夏空の下、ウルトラマンは、友をいじめた子供達を虐殺した   作:ルシエド

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 この作品は愛と希望が勝つハッピーエンドにすることを誓います(政権公約)。

 第一話は文字数特大増量スペシャルです(TVスペシャル感)


序幕 光の章
罪 -シン-


 天の神が居た。

 地の神が居た。

 天の神は人を滅ぼすことを決めた。

 地の神は人を守ることを決めた。

 神と神は対立する。

 

 そんな中、()()()()()()()

 いつからいたのかも分からない。

 何故そこに居たのかも分からない。

 もしかしたら、対応次第ではいつまでも目覚めなかったかもしれない。

 それは海の底に眠る邪神。

 邪悪にして神なる者。

 海の底にて眠っていた闇の権化。

 名状しがたきその邪神こそが、ルルイエに眠る闇の支配者である。

 

 心弱き者が見れば一瞬で正気を失いかねないほどに、おぞましい邪神が、海底で蠢く。

 心強き者でも、存在を知覚するだけで徐々に絶望するおぞましき邪神が、海底で眠る。

 『それ』を見た天の神は、その影響を受けはしなかった。

 だが、『それ』を見たことが、天の神の戦略という歯車に僅かな変化をもたらした。

 

 神が邪神を見ても心が狂うことはない。

 だが神が邪神を見て得たものはあった。

 邪の神が天の神に与えた影響があった。

 この世界は、狂っていく。

 

 

 

 

 

 物語は四国の高知から始まる。

 

 人々の想いを、無視し、踏み躙るようにして始まる。

 

 ……もしも、その出会いが運命であったなら。

 

 (こおり)千景(ちかげ)と、御守(みもり)竜胆(りんどう)の出会いが、運命だったなら。

 

 神々はその運命に、どんな感想を抱くのだろうか。

 

 

 

 

 

 郡千景は、西暦ではありふれた不幸の被害にあった少女だった。

 同時に、まともな人間であれば目を覆うほどの不幸にまみれた少女だった。

 

 千景の両親は、千景がとても幼い頃は千景をちゃんと愛してくれていた。

 とても幼い頃、だけは。

 父親は無邪気な子供がそのまま大人になったような人間で、自分勝手で家族への思いやりに欠けており、自分の"個人の時間"を家族のために使うことを嫌った。

 家族のための家事も嫌がり、千景の記憶では育児も面倒臭がっていた覚えがある。

 そんな、どこにでもいる父親だった。

 母親はそんな父親に、自分と娘をちゃんと愛することを求める。

 父親は生返事にしか応えない。

 恋愛結婚で駆け落ちしたというこの両親だが、千景が物心ついた時点で、破綻は目に見えていた。

 

 父親は家族よりも自分が大切で。

 母親は自分が愛されていないと我慢できない人間で。

 両親は、『父親』ではない『男』でしかなく、『母親』ではない『女』でしかなかった。

 駆け落ちしたから愛がある?

 駆け落ちは強い愛が生んだ勇気ある選択?

 駆け落ちしたからこの両親の愛は永遠? 

 

 違う。

 この二人は、互いの本質をちゃんと見れていなかっただけだ。

 勢いに任せて駆け落ちしただけだ。

 その結果、千景が生まれただけだ。

 破綻は目に見えていた。

 

 千景が幼かった頃、母親が高熱を出して倒れたことがあった。

 母に何をしてやればいいのかも分からず、千景は父にすがるように電話をかけた。

 この頃はまだ、千景は純粋に母を愛していたし、純粋に父を愛していた。

 そんな千景へ父は、一言だけ告げて電話を切った。

 

『薬を飲ませて寝かせていろ』

 

 高熱に呻く母の前に座り、千景は父を待つ。

 千景は待つ。

 父は帰って来ない。

 千景は待つ。

 父は電話一本すら入れてくれない。

 千景の目に涙が浮かぶ。

 幼かった千景にとって、その光景は本当に地獄だった。

 

 誰も来てくれない深夜の静寂。

 母の真っ赤な顔。

 母の荒い息。

 何もできない、何をすればいいのかも分からない無力な自分。

 "このままおかあさんはしんじゃうんじゃないか"と思うと、涙が膝にぽとりと落ちた。

 

「おとうさん」

 

 千景の涙は止まらない。

 そして、父は帰って来ない。

 一時間経っても、二時間経っても、帰って来ない。

 千景の涙が一滴残らず流れ出ても、まだ帰って来ない。

 薬を飲ませたのにまだ母の熱が上がっていっても、まだ帰って来ない。

 

「おかあさぁんっ」

 

 千景は泣く。泣き声を上げる。涙ももう出ないのに泣く。

 父は帰って来ない。

 帰って来ない。

 いつまでも、帰って来ない。

 

 そして父は、午前二時頃に、酒に酔っ払った顔で帰って来た。

 

「おう千景、ただいま。どうしたんだ、そんなに泣いて」

 

「―――」

 

 その夜のことを、千景が忘れることはないだろう。

 この日、娘と母の中の父に対する『幻想』に大きなヒビが入った。

 いや、正確にはこの一件が起こる前から小さなヒビは毎日のように入っていたし、この一件の後も父親は関係にヒビを入れ続けた。

 それも当たり前。

 この父親が反省して自分を改めるわけがないのだ。

 何故ならこの男にとって、『自分の人生』を『家族の人生』のために一部であっても犠牲にすることなど、絶対にしたくないことだったのだから。

 

 何よりも、最悪なのは。

 この一件を引き合いに出して千景が父を問い詰めたなら、この父親は"そんなことをいつまで気にしてるんだ"と言いかねないことにあった。

 だからこそ起こった必然の破綻。

 

 家庭の維持よりも"自分が愛されること"の方が大切な千景の母が、こんな父親に隠れて不倫を始めたことは、至極当然の流れだった。

 

 千景達が住んでいたのは田舎の村だ。

 当然、こんな醜聞はすぐに広まる。

 "クズな父親"と、"淫売な母親"と、"その娘"。

 情報化社会になっても村八分が起こるような日本の田舎村において、千景が人間以下の扱いをされ始めるのは、至極当然の流れであった。

 "クズならいくら攻撃しても良い"という意識は、過去から現在までずっと人類の中に根付く悪徳であり、正義感であり、ゆえにこそどこにでもある『ありふれた残酷』だった。

 

 村の皆の嘲笑と攻撃に耐えられず、母親はほどなく男と一緒に蒸発した。

 離婚はまだされていない。

 何故か?

 父と母で千景を押し付け合った挙げ句、結局話に決着がつく前に、悪意的な村八分に耐えられなくなった母親が村を出て行ってしまったからだ。

 毎日のように千景の両親は罵倒し合い、千景は泣きながら耳を塞いで罵倒合戦から逃げていた。

 

「あなたが千景を育ててよ! 私はもう十分頑張ったわ!

 一度も家事をしなかったあなたがするべきことでしょう! 父親の自覚はないの!?」

 

「ふざけるな! 家事も育児もずっとお前がしてきた、お前の役目だろうが!

 子供を育てる責任があるのは母親だ! なんでそんな当たり前が分からない!」

 

 それはまるで、捨てられない大きなゴミを抱えていたくないから、互いに押し付け合うような光景で。

 

 母親は千景が邪魔だった。

 新しい男と新しい人生を歩み出したかったから。

 父親は千景が邪魔だった。

 今となっては役に立たない重荷にしか感じられなかったから。

 両親は娘が邪魔だから押し付け合い、母は最終的に逃げ出し、父は押し付けたかった邪魔者を見るような目で千景を見た。

 

 そうなれば家に居場所はない。

 だが家を出れば、そこかしこで千景は嘲笑(わら)われた。

 村に千景の味方はおらず、全ての者が千景を笑った。

 

「アバズレの子」

「淫乱女」

「母親に捨てられたグズ」

 

 学校に行けば、苛烈ないじめと大人以上に直接的な侮蔑が千景を襲う。

 

「喋り方がウザい」

「あの親だから」

「何言ってんのか分からない」

「ゲームばっかやっててキッモ」

「知ってる? あの子さあ」

「あははははっ!」

 

 最初に筆箱がなくなった。

 ノートもなくなった。

 お気に入りのキーホルダーもなくなった。

 千景の持ち物が無くなって、千景がそれを焦った様子で探すたびに、それを見ている子供達が笑う。とても楽しそうに。

 千景が困っている姿が、苦しんでいる姿が、クラス共通の娯楽となっていた。

 

 いじめの相談をしようと、千景が職員室に向かうと、職員室から笑い声が聞こえてくる。

 

「あの親じゃロクな子に育たないでしょうねえ」

 

 教師が千景を笑っている。

 千景の親とセットで千景を嘲笑っている。

 当然ながら、教師はいじめを解決しようとしない。

 それどころかいじめに加担する教師や、いじめの隠蔽に頭を働かせる教師までいた。

 

 ある日には、千景は階段から突き落とされた。

 子供の遊びだ。

 "面白そう"程度の感覚で、千景はクラスメイトに階段から突き落とされた。

 階段の色を、動かない体を、激痛に流れる涙を、救急車の音を、千景は今も覚えている。

 

 運び込まれた病院で目が覚めた千景は、"千景が不注意で足を滑らせ階段から落ちた"ことになっていたことを知った。

 教師が、生徒が、皆で口裏を合わせてそう説明したのだ。

 千景が何を言おうと"そういう事実になったこと"は揺らがない。

 信用のある大人も含めた、千景以外の全員がそう言っているからだ。

 担任教師は激痛で体も起こせない千景を見舞って、面倒そうな顔でこう言った。

 

「郡さん……あなたが問題児なのは分かってるけど、先生にあまり面倒をかけないで」

 

 ああ、そういうことだ。

 救急車を呼んだのも教師。

 カバーストーリーを作ったのも教師。

 怪我をした千景を代表して見舞いに来たのも教師。

 教師からすれば"こんな生徒のためになんでこんなことをしなければならないんだ"と、面倒臭がる気持ち以外の何もない。

 この教師からすれば、これは全て『千景のせい』なのだ。

 千景が全て悪いのだ。

 

 ある日には無理矢理服を脱がされ、焼却炉で服を燃やされた。

 「いんばいは服なんて着てなくていいんだろー?」と、言葉の意味すら分かっていないまま喋る小学生達が、無邪気な悪意と害意で千景の服を灰にする。

 服を燃やされたみじめな下着姿で帰宅する千景を、村中の大人に笑われながら帰宅して、涙をこらえて父に相談する。

 

「うちに面倒事を持って来るな! ……面倒事ばかり持ってくる役立たずが!」

 

 けれど、帰って来るのは怒声と罵声のみ。

 千景と同じような扱いを大人社会で受けている千景の父は、その精神性が真っ当な父親のそれでなかったのもあって、千景を気遣う余裕など無いに等しかった。

 それどころか、娘にはいなくなってほしいと思っていることを隠しもしていなかった。

 

 千景は徐々に痛みを受け流すようになった。

 痛い。

 苦しい。

 でもいい反応を見せれば、周りはもっと調子付くから。

 ゲームの世界に逃げ込んで、教室で自分を叩く皆から必死に目を逸らした。

 そんな彼女の髪を、イタズラ程度の気持ちで、ハサミで切ってきた女子が居た。

 その手が滑って、千景の耳をジョキンと切る。

 

 自分の耳がハサミで切られる音と、痛みと、流れる血を、千景は今でも覚えている。

 忘れることはない。

 痛みで転げ回る自分を見て笑っていた男子と女子の顔も、きっと一生忘れない。

 

「―――っ! いだい、痛い、痛いっ!! い、い゛っ……!」

 

「あーらごめんなさい、耳も切っちゃったわ」

 

 授業で使うハサミで千景の耳を切った生徒に、先生は軽い注意をした。

 それだけだった。

 千景の耳は保健室で止血をされて、それで終わりだった。

 耳は何cmも切られていて、指で触れば耳の上と下が前後に別々に動いてしまいそうな感覚が、ひどく怖かったことを、千景は今も覚えている。忘れることはない。

 耳が切られた日のことを、彼女はその日から何度も何度も悪夢に見たから。

 

 保健室から千景が帰ると、綺麗に洗った千景の耳を切ったハサミで、千景の大事な教科書を切り刻んでいるクラスメイト達の姿があった。

 千景の耳が切られても、何も変わらなかった。いつも通りのいじめが続いた。

 そして、父を含め、耳を切られた千景を心配する人間は、結局一人もいなかった。

 あなたの汚い血でハサミが汚れちゃって洗うはめになったのよ、とは後日罵倒で言われた。

 

 耳に包帯を巻いて帰宅する千景を、商店の大人達が嘲笑っている。

 

「お、尻軽女の娘だ」

 

 家に居れば怒鳴られ。

 学校に居ても攻撃され。

 ただ歩いているだけでも嘲笑される。

 郡千景の狭い世界の全てが、千景の全てを否定する。

 まるで、生きているだけでも罪なのだ、と言わんばかりに。

 

 家にも、外にも、学校にも、千景の居場所はない。

 千景は次第に『自分には何の価値もなく疎まれるだけの存在』と思うようになり、その思考は確信となり、いつしか常識となった。

 千景にとって、自分が無価値で、世界の全てから否定されるのは、常識だったのだ。

 幼い頃から、ずっとそうだった。

 

(何も聞こえない)

 

 石を投げつけられても。

 押さえつけられて油性のマジックで顔に落書きされても。

 バケツで汚い水をかけられても。

 これが日常。

 

(何も感じない)

 

 ランドセルの中に虫を詰め込まれても。

 無理矢理ネズミの死体を口の中に押し込まれても。

 プールに蹴り落とされて、皆に蹴られて水の中に押し込まれて溺れそうになっても。

 それで当たり前。

 

(何も痛くない)

 

 毎日仲間外れにされ、罵倒され、笑われても。

 殴られても、蹴られても。

 水田に蹴り落とされ、泥まみれになった千景が、蹴り落とした子供と通りがかった大人達に囲まれて大笑いされても。

 いつものこと。

 

(何も、何も、何も、何も、何も、何も、何も、何も、何も、何も、何も、何も、何も、何も)

 

 痛くないわけがない。

 苦しくないわけがない。

 けれど自分に"何も苦しくない"と言い聞かせなければ生きていることはできず、自分が嫌われて当然の存在だと思い込まなければ――強引にでも自分で理由付けしなければ――、千景は息をすることすらできなかった。

 千景は誰もいない空き地に逃げ込んで、泣き喚く。

 

「うっ、うううっ、うえええっ……えぐっ、うっ、ううううっ……!」

 

 人のいる場所で泣けば笑われる。石を投げられる。

 最悪の場合、泣き声が煩いからと苛烈な攻撃を加えられ、その場所から叩き出される。

 自宅で泣けば父親にさえそうされる可能性があった。

 好きな場所で泣く権利すら、千景には無かったのだ。

 

 郡千景というサンドバッグへの攻撃は、田舎の村の中で一種の娯楽となっていた。

 

 皆が千景を攻撃した。

 まるで、"皆で力を合わせて悪い化物を攻撃して倒しているような"高揚感が、達成感が、一体感が、村の皆の中にはあった。

 何故ならば。

 郡千景は、いくら攻撃してもいい『わるいもの』だったからだ。

 

 千景が小学生だったことは、良いことだったのか不幸だったのか。

 彼女は小学生だったからこそ、この現状を何も解決できなかった。

 されど幼少期から年単位でこの現状に置かれていたがために、常識や性格の基礎レベルから異常に歪み、目を覆いたくなるほどに傷だらけになってしまっていた。

 その上で言おう。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と。

 綺麗な黒髪に整った容姿の千景は、近い将来きっと美人に育つ少女だったから。

 

 郡千景の境遇は、西暦ではいくらでも前例のある境遇だった。

 似たものを探せばいくらでも似たものはあり、彼女よりも不幸な境遇を探せばいくらでも見つかるくらいには、ありふれた不幸の中に居た。

 だが、似たような事例がいくらでもあるからなんだというのか。

 それで千景の辛さが減るのか?

 それで千景の人生が悲惨であるという事実が否定されるのか?

 そんなわけがない。

 千景のような人間がいくらでもいるということは、この星と世界がクソだと断言する理由にはなっても、千景の不幸を過小評価していい理由にはならない。

 

 そもそも、世の中にありふれている幸福を何も得られていないという時点で、この少女はどうしようもないほどの地獄の中に居る。

 

 どうにもならなかった。

 千景にはこの現実を何も変えられず、千景以外の誰もがこの現実を変えないようにしていた。

 少女を囲む集団の全てが、千景の周りの現実の全てが、千景を『殴ってもいいわるもの』という枠の中に力任せに押し込もうとしていた。

 千景の弱い力では、それに押し返すこともできない。

 

(―――誰か、たすけて)

 

 悲しむ少女がこの世界に生きていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 "悲しんでいる誰かを愛する"少年がこの世界に生きていた。

 

 時は2015年、六月第四週。

 その日、千景の学校に転校生がやって来る。

 千景以外の全員がその転校生に期待していた。

 千景だけがその転校生に期待していなかった。

 転校生がもたらす何かを子供達が期待して、千景は誰が来ても何も変わらないということを半ば確信していた。

 

 だからこそ、その転校生の少年は、この場の全員の予想と期待を裏切ることになった。

 

「じゃあ転校生君、自己紹介を」

 

「はじめまして! 御守竜胆です! 得意なのはサッカー、苦手なのは頭を使うこと!」

 

 みもり、りんどう、と、千景がその名前を口を開かず口内で呟く。

 不思議な響きの名前だった。

 千景は何度か声に出さずにその名前を心の中で呼んでみる。

 理由はないが、千景は何故かその名前が気に入った。

 

 少年は堂々と教卓横に立っていて、さっぱりした短い黒髪も、自信の光が宿る双眸も、背筋がピンとした身長の高い肉体も、どれもこれもが千景と正反対。

 細い体と光のない目で、いつも自信なさげにおどおどしている、声の小さな千景とは根本から生きている世界が違いそうな少年だった。

 千景は、"新しい敵"の出現の予感に雰囲気をまた暗くする。

 

「竜胆の花言葉は『正義』『誠実』!

 そして『悲しんでいるあなたを愛する』!

 親にそう願われたんでその通りに生きてます!」

 

 少年は明るい雰囲気と人懐っこい笑み、元気な喋り方であっという間に溶け込んでいく。

 千景が長年ずっと仲間外れにされていたのとは対照的に、竜胆はほんの僅かな時間で昔からの仲間のように迎えられていた。

 

「よろしくー、転校生君」

「よろな、御守君」

「席こっちだよー」

 

「やーやーよろしく、お友達になってくれなー」

 

 彼らは知らなかったのかもしれない。

 

 千景のような"周囲がサンドバッグにするため作った特異な人物"ではない、"最初から周囲の圧力を跳ね除けるほど特異な人物"というものが、世の中に存在するということを。

 

「おい、郡」

 

 だから、千景の隣の席に竜胆が座っても、微動だにしない千景を見て、子供達は苛立った。

 無愛想で、クラスの空気に溶け込まず、転校生に挨拶もしない、クラスの楽しい空気に水を差している郡千景に対し強い敵意を持った。

 千景が椅子から蹴り落とされ、うつ伏せにされ、その後頭部が男の子に踏みつけられた。

 力任せに千景が土下座させられた形。

 

 子供達にとってそれは、して当然の行為だった。

 

「ぐっ」

 

「何クラスの仲間みたいなツラして、挨拶もしないで偉そうにしてんだよ」

 

 嘲笑う子供達。

 後頭部を踏みつけられる千景。

 何も言わない竜胆。

 その時、竜胆の目に宿った光がなんであるか、"そういう人間"を生まれてこの方見たことのない子供達には、まるで理解できていなかった。

 

「ほーらちゃんと転校生くんに頭下げような。挨拶しないでごめんなさい、って」

 

 千景は、いつものように虐げられ、いつものように踏みつけられ、いつものように周りの者達を満足させる言葉を言わされる。

 言うまで終わらないことは分かっているから、言わないという選択肢はない。

 だから言う。

 言いたくなくても言う。

 

 これはここでは"いつものこと"だから。

 

「あ、あいさつしないで……ごめ―――」

 

 

 

 そこに、『それはおかしい』と言える少年が居た。

 

 

 

「なるほど、僕がここでやるべきことは見えた」

 

 千景の頭を踏みつけている少年の足を蹴りどけて、竜胆は千景を助け起こした。

 踏みつけられた千景の頭の汚れを優しく払って、よしよしと優しく撫でてやる。

 クラスの全員が異端を見る目で竜胆を見たが、竜胆はまるで気にした様子がない。

 

「大丈夫? 黒い髪がキレーだね。君、名前は?」

 

「こ……郡、千景」

 

「よっしゃ、ちーちゃんだな」

 

 にこやかに竜胆は笑っている。

 そんな竜胆を皆が困惑の目で見ていて、困惑が徐々に敵意に変わっていく。

 

 子供達にとって、千景への攻撃は日常だった。

 いじめは当たり前のことだった。

 だって大人がそうしていたから。皆がそうしていたから。

 するべきことで、して当たり前のことで、それこそが彼らにとっての"平穏で幸福な日常"。

 

 子供達にとって、このいじめは倫理に置ける『愛』と大差ないものだったのかもしれない。

 皆がそうしている。

 皆がそれを肯定している。

 狭いとはいえ世界の全てが、それが人にとって当たり前のことのように扱っている。

 ならば愛もいじめも、"するべきこと"なのだ。子供達にとっては。

 このいじめと愛との違いは、千景の父含め、誰も千景を大切になど思っていないということか。

 千景を苦しめるこの環境においては、誰か個人が悪い、と主張するのは正しくない。

 強いて言うならば、この狭い世界の全ては狂っていると言えるのだ。

 

 そんな狂った世界で、千景を助け起こした竜胆が、千景に手を差し伸べていた。

 

「僕が君の味方だ。この手を取れ。僕が僕の名前の由来ってやつを見せてやる」

 

 千景が竜胆にとって特別だったからではない。

 千景が竜胆に何かをしてあげたからではない。

 郡千景を特別扱いする理由などどこにもない。

 竜胆は千景が千景だからではなく、千景の境遇を見て、ただそれだけで、千景のために千景の味方をすることを決めた。

 

 悲しむ一人のためだけに、『全部』に喧嘩を売ることを決めていた。

 

 

 

 

 

 いじめというものは、一種の集団行動であり、派閥行動であるとも言える。

 それは集団のストレスのガス抜きであったり、集団の異端を排除する行動で一体感を保つ行動であったり、敵を作って皆の意志を一つにまとめるための行動であったりする。

 総じて、いじめは集団の中に個別の枠を作るものだ。

 

 今回のようないじめであれば、出来る枠は集団と、標的にされた一人という二枠。

 集団の中で圧倒的少数派と圧倒的多数派という枠が作られ仕分けられる。

 少数派は多数派の奴隷として扱われることもあれば、多数派の敵として扱われることもあり、多数派が見下し・差別していい被差別民族のようになることもある。

 これが派閥行動と言えるのは、いじめられっ子が少し増えたところで、いじめっ子のいじめ対象が増えるだけに終わり、何も変わることはないからだ。

 

 竜胆は千景を庇った。

 だがそれでいじめが終わるわけでもない。

 結果から言えば、いじめと村八分の対象が一人分増えただけに終わった。

 村の全てが千景を攻撃するという構図が、千景と竜胆を攻撃する構図に変わっただけだった。

 

 だが竜胆が間に割って入ったことで、千景への攻撃は少し減り、竜胆がその分多くの攻撃を受けるようになっていった。

 

「何度でも言ってやる!」

 

 石を投げられて額から血を流しても、竜胆は止まらない。

 バケツで泥水をぶっかけられても怯みもしない。

 罵倒の言葉をいくらぶつけられても気にしない。

 そして叫ぶのだ。

 

「間違ったことを正しいことだと思い込んでやることが、悪でなくてなんだ!」

 

 階段から蹴り落とされたが立ち上がる。

 食材を買いに行った先の店で門前払いされそうになったが口八丁で説き伏せる。

 大人にも子供にも嘲笑われ、千景の親がいかにクズで、千景がいかに無能なグズであるかを延々と語られたが、スタンスを何も変えることはない。

 そして声を上げるのだ。

 

「間違ってることを間違ってると言って何が悪い!」

 

 教科書を切り刻まれたがセロハンテープで繋ぎ合わせた。読めればいいの精神である。

 犬の死体が下駄箱に突っ込まれていたが、竜胆は山に埋めて墓を立ててやっていた。

 千景がいじめられていると見るやいなや、少年は最高速度で駆けつける。

 そしていじめている子供や大人に向かって怒るのだ。

 

「周りの皆と同じことしてりゃ安心か!? ばっかじゃねえの!」

 

 いじめも嫌いだ。

 村八分も嫌いだ。

 何も悪いことをしてない子が苦しんでいるのも嫌いだ。

 親のせいというだけで傷付いている子を見過ごしてしまうのも嫌いだ。

 だから竜胆は立ち向かう。

 

 竜胆がそうして反抗することに、苛立ちを隠さない子供や大人も多かった。

 それは、"淫売の子には当たり前のことだろ何怒ってんだ"という苛立ちであったが。

 実際は、無抵抗なサンドバッグを殴っていたら、サンドバッグが突然に殴り返してきたからイラついた―――そういうタイプの苛立ちであった。

 

「イラつくか?

 いじめして反抗されたらイラつくか?

 そら結構なことだ!

 自分以外の人間を一方的に攻撃したい、反撃はされたくない、ってのはクズの理屈だ!」

 

 御守竜胆、小学六年生。

 彼はこの歳で既に物の道理を弁えている。

 その心は未だ小学六年生相当でしかないが、何が正義で何か悪かくらいかの判別は、この歳の彼にも見分けがついていた。

 

「それが人間の習性でも、叩きやすいもの探してんじゃないぞっ!

 皆で一緒に同じもの罵倒してりゃ楽しいか!?

 自分より下が居ると安心か!? あいにく、僕はそういうのに参加はしない!」

 

 千景は彼を、『光』と見た。

 どんな逆境の中でも輝く光。

 光は傷付かない。だから彼も傷付かない。

 光には泥や汚れがつかない。だから彼も汚れない。

 光は真っ直ぐに進む。だから彼も真っ直ぐに生きている。

 光は影を作るが、光そのものは翳らない。だから彼もずっと光のままで。

 

 御守竜胆は引っ越ししてから時間が経っても、その間ずっと村の全てを敵に回しても、主張を何一つとして曲げていない。今も少年は叫んでいる。

 

「僕の目を見て言ってみろ!

 何も悪いことしてない女の子を!

 親を引き合いに出して笑って、攻撃して!

 これのどこに正義がある! 正しさも義もないだろうが!」

 

 村の誰も変わらない。

 村の何も変わらない。

 そんな実感が竜胆の心に残る。

 竜胆が正論を言って、皆が笑って、千景と竜胆は変わらず攻撃され続ける。

 それでも、竜胆は『郡千景』を諦めない。

 彼女が彼にとって特別だからではない。

 彼にとって、この狭い世界の残酷が絶対に許せないものであったからだ。

 

「人間は、お前らが気持ちよく殴れるサンドバッグになんてならないっ!」

 

 子供にも大人にも食って掛かる竜胆は、次第に千景以上の異物となっていたが……それと同時に『狭い村の外の常識』を叩きつけてくる強者でもあった。

 多数の弱者と少数の弱者で構成されるのがいじめの基本だが、そこに少数の弱者の味方をする精神的強者が入って来ると、構図がまた変容を始める。

 

()()()()()()()()()()っていう小学生レベルのことが何故できない! 大人だろっ!」

 

 村八分の対象はやがて、千景から竜胆に移りつつあった。

 そこに一番の危機感を覚えていたのは、他の誰でもない千景である。

 千景はこの流れに不安と危機感を覚え、自分への攻撃が緩むことを喜ぶ以上に、竜胆の先行きに不安を感じていた。

 

「もう……いいよ。私は十分、嬉しかったから」

 

「何言ってんだよ、ちーちゃん」

 

「これ以上反抗したら、御守君がもっと酷い目にあいかねない」

 

 千景の耳が痛む。

 耳をハサミで切られた跡が痛む。

 じくじくと痛む。

 もしも、"あれの先"があったなら。

 それが千景ではなく、竜胆に向かってしまったなら。

 千景の好きなゲームの敵キャラの姿が、"剣で切られて殺される人間"の姿が、千景の脳内で竜胆の姿と重なった。

 

 ()()()()()()()()()()()()

 ()()()()()()()()()()()

 この村には、そんなゲームの雰囲気に似たものがあったから。

 

「私はもう、諦めてるから。もういいから。これ以上は望まないから。

 もう止めて……これ以上は……これ以上は、本当にどうなるか分からないから」

 

 あなたも皆と同じことを私にすれば大丈夫だから、と千景は言う。

 

 それは諦めであり、希望を知らない千景が出せる精一杯の助け舟だった。

 

「私の境遇は……これが……ここでの、皆の正義なんだと、思うから」

 

 千景が唇を噛む。

 きっと、そんな事は言いたくなかったのだろう。

 痛くて、苦しくて、辛くて、今の現実の全てに無くなってほしいと思っている千景だから――彼を諌めるためとはいえ――、この村の現状を正義だなんて言いたくないに違いない。

 だが、彼女の言葉は至極正しかった。

 この村では、千景への攻撃は間違いなく"正義の一種"として扱われていたのだ。

 

 それに、竜胆は唾を吐き捨てる。

 

「くっだらね」

 

 この村の人間は誰も自分が間違っているとは思っていないだろう。

 ただ、大人達が千景を"淫売の子"と嘲笑い、子供達が大人の真似をしただけ。

 ごく自然に、彼らは今の在り方を選んでいた。

 

「正義ってのは、人によって違うこともある。

 傷付け合いながらぶつかり合うこともある。

 人の数だけ正義があるから戦争なんてものもなくならない」

 

 それはある視点においては"正義"なのだろう。

 

「でもその代わり。

 一つだけの正義が、全てを支配することもない。

 各々の正義が、同じ方向を向くことも、違う方向を見ることもできる。

 正義にはそれぞれに守るものがあって、それぞれに味方するものがある。

 皆が思うまま望むままに、山ほどある正義の中から好きなものを選んでいいんだ」

 

 正義の多様性は、人間に保証された正義選択の自由は、時に絶大な醜悪を生む。

 

「この村にある全部の正義が君を攻撃しても、僕の正義はそうしない」

 

「―――」

 

「僕の正義はいじめを止めること。

 そして、何も悪いことをしていない君を助けることだ。

 こいつは間違いなく正しいことで、人の義に沿ったものだと信じてる」

 

 第一僕はこの村のこれを正義と呼びたくないんだよ、と竜胆は吐き捨てる。

 

 千景は"群千景の存在否定"をこの村の正義だと言った。

 竜胆はそれを正義とは思わなかった。

 むしろ悪だと思っていた。

 例えようもない醜悪だと断じていた。

 

 だから終わらせたいと思っているのに、竜胆ではこの醜悪を終わらせられない。

 

「今この村にあるのは

 "皆で叩いてるんだからあれは叩いていいものなんだ"

 って空気だろ! それは違うだろ!

 君は今悪者みたいに扱われてるけど、何も悪いことしてないだろ!」

 

 今、この村には"そういう雰囲気"がある。

 千景は何も罪を犯していない。

 なのに千景が攻撃してもいい存在と定義されている。

 『空気』が『悪』を作っているのだ。

 それは何らかの正義が正さなければならない、人間社会の歪みである。

 

 けれど、力の備わっていない正義ほど虚しいものはないのだ。

 

 千景を正義が救ったことはなく。

 竜胆の正義がここで成した何かはなく。

 この村において"正義"ほど虚しく響く言葉はない。

 人類史の中で、"正義"がいくつのいじめを解決できたというのだろうか?

 竜胆の正義に、何を変える力があるというのだろうか?

 

「私……」

 

 千景が呟く。

 

「何もできない私に……そんな価値、無いから……庇ってもらう価値なんて……」

 

 それは彼女自身が発した、彼女自身の価値を否定する言葉。

 郡千景に価値はない。

 それはこの村の総意である。

 千景の父や、千景自身も含めた、この村の全ての人間の総意である。

 『全て』を敵に回してでも戦おうという竜胆の心に、ミシリとヒビが入った。

 

 この環境は、間違っていることを間違っていると言える子供の心には毒すぎる。

 それでも竜胆は、千景に優しく語りかけた。

 

「人間の生の価値は何ができるかで決まらないよ。

 頭がとてもいい学者は、頭が普通の学者よりも絶対に生きる価値があると思う?

 赤ん坊は大人と比べれば生きてる価値が無い? んなわきゃーないでしょう」

 

「……!」

 

「人の価値ってのはそんな簡単に分かるもんじゃないぞ。

 君の価値は君が素敵な大人になってからでも考えりゃいいんだ」

 

 竜胆は頭が良い人間ではない。

 知識がある子供でもない。

 だが、バカはバカなりに世の道理というものを弁えている。

 

「でも、僕の中には一つだけ、他人の価値を測る僕だけの物差しがある」

 

「え……」

 

「何も悪いことをしてない君は、悪いことをしてるあいつらより価値がある。

 あ、僕の中ではってことね?

 だから僕はあいつらより君の味方をしたい。

 あいつらより君に幸せになってほしい。君が幸せになれればそれで僕は満足だ」

 

 少女が人知れず肩を震わせる。

 千景が竜胆を信じるようになったのは、きっとこの瞬間からだった。

 

「"悪いことしてないんだしお前は幸せになれ"!

 ……僕が言ってることって、当たり前のことじゃないかな?」

 

 村人の"当たり前"は、千景にとってはとても残酷で。

 少年の"当たり前"は、千景にとても優しいものだった。

 だから少年の言葉は、千景の身によく染みる。

 

 この村が当たり前の良心が勝つ世界であったなら、彼の言葉はきっと強い正義になれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 正義とは武器のようで、リトマス紙のようでもある。

 それを手にした人間が何をするかで、その人間の本質がすぐに分かる。

 村人は"淫売の子"を嘲笑という棒で叩くことが正しいと信じている。

 竜胆は何も悪いことをしていない子を守ることが正しいと信じている。

 ほら、とても分かりやすい。

 

 正義とは集団の認識で成立する。

 社会の99人が正しいと信じていることと、1人だけが正しいと信じていることなら、その社会の中では99人の方が『正義』となるのだ。

 だからこの狭い世界(むら)の中で、竜胆の正義はどこまで行っても()()()()()

 正しくないから変えられない。

 

 千景をいじめても子供達に何の得もない。

 だから子供達は損得抜きで千景をいじめている、と言える。

 それが当たり前のことだから。

 千景を守っても竜胆には何の得もない。

 だから竜胆は損得抜きで千景を守っている、と言える。

 それが当たり前のことだから。

 

 村の者達と竜胆は対だ。良い意味でも、悪い意味でも。

 

 ある日。

 竜胆は間に合わなかった。

 子供達の『ライターとマッチ』が千景の肌を焼いていた。

 いじめっ子は笑い、千景は泣いていた。

 どこを焼かれたのかも竜胆には分からなかったし、実行前に止めることも、実行者を捕まえることもできなかった。

 できたのは、千景に駆け寄り言葉をかけることだけ。

 

「ちーちゃん! 大丈夫!?」

 

「だ……大丈夫……」

 

 竜胆は千景に優しい言葉をかけつつ、千景を医者に見せるべく彼女に肩を貸そうとした。

 

「ひっ」

 

 だが竜胆に触れられそうになった瞬間、千景は恐怖に濡れた顔でその手を叩いて弾いた。

 

(しまった)

 

 千景にとって、"他人の手"はトラウマの象徴だった。

 千景の短い人生において、千景に手を伸ばした者のほとんどが、千景に対し攻撃を行う者だった。

 誰も救いの手を伸ばさなかった。

 だから竜胆が助けようと手を伸ばしても、千景はそれでトラウマを想起してしまい、その手を受け入れられないのである。

 

「あ……ご、ごめんなさい……」

 

「いや、今のは僕が悪かった。女の子に気安く触ろうとするのは無神経だったね」

 

「ごめんなさい……あと、診療所は……嫌。

 前に行った時、傷を叩かれて……だから、それ以来行ってないから」

 

「……分かった。うちで手当てしようか」

 

 この村においては、教師も、医者も、駐在も、親も。全てが千景を傷付けた過去を持つ。

 郡千景の心には、塞がっていない開きっぱなしの傷が多すぎる。

 触れれば血が流れる生傷が多すぎる。

 その傷は今も増えていた。理由は明快。

 竜胆がいじめを止められていないからである。

 結局のところ彼にできていることなど、千景の方に行くはずだったいじめの一部を自分の体で受け止め、千景の受ける傷を減らすことくらいしかない。

 

 何も変えられていない。

 竜胆の顔は石を投げつけられた傷が多くあり。

 腕には切り傷や擦り傷が多くあり。

 腹にも足にも、殴る蹴るなどされたアザが多くあったが。

 竜胆がそれだけ体を張っても、千景のことは守れていないのだ。

 

 ミシリ、と竜胆の心に新しいヒビが入った音がした。

 

 

 

 

 

 竜胆はこの村における引っ越し先に、千景を連れて行く。

 千景は歩くだけで時々焼けた肌が突っ張って痛んでしまうようで、痛そうにしている千景を見ている竜胆も辛そうにしていた。

 竜胆は屋内に千景を招いていく。

 だが千景は竜胆が母屋に入らず、離れの方に入って行くのが、少し気になった。

 

「離れ……?」

 

「ここが僕らの里親の家。

 僕らを引き取ってもらえるか、様子見って感じだったんだけど……

 僕の評価があんまり芳しくないから、ここの人には引き取ってもらえなさそうだね」

 

「引き取るって……」

 

「僕の両親は交通事故で死んじゃっててさ」

 

「!」

 

「今は大人の組織の力を借りて、妹と一緒に里親探しって感じ」

 

 竜胆には両親と妹が居た。

 それが交通事故で死んだのは、少し前のことだ。

 彼は妹と一緒に、この村に、里親になってくれるという人と試験的に一緒に暮らすために来た。それで上手く行けば、そこが新しい家になるはずだった、ということだ。

 里親にも、色々と種類があるのである。

 

 だがその話も既におじゃんだろう。

 竜胆は村の全てを敵に回した。

 それはここで里親になってくれるはずだった大人も敵に回した、ということだ。

 彼が離れに住まわされているようであるのも、千景の味方をしたことで、母屋へ立ち入ることすら拒絶されているからだろう。

 いずれは里親関連が上手く行かなかったという知らせが走り、竜胆達は別の土地の別の里親に回されることになるだろう。

 それは少し先の話だから、置いておくとして。

 

 千景は、少し彼のことを理解した。

 

―――竜胆の花言葉は『正義』『誠実』!

―――そして『悲しんでいるあなたを愛する』!

―――親にそう願われたんでその通りに生きてます!

 

 転校初日のあの言葉こそが、御守竜胆の本質を表していたのだと、理解した。

 あれは、死者の想いの継承をするという竜胆の基本的な在り方そのものだったのだ。

 

 竜胆は今の自分を貫くことに躊躇いがない。

 この村で新しい親と家を得る権利を投げ捨てることにも迷いがない。

 竜胆には、新しい家族よりも、新しい居場所よりも、ずっと大切なものがあった。

 それを、人は『信念』と呼ぶ。

 

「まー、僕のことは気にしないでくれい。

 特に今のところはそれで困ってるみたいなこともないし。

 人間としてやっちゃいけないことと、人間としてやるべき正義は、ちゃんと教わったから」

 

「……そう」

 

 親が最悪だった千景。

 親が居なかった竜胆。

 似ていないようで似ていて、似ているようで似ていない。

 どちらも親由来のまともな幸福を得られない運命にあるという点では、同類だろうが。

 

花梨(かりん)ー、もう帰ってるかー? 兄ちゃん帰ってきたぞー」

 

「おっかえりー、兄貴ー」

 

「悪い、ちょっと頼み事していいか?」

 

「いいけど、何?」

 

 竜胆が呼びかけると、離れの奥からポニーテールの小さい女の子が現れる。

 竜胆の妹、御守花梨であった。

 あーだこーだと兄妹でこそこそ話しているが、その会話内容は千景には聞こえない。

 そうこうしていると、妹・花梨が千景に歩み寄って来た。

 

「えーと千景先輩でいいかな。千景先輩、こっち来てください、手当てします」

 

「え?」

 

「うちの兄貴が嫁入り前の女の子の肌を男が見るのはいかんだろって」

 

「……あ」

 

「任せてくだせーな。あたし、よく怪我する兄貴を手当てしてるんで腕はプロ級ですよ!」

 

 千景は自分が"幼い子供扱い"はされても、"女の子扱い"はされない年齢の頃から、ずっと淫売の子と嘲笑われてきた。

 その後は非人の扱いが続いた。

 だから新鮮だったのだろう。

 『ちゃんと女の子扱いされたこと』が。

 

 千景の顔にほのかな微笑みが浮かび、それを見た妹ちゃんも朗らかな笑顔を浮かべた。

 

「ほら、ここのソファ座って! 兄貴の話でもしましょ?」

 

「え? そ、そうね」

 

「学校でも兄貴は兄貴だろうけど、うちに居ても兄貴はね―――」

 

 竜胆の行動は、花梨の私生活にも影響を出している。

 そりゃそうだ。

 村八分の対象に唯一味方した余所者の妹なのだから、周囲の対応も推して知るべし。

 なの、だが。

 妹は兄のせいでそうなっているというのに、兄のことも全く恨んでおらず、千景に対しても負の感情を一切持っていなかった。

 

「で、うちの兄貴がね―――」

 

「へえ……」

 

 千景を直接的に守っている兄とは違い、妹の方はのらりくらりと周囲の攻撃やいじめをかわしているというのもあるだろう。

 だが、それ以前の話で……この妹もまた、兄に似た性格をしていた。

 

 要するに、悪党が嫌いで、千景のような子を守ろうと考える性格をしているのである。

 

「千景先輩髪キレーですね。あ、そこガーゼ貼るのでちょっと動かないでください」

 

「……ふふっ」

 

「? どしました?」

 

「兄妹で言うことが同じだな、って思ったのよ」

 

 兄の行動の結果自分に迷惑がかかっても、妹は特に気にしない。

 あの兄が『ああ』なのは本当にいつものことで、そんな兄が妹は嫌いじゃなかったから。

 

「お兄さんの選択に疑いを持ったりはしないの?」

 

「うちの兄は基本的に人を不幸にするものとしか戦いませんからねえ」

 

「……そうなんだ」

 

「兄貴はバカですが、あたしの知ってる兄貴は戦う相手を間違えたりしませんよ」

 

「……」

 

「うちの兄は……まあ、その内分かると思いますけど。

 涙が嫌いなんですよ。悲しみが許せないんです。シンプルですよ、うちの兄」

 

「……うん」

 

「はい、手当て終わりました。痛くないですか?」

 

「ありがとう……だいぶ良くなった」

 

「それは重畳」

 

 花梨が千景から離れて、別室で待機している竜胆の下へ行き、沈痛な面持ちで壁に寄り掛かる。

 

「兄貴」

 

「花梨、どうだった?」

 

「多分あの火傷、もう消えないよ。深すぎる」

 

「―――」

 

「兄貴、何に口と手出そうとしてんの? まあいいけどさ、いつものことだし」

 

「……サンキュ」

 

「いいってことよ、応援してるよ」

 

 ライターとマッチは、千景の肌に消えない傷を刻み込んだ。おそらく、心にも。

 その傷は、きっと竜胆の心も同じように抉っていた。

 

 竜胆の心が軋む音がする。

 

 

 

 

 

 竜胆は手探りで希望を探していた。

 千景はこの村に希望がないことを確信していて、竜胆はまだ希望はあると信じていた。

 その認識違いは、千景の親に対しても同様だった。

 千景は親に何の希望も持っていなくて、けれど竜胆はそうではなかった。

 

 だからだろう。

 怪我をした千景を、竜胆が家まで送った時。

 竜胆が千景の怪我の説明をして、父親に()()()()()()()()()()()()()のは。

 

「―――ということがありまして。

 できれば、お父さんの方からもちーちゃ……千景さんのために学校に連絡を」

 

 竜胆は幻想を持っていた。

 

 娘と上手く行っていない父親だという話は聞いていた。

 けれど、それでも。

 娘の体に消えない傷が付けられれば、父というものは怒ると思っていた。

 娘に酷いことをされれば、父親の胸には湧き上がるものがあると思っていた。

 千景の傷が、父親の心のどこかには響くだろうと思っていた。

 

 千景は父に対し何の幻想も持っていなかった。

 

「嫌だ」

 

「……え」

 

「余計な面倒事をうちに持ち込まないでくれ」

 

「……よ、余計な面倒事!?」

 

 千景の父は、至極面倒臭そうに、鬱陶しげに竜胆と千景を見やっていた。

 千景が自室に移動する。

 ここから先の会話から、逃げるように。

 

「千景は前にもこういうことがあった。あいつはまた怪我なんてして……」

 

「千景さんは怪我したんじゃなくて、怪我させられたんです!」

 

「知ってるさ! こっちが職場で同じ目にあってないとでも思ってるのか!?」

 

「―――」

 

「子供には分からないかもしれないがな!

 大人のこっちには、子供には理解できない辛さってものがあるんだ!」

 

 千景の父は、千景と同じ理不尽ないじめと攻撃を職場にて受けている。

 彼もまた、毎日のように村の者達に笑われ、悲惨な目にあっていた。

 されど千景の今の境遇は、大体この父親が原因である。

 千景はともかく、この父親にだけは、『自業自得』という言葉が適用できる。

 

 この男と周囲の関係については、人によって思うことが違うだろう。

 諸悪の根源なのだから、こんな目にあっているのは当然だ、と思うか。

 "そもそも何で赤の他人の村人達が何の権利があって攻撃してんだよ"、と思うか。

 どちらでもいい。

 この男は被害者であり加害者だ。

 何の犯罪も犯していない、身勝手で父親失格なだけの男であり、だからこそ千景を最も苦しめた男であり、千景の次に苦しんでいる男でもある。

 

 竜胆は少し、この男への対応を迷った。

 優しくすべきなのか、怒るべきなのか。

 

「こっちは千景よりも苦しいんだ! 子供と一緒にするな!」

 

「―――っ」

 

 だがその迷いも、すぐに吹っ切れる。

 

「ざっけんな!

 大人が子供と不幸比べしてるんじゃねえ!

 娘が感じた辛さを親が否定なんてするなっ!」

 

「なんだと!?」

 

「大人だろ! しっかりしてくれよ! ……生きて子供守ってる、親だろ!」

 

「あんなガキなら要らなかった!」

 

「―――」

 

「娘なんて足枷がなければ、今すぐにでも自由になれるかもしれなかったのに!」

 

 子連れの人生というものは、とてもやり直し難い。

 自分一人であれば、いくらでもやり直しは利く。

 だからこそ母親は千景を捨てて男と逃げたし、父親は千景を母親に押し付けたかったのだ。

 

 これが千景の見てきた世界。

 幼少期から小学六年生の今日に至るまで、ずっと彼女が見てきた地獄。

 "父親"という最悪の苦しみの源泉だった。

 

「あいつを育ててこっちに何の得がある!

 苦労と負担ばかりかかるくせに、何の得にもならないんだぞ!

 金を出してるのはこっちだ、感謝される謂れはあっても文句を言われる覚えはない!」

 

「ん、なっ」

 

「毎日あくせく働いて、その大部分を自分で自由に使えない気持ちが分かるか!

 あいつの教育に、食事に、生活に、金が吸われる!

 この体で頑張って稼いだ金だっていうのに、育児なんてものに使われる!

 あいつは働いてもないのに! 邪魔なだけだ! いっそ消えてくれればいいのに!」

 

「あんた父親だろう、あの子の!」

 

「辞められるものならすぐにでも喜んで辞めてやりたいさ、あいつの父親なんて!」

 

「―――っ!」

 

 神様なんてものは居ないと、竜胆は半ば確信していた。

 

 もしも神様が居るというのなら、あの子を見捨てるわけがないと、そう思ったから。

 

 千景の不幸が続いていることが、竜胆の中で神の不在証明となっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 じわり、じわりと、状況は悪くなっていく。

 

 竜胆は諦めない。

 竜胆は千景の負担を軽くしている。

 その上で、状況は好転する気配を全く見せていなかった。

 

「近寄んなよ淫売ー!」

「出てけ阿婆擦れー!」

「くっさいんだよー!」

 

 校庭で石を投げる子供達。

 石を投げる目標は千景。

 そんな千景を竜胆が体を張って庇っていた。

 子供達の多くは、言葉の意味もちゃんと理解せずに千景を罵倒している。

 石を人に向かって投げるということの意味をちゃんと理解せずに投げつけている。

 だから、竜胆の額に石が当たって血が流れたくらいでは、止まらない。

 

 そして、竜胆の背後に庇われている千景を見て。

 いじめを止める気配も見せない教師が、そっと呟いた。

 

 

 

「男に媚びて……やっぱりあの阿婆擦れの子なのね」

 

 

 

 その言葉は、千景の心に強烈に刺さる毒だった。

 男に守られている千景。

 男を頼り信頼する千景。

 もはやトラウマに近い心の動きが、千景に竜胆を突き飛ばさせる。

 千景の手が、殴るようにして竜胆の背中を叩き、突き飛ばしていた。

 

「えっ……ちーちゃん?」

 

「来ないで……こっちに来ないで! 近寄らないで!」

 

 ()()()()()()()()()()()()という気持ちから来る、絶対的な拒絶。

 教師の言葉は――おそらく教師はそこまで狙っていなかっただろうが――、千景の中のもっとも生々しい傷をほじくり返してしまった。

 いつもあの母親を引き合いに出され、淫売だなんだと言われていた千景にとって。

 確信をもって"あの母親"と同一視されるのは、耐え難い苦痛だった。

 

 千景は母を愛していた。だから母を憎んでいた。

 弱くて、家族を捨て、男にすがった母の性情を嫌っていた。

 だからこの"男にすがって守られている"という状況に、千景が生理的嫌悪感を覚えてしまうのは当然のこと。

 

 竜胆は皆が投げる石から千景を守りながら、千景に歩み寄ろうとする。

 

「来ないでっ……!」

 

「ちーちゃ……くっ」

 

 竜胆に近寄られたくない千景が竜胆の足元に石を投げ、竜胆の足が止まる。

 攻撃する子供達と、攻撃されている千景の両方に石を投げられ、それでも竜胆は千景のことを庇い続ける。

 今ここで、千景を守れるのは彼一人しか居なかったから。

 

 教師は千景を見て鼻を鳴らしていた。

 守ってくれていた少年を裏切って石を投げた千景を見て、やっぱりあの親の子供なんてロクな子供じゃない、と千景を侮蔑の目で見ている。

 この教師には、千景の内心はまるで理解できていない。

 教師は千景に対し"クズに育てられたクズ"という認識を深めてしまっていた。

 

 竜胆は歯を食いしばる。

 千景ですら竜胆の味方で居てくれるとは限らない。

 ここは、そういう世界(むら)だ。

 竜胆は『全て』を敵に回してでも千景の味方で居ると決めた。

 たとえ、千景が、竜胆を拒絶し攻撃したとしても。

 千景を守ってやりたいのなら、その上で千景の味方になってやらなければならない。

 ここは、そういう地獄だ。

 

 竜胆の心にヒビが入る音がした。

 だけど、千景と子供達に石を投げられている竜胆より、教師の一言で竜胆を拒絶し始めた千景の方がずっと、辛そうな顔をしていた。

 竜胆の目に映る千景は、泣きそうだった。

 だから頑張れた。

 こんなところで折れてなんていられない。

 

(ここが終わりじゃない。ここがゴールじゃない。まだ、まだ、僕は……!)

 

 守ろうとした一人の少女からすらも石を投げられても、竜胆は折れない。折れないけれども。

 

 ただの小学六年生でしかなかった竜胆の心は、限界点に近付いていた。

 

 

 

 

 

 その夜、妹は久しぶりに憔悴した兄の姿を見た。

 

 竜胆の精神もとうとう限界が見え始めている。

 千景が思っているほど、竜胆の精神は強靭無比な強さを持っていない。

 心を無にして耐えている千景が、実際に感じている痛みをあまり顔に出さないようにしているのと同様に、竜胆も痛みと苦しみに耐えて笑顔を浮かべているだけだ。

 そんな彼が唯一弱さを見せられるのが、この妹と二人きりになった時だった。

 この妹だけが、彼から弱さを引き出してくれる。

 

「へー、そんなことがね……兄貴も千景先輩も苦労してるわ」

 

「僕も距離取った方がいいのかな、なんて思ったよ。

 僕が居ることで言われたくないことを言われるようになったなら、いっそ……」

 

「は?」

 

 そして妹は、弱り始めた兄貴のケツを蹴り上げた。

 

「バッカねー兄貴、これで距離取って何の意味があんのよ」

 

「だけど」

 

「どうせ敵はいくらでも居るし、悪口はいくらでもあんでしょうが。

 兄貴を悪口に使っただけで、普段は別の悪口言ってるんでしょ?

 じゃあ悪口の種類が変わったってだけじゃん。

 スルーしときなさい。

 そんで兄貴は変わらず千景ちゃんの味方でいればいーのよ、でしょ?」

 

 今回たまたま千景に刺さる悪口があっただけで、普段から村中の人間がああだこうだと多様な悪口雑言を千景に対し使っており、千景が陰口を叩かれない日などない。

 だから気にすんなと花梨は言う。

 結局のところ、この村で千景にプラスをあげられるのは竜胆と花梨しかいないがために、多少のマイナスを竜胆がもたらそうが、竜胆は距離を取らない方がいいのだ。

 

 現状、千景にとって竜胆が居なくなること以上のマイナスは存在していないのだから。

 

「忘れちゃだーめよ。この村に千景ちゃんの味方はあたしと兄貴しかいないんだからね」

 

 終着点も勝利条件もまるで見えないが、千景の味方を辞めることだけは、許されない。

 

 妹の叱咤に、竜胆は気合を入れ直した。

 

「ああ、そうだ、全くだ。サンキュー花梨」

 

「カリンちゃんは兄貴よか視野が広いのよん」

 

 彼が来る前の千景はずっと笑っていなくて、この狭い世界の全ての人に笑うことすら許されていなくて、笑っていい場所がどこにもなかった。

 それが最近では、時々微笑みくらいは見せてくれるようになっていた。

 竜胆が味方でなくなれば、その笑顔はまた消えてしまうだろう。

 

 やるしかないのだ。味方で居続けるしかないのだ。彼は男なのだから。

 

「さらって逃げちゃえばいいじゃん、千景先輩をさ」

 

「さらうってお前……」

 

「正直それで今より状況が悪くなるってことはないと思うよ、兄貴」

 

 兄が結構ギリギリなのも、妹の視点からはよく見えた。

 

 この村には、あまりにも真っ当な『正義』が無い。

 

 悪から子供を守る兄がみじめにしか見えない時点で、この村でも自分らしく"何が正義か"を求める兄が無様にしか見えない時点で、妹は既にもうどうにもならないことを半ば察していた。

 

「……あ、そうだ」

 

「おっ、兄貴特有の名案思いついた顔! 聞かせて聞かせて!」

 

「引っ越し提案してみるか。レール敷いて父親の方動かせば……行けるかも?」

 

 けれど、この妹は。

 この兄がいつも、自分の予想を超えてちょくちょく不可能を可能にしていく男であることを知っていた。

 だから花梨は、この兄が大好きなのだ。

 

 

 

 

 

 翌日の朝。

 通学路で、千景は俯き歩いていた。

 千景を追い越す子供達が棒で千景を叩き、バカにしながら先に行く。

 大人達が「売女の娘」「クズの子」とヒソヒソ話し、笑い声を上げていく。

 飛んで来た泥団子が千景の顔の前を通り過ぎて、近くの木にべちょりと当たった。

 

「ちぇっ、外れちゃった。逃げろー!」

 

「……」

 

 千景に泥団子を投げつけようとした子供達が、一目散に逃げていく。

 外れて良かった、と千景は思った。

 朝から泥まみれになると、本当に気が滅入るから。

 朝から泥団子を投げつけられることにすら慣れてしまったことで、"運が良かった"以上の何の感情も抱けなくなっている千景が、悲惨だった。

 

「……はぁ」

 

 泥団子なんていつものことだ。

 むしろ千景の心を痛めているのは、昨日竜胆に石を投げてしまったこと。

 激情に任せて最低なことをしてしまったことの方が胸が痛かった。

 

 それも当然のことだろう。

 千景をいつも苦しめているのは、他人の攻撃。

 千景が慣れている痛みは、他人の攻撃に与えられる痛みだ。

 竜胆を千景が攻撃したことによる『罪悪感』から生まれる痛みは、これの対極にある。

 

 嫌われたかな、と千景は思う。

 もう味方じゃなくなってるだろうな、と千景は考える。

 また一人だ、と千景は唇を噛んだ。

 そして千景は自覚する。

 自分はなんだかんだ、彼に希望を見ていたのだと。

 最近の日々に小さくとも幸せを覚えていたのだと。

 

 今の自分の心境を客観的に見て、千景はそれを再認識する。

 千景の気持ちは暗く沈んでいた。

 理由など語るまでもない。

 一人の味方と一つの希望があった世界から、味方は居らず希望もない元の世界に、引き戻されてしまったからだ。

 千景の手を取ってくれるその人を、千景自ら突き放してしまったからだ。

 

「……きっと、これでよかった」

 

 千景の中には寂しさもある。悲しさもある。

 彼に石を投げた罪悪感もあって、絶望もある。

 同時に、この境遇に竜胆を付き合わせているという罪悪感から解放されてほっとした気持ちと、竜胆をそこから解放できたという安堵もあった。

 "今日もまた耐えればいい"と千景は自分に言い聞かせ、顔を上げて。

 

 そこに、いつも通りの少年を見た。

 

「おはよう、ちーちゃん」

 

 竜胆はいつものように笑っていて、軽く手を振っていて、千景に朝の挨拶をしていた。

 なんだか千景は、泣きそうな気持ちになった。

 

 特別な人に対してだけでなく、大切な人に対してだけでなく。

 誰に対しても竜胆はこうなのだろう。

 それができる竜胆に対し、それができない千景は、嫉妬と好意の両方を抱いた。

 信念をもって竜胆は千景に寄り添っている。

 信念など無い千景にも、竜胆が頑張って自分の近くに居てくれていることは、理解できた。

 

―――男に媚びて……やっぱりあの阿婆擦れの子なのね

 

 千景の中にはあの時の教師の言葉が残っている。

 だから竜胆に対する拒絶感も残っている。

 竜胆に対する罪悪感も、好意も。

 ……それに、何より。

 竜胆に対する友情が、残っている。

 だからだろう。結局、千景が彼を突き放しきれなかったのは。

 

 千景は何か言おうとするが、口下手な千景には、上手いことが言えない。

 だから、気持ちを込めた一言だけを口にした。

 

「……ごめんなさい」

 

「いいよ、こっちも無神経だった。ごめんな」

 

 二人で並んで学校に向かって歩く。

 こうして友達が一緒に通学路を歩いてくれるという"当たり前"が、千景にとっては当たり前なんかではなくて、だからこそ嬉しくて。

 そんな千景に、竜胆は一つ提案をしていた。

 

「こんな村、こっちから捨ててやろうってお父さんに言ってみない?」

 

「……え」

 

「ここに居続ける限りにっちもさっちも行かないでしょ。

 ここを離れて、遠い場所でやり直したらどうかって提案するのさ」

 

 "この狭い世界の外から来た"子供らしい提案であった。

 ある意味、田舎の村という異常な閉鎖空間の中では生まれにくい発想であったとも言う。

 

 竜胆が村の外に引っ越すメリットと、このまま村の中にいることのデメリットを冷静に語れば、それは千景とその父も納得させられる理屈となる。

 無論、苦労はあるだろう。

 だがこの村に居続けるよりはマシなはずだ。

 

 そういう簡単な解決策を思いつけない、あるいは選べないのが、千景の父と千景の限界だった……とも、言える。

 千景はまだ小学生なために仕方がない。

 だが父親の方は、明らかにその性格的な問題のせいだ。

 この父娘には、とても分かりやすく"こういった問題に独力で最善の手を打てない"という性格的欠点が存在してしまっていた。

 

 竜胆はネットで調べた小学校の転校手続きやら、引っ越しで行わないといけない諸々の処置、転職に関するあれこれなども語っていた。

 提案したからには無責任でいるつもりはないぞ、と言わんばかりに。

 ちゃんと色々調べてきたぞ、と言わんばかりに。

 いかにも"付け焼き刃感"がする語り口で、相手が小学生の千景でなければ、その穴だらけの考えが受け入れられることはなかっただろう。

 

 だが、竜胆が頑張っているということはひしひしと伝わってくる。

 竜胆は千景の人生というものに対し、誠実な男であった。

 

「僕ら次の里親候補のあれこれでまた別の土地行くからさ。その時にでも一緒にどうかな」

 

「一緒に……?」

 

「一緒にここじゃない場所行ってみない? ちーちゃんのお父さんとかと相談してさ」

 

 千景には確信があった。

 竜胆のこの提案を、あの父親は受け入れるだろう、と。

 あの父親はここから逃げるのであれば喜んでそうするだろう、と。

 

 千景は父のことをよく知っている。

 父は逃げる男だったから。投げ出す男だったから。

 責任からは逃げ、邪魔な娘も投げ出したくて仕方がないという男だったから。

 この村から逃げる道筋(レール)を竜胆に敷いてもらえば、父はきっとそのレールに乗ることを決断するだろう、という確信があった。

 

「ちーちゃんの好きなゲーム的な言い回しをすると……うーん……そうだね」

 

 少年は笑って少女に手を差し伸べる。

 

「ここじゃないどこか、未知なる場所に、一緒に冒険に行こうぜ」

 

 人生の再スタートを、竜胆は『冒険』と表現した。

 

 竜胆も千景も、まだ小学六年生でしかない。

 年齢が二桁になってからも大した時間は経っていない。

 彼らの人生はまだ始まったばかりなのだ。

 二人の命という名の冒険は、まだまだこれからも続いていく。

 おずおずと、千景は少年の差し出した手を取る。

 

「……うん」

 

 竜胆は握手した手をぶんぶん振り、上機嫌そうに笑い、千景を困惑させていた。

 

 諦めない心さえあれば、一歩一歩進んで行く心さえあれば、小さな積み重ねは現実を変えていくことができる。

 それが人間だ。

 人間らしく歩んでいくということは、そういうことなのだ。

 竜胆達の行き先に、小さな希望が見え始めていた。

 

 

 

 

 

 そして、2015年7月30日。運命の日がやって来る。

 

 

 

 

 

 竜胆は、その日変な夢を見た。

 

 夢の中で竜胆は三嶺(みうね)の山の中を進んで行く。

 三嶺は竜胆達が居る高知と徳島にまたがる山脈で、高知で最も高い山だ。

 山嶺の(さん)(さん)にしたようなその名前がなんでか気に入って、竜胆はその山々のことを覚えていたのだが、そこには異様なものがあった。

 こんなものはなかったはずだ、と夢の中の竜胆は困惑する。

 

 夢の中の三嶺には、光のピラミッドが輝いていた。

 

 そのピラミッドの中に、夢の中の竜胆が入っていく。

 光のピラミッドの中には、光に包まれた巨人の石像があった。

 夢の中で竜胆が、巨人の石像に触れる。

 石像が瞬き、竜胆の中に吸い込まれるようにして消えていき―――そして、夢は終わった。

 

「変な夢」

 

 自分の何かが変わったような、自分に何かが加わったような、奇妙な感覚。

 竜胆は首を傾げつつ、妹と一緒に朝御飯を食べる。

 兄の様子が何か変なことに、妹の花梨は目敏く気付いていた。

 

「どーしたん兄貴」

 

「いや……なんだろう、嫌な予感がする」

 

「?」

 

 何故こんなにも胸騒ぎがするのか。

 寝る前はほとんどなくなっていた未来への不安が、何故こんなにもぶり返しているのか。

 竜胆にも分からない。

 それは、例えるならば……何も見えない暗闇の中で、人間が自分を待ち構えている怪物の生暖かい吐息の熱を、うっすらと感じるそれに近かった。

 

 竜胆は何かを感じているが、それが何であるかを全く分かっていないし、この感覚を言語化するすべを持たなかった。

 人のこういった主観感覚質。

 これを、クオリアという。

 

 人は赤色を指差し「アレが赤色だよ」と言ってくれる他の人間を見て、自分の内部に生まれた感覚を"これが赤色を見た時の感覚だ"とラベリングする。

 そうして、他人との会話で「赤色ってこういう色だよね」という共通認識を作り、コミュニケーションを成立させる。

 これがクオリアに関する脳活動である。

 

 赤色を見たなら、竜胆は赤色だったと言える。

 だが竜胆は夢の中で見たものも、今の自分が感じているものも、一切明確な言語にすることができなかった。

 それは"人間の感覚器"が生み出す感覚ではなかったから。

 感じ取ったクオリアを、竜胆は上手く言語化できない。

 

 その正体不明の感覚に頭を悩ませている内に、竜胆の学校での一日は終わってしまった。

 様子が変な竜胆の顔を、千景が心配そうに覗いている。

 なお、心配そうにしているだけで何も言わない。

 トラウマは山ほどあるが人生経験が致命的にない千景にとって、落ち込んでいる友人以上友人未満の少年に声をかけることなど、難易度がちょっと高すぎたのだ。

 

 竜胆がここでいつも通りの彼であったなら、校内に僅かに変な動きがあったことに、少しは気付けていたかもしれないのに。

 でも、そうはならなかった。

 だから、そうなった。

 

「帰ろっか、ちーちゃん」

 

「ん」

 

 帰路についた二人は、途中で別れた。

 

 ……その選択を竜胆が後悔し、"家まで送って行けばよかった"と思ったのは、竜胆が悪ガキどもに押さえつけられた後だった。

 

「!?」

 

 竜胆を突き飛ばし、倒れた彼を押さえつける少年達。

 いつも千景をいじめているいじめっ子の小学生だけでなく、中学生達までもが混じっていた。

 同い年の少年複数人と、中学生に押さえつけられてしまえば、竜胆も流石にその拘束を振りほどくことなどできはしない。

 

「離せ! 何するんだ!」

 

「抑えとけ抑えとけ! そいつは邪魔だ、あっちに行かないように抑えとけとよ!」

「ったく、女子は人使いばっか荒いんだからよぉ」

「あっちはどうなってんだか……女子は怖いからな」

 

 会話を拾っていけば、察していけることもある。

 この村における竜胆の立ち位置を把握しておけば、理解できることもある。

 "あっち"とは間違いなく千景に関する何かだ。

 "あっちに行かないように"とは、竜胆が千景を助けられない状況にすることを意味している。

 

 彼らは何かを千景にしようとしている。

 そのために、帰路についた竜胆と千景を分断しにかかったのだ。

 それは、現実のいじめにも前例がある『先生を引きつける役』と『いじめる役』に分かれていじめをする子供達のような、役割分担であった。

 

 きっとこの前の"ライターとマッチ"が――正確には新鮮な千景の反応が――いつもよりも楽しかったのだろう。

 だから……『もっと過激なことを試してみよう』と思った子供が居て、それに助力する中学生達が居て、男子も女子も混ざったほのかに熱狂的な集団が出来てしまった。

 楽しそうな女子がいて。

 面倒そうに協力する男子がいて。

 何の罪悪感も抱いていない小学生がいて。

 いじめを何とも思っていない中学生がいる。

 全てが竜胆の敵だった。

 

 竜胆は千景のピンチに気付いてもがくが、少年達の拘束を振りほどけない。

 このままでは、彼女が。

 そう思っても脱出できない。

 少年達は笑っていた。子供達が一緒に遊んでいる時のような表情だった。

 

 今の彼らの気持ちと感覚を、分かりやすく別のものに例えるなら。

 とても面白いと評判の新作ゲーム機が入ったというゲームセンターに、皆で一緒に向かっているようなものだろうか。

 この場合、ゲーム機が千景にあたる。

 "それ"で彼らは遊ぶのだから、そうとしか言いようがない。

 

「―――!」

 

 竜胆の心が軋む。無力感でヒビが入る。

 竜胆の背中にのしかかっている少年が、特に感情のこもっていない声を漏らした。

 

「今頃どうなってんだか、こえーこえー。おれしーらね」

 

「―――」

 

 人間は多様だ。

 いじめに罪悪感を少しは覚えている子供もいる。

 好き好んで攻撃などしていないが、とりあえず周りに合わせているだけの大人もいる。

 そしてこの少年のように、これがいじめであると認識しているし、いじめをやっている女子が怖いとも思っているが、千景に一切の同情もしていない"加害者の仲間"もいる。

 この少年にとって、自分は加害者などではない。

 手を貸しているだけだから自分は加害者でないと確信している。

 加害者になっている自覚は、全く無い。

 

 つまり、竜胆に乗っているその少年にとっては、どうでも良かったのだ。

 千景の人生も。

 千景の幸福も。

 千景の苦痛も。

 どうでもいいから、いじめに加担している。

 いじめという名の悪意すら、その少年には存在しなかった。

 千景に無関心な者ですら千景への攻撃に参加している現実が、竜胆の胸の奥を締め付けた。

 

 少年のその()()()とでも言いたげな言い草が、竜胆の癇に障った。

 

 

 

「どけえええええええッ!!」

 

 

 

 竜胆が叫ぶ。

 心に入ったヒビから闇が漏れ、吹き出す。

 竜胆を押さえつけていた子供達が、竜胆の体から吹き出した闇に吹っ飛ばされた。

 

 少年の手に、『黒い神器』が握られている。

 何故自分がそれを握っているのか、それがどこから来たのか、竜胆にも分かっていない。

 いつの間にか、神器は彼の手の中にあった。

 いつの間にか、闇は彼の身の周りにあった。

 誰も知りはしなかったが、その神器の名は―――『ブラックスパークレンス』といった。

 

 竜胆から吹き出した闇はいじめっ子達を吹き飛ばし、竜胆の周りでうごめいている。

 闇が地面に染み込んで、地面の色を黒く染めた。

 闇の染み込んだ地面の花が、次々と枯れていく。

 子供達は悲鳴を上げ、逃げ出した。

 

「な……なんだこいつ!?」

 

「バケモノだ!」

 

 竜胆は逃げ惑ういじめっ子になど目もくれない。

 全てに目もくれずに千景の帰路に向かって走る。

 憎い敵には注目すらせず、守ろうとするものだけを目指して走り出すその姿には、彼の本質が見て取れた。

 

(急げ! ……間に合えっ!)

 

 そして。世界が終わり始める。

 

 竜胆が走る中、彼方の民家で悲鳴が上がった。

 

「化物だぁ! あ、ああっ、あああああっ!!」

 

 竜胆は余計なことを考えないようにしている。

 先程自分が発した闇が何かという思考も投げ捨てていて、自分が怪物と周りに呼ばれたことは覚えていて、だから"化物だ"という声にも反応はしない。

 自分に対する声だと思っているからだ。

 

 だが、違う。

 今この村には……いや、高知には。

 本当に化物が襲来している。

 その化物は高知だけでなく、四国全域、そして地球全域の人間を殺す群体の一部だった。

 

 群体の名は『バーテックス』。この日、人の世界を滅ぼすもの。

 

 竜胆はまだその存在に気付いていない。

 彼の思考にあるのは今、千景しかいない。

 だから遠い場所で人間が怪物に食われていることにも、まだ気付いていない。

 村の住人の一部が突然怪物になり、他の住人を食っていることにも気付いていない。

 

「に、人間が化物になった! なんで!? なんでだ!?」

 

 人が怪物になっていく。

 地獄が生まれる。

 何故? という皆の疑問に応える者はない。

 村の大半の人間が地獄の顕現に気付きもしないまま、村が地獄に飲まれていく。

 

 竜胆は運良く、地獄に背を向けて走る形で、千景に向かって一直線に走ることができていた。

 怪物が人を食らう大きな地獄。

 千景がいじめられているという小さな地獄。

 その狭間で、竜胆は走っている。

 

 そして、中学生女子と小学生女子の混じったいじめっ子集団が、千景の服を脱がせているのを見た。

 

「―――」

 

 竜胆は純情だ。

 女の子の多い露出なんて見たらすぐに顔を赤くする。

 そんな彼が―――羞恥ではなく、憎悪と憤怒で顔を赤くした。

 

「お前はアバズレの子だからな」

 

「どうせ将来悪いことばっかりするんだから」

 

「注意書きしておかないとな、お前のハダカに直接さ」

 

「きゃはははは!」

 

「あんたのハダカを見た男が、ちゃんとお前の本性に気付けるようにね!」

 

「あーあー、サンちゃん性格わっるー。

 それ皮膚に染み込んだら一生消えないっていうインクじゃなーい」

 

「通販で買ったんだっけ? これで『ビッチ』とか注意書きしたら消えないんだよね」

 

「手術すれば消えんじゃない? 知らないけど」

 

「じゃーちゃんと見えるところと、手術しにくいとこにも注意書きしておかないと」

 

「おかーさん言ってたよ。

 あのいんらんおんなの子にしょーらい誰か引っかかったら絶対ふこーになるって。

 じゃあ止めないと。私達がやらないと、誰かがふこーになっちゃうんだよ!」

 

「えーと辞書辞書、『淫乱注意』の綴りこれで合ってるかな?」

 

 自分を悪だと思うこともなく。

 悪行を行っている自覚もなく。

 取り返しの付かないことをしていると認識することもなく。

 まだ15歳にもなっていない子供達は、大人の言動と思考の真似をしている子供達は、『気軽に』千景に一生消えない傷を付けようとしていた。

 

 その瞬間に。

 千景の瞳から溢れた涙を見た瞬間に。

 竜胆の心に浮かんだ感情は。

 

「人を―――」

 

 『憎悪』以外の何でもなかった。

 

「―――こんなに憎いと思ったのは、初めてだ」

 

 竜胆の手には、黒い神器・ブラックスパークレンス。

 

 その神器が、竜胆の心の闇を吸い上げて―――闇を、爆発させた。

 

 

 

 

 

 竜胆の意識が飛びかける。

 "人でない意識"に意識が変質する過程で、竜胆の意識は光の中に放り込まれた。

 そんな竜胆の意識へと、夢の中で竜胆と一体化した石像の巨人が、光の中から語りかける。

 

『君は、光にも闇にもなれる』

 

『全てを、よく考えて、選択しなさい』

 

『君の行動の結果は、全て君に返って来る』

 

 かすれていった、残響のような言葉。

 

 残り香のような、想いの言葉だった。

 

 

 

 

 

 竜胆が『変わる』。心に準じた形に変わる。

 

 それは、困っている人間であれば誰でも助けるという、光の愛ではなく。

 

 千景を大切に想い、それを傷付ける他者を憎悪する想い……闇の衝動だった。

 

 『皆のため』の善意ではない、『千景のため』の悪意だった。

 

 強い想いが力を掴む。

 愛ではなく、憎悪で少年は力を掴み取った。

 その過程と到達がどれだけ()()()()()()()を自覚しないままに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――黒き闇の祝福。その日、竜胆の中の光は死に、闇が生まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その姿を、なんと表現すればいいのか。

 少女達が見上げた先で、青空を塗り潰すような黒い巨体。

 怪物と共にやって来たはずの世界の終わりが、世界の光を食い潰すような悪夢が、逆に食い潰されてしまいそうなほどの漆黒の闇。

 闇を纏う黒い巨人へと『変身』した竜胆が、千景をいじめる子供達を見下ろしていた。

 

 その巨人を"ティガダーク"という正しい呼称で呼ぶ人間は、今のこの時代には居ない。

 

「ひぃっ」

 

 それを見上げる子供達は揃って、戦慄、恐怖、絶望を表情に浮かべる。

 

 黒い巨人を見上げただけで、子供達からは大なり小なり正気が失われていた。

 

「あ―――ああっ―――ああああああッ……」

 

 そして、正気を失っているのは子供達だけではなく。

 膨大な闇の力に飲み込まれた竜胆もまた、正気を喪失してしまっていた。

 竜胆は竜胆の心を持ったまま、その心の闇の面を強烈に暴走させてしまっていて、負の感情を理性で一切制御できなくなってしまっていた。

 ゆえに。

 闇の心の赴くままに、動く。

 

『―――ああ』

 

 巨人になった竜胆の足が、小学生の女の子を踏み潰す。

 少女達の顔がさあっと青くなり、千景をいじめるのもやめて一目散に逃げ出していく。

 逃げなかったのは、茫然自失としている千景のみ。

 逃げる少女の一人を、巨人の指がつまみ上げた。

 巨人の顔の横、地上から50mほどの高さまでつまみ上げられた女の子は、その高さと巨人の恐ろしさに泣き出してしまう。

 

「やだ! やだ! やだ! 離して!」

 

 そして、巨人の指に"ぷちっ"と潰された。潰れた肉と骨と血が地面に落ちる。

 

 逃げ出す少女達に向けて、巨人の長い手が伸ばされた。

 

「わ……私の友達に、触るな!」

 

 友達想いのいじめっ子が、友達を庇って巨人の手に向かい飛び出す。

 だが、それには何の意味もなかった。

 庇った女の子も、庇われた小さな女の子も、まとめて巨人の大きな手に捕まってしまう。

 数人がまとめて巨人の手の中に握りしめられ、ゴリッと握り潰された。

 一瞬で握り潰したのではない。

 巨人はわざと数秒かけた。

 

「いっ……ぎゃっ……!」

「いだい……いだいっ……!」

「骨……骨っ……ざざっでるっ!」

 

 その数秒が、地獄の苦しみとなり。

 隣に居た別の少女の骨が、自分の肉に深々と刺さり、自分の骨が隣の少女の肉に刺さっていき、肉が肉を押し潰し合う、そんな地獄を子供達は味わっていった。

 15歳にも満たない小さな女の子達がまとめて握り潰され、べちょりと地面に落ち、地面にグロテスクな肉の花が咲く。

 

 生き残りを巨人が見やる。

 巨人は"付き合いでいじめに参加していただけ"の小学生の女の子にも容赦しなかった。

 逃げるその子を、指先で弾く。

 小さな子供が、虫にデコピンするような動きで、気軽に弾く。

 それだけで小さな女の子の下半身は弾け飛び、激痛と苦痛に悶えながら地面を転がり、"死にたくない"という想いを顔に浮かべたすすり泣きを始める。

 

「いたいよっ……いだいよぅ……たすけて……たすけて、おかぁさぁんっ……!」

 

 そして、絶命した。

 千景をこの場でいじめていたいじめっ子達はこれで全部だ。その全てを竜胆は殺した。

 

 だが止まらない。

 闇の力が闇の心を突き動かしていく。

 これは、方向性の問題だ。

 絵の具でどんな色を作っても、黒い絵の具をぶち込めば黒っぽい色になってしまうのと同じように、闇を叩き込まれた心の思考は同じ方向性しか持てない。

 

 竜胆の頭の中にある思考の全てが、闇の巨人として発現した力によって負の方向性を与えられ、破壊と虐殺という結論に帰結するようになってしまっていた。

 

『ああ、ああ、あああああ』

 

 巨人の瞳が、学校を捉える。

 千景を、竜胆を、毎日のように子供達がいじめていた想い出の校舎。

 それを見た瞬間に、普段竜胆の理性が抑え込んでいた感情が爆発した。

 

『―――無い方がいいよな、あれも』

 

 巨人の闇が爆発し、荒れ狂う暴風のように校舎を襲う。

 

『■■■■■ッ―――!』

 

 その闇の一撃で、校舎と、まだ校舎に居た百人以上の人間の命が消し飛ばされた。

 いじめに参加していた罪ある者も……いじめにまるで関わっていなかった罪なき者も。

 

 いじめに加担していなかった一年生も。

 いじめの存在は知っていたがそれだけだった二年生も。

 兄から千景の悪口を聞いていただけの三年生も。

 千景を笑っていたがそれだけだった四年生も。

 いじめに参加を始めていた五年生も。

 竜胆を見て"これはいじめでよくないことなんじゃないか"と思い始めていた六年生も。

 改心し始めていて、いじめを止めようとしていた千景達のクラスの副担任教師も。

 

 全員、死んだ。

 

 罪ある子供、罪の無い子供も、一緒くたにティガダークの闇の力に食い殺された。

 いじめに加担した子供達は、未来に反省したかもしれないし、反省しなかったかもしれない。

 そんな未来を、まとめて巨人の闇が押し潰した。

 闇が全ての子供を貪り殺した。

 

 ―――その中には、竜胆と同じ小学校に通っていた、竜胆の妹・花梨も居た。

 

『よし……よし……よし……ああ、消えた。壊れた。居なくなってくれた』

 

 罪の無い者を殺したことも。

 今、実の妹をその手で殺したことも。

 心の闇を暴走させている今の竜胆には自覚できていない。

 だけれども、罪は確かに蓄積される。

 

 罪の無い者は傷付けられるべきではない。

 悪いことをしていない者を理不尽に攻撃するなど許されない。

 それが竜胆の信念であり、千景の味方になった理由の全てだ。

 ……ならば、この後に正気に戻った竜胆は、自分を、どう見るのだろうか?

 想像に難くない。

 

『■■■■■■■ッ―――!』

 

 竜胆は校舎を念入りに潰す。

 学校の原型も残らぬように。

 そこに居た人間が、万が一にも生き残らないように。

 "千景をいじめるものを全てなくす"という想いが、残虐な行為を行わせる。

 

 そんな巨人を、村人達が恐ろしいものを見る目で見上げていた。

 

「あっ、ああっ……!」

 

「なんてことだ……」

 

「神様……」

 

 神に祈り、救いを求める者まで居た。

 

 いじめは精神異常者がするから問題なのではない。

 精神的に健常なものでもしてしまうからこそ問題なのだ。

 まともな人間でも周囲に流されやってしまうからこそ問題なのだ。

 でなければ、『衆愚』なんて言葉は存在しない。

 彼らは普通の人間で、当たり前の人間で、その上で他者を理不尽に攻撃し(いじめ)た。

 だからこそ。

 衆愚に対する過剰な反撃は許されない。

 いじめに対する反撃として人が『殺人』『虐殺』を選ぶのであれば、その選択は間違いなく『悪』である。

 

 巨人・ティガダークとなった今の竜胆は、間違いなく『悪』だった。

 

 人間がよき人として在るために必要なもの。

 それを、"道徳"と言う。

 子供は道徳を、周りの大人からぼんやりと学ぶもの。

 "なんとなくこれはしちゃ駄目だな"と子供達が思うものが、道徳だ。

 殺人を忌避する心などは、それの最たるものだろう。

 良い大人が周囲に居れば、子供は"いじめはしちゃダメ"という道徳を学んでくれる。

 この村において、千景を攻撃することは道徳の一切に抵触しなかった。

 

 つまり逆に言えば、その道徳と常識さえ与えることができたなら、この村の子供達はいくらでも反省することができたし、まともな大人になることも出来た。

 その可能性は確かにあったのだ。

 村の大人に流されて、特に得もなく千景をいじめていた子供達にも、千景に謝り贖罪をして大人になっていく権利があった。

 竜胆は、殺害によってその全てを潰したのだ。

 それは間違いなく『悪』である。

 いじめに殺人で返すことが当たり前であるはずがない。

 

 だが、いじめは時に殺人や自殺に発展するほどの憎悪と苦痛を育むもの。

 いじめに対する反撃もまた、人に許された権利である。

 だから、竜胆のこの虐殺は、見方によっては必然で、見方によっては必要以上に過剰な反撃で、見方によっては正義の報復であったとも言える。

 

 ここに正解は無い。正義も無い。

 

 ここにあるのは『闇』であり、『悪』だけだ。

 

「おねーちゃん……おかーさん……」

 

 破壊を繰り返すティガダークは、足元で泣いている女の子を見つけた。

 小学一年生くらいの年齢に見える。

 竜胆が覚えている限りでは、千景と竜胆への攻撃に参加したこともないはずだ。

 ティガダークによる破壊の中で、女の子は一人うずくまって泣いている。

 

 その姿が、竜胆の心の光を目覚めさせ、膨大な心の闇を押し返させた。

 助けてあげないと、と竜胆は思ったのだ。

 正気を失った状態から、強引に闇を押し返して正気の欠片を取り戻す。

 

『泣いてる子が……』

 

 小さな子を助けないと、僕は六年生でお兄さんなんだから、と竜胆が手を伸ばし。

 

 その小さな子に伸ばされた巨人の手から庇うようにして、別の女の子が飛び込んで来た。

 

杏寿(あんず)!」

 

「タマミおねーちゃん!」

 

『―――』

 

 妹が姉を庇うその姿を見た瞬間、腹の中が煮えくり返りほどの怒りと、特大の生理的嫌悪感が引き出した嘔吐感が竜胆を襲い、頭の中身が沸騰し、思考は全てひっくり返った。

 

 巨人に怯える小学一年生くらいの女の子が、妹で。

 黒い巨人から妹を守ろうとする小学六年生くらいの女の子が、姉で。

 姉は妹を守っていて。

 

 『その姉が』、『千景を階段で蹴り落とした姿を』、『その時の楽しそうな笑みを』、竜胆は覚えている。

 

 姉は妹を命がけで守っている。

 他の子供にもそうそうできないだろう、こんなことは。

 大好きな家族のためならば死をも恐れないその勇気が、妹を想うその優しさが、竜胆の心の光と闇を同時に刺激した。

 

「心配したのよ、なんでこんな所に……な、なんなのよあのでっかいの!」

 

「おねーちゃん、あれこっちむいてる、こわいよ……」

 

「……大丈夫よ、お姉ちゃんを信じなさい! 杏寿は私が守るから!」

 

 人の心は単純には語れない。

 光もあれば闇もある。

 美しさもあれば醜さもある。

 誰かを笑って傷付ける人間が、友達や家族を守るためなら命を懸けられる人間であることは矛盾しない。

 笑っていじめができる人間が、誰かに深い優しさを向けられることは矛盾しない。

 

 子供達は親の真似をして、"優しさという美徳"や、"この人間は攻撃してもいい"という常識を学んでいくものなのだから。

 

 姉は震えながら妹を守る。

 その、まばゆいほどの光り輝く想いが。

 どんなに恐ろしい者にも立ち向かう、気高い勇気が。

 とても、とても……()()()()()()()()

 

『お前―――お前ッ! なんでだ!

 なんでなんでなんで! なんでだよッ!』

 

 巨人が吠える。

 竜胆が叫ぶ言葉はテレパシーとなって外部に発されたが、底なしの怒りと憎悪がテレパシーに雑音を混ぜ込み、ただの咆哮として少女達に届けてしまう。

 憎悪と憤怒が混じった思考がそのまま音になった咆哮は、耳にするだけで正気が吹っ飛んでしまいそうなほどにおぞましかった。

 

『そんな優しさがあるなら!

 優しさがお前の中にあったなら!

 なんでその優しさを―――千景(あのこ)に少しでも分けてやらなかったんだッ!』

 

 ティガダークのウルトラマンらしく輝く乳白色の目が、赤く血走った。

 

 血走った瞳が、殺意をもって姉妹を見つめる。

 

『お前が!

 あの子の心に、消えない傷を付けたくせに!

 彼女の心から沢山のものを奪ってきたくせに!

 ()()()()()()()()()()()すら奪ってきたくせに!

 自分の大切なものが奪われることは……嫌だっていうのか!?』

 

 そうだ。

 そうだとも。

 それがここでの当たり前。

 千景が"自分は無価値で疎まれるだけの存在"と確信するまで追い込んだそれは、一方的な攻撃関係によってのみ成立していた、ここでの常識だ。

 

 物語風味に言えば、この村において千景は怪獣だったのだ。

 

 皆で攻撃するのが正義。

 "学校に怪獣が来たから、二度と来ないように攻撃する"のも当たり前。

 味方か敵かで言えば敵。

 この女の子は今日までの日々の中、『敵』に立ち向かって来ただけなのだ。

 

 淫売の子という敵に。黒い巨人という敵に。この子は変わらず立ち向かっている。

 だからこそ、竜胆はもはやこの感情を制御できない。

 闇の心に突き動かされ、自分を止められない。

 

『■■■―――!!!』

 

 まるで、癇癪のように。竜胆は、その姉妹を拳で叩き潰した。

 

 妹の方に罪が無いことだけは、確かなことだったのに。

 

 とても念入りに、押し込むようにして潰した。

 ねじ込まれた拳が持ち上げられると、そこにはミンチになり地面と混ざった肉塊のみがある。

 吐き気をもよおす赤黒い残骸。

 また一つ、少年の罪が増える。

 

『■■■■■■■』

 

 やがて、唸る巨人の視界が広がった。

 巨人は村を見下ろし、同時に小さな山の向こうの街を見下ろす。

 体長53mのティガダークには、多くのものがよく見えた。

 怪物が居た。

 紫の体色とサイケデリックなカラーリングの、怪鳥と呼ぶべき怪物が飛んでいた。

 人間が街中や村中で突然、その怪物になったりもする。

 そして怪物だけでなく、闇に覆われた空、世界を壊す天変地異など、日常にはありえないものが天と地の間に満ちていた。

 

 壊れていく世界の中で、阿鼻叫喚の地獄を怪物が展開していく。

 怪物の名が"シビトゾイガー"というものであることを、この時代の人間は知らない。

 巨人は言葉にならない呻きと咆哮――その咆哮はテレパシーだが、感情が混ざりすぎている――を上げ、怪物に狙いを定めた。

 

 放出される闇の攻撃。

 一体一体は2m程度のサイズだが、数だけはいるシビトゾイガー達が粉砕されていく。

 そして、同時に。

 怪物への攻撃に巻き込まれ、村も山の向こうの街も破壊されていく。

 街の崩落に巻き込まれ、何の罪もない人達が死んでいく。

 

『■■■ッ―――!』

 

 街のことも、村のことも、人のことも一切考えない破壊。

 闇の力が竜胆の正気を加速度的に削っていく。

 もはや"醜いもの・人を傷付けるものは全て壊す"という指向性しか竜胆の中には残っておらず、それすら失われて破壊に走ってしまうのは、時間の問題であるように思われた。

 人々は、絶望する。

 

 

 

 

 

 世界の終わりは始まっていた。それは神々による人の粛清と、それへの抵抗。

 

 『天の神』は人の傲慢、増長、醜悪、思い上がりを裁くべきものであると定めた。

 天の神がもたらした怪物……『星屑』が、世界各地で人間を襲い、貪り食っている。

 地は揺れ、天は震え、海は砕けた。

 『地の神』が、それに反抗した。人は滅ぶべきではないと。

 

 天の神は人を滅ぼすべきだと考え。

 地の神は人をそれから守らんとする。

 二つの勢力に別れた神々はその力をぶつけ合い、それが天変地異を引き起こした。

 津波は台風に粉砕され、地震は雷に打ち据えられ、大火災を大雪がねじ伏せる。

 神と神はぶつかり合い―――"国津神は天津神に負けた"という神話をなぞってしまうがために、地の神は約束された敗北へと向かっていく。

 

 人は死に。

 人の世界は崩壊し。

 敗北していった地の神々は、次第に一箇所に集まっていく。

 成立するは神々の樹。

 敗北者となった神々は一箇所に集まり、そこに希望の樹を立てようとしていた。

 

 だが、光の巨人は。

 怪物の襲来と同時に目覚めることができたはずの、唯一無二の光の巨人ティガは、変身者の心の闇の影響で闇の側へと反転してしまっていた。

 人を守るのではなく、人を殺すために目覚めてしまっていた。

 闇の巨人として目覚めてしまった。

 

 だから何も守られない。

 行われるのは、破壊と蹂躙のみ。

 

 憎悪で動く『ティガダーク』は、とても強かった。

 

 ―――とても、美しかった。

 

 黒い気持ちで人を殺し、怪獣を殺し、街を壊し。

 大切なものを守るのではなく、憎いものを壊すために全力を尽くす黒き巨人。

 美しき悪夢。それを見上げる人々の心には、恐怖と絶望しか生まれない。

 

 

 

 

 

 怪物が黒き巨人に一掃されていく。

 それに巻き込まれ、街が壊れて、人々が潰されていく。

 瓦礫に潰された人が、絞り出すように声を出した。

 

「誰か……たすけて……」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()人間が、助けを求める。

 

 けれどそういった人間を助けようとする竜胆は居ない。巨人はいても竜胆は居ない。

 

 何の罪も無い人間を傷付ける闇の巨人だけが、暴れている。

 

「あのあくまを……たおして……」

 

 人々の祈りが集まっていく。

 人々の願いが流れていく。

 皆、頑張っていた。

 闇の巨人という悪から逃げ、時折現れる怪物や天変地異から逃げ、全力を尽くし生き延びようとしていたがもうどうにもならない。

 人の力の限界だ。

 

「たすけて……」

 

 ティガダークが殺したのはたかだか数百人だ。

 数百人しか殺していないし、既に数百人も殺してしまっている。

 今現在、高知は白色の『星屑』という天の神由来の怪物と、それに混ざる少数の『シビトゾイガー』なる怪物に襲われている。

 推定になるが、ティガダークが居なかった場合、高知で星屑とシビトゾイガーが殺した人間の数は十万人を余裕で超えていただろう。

 

 そういう意味では、たかだか数百人しか死んでいない。

 これは奇跡だ。

 巨人が怪物を一掃してくれたことで、多くの人が生き延びられたということだ。

 ティガダークは結果的に、多くの人間を怪物から守ったということになる。

 数字だけ見れば、数百人の犠牲なんて安いものだったと言えるだろう。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「だれか……たすけてよ……」

 

 皆が願った。

 皆が祈った。

 平和な世界の再来を。あの黒い巨人の死を。助けてくれる『勇者』を。

 

 だから、神は応えた。

 だから、千景は神に呼ばれた。

 

「何……呼ばれてる……?」

 

 千景は竜胆が巨人になったところも見た。

 自分を助けるために、いじめっ子を殺すところも見た。

 憎悪に呑まれた竜胆が、"彼らしくもない"行動を起こして、恐ろしい破壊をもたらしているのも見た。

 だから、彼を止めなければ、と思ったのだ。

 竜胆の虐殺は千景視点、()()()()()だったのだから。

 

 だが、走る千景は黒い巨人とは別の方向に向かう。

 自分が何故その方向に向かって走っているのかすら、千景には分かっていない。

 分かっているのはただ一つ。

 自分の体が、心が、魂が、そこに呼ばれているということだけだ。

 

「社……? ここに神社があることだけは、知ってたけど……」

 

 千景が来た瞬間、社が自ら壊れることを選んだかのように崩壊する。

 誰も手入れをしていなかった寂れた社は、綺麗に全壊する。

 そして、その中で奇妙な存在感を放つ錆びた刃があった。

 

「こんな所に……錆びた、刃?」

 

 それは、柄すらも付いていない、錆びついた鎌の刃だった。

 

 千景はその刃に共感を覚える。

 誰にも手入れされていなかった、ボロボロの社。

 そこから現れた、誰にも手入れされることなく、誰にも祀られることなく、誰にも見向きもされない、忘れられた鎌の刃。

 

(私と同じだ)

 

 誰からも見向きもされない。

 誰からも好きになってもらえない。

 誰からも愛してもらえない。

 放置され、忘れられ、誰からも好きになってもらえなくなった神の刃が、千景にはどうしようもなく自分に重なって見えた。

 放置された社の忘れられた神の刃。

 

 それは―――人間に見捨てられた神であり、同時に人を見捨てなかった神の刃であった。

 

 

 

 

 

 その刃の名は、大葉刈(おおはかり)。またの名を神度剣(かむどのつるぎ)

 

 日本の神話に登場する阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこねのかみ)の持つ刃だ。

 阿遅鉏高日子根は農耕神であり、また雷神でもある。

 「稲妻が大地に落ちて大地に実りを孕ませる」という雷の解釈を持つ日本において、農耕神と雷神とは近しいものがある。

 阿遅鉏高日子根は国津神の王・大国主の息子が一人。

 ゆえに、この刃にはその神の加護があった。

 

 伝承においてはただの剣としか言いようがないものだが、千景が手にした錆だらけの刃は、死神が持たされるような大鎌だった。

 が、それも不思議な話ではない。

 阿遅鉏高日子根は農業神で、鎌は農業用具だ。

 現代においても死神の大鎌は、農業神の持つ大鎌をルーツに持つという有力な説があり、この神に由来する刃が鎌であることは決しておかしいことではない。

 

 だからこそ。

 彼女の手にしたそれは、神の刃であると同時に、死神の鎌であると考えて差し支えないもの。

 

 

 

 

 

 大地から力を吸い上げるようにして、千景の手にした鎌が修復される。

 渋い色合いの大鎌が千景の手に握られて、千景の肉体が神の力で変質し、人間とは思えないレベルの身体能力をそこに備える。

 千景は風のように飛び上がった。

 

 巨人が千景を叩き落として潰そうとし、千景の顔を見て、その手を止める。

 千景は泣きたくなった。

 人間を見れば反射的に叩き潰そうとする、竜胆の今の在り方に。

 千景を見て手を止める、変わらぬ彼の在り方に。

 とても、泣きそうになった。

 変わった彼に、変わっていない彼に、少女は泣いた。

 "こうしてしまったのは私なんだ"と思うと、流れ落ちる涙が増した。

 

 千景はこぼれ落ちる涙には目もくれず、泣きながらに鎌を握る。

 彼を止めるために。彼の罪をこれ以上増やさせないために。彼の闇の暴走を打ち倒すために。

 横一閃に、鎌を振るった。

 

 千景に喉を深々と切り裂かれた竜胆の巨体が、ゆったりと倒れていき、山に落ちる。

 

 千景の手に嫌な手応えが残る。

 それは、友の喉の肉を切り裂いた手応えであり、一生残る後悔の手応えだった。

 涙がまた溢れて落ちる。

 途方も無い罪悪感が千景の中に生まれる。

 同時に、意識的にそこを切ったわけではないとはいえ、喉を切ったことにほっとする。

 "大事な友達"に恨み言の一言でも言われたら、きっと立っていることすらできなくなると、千景は自分の弱さを認識していたから。

 

 喉を切ったところで、巨人の声が止まるはずもないのに。

 

『―――ちー、ちゃん』

 

 憎悪と憤怒が混じっていたせいで、まともな言語として外部に出力されていなかったテレパシーが、ようやくまともな言語として発信された。

 喉を切られてようやく、思考に混ざる雑念が消える。

 

「ッ」

 

 千景が息を呑み、責められる言葉を予想して身構え、されど竜胆は千景を責めることなく。

 

『―――けが、してない?』

 

「―――」

 

 竜胆は朧気な意識の中、千景を心配する言葉を呟いた。

 巨人の体が消えていく。

 巨人が少年に戻っていく。

 そして、巨人が消えたその場所に、ザックリと喉を切り裂かれ、そこから大量の血を流す少年の無残な姿が残された。

 

 軽傷ではない。

 喉の傷は深く、そこからとめどなく血が流れ出している。

 致命傷ではない。

 すぐに手当てをすれば、まだ助かる。

 

「竜胆く―――」

 

 竜胆の名を呼びかけた千景の声が、村と街から上がった皆の歓声の大合唱により、影も形も残らぬほどにかき消された。

 

 "悪の巨人を倒した勇者"である千景を見上げ、皆が歓声を上げる。

 ティガダークは悪逆の者で。

 それを止めた少女は勇者で。

 だからこそ、"これ"は勇者が悪を倒して人々を守った、英雄譚の一幕のようだった。

 正義が悪を倒した一シーンのようですらあった。

 

 ティガダークにも怪物にも殺されなかった、千景と竜胆を苦しめていた村の人々が、そして街の人々が、巨人を倒した小さな少女を称え続ける。

 とめどなく、称賛を続ける。

 それは、奇跡を起こした勇者(きょうしゃ)に対する当然の反応。

 

 千景はその声に、自分のたった一人の味方で居てくれた少年の喉を切り裂いた罪悪感と、皆に虐げられるだけだった自分が皆に褒め称えられている恍惚の入り混じった、歪んだ笑みを浮かべた。

 

(私の存在が、価値が、認められている。……これは、現実なんだろうか。夢?)

 

 千景をずっと笑っていた商店街の大人達が。

 千景をずっといじめていた子供達が。

 千景を路傍の石、その辺に転がっているゴミ程度にしか扱っていなかった人達が。

 今までずっと千景が欲しかった『皆の肯定』をくれる。

 歪みと傷だけを絶え間なく与えられてきた千景が、ずっと欲しかった世界をくれる。

 

 少女は"これ"が欲しかった。

 "全ての人達が自分を否定しに来ない世界"が欲しかった。

 "ほんの少しでも皆が自分の価値を認めてくれる場所"が欲しかった。

 これだけが、欲しかったのだ。

 それは普通の人間が当たり前のように持っているもので、千景にはずっと与えられなかったものだったから。

 

(皆媚びるように見上げて。

 無神経に見上げて崇めて。

 私に……皆が感謝している……)

 

 生まれた時に祝福され。

 後に呪われ、疎まれ、そこに生きていることすら否定され。

 千景は今こうしてまた、祝福された。

 ()()()()()()()()()()()()()()、ようやく祝福された。

 

(私が皆を救ったから……? 皆が私に救われたから……)

 

 千景の心が、こんなことにすら喜びを感じ、千景の中の良心が、喜びを感じる己に自己嫌悪と罪悪感の刃を突き刺していく。

 やがて、千景に向けて歓声を挙げる群衆の中に、千景の父も混じった。

 父が千景を褒める。

 父は誇りに思ってるだとか、愛してるだとか、そういう意味合いの発言もしていた。

 そして群衆の中で千景の父であると名乗り始め、自分に対する村八分の緩和を狙い、称賛の分け前を貰おうとするなど、浅ましい行動を取り始めていた。

 

 父の浅ましさが、千景の中の負の感情を呼び覚ます。

 

(私を……私を攻撃していたのはこの人達で、私を守ってくれていたのは彼だったのに)

 

 手の中の、竜胆の肉の感触が、千景の心を闇の中へと沈めていく。

 

(彼を切って……この人達を守って……それで喜んでいる私は……何……?)

 

 誰が間違えたのだろう。

 村か。

 千景か。

 竜胆か。

 踏み躙られる小学生でしかない千景には、まるで分からなかった。

 

 

 

 

 

 御守竜胆と郡千景は、運命と出会った。

 

 良い意味でも、悪い意味でも。

 

 これは、罪と闇から始まる物語。

 罪の無い人々を、意図せず憎悪の攻撃に巻き込んだ罪は許されない。

 罪の無い子供を、意図して拳で潰した罪は許されない。

 罪の無い市民を、暴走で虐殺した罪は許されない。

 闇の力に支配されていたから仕方ない、なんて許しの言葉で竜胆は自分を許せない。

 彼が自分を許すことはない。

 永遠に。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 竜胆が掲げた信念の言葉だ。

 この言葉は正しい。

 至極正しい。

 この言葉を否定する正論など、でっち上げることも難しいだろう。

 だから、竜胆の正しい言葉が竜胆自身に突き刺さる。

 

 御守竜胆は自分自身を決して許さない。

 

 

 

 

 

 これは、自分を許せない少年と、少年を許す権利を持たない少女の物語。

 

 

 




 これは独り言なんですが、乃木若葉世代の死者に生まれ変わり匂わせて、結城友奈世代で生まれ変わりっぽいキャラが出てるの何か好きなんですよね。
 当作はキャラの個人設定とキャラの関係性は大雑把に時拳時花の前史に沿いますが、それ以外はアナザーエンドに向かって進んで行きます。ほぼ別物の独自√です。
 ソシャゲで勇者の皆が海水浴に心躍らせる中、一人だけ『体に傷があるから』って水着を嫌がったりする千景ちゃんのクソ鬱感……漫画見るに耳の傷は何年経っても普通に消えてないようです。


【原典とか混じえた解説】

●ティガダーク
 光の戦士ウルトラマンティガが闇に堕ちた姿。
 原作のティガダークは、人の心の闇によって黒に染まってしまった光の巨人。
 人と世界を守る光の巨人に戻る前のティガは、残酷な闇の巨人であった。
 このティガはその時のティガの姿。
 何も守らない闇の戦士であるがために、『ウルトラマンではない』。
 黒と銀のみの体色が、闇に染まった現在のティガの性質を表している。
 闇の単色の力のみを持つため、その力は変身者の心の闇に比例する。
 逆に変身者の心の光で弱くなる特性も持ち、竜胆の場合身体強度がまず低下する。

 御守竜胆は超古代の戦士ティガの力を継承し、己が心の属性に従い闇の巨人となった。
 力の継承でティガに変身できるのは、超古代戦士の子孫としてその遺伝子を受け継いだ者のみ。
 超古代戦士の子孫には勇敢さや高い判断力、超人的な集中力が備わっていることも多い。
 竜胆もこの例に漏れず、優秀である。
 そして巨人の闇の力が、その能力の全てを破壊と殺戮という方向性に向けていく。
 活動限界は平均的なウルトラマンと同じ三分間。

※前作既読者向け補足
 『時に拳を、時には花を』に繋がる世界線では、御守竜胆が闇の巨人になることはない。

●シビトゾイガー
 『真の闇』から生まれる怪物。
 当作においては地球のある海上を通過して異質変化した『星屑』。
 体長は2mと少しだが、武装した兵士程度では敵わない強さと、信じられない数の群れによってとてつもない脅威となる。
 そして何より、捕食した人間を模倣して化ける能力を持つ。
 "村で多くの人間が突然シビトゾイガーになった"というのは、つまり……



●天の神
 地の神(ガイア)と対になる天の神。
 別宇宙においては『根源的破滅招来体』と呼ばれる複合神性。
 根源的破滅招来体、という呼び方も別宇宙の別地球の人間が付けた呼称のため、この宇宙ではそう呼ばれない。
 天神・地神が天津神・国津神に対応するため、この場合は土着の神性である国津神(神樹の神等)、天上からの侵略者である天津神(宇宙から来た根源的破滅招来体)、天の神以外の宇宙からの来訪者たる別天津神(一部ウルトラマン)に区分される。

 使役する天使(かいじゅう)は星屑を媒体に多次元宇宙の概念記憶から再現した、神通力による模倣体と、『本物』を引っ張って来た存在の2パターン。

●余計極まる余談
 ウルトラマンティガの現実での放映が1996年。ダイナが1997年。
 ティガ・ダイナの原作時代設定は"放映当時の現実から見た"近未来設定。
 ティガが2007~10年の近未来、ダイナが2017~20年の近未来という設定であった。
 この作品の現在時系列は2015年7月30日。
 『乃木若葉は勇者である』本編開始が2018年。
 プラネタリウムウルトラマン『ウルトラマンティガ 光の子供たちへ』は、()()()()に宇宙を汚した人類が、その傲慢で神の如き宇宙の意志の怒りを買い、攻撃されるという物語。
 三百年前まで時間遡行したティガが人間と一体化し、2019年に宇宙の意志の手先と戦う物語。

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