戦い終わって④
魔人レッドアイは倒れた。
ケイブリス派の魔人がまた一体討伐された。
狂気の魔人と呼ばれ、これまで幾度と無くホーネット派魔物兵の殺戮を行ってきたレッドアイ。
彼は居なくなってしまったロナを取り返す事に執着するあまり仕掛けられた罠に気付かず、最終的には人間の手によって止めを刺され、その宝石の身体を魔血魂に戻す事となった。
そして。
「……ふあ~~ぁ、ねみ……」
と、そんな大きなあくびをする声。
魔人レッドアイとの戦いで結果的に大殊勲を立てる事となった人間の男、ランス。
彼はその戦いの後すぐに魔王城に帰還して、そして今は自室のソファに寝転がっていた。
「……あーくそ、何かくらくらするな……」
何をする訳でも無く、退屈そうにしているランスの顔は見るからに憮然とした表情で。
魔人レッドアイとの激戦を見事に制したランスであったが、しかしほぼタイマンに近い形で魔人と戦うのはあまりに無謀な行いであり、無事に済んだとは言い難いものであった。
特に最後に食らってしまったレッドアイの必殺魔法、ミラクルストレートフラッシュ。
あれは寸前でホーネットが魔法バリアを使用してくれていたから助かったものの、そうでなければ間違いなく死んでいた程の一撃で。
(あんな雑魚の一発とはいえ……そこは一応魔人っつーだけはあるって事か。……まぁでも俺様にとっては大した事など無かったがな)
などとその心中では強がるものの、しかし魔法バリアによって減衰して尚かなりの威力となるレッドアイの必殺魔法、その直撃を受けたランスのダメージは甚大なものであった。
全身の皮膚は爛れて骨折も数か所見つかったりと、そのまま死んでいてもおかしくない重症であり、そうならなかったのはひとえにランスの強靭な生命力、そして負傷してすぐホーネットの神魔法LV2によるヒーリングを受けられた事が要因だろう。
(……つーか、前にヤツと戦った時もすげー怪我を負ったような気が……ぐぬぬ、ムカつく)
振り返って考えると前回の時、魔人レッドアイとの2度目の戦いの時にもランスは大怪我をした。
そして今回に至ってはそもそも戦うつもりなど無かった。ホーネット達に戦わせれば問題無いだろうと確実に勝てる状況をセッティングした。
それにもかかわらず、ふと気付いた時にはあの魔人と5度目となる死闘を繰り広げていた。もはやただの偶然とは考えられない、しかしながら運命だとも思いたくはない巡り合わせである。
(ただやはり今回も前回と同じように俺様の大勝利ではあったがな。そう考えるとヤツが俺様に負けるのも運命だと言えるのかもしれんな。うむ、きっとそうに違いない)
ともあれ、そんな心底受け入れがたい嫌な因縁をランスは自らの手で断ち切った。
そしてその時に負った大怪我も今ではもう殆ど治っている。即座に治療を受けられた事が幸いしたのか後遺症なども無し。故にもはやその安否を心配する必要など無いのだが。
「……全く。どいつもこいつも同じような事を何度も言いおって」
思わずその口から出た不満。それはあの戦いを終えた直後にあった出来事。
その時はまだ全身酷い火傷だらけの状態であり、治療していたホーネットは勿論の事、駆け付けてきたサテラやハウゼル、シルキィ達全員にそれはもうひどく心配をされてしまった。
その後すぐに帰還した魔王城で顔を合わせた者達も似たりよったりの反応で、最終的に治療の大半に貢献してくれた魔人筆頭からは「せめて一日は安静にするように」と厳命を受けてしまった。
「あいつらはあれだな、俺様が不死身だという事を理解しとらんのだな。けしからん」
などと呟くランスだが、実際確かに傷は癒えたもののそれでも大量に血を失った影響からか、立ち上がってみると頭はフラフラしてしまう。
前回の時に大怪我を負った際はすぐに治療を受けてまた戦ったりしたものだが、しかしながら今はあの時のように差し迫った状況にある訳でも無く。
「ただまぁ俺様はちょー大活躍した訳だしな。そんな英雄には休息も必要だよな、うむうむ」
よって本日は言うなれば安息日。
特に何をする訳でも無く、ランスは自室でまったりモードである。
「……んー、何かちょっと眠くなってきたな。そろそろ昼寝でもすっか」
そう思って瞼を落としかけたその時。
コンコン、とドアをノックする音が聞こえて。
「お、誰か来た」
そしてガチャリとドアノブが回された。
「ランス、お見舞いにきてやったぞ」
「おぉ、サテラ。それにシルキィちゃんも」
「こんにちは、ランスさん。身体の調子はどう?」
やってきたのは魔人サテラと魔人シルキィ。
両者共に先の魔人レッドアイとの戦闘に参加した二人であり、その後ランスと同じように魔王城へと帰還した二人である。
「というかランス、起きていちゃ駄目じゃないか。今日一日はベッドで横になっているようにとホーネット様も言っていただろう」
「んな一日中寝てられるかっての。お前らは揃いも揃って余計な心配をしすぎだ」
「そう言われてもねぇ、心配だってしちゃうわよ。だってあの時のランスさんったら酷い怪我をしてたんだもの」
ほんの直前まで寝ようとしていたのに、やたらと心配されるのもそれはそれで煩わしいのか。
ランスは殊更に健在をアピールしてみるものの、しかしそう言われた所でやっぱり気懸りになってしまうのが人情というもので。
「それにほら、私達は魔人だからね。人間の貴方にどれ位の生命力があるのか、どれ位の怪我になら耐えられるのか……みたいな事って中々分からないものなのよ。……本当に大丈夫なの?」
「本当に大丈夫だっての。俺様はもう元気ハツラツ、もうセックスだって出来るぞ。そうだ二人共。せっかく来た事だし3Pでもするか?」
「……シルキィ、こいつ叩いてもいいよな?」
「……サテラ、一応怪我人だから」
グーを握るサテラとそれを嗜めるシルキィ。
たださすがにその台詞はポーズだけ。レッドアイとの戦いを終えた直後、重症を負ったランスの姿を見て二人ははっと息を呑み、サテラなどは泣き出しそうになる有様で。
それ故こうして元気になったランスの姿を見て、二人共内心ではホッとしていた。
「でも実際3Pぐらいはさせてくれたっていいと思うのだが。俺はお前達ホーネット派がずっと苦労してきた相手を退治してやったのだぞ?」
「……む」
そんな二人の心情を知ってか知らずか、ランスが今回のレッドアイ戦での大活躍を、自身の手柄を殊更にアピールしてみせると、
「……まぁ、それに関しては……うん、本当に良くやったぞ。さすがはサテラの使徒だな」
「そうねぇ。あの時にも言ったとは思うけど、改めてランスさんって本当に凄い人だと思うわ」
「だろ? 俺様ってスゲーだろ? がはははは!」
それには二人の魔人も素直に頷くしか無い。
レッドアイはこれまでホーネット派に対し一番の被害を与えてきた魔人。その討伐の成功にはこれまで倒したどの魔人以上もの大きな価値がある。
魔人が一体減る事による敵の戦力低下は勿論、魔人の撃破という事実は敵の士気を挫いてその逆に味方の士気を高める事にもなる。
そして更に、ここに来ての魔人レッドアイの討伐には何よりも大きな意味合いがある。
「にしても目玉野郎もようやく潰した事だし、これでケイブリス派に残る魔人共もさすがに結構減ってきただろう」
「そうだな。レッドアイを倒した事で向こうの魔人は残り5体、遂にサテラ達ホーネット派が魔人の頭数で上回った。これは確かに凄い事だ、今まで勢力的にはずっとケイブリス派が優勢だったからな」
現在ホーネット派に属している魔人。
それはホーネット、サテラ、シルキィ、ハウゼル、ガルティア、メガラスの計6名。
そして現在ケイブリス派に属している魔人。
それはケイブリス、ケッセルリンク、カミーラ、レイ、パイアールの計5名。
派閥に属する魔物兵の総数では依然として差はあるものの、もはや魔人の数ではホーネット派よりケイブリス派の方が劣る事となった。
勿論一口に魔人と言ってもその強さは各々で大きく異なる為、一概にどちらが戦力的に上とは言えない状況ではあるのだが、それでも単純な数字の大小が与える印象というのは決して小さくない。
つまりここに来てケイブリス派は劣勢となり、ホーネット派が優勢になった……と、その事実を知る者達は自然とそう考えていた。
「確かに言われてみると……もうこっちの方が魔人の数が多いのか」
「そうね。一時期なんて私達の倍以上の魔人がケイブリス派に属していた事もあったのに、そこから考えると本当によく盛り返せたなぁと思うわ」
過去には倍の差があった両派閥の魔人の数。常に苦境だったその頃を思い出したシルキィがしみじみといった感じで呟くと、目聡いランスがそこに大事な注釈を入れる。
「……ちなみに知っとるか? こっちに来てから俺様が退治した魔人はこれで2体目。んでケイブリス派から引っこ抜いたムシ野郎とワーグの件も加えればこれで4体になるのだ」
「勿論知ってるって。分かってる、私達が勢力的に上回れた理由の多くはランスさんのおかげね。……正直な話、貴方を仲間に引き入れた時はここまでの活躍をしてくれるなんて全く思ってなかったわ」
「ふっ、見る目が無いなシルキィちゃん……とは言わないでおいてやろう。俺様のスゴさはヤバすぎてそう簡単に理解出来るようなもんじゃねーからな。……て事で二人共、もっと褒め称えていいぞ」
その勢力図の変化、ケイブリス派の魔人が倒れた理由の大半はランスが要因となる。派閥戦争に参加してからもそうだが、更に魔人ジークや魔人サイゼル、魔人カイトの討伐もこの男の手柄。
魔人たる自分達にも出来なかった敵魔人の討伐、それに加えて派閥の主であるホーネットを救出した事など、その貢献はもう計り知れないもので。
故に褒め称えていいぞと言われたなら、サテラとシルキィはもう素直に褒め称えるしかない。
「あんまり調子に乗らせたくは無いけど……まぁ今日くらいは褒めてやるか。うん、偉い偉い」
「もう何度も言った事なんだけどね。……うん、凄い凄い」
サテラとシルキィはランスの両隣に腰を下ろし、手を伸ばしてその頭をよしよしと撫でる。
「その通り、俺様は偉くて凄いのだ。さぁもっともっと俺様を崇めろ」
「もっとだと? 全くしょうがないヤツだな……ほら、偉い偉い」
「うん。凄い凄い。ほら、いい子いい子」
二人の魔人は更にその頭をなでなで。
「うむ。まだまだ続けろ」
「うんうん、えらいえらーい」
「よしよし、すごいすごーい」
「……おい。何か適当になってきてねーか?」
どうもおざなりになってきているような。というかこれはむしろ子供扱いなのでは?
その点が少し引っ掛かったものの、しばらくの間ランスは両魔人からの称賛を受け続けた。
そして。
「じゃあランス、ちゃんと安静にしているんだぞ」
「またね、ランスさん」
その後サテラとシルキィは部屋から退出して。
それから10分程が経過した後。
コンコン、とドアをノックする音が聞こえて。
「お、また誰か来たな」
そしてガチャリとドアノブが回された。
「こんにちはランスさん。怪我の具合は良くなりましたか?」
「おぉ、ハウゼルちゃん。それにサイゼル、お前も来たのか」
「私はハウゼルの付き添いで来ただけよ」
やってきたのは魔人ハウゼルと魔人サイゼル。
どうやら先程のサテラ達と同じく、ランスの様態を気にしてお見舞いにきたようである。
「……ふーん。こうして見る限りだともうすっかり元気になったわね」
「まぁな。俺様は不死身だからな」
「ほらハウゼル、だからそんなに心配する事ないって言ったじゃないの」
元々大して心配もしていなかったのか、普段と変わらない様子でいるサイゼルの一方。
「姉さん、けど……」
こうしてランスの元気な姿を見て尚、ハウゼルはその表情を曇らせていて。
「……ランスさん、本当に申し訳ありません。私達の所為でランスさんを危険な目に合わせる事になってしまって……」
「あぁ、そういやなんかホーネットから聞いたな。あの目玉を倒したと思ったらいつの間にか逃げ出していたんだって?」
「はい、そうです。あの時レッドアイを打ち損じたのは私達の責任です」
ランスが考えた作戦でレッドアイを罠に嵌め、4対1の圧倒的優位な状況を作り出した。そしてハウゼルとサイゼルが放った『仲良しビーム』は闘神Γの破壊に成功したものの、大元たるレッドアイを倒す事は出来なかった。
あわやレッドアイを取り逃がしそうになった事、そしてランスが戦う羽目になって結果的に大怪我を負ってしまった事。それら全てが自分達の責任だとハウゼルは感じているらしい。
「あそこまで追い詰めたのにレッドアイの逃亡を許していたらと思うと……ランスさんがレッドアイを倒してくれていなかったらと思うと……本当にもう感謝の言葉もありません」
「そーかそーか。まぁあまり気にすんなハウゼルちゃん。英雄たる俺様にとってあんな目玉一つたたっ斬る事なんぞ大した手間じゃねーからな。がーっはっはっはっは!」
「ランスさん……ありがとうございます」
美人な女性に対しては実に寛容、ランスの男前な対応にハウゼルは目尻を下げて微笑む。
「……へぇ。そんなあっさりと流してくれるなんてちょっと意外だったかも」
「あん? どういうこっちゃ」
「いやほら、あんたの事だしもっとネチネチと言われるんじゃないかと……」
一方の姉はその対応に懐疑的。
謝ったとてこの男はそう簡単に許しはしないだろう。それどころかその失態にかこつけて性行為まで要求してくるのでは? とまでサイゼルは考えていたらしい。
「おいサイゼル。お前は俺様の事をそんな性格の悪い奴だと思ってんのかいな」
「うん」
「……即答しやがったなコイツ。つーか前にも言ったがな、お前はなんか余計な事をやらかしそうな気がしていたのだ。だからサイゼルが戦場に乱入してきた所為でレッドアイを取り逃したって聞いた時は『あぁ、やっぱりな……』って感じで……」
「うわ、なにそれヒドいっ! 私ってそんな駄目な奴に見えてる訳!?」
優秀な妹と比較するとポンコツ気味な姉。
そんなサイゼルの叫びを受けて、ランスはお返しのように「うむ」と即答した。
そして。
「それではランスさん。お大事に」
「それじゃあね。さーハウゼル、お見舞いも終わった事だしおやつ食べにいきましょ」
その後ハウゼルとサイゼルは部屋から退出して。
それからまた10分程が経過した後。
コンコン、とドアをノックする音が聞こえて。
「お、またまた誰か来た。これは多分あいつだな」
そしてガチャリとドアノブが回された。
「おうランス。怪我の具合はどうだい?」
「おいムシ野郎、何故ここで貴様が出てくるのだ」
やってきたのは魔人ガルティア。
だったのだが、彼が挨拶をした途端、返ってきたのはそれはもう喧嘩腰な声だった。
「え、いや、何故って言われても……あんたが怪我したって聞いたからお見舞いに……」
「そうじゃない。いやまぁお前がお見舞いに来るってのも全く嬉しくない事態なのだが、俺様が怒ってるのはそこじゃねーんだ」
何故自分はいきなり怒られているのか。
その理由がさっぱり分からないといった感じの暴食魔人に対し、ランスはこめかみに怒りマークを携えながらその口を開く。
「いいか? さっきこの部屋にサテラとシルキィちゃんがお見舞いにやって来た。んでその次にサイゼルとハウゼルちゃんがやって来たのだ」
「……んで?」
「んで? じゃねーわアホ。あの4人が来たとなったらお次はいよいよホーネットの番だろう。それがお約束ってなもんだろーに」
「……て言われてもなぁ、俺そんなお約束知らねーしよ……」
次にこの部屋に来るべき人物、ランスが待ち望んでいた人物は魔人ホーネットだったらしい。
だがそう言われたとて自分はどうすれば良かったのか。お呼びでなかったと知ったガルティアは困ったように頭を掻く。
「まぁなんにせよランス、今回は本当に大活躍だったそうじゃねーか。まさか人間のあんたがあのレッドアイを倒しちまうとは、本当に恐れ入ったぜ」
「ふんっ、あんな雑魚魔人一匹、俺様の手に掛かりゃどうって事ないわ」
「はは、そりゃ頼もしい言葉だな。……そうそう、んで怪我したんだよな? 見た所もう治ってるっぽいけど……ほらこれ、元はあんたから貰ったものだけどさ、これでも食って養生するといい」
そう言いながらガルティアはその手に持っていた包みを剥がし、お見舞いの品を差し出した。
「……おい貴様、よりにもよって怪我人のお見舞いに毒を持ってくるとは何事だ」
「え? いや毒じゃないって。これは本当に飛び上がる程に美味いお団子で──」
「それはまだ人類には早すぎる代物なんだよ。いいからそれ持ってとっとと出てけ」
ガルティアが持参したお見舞いの品、それは香姫特製の魔性のお団子。
「うわーん、毒じゃないですーっ!」との叫びが遠い遠いJAPANの方から聞こえてきたような気がしたが、それはともかく。
そして。
「んじゃランス、あんま無理すんなよ」
その後ガルティアは部屋から退出して。
それからまた10分程が経過した後。
コンコン、とドアをノックする音が聞こえて。
「お、遂に来たか。これは間違いなくあいつだな」
そしてガチャリとドアノブが回された。
「………………」
「おいっ! 次はホーネットがお見舞いに来る番だっつってんだろがッ!! よりにもよって何故貴様がここに来るのだ!!」
やってきたのは魔人メガラス。
だったのだが、彼が無言での挨拶をした途端、返ってきたのはブチ切れたランスの怒声だった。
「………………」
部屋に足を踏み入れて早々に理不尽な怒りを受けてしまったメガラス。
「………………」
彼はお見舞いにと持ってきた花束をそばにあった花瓶に差し替えると、
「………………」
その顔を少し下向きに俯けて──見ようによってはしょんぼりしたようにも見える姿のまま、一言も喋らずに帰っていった。
「全く……何なのだアイツは……」
未だロクに会話を交わした事も無く、未だランスにとっては謎だらけの魔人メガラスであった。
そして。
それから一時間程が経過した頃。
「ぐがー、ぐがー」
誰かを待っているのにも飽きたのか、ランスはすでに瞼を閉じてのお昼寝タイム。
するとその時、コンコン、とドアをノックする音が聞こえて。
「ぐがー、ぐがー」
そしてガチャリとドアノブが回された。
「……あ」
お見舞いにやってきたその女性はソファで横になって眠る男の姿を見つけると、
「………………」
足音を立てずに近づいてきて、自然とその寝顔を覗き込む。
「ぐがー、ぐがー」
「………………」
普段の真顔。あるいはたまに見せる鼻の下が伸びただらしない顔、他には戦っている時に見せる凛々しい顔など。
そのどれもと違って、その穏やかな寝顔は幼さやあどけなさが抜けきっていない顔付きで。
「ぐがー、ぐがー」
「………………」
そんなランスの寝顔をじっと見ていて彼女は何を思ったのか。
ふいにその身体を前に傾けて、自らの顔を相手の顔に近づけていく。
「………………」
だがそこで何かを思い直したのか、彼女は一度その身体を起こす。
「………………」
今度は自分の頬に掛かる髪を耳の上に掛けて、再びその身体を傾けていく。
そうしてお互いの顔が、より正確に言えばお互いの唇が触れる寸前。
「……っ」
やっぱり思い直したのか、彼女は弾かれるようにその身体を起こした。
「……私は、何を……」
自分は一体何をしているのか。何をしようとしていたのか。
こんな事をしにきた訳ではない。ただ彼の様態を確認しにきただけだと言うのに。
とても正気では無いというべきか、自制心が足りなすぎるというべきか。
とはいえもはやそんな自分の直視しがたい姿にも慣れてきてしまったその魔人は、はぁ、と息を吐いてからそっと手を伸ばして。
「ぐがー、ぐがー」
「……ヒーリング」
眠るランスに対して回復魔法を掛けた後、そのままホーネットは部屋を後にした。
魔人レッドアイは倒れた。
それにより魔物界の情勢も変化して、そして各々の心境にも変化が生まれる。
レッドアイという宿敵を討伐した事により、ホーネットの心にも安堵と余裕が生まれて。
すると思考は自然とそちらに向いてしまう。
彼女がその胸に秘める情愛、初恋という感情は日に日に大きくなっていく。
それは安らかに眠る想い人を前に、あわや血迷いそうになってしまう程のもので。
つまりホーネットの方もそろそろ限界で。
そして言うまでもなくランスの方は前々からそんな感じで。
つまり両者にとって、その時が訪れるのも極自然な事であった。