魔王城に帰還したランスは、部屋に戻って一休みを挟む事すらせず即座に城を出発した。
魔物界に乗り込んでから早三ヶ月。魔王城近辺の歩き方を覚えるには十分な時間である。
さらにはここらに居る魔物達は全てホーネット派に属しており、彼らがランスの存在をその立場も含めて正確に認識するのにも十分な時間であり、魔物界とはいえ道に迷ったり魔物との戦いになったりする事は無く。
魔王城から北の方角へと向かって、えっちらおっちらと歩く事、およそ一時間弱。
「……あれか?」
進むにつれ次第に空に止むこと無く雷鳴が響き、そろそろ雷が降りそそぐ危険なエリア、光原に差し掛かろうかと言った所で、ランスの視界に捉えたのはぽつんとあった一つのテント。
「……あー、あれだ。間違いねぇ」
元からそこにあったのか、あるいは当人の持ち物なのか。いずれにせよそのテントに目的の相手が居る事は、誰に何を聞かなくてもすぐに分かった。
何故ならそれに近づくにつれ、頭を揺らすような眠気と甘い香りが漂ってきたからである。
「……よっしゃ」
入り口の前で一度両頬を強く叩き、全身に残る眠気を吹っ飛ばしたランスは、いざ行かんと足を踏み入れる。
「お? ……おぉ!!」
一部屋程の大きさのテントの中に居たのは、
「………………」
「あ、ワーグ!! 遂に待ちわびていた人が来たみたいだぜー!!」
一見すると魔人とは思えないような可憐な少女と、ふわふわしたイルカのような謎の生き物。
ランスはようやく、二週間以上も前から会いたいと望んでいた、魔人ワーグと顔を合わせた。
「君が魔人ワーグちゃんか! 確かにハウゼルの言う通り、可愛らしい子ではないか!!」
雪のような白い肌やクリーム色の髪、独特の光沢の瞳など何処か浮世離れした印象を与えるその魔人は、若干背丈は小さいものの、それでもランスのストライクゾーンに何一つ問題無く突き刺さった。
「ランス、……私に会いたかったそうね?」
私は別にそうでも無いけど? と、そんな事を言いたげな様子でワーグは少しそっぽを向く。
先の可愛いという言葉が効いたのか、地肌が白い彼女の頬はとても分かり易く紅潮していた。
「うむ、会いたかったとも。ひじょーに会いたかったとも」
「ふーん……」
「君に会う為に、俺様がどれだけ苦労した事か。あれはまさしく地獄だったぞ」
どこかそわそわした様子で、自分の髪を指先でくりくりと弄るワーグの一方、ランスは脳裏にモスの迷宮内での辛かったあの日々を思い出す。
ただひたすらに、記憶が飛んでしまう程にセックスを我慢した、それも今では良い思い出。
と言える程にまだ消化出来た訳では無いが、とはいえ無駄な日々では無かったなぁと、ランスはこうしてワーグに会った事で実感が湧いていた。
「ま、あの地獄を耐えた事で、君を前にしても眠くならずに起きていられるようになったのだがな」
以前はワーグと会う所か、その姿が見える距離にまで近付く事すら出来なかったランスだったが、今ではこうして彼女と顔を合わせ、お喋りが出来る程に近づく事が可能になった。
どうだ凄いだろう、と胸を張るランスの姿に、しかしワーグはそっけない視線を送る。
「……でも、そうは言っても本当は眠いでしょう」
「いや、眠くない」
「嘘言わないで。ランスも本当は眠くなってるはずよ。なんせこの距離だし」
「いーや、眠くない。俺様が眠くないと言ったら眠くないのだ」
ランスはこっそり自らの太腿を思いっきり抓り、結果そこには内出血の跡が出来上がっていたが、そこは男の意地、表面上は全く眠気など感じていない体で振る舞う。
ランスがワーグにある程度の距離まで寄れるようになった理由としては、レベルが上昇した事により最低限の抵抗力が身についたという点が一つ。
だが一番大きな理由として、ランスはあの地獄の禁欲期間を耐え抜いた事で、ちょっとの事では動じないような強い忍耐力が身に付いたのだった。
「改めてワーグよ、俺様はランス様だ。是非仲良くしようではないか。ほれ」
「……なに?」
少し遅れた初対面の挨拶と共に、ランスは左手をぐっと前に差し出す。
だが長い年月孤独な日々を過ごしたその魔人には、どうやらその意図が伝わらない様子だった。
「何じゃない、手だ。手を出さんか」
「え、あ……うん」
「うむ、握手握手っと。よし、これで俺と君は友達だな」
おずおずと言った様子で差し出された、ワーグの小さな手をランスの大きな手がぎゅっと握る。
ランスはサイサイツリーを出発する際に、あまり考えたくは無いが出会っていきなり襲い掛かる可能性もあるのでは。と、そんな事を危惧したシルキィから「ワーグと友達になってあげてね」と、念押しされていたのである。
なのでこうして握手一つ、ランスとワーグは友達になった。
「……て、友達ってこんな簡単で良いの?」
「あっさり友達になれちゃった! ワーグが色々考えていた事、全部無駄になったなー」
「……そういやワーグよ、この奇妙な生き物は一体何じゃ」
「この子はラッシー。私のペットよ」
主人に巻き付く綿菓子のようなふわふわの身体に、ギザギザの牙が生えた大きな口。
ワーグのペット、夢イルカのラッシー。彼、あるいは彼女とは、ランスの記憶には残っていないものの、二人は数日前に死闘を繰り広げた仲である。
「ケケケ、ランス。仲良くしろよなー」
「イルカと仲良くしてもなぁ。俺様はワーグと仲良くなりに来たのじゃ」
「んなつれない事言うなよー」
「ええい、寄るんじゃない、暑苦しいだろ。……あ、そうだそうだ」
イルカの事など心底どうでもよかったランスは、ふと思い出した様子で声を上げる。
ランスはワーグに会ったら絶対に問い詰めねばならぬと、そう決めていた事があった。それは城でサテラから聞いた、ランスが納得いかなかったあの件に関してである。
「そういやワーグ、俺様聞いたぞ。お前、何たらツリーだか言う場所に行ってしまうんだって?」
その言葉に、ワーグの眉がぴくんと動く。その表情も先程よりもやや固くなる。
正直な所、彼女にとってそれはあまり話題にしたい事ではなかったのだが、聞かれた以上は仕方無いと、小さく息を吐いてから口を開く。
「……あぁ、その話。……まぁね。ここから北に進んだ所にある、アワッサツリーに行く予定よ」
「一体何故に。せっかく仲良くなったのにそれでは寂しいではないか」
「え……」
「なんだよ」
「あ、ううん。そ、その……」
寂しい。自分が100年以上も胸に秘めていたその言葉を、よもや相手に言われるとは微塵も思っていなかった彼女は言葉に詰まる。
ワーグは今ケイブリス派において死んだものとされている筈なので、身を隠す為にとアワッサツリーに行くつもりなのだが、それは言わば敵から逃げたい、隠れたいという臆病な心の表れであり、あまり声を大にして言えるような理由では無かった。
「私はケイブリス派を抜けたから、その。あまりこういう所に居ると、あの……」
「あん? こういう所に居ると何なんじゃ」
「……ラッシー」
ワーグはぽふりとペットのふわふわの身体に触り、説明役をバトンタッチ。
「しゃーねぇなぁ。ランス、よく聞けよ?」
自分の口で話すのを諦めてしまった主人に代わり、饒舌なペットが事を説明する。
ワーグがアワッサツリーに行こうとする理由、その経緯を知ったランスは「くだらん」と一言、大層呆れてしまった様子で肩を竦めた。
「何かと思えばそんな事か。ワーグよ、そんな理由で遠くに行くなどアホらしいと思わんのか」
「アホって何だー!! ワーグだって結構悩んだ末に、渋々ながら決めたんだぞー!!」
「……と、イルカは言っとるようだが」
「……けど、もう決めた事よ」
ペットに余計な心情まで語られてしまったワーグは、ランスの視線から少しだけ顔を背ける。
彼女だって殊更にアワッサツリーに行きたいと思う訳では無い。だが、アワッサツリーに行った方が色々と安全なのは事実であるし、加えて言うと理由がもう一つ。
「……もし私がケイブリスに見つかったら、シルキィも困るだろうしね」
自分を守ると宣言してくれた、自分に対して優しく接してくれた、あの魔人四天王に迷惑を掛けたくない、彼女はそんな思いを抱いていた。
普段から厚着をして能力を抑制したりと、ワーグは自身が周囲へ与える影響をとても考慮する。
彼女は孤独故に、相手に嫌われたくないと思う気持ちが人一倍強かったのだが、そんなワーグに対してランスは鼻で笑うような仕草を見せた。
「あのな、シルキィちゃんはそんな事気にしないっつーの。あの子は守る事が大好きなんだから」
「でも……」
「でもじゃない。あの子がそう言うなら甘えときゃ良いのだ。それにだ、俺様にはもっと引っ掛かっている事がある」
思い悩み、顔を床に伏せてしまったワーグに向けて、ランスはピシっと人差し指を突きつける。
彼が一番不快に感じたのは、自分とワーグの距離を遠ざけようとする元凶、あの魔人の存在。
「ワーグよ。さっきから聞いてりゃ、そもそもお前はケイブリスを怖がり過ぎじゃ。あんなんを怖がって遠くに逃げる必要など一切無いわ」
「……ランス。あなたはケイブリスの事を知らないからそう言えるのよ。あの男は……」
魔王が不在である今の魔物界において、恐らくは魔人筆頭をも超える最強の存在。
それがケイブリスに対するワーグの認識であったが、一方で彼女以上にその魔人の強さを知るランスは、不満げな様子で口元をへの字に曲げた。
「別に知っとるっつーの。だがあんなもん俺様にとっては恐れるに足らんわ。大体、俺様はすでに一度あいつをぶっ殺してる訳だしな」
「……どういう事よ、意味が分からないわ」
「とにかく!!」
その辺は説明しようが無い部分なので、ランスは声を張り上げて強引に話を紛らわせる。
シルキィが予想した通りに、ランスはワーグをアワッサツリーに逃がすつもりなど毛頭無かった。
「いいかワーグ、あんなリス如きを恐れる必要は無い。よって遠くに行く必要も無い」
「……けど」
「けどじゃねぇっつの。ま、それでももし何かあったら仕方無い、そん時は俺様が守ってやっから」
「……ランスが?」
その言葉に、ようやくワーグは伏せていた頭を上げ、ランスと真正面から向き合う。
その顔は、前に仲良くなりたいと宣言された時と同じで、至極真面目な表情だった。
「おう、最強無敵の俺様がお前を守ってやる。てかそう考えりゃ、遠くより俺様のそばにいた方が安全じゃねぇか。だから俺様のそばに居ろ、いいな?」
「………………」
ごくりと、思わず生唾を飲み込むワーグの頬が、分かり易く紅潮していく。
彼女はとっさに言うべき言葉が浮かばず、この場はだんまりを決め込もうとしたものの、一方で傍らに居るペットの口は実に雄弁であった。
「て、て、照れるー!! 恥ずかしいよー!!」
「イルカにゃ言っとらんっつーの」
「……ラッシー、黙りなさい」
ペットに黙秘を命じたワーグは、少々熱を帯びてしまった頭で考える。
魔人四天王のシルキィならともかく、人間であるランスにあのケイブリスから守ってやると言われた所で、一体どれ程の意味があると言うのか。
そう思う気持ちはある。なのだが、自身の強さに一片の疑念も持たない、自分の言う事は絶対だと信じきっているランスの表情。
強い自信に溢れたその顔を見ていると、問題無いのかもと、それが正解なのかとも思えてくる。
更に言ってしまうと、そもそもワーグは久々に出来たランスという名の友達のお願いを、無下に出来る程に冷たい性格はしていなかった。
「……分かったわ」
「お」
「ランスがそこまで言うなら仕方無いわね、アワッサツリーに行くのは止めにする」
元より別に行きたかった訳では無い。この魔王城近郊に比べたらより安全という程度の話で、危険が全く無いという訳でも無い。
自分に会う事を熱望していたらしいランスに会って、引き止めて欲しいと思う気持ちが全く無かったかと言えば嘘になる。
それが、ワーグの素直な思いだった。
「その代わり……」
ワーグは一度言葉を区切って、勿体振るように一度こほんと咳払いをする。
「……あの」
だが、喉の奥から言葉が出てこない。
今言おうとしたのは、彼女にとってはそれを言うのに、相当な勇気が必要になる台詞だった。
「………………」
ワーグは何故かぱちぱちと瞬きを繰り返したり、にぎにぎと手を握ったり開いたり。
不自然な仕草を何度か繰り返した後、結局勇気が湧かずに諦めたのか、ペットにそっと触れた。
「ラッシー、喋りなさい」
「えー!? これはワーグの口から言えよー!」
「……ラッシー」
彼女は言う事を聞かないペットを睨み付けるが、一方ラッシーは普段通りの飄々とした顔。
そのペットは主人が思う事を口にしているだけなので、先の言葉はつまり、ワーグ自身が自分で言うべきだと思っているという事になる。
「……はぁ」
心の奥では分かっていたその事を指摘されたワーグは、一度深呼吸して心を落ち着けた後、ランスの顔を見れないまま小さく呟いた。
「……アワッサツリーに行くのは止めにする。だからその代わりに、ちゃんとランスがあの、私の事をその、まも……」
「ぐがー、ぐがー」
その時、対面の男の口からいびきが聞こえた。
今まで辛抱していたランスだったが、ここにきて遂に甘い香りに敗北を喫し、額を落として夢の世界へと旅立ってしまっていた。
「あー!!! 今せっかく恥ずかしい事を言おうとしたのに! こいつ寝てやがるー!!」
「……恥ずかしい事なんて言おうとしてないっ、ラッシー、黙りなさい!!」
小一時間程眠った後に、ランスは目を覚ました。
目を覚ましてみると、何故だかワーグがご機嫌斜めだった事に少々疑問を抱きつつ。
ランスはその後しばらく、友達になったワーグと何気ない会話を交わした。
「……だからね、ずっとテント暮らしは嫌なの。前の家にはもう戻れないから、新しい家を立てるのに協力してよね」
「分かった分かった、どうにかしてやる。魔王城には暇な魔物共が大勢居るから、あいつらに働かせりゃ家の一つ位すぐに建つだろ」
「……そういえばランス、あなたってホーネット派の中でどういう立ち位置なの? シルキィは大事な仲間だって言っていたけど……」
「俺様はホーネット派の影の支配者だ。ホーネットより俺様の方が偉いんだぞ?」
それは殆ど実のない、単なる世間話の延長線上のようなものだったが、それでもワーグは長年振りに出来た友人との会話が楽しいのか、その顔は普段より柔和な表情で。
「あ、そういやワーグ。お前、ホーネットに会ったんだって?」
「……えぇ、まぁ」
「む。その元気無さそうな様子……、さては怒られたのだな? 叱られたのだな?」
「別に、叱られてはいないわ。……その、ちょっと睨まれただけよ」
「あぁ、あいつの睨みはおっかないからな……。俺様もその気持ちは分かるぞ、ワーグよ」
そんな事を話しながら、楽しい時間はゆったりと過ぎていき。
「……あ」
何かに気付いた様子で、ワーグはランスから視線を外してテントの入り口の方に目をやる。
そして一度目を瞑り、胸に湧いた寂しさを押し殺しながら口を開いた。
「ランス、そろそろ帰った方がいいかも。外が暗くなってきたわ」
「お? おぉ、ほんとだ」
ランプで灯しているテント中では外の状況が分かりにくいが、すでに差し込む光も消え失せ、夕食の時間が近くなっていた。
「んじゃあそろそろ……」
「帰っちゃうのー? 寂しいなー、また来いよなー!」
「いんや、帰る前に一つやる事がある」
「やる事?」
別れを惜しむラッシーと、首を傾げるワーグ。
そんな一匹と一人を前にして、ランスはいよいよ事の本題を切り出す事にした。
ランスがここに来た本当の目的。それはワーグと仲良くなる事でも、会話を楽しむ事でも無い。それらはあくまでおまけである。
ランスにとっての一番大事な目的、それは、ワーグと会えたら絶対にするのだと決めていた事。
ランスはおもむろに両手を大きく広げて、そのままワーグに一歩二歩と近づくと、
「がばーっと」
「きゃ!」
「わぁー、わぁー!!」
小柄なワーグの全身を覆い隠すように、ランスは彼女を力強く抱き締める。
柔らかい身体とふわふわの髪の感触を味わいながら、勢いそのまま流れるように彼女の事を押し倒し、いざセックスとその服に手を掛けた所で。
「……ぐぅ」
頭を埋めたワーグの首元、あるいはその髪から漂ってくる強烈な甘い匂いに耐え切れず、ランスは眠りに落ちてしまった。
再び小一時間程眠って、ランスは目を覚ました。
「……んあ。俺様、また寝ちまったのか?」
くあー、と大きくあくびをしながら、ぼんやり頭のランスは身体を起こす。
「……ランス、起きたのね。ねぇ、その、さっきのは何?」
「まったく、スキンシップが大胆な奴だなー! ワーグは照れ屋さんなんだぞー!」
「……あれ?」
落ち着かない様子のワーグと、ぷりぷりと怒る夢イルカの声は、ランスの両耳をすっと通過する。
この時すでに、ランスの頭にはとある嫌な考えが浮かんでいたのだが、眠気と共にその疑念をふり払うかの如く、乱暴に首を横に振って。
「ちょっと、聞いてるの?」
「ワーグよ、かもんかもん」
「……何なの?」
おいでおいでと手招きするランスの姿に、訝しむワーグは一瞬悩んだものの、それでも彼女はちょこちょことランスのそばに近づいていく。
そして。
「ぎゅーっと」
「ちょ、ちょっと!」
ランスは再びワーグにハグ。
「……すやぁ」
そして、再び眠りに落ちた。
本日3度目、またまた小一時間程眠ったランスは目を覚まし、そして思った。
(……あれれ? 俺様、これどーやってワーグの事を抱けばいいんだ?)
ランスは以前より成長した。
魔人ワーグと会話が出来る、あるいは戦える程の距離にまで寄る事が出来るようになった。
しかし性交を行うには今より更に近づかねばならず、加えて言えばそれ相応に時間も要する。
つまりワーグとセックスをする事は、彼女とお話をしたり、戦う事よりも遥かに困難となる。
その事実に、ランスは遂に気付いてしまった。