すっぽりと鋭い剣で切られた断面のような屋上に二人の男女がいた。
一人は短いブレザーのスカートを風になびかせていた。その右手にはおもちゃのようなものが握られており、それをこめかみにピタリとつけている。
「あれは君のせいじゃないし、そもそもこの世界から切り離されてしまった事象だ。俺たちの世界とはもう関わり合いがないじゃないか」
例えそうであっても、わたしは許せないのだ。大切なあの子が苦しい目に遭っているということが。だから、助けに行くのだ。彼女を。
「彼女はこの世界では平和に暮らしている。なのに、どうして過去にまで行って、助けようとする。それは確実にタイムパラドクスを引き起こす。時空警察どころではなく、最未来人さえも呼び寄せるだろう。それでも君は行くのかい?ビアンカ北町」
わたしは目の前の男に向かって大きく頷いた。そして、言葉を紡ぐ。
あなたにやって欲しいことがあるの。わたしがこの世界から去ってしまった後に。
わたしの右手にはTSTという装置が握られていた。その手が少し汗ばんでいる。
「いいだろう。でも、無茶はしないと約束してくれるかな」
男は輝かんばかりの笑顔で私に言った。
2 遺伝のスペルマ
見られている。
でも、気がつかないふりをしていよう。
いつも見られているから平気なんだと思わせておけばいい。
実際、もう慣れっこになってしまっているし、慣れっこにさせられてしまているのだ。女の子たちの視線に。みんなが俺を見る。その何かを可愛がるような視線、愛し撫でたがるような視線、粘りつき、からみついてくるような視線に。
俺は知っている。俺がこの高校で一番醜い、一番童顔な男の子だというこを。
俺は校舎の一階の廊下を歩く。運動場に面した、朝の廊下を俺は歩く。運動場の出口には男子生徒たちがたむろしている。コンクリートの段や木の廊下の床にべったりと座ったり、壁や柱にもたれかかったりして、運動場からは廊下との境の窓越しに、歩いていく俺の姿を見てはいない。行く先々でそれまでの話し声が続いていく。聞こえるのは時おりごく、と唾を飲み込む喉の音と、「にこちゃん」「マキちゃん」とささやき交わす声だけ。
俺は二階への階段を上る。
俺の高校の制服はブレザー。その制服のスカートは短い。
でももう困ったり、顔を赤くしたりすることはない。俺は平気になってしまったのだ。だって、俺には関係ない。ちゃんとしたスラックスだし。スカート穿いてないし。
二階の、生物学教室の隣の、教材置き場を兼ねた小さな実験室に俺は行く。朝はここへ来るのが俺の日課だ。たった一人しかいない生物研究部の、俺は部員でもない。
ああ。また、あいつがいる。
ドアの前の廊下、ドアの向かいの窓の下にべったりと腰をおろして本を読んでいるのは、文芸部の塩崎哲也。可愛いやつだ。色の白さや睫毛の長さや黒眼ばっちりなど、まるで女の子みたいだが、顔立ちそのものはやっぱり男の子で、さわやかで涼しげな細おもての少年だ。この子は文芸部で詩を書いているらしく、クラスメイトが教えてくれたところではそれは恋愛の詩ばかりだそうだ。
まあ、それは全て俺のことなんだけど。
俺が塩崎哲也その人なのですがっと。
俺が書いた詩が文芸部の通信に載せられ、学内に掲載されてから三日たったころだ。
俺はあの日以来、どうも実験室の前の窓に腰かけるのが癖になってしまっていた。そこでいつも本を読むのが日課になっていた。じっくりと時間をかけて、一文を読み、ページの上の黒い虫たちの作る芸術を全て堪能し終えると、静かにページをめくった。そこには再び黒い虫たちの作る芸術が――
「うわぁ」
この間聞いたセリフが飛び出し、俺は文庫本から目を離し、顔を上げる。
「そんなに驚かなくても――ひえぇぇぇぇ!?」
俺は自分でも恥ずかしいくらい素っ頓狂な声を上げる。何故ならば、千原さんの持っている虫かごの中には大量の細切り青ネギみたいなものが入っていて、それがもさもさ動いているのだ。
「千原さん。動いてる!というか、共食いしてます!」
俺は千原さんが三年生だということをあの後知ったので、今は敬語である。
「嘘っ。共食いなんてするのか。これは貴重なデータだぞ。ああ、それと俺に敬語を使わなくてもいいよ」
「千原さんは何をしてるんですか?」
「ノブでいいよ」
「そんな歩く阿鼻叫喚を持ち歩きながら、笑顔を向けられても困るんですが!」
「ああ。ちょっと、これどうしようかなぁ」
千原さんは急いで実験室に戻り、虫かごと格闘していた。もう俺のことは眼中にないようだ。久々に会ったかと思えば、やっぱりどこかおかしな人だった。
神代と図書室で言い合いをしたあと、俺は教室に帰っていった。最近は神代と会えば喧嘩ばかりしている。これで神代が殺されれば、俺が犯人にされかねない。そんな物騒なことはノンフィクションには起こりはしないのだけど。
「それ。面白いですよね」
「あん?」
教室で本を読んでいると声をかけられた。俺は思わずガラの悪い返事をしてしまう。
「うぅ……すいません」
隣の千代女が話しかけてきたようだった。
「いや。怒ってないからいいけど。でも、まだ読み始めだから。しかし、鈍器に使えそうなラノベだな」
俺の手の中にはステーキだと物凄く高そうなほど分厚く、鈍器として売られていると言われれば確かにそうだと納得せざるを得ないとあるライトノベルレーベルの出したライトノベルがあった。並の辞書なんかよりも太いかもしれない。
「毎巻太くなってきているんです……」
千代女は耳まで顔を赤くしていた。この女の子はあがり症なのである。
「そうか。楽しみにしておくよ」
きっと俺はこの巻以降読まないだろうと思った。
「その……最近神代さんと仲が悪いみたいですけど、どうかされたんですか?」
俺と神代との仲の悪さはとんでもないもののようで、隠者的生活を送っている厭世主義の千代女でも心配するほどのものらしかった。
「いや、別に何かあったわけではないけど」
よくよく考えると、俺と神代との間には喧嘩するほどの何かはない。ただ、目を合わせるとどちらかが初めにどちらかの悪口を言わなければ済まない。主に神代が先に悪口を言うんだけど。
「仲良くしていただけると……うれしいです」
どうも目の前のメガネをかけた内気な三つ編みに少女は俺を非難しているようだった。鼻の周囲にゴマ粒のようについたそばかすはとても内気に見えるのに、その実、本当は結構度胸があるのだと思った。
「努力はするよ」
俺と神代の仲の悪さは相性の悪さとしか言えそうもない。俺と神代は前世で蛇とカエルだったに違いない。もちろん、カエルは俺だ。
結局その日千代女と話したのはそれだけだった。
意味のない時間はただひたすら、無為に比例するように加速していく。
昼休みにあまり出会いたくない人物に出会った。
体育のため、着替えをしようと体育館に向かっていた時、ばったりと出くわした。
その少女は俺の一つ上の学年で、背が高くて美しく、その美しさといったらまるで悪魔みたいで、この高校で一番美しいとさえ言われている。
それだけじゃない。この少女は中学時代に暴走族の仲間だったという噂もあり、今でもヤンキーみたいな言葉を使ったりするので、男子生徒でさえ恐れていて、誰も彼女にあまり口を聞かず、近づこうともしない。
そんな彼女が眼をいからせて俺に詰め寄っては来なかったけど恐ろしい。
沼田耀子はカバンを持ってどこかに行くようだった。
その時俺は――
a. 気さくに声をかける。
b. 見てみぬふりをする。
俺は耀子に声をかけていた。無視したとバレると後が怖いことを俺はよく知っている。
「どうしたんだ?帰るのか?」
俺がそう言った瞬間、廊下の空気は一瞬で凍り付く。目を疑う光景なのだが、この時間の凍り付いた空間では、廊下にいた生徒の吐く息が真っ白になっていた。きっと耀子の出すオーラが物凄くて、そんな錯覚をしたのだろう。
「文句あるのか?」
足先から頭のてっぺんまで舐めるような視線であった。舌で嘗められているのなら興奮するが、耀子の場合、刀で体中を撫でているような感触なのだから、俺の息子もいろいろと命の危機を覚える。
「いや。どうして帰るのかなーっと」
「お前には関係ないだろっ!」
物凄く怒って、耀子は廊下の窓を蹴り飛ばす。パラパラと細かくなった窓ガラスが外に流れ落ちた。
「ふんっ!」
耀子は俺を一瞥すると、そのままどこかへと去っていった。
「恐ろしいねぇ。本当に」
俺は震える声で陽気に言ってみたものの、背中から這い上がる悪寒に抗えそうもなかった。
見られている。
でも、気がつかないふりをしていよう。
いつも見られているから平気なんだと思わせておけばいい。
実際、もう慣れっこになってしまっているし、慣れっこにさせられてしまているのだ。女の子たちの視線に。みんなが俺を見る。その何かを可愛がるような視線、愛し撫でたがるような視線、粘りつき、からみついてくるような視線に。
俺は知っている。俺がこの高校で一番醜い、一番童顔な男の子だというこを。
俺は校舎の一階の廊下を歩く。運動場に面した、放課後の廊下を俺は歩く。運動場の出口には男子生徒たちがたむろしている。コンクリートの段や木の廊下の床にべったりと座ったり、壁や柱にもたれかかったりして、運動場からは廊下との境の窓越しに、歩いていく俺の姿を見てはいない。行く先々でそれまでの話し声が続いていく。聞こえるのは時おりごく、と唾を飲み込む喉の音と、「ハルヒ」「長門」とささやき交わす声だけ。
俺は二階への階段を上る。
俺の高校の制服はブレザー。その制服のスカートは短い。
でももう困ったり、顔を赤くしたりすることはない。俺は平気になってしまったのだ。だって、俺には関係ない。ちゃんとしたスラックスだし。スカート穿いてないし。
二階の、生物学教室の隣の、教材置き場を兼ねた小さな実験室に俺は行く。朝はここへ来るのが俺の日課だ。たった一人しかいない生物研究部の、俺は部員でもない。
ああ。また、あいつがいる。
ドアの前の廊下、ドアの向かいの窓の下にべったりと腰をおろして本を読んでいるのは、文芸部の塩崎哲也。可愛いやつだ。色の白さや睫毛の長さや黒眼ばっちりなど、まるで女の子みたいだが、顔立ちそのものはやっぱり男の子で、さわやかで涼しげな細おもての少年だ。この子は文芸部で詩を書いているらしく、クラスメイトが教えてくれたところではそれは恋愛の詩ばかりだそうだ。
まあ、それは全て俺のことなんだけど。
俺が塩崎哲也その人なのですがっと。
「うむ?塩崎。こんなところで何をしているんだ?」
本を読んでいた俺に声がかかる。その声はシュワちゃんもとい、工藤先生のものだ。俺は文庫本から目を離し、顔を上げる。
「うわっ」
俺は思わずシュワちゃんの手に握られている二つの果物に目が釘付けになる。全体的に白い色合いに、ほんのりと染まるように淡いピンクが映っている。果物の割れ目の先はとんがっていて、俺は官能的な余韻を味わった。
今や我が官能は不滅
その保証は我が秘所にあり
そこにあるのは白色
そこにあるのは桃色
そこにあるのは割れ目
そこにあるのは突起
そこにあるのは濃厚な匂い
―――
「ダメだ!」
俺は頭を抱えて煩悶する。こんなのはダメなのだ。
「ど、どうした。塩崎。性衝動が抑えられなくなったのか!先生のことはいい。早くトイレに駆け込んで息子をあやしてやるんだ!」
「違うんです。先生。俺はまだ先が思いつかないんだ。このままいってしまっては後悔します!」
「何か、俺に協力できることはないか!塩崎!」
シュワちゃんは俺の肩をがっちりと掴んで言った。ちょっと唾が顔にかかる。
「先生。俺は桃が欲しいです……」
俺はシュワちゃんの手の内にある艶やかな桃を凝視する。どう見てもエロい何かにしか見えない。
「そうか!是非とも持っていってくれ」
シュワちゃんは俺に桃を一個渡す。
「先生。ダメなんです。一個では。二つないと、俺は……」
「そうか!分かった!これで大丈夫なのだな!」
「はい!」
シュワちゃんは安心したような笑顔を見せ、階段を降りていった。
残された俺はまた文庫本を開く。ふと、いつ帰ろうか、と考えていた時である。
「やっと見つけた」
どこかで、とても遠いどこかで聞いたような声が俺の耳に聞こえたような気がした。でも、きっと風の悪戯なのだろう。本のページがペラペラとめくれる。もう、どこまで読んだのか分かりはしない。俺は適当な所に栞を挟んで、文庫本を無理矢理尻に押し込み、窓の桟に置いてあった二つの桃を手に取った。
「むふふふふふ」
思わず笑みがこぼれる。
「あのさあ、実験、手伝ってくれないかなあ」
俺に話しかけてくる人がいるようなので俺はそっちをみた。
うっとりするほど甘美な栗色の髪。
白雪のように溶けてしまいそうな絹の肌。
頬は薄く桃色で、心をくすぐられる。
唇は小振りながらも赤く、情熱的で。
屹とした大きな黒い瞳が印象的だった。
そこにいるというのに現実味がなく、異国人の血を引いているような余韻を残している。その怪物じみた顔は生きた人形なのだよと言われたら信じてしまいそうであった。
俺は目の前の女の子の美しさが怖かった。
「あ、あ、あな、たは、」
声が裏返った。それでもやっとのことで言葉にする。ジープで物凄いデコボコ道を走り抜けたような気分だった。
「わたしはビアンカ。ビアンカ北町」
俺はビアンカ北町と名乗った女の子をまじまじと眺めようとして、それができずに目を逸らす。
俺は女の子の名前を聞いた瞬間、感じ取っていたのだろう。
俺はこのビアンカを殺さなければならないということを。
何故だかビアンカと名乗る女の子は俺の後をついてきた。
「ねぇ。人探しを手伝って。いえ。手伝いなさい」
「うるせえよ」
俺の後ろをついてくるビアンカ北町はどう考えても美少女だった。でも、どう考えても俺に話しかけてくるのはおかしい。どう考えても俺の後ろをしつこくついてくる理由が思い当たらない。
「どこに行くの。ねえ、教えなさいよ」
俺はビアンカを無視して、学校のプールに向かった。この学校には水泳部というものはなく、とても残念だった。最近のスクール水着というのは女子はこう、T型になっているもの、つまりはコマネチじゃなくて、男の短パンみたいな形になっている。それも中学生しかプールの授業はなく、俺はこの学園に入学したことを心から悔やんだものだった。
「何をするの?」
どこか冷めたような声が背後で聞こえる。でも、俺は気にしない。女の子に年頃の男の子の気持ちなんか分かるまい。
俺は辺りを入念に見回し、ビアンカの他に誰も何も見ていないことを確認する。そして、素早くフェンスを乗り越えた、と言いたいところだけど、運動神経の悪い俺はぎこちなく、まるで獲物に狙われているトカゲのようにフェンスを上る。そして、フェンスを越える時、少し服を引っかけ破いてしまった。
「ふふふふふ」
俺はこれから起こることを想像して笑いが収まらない。これから起こることは男のロマンの結晶なのだ。
すると、ビアンカもフェンスを上ろうとした。
俺の高校の制服はブレザー。その制服のスカートは短い。
そのスカートの中から淡いピンク色の布切れが見えた。
「ちっ」
俺は思わず舌打ちしてしまった。俺は不機嫌だった。パンツの色が桃のようなピンクだったからではない。パンツをモロに見てしまったからだ。パンツはちらと見えるのが良い。もろに見えてしまったら、興ざめなのだ。たくしあげとか、マジ興ざめなんですけど。
「何見てるのよ!」
ビアンカは顔を赤くしてスカートを押さえる。フェンスを上りこちら側に来ることは断念してくれたようだ。
俺はプールに手を浸す。初めは冷たくて手を引っ込めそうになったけど、春の陽気で温められたプールの温度は少しぬるくてすぐに慣れた。
俺は持ってきた桃をプールに浮かべる。
「むふふふふ」
「塩崎。何やってるの?」
「実験さぁ!」
俺の顔を見たビアンカは青ざめていた。俺はそれだけひどい顔をしていたのだろう。でも、こんな顔にならざるを得ない。
今や我が官能は不滅
その保証は我が秘所にあり
そこにあるのは白色
そこにあるのは桃色
そこにあるのは割れ目
そこにあるのは突起
そこにあるのは濃厚な匂い
ああ しあわせの双丘よ
我が青春の夢を秘めた双丘よ
白きふくらみは我が手の中
赤き先端もまた いずれは我が手の中
湖上の双丘は揺れ動く
ああ それは湖に浮かぶ桃
たとえ我が身が危うくなろうとも
おお それも一つの青春のロマンなのか
「これって、あれよね。女の子の裸よりも制服姿のままの方が萌えるとかいう、現代の若者の病よね」
俺の横顔は光悦に浸され、蕩け始めていた。世界はかくも美しく、意味があるものだとは思っても見なかった。一匹の白鳥が湖から飛び立つ姿が二人の男女の運命を大きく変えるように、俺の人生もまた、プールに浮かぶ二つの桃によって大きく変わってしまった。
プールに浮いた桃は飛来したカラスによって連れ去られてしまった。
「おお!俺は見たぞ!カラスが桃を奪っていく瞬間、両の足で桃を鷲掴みしていったのを!」
「ごめん。見なかったことにしてあげるから、かえってきなさーい」
黄昏時。それは逢魔が時とも呼ばれ、この世ならざる者とこの世のものとが相見えるひと時だと言われている。一日の天気の良い日の夕刻にしか現れない。世界を橙に染めていく。俺はその世界の所業に、神という存在を信じてみたいと思った。
「で、どうしてついてきているんだ」
寂れかけた商店街を進みながら、俺はビアンカに聞いた。ビアンカは悪びれもせずに俺の横に並んでいる。
「帰り道が一緒なだけよ」
ビアンカが通り過ぎるたび、会社帰りのサラリーマンも、買い物帰りの主婦も疲れを忘れてしまったかのようにビアンカをもう一度見ようと振り向く。彼らにとっては美少女であるビアンカは逢魔が時よりも美しい存在なのかもしれなかった。
そして世界はまた一枚めくれあがった。
『ロッサを殺せぇええええええええええええええええ!!』
俺が気がついたときには辺りには人がいなくなっていた。商店街に立っているのは俺とビアンカと、そして、もう一人。その姿は禍々しい霧に包まれて何者なのか判然としない。ただ分かるのはそいつがこの世のものではなく、そして、息が詰まるほどの殺気を有しているということだった。
『ロッサァアアアアアアアアアアアアア!』
そいつが俺たちに向かって走り出してくる瞬間、俺は強い力に腕を引っ張られた。
それはビアンカだった。ビアンカが俺の手を引いて、走り出していた。
「一体何が――」
何一つ理解できなかった。いいや、理解できていることは一つだけあった。俺は逃げなければいけないということだ。
「あいつはわたしを追っている」
「でも、ロッサって――」
俺は走りながらしゃべっているので危うく舌を噛みそうになった。
そう。俺が美少女であるビアンカに心を惹かれなかったのには理由がある。
ビアンカには不審な点が多すぎるのだ。それが故に、俺はビアンカに心を許せないでいたのだ。
『うぉおおおおお!ロッサぁあああああああああ!』
謎の存在は俺たちを死に物狂いで追ってきていた。俺は背中から恐怖しか感じない。何がそこまで人を狂気に陥れ、何がこれほどまでの殺意を抱かせるのか俺には決してわかることではなかった。
「やつが現れるのはマジックアワーの間だけ。だから、頑張って逃げるのよ」
マジックアワーとは逢魔が時の別称である。つまりはあと一時間ほど逃げなければならない。それほど走るということは、マラソンよりもつらい。そう思うと俺には不可能な気がした。
「無理だ。俺には無理だって」
俺は泣きそうな声で言った。俺の手を引く女の子はただ前を見て必死で進んでいるというのに、男である俺は情けない声を上げている。
そんな時、俺の横の店が爆発した。
「うっ」
風圧に押し倒されそうになる。それでもビアンカは止まらない。
次々に何かが爆発していき、背後から地獄の炎を連想させる息吹が背中に降りかかる。
「嫌だ。俺は嫌だ」
俺は泣いていた。何がどうなっているのかも分かっていないし、そもそもにどうして命を狙われているのか分かりはしない。進まなければ、進み続けなければ死んでしまうというのに、俺はそれすらも放棄しようとしていた。
死んだ方がマシだ。
「わたしはあいつらにまだ捕まる訳にはいかないの。まだ、あの子に会っていない。命よりも大切な、とっても大切なあの子に!」
商店街を抜けた。その先には道路がある。道路には車一台止まってはいない。そして、その道路を横断した先は川だった。つまりはまっすぐ行けば行き止まりで、俺はビアンカが右か左かに向かうのだとばかり思っていた。
「その先は行き止まりだよ!」
ビアンカはそのまま真っ直ぐ突き進もうとしていた。その先は川で、三メートルほどの崖だ。例え川に無傷で降りることができても、その先はまた三メートルの壁がある。つまりは、川の中を移動するほかになく、それは何を意味するかというと、余計に逃げ道がなくなるということで――
「いっけぇえええええええええっ!」
ビアンカは川に向かって飛んだ。
ビアンカにしっかりと手を握られている俺も飛んだ。
その先には終わりしかない。物語はここで終わる。
ビアンカはたくしあがるスカートなど気にせずに飛び上がり、重力によってもうすぐ落下が起こる。
俺の留精の双子は縮み上がる。
終わりだ。
そう確信した瞬間――
世界はまた一枚めくれあがった。
気が付けば、空は青く、いや、青より蒼く輝いていた。黄昏時が終わりを告げていたのだ。
そして、目の前には見覚えのある景色が広がっている。
「俺の、家?」
俺の手にはまだ温かい感触が残っている。謎の存在に追われている時には気がつかなかった柔らかな感触。乙女の肌の感触。
「なんとか逃げられたみたいね」
ふう、とビアンカは息を吐いた。そこには驚き戸惑っている様子はなく、むしろ、慣れているといった印象を受けた。
「何が一体どうなってるんだ」
俺はビアンカの手を強く握り問いただした。
「痛い」
ビアンカがそう言うので俺は手の力を弱めてしまった。するり、と絹のような触り心地がして、ビアンカの手が俺の手から離れていった。
「説明してくれよ。何が何だか」
「聞かない方がいいわ」
ビアンカの横顔はゾッとするほど美しかった。まるで作り物のような造形は薄暗い居間の中では畏怖という原感情を奮い立たせる。
「塩崎を巻き込んだのは悪いと思ってる。だから、これ以上関わらないために聞かない方がいい。あの『最未来人』が狙っているのはわたしだもの。だから、ここでおしまい」
ウェットティッシュで顔を吹いた後のように爽やかにビアンカが言った。
その横顔を見るとなんだか心がざわつく。嫌な予感しかしないのだ。
「あいつはロッサと言っていた。でも、君はビアンカだ。もしかしたら人の名前じゃないのかもしれないけど、俺にはそうも思えない」
「首を突っ込むの?塩崎らしくない」
まるで俺のことを知っているかのような口ぶりだった。俺たちはまだ数時間しか過ごしていないというのに。そのことがひどく俺の敏感になった心を刺激する。
「俺には何が何だか分からないよ。そう、何も分からない。だから、説明くらいしてくれていいんじゃないか?俺だって襲われるかもしれない。あいつは、何かに取り憑かれていた。何もかも見境がないという感じだった。だから――」
「わたしのことが心配?」
ビアンカは俺の顔に自分の顔を近づけて言った。甘い吐息が俺の顔にかかる。いい匂いがした。ラベンダーの香り。それはトイレの芳香剤のようにきついものではなく、ビアンカの体臭がその臭いであるかのように滑らかで、それでいて濃厚で、妖艶な香りだった。
「別に――」
俺は目を逸らした。だって、そんな美しい笑顔を見せられたらどうしようもなくなるじゃないか。
「あなたはわたしの真実を知ると引き返せなくなる。だから、どうするかはあなたが決めなさい。わたしは今から話す。聞きたくなかったら、耳を塞ぎなさい」
俺は耳を塞ぐ。
ビアンカは寂しげな笑顔でその様子を見て、口を動かし始めた。
「わたしは未来の世界から来たの。未来の世界ではあなたとわたしは出会っていて、だから、あなたのことを知っている。わたしはわたしのとっても大切な人を探していて、その人とかかわりのある人のもとにあの子は現れると思ったの。だから、あなたに近づいた。でも、それは世界の掟を破る行為だった。だから、あの『最未来人』はわたしを殺すことで世界を元通りにしようとしている。でも、あの『最未来人』はわたしの大切な人を狙っているみたい。わたしにとても似ている、いいえ、瓜二つだから見間違えても仕方がない。『最未来人』があの子を見つけて殺してしまう前にわたしはあの『最未来人』を殺さないといけない。もしくは先にあの子を見つけて逃げ出すか、だけど、あいつはしつこく追ってくる。だから、いずれは倒さないといけないの」
俺は耳を塞ぐふりをしていた。全て聞いていた。ビアンカの言っていることはよく分からないけど、それはビアンカにとって命を懸けるほどの価値があることなのだということだけは分かった。
「聞いてしまったからにはもうわたしの実験に付き合ってもらうわよ」
「強引だな」
どうも俺が聞いていることはばれていたらしい。俺は手を耳から離し、床に置く。
「なんだ。やっぱり聞いてたんだ」
なるほど。かまをかけたと。
これだから女は侮れない。
さて。私は他の二次創作投稿サイトに投稿しようとした。でも、連載環境が整っているサイトがない!ということで、現在4章の途中で止まっている。全五章の予定で、実はオーバーチェストの続編を二つも考えていて、一つはハーメルン、もう一つは別のサイトで、と考えていたのだが、物事はうまくいかないらしい。
どうして私は小説を書こうと思ったのか。それは時折小説を読んでここはもっとこうしたらいいんじゃない?とか思うことがあったからというのもあるが、実は、私はある才害を抱えていた。執筆能力が臨界まで達すると、我を忘れて書いてはいけないことまで書いてしまうのである。つまりは、その才害をコントロールするために書いているのだが、果たしてコントロールできるのか。これは当時の私には本当に重大な問題で、私は一度大学の教授に呼ばれてお叱りを受けたことがあった。簡単に能力を捨てられればよかったものの、そうはいかないので、ひとりでに小説を書いて能力が暴走しないようにした。
まあ、そんだけなのである。
原作者の方々には申し訳ないほどの駄作だが、どうかご寵愛を。