ランス(9.5 IF)   作:ぐろり

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自覚

 

 

 

 

 ちゃぽんと小さな音を立てて、片足から水面に触れる。

 

「……ふぅ」

 

 そして肩まで浸かり、ホーネットは小さく息を吐く。

 

 その一方でざばーんと雑に腰を下ろし、水面に波が跳ね上がる。

 

「ぽへー……」

 

 そして肩まで浸かり、ランスは喉の奥から魂が抜けていくかのような声を発した。

 

 

 ランスとホーネット。二人は魔王専用の浴室にて只今絶賛混浴中。

 先程身体を洗い終わった両人は湯気立ちのぼる熱い湯船にその身を下ろした。

 

「……いい湯だなぁ」

「……ですね」

 

 足先から心地よい痺れが伝わり、そのまま全身へと巡っていく。

 思わず口をついて出たランスの率直な感想を受けて、ホーネットも自然と頷く。

 

 ここはこの世界の支配者、魔王だけが使用する為にと設置された専用の浴室。

 その荘重な造形などに始まり、魔王城の他を知らないホーネットはあまり気にしてこなかった事になるが、これまで世界各地を巡ってきたランスに言わせれば湯質も一味違うらしい。

 

「あー、温まるー」

「………………」

 

 軽く20人以上は入れそうな程に広々とした湯船。その縁に肩を並ばせてランスはのびのびと羽をのばしてリラックス。

 その一方でホーネットも僅かな警戒心こそ残していたものの、もう何度目かになる混浴にさすがに慣れていた。というか慣れようとしていた。

 

「……うむ、やっぱ風呂は良い」

「……えぇ」

「特にここの風呂は素晴らしい。ホーネット、それが何故だか分かるか?」

「それは……ここは魔王様の為に作られた浴室ですからね、素晴らしいのは当たり前の事で……」

「ちゃうちゃう、そーいうこっちゃない」

 

 分かってねぇなぁと言うかのように、したり顔のランスは首を横に振る。

 

「この風呂が素晴らしい理由、それは隣に裸のお前が居るからなのだ。がはははは!」

 

 高笑いと共にホーネットの背中から手を回して、その細い腰をぐいっと自分の方に抱き寄せる。

 互いの肩が当たる距離まで近づき、そのままランスの手が彼女の肌を撫でる。

 

「さわさわ……おぉ、すべすべだ」

「……ランス。本当に貴方は一切の躊躇いなく人の肌を触りますね」

「まぁな。これはさっき俺様が洗ってやった身体だからな、俺様には触る権利があるのだ」

 

 ランスの無茶苦茶とも言える主張にしかしホーネットは「……全く」と呟くだけで文句は言わず、微かに上気した顔を少し横に背ける。

 

「さーわさーわ、さーわさーわ……」

「………………」

 

 その手がさわさわと撫で回すのは、彼女の腰から背中に掛けて。

 このまま指先をその魅力的な胸の膨らみの方へと進めてみたり、あるいは未だ触れた事の無い下腹部の方へ進めてみると立ちどころに手首を捻り上げられてしまう。

 これまでの経験上でそれを理解しているランスはまだ攻めず、ホーネットの方も身じろぎせずにじっとしていた。

 

「わーさわーさ、わーさわーさっと……」

「……ランス、そろそろしつこいですよ」

「んな気にすんなって、いつもの事じゃねぇか。……やっぱ美人と入る風呂は良い、この城に戻ってきた甲斐があるっつーもんだ。そういやぁ俺様が城を離れている間お前は何してたのだ?」

「私はずっとこの城に居ましたよ。今は敵の方にも動きがありませんからね」

「ほーん、そか。のんびりしてたって訳か」

 

 戦争中の状況にあっては相応しくないようなその言葉に、ホーネットは「のんびり……」とどこか納得いかなそうに呟いた後。

 

「……ですが、のんびりと言えばそうですね。特別行った事と言えばシルキィとの、っ」

「うむ?」

 

 ホーネットが妙な所で口籠ったので、思わずランスもその顔に疑問符を浮かべる。

 

「どした?」

「…………いえ」

 

 シルキィから聞いたとても大事なあの話。

 今の流れでその事を思い出してしまったのか、ホーネットは一呼吸置いて気を落ち着ける。

 

「……その、シルキィと少し、派閥の今後に関して話し合いを行った程度ですね」

「ほう、派閥の今後とな。次の戦いの作戦でも決まったのか?」

「今はまだ……ですね。ここから先は色々と慎重にならざるを得ない局面ですから」

 

 ここから先。カスケード・バウの踏破と敵本拠地タンザモンザツリーへの侵攻。それは今までホーネット派が数度失敗している事もあって易々と決行に踏み切る訳にはいかない。

 そんな彼女の思いを知ってか知らずか、ランスはふふんと鼻を鳴らした。

 

「ホーネットよ。どーにも困ってるっつーならまた俺様の力を貸してやっても構わんぞ」

 

 何処までも自信満々であって、それでいて偉そうなその言葉。

 それを耳にしたホーネットは、

 

「………………」

 

 ほんの少しだけ。

 それこそ隣にいた男には到底気付けない程度の変化だが、ほんの少しだけ口の端を曲げる。

 

 先程の言葉。その台詞を至って当たり前のように言ってくれる事。

 それが殊の外嬉しく思い、またそれを嬉しいと感じた自分の事をおかしく思ったのだ。

 

「……そうですね、また貴方の力を借りるかもしれません。これまで私達も何度か挑んだのですが中々思うようにいかないのです」

「お前がそう言うとなると結構な事だな。一体何が問題なのだ?」

「現状私達の前に立ち塞がっているのは魔人ケッセルリンクです」

 

 大荒野カスケード・バウを越える為に倒さなければならない相手、魔人四天王ケッセルリンク。

 その名を耳にしたランスは「……うむ?」と眉を顰める。どうやら記憶が薄れているらしく、すぐにはその相手の事を思い出せなかったのだが。

 

「ケッセルリンク……あぁ、あのホモ野郎か」

「……ホモ?」

「うむ。……ぬ? あ、いや、あれは違ったか」

 

 以前ワーグに見せられたとある悪夢。その内容とごっちゃになってしまっているが、ケッセルリンクは決してホモと言う訳では無い。

 それどころか何人もの美女のメイド達を侍らかすいけ好かない相手だった事を思い出した。

 

「確かにあれはちょっと……ほんのちょこっとではあるが、手強かったような覚えがあるな」

「ランス、貴方はケッセルリンクと戦った事があるのですか?」

「ま、色々あってな。けどまぁ俺様の手に掛かりゃあんなオヤジ一匹相手にゃならんがな」

「……大した自信ですね」

「まーな」

 

 得意げに頷くランスであるが、その自信は決して無根拠という訳では無い。何故ならランスは過去に一度ケッセルリンクを討伐した経験がある。

 それどころかケイブリス派に属する全魔人を前回の時には討伐しており、そんなランスにはもはや脅威に感じる魔人など存在せず。

 仮にいるとするならばそれは、どうにも出来ない相手という意味で、今隣に居る魔人筆頭か眠りの力を操るあの魔人くらいなもの。

 

「俺様は世界を救った英雄だからな。ケッセルリンク程度恐れるに足らん」

「……そうですか。けれども確かに、貴方にとってはそうなのかもしれませんね。何せこの私を恐れないのですから」

「うむ、そーいう事だ。俺様に不可能は無い。そう、俺様に不可能など決して無いのだ。特に……」

 

 次に口にする言葉を強調する為、あえてランスはそこで一度区切る。

 そしてホーネットの肩をがっしりと掴んで、きっぱりと宣言した。

 

 

「特にセックスっ!!!」

 

 その大声が浴室の壁に反響する。

 

「セックスの事に関してはな、俺様に不可能はぜ~ったいに無い。これまで狙った獲物はどんな相手だろうと必ず抱いてきた、それがこの俺様、ランス様なのだ」

「………………」

 

 沈黙の中でホーネットは気の緩みを締め直す。

 相手の声が一際大きくなった事を受けて、ここからが本題なのかという事を理解した。

 

「時にホーネットよ。俺達は今こうしてお風呂に入っているだろう」

「そうですね」

「んで風呂に入っているとな、身体がぽかぽかになってくるだろう」

「そうですね」

「んで身体がぽかぽかになってくるとな、セックスがしたくなってくるだろう」

「……いえ、特には」

 

 早速とばかりにランスが仕掛けたトラップ、セックスへの誘導尋問。

 だがそれはいまいち繋がりが感じられない下手なもので、ホーネットが「そうですね」と墓穴を掘ってくれる事は無く。

 

「普通はセックスがしたくなるものなのだ。はーセックスがしたい。セックスがしたいなぁ」

 

 しかしランスはちっともめげずに会話を続ける。

 何とか話をエロい方面に持っていき、彼女の意識をそちらに傾けたいらしい。

 

「……貴方は普段から毎日のようにしているのではありませんか?」

「そりゃまぁそうなのだが。けどなぁ、最近はセックスの相手も変わり映えしなくてなぁ」

 

 腕を組んだランスはうーむと唸り、さも深刻そうに悩んで見せる。

 これまで回数を重ねてきたのはシィル、かなみ、サテラ、シルキィ、ハウゼルの五名。たまに女の子モンスターをつまみ食い、そして時々ウルザ。この城でのランスのお相手は大体そんな感じとなる。

 

「別に飽きたとは言わんのだがな。なんつーかこう、新しい出会いが欲しい気分なのだ」

「……そうですか」

「そうなのだ。あぁ、何処かに良い女は居ないもんか。なぁホーネット、この俺様が思わず抱きたくなってしまうようなハイパーグッドな女に心当たりは無いか?」

「……さぁ」

 

 ──今日は随分と遠回りに来ますね。

 とそんな事を頭の片隅で考えながら、ホーネットは適当に相槌を打つ。

 

「あ~、良い女。どっかにイイ女いねぇかなぁ」

「………………」

「特にちょー美人でー、おっぱいがぽいんぽいんでー、尻もきゅっとしててー」

 

 今一番セックスしたいなぁと思うイイ女。

 ランスは一つ一つ指を折って条件を挙げていく。と言うよりかは候補を絞っていく。

 

「すらっとしたナイスバディでー、緑色の長髪でー、目が金色でー、んで魔人筆頭でー」

「……魔人筆頭とまで言ってしまっては、該当するのが一人しか居ないと思いますが」

「ほう? ホーネット君、もしかしてそんな相手に心当たりがあるのかね?」

「………………」

 

 とても白々しい、いっそ馬鹿にしているのかと思えてくるようなその演技に、ホーネットは頭痛を堪えるかのように瞼を伏せる。

 

「……貴方のすぐ隣です」

「うむ? ……おぉ!! なんとこんな所に、俺が今挙げた条件全てに該当する女が!!」

 

 マジかビックリだー! とランスは目を輝かせ、心底驚いた様子で隣を向く。

 

「まさかこんなすぐそばに理想の相手が居るとは、これはもう運命に違いない! なぁホーネット、お前もそう思わないか? そう思うだろ!?」

 

 その眼力はとても強く、少しでも頷けばすぐにでも飛び掛かってきそうな勢いで。

 そんな男の熱い口説き文句に、しかしホーネットは心底呆れた様子で呟く。

 

「……茶番ですね」

「やかましい。そーいうツッコミはいらんのじゃ」

 

 ランスは不満を露わにするが、今しがた当の本人からも指摘された通り、こんなふざけ半分のようなノリで彼女が頷くはずが無い。

 その事は内心理解していたのか、

 

「……なぁホーネットよ、ちょっと真面目な話をしてもいいか?」

 

 ふいに今までとは異なる、とても真剣な顔付きに変わった。

 

「……構いませんが、なんの話です?」

「うむ。ものは試しにって言うだろ? だから試しに一回、一回だけセックスしてみないか?」

 

 相手の顔の前で人差し指をぴんと真っ直ぐ上に立て、一回だけと言う部分を強調する。

 

「……真面目な話なのですか、それが」

「真面目な話じゃい!! ホーネット、お前処女だろ? 今まで一回も経験ねーんだろ?」

「……まぁ、そうですね」

「だろう? だったら一度くらいは経験してみるべきだ。した事も無いセックスをそう毛嫌いするのはおかしいと思わんのか」

 

 何事に関しても食わず嫌いは良くない。嫌うにしてもせめて一度味わってからにするべきだ。

 そんな方向から攻めてみる事にしたランスの言葉に、ホーネットはすぐに否定の言葉を返す。

 

「……ランス。私は別に性交に関して毛嫌いをしている訳ではありません」

 

 彼女は魔人として100年以上の時を生き、現在まで未経験。だがそれは単に性交を行う必要が無かったからであり殊更避けてきたという訳では無い。

 彼女のそのような反論はしかしランスにとっては完全に狙い通りだったのか、男は我が意を得たりとばかりに笑みを浮かべた。

 

「だったら尚更だ、嫌いじゃねーんだったらしたっていいだろう。俺達はもうこんなに親しくなった訳だしそろそろ次の段階に進むべきだ」

「……親しく、なったのでしょうかね」

「なった。だってお前、一緒に風呂なんてよっぽど親密でないとしないぞ。それとも何か、お前は親しくもない奴と、例えばそこらに居る魔物と一緒に風呂に入ったりするのか? しねーだろ?」

「それは……その通りですが」

 

 そこらに居る魔物、彼女にとっては裸を見られたとて恥ずかしくもない存在。

 しかしだからと言って一緒に入浴などはせず、むしろそんな歯牙にも掛けぬ相手と共に湯に浸かろうなどとは微塵も思わない。

 

 これまでホーネットは魔人筆頭として、生物間にある格の違いというものを重視してきた。

 故に自らの使徒にも身体を洗うのは役目として認めているが、湯船に入るのを許した事は無い。

 そんな彼女にとって、ランスと当然のように風呂に入る今は確かによっぽどの事ではあった。

 

「……しかしランス、そもそもこうして今貴方と共に入浴しているのは私が認めた訳では無く、美樹様の命令あっての事なのですが」

「……それはまぁ、置いといてだな。とにかくこれだけ親しくなったのだから一回、一回だけでもしてみないか? もし一回セックスしてみて、それでもう嫌だっつーならそん時は俺様も諦めるから」

 

 勿論一回きりで諦めるつもりなど毛頭無いのだが、そこはそれ。今はどんな方法であれ一回セックスまで持ち込む事がとても大事。

 一度関係を持ってしまえば後はどうにでもなるだろう、とランスはそんな楽観視をしていた。

 

「……一回だけ、ですか」

「そーそー、一回一回。ほんのちょこっとだけだから、さわりだけ、さきっちょだけだから」

「……そういえば、以前にも貴方はそのような事を言っていましたね」

「んあ? そーだっけ? ……確かにそんな事を言ったような気がしないでもないでも……」

 

 けどいつの事だっけ? と朧げな記憶を頭の奥から手繰り寄せるランスの一方、

 

「えぇ、思えばあの時は……」

 

 ホーネットの記憶にはしっかりと残っているらしく、ふいにその瞳が遠くを見るものに変わる。

 

 それは魔人メディウサ討伐の為シャングリラへと出発する直前、ランスが彼女の事を口説き落とす為にとその部屋を訪れた何度目かの時の話。

 ホーネットはその時の事を良く覚えている。何故ならその頃に彼女は自分の変化、ランスと出会った事による変化を初めて実感したから。

 

 ランスという人間の男に対し、自分が興味を抱いている事をはっきりと自覚した。

 その時胸の内にあったのは相手の事をもっと知りたいと思う心。それだけだったはずで。

 

「……ですが」

 

 そう呟いて、少しだけ身体の向きを変える。

 隣に座る男の顔が良く見えるようになり、自然と視線を合わせる。

 

 あの時からまた時間が経った事で、自分の内には更なる変化が生じたように思える。

 こうして視線を重ねていると自分の胸の内には何か別種類のもの、ただ知りたいと思う気持ちとは異なる何かが確かにある。

 

 それがどのようなものなのか、ホーネットは未だ自覚していない。

 しかしそれを自覚はせずとも、それとは別にしてその事への覚悟を固める事は出来る。

 現に彼女はシルキィとの相談を終えてから一日掛けて悩み、そしてすでにある決意をしていた。

 

「おい。ですが、何だよ」

「……いえ。あの時から貴方は変わらないなと思ったのです。貴方のその変わらない態度、諦めの悪さと言ったものは美徳なのかもしれませんね」

「なんだ、んな事か。そりゃお前の事をまだ抱いてもないのに俺様が諦める訳ねーだろ」

「……そうですね。私がどのように拒もうとも、それでも貴方はきっと諦めないのでしょうね」

 

 それは聞きようによってはある種の降参宣言のようにも聞こえて。

 そんな彼女の言葉と様子に、少し驚いたランスは「お?」と目を丸くする。

 

「ホーネット、お前も分かってきたようだな。そう、俺様は絶対に諦めないのだ。だから無駄な抵抗はもう止めて楽になっちまえ。な? な?」

「……そう、ですね」

「……おぉ?」

 

 何か知らないがいけそうなのでは? とランスは率直にそう思った。

 ホーネットの気持ちが揺れている、そして自分が望む方向へと大きく傾いている。そんな気配がひしひしと伝わってきていた。

 

 彼女がその心境に至った理由、それは何か自棄になった訳でも投げやりになった訳でも無い。

 ただ自分の変化やランスの相変わらずな態度、出会ってから今までを色々と見つめ直して冷静に判断した結果、そうなるのも時間の問題なのではないかと思えてきてしまったから。

 

 最初は特に興味も湧かなかった相手。だがふと気付けばこうして湯を共にしている。

 ならばまた何時かふと気付いた時、その時にはもうそんな関係になっていてもおかしくない。

 

 初体験となるその事に対して、今の彼女自身がそれを積極的に望んでいると言う訳では無い。

 ただそれが自分にとって遅いか早いかの違いだけならば、これ以上相手の要求を断って引き伸ばす事に意味合いを感じられなくなってしまった。

 

 そしてなにより──自分の内に理解の及ばぬ何かがあるのなら。

 いっその事そんな衝撃でも与えてみれば、見えてくるものもあるのではと思えてきて。

 主にそのような思考の流れで、自身の心の奥底にあるものには自覚する事無く、この日のホーネットはその決意を胸に秘めていた。

 

 なので後はもうひと押し、ほんのちょっとその手を引いてあげるだけで良かった。

 それでシルキィが予測した通り、ランスの念願はこの日に叶うはずだった。

 

 だが。

 

 

「お前を抱く事は絶対に諦めないぞ。なんせ俺様はお前を抱く為にわざわざこんな所まで来て、お前達に協力している訳なのだからな」

 

 その言葉が。

 ランスが更に念押ししようと、本当に何気無く口にしたその一言が。

 

 

「………………」

 

 不意にホーネットの思考を止めた。

 

 何故今の言葉が引っ掛かるのか、彼女自身にもすぐにはよく分からなかった。

 けれども湯船に浸かって熱を帯び始めた頭が、冷水を浴びせられて急激に冷めていくような、何かとても嫌な感覚を受けた。

 

「………………」

「……おいホーネット、お前急に黙るなよ」

「……あ、いえ。……なんと言うか、今の言葉が気になって……」

「今の言葉?」

 

 何か特別な一言を言ったつもりは無く、ランスは不思議そうに首を傾げる。

 

「だから、俺様は絶対に諦めないって」

「いえ、その部分では無く……」

「あん? なら俺はお前を抱く為にこんなとこまで来て、お前の派閥に協力してるのじゃ……てこれ、前にもこんな話をしたような気がするのだが」

「……そう言えば、確かにそのような事を言っていましたね」

 

 ランスがこの魔王城に来た目的、ホーネット派に協力している目的。

 それは自分を抱く為であると、ホーネットも以前ランスの口から直接に聞いている。

 だからそれは今ここで初めて知った訳では無く、とっくの昔に知っていたはずの事。

 

 だがその言葉を今再び聞いてみると、それは以前に聞いた時と全く別の意味にも受け取れて。

 それこそ全く異なる言葉のように、今のホーネットにはそう聞こえていた。

 

「……貴方は、私を抱く為に、ホーネット派に協力している……」

「おぉそうだ。お前っつーかまぁ、ホーネット派の女魔人全員だけどな」

 

 その普段通りの冷然としていた表情が、次第に別のものへと変わっていく。

 だが隣にいた男はそんな様子に目を向ける事は無く、更に言葉を続けてしまう。

 

「けど俺様はもう、サテラもハウゼルちゃんもシルキィちゃんもみーんな抱いた訳で。だから残るはお前だけなのじゃ」

「……なら、貴方は……」

「あ。いや待てよ、まだワーグが居たな。あいつも何とかしねぇと、どーしたもんかなぁ……」

「……ワーグ」

 

 その名前を呟いたホーネットの表情に一瞬だけ別の色が差し込む。

 だがすぐにそれはかき消え、彼女の脳内はとある一つの思考だけに囚われる。

 

「……けれど、ワーグはホーネット派では、ありません。……この城には、いません」

「ん? まぁそーだな。けどんなの別に……て、ホーネット……お前どうかしたか?」

「……え?」

 

 その魔人の様子がどこかおかしい事に、ランスもようやく気付く。

 

「いや、なんつーかお前……」

 

 その表情は今まで見た記憶が無く、思わずランスも口にするのを躊躇ってしまう。

 だがそう感じてしまう程にそれは切実で、ひと目見ただけで分かる程に顕著で。

 

 その真っ青な顔は、時間が止まったように凍りついていて。

 その表情に浮かぶ感情、それは恐怖。

 

 今のホーネットは何かを恐れていて、それを心の内に隠す事さえも出来ずにいた。

 強大な力を持つ魔人筆頭が、今は何故かとてもか弱い存在のようにランスの目には映っていた。

 

「……あ、もしかして寒いのか? ならお湯沸かし直すか」

「……いえ」

 

 見当違いの提案をするランスの一方、ホーネットはゆっくりと首を下ろして。

 

 そして。

 

 

「──考えが、変わりました」

 

 

 深く項垂れたまま、消え入りそうな程にか細い声でそう呟いた。

 

「変わった?」

「えぇ。……ランス」

 

 その言葉を告げる前に、せめて顔を上げて視線を合わせようとした。

 けれども結局その顔は上げられず、その目を見る事は出来なかった。

 

「貴方とは……駄目です。貴方と、性交を行う事は……出来ません」

「な、なにぃ!?」

 

 ここにきてまさかの拒否にランスは仰天する。

 出会った当初ならともかく、ここ最近はこれほど明確に駄目だと言われた覚えは無く。

 何よりもついさっきまでなんかいけそうだった。そんな感じがしていたにもかかわらず、それが一転して突然のお断りであった。

 

「き、急にどーしたホーネット。あれだぞ、別に一回、一回だけで良いんだぞ?」

「……いえ。たとえ一回だけであろうと駄目なものは駄目です」

「い、いや待て待て、つーかお前、考えが変わったって事は……」

「……それは忘れてください。とにかく、やはり私は貴方とそういった事は出来ません。……では、私はそろそろ上がります」

 

 それだけを言い残して、ホーネットはすぐに湯船の中から立ち上がる。

 今はもう、一刻も早くここから立ち去りたい気分だった。

 

「ま、待てホーネットっ!」

 

 少し遅れてランスも慌てて立ち上がり、すぐにその後ろ姿を追う。

 そして洗い場の手前付近で追い付き、逃さぬようその二の腕を掴んだ。

 

「……何ですか?」

「……セックス、駄目なのか」

「……駄目です」

「どーしても駄目か?」

「……えぇ」

 

 何度確かめても、返ってくる答えは同じ。

 

「……そうか」

 

 その思いが変わらない事を知ったランスは、力が抜けたように掴んでいた腕を放す。

 だがそれは当然ながらホーネットの事を抱くのを諦めた訳では無くて。

 

「……そうか、そうかよ」

 

 いつの間にかその拳はぎゅっと握られていて。

 次第にその声には怒気が混じり始め、そして。

 

 

「あーそうかいそうかい!! ホーネット、お前の考えは分かった、よ~っく分かった!!」

 

 ランスは声を張り上げてがなり立てる。

 その表情は怒り心頭といったもので、こめかみには血管まで浮かんでいた。

 

「こっちが下手にでてりゃあいい気になりやがって……! お前がそういう態度に出るのならな、俺様にだって考えがあるぞ!!」

「考え……ですか?」

「そうだ!!」

 

 ここまで何度も口説いてきた。あれこれ頑張ってどうにか距離を詰めてきた。

 それなのに突然断られた。それにとてもショックを受けたランスが選んだ選択肢。

 それはもう口説くなどと言う面倒くさい事は止めて、圧倒的な力によって有無を言わさずセックスまで持ち込む事。

 

「こうなったらもう美樹ちゃんだ!! 美樹ちゃんの手紙を使ってやる!!」

 

 圧倒的な力。即ち魔王リトルプリンセスの権力を借りてしまえば良い。

 仮に捏造した手紙での命令だとしても、魔人筆頭であるホーネットは従わざるを得ない。それはこうして混浴をしている事が何よりの証。

 ランスにはこの絶対的な切り札があり、これを使えば何時でもホーネットを抱ける状態にあった。

 

「……出来ればこれは使いたくなかった。お前の事は自力で落としたかったのだ。けどな、お前がそんな頑なな態度に出るならもー知らん!!」

 

 これまでランスがホーネットと一緒にお風呂に入ったりなど、彼女との駆け引きを楽しんでいられた理由、それは最終的にはこれを使ってしまえば良いという余裕があった故の事。

 そしてどうやら今日この時、その最終的な局面が訪れたようだった。

 

「つー訳でホーネットよ、セックスするぞ。まさか断りはしねぇよなぁ? これは美樹ちゃんの、魔王様の命令だもんなぁ!!」

「……っ」

 

 勝ち誇った表情のランスに対し、ホーネットはとても苦しそうな表情で。

 滅多に表情を変えない彼女が本当に苦しそうに、辛そうにその顔を歪ませて。

 

 

「……いえ。だとしても、駄目です」

 

 だが、それでもきっぱりと宣言した。

 

「な、何だとぉ!? み、美樹ちゃんだぞ、魔王の命令なんだぞ、分かってんのかホーネット!!」

「……そもそも、あれは偽物でしょう。本物の美樹様が書いたものでは無いはずです」

「ぐっ、い、いーや偽物じゃない、あれはマジの本物だ! お前が命令に従わなかったって後で美樹ちゃん本人にチクるぞ! いいのか!?」

 

 ランスはとてつもなくセコい事を言いながら、それでもどうにかして食らいつく。

 その攻撃は狙い通りホーネットという魔人の急所に何度も刺さってはいたのだが。

 

「……仮にあの手紙が、本当に美樹様が書いたものだったとしても」

 

 しかしそれでも、彼女が先程抱いてしまった恐怖を拭う事は出来なかった。

 

「……その命令だけは、頷く訳にはいきません」

「……な、な、なななな……っ!」

 

 あんぐりと顎を落とした表情のランスは、ふらっとたじろいたように一歩下がる。

 

 ホーネットは今まで美樹には絶対服従だった。それは前回の時からも確かなはずである。

 しかし今の彼女は魔王の命令に従わない。これはランスにとって大誤算もいいところ、この切り札に効果が無いとは微塵も考えていなかった。

 

「……では、私はこれで」

 

 そしてホーネットは背を向けて、出口の方へと歩き始める。

 

「ぐ、ぐ、ぐ……」

 

 これまで徐々にではあるものの、それでも確実に関係性を深めてきたつもりだった。

 だがそんな折にこの態度。初対面の時に戻ったかのような明確な拒絶、セックス駄目宣言。

 そして絶対的な切り札だと思っていた秘策、魔王の命令にもさっぱり効果が無い。

 

 実の所、それは関係性を深め過ぎたが故の失敗。

 もっと早くに使っていたなら確かな効果があったのだが、そんな事にランスが気付けるはずも無く、そして気付いたとて今更な事で。

 

「ぐ、ぬ、ぬぬぬぬ……!!」

 

 もはやどうすればいいのか。ホーネットとセックスする方法に皆目見当が付かない。

 そんなランスに残されている手、それはもう一つだけしか無かった。

 

 

「っがーーー!!!」

 

 荒れ狂う感情そのままに叫び、男は獣となってその背中に襲い掛かる。

 

「ホーネットーーーッ!!!」

 

 それは言わば破れかぶれの特攻。

 常に隙の無い魔人筆頭に対して到底通用するはずが無い、無謀な突撃のように思えたのだが。

 

 

「っ、」

「あれ?」

 

 その背後から抱きついた途端、逆上していたランスは思わず素の様子に戻ってしまう。

 彼の両手はその魔人の前方に回され、あっけなくその両胸を鷲掴みにしていた。

 

「……あれ? これおっぱい? でも柔らかいし……おっぱいだよな?」

 

 自らの手に掴んでいるものが信じられず、ふにふにとその形を変えてみる。

 

「ん、……」

 

 身体を走る感覚に喉を鳴らし、ホーネットは艶めく声が漏れそうになる口元を押さえる。

 

「あれ? あれれ?」

 

 その豊かな双丘を思う存分揉みしだき、しかし今のランスは興奮より混乱が勝っていた。

 今まで何度か混浴した際、肌に触れる事は許しても胸は許してくれないらしく、その胸元に手を伸ばすとすぐに手首を捻り上げられる。

 これまではそうだったはずなのだが、しかし何故か今においてはそんな事も無く。

 

「………………」

 

 そのまま数秒程が経った後、ホーネットは自分の胸を掴むその手を除けて。

 そして普段通りの表情、と言うよりも普段通りを取り繕っているような表情で口を開く。

 

「……気が済みましたか?」

「ぐ、ま、まだじゃーー!!」

 

 この程度ではまだまだ満ち足りず、再度ランスは気勢を上げる。

 そして彼女の正面に回り、また無謀なはずの突撃をかましたのだが。

 

 

「──っ」

 

(……あれ?)

 

 思わずその脳内でこてんと首を傾げたくなってしまう程に。

 とてもあっさりと、ランスはホーネットとキスをしていた。

 

(……あれれ? 駄目っつーわりになんかこいつ、むしろ普段よりいけそうな……)

 

 これまでの彼女の場合、勿論ながら口付けなどさせてはくれない。

 先の拒絶の言葉とは反するような彼女の態度に、ランスは何が何だかよく分からない。

 

 しかしそれもそのはずで。

 何故ならホーネットは今日、その身を委ねる決意をしていたのだから。

 

 

「……ん」

 

 そしてまた数秒程が経った後、その魔人は自分に巻き付くランスの手を払って静かに唇を離す。

 

「……もう、いいですか?」

 

 互いの息が掛かるような距離で、さすがにもうホーネットはその表情を隠す事も無く。

 と言うよりかはもはや隠せるようなものでは無い程に、その顔は鮮やかな朱色に染まっていた。

 

「……え。あの、ホーネットさん」

「……何ですか?」

「セックス、駄目なの?」

「……駄目です」

 

 それがその日二人が交わした最後の会話。

 それきりホーネットはランスの腕の中から離れ、出入り口のドアの奥へと消えていった。

 

 

 

「………………」

 

 魔王専用の浴室にはいつかの時と同じ、ランスただ一人だけが残される。

 

「だ、駄目だ」

 

 しばし呆然とした様子で立ち尽くしていたが、やがて倒れ込むように膝を折って尻もちを付く。

 

「……わ、分からん」

 

 そのままごろんと後ろに倒れ込み、浴室の天井を呆然と眺める。

 

 本日の混浴の中で起きた怒涛の展開。

 頭の中はもうちんぷんかんぷん、何もかもがサッパリ理解出来ない。

 しかしそんなランスにもただ一つだけ理解出来た事がある。

 

 先程触れた時に確信した。

 ホーネットは自分の事を拒んではいない。間違い無く受け入れている。

 

 それはもう聞かなくても分かる事、何故なら自分はセックスに関しては百戦錬磨。

 あの胸を揉んだ時の身体の強張り、あるいは口付けした後のあの表情。

 そういった所から相手が嫌がっているのかいないか、拒んでいるか受け入れているかなどは伝わってくるもの。

 

 ホーネットは自分の事を絶対に拒んでいない。

 仮にあのまま押し倒せていたならば、その行為には強姦では無く和姦という名が付くはず。

 少なくとも身体の反応だけみればそれは確かなはずなのだが、しかし彼女の意思は認めず、魔王の命令に逆らってまでもセックスは駄目だと言う。

 

「駄目だ、分からん!!」

 

 魔人ホーネット。彼女の思考、その行動原理、何もかもがランスにはまるで分からない。

 これまで培ってきた常識が通用しない、全く未知の生物を相手にしているかのようであって。

 

「分からーーん!! ホーネットの事は分からーーーんっ!!!!」

 

 それは心からの叫びであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 後ろ手に浴室のドアを閉じる。

 そしてニ、三歩進んだ所でその足を止めた。

 

「……はっ」

 

 すぐ近くにあった大きな脱衣棚、思わずそれを背にして寄り掛かる。

 だがそれもつかの間、すぐにへたり込むように身体を落とし、膝を抱えて深々とうずくまる。

 

「……はぁっ、はぁ」

 

 息が荒い。

 ここまでどうにか抑え込んできた、その留め具が壊れてしまったかのように一呼吸吐き出す度に肩が大きく上下する。

 

「はぁ、はぁ……っ」

 

 早鐘を打ち続ける胸元に手を置く。その激しい鼓動は収まる気配が無い。

 命の奪い合う戦場の最中においても、これ程までに息を荒げた経験は無い。

 平時の自分が見たらいっそ滑稽に思える程に、その口からは喘ぐような息遣いが止まらない。

 

 

(……私は)

 

 何故これ程に呼吸が苦しいのか。

 何故これ程に取り乱しているのか。

 

 たかが胸に触れられた程度で。

 たかが唇を合わせた程度で。

 

 その感覚が身体に焼き付いて離れず、無性に熱い頬を撫で、微かににじむ目元を拭う。

 するとその時、扉一枚隔てた向こう側にある浴室から「ホーネットの事は分からん」と、彼のそんな大声が飛んできた。

 

 それはそうだろう、とホーネットは心底思う。

 何せ当の本人にですら全く分からない、到底理解に苦しむ事を今の自分はしているのだから。

 

 

(……私は、なんて事を)

 

 つい先程、自分は過ちを犯した。

 絶対にしてはいけない事をしてしまった。

 

 自分は魔人であるのに。

 それもただの魔人ではない、全魔人の模範となるべき魔人筆頭であるのに。

 そして来水美樹を魔王として敬服している、ホーネット派の主であるはずなのに。

 

 魔王の言葉を無視した。

 魔王の命令に逆らってしまった。

 

 その真偽など言い訳にする事は出来ない。

 少しでも可能性があるならば従うべきであるし、何よりも以前の自分ならば従っていたはずだ。

 

「…………はぁ、……はっ」

 

 自分が犯した取り返しの付かない事を思い、ホーネットは今になって身体が震える。

 そしてつい先程までこの胸の内にあった決意。それが見るも無残に崩れ去っている事に、その程度の覚悟だったのかと自らを嗤いたくなった。

 

 

(……私は、知っていたはずなのに)

 

 あの言葉を。

 以前にも一度聞いているはずの言葉、それを今になって再び彼の口から聞いた時。

 彼がこの城に居る理由。自分達に協力している目的、それがこの身を抱く為だと思い出した時。

 

 その望み通りにこの身を委ねたとして、そうして目的を達成した彼が次にどうするか。

 その考えに頭を巡らせた途端、何かに呪われたかのように身体が動かなくなってしまった。

 

 何故なら彼は人間であり、魔人である自分とは元々住む世界を別にしている存在。

 この城に来た目的を果たしたならばと、元の世界に帰ってしまってもなんら不思議では無い。

 だがそうして彼が居なくなった時の事を思うと、どうしてか急に寂しさが押し寄せてきて。

 

 そしてなにより、怖かった。

 もう会えなくなってしまうかと思うと、怖くて堪らなくなってしまった。

 

 

(……私は)

 

 そんな事を恐れてしまった。

 そんな事を恐れ、固めたはずの覚悟は揺らぎ、挙げ句魔王の命令にすら逆らってしまった。

 

 そんな事、ただ一言聞いてみればいい、それだけで良かった事なのに。

 目的を果たした後もこの城に残り、私と共に戦ってくれますかと、そう聞くだけで済んだ事。

 恐らくは頷いてくれる。そう分かっていたのに、だがもしかしたら、あるいは、なんて事を考えてしまうとその答えを聞く事すらも怖かった。

 

 言ってしまえば彼がこの城から居なくなったとして、それがなんだと言うのか。

 もうそうなったとしてもその程度の事と、少し前までの自分ならきっとそう思っていたはずだ。

 彼がこの城に来る以前、ほんの数ヶ月前と同じ状況に戻るだけの事なのだから。

 

 そしてなにより──そもそもが人間と魔人。どの道いつかは別れる事になる。

 それこそ遅いか早いかの違い、その程度の事でしかないというのに。

 そんな事を恐れて魔王の命令に逆らうなど魔人筆頭失格もいいところだ。

 

 

(……私は)

 

 いつからこれ程までに臆病になったのだろう。

 これも自分の変化の一つなのかと思い、そしてすぐにホーネットは考え直す。

 

 あるいは変化などでは無く、元から自分はこんなだったのかもしれない。

 何故なら自分は長い年月を生きてきたけれど、この感情はまだ一度も体験した事が無い。

 

 前魔王であるガイ。尊敬する父親に向けていたものと近しい、だが確かに異なる感情。

 初めての事だからこそ戸惑い、そして恐怖してしまうのだろうか。

 

 

「……私、は」

 

 震える手をゆっくりと動かし、ホーネットは震える自分の身体を抱き締める。

 俯いたままの顔、顎の先から水滴が落ち、それと一緒に言葉が流れ落ちる。

 

 自分の内にある理解の及ばなかった思い、今も激しく鳴り続ける胸の奥底にある気持ち。

 彼が居なくなる事を寂しく思い、彼と会えなくなる事に恐怖する感情。

 今まで気付こうとしなかったその想いに、この期に及んでもう目を逸らす事は出来ない。

 

 

「……私は、ランスの事が」

 

 変化というのなら、おそらくそれはとっくのとうにそうなっていて。

 その変化の名前を今、彼女は確かに自覚した。

 

 

 

 

 


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