すっぽりと鋭い剣で切られた断面のような屋上にわたしはいた。
短いブレザーのスカートが風に揺られている。
わたしの高校の制服はブレザー。その制服のスカートは短い。
でももう困ったり、顔を赤くしたりすることはない。わたしは平気になってしまったのだ。
わたしは全てを見た。それはこの世界と切り離された世界の話。だから、今一緒に過ごしているあの子とは直接関係ないはずだった。けれど、あの子と同じ姿をした子が苦しんでいるのを放っておくなんて絶対にできない。
だから、行動を開始した。
実験室にあるはずのTSTを奪って屋上まで来たのだ。もうじきTSTの持ち主が来るだろう。
タイムマシンというのはその存在から矛盾している。未来から未来人が来たとする。すると未来からタイムマシンが来る。すると、もとよりこの世界になかったものがあったことになる。未来人も、タイムマシンも。それはおかしいのだ。わたしはこの時代の常識で物を語るほかにないけれど、今の科学者もバカじゃない。タイムマシンはタイムマシンが存在した時までしか遡れない。そう結論付けられている。だって、もとよりこの時代にないものが突然現れるとどういうことが起きるか。きっと未来人は過去にゴミを捨てまくったりする。まあ、それが未来まで残るのかもしれないけれど。でも、もしその原料となる素材がまだこの世界にあって、作られた製品までこの時代に送られるとすると。地球の質量は倍に増える。未来の補正力、とか未来人は非科学的なことを言うけれど、そんなこと魔法じゃないと実現できない。
つまりはタイムマシンなんか存在しないし、この世界に物は増えない。となると、TSTとは何か。それはとても簡単だ。そして、TSTがいつから存在していたかなど、より簡単なのだ。
「なあ、君。俺の大切なものを持ってはいないか」
「これかしら」
わたしは屋上に現れた男に手の中の赤いトリガーを見せる。これがTSTの正体。
「ずっと待っていたのよ。最未来人。いいえ、工藤先生だったかしら」
男はシュワルツェネッガーのような笑顔を見せる。一部の生徒からはシュワちゃんなどという愛称で呼ばれている生物学の教師だった。そして、わたしの入っている生物研究部の顧問。
「何をするつもりなんだ」
きっと目の前の男は何もかも知っているのだろう。なにせ、このTSTの真の持ち主なのだから。
「わたしは妹を助けに行く」
トリガーを自分の頭につける。ふんわりとカールのかかった栗色の髪にTSTが触れる。
「シュワちゃん。一つお願いがあるの」
男は困った顔をして頭をぽりぽりと掻く。
「丁度いいタイミングで大ネズミを解き放ってくれないかしら。きっと妹の助けになるから」
その時、一陣の風が吹いた。夏を知らせる心地の良い風。空は青く澄み、雲はわたあめのようにおいしそうに浮かんでいた。
5 愛のスペルマ
男というのはいつだって遊び心を忘れないものだ。いつだって忘れないから、女の子にバカにしたような顔をされる。だけど、俺たちにしてみれば、急速に大人になっていく女の子は化け物のように思えていた。
「そちらはどうだい、オーバー」
「異変無し。オーバー」
俺と千原さんは無線でやり取りをしていた。短距離でしか使えはしないけど、長時間使用するとなるとスマホの電池はネックだ。それに、格好いいし。軍隊みたいだ。ぶっちゃけ、二人ともそう言う理由で無線機を使っている。
俺と千原さんはそれぞれ最未来人が現れるかもしれない場所にいた。千原さんはクジラ公園。俺は昨日ビアンカが倒れた場所である。どこに現れるのか分からないけど、その中でも少しだけでも可能性が高いのがその二つだそうだ。まだ、外は暗い。もうじき陽が上る。
「千原さん。千原さんから見て俺たち現代の男の子はどう思う?オーバー」
「ノブでいいよ。うん、健康的なんじゃないかな。オーバー」
俺たち男の子の文化というのも最近は変わり始めているように思う。昔は硬派な男の子がモテただろうし、俺たちより男の人はあまり話さない人が多い。でも、今は違う。今はバカみたいに笑い合って、笑わせて、そんな男の子の方が人気がある。そして、交わす内容というのも中身のないものばかり。趣味に関するものが多いけど、話終わった後、一体俺たちは何を話していたんだろう、と時間を無駄にしたような虚無感に襲われる。俺も男の子たちのグループでそういう中身のない会話をすることがあるけど、あまり好きではなかった。自分のことを話せるということがないのだ。自分の悩みを打ち明けると、雰囲気が悪くなるから。だから、自分の悩みとは明後日の方向の話をするのだ。
「ノブ。俺たちはなんだかいつの間にか女の子みたいになってるんじゃないかなって。オーバー」
無線では短い内容の方がいい。だから、俺は千原さんをノブと呼ぶことにした。
「きっとそうなんだろうね。俺たちのところの男の子も今の女の子と似ている。難しい話をすると、社会に適応する能力としての進化じゃないかって思う。昔のように明確な天敵はいなくなって、むしろ、天敵は社会とかよりも身近な友達や家族となりつつあるからかもしれない。でも、そんなこと気にしなくていいと思うよ。オーバー」
無線は基本的に一方通行だった。一方が話して、オーバーという掛け声で、以上でお話が終わり、ということを示すのだ。
「どうして。オーバー」
「君も気が付いているんじゃないかな。君はそういう風潮に流されたくないと思ってる。でも、そうしなければ生きて行けないなんて思ってもいるけど、実はそうではないと気付かされている。未来から来た少女によって」
ビアンカは強かった。周りの目なんか気にせず、自分の目的にまっすぐで。きっと、俺はビアンカにずっと憧れていたんだ。世界を敵に回しても胸を張っていられるあの強さに。
「そうですね、」
オーバー、と返そうとした時に、突如として無線が切れる。俺は何かがあったのだと予想した。顔に光が当たる。陽が上ったのだ。
「最未来人が現れた。俺はなるべくビアンカの居場所から遠退く。君は来るな」
そうとだけノブは言った。けれども――俺はノブが最未来人に襲われる姿を想像して身震いをする。あの存在だけには勝てない。
とうとうでやがったか。
ノブは公園に降り立った悪魔を目にして、それだけで自分の手には負えない存在であることを知った。ノブは塩崎以上に身体能力がない。未来人は身体能力が低下しているのだ。それでも、ノブは作戦をためらわなかった。
「塩崎を頼むと言われたからな」
数日前、ノブは不思議な夢を見た。その夢で少女に頼まれたのだ。だから、諦めない。
「こういう時どういえばいいのか」
相手の注意を惹きつける言葉をノブは必死で考える。未来の言葉ではダメだろうから、今の言葉で――
「おまえのかーちゃん、デーベソ!」
ドラえもんでいたずらっ子たちが言っていた言葉だ。ノブの大きな声が大きな公園に響き渡る。
最未来人は首をノブの方へと向けた。それだけで、ノブの睾丸は縮み上がる。
「行くぞ!」
ノブは己を奮い立たせ、最未来人に背を向けて走り出した。ノブのいた場所に爆風が巻き起こる。ノブはひやひやしながらも少し楽しんでいた。
「こんな俺でもヒーローくらいにはなれる」
最未来人は寝起きに弱いのか、覚束ない足取りだった。ノブは最未来人の視界から外れないように注意をしながら走る。だが、あからさまに立ち止まるというのも悪い相談であった。
「ん――」
ノブは慌てて民家の影に隠れる。途端、今までノブのいた場所に火柱が立った。ノブは始めに攻撃を受けた時、ある程度最未来人の攻撃の特性を掴んだ。最未来人は視覚に頼り、攻撃を放つ。つまりは、見えていないところでは攻撃の精度が落ちるのである。だから、逃走経路をなるべく遮蔽物の多い、そして、塩崎の家と塩崎の待機している場所から遠ざかるルートを一晩で考えた。よっぽどのイレギュラーがない限り、どうにでもなるルートだった。そのイレギュラーは、最未来人が彼女の居場所を知ることと、ノブが殺されることと、塩崎が駆けつけてしまうこと。最後の二つは大いに可能性が高いし、ノブは己の死を覚悟していた。
どうして自分は何の変哲もない男の子を守ろうとしているのか。それはきっと、夢の中で助けを乞われたわけではない。
ノブは責任感の強い男の子だった。未来では実験で生まれてしまった巨大なカマキリが暴れており、それをどうにかするためにこの時代にやってきた。それをしようとしたのはノブただ一人だった。他の未来人は確かにどうにかしたいという気持ちはあったのだろう。けれども、過去の、野蛮な時代では何が起こるか分からない。だから、誰もこの時代へ来ようとしなかった。誰しも自分が可愛い。そんなこと、ノブは分かっていた。自分を犠牲にして世界を救うなんてできることではないし、ノブにだって、出来はしなかった。でも、誰かがしなければならないし、誰もしようとしないものだから、ノブがするほかになかったのだ。
ノブは塩崎の言った言葉を思い出す。
この時代の男の子は女の子みたいだと。それは未来でも言えることだった。己を犠牲にするということを極端に嫌がり、誰かがやってくれるだろうという風潮がある。その風潮はこの時代からすでに始まっていた。だから、ノブは塩崎を助けるつもりなど初めはなかった。
けれど――
ノブはポケットから小型のおもちゃの銃のようなものを取り出す。それはパラライザーというもので、未来人はこの光線を受けると体が麻痺してしまう。だが、この時代の人間には効果がない。ほんの少しイラッとさせてしまうだけなのだ。
それを最未来人に向けて撃つ。効果はない。きっと、少しイラッとしただけだ。だが、その他のものから注意を逸らすには十分である。
ノブは再び最未来人に背を向けて走り出した。
塩崎哲也という少年はなよなよとしていた。それは未来人のノブから見てもそう思うのだから、とてもなよなよとしているのだろう。彼は自分のせいではないのに、多くの運命に翻弄された。彼自身は気が付いていないのだが、それは塩崎が問題から目を背けようとすれば、逃げ出そうとすれば、簡単に逃げられたはずだった。ノブの仲間の未来人のように。でも、塩崎は逃げなかった。たった一人の女の子を守るために。それをだれしも愚かだと思うだろう。たった一人の女の子のために世界を敵に回すのだ。でも、ノブはそれを美しいと感じた。塩崎は自分可愛さに戦うのではなく、女の子一人のために戦うのだ。ノブにはその姿が、未来の世界を救うために戦っている自分よりも素晴らしいように感じた。
この男の子だけは死なせてはならないとノブは覚悟を決めた。
だんだんと最未来人の攻撃は感覚が狭まってきた。どんどんと覚醒を始めているようだった。せめてこの町から最未来人を出してしまいたいとノブは考える。息を切らしてアスファルトを蹴り飛ばす。運動靴はとてもぼろくなっていて、このまま走り続ければ穴が空くだろうと予測する。世界各地へと飛び、問題解決の手掛かりを探す苦労を知っているのはノブとこの運動靴だけだった。
俺はノブが襲われていることを知って、急いでノブのもとに行こうとした。だが、それを遮るものがいた。
その女の子は俺の一つ上の学年で、背が高くて美しく、その美しさといったらまるで悪魔みたいで、この高校で一番美しいとさえ言われている。
それだけじゃない。この少女は中学時代に暴走族の仲間だったという噂もあり、今でもヤンキーみたいな言葉を使ったりするので、男子生徒でさえ恐れていて、誰も彼女にあまり口を聞かず、近づこうともしない。
手には模造刀である太刀を手にしている。
「どうして邪魔をする」
俺は沼田耀子に詰め寄る。
「お前が行ってどうなると言うんだ」
正論だった。けれど、注意を逸らすくらいできるはずだ。
「お前が行けば、誰が北町を守ると言うんだ。お前は千原が命を懸けて守ろうとしたものを無碍にするつもりか」
「でも……」
「でも、じゃない。あたしの哲也。あまり無茶はしないでくれ」
その時の耀子はまるで女の子のようだった。
「お前は何もできないやつだ。運動神経はないし、人付き合いも苦手だし、性欲は強いのに女の子に声もかけられない。そんなお前がどうして戦おうとするんだ」
「性欲は余計だよ」
性欲に関しては生物学的な不可抗力だ。俺のせいじゃない。
「確かに、耀子の言う通りだ。でも、ここで待っていても仕方がない。無茶はしない。俺が死んでビアンカが喜ぶわけがないからな」
「ふん。あたしのことはどうでもいいと言うんだね」
耀子は何故だか不機嫌になる。
「俺はさ、自分が生きてても死んでてもどうでもいいような存在だと思ってた。でも、ビアンカに出会って変わったんだと思う。俺はずっと待ってたんだ。誰かのために戦うことを。でも、それはなかなかやってこなかった」
「男の子だねえ。哲也も」
耀子はニタニタ笑いながらも少し寂し気だった。
「哲也にはもうあたしは要らないのだろうね。ま、あたしがあんたに頼れる日はまだまだ遠そうだけど」
今度は少し嬉しそうな顔をする。
「いなくならないでくれよ。耀子。俺にはお前が必要なんだ」
「告白かい?」
そう言われて俺は急に恥ずかしくなる。耀子は美人だ。悪魔のように美しい。
「冗談だよ。ま、こんなところにいても仕方がないか。千原がどのあたりにいるのか見当はついてるか」
「詳しくは分からないけど、ノブならきっとビアンカと俺から遠ざかるように逃げるはずだ」
俺の家は北にあって、この場所は家から南東にある。クジラ公園は南西方向だ。つまり、ノブはクジラ公園から西か南に逃げた可能性が高い。
「公園から南西ね……ずっと行くと山じゃないか」
俺たちは最未来人の放った炎のおそろしさを思い出す。この町は北の方角の海以外は山で囲まれているわけだから、どちらにせよアウトなのだ。
「でも、山までには隣町がある」
市街地を南に抜けた先には隣町があった。そして、恐らくノブは山に突き当たる前に決着をつけるつもりだろう。それは命を落とすということを意味していて……
「そんなの、ダメだ」
その時、ここから南西の方で火柱が上がる。遠くからは何が起こっているのかわからないけど、きっと、ノブと最未来人が戦っているのだ。
「急ごう」
空はもう大分明るくなっていて、昼へと入りかけている。今日で決着がつくという確証はどこにもない。それでも、被害が広がらないように陽が落ちるまで最未来人を引きつけなければならない。あと九時間。走り続けても体力はどこまでもつのかわからない。初めから無茶なのかもしれなかった。でも何もせずに被害が広がり続けることだけは避けなければならないのだ。
息をしている実感がノブにはなかった。走り続け、意識も遠退き始めている。最未来人と遭遇して一時間近く走り続けた。未来にいた頃と比べ、現代では身体能力の向上が必須だったので、ノブは運動を頑張り続けてきたのだが――
「やっぱきついなぁ」
ノブは汗を垂らしていた。鼻先からさらさらとした汗がこぼれ落ちる。その顔は笑っていた。
「でも、まだまだ」
数秒の間休憩した後、再び走る。走って休むという行為は体力の消耗が激しいのだが、逃げながら、攻撃を回避するという活動は長距離走をしながら短距離走をしているのに等しい。だから、どちらにせよ体力の消耗は激しいのだった。ノブは自分の体力が思いのほか向上していたことに満足していた。誰かを守るという行為がこれほどまでに充足感に満ちたものだとはノブは知らなかった。
再び炎の柱がノブの背後で煌めく。最未来人は大した知能を持っておらず、ノブを追い込むことなどをせず、逃げるウサギをひたすら追うように攻撃していた。
「これなら、時間稼ぎくらいはできるだろう」
最未来人の知能の低下は例の女の子の意識がないことに起因しているのではないかとノブは考えた。女の子と最未来人は表裏一体。最未来人は女の子の影。それは女の子自身の一部でありながら、否定した心の側面。
「こういうのは俺の領分じゃないんだけど」
その時、ノブの呼吸が乱れた。走りながら独り言を話しているからこうなるのだと、自身を諫め、呼吸を取り戻そうとしたが、喉が張り付き、吐き気を催して、その場にひざをつく。ずっと水分補給をしていない。春にしては少し気温が高まり始めていたので、余計に水分が不足していたのだった。だが、それだけではない。最未来人の炎がノブの喉の水分を乾いた空気によって奪っていたのだった。
まさか、それを予測して?
一度膝をついてしまうと、一時間以上走り続けた疲れがこみ上げてくる。体中に幕のようなものが張り付き、体を不自由にする。足はぴりぴりと痺れ、命令を受け付けない。少しでも力を入れると足は痙攣をおこして激痛が襲うだろうとノブは思った。それでも、彼の顔から笑顔は消えない。
「うおぉお!」
短く気合を入れて、体をアスファルトの上に転がす。ぐるぐると何回転もして道路の端まで転がったころ、今までノブが倒れていたところに炎の柱が出来上がる。バチバチと破滅の音を柱は立てる。その柱からはアスファルトの焦げる、濃厚でむさくるしい臭いが立ち上った。
ノブは急いで立ち上がり、クラウチングのように道路をかけ始める。一瞬、細い路地が目に入り、そこに逃げてしまいたい衝動に駆られる。入り組んだ路地へと入れば最未来人から逃げられる。だが、それは最未来人を世に放つということを意味していた。
それだけはできない。
真っ当な未来人なら、過去が変わるとか未来にも影響があるだとか考えるのだろう。でも、ノブはそういうことをあまり考えなかった。研究上、人間の生み出す歴史には必ず重要な分岐点が存在して、必ずと言っていいほどその場所を通ることになっている。だから、人間の歴史は過去にどれほどのことがあっても変わりはしない。それが時代の補正力というものであって、第二のウブメ効果と呼ばれるものだった。だから、ノブにはこの時代で何人人が死のうともあまり関係のない話だが――
「いやに決まってるだろさ!」
誰かが目の前で死ぬのは辛い。
ノブは命というものの価値を羽よりも軽いものだと考えていた。そう考えざるを得ない時代に生まれた。日々、大カマキリが進行し、町がなくなった。人の死体なんてどこにでも転がっていた。大カマキリは肉食で、人の肉を好んで食べた。だから、仲間が死のうともなんとも思わなくなっていた。
ノブは人があまり死ぬことのない、平和な時代に来た。それだけで新鮮で、それ故にこの時代は狂っているとさえ思った。何故ならば、人が死ぬことのないこの世界は人を人が殺す世界であった。ひょんなことから人が人を傷付けるこの時代をノブは愚かだと感じた。人が人を殺した時の刑罰があるなんて滑稽極まりない。でも、そんな彼の考えが変わるできごとがあった。
この時代で一人暮らしを始めたノブを心配するように声をかけてくれるおばあさんがいた。ノブは少し戸惑った。何故なら、彼の時代では自分が生きるので必死で、誰かを心配するなんて贅沢なことをする者はいないからだ。
おばあさんは独り暮らしだった。子どもは都会に行き、夫には先立たれ、一人で死んでいく哀れな存在だったけれども、おばあさんのつくる筑前煮は美味しかった。現代の食事はノブの舌に合わない。この時代の食品は全て塩っ辛いのだ。それに栄養バランスも悪い。けれども、おばあさんのつくる料理はそのどれもが美味しかった。研究がうまくいかず、辛い時にその筑前煮を食べた時、ノブは涙を流した。宇宙食のような未来の食べ物とは全く違う美味しさだった。だから、おばあさんにいつも感謝していて、よく世間話をするようになった。
いつかはおばあさんに恩返しがしたい。未来旅行などいいかもしれない。俺の未来はまだ見せられるものではないけれど、いつか、平和な未来を見せてあげるんだ。
そう思うと研究に熱が入った。そして、恩返しはいつも遠回りになった。
ある日、報告のため未来から帰還した時、おばあさんの家の周りが騒がしかった。何があったのだろう、と覗くと、黒い衣装を身に纏った人々がおばあさんの家に入り込んでいる。十人以上が玄関を開けっぱなしにしてなにやら家を物色しているようだった。盗みにしては白昼堂々としている。
「一体どうしたんですか」
ノブは不審に思って黒い衣装の一人に声をかける。
「この家の方がなくなったのです」
だが、それにしてはおかしかった。この時代では葬式というものがあって、はた目から見れば葬式の風景にも見えるが、家族らしきものの姿はない。
「私たちの宗派に入っておられたのです」
だから、独自の葬式をしている。
でも、ノブの目から見れば、それは略奪のようにしか見えない。タンスを漁り、札束を懐に入れているものがいた。業者が到着し、家の家財道具を根こそぎ持っていった。
妙なお経が唱えられた後、人々は家を後にした。おばあさんの家には何一つ残ってはいなかった。おばあさんの残り香すらない。
その日は何が起こったのか分からず、一日ぼーっとして過ごした。そして、次の日、おばあさんが声をかけてくれないことに気がついて、ああ、おばあさんはこの世界から消えてしまったのだとノブは気付いた。気付いた途端、涙があふれてその場でむせび泣いた。
おばあさんになんの恩返しもできなかった。
ノブの頭にはTSTが映った。でも、それは意味のないことだ。どれだけ頑張ってもおばあさんはずっと生きていることはない。何もかも無駄なのだ。どれだけ未来へと進んでも不死というものは得られない。
人が死ぬということがこんなにも悔しい事だとはノブは知らなかった。この時、始めて知った。もう、目の前で誰かが死ぬのを見たくはない。
だから――ノブは走り続ける。
「だぁああああ!」
ノブは駆ける。速さは始めの頃よりも落ちていて、服が炎の柱に触れて焼け焦げる。背中にはもう服はなく薄皮がめくれた赤くじゅるりとした皮膚が見えていた。風が触れるたび痛みがこみ上げてくるが、ノブは歯を食いしばり痛みを堪える。
自分が倒れたら誰かが苦しむという一心で。
だが、ノブにも限界が来た。
膝がガクンと落ちる。その瞬間、顔面からアスファルトの上に落ちる。腕で顔を守ったが、腕の服は破れ、赤い生々しき血液がどぼどぼ溢れている。もう一度立ち上がろうとするものの、もう体は動かなかった。
ここまでか。
日没まであと八時間。せめてあと一時間でも時間が稼げれば――
「こんなにぼろぼろになって。見てられねえぜ」
倒れたノブの前に三人の男たちが現れた。その頭上には高らかにモヒカンが引っ付いている。
「君たち……は」
「外に出るニートとでも呼びやがれ」
男の一人が乗っていた自転車にノブを載せる。
「二人乗りってのはワルだなぁ!」
「ヒャッハー!!」
男たちは楽しそうにさけびごえをあげた。
「止めるんだ。君たちまで巻き込んでしまう」
「そんな体で何言ってやがる」
ノブは乗車を拒否する力さえ残ってはいなかった。
「この町はみんなのもんよ。それをこんな年端もいかないガキに全部押し付けるなんて、ヒャッハー組の名が汚れちまう」
モヒカンたちは自転車で最未来人から逃げ出す。
「彼女が俺たちを見失ってしまっては意味がない」
「心配するなって」
ノブが最未来人を覗くと、最未来人は宙に浮き、ゆっくりと動き出していた。つまり、手加減をされていたことになる。
「アイツの狙いは俺たちじゃない。ずっと何かを待っている」
モヒカンたちは道路を右に左に蛇行していき、最未来人を翻弄した。その自転車は改造されているもので、とはいえ、それほど凄い代物でもない。車輪のあるところにプラ板を貼って、車輪のフレームにかませることでブンブンとバイクのエンジン音を真似たり、ハンドルを曲げてバイクのハンドル風にしたりしている。ベルの代わりにおもちゃのラッパをつけていて、ゴムのところ握るとけたたましい音が鳴る。それが癇に障るのか、最未来人の炎の威力は増していた。
「おい。どうして町をでないんだ」
モヒカンたちは町の出口まで来ると、南にハンドルを切った。
「馬鹿野郎。よそにはよその縄張りがあるし、そもそもに、この町以上に被害を広げるつもりはねえ!」
「君らは町を守りたいんじゃないのか」
「俺らはな、親やら人様やらに大分迷惑をかけた。今さらだけどよ、これ以上迷惑はかけらんねえのよ」
モヒカンたちは息を切らせていた。もう一時間近く走っている。それも蛇行しつつ、坂道を上るものだから、より消耗は激しい。だが、最未来人は容赦なく炎の柱を叩きつける。自慢のモヒカンはそのほとんどが焼け焦げていた。
「俺らはここまでの様だぜ、あんちゃん」
モヒカンは静かに言った。
「どういうことだ」
ノブの言葉など聞かず、モヒカンは自転車からノブを下ろす。
「この町の平和は頼んだぜ。未来人!」
ノブはまた何者かに引っ張られる。
「あんたらは――」
「めんこクラブのもんよ」
角刈りの男たちは竹馬に乗っていた。男の一人がノブを背負い、竹馬に乗る。
「待ってくれ。モヒカンが――」
そんな時、ノブの背後で炎の柱が立ち上った。
「ヒャッハー!汚物は消毒だ!」
モヒカンたちの叫びをよそに、角刈りは竹馬で道路を駆ける。
「君たちはどうして俺たちのことを知っているんだ」
「知ってなんかいねえよ」
角刈りは不愛想に答える。
「ただな、町の危機にゃ、みんなで対処しねえとな。それはいつの時代でも一緒だろうよ。ま、俺らはヒーローになれるってことに酔いしれてる馬鹿野郎と思ってくれればいいさ」
角刈りたちは炎の柱を横跳びすることで回避する。どうやってそんな芸当ができるのかノブには皆目見当がつかない。
「竹馬三段跳びで優勝するくらいの腕はあるっつーの!」
ばねでもついているように右に左に飛びながら、角刈りは道路を疾走していく。その速さは自転車よりも早い。
「不良の底力、嘗めんじゃねえぞ!」
体力の尽きた角刈りたちは最未来人に特攻を仕掛け、散っていった。次に現れたのは一輪車の現代風の不良たちだった。不良たちはぶっきらぼうにノブを担ぐと、何も言わず走って行く。
「どうして簡単に命を捨てようとするんだ」
ノブは憤慨していた。モヒカンも角刈りも無事では済まない。そのことをノブはよく分かっていたのだ。
「それはそのままそっくりお前に返すぜ」
一輪車の不良たちは20人ほどいた。そのスピードは竹馬よりも早い。もうじき自動車の速さに追いつくのではないかと疑うほどであった。だが、一輪車は簡単に方向転換はできない。なので、
「行くぞ」
「おう」
炎の柱を避けることはできない。だから、不良はノブを投げ飛ばし、もう一人の不良がノブを受け取る。そして、先ほどまでノブを掲げていた不良は炎に飲まれた。
「男に別れはつきもんだ。だから、前だけ見ていろ」
不良はそう言ってノブを抱え走って行く。
「こんなこと、あっていいはずがない」
「男は弱音を一人で吐くもんだ。少なくとも、女の前で吐いちゃいけねえ」
不良はノブを投げ飛ばす。新たな不良がノブを受け取る。そして、ノブを投げ飛ばした不良は炎に飲まれた。
「もう、止めてくれよ」
ノブを引っ張ったのはいかつい外国人たちだった。三輪車を漕ぎながら、山道を駆ける。その速さは車以上だった。
「やめまセーン。どうもアイツはあなたをねらっていマース」
片言の日本語で外国人が言った。その髪は金色で、腕はポパイのように太い。
「だから、俺を放せって言うんだ」
「あなた、震えてル。そんなこと、できナーイ」
多くの命を犠牲にして、一体なんの意味があるというのか。
「ワタシタチは町に行かされている。だから、アナタを利用しているだけなのデス、未来人」
「どうして俺のことを」
「シュワルツェネッガーが言ってました」
シュワルツェネッガーの発音だけが絶妙で、ノブはうまく聞き取れなかった。
「それに、きっとみんな生きてマース」
「どうしてそんなことが言えるんだ」
「だって、約束しマーシタ。絶対に生きて帰ってクルーって」
「そんなこと……」
「信じてマース。誰かを信じること。それはとても大切。あなたも一人で戦うのではなく、誰かに頼って、そして、信じてミーテはいかがデースか?」
炎の柱を後ろが見えているかのように外国人は華麗に避けていった。
「それがこの時代のヒトの生き方デース」
「アイルビーバック」
それだけは片言の日本英語だった。ドスを聞かせて、親指を立て、外国人たちは花と散る。
ノブは後ろを振り向きはしなかった。振り向いてはならなかった。振り向いてしまえば多くの人々の託した希望が水の泡となる。みんなが紡いだ四時間が無駄になる。だから、走った。折れそうになっていた心は回復した。体はまだ不完全でも、前へと進める。前へと進めるのなら、それで十分だった。逃げて逃げて、そして、次へと紡ぐ。ノブにできるのはそれだけだった。
「はあ、はあ、はあ……!」
ノブは倒れた体を無理矢理立たせ、炎の柱を避ける。だが、それで精一杯だった。たとえ生きられなくとも、時間を稼げればいい。だが、ノブにはそのような手段もない。自分が倒された後、最未来人がどこに行くのか。それは簡単な答えだった。潜んだネズミをおびき出すには煙で燻りだせばいい。だから、最未来人は炎で町を焼き尽くすだろう。
最未来人は冷ややかな目でノブを見ていた。腕を高く掲げ、掌に灼熱の炎を集めていく。それはどんどんと掌に集まっていき、スイカほどの大きさから、さらに大きく、大きくなっていく。天高く上り詰めた太陽と同じ大きさまで膨れ上がる。そして、ノブを太陽が飲み込んだ。
「え?」
ノブにはその光景が信じられなかった。
ノブの目の前には一人の女の子がいる。その女の子が灼熱の太陽を防いでいた。女の子の頭の黒い三つ編みのおさげが揺れる。
「君は?」
「これだけ派手にやってたら気がつかないわけがないでしょう」
ノブの顔に水しぶきがかかる。ノブは炎を防いでいるものの正体を知った。それは水である。女の子の周囲から熱せられた湯気が噴き出していた。
女の子は炎を防ぎ切った。
「これはいぶされて死ぬパターンね」
もう一度あれを食らうと女の子の命が危ないとノブは察した。
そんな時である。
「最未来人(ロッサ)!俺はここにいる!」
時刻は一時を回ったころ。俺と耀子は最未来人から逃げていた。あと三時間で逢魔が時が訪れ、一時間後には日が落ちる。それまでの辛抱だった。
「前より過激になってねぇか?」
息を車の排気ガスのように絶え間なく吐き出しながら、俺は言った。
「そんなこと、知るか」
耀子も必死で逃げているが、常に俺の背後で火の玉を弾き飛ばしていた。弾き飛ばされた火の玉がそれ、炎の柱を作る。
ノブは俺たちの予想以上に移動していた。追いかけるのはやっとだった。いつの間にか町の南端にまで逃げていたのには驚いた。実に五時間も逃げたのだ。フルマラソンなみの活躍だった。だが、
「うぅ!」
最未来人はエンジンが入ったのか、絶え間なく炎を吐き出している。一体どれほどの体力があればあれほどパワフルになれるのか分かりはしない。
「精力をつけるには赤マムシが一番」
「へ?」
そんな声がした。そして、俺たちの前には神輿を担いだ人々が現れる。担がれている神輿は二つで、担いでいる若者はそのどれもが白いワイシャツとメガネといういで立ちだった。
「母さん?」
「なにを腑抜けた面をしているんだ。妹たちに情けない姿を見せるんじゃないぞ」
二つの神輿にはそれぞれ俺の父さんと母さんがいた。どうしてこんなところにいるのか。そして、どうして最未来人に向かって突っ込んでいこうとするのか。
「なにを勝手なことをしてくれてるんだ!」
俺は今生の別れにそんなことしか言えなかった。
夢だと思った。夢だと思いたかった。
お前はお前のやりたいことをやればいいんだ。
父さんの口はそう言っているように見えた。
父さんと母さんは時間を稼いだ。それでも最未来人は止まらない。転んだ拍子で俺のGショックは壊れてしまった。何がGショックだ。簡単に壊れてしまうじゃないか。
「二手に別れよう」
地面に伏している俺を見て、耀子はそう言った。手には大太刀。それを抜き身にして最未来人の方へと向かって行く。
「冗談だよな」
俺は耀子の意図していることが分かって、悪い冗談だと思わざるを得なかった。もう、最未来人はこの前のような強さではない。いくら耀子であっても無事では済まない。
「あたしの哲也。あたしは今、あんたに頼ることにするよ」
耀子は笑顔を見せた。寂し気な笑顔。まるでお別れのような、そんな笑顔。
「ダメだ、そんなの!」
ノブが死んで、両親も死んで、それで耀子まで死んでしまったら、俺はどうすればいいんだ。
「あたしの哲也。可愛い哲也。お前は知らない間に強くなった。もう、男の子なんかじゃない。れっきとした少年だ。だから、少年。北町のことを頼んだぞ」
最未来人の姿が見えた。その瞬間、耀子は最未来人に向かって突っ込んでいった。
追ってくる。追ってくる。追ってくる。狩人は小さな獲物も逃がさない。たとえ世界に何の影響もない小さなイレギュラーであっても、ネズミ一匹逃がしはしない。
逃げる。逃げる。逃げ続ける。
逃げ続けるということがこれほど辛い事だと俺は知らなかった。体はとうに限界で、未だ走っていることが奇跡だった。俺は手足や心臓よりもこみ上げる吐き気を堪えるので精いっぱいだ。胃が締め付けられる。頭痛がする。目の奥が槍で刺されたかのように痛み続ける。逃げる、逃げる、逃げて逃げて逃げて。逃げるたび、吐き気は増していく。このままずっと逃げ続けなければならないのかというプレッシャー。もう俺しかビアンカを守れる者はいない。テレビのヒーローはなんでもそつなくこなす。一人きりになっても戦い通す。俺にもなれるかななんて思ったのが間違いで、ヒーローというのは意外と根性があるものだと思った。俺には背負いきれない。一人の女の子の命さえ重くて手放しそうになる。でも、俺は夢ができた。それは、笑顔を見ることだ。ビアンカが未だ見せたことのない満面の笑みを俺は見てみたい。きっと、見られるはずだ。ビアンカが大事な人と出会う時に。だから、俺はビアンカも守って、俺も生きて――
爆音とともに、俺の背中に衝撃が走る。背骨に鈍い音が響く。ただの爆風に吹かれたのではない。最未来人は建物の壁を破壊し、俺にぶつけたのだ。
何度も爆風に吹かれながらも立ち上がっていた俺はとうとう立ち上がれなくなった。それでも前へ行こうと手を伸ばす。藁にもすがりたい思いだった。
俺の体は宙に浮く感覚を得た。ジェットコースターのように景色が目まぐるしく変わって、気がついたときには民家の壁に押し付けられていた。サイコキネシスというやつなのだろう。ビアンカが使ったあれだ。
頭の後ろからつーっと生温かい感触が伝わる。
「おい、ロッサ」
俺は苦し紛れに最未来人に話しかけた。命乞いでもしようと思ったのだ。
「お前はどうしてビアンカを狙う」
命乞いなんてできなかった。俺がとったのは、時間を少しでも稼ぐことだった。もうじき逢魔が時が訪れる。夜まで一歩手前だ。せめてトークで一時間ほど延ばさなければ……
『わたしはロッサではなーい!』
ぎゅっと重たい何かが俺に押し付けられる。ずっと磔のままだったのが、少し体がレンガに沈んだようだった。レンガよりも俺の体の方が柔らかいだろうから、俺の体がへこんだのだろう。
『ロッサ!ロッサ!ロッサを殺せぇええええええええ‼』
怒りと憎しみとそれと何かが同時に噴き出した言葉だった。人間がどうしてここまで怪物じみてしまうのか。俺には少しも理解できない。
「お前の望みはなんだ。お前はどうしたい」
『うるさいうるさいうるさいうるさい‼』
ぐっとさらに俺の体に力が入る。嫌な音がして、視界が暗くなっていく。星がちらちらときらめいている。
俺の目の前には星が広がっていた。きっとそれは本当の星じゃない。今は田舎だって、街灯があるから、こんなに一面の星空を見ることなんてないのだ。それは季節外れの星空だった。頭の上にミルキーウェイ、つまり、天の川が浮かんでいる。でも、その星々の輝きを邪魔するように月が光っている。精一杯自分がここにいることを証明するように。
月はきみ。俺は地球。俺はずっときみのことを見守っていたい。だから、常に寄り添う地球になりたい。
その時、オレンジ色の光が世界を包んだ。逢魔が時。決して出会うことのない者たちがひと時だけ出会う、不思議な時間。
「お母さんは言ってたの。男と言うのは初めが肝心。会った瞬間から首輪をつけなさいってね」
その声を聞いて、体の底から湧き上がる何かを感じる。それは喜びだ。彼女が現れたのだ。
「現れたわね。わたし」
キィェエエエエエエエ‼
最未来人はもだえ苦しむように、目の前の現象を否定するように炎の玉を放つ。
『ロッサァ!ロッサァ!ロッサを殺せぇええええええええ‼』
炎の玉はビアンカの目の前で消滅する。クーニャンみたいに頭の両側で渦巻き状にくくられた栗色の髪が大きく揺れる。
「あなたはわたし。わたしはあなた。どれほどあなたがわたしを憎もうとも、わたしがあなたであることには変わらないの。もう一人のわたし」
最未来人はビアンカに向かって走り出す。それと同時にビアンカも最未来人に向かって走り出していた。そして、互いに細い腕で打撃を打ち出す。最未来人の拳を避け、ビアンカは拳を突き出す。それを最未来人は避け、ビアンカの腹に金づちのような一発をくれてやる。超能力で強化された最未来人の拳に飛ばされたビアンカは俺の目の前まで転がっていく。
「ビアンカ!」
俺は必死で手を伸ばす。腕がちぎれてもいい。今は、いち早くビアンカのもとに行かなければ。
「まだ、わたしのことを純潔(ビアンカ)と呼んでくれるのね」
ビアンカは苦しそうに腹を抱えながら立ち上がった。俺はビアンカの言っていることが分からない。決定的な瞬間が訪れようとしているのを悟って、耳が栓をしたように聞こえなくなっていく。この後に続く言葉を聞くまいと。
「わたしの本当の名前はロッサ。ロッサ北町」
ロッサと名乗った栗色の髪の美少女はキッと最未来人を睨む。
「わたしを憎むわたし。もうわたしではあなたに勝てないのは分かっている!だから、わたしだけを憎みなさい。わたしを否定するわたし。血塗られた呪いをなかったことにしようとしたわたしを責めるわたし。でも、あなたも紛れもないわたしなの」
『うるさぁああああああい‼』
ロッサに向かって火の玉が飛ぶ。それをロッサは手で軽く弾き飛ばす。そして、赤黒い光を携えた拳を最未来人に突き出す。最未来人の顎にロッサの拳が突き刺さった。
だが――
『ロッサァアアアアアアアアア‼』
最未来人は倒れなかった。突き刺さったままの拳をもろともせず、ロッサに拳を叩きつける。頬に、顎に、鼻に。そして、ロッサを蹴り飛ばす。ロッサは俺のもとに戻ってきて、そして、俺にぶつかった。俺の体にはロッサの小さくやわらかな体が覆いかぶさっている。
「ビアンカ!ビアンカ!」
「わたしはビアンカじゃないって言っているのに」
俺は返事があることにホッとした。
「あはは。こんな顔。きっとひどい顔よね。嫌いになったでしょう?」
ロッサの顔はひどかった。殴られたところは赤黒く変色し、パンパンに腫れている。そこにはかつての美しさはどこにもない。
「ビアンカがどんな姿になっても、本当は違う名前であっても構わない。俺にとってきみはきみだ。世界を敵に回しても、命をかけてもいいと思った存在だから」
パス。パス。
最未来人はロッサにとどめをさそうと近づいてくる。俺はロッサに覆いかぶさり、最未来人から守ろうとする。
「ねえ。塩崎。最期にロッサって言って」
「最期なんて言うんじゃない」
ロッサと俺の顔の距離は近かった。互いの息が吹きかかり、変な気分になる。こんなときに俺たちは一体何をしているのだか。
バチバチバチ。
俺の頭上で物騒な音が響く。別れの時が近づいていた。せめてロッサの、栗色の髪の美少女の盾となれたことを誇りに思おう。世界を敵に回した結果がこれであるならばこんな終わりでもいい。
俺は目をつぶって終わりを待った。
でも、俺の人生は終わらなかった。
『――こっちよ!最未来人!わたしはここにいる!』
俺は最未来人の呟いた言葉を聞き逃さなかった。
最未来人は震える声でこう呟いた。
ビアンカ、と。
最未来人は突如現れた女の子を恐れるように後ずさりしていく。
うっとりするほど甘美な栗色の髪。
白雪のように溶けてしまいそうな絹の肌。
頬は薄く桃色で、心をくすぐられる。
唇は小振りながらも赤く、情熱的で。
屹とした大きな黒い瞳が印象的だった。
そこにいるというのに現実味がなく、異国人の血を引いているような余韻を残している。その怪物じみた顔は生きた人形なのだよと言われたら信じてしまいそうであった。
俺は目の前の女の子の美しさが怖かった。
「あ、あ、あな、たは、」
声が裏返った。それでもやっとのことで言葉にする。ジープで物凄いデコボコ道を走り抜けたような気分だった。
「私はビアンカ。ビアンカ北町」
俺はビアンカ北町と名乗った女の子をまじまじと眺めようとして、それができずに目を逸らす。
俺は女の子の名前を聞いた瞬間、感じ取っていたのだろう。
この人は俺の運命の人だと。
ビアンカとロッサはとてもよく似ていた。背丈も声色も顔つきさえ瓜二つだった。唯一違うのはビアンカは髪をまとめず、ゆるりとした艶のあるウェーブがかかっていることだった。
「ロッサ。ロッサ。わたしの可愛いロッサ。迎えに来たわよ」
ビアンカは俺とロッサの元へと向かってくる。そして、ロッサの腫れた頬に小鳥のついばみのようなキスをした。
「わたしの妹をこんなにするなんて」
ビアンカは怒りをあらわにして言った。
「塩崎。わたしの妹を頼むわね」
俺が呆気らんとしていると、ビアンカは苛立ったように俺に言う。
「返事は?」
「はい!ビアンカ様!」
俺は思わずビアンカ様にそう答えていた。
ビアンカ様は最未来人を見据える。
「悪い夢なんか食べてしまいましょう!」
ビアンカ様は天に手を伸ばす。すると、天から何かがぼとりぼとりと鈍い音を立てて落ちてくる。それはまるで犬かと疑うほどの大きさで、とても野性味あふれる色合いをしていて、何より艶が吐き気を催す。それはカエルなのだろう。でも、本来愛らしい顔のあるところには、人の顔のようなものがある。そして、そして。何故か巨大ガエルはぼそぼそと人語を話しているではないか。
「カエルちゃんたち!行きなさい!」
人面ガエルは最未来人に襲いかかった。
『おねえちゃん。おねぇちゃぁあああああああん‼』
最未来人の断末魔の声がこだました。後に残ったのは人面ガエルだけで、最未来人の姿はどこにもない。
「ありがとう。塩崎」
ビアンカ様は俺からロッサを引き取り、俺に背を向けて歩き出す。
「ロッサ!」
俺はビアンカ様を引き留めていた。だって、このままお別れだなんて悲しすぎる。ビアンカ様は言った。
「あなたのわたしたちに関する記憶はなくなってしまうわ。残念ながらそうするしかないもの。ありがとう。塩崎。わたしに似て破天荒な妹を大切にしてくれて」
俺の記憶は確かに薄れつつあった。ロッサとの思い出がどんどんとなくなっていく。その度に目から涙がぽとりと落ちていく。
「ご褒美はわたしとあなたが本当に出会ってからあげるわ。楽しみにしていなさい」
ビアンカ様とロッサは光に包まれ、そして、何もかもが嘘のようにこの世界から消えてしまった。何やら俺の近くに大きな生き物もいた気がするけれど、もう覚えてはいない。
俺は走った。どうしてか、体がとても痛んでいる。俺は走っている。何のため?忘れないため。一体誰を?俺は一体誰を忘れたくなかったんだ?
目の前に川が現れる。俺は何のためらいもなく川に突き進み、そのまま川に向かって飛び上がる。
「いっけぇえええええええええっ!」
大好きだったあの子の元へ飛んでいけ。あの子のように場所も世界も時代さえ飛び越えて。
俺は頭から川に落ちた。相変わらずの逢魔が時で、俺はきっとタイムスリップとかしてはいない。俺は自分のどんくささに呆れて笑ってしまう。どうして俺は川なんて飛び込もうとしたのだろう。もう、忘れてしまった。何もかも忘れてしまった。
でも、忘れない。俺には命に代えてでも守りたい存在がいたことを。
「ビアンカ。俺だけのビアンカ。俺は決してきみを忘れたりなどしない」
さて。とうとうこの茶番も次回で終わりである。長かった。次回はエピローグ。いろいろとお楽しみいただけたであろうか。今回この小説を書くにあたって、何個か制約をつけた。一つはラノベの王道をいくこと。別にラノベ書きでもないので、うまく書けたかはわからない。次にビアンカ?をもっと出すことである。初めはビアンカを主役にと考えていたのだが、筒井先生。意外と難しいです。急に口調が変わったりもするし、私は理系でもないですから、なかなかに。次になるたけビアンカシリーズのキャラを出すということである。オーバーステップもなかったことにはしたくなかった。ゆえに、少しオーバーステップの延長上になってしまったかもしれない。最後に、キャラクターを特に男子を格好良く書きたかった。塩崎のキャラ、全然違うじゃんと思われる方もいるだろうが、実は全然変わらないのである。なぜならヘタレの塩崎は本格ミステリの語り手ほど信用してはならないのだ。ノブは絶対に格好いい。だから、最後に見せ場が作れてよかったです。ぶっちゃけ、主役を奪われた気もするけどね。