たとえば今夜
愛する人の手の温もりとか
好きだった音楽や 言葉や
読みかけの小説や 笑い声や 髪を撫でた時の平穏とか
今夜
失う事になったとしたら
それでも 生きろと誰かは言う?
それでも生きたいと 誰かは言うだろうか?
◇◇◇◇
「……せい……先生、東先生、聞いてます?どうしても会いたいっていう患者さんが来てますけど、どうされますか?」
イライラした婦長がヒステリーを抑えながら言っているのがわかる。
「あ……あぁ、通していいよ」
まったく、寝ぼけてんのかしら。ぶつぶつ、カーテンの向うで言ってるのが聞こえていた。
「先生、眠れないんです。どうしても、先生からあんなに良い薬を処方してもらってるのに……。眠れないんです、どうしても……」
そう言うと、若くて美しい女性はおもむろに服を脱ぎ始めた。
白くて綺麗な乳房が露になる。
「抱いて下さい、先生、今すぐ私を抱いて下さい!」
細くて白い指先が小刻みに震えている。
その彼女の服をもう一度優しく着せてあげながら、
「今度君に会ったら、必ず抱くよ」
そう言って、抱きしめた。
「先生……」
女は泣いていたが、暫くして席を立った。
◇◇◇
「お帰りなさい。遅かったのね」
妻の望がいつものように感情のない声で帰りを迎えてくれた。
「どうだった、今日は、
いつもの質問だった。
けれど話しを遮るように妻が強い口調で話し出した。
「み、み、美羽がね、今日ようやく部屋から顔を出したの。一度よ、一度だけ、顔をだしたのよ。あの娘、髪が長くなってたの、そうよね、顔を見たの、半年振りですもの……。は、は、半年前は、はんと……し前は、半年前に顔を出した時は、あ、あの こ達が死……」
今度はこっちが声を荒げた。
「望!! 望、それ以上はもう言うんじゃない」
ガシャン!!
妻の持っていたコップが床に落ちて割れる。
真っ白い手が酷く震えていた。
「あの子……あの子、機嫌が良い時じゃないと顔を出さないのよ。ひどく、ひどく、とっても機嫌の良い時じゃないと……」
私は知っていた。
私は理解していた。
今日、娘が何故機嫌が良いのかを。
その日、世界があっという間に闇に包まれた。
人類史上最悪の出来事が、人類を襲った。
ねぇきみ、
たとえば今夜、お気に入りのコーヒーや
大好きなサッカーボールや
愛しい愛しい温もりや
他愛もないお話が
今夜
全て消えてしまっても
それでも生きようって思うのかい?
それでも生きたいって思うのかい?
それでも生きろって、願うのかい?