魔王城の最上階にある一室。
「………………」
それは奇しくも、というべきものか。
ランスが軍師たるウルザの知恵を借りて、魔人筆頭を倒す秘策を考えていたちょうどその頃。
「……ふぅ」
と、静かに息を吐き出す声。
大きな執務机に掛ける姿、この部屋の主である魔人筆頭。
浮かない表情をしている彼女もまた、ランスと同じかそれ以上に深い悩みの中にあった。
(それにしても……どうしたものでしょうか)
数日前、遂にあの魔人レッドアイを撃破した。
ケイブリス派から大きな戦力がまた一つ欠ける事となった以上、そろそろホーネット派として次なる一手を考える時期にある。
前々から継続的に実施している魔物兵達の徴兵及び練兵も経過は順調、そして魔人レッドアイが討伐された事で向こうの兵達の士気は下がり、今では離脱者も出ている状況だと聞く。
現在どちらに流れがきているかは議論するまでも無く明らかな事、となればいよいよホーネット派全軍を挙げての大攻勢、大荒野カスケード・バウの攻略に本腰を入れる頃合いかもしれない。
……などといった、彼女が派閥の主としてその頭を悩ませないといけない問題もあるのだが。
(……私は、私はランスとどのように向き合えばいいのか……)
とはいえ彼女が今悩んでいるのはそっち方面の話ではなく、自身のプライベートに関しての事。
そんな私事にかまけている場合か、と捨て置く事はもはや出来ない。何故ならその思いを放置しているが故に生じる悪影響、それがすでに顕在化してきてしまっているから。
(……この前のような事はいけません。次からはああいった事は起こらないようにしないと……)
この前。魔界都市ビューティーツリーでランスからの手紙を受け取った時。
あの時自分は手紙に書かれていた「大事な話がある」という文面の意図を大きく読み違えて、結果恥ずべき思い違いをしてしまった。
あの時はただ自分が内心大いに恥をかいただけで済んだのだが、次はもっと大事な判断の時にその意図を読み違えてしまうおそれだってある。そういった危険性を排除する為にも、いい加減この感情に振り回される自分をどうにかしなければならない。
(思うにですが、これはきっと煮えきらない状況にあるのが良くないのだと思います)
中途半端な状態だからこそ迷ってしまう。曖昧だからこそ揺れてしまう。
何かを受け入れるのだとしても、あるいは何かを拒むのだとしても、そうと決めてしまってさっさと動いてしまった方が良い。
……そして現実問題、もはや拒むという選択肢を選ぶ事は出来ない。
であるならばもう覚悟を決めて、その思いに沿った行動をすべき。そうすれば今の自分の酷い有り様だってある程度は改善するだろう。
(……このように悩んでいるより、きっとそうしてしまった方が良いのでしょう)
そんな事を考えて、ホーネットは顔を俯けると瞼を伏せる。
その胸中にはまだ解決していない問題、大なり小なりその決断を鈍らせる要因が存在している。
それは例えば例の問題。あの浴室で自らの想いを自覚する切っ掛けとなった疑念と恐怖心など。
そしてその他にも大きな謎が一つ。
ホーネットが自らの想いを自覚して以降、ずっと考えてきたが全く見えてこないものもある。
そういった要素が判断を鈍らせ、ここまでその気持ちを躊躇わせていたのだが。
(……そうですね。もはやこの期に及んで悩んでいても仕方ありません)
一向に消えない疑念や謎はこの際無視して、想いのままに動く。
そしてこの中途半端な状況に終止符を打とうと、遂に彼女は決意した。
そうと決めたら視界が晴れたような気分になり、すぐに椅子から立ち上がる。
そうして彼の部屋に、ランスの部屋に向かおうとした、まさにその時。
「おう、入るぞ」
それは奇しくも、というべきものか。
ノックの一つすらも無くドアが開かれ、その男はやって来た。
「ランス……」
「ホーネット。今日は大事な話があって来た。お前の──」
「……あ」
その男の声色から、そしてその表情から何か予兆のようなものを感じ取ったのか。
「ちょっと待って下さい」
「あん?」
ホーネットはとっさに待ったを掛けてから背後に振り返り、自らの使徒達にその視線を向ける。
「……全員部屋を出なさい。今日はもう私に仕える必要はありません」
──本日の業務は終了、自室に戻って良し。
その言葉一つで役目を終えた使徒達全員が一斉に動き出す。主に向けて深々と一礼し、次々と部屋を退出していく。
そうして人払いを済ませ、その部屋に居るのは二人だけとなった後。
「……お待たせしました。……それで、一体私に何の用事ですか?」
「あぁ。今日はお前との勝負に決着を付けようと思って来たのだ」
「……決着、ですか」
偶然にも考えていた事は同様の事。そんな人間の男と魔人筆頭が真正面から向かい合う。
それはこの両者にとって何度目かとなる対峙、何度目かとなる真剣勝負。
「……ホーネットよ。思えばお前との戦いも随分遠い所まで来たもんだなぁ」
「……いえ。私は貴方と戦っていたつもりなど無いのですが……」
「けどこの戦いも今日で終わりだ。今日こそはお前を抱くぞ。その為の秘策だって持ってきた」
そうと語るランスの表情は決して浮ついたものでは無く、見るからに真剣な表情で。
「……秘策?」
そこに伝わってくるものがあったのか、ホーネットも普段以上に真面目な表情に変わる。
「そうだ、とっておきの秘策だ。さすがのお前もこれを食らって立っている事は出来ないはずだ」
「……ランス、私は別に──」
「覚悟して聞けホーネットっ! これがお前を倒す最後の一撃だ!!」
そしてランスは堂々と告げる。
ホーネット派最強の魔人筆頭を倒す為にと用意してきた秘策、必殺の口説き文句を。
「いいか! 俺様はもうケイブリス派に乗り換える事にしたッ!!」
「……え?」
返せたのはほんの小さな呟き一つ。
それは魔人筆頭にも予期せぬ話だったのか、金色の瞳を大きく見開いて硬直する。
それがランスの用意してきた必殺の口説き文句、押して駄目なら引いてみる。
それもただ単に距離を置いてみるだけでは無く、いっその事敵派閥のケイブリス派に寝返ってしまおう。という大胆かつ驚きの作戦である。
「……貴方が、ケイブリス派に?」
未だ衝撃が抜けきらないのか、ホーネットは呆然とした様子で呟く。
「その通り、俺様はもう決めたぞ。ホーネット派は駄目だな、なんせ派閥の主がケチだ。これまでこの派閥にメチャクチャ貢献してきた俺様に対してセックスの一つさせてくれねーんだから」
「………………」
「だからケイブリス派に乗り換えるのだ。んで向こうの戦力を使ってホーネット派を叩き潰して、捕虜になったお前とセックスする」
「それは……」
「もしそれが嫌だってんなら……お前が何をすればいいのかはもう分かるよな?」
それこそがこの秘策の利点。この口説き文句の前ではホーネットが頷こうが拒もうが関係無し。
このままホーネット派に残る事になっても、あるいはケイブリス派に乗り換える事になっても、どちらにせよ最終的にはこの魔人とセックスをする事が出来るのである。
「……成る程。どちらに転ぼうとも貴方にとっては利点があるという事ですか」
「そういう事だ。お前を抱くに当たってこれ以上は無い完璧な作戦だろ?」
ふふん、と鼻の先で笑うランスは既に勝利したかのような振る舞いで。
ただこの秘策には穴がある。事前にテストした所シルキィにはあっさり見破られてしまった通り、実際の所は完全なるブラフである。
さすがのランスもケイブリス派に乗り換えるなどと本気で言っている訳では無い。
あの魔人ケイブリスに味方したいなどとは欠片も思わないし、そもそもケイブリス派はホーネット派を打倒した後には人間世界に侵攻する予定。それを止めなければ将来自分とセックスをする世界中の美女が犠牲になってしまう以上、ケイブリス派に協力するなど土台無理な話で。
よって本当はその気など無いという事を見抜かれてしまった場合、この口説き文句は何ら意味を持たぬものとなってしまう。
「さぁどうするホーネット? 俺は別にどっちでも構わねーぞ?」
「……しかしランス、そもそも貴方は──」
そしてこの時、シルキィと同じようにホーネットの慧眼もその事を見抜いていた。
そうと語る今の態度、あるいは今まで見てきたランスという男の人間性から判断し「貴方はそれを本気で言っている訳では無いのでしょう」と言い返そうとした。
だが。
「しかしもカカシも無いっつの。とにかくこの先も俺様にホーネット派で戦って欲しいなら、今すぐに俺様とセックスをする事だな」
「え──」
それを遮るようにして告げられたその言葉が。
この二人の間にあった最後の壁、それをいとも容易く壊してしまった。
「……ランス、貴方は……」
「何だよ」
「貴方は、この先も……ホーネット派で戦ってくれるのですか?」
「お前が俺に抱かれるっつーならな。もし駄目なら今すぐケイブリス派に寝返ってやる」
ブラフだと見抜かれぬよう毅然とした様子で答えるランスの一方、聞きたかった言葉を耳にしたホーネットは恐る恐るといった様子で。
それは彼女が抱えていた疑念。ずっと前からその胸の深い所に重くのしかかっていたもの。
自分を抱く為にこの城にやって来た人間の男。だとしたらもし彼がその目的を達成した時、そのまま人間世界に帰ってしまうのではないか。もう会えなくなってしまうのではないか。
そんな不安と寂しさ。そんな疑念と恐怖。
そんな厄介なものに心を囚われていた訳だが、その悩みもほんのつい先程までの事で。
「………………」
「おいホーネット。何とか言ったらどうだ」
「……ランス。その問いに答える前に……私からも一つ質問をしていいですか?」
「ん? 別にいーけど」
相手の事情など何一つ知らずして、ランスはあっさりとその疑念を解決してしまった。
そんな想い人の顔をじっと見つめながら、改めてホーネットは自らの口で問い掛けてみる。
「……貴方は以前、この私を抱く為にこの城に来たと言っていましたね」
「あぁ、そう言ったな」
「では仮に私が貴方に抱かれたとします。すると貴方はこの城に来た目的を達した事になりますね」
「あぁ、そーなるな」
「……もしそうなった時、その時に貴方は自分がどのような事を考えると思いますか?」
「んあ? もしお前とセックスをしたとして……その時に俺様が考える事?」
「えぇ。教えて下さい。ランス」
常と同じく真面目な表情、真剣な様子でそう尋ねるホーネットの一方。
「……ふーむ。お前とセックスしたとして……」
顎を擦りながら考えるこちらも常と同じ様子。
ランスは特に気負いもせず、それはさも当たり前の事を言うかのような口ぶりで。
「俺がその時に考える事っつったら……『もっかいホーネットとセックスしてぇなー』だろうな」
「……ふふっ」
そのあまりにもランスらしい答え。それが心底おかしかったのか。
あるいはそれとも。そんな事をずっと悩んでいた自分が馬鹿馬鹿しくなってしまったのか。
とにかくその答えを聞いた途端、ホーネットは頬を緩ませて小さな笑みを零した。
「うおっ、ほ、ホーネットが笑った……」
「……そのように驚く事ですか? 私だって笑う事くらいはあります」
「いやけど、お前がそんなふうに笑うとこなんて今まで見た事無かったし……」
普段通りの真面目な顔、そして以前は良く見た冷たく睨んでくる顔、そして最近見せるようになった羞恥を堪える紅潮した顔など。
これまで見てきたどの顔とも違う表情、その新たな発見に目を丸くするランスをよそに。
「……しかし、これでは私が一人で空回りをしていたようなものですね」
ホーネットはその思いを、その複雑な心境を噛み締めるように呟く。
「あん? なんの事だ?」
「いえ、なんでもありません。それで先程の件ですが……もし私がこの身を委ねない場合、貴方はケイブリス派に乗り換える……という事でしたね」
「お、そうそう。それで結局どうすんだ? 別に俺様はどっちでも構わないぞ。どう転んだ所で結局はお前を抱けるのだからな」
「……そうですね……貴方がケイブリス派に乗り換えるとなると、私はどうするべきか……」
そして深々と目を瞑って、殊更に思い悩んでいるような仕草を見せる。
実のところその気持ちはすでに、いや振り返ればもっと前から決まっている。
とはいえこの状況、この口説き文句を前に、自分はさてなんと答えるべきだろうか。
「……ランス。貴方は本気でケイブリス派に乗り換えるつもりなのですね?」
「勿論だとも。俺様は本当にそのつもりだ」
「しかしそれは口で言う程に簡単な事でしょうか。ケイブリスにとっては人間など取るに足らぬ存在です。そんなケイブリスが人間の貴方を味方に引き入れるとは到底思えませんが」
「……む」
言われてランスも気付いたが、考えてみるとそれは確かに容易い事では無い。
そもそも以前にケイブリスから「お前を見つけたら地獄を見せてやる」と宣言されている以上、ケイブリス派に加わりたいなどと言える段階はとっくに過ぎているのではないだろうか。
「加えて言えばケイブリスは魔王を目指している魔人です。もし仮にあれが魔王になった場合、その統治は人間の貴方が期待するようなものにはならないと思いますが、それでも構わないのですね?」
「……むむ」
実際の所構わなくは無い。
だからこそ前回の時には魔人討伐隊を率いて戦い、そして過去に戻ってきた今もこうしてホーネット派に協力して戦っている訳なのだから。
「更に貴方の力が加わったケイブリス派というのは実に難儀な相手だと率直に思います。事によっては私やサテラ、ハウゼルやシルキィも戦火の中で倒れ魔血魂となるかもしれませんが、それをも享受するというのですね?」
「……ええっと」
勿論ながら享受出来るはずが無い。
ランスにとってサテラ、ハウゼル、シルキィはすでに自分の女。そしてホーネットも予約済みで。
そんな彼女達が魔血魂となる事など──死ぬ事などあってはならない。
「……そして何より、貴方は自分が誰に何を言っているのか、それを正確に理解していますか?」
「……ん?」
「今貴方の前に立つ相手はホーネット派の主。そんな相手に対し貴方は『これから敵の派閥に寝返るぞ』と宣言しているのです。今この場で私に斬られたとしてもおかしくない程の危険な行いだと思いますが、貴方はそう理解していますか?」
「え、いや、あの……」
それはランスが全く想定していなかった3つ目の選択肢。
頷くでもなく拒むでもなく、そもそもそんな無礼な事を言う輩は問答無用でたたっ斬る。
こうして理路整然と指摘されるとランスの用意してきた秘策は実に穴だらけ、シルキィやホーネットにあっさり見抜かれてしまうのも仕方無しといった代物で。
「……ランス。どうなのですか? 今この場で私と敵対する覚悟があるのですか?」
「いや、ちょ、ちょっとタイムを……」
「今私が言った事を全て踏まえた上で、それでも貴方は同じ事を言えますか? 私がこの身を委ねないのならばケイブリス派に寝返ると……貴方は本気でそう言うのですか?」
そこでホーネットは語気を強めて、同時にその金色の瞳をすっと細める。
「ぅぐっ……」
思わず肌が粟立つ感覚、それは久しぶりにこの魔人から食らったもの。
魔人筆頭の他を拒絶するような鋭い目付き、息も止まってしまう程の強烈な威圧の視線。
その眼光で、その真剣な眼差しで覚悟を問われたランスは、しかし決して下がらずに。
「……あったり前だッ!!」
「……当たり前ですか」
「ああそうだ! 俺はどんな時もマジの本気だ! 本気でお前とセックスがしたいからこの城までやって来たんだからな!!」
その真剣さに負けじと叫んだ。
「……そうですか」
その答えに、聞かなくても分かっていた答えを受けてホーネットは小さく顎を引く。
先程ランスがぶつけてきた必殺の口説き文句、その中身は殆ど脅し文句のようなもので。
だから彼女も同じように脅し文句を突き付けて、少しだけ好きな人をからかってみた所で。
「──分かりました」
この日まで言えない言葉だったそれを、この日遂にホーネットは口にした。
「本気だと言うならば仕方ありませんね。貴方にこの身を委ねる事にしましょう」
「……え?」
その言葉が頭の中にすんなりと入ってこなかったのか、ランスは呆けたように呟きを返す。
「ではランス、こちらに」
「お、おいちょっと、どこに……」
一方のホーネットはすたすたと歩き始めて。
寝室のドアを開けて中へと入り、そして大きなベッドの前で立ち止まる。
「……さて。私は初めてなのでこういう場合の作法を詳しく知らないのですが……これはもう脱いだ方がよろしいのですか?」
そう言いながらホーネットは着ているドレスの肩布を軽く持ち上げる。
だがそうやってポンポンと先に進もうとする彼女に対し、その男はもっと前の時点で脳みその処理が一時停止していた。
「いや、つーかホーネット……あの、これってセックスしていいって事か?」
「えぇ、そうです」
「……マジで? ほんとに? 」
狙い通りの結果となっているにもかかわらず、ランスは見事に困惑した表情。
どうやらあまりにすんなりと事が進んでしまった結果、展開に付いていけなくなったらしい。
「……マジのマジだよな? 後からやっぱ無しーとか絶対駄目だぞ?」
「分かっています」
「……い、いやけどホーネット、ほんとにこんなんでっつーか……あんな理由でいいのか?」
「えぇ、勿論。貴方をケイブリス派に渡す訳にはいきませんからね。貴方は私に──」
その先に続く言葉。
ホーネットはそのままの勢いで口を滑らせそうになったのだが、
「……いえ」
危うく喉の奥に飲み込んで。
「……私の、派閥に……必要ですから」
しっかりと言い直したその言葉を、少しだけ朱に染まった表情で口にした。
「……そ、そうか。んじゃセックスしても構わないって事なのだな?」
「先程からそう言っていますが」
「……いや、だが何か裏があるような気も……ほんとにホントの本当でオッケーなのだな?」
それは夢にまで見た魔人筆頭とのセックス。今まで手が届きそうで届かず、やっと届いたと思ったら指の隙間をすり抜けていった。
これまでそんな事を繰り返してきた所為なのか、いざそれを目の前にしたランスは訳も分からず二の足を踏んでしまっていたのだが。
「……ランス?」
そう言ってホーネットは僅かに小首を傾げる。
「……ぐっ」
彼女のそんな仕草を、そしてその目を見ていると、まるで「今更怖気づいたのですか?」と言われているような気がして。
そして何よりもその指先が、普段通りの様子に見えるホーネットの指先が、緊張からか小さく震えているのを目にした時。
「……がっーーー!! やったらーーー!!」
ランスは覚悟を決め、自らを奮い立たせるかのように大声で吠えた。
「とーーう!!」
「あっ──」
そしてホーネットの身体を力一杯抱き締めて、そのままベッドの上に押し倒す。
「……遂にだ。遂にこの時が来たぞ……!!」
「………………」
今その視界に映るもの。真っ白なシーツの上。そこに横たわる魔人ホーネット。
俎上の鯉の如く身じろぎもせず、ただじっと目線だけを合わせてくる美しい女性。
いよいよ眼前に迫った彼女との交わり、その事実にランスの声もかすかに震える。
「……どうだホーネット。緊張するか?」
「そう……ですね、多少は……。ただ見た所、貴方も緊張しているように思えますが」
「俺は緊張などせんわ、これは武者震いだ! 俺はこの日の為に……この瞬間の為に今まで頑張ってきたのだからな!」
ようやくこれまでの貢献に見合う褒美を得る時、前回の時から重ねてきた苦労が報われる時。
「すー……、ふぅ……」
逸る気持ちを一旦抑えるように、すーはーと大きく深呼吸をして。
「ホーネットッ! 俺は今からお前を抱く!! 覚悟はいいな!!!」
そう宣言したランスの目に映ったもの。
それもこれまでに見た覚えが無い表情、思わず見惚れてしまう程の嫋やかな微笑み。
「──はい」
そして。
それから数時間。
初めて触れたその肢体、それを余す所無く味わうのに十分な時間が経過した頃。
濃密な交わりの中で自然と高まっていた体温、それも幾分か落ち着いてきた頃──
「………………」
「………………」
二人はベッドの上に横たわっていた。
行為を終えた後、互いが身に付けているものは当然ながら何も無し。
共に裸のまま、共に何気なく天井を見上げる。
「………………」
「………………」
一戦どころか二戦目三戦目と盛り上がった夜。
その行為の激しさを表すように、両者ともにその顔は気だるげな表情で。
「…………ふぅ」
身体に残る熱の感覚。それを冷ますかのようにホーネットは吐息を漏らす。
そうして暫く微睡んでいると、ふいにすぐ隣から聞こえてきた彼の声。
「……ぅ、うぐっ……」
それはなにやら涙混じりの声色で。
それに驚いた彼女は思わず隣を向いた。
「……ランス。まさか泣いているのですか?」
「泣いとらんわい! ただなんか、こう……こみ上げてくるものがあってなぁ……!」
言いながらランスは目元をゴシゴシと擦る。
その胸に去来するもの。それはこうしてすぐ隣にこの魔人が居るという嬉しさ、そしてこれを感じたいが為に頑張ってきたこれまでの日々の事。
「くーっ、長かった、マジで長かった……」
「………………」
「マジで長かった! マ! ジ! で! 長かったぞぉ……!」
「……そうですか」
「あぁそうだ! マジでやっと、やっとお前とセックスする事が出来た……」
同じ言葉を何度も繰り返し、実に感極まった様子で語るランス。
彼がこの世界でホーネットと再び出会ってからすでに8ヶ月以上。その間言わばずっとおあずけ状態にあったようなもので、こうしてようやくご馳走にありつけた感動もひとしおである。
「……そんな大袈裟な。長かったと言っても私達が出会ってからまだ半年と少し、たかだか一年も経っていないではないですか」
「それが長いっちゅーねん! ……いや、つーかお前にとっちゃまだその程度なんだろうよ、お前にとってはな。けどなぁ、俺様がどれだけの時間を掛けてここに辿り着いたか……!」
更にランスにとっては前回の時、あの時に本当ならホーネットを抱いていたはずだった。
前回のホーネットとは「魔人ケイブリスを倒したらセックスする」と約束した。そして約束通りケイブリスを倒した訳で、祝勝会でのあの一件さえなければとっくに彼女を抱いていたはずだった。
そうした前回の時に歩んだ月日、それも合算したらランスがホーネットを抱けなかった期間はゆうに一年を越す事になる。
更に更に言うならばもっと昔、いつかの時に聞いた魔物界にいる美しい姫の話。
そんな噂話を耳にして「いつの日かこの手にその姫を抱いてやろう」と目標に決めた時、あの日はもうどれ程前の事だっただろうか。
「本当に長かった……お前は本当に強敵だったぞ、ホーネットよ」
「……そうですか」
「あぁ。俺様が初セックスをするのにここまで長い時間が掛かった相手は現状お前が初めてだ。最終的には陥落したとはいえ、これだけ粘った事実は誇りに思っていい事だと思うぞ」
「……そのような事、誇りたいとは思いません」
感慨深い様子で語るランスの一方、ホーネットはどこか呆れた様子で言葉を返す。
「んでホーネットよ、実際どうだった?」
「……何がですか?」
「だから初セックスだよ。お前にとってはあんだけ拒んできたセックスだが、やってみりゃ以外と悪くないもんっつーか、ぶっちゃけた話すげー気持ち良かっただろ?」
なんせあれだけ喘いでいたし。
とランスが付け加えると、途端にすぐ隣から微かに身じろぐ気配が。
「……ランス。そういう事は……出来れば聞かないで欲しいのですが」
「いいや聞く。初セックスの後は感想を言うのがマナーなのだ。ほれほれ、答えろ。うりうり」
「………………」
そんな下世話なマナーが本当にあるのか。そう疑うホーネットのわき腹辺りを軽くつねりながら、ランスは意地悪をする子供のように笑う。
「なぁホーネット、気持ち良かったろ?」
「そう、ですね……気持ち良かった、と、いうより……」
「と言うより?」
「……その、何と言うか……」
すると言い淀んでしまう魔人筆頭の表情、その頬がじわりと赤くなっていく。
初めての行為の最中に感じていたもの。押し寄せる快楽以上に圧倒的だったあの実感。
その事はとても打ち明けられるような話では無いらしく、結果ホーネットは「……ところで」とわざとらしく話題を変える。
「……ランス。私は貴方に抱かれましたね」
「うむ、俺はとても気持ち良かったぞ。お前は本当に名器だった。これも誇っていい事だと思う」
「っ、そうでは無く……あの約束の事です」
「約束?」
「ですから……貴方はこの先もホーネット派に属して戦うという事です。私がこうして貴方に身を委ねた以上、もうケイブリス派に寝返るなどと言い出すのは禁止ですからね」
「あぁ、その話か。その話ね……」
少し前に自分が何と言ったかも忘れていたのか、必殺の口説き文句の事を思い出したランスは、
「……くっくっく」
そこで何故かいやらしく笑い始めて。
「……がーっはっはっはっは!!」
「……どうしたのですか?」
遂には大声での高笑いに変わる。
そのすぐ隣、聞こえてきた笑い声に不審げに眉を顰めたホーネットに対し、ランスは勝者の笑みと共に種明かしをしてあげた。
「ホーネットよ。あれは嘘だ、全部ウソ」
「………………」
「がはははは! とうとうヤキが回ったなぁホーネット!! お前ともあろう者があんな嘘に騙されてセックスしちまうとはなぁ!!」
今回が用意してきた秘策。必殺の口説き文句。あれは実のところ単なるブラフであって、最初からそのつもりなど全く無かった。
だがホーネットはそのブラフを見抜く事が出来なかった。その結果騙されるような形で自分に身体を許す羽目になってしまった。
……と、そう考えていたが故のランスの馬鹿笑いであったのだが。
「……何かと思えばそんな事ですか」
その種明かしを受けて、ホーネットの方もあっさりと白状する。
「ランス。貴方がケイブリス派に乗り換えるなどと本気で言っている訳では無い事くらい、最初から分かっていました」
「……え、そうなの?」
「そうですよ。それくらい……そのくらいなら私にだって分かります」
その声は少しだけ満足そうな声色で。
だがこうしてお互いがその心境を打ち明けると、そこには一つの疑問が生まれる。
「……けどホーネット、ならお前はどうして俺に抱かれたのだ?」
「え?」
「だって俺が言ったアレが嘘だって最初から分かってたんだろ? ならこうして俺とセックスする理由がねーじゃねーかよ」
「それ、は……」
失言に気付いた魔人筆頭は言葉を濁し、一度その目線を上に向ける。
さてこれには何と返すべきか。
今回自分は遂に性交を行い、物理的に相手の事を受け入れるに至った。
ならば精神の方もそれに準じて──率直な想いを打ち明けてしまってもいいのかもしれない。
(……しかし、だとすると……)
だが仮にこの気持ちを、彼が好きだという気持ちを言葉にした場合。
それはどういう影響を及ぼすのか。その言葉は互いにとってどういう意味を持つのか。
そんな事を考えた時、ホーネットはどこか寂しげな微笑を浮かべて。
(……これは、言えない言葉ですね)
自分にとっても、そしてランスにとっても。
この言葉は胸の内に秘めておくだけに留め、外には出さない方が利口だなと思った。
「……ランス。今回こうして私が貴方にこの身を委ねた理由、それが分かりますか?」
「あ? いやだからそれが分かんねーっつう話を今してんだろーがよ」
「えぇ、そうですね。だからそれが答えのようなものです」
「は?」
故に彼女はかなり遠回しな言葉を、それでも偽りのない気持ちを伝える事にした。
「貴方には私の事が分からない。でもだとしたら、それを知って欲しいと今の私は思います」
「………………」
「それと同じように私にも貴方について分からない事、知らない事が沢山あります。それをもっと知りたいと思った。そして私の事をもっと知ってほしいと思った。……貴方にこの身を委ねた気持ちに理由を付けるとしたら……まぁそんな所です」
そう囁く彼女の表情、それは照れと切なさと少しの嬉しさが混じったもので。
「……ふーん」
自分の複雑な気持ちを言語化しようとするホーネットの姿。
それをランスは横目にじっと眺めていたのだが、
「……そうか。つまりお前はこの俺様の事をもっと知りたいっつー事なのだな」
ふいにそんな事を言い出して。
「……はい。今は本当に強くそう思います」
「なら俺様という男について、とてもグッドな情報を一つ教えてやろうじゃないか。こんな時に俺様だったら何をすると思う?」
「え?」
こんな時。というのが何を指しているのか分からず、一瞬思考が止まる彼女をよそに。
「正解はな、こうするのだよ」
そこでランスは身体を起こすと、再びその相手の上に覆い被さった。
「……まさか、またするのですか?」
「もちろん。そろそろ休憩は終わりだ」
唖然とした様子で呟くホーネットの目の先。相変わらずのいい顔で笑うランス。
その時彼女はようやく思い出した。この男が自分を抱いた後、その時に考える事と言ったら「もっかいホーネットとセックスしてぇな」という身も蓋も無いものだったという事を。
「さぁもう一戦いくぞ。お前との記念すべき初セックスの夜をこんなもんで終わらせる事なんて出来ないからな」
「……っ、けど、さっきあんなに何回も……」
「ホーネット、もう一つ良い事を教えてやろう。俺はまだまだ全然イケる」
「まって──」
──ください。とまでは言えず。
すぐにその口は相手の口で塞がれて、その内に再びの甘い声が聞こえてくる。
それは夜中を越えて明け方近くまで、声が掠れてくるまで止む事は無かった。
途中、すっ飛ばした部分については後々別の場所にて補完する予定です。
(追記:R-18の方にて補完部分を投稿しました)