ランス(9.5 IF)   作:ぐろり

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禁欲作戦

 

 モスの迷宮。地下28階。

 

 地下へと下るにつれて気温も低下し、迷宮内は肌寒さが増してくる。魔物の気配も随分と減り、今では足音以外に聞こえる音の無くなったその場所に。

 

 

「ぐるるるる……」

 

 突如、獣のそれのような低い唸り声が響く。

 

「は、ハウゼルさん……」

「えぇ、分かっています……」

 

 迷宮を進む、シィルと魔人ハウゼルの二人。

 

 彼女達は危険な夜道を歩く旅人の様に、その身を寄せ合いながら不安そうに何度も辺りを見渡す。

 二人の表情はもうずっと前から、焦りと緊張によって固く強張っていた。

 

 

「がるるるる……」

 

 再度、肉食獣を思わせる嘶きが鳴り響き、二人は恐怖に身を竦ませる。

 

 声の主は彼女達のやや後方、一歩一歩とゆっくり歩きながら何処までも背中を追ってくる。

 前を歩く二人の女性の腰や太腿、そして臀部など色気を醸し出す箇所にギラつく眼光を放ちながら、その獣は獲物を前に舌舐めずりを繰り返す。

 

「じゅるり……」

「うぅ……」

「……はぁ」

 

 背後から放たれる強烈なプレッシャーに押され、怯えるシィルは両腕で自らを抱きしめ、魔人のハウゼルであっても少し呼吸が荒くなる。

 

 今、二人の背後に迫る腹を空かせた獰猛な肉食獣は、とある理由により食事を禁止されている。

 飢えた獣はとても凶暴で、飼い慣らすには食事に代わる何か憂さ晴らしになるものが必要であり、彼女達はそれをずっと探し続けていた。

 

 

 

 緊迫した空気の中を進む二人と一匹の獣は、歩いていた細長い道を抜けて広々とした場所に出る。

 すると階全体を揺らすような振動と共に、洞窟内に轟音が鳴り響いた。

 

「これは……」

 

 冷静な表情に戻ったハウゼルの見つめる先、彼女達の進行方向の右手側、何の変哲も無い石の壁に見えていたそれが突如として動き出す。

 自らの縄張りへの侵入者の気配を感じ取り、その魔物は擬態していた壁から身体を起こした。

 

「ゴオオオォォォ……」

 

 重低音で唸るそのモンスターはストーン・ガーディアン。岩石で出来た巨人とも言うべきその魔物は、重量を活かした高い攻撃力と岩の身体による堅硬な防御力を合わせ持つ強敵である。

 

 だが。

 

 

「あ、いましたよ! ランス様!!」

 

 シィルが迷宮内にて久しぶりに発見した魔物、という名の生贄をその指で指し示す。

 

「がーーーー!!!!」

 

 二人の背後にいたランスはまさしく獣の様な速さで飛び出すと、その身に渦巻く衝動の丈を解放するかの如くいきなりランスアタック。

 八つ当たり気味に放たれたその衝撃波は天井にまで届きそうな程に巨大であり、通常の数倍ともなる理不尽な威力を帯びていて、まともに受けたストーン・ガーディアンは一撃で石の残骸となった。

 

「す、すごい……」

 

 魔人のハウゼルといえども思わず眼を見張ってしまう程の、性欲を溜めに溜め込んだランスの出鱈目なパワーだった。

 

「ふー、ふー……!!」

 

 だが敵を倒したランスの顔に満足は無く、苦痛を堪えるかの様に鼻息を荒げる。

 禁欲によりランスは大きな力を得たが、その代償もまた、とても大きなものであった。

 

 

 

 強烈な眠気によって近づく事の出来ない魔人ワーグと対峙する為に、ランスが禁欲をすると宣言してから今日で6日目。

 前回記録である4日を既に越えたランスの状態は、普段のそれから大きく変貌を遂げていた。

 

 常人の数倍のペースで湧き上がってくる性欲を発散せずに溜め込む事は、もはや辛いなどという言葉では表現出来るものではない。

 地獄の日々に脳の言語中枢をやられてしまったランスは、すでに会話が出来なくなってしまった。

 

 局部の猛りも収める事は出来ず、常に下腹部に力を込めていないとすぐに暴発してしまいそうで、今のランスの動きはどこかぎこちない。

 血走ったその目は鬼のように釣り上がり、迷宮内の魔物にその苛立ちを幾度となくぶつけようとも、一向にその衝動は止む気配が無かった。

 

「ぐー、がうー……!!」

「……けれど、魔物の数もさすがに減ってきちゃいましたね……」

 

 次なる標的を求めて、周囲をぎょろぎょろと忙しなく探るランスの事を遠巻きに眺めながら、シィルは困り顔を浮かべる。

 

「えぇ、そうですね……あぁ、こんな事をしていいのかしら……」

 

 シィルの言葉に頷きつつも、ハウゼルの表情はどこか晴れない。

 

 この数日間、飢えたランスの餌を求めて迷宮内をさ迷い歩き、山程の魔物の命を散らした。自分の手でするよりは幾分かマシだとは言え、それでもやっぱり彼女にとっては胸が痛む事である。

 そして、ハウゼルが心苦しく思っている事は魔物の事ともう一つ。

 

「……シィルさん。ランスさんは大丈夫なのでしょうか。その、とても辛そうです」

「……はい、もう夜も全然眠れていないみたいです。さすがに心配になってきましたね……」

 

 この数日で、ランスは別の生物の様に豹変した。

 性欲を発散せずに溜め込んだ結果、今のランスは四六時中極度の興奮状態にあり、その意味ではワーグの眠気に対して有利な状態になったとも言える。

 

 しかし、眠気に対抗する為に禁欲しているとは言え、先に体を壊してしまっては元も子もない。

 ランスの様態が気掛かりで仕方ないハウゼルは、心配するようにその顔をランスに向ける。

 

 とその時、二人の視線が交わってしまった。

 

 

「…………ぎらり」

「え?」

「ハウゼルさん、」

 

 危ない!! と、シィルが声を上げるより早く。

 

「ぴゃーーーー!!!!」

「っ、ランスさん!?」

 

 魔人のハウゼルであっても反応出来ない程の俊敏さで、飢えた獣は獲物に向かって襲い掛かる。

 あっという間にハウゼルの事を押し倒したランスは、その豊満な胸に齧り付きながら、もう何日も前から立ったままのハイパー兵器を前戯も無しに突っ込もうとする。しかし、

 

「ランス様! 魔人ワーグまで我慢しないと!!」

「……ぐ、ぐぐぎぎぎ……!!!」

 

 ご馳走を前にしておあずけを食らうランスは、折れてしまいそうな程に歯を食い縛る。

 その性欲の衝動をぎりぎりで押し止めたのはシィルの声。というか、その言葉によって喚起された魔人ワーグの存在である。

 

 自分がこんなにもしんどい状況を延々と耐え忍んでいるのは、あの強烈な眠気によって守られている魔人ワーグを抱く為。

 ここで性欲を解放してしまうと、今までの日々の全てが台無しになってしまう。魔人ワーグを抱く為には、辛くてもここは我慢するしかない。

 

 そんな思いが、飢えに飢えて暴発寸前のランスを瀬戸際で踏み留まらせていた。

 

 

「大丈夫ですか、ハウゼルさん」

「……はい、びっくりしました……」

 

 シィルに手を引っ張られ、ハウゼルはランスの体の下から何とか脱出する。

 

「ふー、ふひー……!!」

「ランスさん……」

 

 ハウゼルの前には、血涙を流しそうな顔で唇を噛む、一匹の哀れな獣の姿。

 

 欲望と自制の狭間でもだえ苦しむランスの姿を見ていると、優しいハウゼルはいっそ応えてあげたいという気持ちもついつい湧いてしまうのだが、しかしそれでは意味が無い。

 ランスが何の為に苦しんでいるかを理解している彼女が、今ランスの為に出来る事と言えば一つ。

 

「ハウゼルさん。ランス様が落ち着いている内に、次の魔物を探しに行きましょう」

「……そうですね」

 

 シィルのその提案に、若干の後ろめたさを感じながらも頷く事だけであった。

 

 

 

 

 

 そして、ランスの餌を追い求めて彼女達はモスの迷宮内を突き進む。

 

 ここを根城とする魔物達の縄張り争いの結果なのか、この迷宮は階を下れば下る程に強い魔物が出現し、そろそろ普段のランスなら多少は手を焼くような魔物の姿も見えてきたが、タガが外れている今のランスに敵を選ぶ理性もその必要も無い。

 

 性欲を発散する事が出来ないランスは鬱憤晴らしにと、日夜ひたすら魔物達との戦闘を繰り返す。

 敵の強さと比例して経験値の実入りも良くなり、禁欲開始時から更にランスのレベルは上昇して、すでに50の大台を越えた。

 

 徐々に最盛期の頃の力を取り戻しつつあるランスであったが、しかしどれだけレベルを高めれば良いのか、あるいはどれだけ性欲を我慢すればワーグの眠気を克服する事が出来るのか、その明確な指数というものは一切存在しない。

 

 結果、先の見えない拷問の様な日々をここまで耐えに耐えてきたランスだったが、ようやくその終わりが訪れようとしていた。

 

 

 

 

 

「……ぎらり」

 

 禁欲の影響なのか、五感が異常に冴え渡っているランスは遥か遠方からこちらに向かって来ている、一体の魔物を目ざとく発見した。

 

「がーーーー!!!!」

 

 ランスは一目散に走り出すと、その魔物を一撃で両断してやろうと魔剣を振り被る。だが、

 

「ま、待ってくださいランスさん!!」

 

 振り下ろされる魔剣の刃を、慌てて後を追いかけて来たハウゼルがその手に持つ、巨銃タワーオブファイアーの銃身でもって受け止める。

 とっさにランスの攻撃を制止した彼女にはすぐに分かった。その魔物はモスの迷宮内に生息している魔物では無く、自身の指揮下にあるホーネット派の飛行魔物兵の一体であった。

 

「ぐ、ぐがーーー!!!!」

「シィルさん、ランスさんを抑えて!! この魔物を倒しては駄目です!!」

「はい! ランス様、どうどう、どうどう……!」

 

 敵を斬らせろ殺させろと暴れるランスの制御をシィルに任せて、ハウゼルはその魔物兵に近づく。

 わざわざモスの迷宮内の自分の下まで来るという事はと、ハウゼルには既にある予感があったが、話を聞いてみるとやはりその通りであった。

 

 

「ワーグが……そうですか、分かりました」

 

 サイサイツリーに居る火炎書士からの命令を受けて、飛行魔物兵がハウゼルに伝えに来た連絡。

 それは、魔人ワーグが遂に動き出し、迎え撃つ為にすでにシルキィが出撃したと言う事であった。

 

 ランス達は迷宮内でレベル上げと禁欲に力を注ぐあまりに、シルキィが設けていたタイムリミットを過ぎてしまった。

 何時までに戻ると約束していた訳では無いので、仕方無いと言えば仕方無くもあるが、いずれにせよワーグはサイサイツリーに接近し、これ以上ランスの帰りを待っていられないと判断したシルキィは、ワーグとの戦いに向かってしまったようである。

 

 シルキィなら大丈夫、という思いはあるものの、だがワーグが危険な事には変わりないし、せっかくワーグと戦う為に一週間近くも努力したのに、披露する場所が無いのではランスが報われない。

 

 随分と迷宮を奥深くまで進んでしまったので、今から戻っても間に合うかどうかは微妙な所だが、それでも急ぎここから出てシルキィの後を追わなければと、ハウゼルはそう声を掛けようとした。

 

 だが。

 

 

「ランスさん、ワーグが現れたそうで……あれ? シィルさん、ランスさんは?」

「え? あ、あれ?」

 

 隣に居たシィルにも気付かせない程の速さでもって、ランスの姿はすでに消えていた。

 

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 魔物界中部、魔界都市サイサイツリーの南にある森の中。 

 

「……ふぅ」

 

 口をついて出た吐息と共に、彼女は額に浮かんだ汗を拭った。

 

 

 魔人ワーグ。150cm程度の小柄な身体にクリーム色の長い髪、赤いコートの上下に首にはマフラーと、少々季節外れの格好をしたその魔人は、端から見たら只の少女にしか見えない。

 だが、その少女からはどこか甘い匂いがする。それがワーグの特殊体質『夢匂』と呼ばれるフェロモンの香りであり、全てを眠らせる香りである。

 

 凶悪な能力を有する、魔物界のあらゆる存在が恐れる魔人ワーグは今、ホーネット派の前線拠点サイサイツリーに接近する為、妖しげな木々や植物が花咲き乱れる森の中をゆっくりと移動していた。

 

 魔物界の森には危険な魔界植物が多く生い茂り、魔物ですら足を踏み入れない様な場所である。

 だが、植物すらも眠らせてしまうワーグにとって森は危険な場所では無く、むしろ森の奥に住んでいる彼女にとっては慣れた場所である。

 とは言え普段からあまり運動をせず、体力の無い彼女にとっては森を越えるのは一苦労であった。

 

 

「……結構遠いわね、半分ぐらいは進んだかしら」

「つっかれたー!! なぁワーグ、ちょっと休憩しようぜー」

「ラッシー、もう休憩は4回目でしょう。いい加減に我慢しなさい」

 

 彼女のそばにはいつもの通り、ペットとして飼っている夢イルカのラッシーの姿。

 寂しさを紛らわせる為に連れている、ラッシーのふわふわした身体に触れながら彼女は森を進む。

 

 現在の時刻はそろそろ昼過ぎ。この森を越えれば敵の拠点であるサイサイツリーの近くに出る。

 これから行う事を考えると、夜の帳が下りてより暗くなった後の方が良いのだろうが、しかし夜の森を歩くのは迷いやすくて進行方向を誤るおそれがある為、ワーグはまだ視界が利くこの時間帯を選び、ラッシーと共に敵の拠点へと向かっていた。

 

「なぁなぁワーグ、休憩休憩ー」

「駄目よ。大体、あなたはふよふよ浮かんでいるだけじゃないの。疲れてはいないでしょう」

 

 ラッシーはねだる様に頭をすりすりと寄せるが、その鼻先を押さえてワーグは首を横に振る。

 その光景を見ると、散歩に疲れたペットが駄々をこねて、それを主人が躾けているようにも見える。

 

 だがラッシーは触れた者が思う事をそのまま口にする生き物であり、ラッシーの要求というのは実際はワーグが心で望んでいる事である。

 つまり、休憩したいと真に思っているのはワーグの方であり、その理由は疲れたからというのも事実なのだが、それ以上に大きな理由が一つ。

 

「だってよっ、俺知ってるぜ。ワーグが何度も休憩をしたのって、本当は行きたくないだろー?」

「っ、……ラッシー、黙りなさい」

 

 ペットに図星を突かれたしまったワーグは、お決まりの文句を口にする。

 

 心を読むラッシーの前では嘘を思うのは難しい。

 本当に黙らせたければ触れているその手を離せば良いだけなのだが、孤独な心を埋める為にラッシーをそばに置いているワーグにとって、それも難しい事であった。

 

 

 

 ケイブリス派に所属する魔人ワーグが、ホーネット派の前線拠点サイサイツリーを目指して進んでいるのは、当然ながらその拠点を奪う為。だが休憩の名目で何度も足を止めたのは、疲労の影響以上にこの先に待ち受ける事を思うと、どうしても足が重たくなってしまうからであった。

 

 魔人ワーグにとって、魔界都市を一つ二つ落とすなど容易な事、朝飯前である。

 なぜならワーグの能力の前に全ては無力であり、現に先日、ビューティーツリーを奪った時も大した手間は掛からなかった。だから今回も問題無い。

 と、そのような考えの下、派閥の主からの指令書が届いたのは、今から約一週間前の事である。

 

「……お前なら楽勝だろう、とっととサイサイツリーを奪ってこい……ね」

 

 指令書の乱暴な文面を思い出しながら、無茶な話だとワーグは深く息を漏らす。

 

 今より少し前、ビューティーツリーを攻撃した際は確かに想定以上に楽に済んだ。

 しかしそれは相手が警戒していない状態での奇襲が成功して、その後抵抗せずにすぐ下がってくれたからである。少なくともワーグはそのように思っている。

 

 そして今、ビューティーツリーを奪われた事で現在のサイサイツリーの警戒はより一層厳しいものになり、空には日夜引っ切り無しに飛行魔物兵達が飛び交っている。

 

 自分の居場所を探っているのであろうその魔物達は、直接的には脅威では無い。あくまで監視しているだけで、どうせ近づく事は出来ないからだ。

 だがそれは、ホーネット派が魔人ワーグを警戒している何よりの表れであり、彼女が一番恐れているのは、かの魔人の存在であった。

 

 

「……うぅ、怖いよぉ……。きっとサイサイツリーには、ホーネットが居るはずだよぉ……」

「………………」

 

 つい考えてしまった、言われたくない事をペットに言われてしまい、ワーグは視線を地に下ろす。

 

 魔人ホーネット。こちらの主とは対照的に常に前線で戦い続けてきたあの魔人の事、きっとサイサイツリーで自分の事を待ち構えているに違いない。むしろ、ビューティーツリーに居なかった事の方が不思議な程である。

 

 ワーグは戦争初期にはホーネット派に属していた事もあり、その魔人をある程度は知っている。

 自分の事を魔人にした魔王ガイの一人娘。言うまでも無くホーネット派最強の魔人であるが、それでも以前の彼女だったら、ホーネットの事をこんなにも恐れてはいなかった。

 

 何故なら自分の能力は最強だから。今までのワーグだったらそう思っていた。

 

 

(……けど)

 

 未だにあの時の事を脳裏に思い出すと、恐怖で身が竦むワーグはその手をぎゅっと握り締める。

 

 魔人ケイブリス。ケイブリス派の主であり、最強最古の魔人四天王。その魔人には全てを眠らせるはずのワーグの能力は通用せず、その暴力の前に彼女は屈服してしまった。

 その時からワーグは、自分の能力に対する絶対の自信が少し揺らいでしまったのである。

 

(私の能力はあのケイブリスには通じなかった。……だとしたら)

 

 ケイブリスに通じないなら、ホーネットには? 

 魔人筆頭であり、ケイブリスに比肩する程に強いあの魔人に、自分の能力は通じるのだろうか。

 

 彼女には困った事に、眠りの能力以外に頼れるものが何も無い。魔人であるにもかかわらず、腕力も魔力も一般的な人間と同程度で、そんなものがあの魔人筆頭に通用する筈が無い。

 無差別に眠らせる力により派閥の魔物兵を率いる事も出来ず、ラッシーには多少の戦闘能力があるが、それは無敵結界に守られる魔人の前では無力。

 

 よって、もしホーネットに眠りの力が通じなかったら、そのまま自分は魔血魂になるだけである。

 そう考えるととても楽勝などと気軽に思う事は出来ず、指令書が届いてから一週間近く決心が付かずに今日まで先送りにしてきたのだが、これ以上ケイブリスの命令を無視し続ける事も、彼女にとってはホーネット同様に怖かった。

 

 

「……はぁ」

 

 待ち構える魔人筆頭と、背後から重圧を掛けてくる派閥の主。その事を考えてしまい、吐き出す息が重苦しいものとなる。

 

 板挟みの儘ならぬ現状を思うと辛くなるが、孤独な彼女には思いを吐露する相手も居ない。

 唯一自分のそばに居てくれるペット、ラッシーの綿菓子のような胴体にワーグは額を寄せる。

 

(……怖い、帰りたい)

 

「怖いー、帰りたいー!!」

「ラッシー……」

 

 考えてしまうと喋ってしまうと分かってはいるのだが、弱気にならないというのも中々難しい。

 どうせ他に聞く者も居ないのだからと、ワーグはあえて黙らせる事はしなかった。

 

 

 両派閥の主への恐怖もあるが、それ以前にワーグは根本的に争い事が嫌いな魔人である。

 世界中の人達と仲良くしたいと密かに願う彼女は、自分の能力を争いに利用したくない。今より恐れられ、更に孤独にはなりたくないのである。

 許されるならすぐにでもここから逃げ出して、元の孤独だが平穏な生活に戻りたいと思うワーグだったが、それはもう叶わない事だと理解していた。

 

 すでに賽は投げられている。ビューティーツリーに攻撃を仕掛け、その際に眠らせた十万近くのホーネット派魔物兵達は、すでに全員記憶を操作してケイブリス派に寝返らせてしまった。

 争い事など大嫌いなワーグであるが、積極的に戦争に介入してしまった以上今更引き返す事など出来ないし、なによりケイブリスに逆らったらどうなるか知れたものではない。

 

 毛嫌いするこの能力を使い続けてホーネット派を滅ぼすか、あるいは自分が負けて魔血魂となるか。

 その二択しか先が見えない現状が、ワーグの心に暗い影を落としていた。

 

 

 

「……なぁワーグ、まだ着かないのかなー」

「……そうね、もうちょっとだと思うけど……」

 

 鬱々たる思考を強引に切り替えた結果、ラッシーが口にした言葉にワーグは相槌を打つ。

 

 木々の間から見え隠れする、サイサイツリーの巨大な世界樹までの距離は確実に近づいている。

 あの都市に居るであろう魔人ホーネットとの決戦も間近に迫り、つい及び腰になる心にどうにか活を入れて、ワーグが歩を進めていたその時。

 

 何かが、聞こえた。

 

 

「なぁワーグ、今聞こえたのって何の音?」

「……さぁ。分からない、何かしらね……」

 

 その会話は実際には一人芝居のようなもので、ラッシーが知らぬものをワーグが知るはずも無い。彼女は首を横に振るが、確かに何かが聞こえた。

 バキバキッ!! と、硬いものを破壊するような衝撃音が遠くの方で響き、それは一度では無く何度か連続して聞こえ、そして今もなお続いていた。

 

「な、なぁワーグ、これって……」

「……えぇ。これ、何だか……」

 

(……何かが、近づいて来ている……!!)

 

 その破壊音は、徐々に音量が大きくなってワーグに耳に届いた。

 

「これ、これって、サイサイツリーの方向からだよな!? てことはまさか、まさか……!!」

 

 ペットの言葉通り、音の発生源は正面に聳える巨大な世界樹、サイサイツリーの方角から聞こえており、音量の変化から察するにかなりの速度。

 どう考えても、自分にとって害のある存在が近づいて来ている。そう理解したワーグの脳裏には、緑の長い髪を持つ魔人の姿が浮かんだ。

 

(……ホーネット……!!)

 

 敵派閥の中で最強の力を持つ、魔人筆頭が自分と戦う為に接近している。その事実に怖気づくワーグは思わず胸元を強く押さえる。

 ホーネットの程の強者ならば、ある程度自分のそばに寄る事は出来る。それはワーグも理解しており、問題は能力が効いているのかどうか。

 

「ラッシー、来て……!」

 

 彼女はとっさにペットの後ろにその身を隠す。

 敵が眠りに落ちるまでの間、あらゆる手段を使って時間を稼ぐ。それがワーグの戦い方である。

 

 

 そして、いよいよそれが接近して、遂にワーグはその魔人を視界に捉えた。

 だが彼女の目に映ったのは、頭に思い浮かべたのとは違う、別の魔人の特徴的なその姿。

 

(ホーネットじゃない……、あれは確か、シルキィの……!!)

 

 魔人シルキィ・リトルレーズン。ホーネット派に所属する魔人四天王。

 その魔人の頑強な装甲が、道を塞ぐ木々を蹴散らしながら飛ぶような速度でワーグに迫っていた。

 

「──っ」

 

 見覚えのあるその形よりも幾らか巨大に膨らみ、6メートルを超す金属の塊が猛スピードで迫り来る様は、あのケイブリスの拳と同じく強烈な死のイメージと直結し、反射的に彼女は上着に手を伸ばす。

 

 眠りの力の元となるフェロモンは、彼女自身の身体から発せられる。その為ワーグは服を脱げば脱ぐ程に、周囲への眠気の効力は増す事になる。

 普段はそれを抑えようと厚着をしているワーグだが、どうやら言葉を交わす気も無さそうな敵を前にして、手加減する必要など感じられず、なによりそんな余裕など全く無かった。

 

「くっ……」

 

 彼女はまず一番上に着ている、赤いコートの上着から片腕を引き抜く。

 だがワーグが上着を脱ぐ動作より、相手の方が迅速だった。その球体状の巨大な装甲から、同じく巨大な装甲の腕が突如として出現する。

 

 自在に形状を変える、総計20トンを超す魔法具の装甲を操る、魔人シルキィ・リトルレーズン。

 もうワーグの眼前に来襲したそれは、巨大なその腕を天高く振り上げて、そして。

 

「え、」

 

 ワーグに服を脱ぐ暇など一切与えず。

 

 巨大な装甲の拳が、ワーグを叩き潰さんと振り下ろされた。

 

 

 

 

 


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