ランス(9.5 IF)   作:ぐろり

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大事な話

 

 

 主の命令を受けて退出していく使徒達を横目に眺めながら、魔人シルキィは考える。

 

 魔人と使徒の関係性、それはとても特別なもの。

 自分は使徒を有していないが使徒を有するハウゼルなどを見ていればそれは伝わってくる。

 血の契約を交わし、力の一部を分け与えて創る使徒との繋がりは決して軽いものでは無い。故に使徒に対して隠さなくてはいけない事、使徒に聞かせられない話などそうは無いはず。

 

(……けれど)

 

 しかしその一方、自分とホーネットの関係性も特別なもの。

 特にホーネットにとっては生まれた時から自分は近くに居た存在となる為、関わりの長さで言えば使徒達を遥かに上回る。

 なにせ使徒というのは魔人にならないと作る事は出来ないが、自分は魔人になる前のホーネットの事も沢山知っているのだから。

 

(あの子達を部屋から出したって事は……これからするのは使徒よりも付き合いの長い私にしか聞かせられない話……ていう事よね?)

 

 今日の雑談のテーマ、ホーネットの大事な話。

 一体それはどのようなものなのか。わざわざ信頼の置ける使徒達を部屋の外に出してまで、我らが派閥の主は如何なる話をしようと言うのか。

 今までの雑談の時とは異なる空気、妙な緊張感に包まれるシルキィは自然と姿勢を整える。

 

 そうして使徒達全員が室内から退出し、ぱたんと入り口のドアが閉まり切るのを確認した後。

 

「……さて」

 

 ゆっくりとその口が開かれる。

 

「………………」

 

 口を固く引き結んで身構えるシルキィ。その一方でホーネットは未だ逡巡の中にあって。

 やがて「……そういえば」と、何かを思い出したかのような会話の滑り出しから。

 

 

「シルキィ」

「は、はい。何でしょう」

「私のこの服装について何か思いますか?」

「……はい?」

 

 全く予想外の言葉を耳にしたシルキィは思わず気の抜けた返事をしてしまった。

 

「……えっと。この服装って言うと、ホーネット様が着ているその服の事……ですよね?」

「えぇ、私が普段から着ているこれの事です。これについて何かおかしな点は無いか、率直に思う事を聞かせてください」

「……はぁ」

 

 自分の服装についてどう思うか。その質問の意味は分かるのだが、しかしそれを尋ねる意図がよく分からず、シルキィはどこか困惑したような表情を浮かべる。

 

(ホーネット様の服装か……)

 

 その魔人の普段着。肌が透ける程に薄い生地、そして胸元の大きく開いた紫紺色のドレス。

 それを見事に着こなしてソファに座る女性、その上から下までを軽く眺める。

 

 そして。

 

「……いいえ。特に問題は無いと思いますが」

「……本当にそう思いますか?」

「はい、勿論です」

 

 自分が見た所、問題点など何一つ見当たらない。

 魔人筆頭というホーネットの立場に相応しい姿、気品溢れる素晴らしい服装だ。

 などと心の底から大真面目に思うシルキィは大きく頷いて太鼓判を押す。

 

「……そうですか、……そうですよね」

 

 一欠片も裏などあるようには見えない魔人四天王の普段通りの純真な表情。

 それを目の当たりにして心に燻っていたほんの小さな疑念が晴れたのか、魔人筆頭は微かに安堵の表情となった。

 

「ホーネット様はその服装の事、おかしいと思っていたのですか?」

「いえ、決してそういう訳ではありません。けれども最近妙にこの事を指摘されるのでいっそ誰かに聞いてみようと思ったのです」

 

 その言葉に「成る程、そういう事でしたか」と答えるシルキィ。そんな彼女の服装といえば、女性としての最低限の慎みを残しただけのような上下ともに下着よりも際どい普段着。

 お世辞にも彼女に服飾のセンスがあるとは言えず、ランスなどに言わせれば「どっちもどっちだ」といった評価のこの二人、どう考えてもホーネットは質問する相手を間違えていた。

 しかし魔王城という狭い世界で長年生きてきた弊害、少し外れたまま構築された常識がそうさせるのか、あるいは客観的視点が欠如しているのか、両者共その点に疑問を抱いている様子は無かった。

 

「ホーネット様の服装は何も問題ありません。この私が保証します」

「……シルキィ」

 

 感謝の意を示すかのように魔人筆頭は嫋やかに微笑む。そんな相手の表情に釣られて、魔人四天王の口元にも小さな笑みが浮かぶ。

 恐らくはほんの些細な、だが確かにホーネットが抱えていた悩み事。その解消に貢献出来た事にシルキィは嬉しく思うのだが、しかし一方で先程からずっと思い悩んでいたあの姿に少し違和感を覚えた。

 

「……というかホーネット様。使徒達を部屋の外に出したのはこの話をする為なのですか?」

「いえ、そういう訳ではありません」

「あ、ですよね」

 

 その答えは予想通り、服装どうこうと言った程度なら使徒に聞かせられないような話では無い。

 これはホーネットの言う大事な話では無く、ふと思い出しただけの話題なのだろう。

 

(……けど、ならさっき言ってた大事な話って何なんだろう。そんなに話しにくい事なのかしら)

 

 シルキィの知る限り、基本的にホーネットという魔人は言いたい事があれば真っ直ぐ口にする性格をしている。

 今のように思い掛けず別の話題を挟んだりなど、ここまで言葉を躊躇う姿はとても珍しいのではないかと思う。

 

「………………」

 

 またしても沈黙。一度話が途切れるとすぐホーネットの表情には迷いの色が見え始める。

 そしてふいに視線を下に傾けると、右手の人差し指で自然と自分の唇に触れた。

 

(……あ。まただ)

 

 またこの仕草だなと、シルキィの目を引いたのは派閥の主の何気無い所作。

 ここ最近、より正確に言えば先日のビューティーツリーでの戦いの頃から、ホーネットは唇に触れるこの仕草をするようになった。

 休憩している時や食事終わりなど、恐らく戦いから意識が離れている時なのだろう。そんな時に時折その人差し指で自分の唇に触れている、ホーネットのそんな姿をシルキィは度々目撃していた。

 

(……近頃のホーネット様、よく唇を気にしている様子だけど……)

 

 その仕草は単なる癖なのか、それとも何か理由があっての事なのか。

 気になるシルキィは本人に直接聞こうとも思ったのだが、しかしその仕草をする時は何かを考えているらしく、決まって憂いを帯びた妙に悩ましげな表情と言うか、言ってしまうとちょっと色っぽい表情なので正直声を掛け辛いものがある。

 

 今もそんな表情でじっと悩むホーネットを前に、自分はただ待っているべきなのか。

 しかしてこの沈黙の中に居るのもそれはそれでそろそろ気まずいものがある。

 いい加減こちらから何か話題を振るべきだろうかと、そんな事を思い掛けたその時。

 

 

「……そういえば、シルキィ」

「はい、何でしょう」

「以前貴女が私に聞いた質問ですが……あれはランスの為だったのですね」

「……ええっと」

 

 以前自分が目の前の相手に聞いた質問。さすがにそれでは範囲は広すぎるのか、中々答えが浮かばずに言い淀むシルキィの姿を目にしたホーネットが言葉を付け足す。

 

「ワーグの事です。あのワーグと密着出来る程に近づける方法は無いか。そんな質問を私に聞いた事があったはずです」

「あ、あぁ。ありましたね、はい」

 

 確かにそんな質問をしたなぁと、シルキィは脳内でぽんと手を叩く。

 あれは確か三週間程前の事、ランスからワーグを抱く方法について聞かれたのだが自分には思い付く事が無かったので、その後ホーネットと今のような雑談の機会があった際に尋ねてみたのだ。

 

「……あ。まさかホーネット様、何か良い方法を思い付いたのですか?」

「いえ、そういう訳ではありません。……ですが」

 

 ホーネットは一度言葉を区切る。この事は彼女にとって本命の質問では無いのだが、それと同程度に関心のある事柄ではあった。

 

「その件に関して、シルキィがそこまでランスに肩入れをしている事が少し気になっています」

「そう……です、ね」

 

 その指摘を受けたシルキィは大きく目を見開き、そして徐々にその語気を弱める。

 これは単なる雑談では無く、自分の事を遠回しに叱責しているのでは。その事に思い至った彼女は表情を凍らせ、すぐにその頭を真下に下げた。

 

「申し訳ありません。考えてみればそのような事、ホーネット様に質問するべきものではありませんでした。お許しください」

 

 ランスがワーグを抱く為の方法。そんな下世話でしょうもない話はどう考えても派閥の主に尋ねるような事では無い。

 頭を垂れるシルキィはぎゅっと目を瞑りながら、脳内で過去の過ちを悔いる。

 

 あの時。ワーグの家からの帰り道、気落ちしていたランスが可哀想だった。がっくりと肩を落としたその姿があまりにも可哀想だった。

 それでどうにか力になってあげたいと思ったが故の行動なのだが、今から考えるとよりにもよって眼前に居るこの魔人に尋ねるなど、当時の自分は完全に頭がどうかしていたと思う。

 

「シルキィ、顔を上げてください。許すも何も私は苦言を呈している訳ではありません」

「……はい」

 

 ホーネットには叱責しているつもりなど無く、どうやらそれは自分の早合点だったらしい。

 シルキィはホッと胸を撫で下ろしてその顔を起こす。そしてすぐに、あれ? と眉根を寄せた。

 

「けれどもそうなると、ホーネット様が先程言っていた気になっている事と言うのは?」

「私が気になっているのはシルキィの事です」

 

 ホーネットが腑に落ちなかった事、それは質問内容では無く質問相手たるその魔人の事。

 首を小さく傾げて「私の事ですか?」と呟く相手の顔を、その金の瞳が興味深そうに覗き込む。

 

「……何と言うべきか。シルキィらしくない、とでも言えばいいのでしょうか」

「……私らしくない、ように見えましたか?」

「えぇ。私が思うシルキィの気質からすると貴女はあまりランスとは波長が合わないような気がしていました。なのでそんな貴女が彼にそこまで便宜を図る事が私には少し不思議に思えたのです」

「……それは」

 

 付き合いの長さ故だろうか、さすがに自分をよく知っているこの魔人は鋭い事を言うなぁと、シルキィは思わず感嘆の息を吐く。

 先程ホーネットがした指摘、それは当の本人も少し悩んだ事のある指摘であった。

 

「そうなんですよね……。実は私も、自分でその事が結構不思議なのです」

 

 自分とランスは波長が合わない。それはホーネットの言う通りだとシルキィは思う。

 何故ならば自分は自他ともに認める真面目で固い性格。なので不真面目で自堕落、遵法精神など殆ど持ち合わせていないようなあの男とは基本的には反りが合わないはずである。

 

(……それにランスさんってとっても、と言うかとんでもなくスケベな人だし……)

 

 あの男はとても性豪であるが、一方の自分はといえば性的な一面に関してはてんで駄目。

 ランスはセックス大好きだが自分はそんな事は決して無いので、これまた反りが合わない。

 

(それになにより……)

 

 ランスの女性に対する見境の無さ。あの点に関しては本当にどうかと思う。

 そんな相手にあれこれされている現状あまり声を大にして言えた事では無いが、男女というのはお互いに愛し合う者同士、その相手だけを愛するべきだと今でも思う。

 

(そう考えると、ホーネット様の言う通り……)

 

 自分とランスの相性は決して良くない。いやむしろ悪いさえ言ってもいい。

 

(……なんだけど)

 

 しかしこれが不思議なもので、どうしてかランスのそばに居ても悪感情は持たないし、どうにもランスの我儘に付き合ってしまう自分がいる。

 その事は誰かに指摘されるまでも無く、シルキィも内心おかしいなぁと感じていた事だった。

 

 

「……やっぱりあれでしょうか。ランスさんには色々と感謝している事があるから、それで仕方無くというか……」

「感謝の念故に、という事ですか。シルキィらしいと言えばシルキィらしいですが……」

 

 ──しかし、仕方無くと言うわりには……。

 と、そのように続く台詞をホーネットは脳裏で思い浮かべたのだが、しかし如何なる心理かそれを口にする事は無く、別の言葉を探して話を続ける。

 

「……貴女の心情は私にも理解出来ます。けれどもランスがした貢献は派閥全体へのものであって、決してシルキィ一人が大きな恩義を感じる必要は無いとも思いますが」

「それはまぁ、そうなんですけどね……」

 

 シルキィは困ったように人指し指で頬を擦り、ならばと自分がどうにもランスに好意的な理由に関して他の可能性にも目を向けてみる。

 先に述べた通りランスに対して感謝の念は未だ尽きないが、そもそも自分には世話焼きの気があるのでその影響は大いにあると思う。

 更に言うならば彼との初対面の時、世界の平和を守る為に戦いたいという言葉に共感を覚え、好印象を持ってしまった所為もあるかもしれない。

 

「……あるいはそれとも、私も以前とは変わったという事なのでしょうか」

「変わった……シルキィがですか?」

「はい。私はあまりそう感じてはいなかったのですが、前に火炎書士からも指摘されました。シルキィ様は前より変わりましたよって」

 

 それは今から少し前、ワーグと戦う為に向かったサイサイツリーにて、火炎書士と夕食を共にした時の話題の一つ。

 

(……ただ火炎書士に指摘されたのは、溜息の量が増えたっていうだけの事なのだけど)

 

 なのであまりこの話とは関係の無い変化のように思えるが、しかし溜息の量が増えた理由を考えれば全くの無関係とも言えないかもしれない。

 なによりあの時、ワーグの件ではランスの心情を考慮してワーグを倒すべきかと悩んだ事など、色々と自分の変化を自覚させられる事になった。

 と、そんな事をつらつらと思うシルキィの一方、

 

「……シルキィが変わった……」

 

 ホーネットは思い掛けない言葉を耳にしたのか。

 その表情、そしてその声色には普段と違って分かりやすい程の驚きの感情が表れていた。

 

「……シルキィ程の魔人でも変わる事はあるのですか?」

「……それは、まぁ。私はホーネット様に『程』と付けられるような大した魔人ではありませんが、けどやっぱり変わる事はあるのだと思いますよ」

 

 寿命が無い魔人には悠久の生があり、長く生きれば当然その分精神的には成熟する。

 長年生きた魔人の内面がそう簡単に変わる事は無いが、しかし一方で生きている限りは周囲からの影響を受け、その結果何かしらの変化が訪れるというのも当然あり得る話。

 

 サテラ然り。ハウゼル然り。シルキィ然り。

 そして。 

 

 

「……そうですか。……そうですね、そうかもしれません」

 

 自分よりも遥かに長くを生きる相手の言葉を受けて、その魔人は何を思ったのか。

 深々と頷き、そして顔を上げたその表情からは、少しだけ憂いの色が消えていた。

 

「ありがとう、シルキィ。今の話はとても参考になりました」

「そ、そうですか? よく分かりませんが、ホーネット様の為になったのならば何よりです」

 

 お礼を言われる程の話をした実感が無く、シルキィは曖昧な表情で相槌を打つ。

 そんな彼女には知らぬ事だが、その魔人はここ最近自らの変化に対してとても敏感であった。先程の言葉はその変化を肯定してくれるもので期せずしてホーネットにとっては金言となったらしい。

 

「ところでホーネット様、今の話が今日の目的なのですか?」

「……いえ、そういう訳でもありません」

 

(……うん、やっぱりそうよね)

 

 その答えもシルキィには半ば予想通り。

 あまり人に聞かせるような話では無いと言えばそうかもしれないが、しかし使徒達を部屋から退出させる程の話かと言うとまだ弱い。

 

「……そうですね」

 

 未だに本題には触れようとせず、話を逸らし続ける自分の有様をみっともなく感じたのか、ホーネットは深く息を吐き出す。

 

 彼女にとっての大事な話、魔人筆頭が旧知の魔人四天王に尋ねてみたかった本当の事。

 それは今も躊躇いの中にあったのだが、それでも先程の話で気持ちがある程度固まったのか、遂にその事を切り出した。

 

 

「……シルキィ」

「はい、何でしょう」

「………………」

「……ホーネット様?」

「………………」

 

 その魔人は一度瞼を閉じて、そして。

 

 

「…………性交、」

 

(……せいこう?)

 

 相手の口から聞こえたその四文字を、シルキィの脳内ですぐには正しく変換出来なかった。

 

「の、際の」

「……はぁ」

「留意点について、聞きたいのですが」

「………………」

 

 シルキィは紅色の瞳をぱちくりとさせた後、脳内でその文字を繋ぎ合わせてみる。

 

 性交の際の留意点について。

 表現を変えるなら『エッチな事をする時、どんな事に気を付けたらいいの?』そんな質問である。

 

 

「え」

 

 

 その一言を最後にしばし会話が止まる。部屋の中はなんとも言えない空気に包まれる。

 

「………………」

 

 口を閉ざして答えを待つ魔人筆頭。

 外見上は平然としたままに見える彼女が口にした爆弾発言を受けて、

 

(……ちょ、ちょっと待って、ちょっと待ってちょっと待って、ちょっと待ってね、ええと……)

 

 さしもの魔人四天王といえども頭の中は大混乱、その表情に困惑と動転を浮かべてしまったのも無理の無い話か。

 それ程にその質問は驚きの内容で、なおかつこの魔人から聞かれた事がとても衝撃的だった。

 

「……シルキィ、どうしました?」

「あ、いえ、はい、あの、性交の際の、留意点ですよね、その、ええっと……」

 

 それはまるで思春期にある少女が友人や母親にするかのような、とてもあどけない無垢な質問。

 そんな事を今しがた尋ねたホーネットだが、しかし彼女は持ち前の鋼の胆力により、内心に秘めた感情を決して表情に出す事は無く。

 

(え、待って待って。だってそんな、それを今ここで私に尋ねるって事は、それはつまり……)

 

 一方でシルキィは未だ混乱中。平気な顔のままでいる相手を目にして逆に彼女からは落ち着きが失われ、その表情には気恥ずかしさから徐々に赤みが刺していく。

 

「あ、あのですね、ホーネット様。質問に答える前に、その、私も聞きたい事があるのですが」

「えぇ、構いませんよ」

 

 このような事を尋ねても良いのだろうか。

 そう思う気持ちは胸の中に強くあれど、しかしこの事だけは尋ねずにはいられなかった。

 

「……その、ご予定が?」

 

 一体自分は誰になんて事を聞いているのか。そんな事を思いシルキィは更に顔が熱くなる。

 

「それは……」

 

 さすがにその質問は平気で受け止められるものでは無いのか、ホーネットは顔色こそ変えないものの顔の向きを横に逸らす。

 

「……いえ。そういう訳ではありません。……ですが、その……」

 

 そして否定の言葉を口にして、しかし次なる言葉に迷って再度の沈黙が訪れる。

 

 魔人ホーネット。彼女にとってそのような事を行う予定などあろうはずが無い。

 この魔王城に魔人筆頭と同格の存在など居らず、またそうしたいと思う相手も居ないのだから。

 

 しかし生物としての格の差。幼い頃よりの教育によってその身に植え付けた価値観に関しては、そういう行為をする上では然程意味を持たない事を彼女は以前知る事になった。

 

 そして。そうしたいと思う相手。

 それも今は存在しない。そのはずだとホーネットは思っている。

 そう思ってはいるのだが、しかしそんな魔人筆頭には最近大きな悩み事がある。

 

 彼女の頭を悩ませているもの、それは何を隠そうお風呂。日々の習慣として毎日入る魔王専用の浴室、その入浴の際の困った出来事。

 とある男の奸計と口車に乗せられた結果、ホーネットはつい先日よりその男と共に入浴しないといけない事になってしまった。

 

 それ自体はもう受け入れた。相手に魔王の許可がある以上自分にはどうしようも無い。

 しかし問題はその頻度。毎日混浴になるぞと言っていたその言葉通り、戦いを終えて魔王城に帰ってきたその日以後毎日、本当に一日も欠かす事無くあの男は混浴を要求してきた。

 

 そして男の狙いは混浴では無くその先にあり、当然ながらその要求もしてくる。共に湯船に浸かっている時に手を伸ばしてこない時など無く、一々避けるのも煩わしい。

 その上そんな事が続くとある種の慣れのようなものが生じてしまい、もはや何処までが許しても良い接触か、何処までが許してはいけない接触なのかも曖昧な始末。

 それでも何とか回避し続けてきたが、そんな日々が連日続いて、そしてこれからも続くのかと思うとさすがの魔人筆頭でも考えてしまう事がある。

 

 それを端的に言ってしまうならば、ホーネットといえどもそろそろ一杯一杯。

 戦に敗れて囚われの身となり、あのケイブリスを前にしたって顔色を変えない鋼鉄の精神力を持つ彼女にだって限界はあるというもの。

 

 もしかしたらだが、もしかしたらという事もあり得るのでは。

 自らの体たらくを客観的に振り返り、そのように思い至ったが故の先程の質問。

 あの男が魔王城を離れている今のタイミングを利用して、いざという時の備えだけはしておくべきだと考えたのだった。

 

 

「……ですから、そうですね。決して予定がある訳では無く、言うなれば後学の為です」

「な、成る程、後学の為ですか」

 

 さすがはホーネット。魔人筆頭だけあってどんな事にも勉強熱心である。……などと思う程にシルキィも幼稚な思考はしておらず。

 衝撃は未だ脳内に強く残り、色々と考ねばならない事はあるのだが、何を置いてもまずはその質問に答えなくてはならない。

 そう思うシルキィなのだが、しかし彼女にはもう一つだけ尋ねたい事があった。

 

「……あの、ホーネット様。もう一つ聞いても宜しいですか?」

「えぇ、構いませんよ」

「この質問を、何故私に? あ、その、別に問題がある訳では無いのですが、けれどもその、それこそケイコとかであれば私などよりも的確な答えを返してくれると思いますが」

 

 ケイコというのはホーネットが有している使徒の内の一人。使徒達を束ねる立場にある筆頭使徒とも言える女性。

 彼女は元人間であり、シルキィの眼から見れば自分よりも容姿端麗である為、尋ねた事は無いが恐らくそういった経験もあるはずである。

 

 先程の質問、あれはとても答え辛い事この上ない。確かにあれを尋ねるのが目的ならば使徒達を部屋の外に出したくなる気持ちも理解出来る。

 しかしそれならばいっその事、自分では無く使徒の方に尋ねて貰いたかったなぁと、シルキィが思ってしまったのも当然の事ではあった。

 

「それはラ、」

「……ら?」

「……いえ。その、とある人物から、性的な一面に関してはシルキィが一番凄いと以前に伺ったので、それで貴女が適任かと考えたのです」

「……ぐっ」

 

 何故なのか。何故その人物はこの魔人に対してそういう話をぺらぺらと口にしてしまうのか。

 ぎざぎざの歯が生えた口を大きく開き、がははーと笑う憎たらしい表情が脳裏に浮かび、シルキィの口から怨嗟の呻きが漏れる。

 

(……と言うかホーネット様、それ名前伏せる意味無いです)

 

 率直にそんな事を思ってしまったが、さすがにそんなツッコミは声には出さない。

 ただ今の流れでその名前を出してしまうと質問の意図があまりにも明け透けとなってしまう。それを嫌がったが故にとっさにその人物の名を隠してしまったのだろうか。

 

 ホーネットのそのような心理を想像してみた所、シルキィにも少し思う事があった。

 

(……でも凄い、凄いわランスさん。他ならぬホーネット様をこんな……)

 

 この魔人にそんな小さな事を躊躇わせるとは。

 この魔人にあんな質問をさせるとは。それ程までにこの魔人を変えてしまうとは。

 

 そもそもホーネットは父親からの教育の影響を強く受けた結果、人間とは格下であって取るに足らない存在としか見ていなかった。

 その事を理解しているシルキィにとって、今のホーネットの姿は見かけこそ変わらないがその中身は殆ど別物。

 そこまでの影響を与えたあの男の事はもう凄いとしか表現しようが無かった。

 

 思えば以前、この魔人を口説く為に協力しろと言われた事があった。

 いやそれより更に以前、振り返って考えればあの男は初対面の時から変わらず、この派閥の主に対して自分の女になれと要求していた。

 

 それは幾ら何でも非現実的、さすがに無謀な話だと当時は思った。

 だがそれでも諦めずにここまで攻め続けた結果が先程の質問なのかと思うと、これまでも何度か実感させられたあの男の規格外さに改めてシルキィは驚嘆されられたのだった。

 

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 

「失礼します」

 

 一礼をして、シルキィはホーネットの部屋から退出した。

 

「…………はぁ」

 

 廊下に出た途端に空気の味が変わった。

 そんな感覚に包まれた彼女は思わず部屋のドアを背にして寄り掛かり、大きく息を吐き出した。

 

 

 間違い無く過去最大の驚きがあった雑談の時間。それは先程、ようやく終了を迎えた。

 

 ホーネットから尋ねられたあの質問、性交の際の留意点に関して。

 その返答には自分の初体験を振り返って「行為の最中に声を上げすぎて、次の日喉を枯らさないように留意してください」と答えた。

 いまいち合っているんだかよく分からないアドバイスになってしまったが、そんな話にもホーネットは興味深そうに頷いていた。正直言ってとても恥ずかしかった。

 

(……でも、あの質問は……)

 

 シルキィは改めて振り返ってみるが、先の質問にはとても重要な意味合いがある。

 ホーネットは予定など無いと言っていたが、本当に無いのならそんな質問をするはずが無い。

 そうなるかもと思っている相手が必ず居るはずで、それはまぁ間違いなくランスだろう。

 

(じゃあホーネット様って、ランスさんの事が……って事なの? ……それとも、その事はあんまり関係無いのかな? ……ううーん、どうだろ)

 

 一般的に言うならば、性交に及ぼうと思う相手にはそれ相応の好意という感情を持つ。ただ勿論例外もありそういう感情抜きにして行う場合もある。

 それこそ例えば自分のように、約束があって仕方無くという事もあるだろうし、ハウゼルのように押しに負けてという可能性だってある。

 

 だから先程の質問だけではまだ分からない。

 ホーネットの一番大事な気持ちの部分、言ってしまうと恋愛感情を判断する事は出来ない。

 しかしいずれにせよ、その行為に及ぶかどうかと考える段階にはあるという事になる。

 

(……ホーネット様、悩んでるんだろうな。さっきの様子から見てもそれは分かる)

 

 あの魔人が未だ悩みの中にあるのは間違いない。

 まだ性交の際の留意点は気にしている段階でありそれをすると決めた訳では無いので、予定が無いというもの事実ではあるのだろう。

 

(……けれどホーネット様の事だから……)

 

 シルキィは思う。ホーネットは派閥の主、あらゆる決断を下す立場にいる。

 今までも悩む事は沢山あっただろうが、最終的には決断を下し、そして決めたらもう迷わない。

 それがシルキィの知るホーネットという魔人で、ならばランスに関しての悩みにも決断を下す時は必ず訪れるはず。

 

(あの様子だとこうして私に相談する前から大分悩んでいるようだし、多分そろそろ……)

 

 近々ホーネットは悩みの中から一つの答えを出し、そして決意を固めるのではないか。

 となると気になるのは事に及ぶか及ばないのか、その決断がどちらに転ぶのかという所。

 だが先程のあんな恥ずかしい質問をこの自分にする事から考えても、それは推して知るべしというものだろう。

 

(それこそもしかしたら、ランスさんが魔王城に戻り次第……てのは微妙かもだけど)

 

 けれどもおそらくは近日内に、あの男の念願は叶う事になるのではないか。

 ホーネットの事を良く理解しているが故に、シルキィはそのような予測を立てた。

 

(ランスさん、きっと喜ぶだろうな。おめでとう……って、言う事じゃないかしら?)

 

 果たしてめでたい事なのか、その言葉が適しているかはとても微妙な所であったが、

 

(けど、やっぱりおめでとうで良いのかな? ……良いのよね? うん、おめでとう、ランスさん)

 

 それでもずっと前から宣言していた念願である訳だし、未曾有の偉業である事にも違いない。

 シルキィは近々目的を達成するだろうランスに向けて、脳内にて祝いの言葉を送るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなシルキィが立てた先程の予測。

 

 近日中にランスの念願は叶う事になるとの見立ては、だが結果としては見事に外れる事となる。

 

 その切っ掛けはやはりというべきか何と言うべきか、ランスと言う男の言動にあった。

 

 

 

 

 

 


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