ランス(9.5 IF)   作:ぐろり

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魔王専用の浴室②

 

 

 魔王。それは魔物界だけでなく、人間世界も含めたこの大陸全ての支配者。

 

 かくの如き絶対的な存在が、共用の風呂で魔物達と湯を共にする訳にはいかない。

 そんな理由で城に設置された、魔王専用の浴室。

 

 共用のものに比べれば小規模であるが、それでも一人で使用するのには過分な程に広々としている、そんな浴室の洗い場の椅子に腰掛ける影が一つ。

 

 

「………………」

 

 誰あろう、魔人筆頭その人である。

 

 普段と変わらず平然とした表情の彼女は、きめ細かい上質な生地のタオルに、これまた質の良い香りを漂わせるボディーソープを泡立てて、まずは左腕から一日の汚れを洗い落としていく。

 

 そして、そんな姿を見つめる視線が一つ。

 

 

「ぐへへへ……」

 

 それは勿論、ランスであった。

 

 次第に泡を纏って水滴が流れ落ちるその肢体を、洗い場から少し離れた湯船の中、ランスはにやにや顔で眺める。

 

「うひょひょひょ……」

「………………」

 

 聞こえてくる薄気味の悪い声に耳を貸さないようにと、体を洗うホーネットは精神を集中させる。

 

 彼女は魔人筆頭という立場故に世話役が存在しており、基本的にこういった事はその者達に行わせる為、自らの身体を自らで洗う経験は滅多に無い。

 思えば、先に脱衣所に来ている筈の世話役が居なかった時点でおかしく思うべきであった。

 おそらくはランスが何か手を打ったのだとは思うが、色々と思案していた所為でその違和感を見逃すとは、言い逃れのしようのない失態である。

 

 と、そんな反省を頭に巡らせながらも身体を洗う手は止めず、両腕の後は起伏の大きい胸元、そして腹から腰へと通過して、その次は太腿から足先へ。

 その扇情的な動きは、湯船に浸かっている男を当然のように興奮させた。

 

「むふふふ、ええ体しとるのぉ。あ、そーだホーネット、背中を洗うの手伝ってやろっか?」

「……必要ありません」

 

 恐らくは相手に届いていないと思われる、小さな音量でホーネットは返事をする。

 

 先程、魔王の言葉を持ち出された時点で、もはやこれ以上自分が何を言っても分が悪い。

 彼女はその事を重々承知していたので、今自分が選択出来る一番有効な手段と言えば、ランスの一挙一動には付き合わず、出来るだけ速やかに用事を済ませてこの場を離れる事。

 

 それが一番だと感じていたホーネットは、てきぱきと身体を洗って。

 そして、シャワーで身体から泡を流し落とすと、すぐに彼女は立ち上がった。

 

 

「では、私はこれで」

 

 湯船の中でまったりしながら、獲物が来るのを今か今かと待ち望む男にそれだけ伝えて、浴室の出入り口へと向かう。

 

「て、おい。ホーネット、風呂に入らねーのかよ」

「えぇ、今日はそういう気分ではありませんから」

 

 それはあくまで気分の問題であって、一緒に入る存在の問題では無い。

 そして勿論逃げる訳でも無い。用事を終えた以上は、風呂場を出るのは当然なのだから。

 

 そういう事にしておきたいホーネットは、つんと澄ました表情で先の言葉を口にしながら、出口へと向かうその歩調を早める。

 

 だが。

 

 

「けどお前、髪も洗ってないじゃねーかよ」

「え、……あ」

 

 ランスの言葉に虚を突かれたのか、はっと目を開いたホーネットは足を止める。

 

 先程洗い終えた身体もそうなのだが、それ以上にこの緑の長髪を清潔に保ちたい。

 その為にこうして風呂に入ったにもかかわらず、この状況にそれなりに動転していた彼女は、本来の目的を忘れている事にすら気付いておらず。

 

 勿論洗髪なども普段は世話役にさせている事である為、自分で行う事という意識が無かったという点を差し引いたとしても、今のホーネットは少々常の冷静さを失っていた。

 

「……後で、入り直します」

 

 完全に二度手間となってしまうが、しかしここからUターンして洗い場に戻るのは格好が付かないと感じたのか、それとも単に一刻も早く風呂から出たかったのか。

 いずれにせよ再度歩き出し、遂に彼女は出入り口のドアノブにその手を掛けたのだが、

 

「んじゃ、俺様も後で入り直そーっと」

 

 そう言ってランスは湯船から立ち上がると、ホーネットに続くようにすたすたと後をついてきた。

 

 

「……ランス」

 

 振り向いた彼女は普段よりも威圧的な声色で名前を呼び、さも煩わしげに相手を睨みつけるが、

 

「何だよ、俺がいつ風呂を出ようと、んでまたいつ入ろうと俺の勝手だろ? 何と言っても、ここを自由に使う許可は得ている訳だしな」

 

 しかし睨まれたランスは強気な態度を一向に崩さず、魔人筆頭をも上回る魔王の権力を振りかざす。

 

「俺も一度風呂を上がって、お前が入り直す頃合いを見計らってまた一緒に入る。もうそう決めた」

「………………」

 

 美樹の手紙まででっち上げてようやく漕ぎ着けたホーネットとの混浴を、こんなにあっさりと終わらせるつもりはランスにはさらさら無い。

 反論する言葉が見つからずに沈黙する魔人筆頭を前にして、彼はきっぱりと宣言した。

 

「ホーネットよ、俺様から逃げられると思うなよ。今ここで逃げようとも、明日だって明後日だって、これから毎日だって俺様はこの風呂に入るからな」

 

 その言葉に何を思い、如何なる事を考えたのか。

 ホーネットの金の瞳孔が大きく拡大し、その口元で「毎日……」と、声無き声での呟きが漏れる。

 

 そして、僅かに頭の向きを下げた後、

 

「……分かりました」

 

 言葉と共に、諦念の籠もった吐息を吐き出す。

 

 今ここで引き下がっても何も意味が無い。

 その事を悟った魔人筆頭は、髪を洗う為に洗い場へと戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、先程と同じようにランスに視姦されたまま、ホーネットはその緑の長髪も洗い終わり。

 艶めく髪をタオルで纏め、洗い場の椅子からゆっくりと立ち上がると、いよいよその男が待ち構える広い湯船へと向かって歩き出す。

 

「お、よーやく来やがったか。さぁさぁホーネットちゃん、こっちおいで」

 

 待ちに待った、混浴タイムの到来。

 上機嫌のランスは自分の隣に座れと命ずるように、ちょいちょいと手招きする。

 

 その姿をホーネットは一瞥したものの、

 

「………………」

 

 全く興味が無い、一切感心が無いと言わんばかりに顔を逆方向に背けると、ランスから十分に距離をあけた場所に腰を下ろす。

 

「ふぅ……」

 

 そして、熱々の湯に胸の上まで浸かったホーネットは、肩を揺らして大きく息をついた。

 

「……おい」

「………………」

 

 呼べどもてんで返事は無く、誰かの事など完全に無視するかのように、一人で勝手にリラックスする魔人筆頭の姿を目の当たりにして、

 

「まったく、無駄な抵抗すんなっての。よっと」

 

 この風呂場の中に逃げ場など無し、当然逃がすつもりなど無い。離れるならばこちらから近寄るだけだと、ランスはすぐさま立ち上がる。

 そしてばちゃばちゃと湯を掻き分けながら近づいていたその途中、ホーネットがこちらに顔を向けたかと思うと、その金の瞳を僅かに細めた。

 

「む」

 

 そのままじっと自分を見つめるその目付きから、あるいはその表情から、言わんとしている事を何となく察したランスだったが、

 

「……ふむ。ま、知ったこっちゃないがな」

 

 しかしそんな事は意にも介さず、ずいずいと進んでその魔人の隣にどしっと腰を下ろした。

 

「……ランス」

 

 いつも以上に状況が悪く、いつも通りに自分勝手なその男の態度に若干の苛立ちを胸に秘めながら、魔人筆頭はあくまで普段通りの冷静な表情を保ってその名を呼ぶ。

 

「どした?」

「……近づかないでください。と、口で言わなければ貴方には伝わりませんか?」

「いやいやホーネット君、それは十分に伝わってきたとも。けど、俺がそれを聞き入れるかどうかは別問題ってヤツだな」

 

 相手が近寄るなオーラを目一杯に発していた事はランスもすぐに察知したのだが、しかしそんな事で引き下がるような男では無かった。

 

「……そうですね、貴方は口で言って聞くような者でもありませんでした。ならば……」

 

 今まで何回が忠告したが、それでも一向に弁えない男である事を再認識させられたホーネットは、やむを得ない思いでそっと瞼を閉じる。そして、

 

「──っ」

 

 開いたその瞳の眼光が一気に鋭さを増し、その魔人の身に纏う空気が変容を遂げた。

 

「……ぐっ」

 

 その迫力たるや、湯船の水面が波打ったのではないかと幻視してしまう程。

 

 いつも以上、あるいは今までで一番強烈かもしれぬ、魔人筆頭たるホーネットが放つ強烈な威圧。

 それを至近距離で受けたランスは反射的に身体を怯ませ、ごくりと生唾を飲み込んだ。

 

 だが。

 

 

「……ふいー。しかし、やっぱ混浴は良い。風呂ってのは美人と一緒に入ってこそだな。うむうむ」

 

 すぐに一切動じていない体裁を取り繕うと、すぐ隣で睨みを利かせるホーネットの肩に手を回す。そして自分の方に抱き寄せると、セクハラまがいの手付きでその滑らかな肩を撫で回した。

 

「……な」

 

 その不躾な行いよりも、自分の放った威圧が通用せず、自分の事を全く怖れていない様子にホーネットは内心で驚愕する。

 口を小さく開けた、その魔人には珍しい驚きの表情を視界に捉えたランスは、対照的な程にふてぶてしい表情を作った。

 

「ホーネットよ。俺だってバカじゃねーんだから、何度も同じ事をすりゃあ学習位するっての」

「……どういう意味ですか?」

「そのままの意味だ。お前、そーやっておっかない目で俺様の事を何度も脅すが、そりゃあくまで脅すだけで、実際に手を出すつもりは無いんだろ?」

 

 その柔らかな胸元に顔を突っ込んだ時も、寝込みを襲った時も、そしてつい先程の時も。

 ホーネットはその鋭い目付きでもって何度も威嚇するものの、しかし彼女が実際にランスの身を脅かした事は一度も無い。

 

 先日、ランスはシルキィとの会話でその事に気付き、結果ホーネットに対して強気になった。

 彼が今までに出会った女性の中には、眼や口だけでなく腕っぷしや魔法で実力行使に及んでくる者も存在し、そこから考えればこの魔人筆頭も幾分か良心的と言えなくもなかった。

 

「そうと分かりゃ、お前のプレッシャーなど怖くない。流石にもう慣れたな、うむ、慣れた慣れた」

 

 得意げな顔でそう言うものの、しかし実の所はその威圧に慣れた訳では無い。自分よりも遥かに強者たる魔人筆頭の凄みに、熱い湯に浸かっているにもかかわらず薄ら寒いものを感じた。

 

 しかし、だからと言ってここで引いてはいつまで経っても変わりがない。

 いい加減にホーネットを抱きたいランスは、今日はいつも以上に強引に攻めると決心していた。

 

 

 

 そして一方、遂にその事を指摘されてしまったホーネットは、

 

「……当たり前です」

 

 観念するかのように深く目を瞑り、少しだけその心情を吐露した。

 

「……ランス。貴方に自覚があるのかは分かりませんが、私にとって貴方は、派閥に何度も貢献をしてくれた恩人です」

 

 ガルティアにメディウサ、そしてワーグ。

 およそ7年に渡って長らく劣勢であったホーネット派が、ここ最近の短期間の間に立て続けに成果を出す事が出来た裏には、全てランスが絡んでいる。

 その事は当然に派閥の主たるホーネットは評価しており、そしてそれ以上に。

 

「……なにより。私は、貴方に命を救われた身でもあります」

 

 ホーネットは以前に一度敗北を喫している。

 あの時ランスによって助けられていなければ、彼女は勿論、ホーネット派としても今の姿は無い。

 

「その私が、貴方に危害を加えるなど……、そのような恩知らずな事、出来る筈がありません」

「……マジか」

 

 ホーネットから見た自分、彼女がそんな思いを抱いていたとは露程も考えていなかったランスは、驚きのあまりぽかんと口を開ける。

 あくまで脅しであって攻撃するつもりは無いだろう、そう口にした先程のあれは半分願望込みであったのだが、どうやら見事に正解だったらしい。

 

「……ほーう、ほほーう」

「……何ですか?」

「いやなに、初めて会った時は高慢ちきでいけ好かない女だと思ったもんだが、こうして見ると、お前も結構可愛い所があるじゃねーか」

 

 それは以前にシャングリラでも思った事。おそらく当時からその思いがあったのだろうが、彼女は意外とランスの安全に気を払う事がある。

 厳格な性格の魔人筆頭と言えども、探してみれば好意的な部分もあるもんだなぁと、したり顔で頷くランスの表情が癇に障るのか、ホーネットは眉間に僅かな皺を寄せた。

 

「……ですが、先程は結構本気でした」

「先程? 先程っつーと……」

「貴方が勝手に、この浴室を使用していたと知った時です」

「あぁ、あれか。あの時は……」

 

 ランスは問題のシーンを脳裏に思い出す。

 確かに先程のホーネットは、言葉や目付きだけで無く魔人筆頭特有の能力たる魔法球まで展開しており、その本気度が今までとは一味違う事が伺えた。

 

「……またまたー。それもどーせ口だけだろ?」

 

 あえてランスは冗談のように軽く流してみるが、

 

「………………」

 

 しかしホーネットは、そんなランスをじっと見つめるのみ。

 

 どうやらその魔人にとって、魔王に関連する事に対しては冗談では済まない部分がある様子。

 その事を深く理解したランスは、美樹関係の事柄はもうちょっと慎重に扱おうと内心で思いながら、再度軽い調子で口を開く。

 

「……と、とにかくだ、そうピリピリすんなって。俺とお前は今仲間なのだから、仲良くいこうじゃないか。んな喧嘩腰にならんでもいいだろう」

「……それは私と言うより、どちらかと言えば貴方の問題では……」

「お前もシルキィと似たような事を言いやがって。俺様はいつもどーり、普通にしているだけだ。お前が短気でキレやすいのが悪い」

「………………」

 

 ──貴方にとっての、その普通が問題なのです。

 ホーネットはそう言うべきかとも一瞬思ったが、ランスにとってはそれが普通な事である以上、おそらくは言っても聞かないだろうと思い直し、

 

 

「……それにしても、慣れましたか」

 

 今の話の脈絡からは少し外れた、しかし彼女にとってはとても衝撃的だった先の事に触れた。

 

「んあ? いきなりなんの話じゃ」

「これの事です」

 

 返事と共にホーネットはすぐ隣、顔に疑問符を浮かべるランスの方に少しだけ顔を向けると、その金の瞳がきゅっと鋭く細まり、先程と同じように魔人筆頭お得意のプレッシャーが放たれる。

 

「……む。あぁ、そーだな。それにはもう慣れた」

 

 ランスは肌がひりひりと粟立つのを感じてはいたものの、これまた先程と同じように何食わぬ顔で彼女の威圧を軽く受け流す。

 その虚勢を見抜いたかどうかは定かでは無いが、いずれにせよもう通じないのだと悟ったホーネットは「……そうですか」と、嘆息するように呟きながら元の雰囲気へと戻り、そして。

 

 

「凄いですね。……私は未だに、全く慣れません」

「慣れないって、何にだよ」

「……色々です」

 

 間近にあるランスの目から逃れるように、顔の向きを戻したホーネットは瞼を閉じる。

 

 何にだ、と聞かれても一言では返せない程に、ホーネットにとっては数ヶ月前から本当に慣れない事ばかりで、色々という台詞は彼女の心模様を大まかだが的確に表現していた。

 

「ああん?」

 

 ただ、言葉の含意を読み取るのが苦手なランスには、その想いはいまいち伝わらなかったらしい。

 

「色々じゃ分からん、ちゃんと言いなさい」

「………………」

「おい、ホーネット。聞いてんのかい」

「………………」

「おいっつーの」

 

 ランスは彼女の肩を揺らして何度か問い掛けてみたものの、一向に返事は無い。ホーネットはまるで湯加減を楽しんでいるかのように、先程からずっと目を閉じたまま。

 

「……ぬぅ」

 

 その姿に、どうにもこれは話題を変えないと口を開いて貰えないような気がしたランスは、

 

 

「……しかしまぁあれだな。この風呂は中々悪くない風呂だな」

 

 ぐるっと周囲から天井までを見渡しながら、そんな話を振ってみた。なんとなく思い付いただけの話題ではあるが、ホーネットに先んじて入浴していた時から感じていた事でもある。

 

 白い石材を主として造られたこの風呂は、ランスには何を表しているのかよく分からない精緻な彫りの意匠や、これまたランスには何を模しているのかよく分からない彫刻物などが並び、この城が出来た当時の魔王の意向を思わせる、荘厳な内装に拵えられている。

 

 ランスの居城であるランス城のお風呂、自然石などを活かした落ち着いた雰囲気の天然温泉とは趣が大分異なるものの、さすがに世の支配者たる魔王専用の風呂と言うだけの事はあった。

 

「まったく、こんな良い風呂を一人で独占していたとは。ホーネットよ、卑怯な奴だなお前は」

「………………」

 

 その言葉に、澄ました表情で沈黙していたホーネットの眉がぴくんと動く。

 さすがにその謗言には反論したい気分になったらしく、閉じていた瞼と共に口を開いた。

 

「……別に、独占していた訳ではありません。そもそもここは魔王様専用の浴室。本来なら私も貴方も使用してはいけない場所なのですよ」

 

 この風呂は確かにランスの言う通り、魔王に相応しいような素晴らしい仕上がりで、それはホーネットも同感である。 

 しかし、魔王専用の浴室などとても畏れ多くて立ち入れない、それが魔王城で暮らす魔物達の一般的な感覚であり、勿論ホーネットにとっても同じ事。

 

 彼女にここを専有している意図は無く、濡れ衣だと言いたげな視線でランスを一瞥した後、

 

 

「……そう言えば、貴方は本当に、これから毎日ここを使用するつもりなのですか?」

 

 先程ランスが言っていた、ホーネットにとって衝撃的だった二番目の話に触れた。

 

「あぁ、そりゃもちろん」

 

 魔王の事など知ったこっちゃないランスにとっては、特段引っ掛かる話では無い。相手の内心の動揺など知る由もなく、あっさりと返事を返す。

 

「なんせ、共用の風呂は魔物だらけで落ち着かんからな。女湯なら良いけど、あそこはシルキィちゃんが居ないと入れてくれねーし」

 

 その点この風呂なら、魔王の許可を得た以上は何も気にする事もなく、心ゆくまでゆったりと風呂を楽しむ事が可能である上に、

 

「それに何より、お前が居るしな」

 

 口角をにぃと釣り上げたランスは、今までホーネットの肩の上に置きっぱなしの右手でもって、彼女を更に自分の側に抱き寄せた。

 

「………………」

「これからは毎日混浴になっちまうなぁホーネットよ。けどまぁ、許可があるんだから仕方無いよな。うむ、仕方無い仕方無い」

 

 さも自分の意思とは別であり、やむを得ない事だと主張しながら、ランスはこれ見よがしに頷く。

 その腕の中、肌が密着する距離で居心地が悪そうに身を竦ませていたホーネットは、やがて疲れたように小さく息を吐き出した。

 

「……私は今夜にでも魔王城を発ちますので、後は貴方が好きに使ってください。当然ですが、備品は丁寧に扱うように」

「あ、おい。今夜にでも城を発つって、お前さては俺様との混浴から逃げる気だな?」

 

 似たような問答はこれで3度目。先程から、どうやら逃げるという言葉が気に触るのか、

 

「ですが毎日がこれでは、……」

 

 口を衝いたように何かを言い返そうとしたホーネットだが、言うべき事では無いとぎりぎりで思い直したのか、話途中で一旦口を閉じる。

 そして数秒を使用して気を落ち着けた後、ゆっくりと口を開いた彼女は、

 

「……とにかく、今は魔王城よりも魔界都市に居たい気分なのです」

 

 本当の理由などとても明かせず、先程と同じように気分の問題にする事にした。

 

 そもそも予定しているビューティーツリー侵攻作戦の為に、当初からホーネットは数日後には城を離れるつもりでいた為、少しその予定を繰り上げるだけであって大した話では無い。

 しかし一方、ランスにとってはそうではない。せっかくホーネットを落とす取っ掛かりを見つけたばかりだと言うのに、ここでホーネットに魔界都市に行かれてしまうのは望ましくなかった。

 

「まぁまぁホーネット、そう逃げんなって」

 

 逃亡を図る野生動物の警戒を解くかのように、ランスは柔和な笑みでもって相手の肩をぽんぽんと優しく叩く。

 とその時、脳裏にある直感が走り「あ」と気の抜けた声を上げた。

 

 

「つーかホーネット、お前やっぱ逃げてやがったんだな?」

「……何の事ですか」

「とぼけるんじゃない、ここ最近の話だ」

 

 最初にランスが気になったのは、メディウサ討伐の旅から帰って来た直後の事。少し昼寝をしている間にホーネットは城を出発しており、気付いた時には居なくなっていた。

 その次はワーグと戦う為に向かったサイサイツリーで再会した時、その魔人は別の魔界都市に行くと言ってとっとと姿を消し。

 そして更にワーグとの戦いを終えて再度サイサイツリーに戻った時、ランスが目を覚ました日の朝にその魔人は魔王城に帰還していた。

 

「どーもおっかしいなと思っていたんだ。会えたと思ったらすーぐどっかに行きやがるし」

 

 ここ数週間の間にランスは何度かホーネットとニアミスを繰り返しており、その事を少々不審に感じていた。

 とはいえ派閥の主たる彼女には色々と仕事がある様子なので、まぁ偶然だなとも思っていたのだが、今のホーネットの態度を見て、決して偶然では無く作為的なものだと確信に至ったらしい。

 

「ホーネット君。怒らないから正直に白状しなさい。俺から逃げていたのだろう?」

「………………」

 

 その言葉に何を思ったのか、喜怒哀楽を滅多に出さないホーネットの表情に変化が生じる。

 一見変わったようには見えないが、見る人が見ればすぐに分かる位には機嫌が悪いような、あるいは拗ねるような顔つきになった。

 

「逃げていた訳ではありません。……その、少々思うところがあったので、避けていただけです」

「……何がどー違うんじゃ、それは」

 

 ランスの至極真っ当な指摘については、さすがの魔人筆頭でも返答に窮したらしい。

 ホーネットはすぐに「用事があったのも事実ですから」と付け加える。それは確かに本当の事で、何も無駄な移動を繰り返していた訳では無いのだが、しかしその男はまだ納得しなかった。

 

「大体、思うところって何じゃい」

「………………」

「おい、黙ってないで何とか言えよ」

「……ですから、言葉の通りです」

「だーから、そこを詳しく聞いてんだっつの」

 

 常ならばきっぱりと自分の意見を発言する筈の、ホーネットとても煮え切らない今の態度に、軽く苛立ちつつも怪訝な思いを受けるランスの一方。

 ここ最近の自身の変化について、彼女自身もまだ整理がついた訳では無いので、何とか言えと言われても言葉を濁してしまうのも致し方無く。

 

 これ以上この話に触れられたくないのか、ホーネットは少し強引に別の話題へと切り替えた。

 

「……そんな事よりも、今日の貴方は意外と大人しいですね」

 

 

 

 

 事が終わってから振り返ってみると、話題を変えるという選択より、ここら辺でホーネットは風呂から上がっておけば良かったのだろうか。

 平然としているように見える彼女だが、すでにこの時から徐々に変調を来しており、その事は自身でも微かには気付いていたのだから。

 

 そして同じく平然としており、未だそんな素振りなど全く見せないランスだが、その頭の内には今日ここでホーネットとの決着を付けるべく、これ以上は無い程の必殺の一撃を用意していた。

 

 故にこの時点でさっさと風呂から出ていたなら、お風呂場でのランスとの邂逅という突然の出来事も無難にやり過ごす事が出来た筈だが、そうはせずに会話を続けてしまった事で、結果的にホーネットは更なる窮地に立たされる事となる。

 

 二人の混浴はまだ続く。

 

 

 

 

 


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