及ぶ範囲に接触した事で、そこから相手の居場所をある程度予測する事が可能となった。

 あまり接近すると偵察部隊も眠ってしまう為、捜索には細心の注意を払う必要があるが、恐らく数日もあればワーグの居場所の詳細が判明する。それが捜索隊を指揮しているハウゼルの見解であった。

 

 そんな会話を交わしながら、まったりと夕食を食べていたランス達だったが。

 

 

「……うーむ」

 

 ふいにランスの顔が訝しげなものになり、焚き火の向こう側、対面の位置に座わっているその魔人の少し後ろをじっと睨む。

 

「……なぁハウゼルちゃん。それなに?」

「それ?」

 

 首を傾げるハウゼルに対して「そこに居るそれだ」と、ランスはその手に持っていたスプーンで彼女の背後を指し示す。

 ハウゼルにくっついて行動し、今はその後ろで食事を取っている、赤いローブを頭からすっぽりと被った化物のような容貌の謎の生物の存在が、先程からずっとランスの気を引いていた。

 

 そして後ろを振り向いたハウゼルは、あぁ、と納得した様に頷いた。

 

「火炎の事ですか。そういえば、会うのは初めてでしたね。火炎、挨拶を」

「はい」

 

 ランスの興味を引いていたのは、魔人ハウゼルの使徒、火炎書士の存在。

 自己紹介をするよう主に言われたその使徒は、食器を置いて立ち上がると小さく礼をした。

 

「私はハウゼル様の使徒、火炎書士と申します。私達ホーネット派に協力してくれている、人間のランスさんというのは貴方ですね。色々と噂は耳にしていますです」

「ほぅ、ハウゼルちゃんには使徒が居たのか。……つーか、火炎書士? 変な名前だな」

「わ、いきなり言ってくれますね。ハウゼル様から聞いていた通り、使徒や魔人に対してこんなに物怖じしない人は珍しいです」

 

 火炎書士の仮面の下の瞳が、興味深そうにランスの事を映す。初対面ではあるものの、彼女は独自に情報を調べたり主たるハウゼルから聞いたりなどして、ある程度ランスについての知識を得ていた。

 

「火炎は戦闘などは不得意ですが、頭脳労働が得意で機転が利く優秀な子なんです。基本的に魔界都市に居て魔物兵達の指揮をしているので、魔王城に居たランスさんとは会う機会が無かったのですね」

「ふむ、そうか。……火炎書士ねぇ。……声の感じからすると、君は女だな?」

「はい、火炎ちゃんは正真正銘の女の子です」

「うーむ、女か……。女……」

 

 右手で顎の下を擦るランスは、それはもう複雑な表情をしていた。

 女と聞いた途端、火炎書士に手を出してみたい気持ちもふつふつと芽生えたのだが、そのグロテスクな形相と交わっている時の事を想像すると、さすがにちょっと腰が引けてしまう。

 この時のランスはまだ火炎書士がそういう生物だと思っており、暗がりから遠目で見るその顔が仮面だと言う事に気付いていなかった。

 

 

「……まぁいいや。とりあえず今はワーグの事だ」

 

 頭を切り替えるように、ランスは食べ途中だった夕食の残りを勢い良く腹の中に流し込む。

 

 魔人ワーグ。見知らぬその女魔人に興味津々で、出発前は期待にテンションを上げていたランスだが、帰って来た今はとてもご機嫌斜めであった。

 

「ワーグちゃんにお仕置きセックスする為にここまで来たのに、セックスどころか姿を見る事すら出来んかったぞ。一体どうなっているんじゃこれは」

 

 本日ランス達は何度も魔人ワーグに挑んだのだが、結果は戦いになるどころか、相手の姿を一目見る事すら出来ない有様。

 その事が大層不満であるランスは、その原因となる人物に顔を向けた。

 

「シィル、お前がすぐに眠りそうになるからだぞ。そのせいで何度も引き返す羽目になったのだ」

「うぅ、ごめんなさい……。けれど、眠りそうになるのはランス様も同じじゃ……」

「ああん?」

「あ、いえ……」

 

 ランスはヤンキーのような表情で凄み、生意気を言う奴隷を黙らせる。

 確かに自分も眠りかけたと言えばそうなのだが、それでも最初に眠くなるのはシィルなので、彼の中では全ての原因はシィルなのであった。

 

「はぁ、全く駄目駄目な奴隷を持つと苦労するぜ。とりあえず明日だ、明日もまたワーグちゃんに挑戦するぞ。シィル、明日は絶対に起きてろよ。明日眠りやがったら寝てるお前をそのまま森の奥に捨てて帰るからな」

「そ、そんなぁ……」

 

 主の無慈悲な宣言に、奴隷の少女はくすん、と泣いて眉を下げる。

 と、そんな様子をじっと見ていたシルキィは、

 

「…………ふぅ」

 

 一度小さく息を吐いた後、何かを堪えるかのようにぎゅっと目を瞑る。やがて覚悟を決めたのか、大きくその目を見開いた。

 

「……あのねランスさん。少し聞いて欲しい事があるんだけど」

「あん?」

「今日、二人は何回挑んでもワーグには近づけなかったでしょ? その事なんだけどね……」

 

 シルキィは痛ましそうに顔を伏せる。出来ればこの様な事は言いたくない。

 だが、誰かが言わなければならない。ならばその誰かと言うのは、ホーネットに諸々を任された自分の役目だろうと、彼女は出来るだけ相手を傷つけないよう言葉を選びながら先を続ける。

 

「この前、城でサテラが言っていたでしょ? ワーグの眠気は強力だけれども、それでも高い能力があればある程度は抵抗出来るものなのよ」

「……シルキィ、何が言いたい」

 

 この時ランスはすでに何となく察してしまったのだが、それでもその先は言わせまいとして、シルキィの事を鋭く睨む。

 ランスのその目付きに押されて、思わず顔を背けてしまった魔人四天王であったが、それでも言わない訳にはいかなかった。

 

「……だから、その、ね? つまり、ワーグに全然近づけないのは、貴方達のレベルが、その……」

 

 

 ――足りていないのではないか。

 

 言葉をとても濁しながら、顔を明後日の方向に逸すシルキィのその様子が、ランスにその事実を雄弁に、かつ無情に告げていた。

 

「……な、なんだと。がーーーん……、がーーん……、がーん……」

 

 英雄である自分が、レベルが足りないなんて言うしょうもない理由で門前払いを受けている。

 その衝撃の事実に、自らの口でエコーを掛ける程にランスはショックを受けてしまった。

 

「………………」

「………………」

 

 石の様に固まるランスを前に誰も彼も声を掛ける事が出来ず、しばしその場を静寂が支配する。

 

(……やっぱり、こんな事を言われたらショックよね。気持ちは分かるけど、でも……)

 

 日々英雄だと自称して、そしてそれに見合う活躍も十分に見せている。そんなランスのプライドをへし折るかのような事実を突き付けてしまった事に、シルキィも内心で強く胸を痛める。

 

 だがそうでもしない限り、ランスはまた何度もワーグに挑戦して、恐らく全ては無駄骨に終わる。いや、無駄骨に終わるだけならまだしも、何かの間違いで永遠の眠りに落ちてしまうかもしれない。

 それだけは防がねばならぬと、そんな想いから彼女は心を鬼にして再度口を開いた。

 

「……だからねランスさん。やっぱりワーグの事は私に任せて、貴方達は魔王城に……」

「……シルキィ。つまり君は、この俺はクソ雑魚の役立たずのクズだから、そんな奴は邪魔になるから帰れと言いたい訳だな?」

「そ、そんな、そこまで言うつもりはないのっ!! ただ、もし万が一にも貴方が眠らされちゃったら大変だから……!」

 

 シルキィの心にあるのは、ハウゼルのそれと同じような他者を思いやる優しい気持ち。純粋にランスとシィルの事を心配して、だからこそこの場は自分に任せて欲しいと考えている。

 だが、そんな情の深い彼女の真摯な想いは、戦力外通告を受けて視野狭窄となっていたランスにはまるで届かなかった。

 

「……ぐ、ぬ、ににぎぎ……!!」

 

「お前は弱いから引っ込んでいろ」先のシルキィの言動をランスの脳が翻訳するとそんな表現になり、何とも屈辱的なその言葉に対し、怒りに身を震わせるランスは歯を食いしばりながら低く唸る。

 

 ばきり、と木製のスプーンが砕ける程に拳を握り締めるランスだったが、未だその怒りを爆発させて反論しないのは、シルキィの言葉が事実であろう事を心の奥では気付いていたからであった。

 

 現状、シィルは元より自分もワーグにはどうやっても近づけない。

 しかしあの時、自分と同じように相手の能力を受けているはずのシルキィにはまだ余裕があった。それがつまり、レベルの差という事なのだろう。

 

 このまま明日明後日と何度挑もうとも、あの強烈な眠気にはちょっと勝てる気がせず、ワーグに近づく為にはもっと根本的に何かを変える必要がある。そして当然の事であるが、ワーグを抱くのを諦めるという選択肢は無い。

 怒っているだけでは何も変わらない。屈辱的なこの現状を打開する事を決心したランスは、自分の隣に座っている奴隷の方にバッと振り向いた。

 

「シィーーール!!! 何をのんきに飯なんざ食っとんじゃー!!!」

「は、はい! ランス様!! えっ、でも……」

 

 夕食の時間ですよ? と小首を傾げるシィルの手から食べかけの皿を取り上げて、彼女の襟首を掴み上げながらランスは立ち上がった。

 

「レベル上げじゃーー!!!」

 

 片手で奴隷の事を抱え上げたランスは、そのまま猛然と何処かへ走り去っていった。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 ランスが走り去った後。静かになったその場には二人の魔人と一人の使徒の姿。

 

「……何というか、嵐のような人でしたね」

「……はっ!」

 

 呆然としている火炎書士のその言葉で、同じく呆然としていた魔人四天王は我に戻った。

 

「いけない、これじゃランスさん達が危険だわ。こんな時間に外に出たら……!」

 

 慌てて立ち上がったシルキィの切迫した表情が、事態の重さを物語っている。ついランスの勢いを止められずに見送ってしまったのだが、あのノリは大変危険なのではと彼女は思った。

 

 すでに夜。外は真っ暗な上に、ここは普段ランス達が生活している人間界ではなく魔物界であり、さらに戦争の真っ最中であり、ここはその最前線の魔界都市である。

 レベル上げをすると言っても、ここらに魔物と言えばケイブリス派の魔物兵しか居ない。まさか敵の拠点ビューティーツリーに突っ込むつもりなのだろうか。さすがにそれは無いだろうと思いたいが、ランスのあの暴走具合だと楽観視は出来ない。

 

 あるいはビューティーツリーには向かわずとも、魔物を探して森へと入ってしまったら尚危険だ。

 魔物界の森は単なる森では無く、生物を養分とする魔界アロエなどの危険な魔界植物が所狭しと生い茂り、魔物でも避けて通るような場所である。ランスはその事を知っているだろうか、知らないと見た方が良いだろう。

 

 瞬時にそう考え、そんな危険から二人を守る為に急いで後を追おうとしたシルキィだったが、遅れてハウゼルが立ち上がった。

 

「待ってシルキィ、私が行くわ」

「ハウゼル……、頼んでいいの?」

「ええ。シルキィは元々ワーグと戦う為にここに来たんだから、ワーグの対処に専念していて。私の仕事はもう目処が付いたから。火炎、貴女は捜索隊の指揮とシルキィの補佐をお願い」

「分かりましたハウゼル様、お気を付けて。こっちは火炎ちゃんに任せてください」

 

 そしてハウゼルは食べ終わった食器を丁寧に片付けると、その背に生えた翼を大きく広げて、ランスが走り去った方向へと飛び立っていった。

 

 

 

 

 

 ハウゼルが去った後の焚き火の前で、シルキィはとても大きな溜息を吐いてしまった。

 

「……はぁ。やっぱり、城を出発する前に私がしっかりと同行を断っておけば……。これじゃもう、ハウゼルの事を人の頼みを断れない魔人だなんて口が裂けても言えないわね」

「あ、あはは……」

「火炎もごめんね? 私がランスさんを連れて来ちゃったばっかりにこんな事になって。貴方はハウゼルの使徒なのに……」

 

 火炎書士は一般的な使徒の例に漏れず、主となる魔人の事が大好きな使徒である。

 その事を当然知っているシルキィは、ハウゼルのそばに居たかったでしょ? と、詫びるような視線でそう問い掛けたが、火炎書士は特に気にした様子を見せずに首を横に振った。

 

「いえいえ。火炎は問題無いですよ。火炎ちゃんはへっぽこですから、ハウゼル様に付いて行ってもランスさんのレベル上げのお役には立てませんし」

「……ありがと。そう言ってくれると助かるわ」

「けれどシルキィ様、ワーグの事はどうします? 恐らく数日中にワーグの居場所は判明するので、見つかり次第すぐにでもシルキィ様が戦う事も出来るのですが、それだと……」

 

 言葉を区切った火炎書士は、ちらりとランスが走り去っていった方向に視線を送る。

 その仕草でシルキィは言いたい事を察する。それは彼女も考えていた事だった。

 

「……そうね。レベル上げだーなんて意気込んで、終わって戻ってきたら戦いが終わってた、なんて事になったら……きっと拗ねるわね、あの人」

 

「何故俺様の事を待たなかったのだ」と、今後延々とグチグチ言われ続けるような、そんな未来が容易に想像出来てしまったシルキィは、何度目か分からない溜息を吐き出した。

 

「……とりあえず、少しの間はランスさんが戻ってくるのを待ってみる」

「分かりました。では私は捜索隊を動かして、現状はワーグの居場所の発見と観測に努めます。ただそれでも向こうから来てしまった場合、シルキィ様にお願いするしかありませんが……」

「うん、それは分かってる。さすがにその時はもう、私一人でワーグと決着を付けるしかないわね」

 

 いくらここでランスの帰りも待っていようとも、ワーグの方から攻めて来たら戦わない訳にはいかない。ランスの帰還のタイムリミットはワーグが動き出すまで、そうシルキィは心に決めた。

 

「それまでに、ランスさんが帰って来てくれればいいんだけど……」

「きっと大丈夫ですよ。ハウゼル様も付いている事ですし」

「……そうね」

 

 ランスに強い態度を取れないハウゼル頼みというのも若干不安なシルキィであったが、先程その事はもう言えないと宣言したばかりなので、その思いは胸の中にそっとしまい込む。

 そして何か話題を変えようと、シルキィは至って取り留めのない話を選択した。

 

「最近のハウゼルの様子はどう?」

「あ、そうなのです。最近のハウゼル様、ちょっとした変化があって。多分あの変化ってランスさんに出会ったからですよね? 火炎はハウゼル様のその変化を結構気に入っているのです」

「へぇ、そうなんだ。私は気付かなかったけれど、ハウゼルの何が変わったの?」

 

 長くを生きる魔人は精神的に成熟して、そう簡単に何かが変わったりはしないもの。けれど共に過ごす時間が長い使徒にだけ気付ける何かがあるのだろうかと、シルキィはその話に興味を抱いた。

 

「ハウゼル様、部屋で読書をしている時とか、急に何かを思い出した様子で顔が真っ赤になって、胸を押さえたり首をぶんぶん振ったりするのです。何を考えているか丸分かりなので、最近のハウゼル様は見ていて楽しいです」

「……あぁ。変化ってその、そういうあれ?」

「はい。そういうあれです」

 

 言われて思い出してみると、確かにハウゼルのそんな様子を見た覚えがある。恐らくその変化はランスに抱かれた事による変化だろう。そう悟ったシルキィは深く追求しない事にした。

 

「……けど確かに、ランスさんが城に来てから皆も変わったわね。サテラなんてすごく分かり易くなっちゃったし、それにホーネット様も……」

 

 ハウゼルやサテラのように外面にはあまり見えないが、内面の変化というものがある。ある意味で一番変わったのはホーネットでは無いかとシルキィは思っている。

 メディウサを討伐する為とは言え、責任感の塊のような派閥の主が戦争中に城を遠く離れて人間世界に向かうなど、以前の彼女だったら考えられないような事である。

 

「そう言うシルキィ様も、以前と変わりましたよ」

「私も? そうかな、どこか変わったかしら」

 

 自分で言うのも何だが、自分はそう変わっていない筈だとシルキィは思う。ランスと出会って、自分の知らなかった恥ずかしい一面を知る事になってしまったが、火炎書士にそれを明かした事は無い。知っているのはサテラだけの筈だ。

 シルキィはそう思っていたのだが、火炎書士はそんな魔人四天王の口元をぴしっと指差した。

 

「シルキィ様は、溜息の量が増えましたです」

「えぇー、変わったってそこ? ……でもそうね、最近は振り回されてばっかりだから……」

 

 何だか嫌な変化だなぁと思わずにはいられなかったが、ランスに振り回されているのは、それだけランスと深い仲になったからである。

 自分がどうもランスの我儘を聞いてしまうのも、それだけランスを大切に想っているからだろう。自分がこの世界で何よりも守りたい、自分の戦う理由がまた一つ増えたのだと、シルキィはどうにか最大限好意的に解釈する事にした。

 

「シルキィ様、あんまり溜息吐くと幸運が逃げちゃいますよ? 何か悩み事があるのなら、火炎で良ければ相談に乗りますよ」

「……相談か。そうね、そうしようかしら。ランスさんはあの様子だし」

 

 シルキィは片手で頬を軽く撫でる。本当はランスと一緒にじっくり考えようと思っていた事があったのだが、とても相談など出来る状態では無くなってしまった。

 なのでここはハウゼルお墨付き、火炎書士のその優秀な頭脳の力を借りる事にした。

 

「ねぇ火炎。ワーグの事なんだけど……」

 

 

 

 

 


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