夏空の下、ウルトラマンは、友をいじめた子供達を虐殺した   作:ルシエド

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姫百合 -インヘリタンス-

 ガラス越しに、医者が手を尽くしている二人の仲間の姿を、若葉は見つめていた。

 友奈と竜胆。

 二人はあの戦いから丸一日経っても目を覚ましていない。

 若葉達も深刻なダメージを受けていたが、医者の治療と本人達の回復力もあって、一日経てば歩く程度のことはできるようになっていた。

 

 そして、歩けるようになった若葉達は、何よりも先んじて、友奈と竜胆を心配してこの病院のこの場所へと足を運んでいた。

 ゆえに、打ち合わせをしたわけでもないのに、皆がこの場所に揃っていた。

 

「……」

 

 友奈が最後に使った精霊・酒呑童子。

 それは健全な状態の友奈が使っても、肉体が弾ける危険性を伴うものだった。

 あの戦闘終盤、精霊抜きでも戦えない状態だった友奈が、使っていいものではなかったのだ。

 肉体の負荷は絶大。

 友奈は竜胆を止めるのと引き換えに、戦いでボロボロになった体の外側だけでなく、体の中身までボロボロになってしまっていた。

 これが完治するまでに、どのくらいの時間がかかるのだろうか。

 いや、そもそも、友奈は目覚めることができるのだろうか。

 

 竜胆に至っては、医学的にもはや意味が分からない状態にあった。

 まるで全身を念入りに破壊しようとしたかのように――誰かがそうしようとしたわけでもないのに――、破壊されていない場所が見当たらない。

 肉体は黒い針で継ぎ合わされ、高速再生で肉体を改変しながら人の形に戻していく。

 これを再生と呼んでいいものか。

 これを回復と呼んでいいものか。

 元の形と違う人体に再構築されるのであれば、それは再生とも回復とも言い難い。

 

 友奈は、深すぎる傷が一向に治らず、起きる気配も無いために。

 竜胆は、深すぎる傷が急速に治って、人間とは思えない回復過程を見せているために。

 皆の心を不安にさせる。

 『正反対の異常』が、仲間達を不安にさせていた。

 

「死ぬなよ……友奈……竜胆……」

 

 若葉が『死』と口にした瞬間、杏が身を震わせた。

 杏は戦いが終わってから、仲間と一言も言葉を交わしていない。

 憔悴した顔を見るに、おそらく一睡もしていないだろう。

 球子の死で心のどこかが壊れたのか、と思わされるような異様な様子。

 だが、友奈と竜胆を心配してここに来ているところを見るに、球子の死のショックが大きすぎるというだけで、彼女の優しい心は失われていないように見えた。

 

 若葉の言葉に、杏は死の恐怖を思い出した。

 そして千景は、憎悪を思い出す。

 

「……死ぬなよ? よく言えたものね。彼を切ったのはあなたでもあるのよ、乃木さん」

 

「……っ」

 

「よりにもよって……あの時の私と同じ形で……!」

 

 あの時の自分と同じようなことをして、ティガダークを倒した若葉は、千景からすればトラウマを掘り起こす悪夢そのものだった。

 眠ったままの竜胆の首には、厳重に包帯が巻かれている。

 

 千景があの日刻んだ傷は、竜胆の首にまだ残っていた。

 今日若葉が刻んだ傷も、きっと消えずに残るだろう。

 神の刃が刻んだ傷は、妙に治りが遅い。

 まるで、神話の中で聖なる神の刃が、邪悪な魔物によく効くように。

 

 千景は若葉に悪意をぶつける。敵意をぶつける。罵倒する。

 だが若葉を罵る以上に、千景は自分を罵っていた。

 

「そんなあなたより、私は役立たずで……最悪で……

 竜胆君も……高嶋さんも……土居さんも……

 ううっ……えぐっ……ぐっ……

 何もできなくて……何も守れなくて……見ていることしかできなかった……!」

 

 千景は喋るたびに涙声になり、病院に悲痛な声が響く。

 杏は涙をこぼして耳を塞いだ。

 若葉は千景の罵倒をそのまま受け入れ、自分を責める。

 

「……すまない。私は……あんな方法で、あいつを止めるべきではなかったのかも―――」

 

 そんな若葉に千景が掴みかかり、その襟を掴む。

 千景は若葉を責めながらも、若葉が自分を責めるやいなや、その言葉を否定しにかかる。

 支離滅裂と、情緒不安定を重ねたような心の動きだ。

 だがこれもまた、千景の心であることは確か。

 

「黙って……それ以上喋ったら……私はあなたを許せないかもしれない……!」

 

「千景……」

 

「あなたしか止められなかったのよ……!

 あなただから止められたのよ……! 私と違ってっ……!」

 

 千景は若葉の襟を掴んだまま、泣き崩れた。

 

 竜胆の首を切ったことを責める気持ちもある。

 彼を止められた若葉を羨み、妬む気持ちもある。

 彼を止めてくれた若葉に感謝する気持ちもある。

 何もできなかった自分を責める気持ちもある。

 千景の心はぐちゃぐちゃだ。

 何故か、湧き上がる感情を制御しきれていない。

 成長した千景だからこそ、ここまで自制ができているのであって、以前までの千景であれば、ここで大問題を起こしていてもおかしくはなかった。

 

 ケンが割って入り、若葉と千景を引き剥がし、二人をなだめた。

 

「ケンカハ、ヤメナサイ。ジブンヲセメルノモ、ヤメナサイ」

 

「……ケン」

 

「ダレモ、ワルクナイ」

 

「っ」

 

「ワルイノハ、ワルモノダケダ」

 

 言葉を重ね、また重ね、ケンは若葉と千景をなだめて落ち着かせ、杏にも声をかけて穏やかな心持ちにさせていく。

 

 ケンは口には出さず、心の中でボブに謝った。

 ボブが守ろうとしたものを自分が守れなかったことを、謝罪した。

 その上で……後悔に引きずられず、子供達を守る決意を更に強めていた。

 彼は光の者である。

 

 ケンは、球子の死に涙しそうになる自分を抑え込んだ。

 まだ泣けない。

 まだ弱みは見せられない。

 守れなかった子供のために"泣く"のではなく、まだ生きている子供達を『強い自分』で守っていくために、"泣かない"という選択をケンは選んだ。

 死に纏わる感情を飲み下すことに慣れているのが、彼が大人である証であった。

 

 問題は、そのケンですら、満身創痍であるということ。

 バーテックス、ゼット、ティガとの連戦により多くの攻撃を受けたことにより、ケンも全身の骨と肉が洒落にならないことになっている。

 精霊の負荷で肉体的にも精神的にも摩耗している勇者達と、どちらが危険域だろうか。

 少なくとも、肉体的には、勇者達より遥かに危険な状態ではあった。

 

 巨人変身者でなければ、そもそもベッドから起きてはならない怪我度合いである。

 

「イマハ、ヤスモウ。ミンナ、キュウソクガ、ヒツヨウダ」

 

「……ケン」

 

 ひなたは、皆の会話に加わろうとして、加われずにいた。

 彼女は戦う者ではない。

 "その場に居た者"としての会話に加わるのは、どうしても気が引けてしまう。

 ましてや死者が出た後であり。

 皆が、仲間の死を見た後だ。

 ひなた自身、球子と仲が良かったのもあって、球子の死に悲しむ皆の気持ちに過剰に共感してしまい、皆に対して踏み込めずにいた。

 

 泣きそうな皆の顔を見るだけで、ひなたはつられて泣きそうになってしまう。

 球子を想って涙を流しそうになってしまう。

 だけど、こらえる。

 そこで踏み留まれるからこそ、彼女は皆の精神的支柱の一つになれる者なのだ。

 

 ひなたは悲しみをぐっとこらえて、他の人の悲しみを癒やすべく言葉をかける。

 

「若葉ちゃんも、自分を責めないでください」

 

「……あいつの願いを聞く形でなら、あいつを切っても、罪悪感は少ないと思った」

 

「え?」

 

「そんなことはなかった。

 あいつは、切られた時に私に礼まで言っていたのに……

 私はあいつを切って止めたことを、今、心底後悔している」

 

 だが、今の勇者達の精神状態は、ひなたの予想以上に崖っぷちだった。

 ひなたの言葉が一番届きやすい若葉ですら、ひなたが救いきれないほどに。

 

「でも若葉ちゃん、お医者様が褒めていたじゃないですか。

 変身が解けるギリギリの加減だったって。

 致命傷にならず、変身は解ける、最高の力加減で切られていたって。

 お医者様がそう褒めてくれたということは、若葉ちゃんは最大限の努力を……」

 

「分からないんだ」

 

「え?」

 

「あの時の私が、どういう気持ちであいつを切りつけたのか、思い出せないんだ。

 頭にモヤがかかったようで……あの時の自分を思い出せない。

 咄嗟のことで、我武者羅に動いていたからかもしれない。

 分からないんだ、私には。

 あの時の私は、手加減して切ろうとした結果、手違いで深く切りすぎたのか……

 あの時の私は、殺して止めてやろうとして、手元が狂って浅く切りすぎたのか……」

 

「わ……若葉ちゃん……?」

 

「あの時の私はギリギリだった。

 狙って、そんな絶妙な力加減で切れるわけがない。

 ……手元が狂っていたんだ。あの時の私は。

 竜胆が生きているのは偶然だ。私の斬撃であいつの変身が解除されたのも、偶然だ」

 

「若葉ちゃん? 若葉ちゃん? 私の声、聞こえてますか?」

 

「全て、運だった……

 運が悪ければ、私はあいつとの約束を守れず……!

 いや、運が悪ければ、私はそのつもりもないまま、あいつを殺すということにも……!」

 

「若葉ちゃん!」

 

 竜胆とあの約束をした時点で、若葉は竜胆を殺そうと殺すまいと後悔を抱く運命にあり、竜胆を切ることで竜胆を救う運命にあった。

 その結果が、これだ。

 

 ひなたが若葉を抱きしめる。

 それ以上何も言わせないように、これ以上何も考えさせないように。

 若葉が震える手で、ひなたを抱きしめ返した。

 若葉の顔がひなたの胸に埋まり、その表情が全て隠される。

 隠された彼女の顔に浮かぶのは、悲嘆か絶望か。

 

 肉体的にも、精神的にも、皆が限界であることを、ひなたは感じ取っていた。

 

(もう限界です、神樹様、これ以上はありませんっ……)

 

 ひなたは、ふと思う。

 皆はこうも不安定だっただろうか。こんなにも弱かっただろうか。

 大切な仲間であり、親しい友達であり、分かりあった同年代の女の子が死んだのだ。

 こうなっても何ら不思議ではない。

 ……だが、ひなたは仲間の皆をよく理解しているがために、違和感を抱く。

 こうまで"らしくない"状態になるだろうか、と。

 

 竜胆がひなたを通して大社に調査を頼んでいた、精霊を多用する勇者の内に巣食う闇の話が、ひなたの記憶より蘇る。

 

 そして、その時。

 神樹がひなたに、神託を降した。

 若葉を抱きしめたままのひなたが、トランス状態に移行する。

 神樹の神託は曖昧であることも多い。

 こうして突然降ってくることもある。

 神託は一瞬にて終了した。

 あまりにも簡潔で短い、多少抽象的でも間違って伝わることはありえない、そんな神託。

 

 その信託が、ひなたの表情を青ざめさせる。

 

(『次の敵の襲撃は三日後』……み、三日後!?)

 

 早すぎる。

 竜胆以外は絶対に復帰が間に合わない。

 勇者達とパワードが戦線に復帰するには、どう考えても一ヶ月は必要だ。

 それだけのダメージを、全員が負ってしまっている。

 友奈のような重傷患者を除外し、若葉や千景などの比較的怪我が軽い者の復帰を待つとしても、それでも二週間は欲しい。

 三日後では、絶対に間に合わない。

 

 若葉を抱きしめたまま、ひなたは心折れそうな絶望の圧力を、その心で感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 竜胆は当然のように、友奈より早く目覚めた。

 戦闘終了から二日後、そして次の戦いまであと二日、そんなタイミングであった。

 傷は当たり前のように完治している。

 ……元とは違う中身の肉体になっていることを、完治と言っていいのなら、だが。

 

 目覚めた竜胆が何を思ったか、何を言ったか、何をしたかは定かではない。

 だが、衝動的な自傷をしたことだけは確かだ。

 ベッドのシーツに、多量の血液痕が残っている。

 目覚めた彼は、球子が居ない現実に、どういう向き合い方をしたのだろうか。

 いや、そもそも。

 彼はこの現実に、ちゃんと向き合えたのだろうか。

 

 その時病院に居た大社関係者は、まだ起きてもいない友奈を除けば、ひなただけだった。

 大社の要請を受けてひなたが、起きた竜胆への対応に向かう。

 

(彼は大丈夫でしょうか……

 ……いや、大丈夫じゃないということは、前提として考えておくべきなのか……)

 

 大丈夫じゃない、ということはまず大前提だ。

 自分自身への攻撃ならいくらでも耐えられるが、仲間や友への攻撃に耐えられない竜胆の精神性を、ひなたはよく分かっている。

 

(あの人は……球子さんほどには仲の良くない私が死んでも、きっと泣く人だから)

 

 せめて心が壊れる前に、とひなたは思わずにはいられない。

 杏の様子は酷いものだった。

 声を上げていなかったがために、若葉や千景ほど狂乱の度合いが目立っていなかったが、まともな会話が成立していないあの状態が、おそらく一番に酷い。

 杏を頭の中で比較に置いてみても、竜胆がどれほど酷いことになっているのか、ひなたにはまるで想像がつかなかった。

 

 ひなたは最悪の想像をして、竜胆のいる病室に入る。

 竜胆は平然とした顔で微笑んでいた。

 彼女が予想していた最悪以上の最悪が、そこにはあった。

 

「ああ、ひーちゃんか。おはよう」

 

 表情を作っている。

 感情を抑え込んでいる。

 "吹き出させてはいけない激情"に、必死に蓋をしているのが、ひなたにはよく分かった。

 平然という名の痛々しさ。

 

 竜胆を見て、ひなたは瓶の中の火薬をイメージした。

 感情が火薬。

 心が瓶。

 閉じ切った瓶の中で、火薬が爆発している。

 感情を外に逃していないから、ただひたすらに内から(こころ)に負荷がかかっている。

 瓶はいつか、必ず割れる。

 

 球子が死に竜胆がどれだけ悲しむかを明確に想像できるひなただからこそ、今の竜胆の様子を直接目にしているひなただからこそ、彼の状態がどうであるかを正確に把握することができた。

 今の余裕が無い勇者達では、竜胆の内心を、どれだけ把握できるかも分からない。

 

「ああ、またやっちまったな。敵が強かったとはいえ」

 

「御守さん……?」

 

「まず皆に謝りに行かないとな……また暴走で迷惑をかけた。また皆に助けられちまった」

 

 謝るのはいい。

 謝るのはいいのだ。

 そこは律儀で真面目な竜胆らしい。

 

 だが、そうではない。最初に言うべき台詞は、そうではないのだ。

 球子の死から今に繋がる流れがあり、その上でそうして話に入るのは、おかしい。

 "いつも通りの自分"を演じるという行為が、痛々しいほどに浮いている。

 

「……あの、御守さん」

 

「ひーちゃんは大丈夫か?」

 

「え?」

 

「タマちゃんとは仲良かったろ。結構一緒にご飯食べてたし」

 

「―――」

 

「ちゃんと泣いたか?

 まだ全然時間も経ってないんだ。

 無理して振る舞わなくてもいいんだぞ。悲しむことは悪じゃない」

 

 少年はひなたを気遣う。

 少年はひなたの心の痛みを想う。

 少年はひなたに優しさを向ける。

 球子の死で傷付いていたひなたの心が、一瞬グラついた。

 一瞬、彼に甘えて、涙を見せそうになってしまった。

 

 だが、こらえる。

 踏み留まる。

 ひなたがここで弱さを見せても、彼はそれを受け入れ、許すだろう。

 その涙を受け入れるだろう。

 ひなたを優しく慰めるだろう。

 だが、そんな選択を、上里ひなたは選べない。

 

 ()()()()()()()()()()()()()には、寄りかかれない。

 

「若葉ちゃんなら、こういう時には、私には甘えるんですけどね……」

 

「ん? どうした?」

 

「御守さん。私はそんなに、弱く見えますか?」

 

 似たところが見えた次は違うところも見えてくる。

 若葉のような『正しい方向性の心の強さ』が足りていない竜胆に、ひなたは直球でストレートな言葉を投げた。

 

「心に湧き上がる気持ちの全てを抑え込んで、気を使わないといけないように見えますか?」

 

「―――っ」

 

「私は大丈夫です。

 泣きました。悲しみました。

 今でも、彼女を想えば泣いてしまいそうです。

 でもあなたは……気遣う側ではなく、気遣われる側の人間のはずです」

 

 ひなたの言葉が竜胆に刺さる。

 今、本当にちゃんと球子の死に向き合えているのは、ひなたの方だ。

 竜胆のこれは、一見球子の死に向き合い仲間を気遣っているようで、その実球子の死の痛みから全力で逃避している。

 

 竜胆は、"友達が死んでしまったら皆はもっと素直に泣いていいはずだ"という、当たり前のことを求めた。

 その主張自体は間違っていない。

 だが、泣くべき人間が泣くのをこらえ、ひなたに優しくしようとするその思考が、ひなたの目には決定的に間違って見えた。

 

「確かに、気を遣われなくても大丈夫なのかもな。

 お前のハートは強く見えるよ。

 泣かないんじゃなく、泣いても必ず立ち上がれるって意味で。

 でも、ハートが強いなら誰にも励まされなくていい、ってことじゃないだろ」

 

 竜胆はそれでも主張を変えず、ひなたに優しくする。

 球子の死で傷付いたひなたの心の傷を見抜き、彼女に優しくする。

 ひなたの胸は痛んだ。

 優しさが痛い。

 優しさが辛い。

 優しさが苦しい。

 

 竜胆は今、心臓を雑巾絞りにするようにして、傷だらけの心から優しさを無理矢理に絞り出し、それをひなたに向けているのだ。

 

「お前が大丈夫だとしても……俺はお前を気遣う。ま、年上だからな」

 

 ひなたは、震えた声を出さないようにするので、精一杯だった。

 

「それなら、他人より先に、自分を大切にしてください」

 

「悪いな。自分に気を使ってる余裕が無いんだ」

 

「……あなたは」

 

「それに、悲しんでる仲間を放っておけるか。俺はお前の味方だ」

 

 ひなたはもう、気を張っていないと彼のことを見ていられない。

 辛くて、辛くて、辛くて仕方がなくなった竜胆が、精神のバランスを保つために"なんでもいいから何かしないと"という思考になり、それでしようとしたことが、『他人に優しくすること』だったのだ。

 真っ先に彼が思いついたことが、他人に優しくすることだったのだ。

 しからば、すなわちそれが、彼の本質であるということに他ならない。

 

 だが、忘れてはならない。

 心折れそうになっている人間が、懸命に優しさを絞り出し、他人に優しくしても。

 世界がその人に優しくなる、なんてことはない。

 運命は優しい人に優しくしてくれるわけではないのだ。

 

「俺は大丈夫だよ」

 

「それは、嘘です。大丈夫なわけがありません」

 

「嘘じゃない。大丈夫だ。ただ平気じゃないだけだ」

 

「平気でもないし、大丈夫でもないし、冷静でもないでしょう!?」

 

 内側で火薬(かんじょう)が爆発している(こころ)は、いつ砕けるのだろうか。

 

「落ち着いてるだろ、俺は」

 

「落ち着いているように見えるのは、話し方だけです……」

 

 ひなたがいくら言葉をぶつけても、自分の気持ちに向き合わせようとしても、暖簾に腕押し。

 竜胆の心の奥の気持ちが、全く漏れ出してくる気がしない。

 若葉は自罰という形で、千景は他責という形で、杏は涙という形で、人前で感情を外に出してはいたというのに。

 

「道理は通す。

 ひーちゃん達は何も悪いことはしていない。

 だから、その日常は守る。

 若ちゃん達も死なせない。必ず守る。

 そして、タマちゃんを殺した奴らは―――絶対に、一匹残らず、殺す。絶滅させる」

 

 たまに竜胆の言葉の端から漏れる感情があっても……そこには、憎悪と殺意しかなかった。

 

 ひなたと球子なら、竜胆は球子との方がずっと親しかった。

 すっと仲が良かった。ずっと大切に思っていた。

 だから、ひなたの言葉は竜胆に届かない。

 球子の死の悲しみという、分厚い壁を貫けない。

 

「それが全てだ。いつも通りだろ、俺は」

 

 それでも、ひなたは思わずにはいられない。

 

「……言葉選びが、全然御守さんらしくないです」

 

 こんな彼らしくない彼を見たら、土居球子は悲しむと。思わずには、いられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 竜胆は誰の付き添いもなく街を歩く許可を得ていない。

 タクシーで丸亀城近くまで移動し、ひなたの発案で竜胆は天恐発症者に偽装され、全身をローブのようなもので覆って、人目から隠して移動させられた。その手をひなたが引いていく。

 手錠や首輪は目立つので、天恐発症者に偽装して隠すのはそれなりに有効だ。

 だが、何故城近くまでしかタクシーで移動できなかったのか。

 

 それは人類の防衛拠点たる丸亀城近くで、デモが起こっていたからだ。

 

「御守竜胆を起用する愚行をやめろー!」

「あいつが来てから、死亡発表が一気に増えたぞ!」

「大社が隠してるだけで、あいつが殺したんだろう!」

「街が災害で壊れた!」

「ティガは何も更生していなかったんだ!」

「大社は誤采配を認めろ!」

「ティガダークを戦力に起用するという最大の愚行を犯したことを、隠蔽するな!」

「真実を公開しろ!」

「御守竜胆を追い出せー! 勇者とウルトラマンの邪魔をさせるなー!」

 

 丸亀城の周囲に市民が群がり、"自分達が信じる真実"を元に声を上げていた。

 

 大社は、普段情報操作で市民感情を制御している。

 だが、それにも限界はある。

 死人は隠しきれない。

 異常な災害は隠しきれない。

 情報操作で全てを隠すには限界があり、その限界はもうとっくに超えていた。

 

 ボブの死、球子の死が連続して発表され。

 神樹へのダメージによる事故や災害を、"バーテックスの攻撃によるもの"として発表した。

 

 結果、街にはかなりの騒ぎが起こる。

 人々が信じた勇者とウルトラマンの死。

 安全だと思っていた四国に発生する、神樹へのダメージによる災害と事故。

 ボブが死んだ時の戦いと、球子が死んだ時の戦い、どちらの戦いにおける樹海へのダメージでも災害と事故は発生しており、二つ共に怪我人だけでなく、死者すら発生してしまっていた。

 

 もはや、市民感情は爆発しなければ止まらない。

 そして、勇者と巨人の陣営には、分かりやすく"こいつのせいだ"と人々が思える者がいた。

 

「虐殺者に法の裁きを! 何故未成年というだけで未だ裁かれていないのか!」

「俺達の勇者とウルトラマンを返せー! お前が死ねばよかったんだ、ティガ!」

「頑張っている勇者とウルトラマンを、無理に殺人犯と共闘させるな!」

「これまで通りで良かったんだよ!」

「ガイア、アグル、ネクサスの戻って来れる場所を守れー!」

「御守竜胆を死刑に!」

「あいつが来てから……ううっ……立派に頑張ってたあの人達が次々と……ぐすっ……」

 

 現在、四国には不安が蔓延している。

 市民感情は最悪で、この先何かが起こればもっと最悪になっていくという予想があった。

 

 ある者は「もう世界は終わりだ」と自殺した。

 ある者は「どうせ全部終わりなんだから」と犯罪に走った。

 ある者は天恐の症状を悪化させ、発狂に至った。

 ある者は大社を責め、絶望的な状況に『この絶望の原因である悪者』を求めた。

 

 もう人類に逃げ場はない。

 この四国が最後の方舟だ。

 今の人々の気持ちを例えるなら、逃げ場のない虫かごに逃げ込んだ虫が、人間に遊び半分でつつき殺されているような、そんな気持ちだろう。

 明日に希望が持てず、今この瞬間にも殺されかねないという恐怖に怯えながら、何の力も持たない自分には何もできないことを知らしめられる。そんな日常。

 殺されることに抵抗すら叶わないという恐怖は、人の心を狂わせる。

 

 不安と恐怖から暴挙に走りがちな人々を、大社は必死に抑えていた。

 だが抑えきれるものではない。

 大社の構成員など所詮四桁人数かそこらのものであり、四百万人の四国の人達の『民意』を自由に制御することなど、まだ不可能なのだ。

 "ボブと球子は竜胆が殺した"という噂はネットや人の口を通して広がり、もはや民衆の中で語られざる真実として定着しかけている。

 大社にも、これを止めることはできなかった。

 

「グレートと土居を殺した竜胆を除名せよ! ヤツのせいだ!」

「日本はいつから法治国家ではなくなったのか! 何故大量殺人犯を野放しにするのか!」

「俺達の無敵のウルトラマンは、信じた勇者は、これまでずっと勝ってきたんだ!」

「どんな敵が来たって負けるわけないだろ!」

「ティガが後ろから撃ったんだ、絶対に!」

「ウルトラマンと勇者は……最後には、必ず勝つんだ!」

「大社は真実の隠蔽をするのをやめろー!」

「ティガが参戦してから不自然なほど死人が出始めた! 民衆は真実を見ているぞ!」

 

 現実に起こったことが真実になるのではない。

 人々の間でまことしやかに語られ、大多数が賛同した発言こそが真実になるのだ。

 

 人は、信じたいものを信じる。

 自分の願望に沿って信じたい真実を信じる、というのもあるが、それだけではない。

 人は"それっぽい真実"を信じたがるのだ。

 ティガダークの参戦と、それを皮切りに連続した死亡確定の発表が、人々に『御守竜胆/ティガダークが全て悪い』という"それっぽい真実"を信じさせた。

 

 それは、人々が竜胆の存在を忌避していた証明であり。

 人々がティガダークの存在を嫌悪していた証明であり。

 ウルトラマンを信じていた証明であり。

 勇者を信じていた証明だった。

 

 少なくとも今、丸亀城の周りに集まっている人間は、ウルトラマンと勇者を悪く言うだなんてことは一切しなかった。

 人々は、ウルトラマンと勇者を信じていた。

 人々は、彼らが必ず勝つと信じていた。

 人々は、ウルトラマンと勇者が生き残り、幸福になることを願っていた。

 戦いが終わり、平和になった世界の日常に、ウルトラマンと勇者が帰ることを祈っていた。

 

 彼らはウルトラマンに好感を持ち、勇者達を応援していた。

 戦いに臨む戦士達の無事を望んでいたのだ。

 ここの街の人間であるがために、ボブと何度も仲良く会話した者も、球子を友達のように思っていた者や娘のように思っていた者もいただろう。

 だからこそ、竜胆を憎んでいる。

 お前のせいだ、と。

 

 彼らはボブの死に本気で悲しみ、球子の死に本気で涙を流し、竜胆の死を本気で望んでいた。

 

「御守さん、裏から丸亀城に入りましょう」

 

「……」

 

「御守さん?」

 

 彼らは何も間違っていない。そうだよ、俺のせいなんだから。

 

 竜胆は人々の前に出て、フードをとって顔を出す。

 彼らを肯定したかった。

 彼らの意見を後押ししたかった。

 ()()()()()()()()()()()という思考が、球子の死からずっと歯車がズレている竜胆の頭の中で、ぐるぐると巡っていた。

 

「そうだよ」

 

「……! お前はっ!」

 

「ボブも、タマちゃんも、お前らが信じた通りの奴らだ。

 その信頼を疑うな。

 あの二人が死んでるのがおかしいんだ。

 俺のせいなんだよ。

 お前らの言う通り、死ぬはずじゃなかったあの二人が死んだのは、俺のせいだ」

 

 人々は『お前のせいだ』と言い、竜胆は『俺のせいだ』と言う。

 竜胆の想いと、皆の想いは一つになっている。

 そこにズレが生じることはない。

 

「あの二人は!

 最高のウルトラマンと、最高の勇者だった!

 最高の二人が死んだのは、俺のせいだ!

 お前らが信じたことは間違いじゃない! 信じた相手は間違ってない!

 お前達の信頼を、ボブもグレートも土居球子も、何一つとして裏切っちゃいないんだ!」

 

 竜胆のこの日の言葉が、ボブと球子の死後の名誉を、永遠に守った。

 

 二人に対する"街や人を守れなかった無能"という一部の声を、彼の言葉が駆逐するだろう。

 

「俺が、あの二人を殺した……!」

 

 その代償として―――人々の憎悪は、竜胆に向かった。

 人々が怒りに突き動かされ、竜胆を突き倒す。

 囲んで、皆が竜胆を蹴って、蹴って、蹴って、蹴り倒す。

 ボブや球子などに親しみを持ち、死んだ彼らに好意を持つ者達が、竜胆を蹴る。

 人々は勇者とウルトラマンに貰った勇気で邪悪なる少年に立ち向かい、今は亡き彼らへの想いを胸に、ボブと球子を殺したと言う少年を、烈火の怒りで攻撃していく。

 

「ふざけんなてめえぶっ殺してやる!」

「力があればオレ達が怯むとでも思ったかクソ野郎!」

「お前なんかよりもっと恐ろしいものに立ち向かってんだよ勇者達は!」

「それ知ってるオレ達がビビってられるか!」

「くたばれクソ野郎!」

「敵討ちだ!」

「あんな小さな子がお前のせいで……!」

「ボブはなあ、お前みたいなのよりずっと生き残るべき人だったんだよ!」

 

 ボブと球子の死を悲しみ、涙し、死んだ二人を想っている。

 リンチされている竜胆と、リンチされている人々の想いは一つで、心が一つだった。

 "心を一つにして皆で一緒に悪を叩く"。

 皆の行動は、本当にとても人間らしい。

 

 そんな中、ひなたは人の壁をかき分け、竜胆を助けようとしていた。

 

「どいて、どいてください!」

 

 竜胆に何を言われようが構わない。巻き込まれても構わない。

 『こんなもの』を、心優しいひなたが見過ごせるわけがなかった。

 以前竜胆が石を投げられた時は、何もするなと千景を止めたひなたが、今は竜胆を助けるため飛び込もうとしている。

 それは、竜胆とひなたの間に友情が育まれたことの証明であり。

 上里ひなたが、人々に攻撃される御守竜胆の心境を、理解できるようになったことの証明でもあった。

 

「御守さん……御守さんっ!」

 

 だが、ひなたに力はない。

 多少鍛えた女子にも負けるか弱い腕で、大人達が作る人の壁は崩せない。

 彼女は勇者ではないのだ。

 大人に勝る腕力など備えていない。

 彼女は巫女だから。

 人をその手で助ける力など、持ってはいないから。

 ひなたは途方もない無力感に苛まれながらも、手を伸ばし続けた。

 

 手を伸ばしたその先で、ゴミを漁っていて人に蹴り殺されるみじめな野良犬のように、ボロボロになった竜胆がなおも皆に蹴られている。

 

「誰か、誰か! 止めてください! もう……もうその人は十分、苦しんでるんです……!」

 

 ひなたの悲痛な叫びは、祈りは、どこにも届かない。

 全部、全部、ひなたは止めてほしかった。

 皆が竜胆を責めるのも、攻撃するのも。

 竜胆が自分を責めるのも、心の奥に気持ちを押し込めるのも。

 バーテックスの襲来も。

 全て止めてほしいという祈りがあれど、何一つとして止まることはなく。

 

 だが、救いの手を差し伸べるものは居た。

 

「上里様、こちらです」

 

「! あなたは……」

 

「大社の者です。早くこちらに」

 

 大社の人間が、こっそりとひなたを連れ離脱する。

 苦心しつつも上手いこと偽装して、竜胆も救出し、民衆に竜胆を見失わせた。

 今、丸亀城には、大社から派遣されたデモ対策の人間が十数人配置されている。

 その内の数人が、ひなたと竜胆をこっそりと丸亀城内部にまで運び込んだのだ。

 

「よし、なんとか逃げ切れたか……上里様、御守様、大丈夫ですか」

 

「え、ええ、はい……」

 

 ほっとするひなたの横で、地面に座り込んだ竜胆に、かがんだ大社の人間が語りかける。

 

「軽率な行動は控えてくれ、ティガ。君は俺達の希望の一人なんだ」

 

 "希望"という言葉に、竜胆がピクリと反応した。

 皆に蹴られたことで、竜胆の目には土が入っていた。

 涙を流さないように懸命に心がけていた竜胆の瞳が、土が入ってしまったことで、生理的反応で小さな涙を流す。

 涙をこらえて、こらえて、一滴も涙を見せなかった竜胆の目から、一筋の涙が落ちる。

 

「違う!」

 

 涙を流す右目と、涙を決して流さないようにしている左目が、今の竜胆の心の中身を現しているようで、あまりにも痛々しかった。

 呻くように、竜胆は否定の言葉を絞り出す。

 

「本当の希望は……生きてる俺じゃなくて……死んだあの二人が……あの二人に……!」

 

 大社の男は、竜胆の状態を察したようで、それ以上の言葉を紡ぎはしなかった。

 部下をまとめて、丸亀城の周囲の対処に戻る。

 

蛭川(ひるかわ)主任、なんとか人は散らせました」

 

「よし、(ばん)チーフ、本部に戻るぞ。

 たっく、代休取った日だってのに働き者だな、俺達は」

 

 そうして、大社の人間が帰った後に、竜胆とひなたが残される。

 寄宿舎の方から、騒ぎを聞きつけた千景が走って来ている。

 ひなたは竜胆に駆け寄り、彼の全身の傷を痛ましそうに見回した。

 

「ああ、こんな、こんなに怪我を……」

 

 今日丸亀城の周囲に集まった者達は、あの二人の死が竜胆のせいだという"噂"を流すだろう。

 それがなければあの二人は生きていたはず、という"噂"も流れるだろう。

 "あの二人が弱かったから死んだ"という噂は次第に弱まり、二人の名誉は守られるだろう。

 

 たとえ、地獄の底に落ちようとも。

 たとえ、二人が死んだ後だとしても。

 御守竜胆は、ボブと球子の二人を守る。名誉でさえも絶対に守る。

 

「あの二人は希望で……

 俺にとっての光だったんだ……

 ボブも……タマちゃんも……

 俺に……光を見せてくれたんだっ……!」

 

「……分かってます。分かっていますから」

 

 見ているひなたの心の方が削れてしまいそうな、そんな生き方だった。

 

 

 

 

 

 千景もまた、竜胆への接し方の正解を見つけられていなかった。

 とりあえず救急箱を持ってきて、ひなたに竜胆の手当てを任せる。

 ……そして、二人に話を聞いて気になって、端末で匿名掲示板を閲覧しに行った。

 まさか、と千景は思っていた。

 皆称賛してくれているはず、と千景は考えていた。

 だって私達は皆のために命をかけて戦って……と、祈るように、千景はページを開く。

 

 そこに並んでいたのは、匿名掲示板という場所で顔を隠して、"醜悪な普通の人間らしさ"を晒している人々の書き込みだった。

 

『負けて死ぬとかほんとつっかえねえ』

 

『あの災害ってバーテックスのせいなんだっけか。ちゃんと防げよな』

 

『あれで何人怪我人が出たんだか……勇者もウルトラマンも怠慢しすぎじゃね?』

 

『大社がちゃんと見張ってないからだろ。仕事してないんじゃないかな』

 

『御守竜胆とかいう誰にも生存が喜ばれてない畜生wwwwwww』

 

『ティガダークとかもう殺処分していいんじゃねえかな?』

 

『土居とグレートは無能』

 

『持ち上げられすぎてたんだよな。マスゴミが讃えてただけの雑魚だったんだろ』

 

『俺達の税金で勇者とかやれてんだから税金返せよ、税金泥棒』

 

『役立たずをいつまで勇者とかにしてんだか……死んだら入れ替わりとかないの?』

 

『ティガとか殺して結界の外に吊るしておけば怪物避けになるんじゃね』

 

『カラス避けかよ! でもちょっと試してみてもいいかもな。死んでもいいクズだし』

 

『最近まとめで記事出来てたけどボブとか土居とかもクズだぞ、情弱乙』

 

 成長した千景でも抑え切れないくらいに、感情が高ぶる。爆発する。憤る。

 精霊を多用した千景の内側で、精霊の穢れが胎動した。

 心に濃い闇が広がる。

 

「なによ……これ……?」

 

 以前、若葉は竜胆の正義を語る際に、"全体の秩序"を優先する正義と、"個人の幸福"を優先する正義は相反すること、その両方を竜胆が求めていることを指摘した。

 人の主義主張は、現実でぶつかり合う限り、二極化したり対構造になったりする。

 個人の自由の尊重と、全体秩序の厳守は対立し。

 他人を気遣う善なる者と、自分さえ良ければいい悪は対立し。

 光と、闇は対立する。

 

 だが、この匿名掲示板や、匿名SNSの者達は違う。

 秩序の者に対して、「非人道的に人権を侵害している」と言い。

 自由の者に対して、「社会のルールにも従えないグズ」と言い。

 善の者に対して、「これは凄い」「法律的に考えたらアウトだろ」と言い。

 悪の者に対して、「スカっとした」「ただの犯罪者じゃね」と言い。

 "自分の発言に責任を持たなくていい権利"を持っているがために、本当に剥き出しの心の赴くまま、好き勝手なことを言っている。

 

 無責任の塊。

 保身を考えなくてよくなった人間の剥き出しの姿。

 相手が傷付くことを言っても、傷付いた相手の姿が見えないために、何の罪悪感も抱かなくても良い悪意の坩堝。

 

 彼らは固定した主張を持つ責任すらなく、新しい情報が出れば手の平を返し、簡単に周囲や多数意見に流され、物事の解決を他人に丸投げし、その他人が上手くやらなければ文句を言う。

 

 例えば、無責任でいることが許されるなら、人は政治に参加する意欲も見せず、やる気のある人間に国のことも全て任せ、失敗したらその人間を全力で責める国を作るだろう。

 "無責任"は、人を堕落させる。

 責任を他人に丸投げして、辛いことを他人のせいにする人生は、とても楽だからだ。

 

 これは心理学の話である。

 無責任でいていい場所で、人間は心の醜悪な部分を剥き出しにする。そういうものだ。

 他人に気を使わなくていい、相手が傷付くかどうかを神経質に気にしなくていい……そういう場所での言動は、とても楽なものだから。

 これは人間として、当然の醜悪の露出なのである。

 

 "これ"は、今に始まったことではない。

 人類の歴史には常に"これ"がある。

 秩序を重んじるでもなく、自由を重んじるでもなく、善にもなれず、悪にもなれず、流されて全てに賛同することもあれば、自分勝手に全てを叩くこともある。

 

 『醜悪な普通』。

 

 普通だからどこにでもあり、普通だから世の中の大半に満ちている。

 

「ちーちゃん」

 

 絶望、憎悪、憤怒に呑まれそうになった千景の頭を、背後から竜胆が抱えた。

 千景の頭を抱える腕が、千景の目を塞ぎ、掲示板を見えなくする。

 

「そういうのを見るのは、精神衛生上よくないぞ」

 

「私は……私達が戦ってきたのは……何のために……!」

 

「君の未来を掴むためだ。君が生き残るためだ。君が幸せになるためだ」

 

「っ、でも、皆のために戦って……その結果がこれ……!? なんなのよっ……!」

 

「無視しちゃおう。君も、俺も、君の幸せが欲しくて戦ってる。これでいいじゃん」

 

「……ッ」

 

「深呼吸して、落ち着いて。

 ……タマちゃんについての書き込み見て、怒ってくれたんだよな。

 ちーちゃんはいい子だ。

 だからさ、君がこういうつまんない奴らに心苦しめられるのは、嫌なんだよ」

 

「やめて……やめてよ……竜胆君だって、これを見て思ったことがあったでしょう!?」

 

 千景の声には憎悪と怒りがある。

 言い変えれば、千景は感情をきちんと吐き出せていた。

 竜胆の声は穏やかで……ゆえに、彼は何の感情も吐き出せていなかった。

 

「俺の仲間を死なせたのは、この人達じゃないから。憎むほどの理由がないよ」

 

「……っ、やめて! そういうことを言うのはやめて!

 『殺したのは』じゃなくて、『死なせたのは』って言ってるってことは、それは……」

 

「落ち着けちーちゃん」

 

 球子を『殺したのは』バーテックスだ。

 球子を『死なせたのは』バーテックスと竜胆だ。

 彼の言葉には、そういう感情が浮かべられている。

 

「憎んでない。そう、憎んでないんだ……俺が憎いのは……」

 

 千景の目を覆いながら、竜胆は千景の端末を取り上げ、開いていたページを閉じる。

 その時、掲示板の書き込みが目に入った。

 

『どうせくたばるんなら最初から土居なんて無能は勇者にするべきじゃなかっただろ』

 

『ボブとかいうやつ外見が気持ち悪かったから死んでくれてちょっと嬉しいわ』

 

『次にティガが死ぬの祈願』

 

『他の勇者もちゃんと戦えよな。俺達みたいな罪の無い一般市民を守れないなら無価値だろ』

 

 竜胆が千景にかける声は優しく、されど声に反比例して、目は濁っていく。

 心が濁っていく。

 きっと、御守竜胆が"ウルトラマン"であったなら、こんな者達でも守り抜こうとすることに、躊躇いや迷いはなかった。

 そこに生きているというだけで、竜胆は守ろうとしたはずだった。

 

(悪いのはバーテックスだけだ。人間も憎いけど。

 皆被害者なんだ。こいつらも加害者だ。

 誰もが皆、聖人ではいられない。醜悪だよ、本当に。

 こんな書き込みを理由に殺意なんて抱かれたらたまらないだろう。

 皆不安で仕方なくて、軽い気持ちで書いてるだけだ……本当に殺してやりたい

 

 ボブと球子を思うがゆえに、竜胆を罵倒し攻撃した人達。現実の痛み。

 ボブと球子さえも侮辱して、一緒に竜胆も罵倒した人達。ネットの痛み。

 両方共に竜胆へ攻撃を加える存在ではあったが、その性質は全く違った。

 

 共通項は唯一つ。

 両方共に竜胆を嫌い、その不幸を望み、その死を望んでいることだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。

 友奈が目覚めたとの報を聞き、竜胆は病室に見舞いに行っていた。

 その内心は、他の人間が覗けたなら、吐き気をもよおし嘔吐してしまいかねないほどにグチャグチャで、ドロドロに淀んでいた。

 そんな状態でも、竜胆は見舞いの花と果物を選んで、友奈の快癒を願う。

 友奈はまだ目覚めただけで、面会時間すら短く制限されているほどだった。

 そして他の者達も、竜胆以外は誰も全快していない。

 

 次の襲撃は明日。

 竜胆以外の誰も回復はしていない。

 次の戦いはティガダーク一人での戦いとなるだろう。

 誰も、次は助けてくれない。止めてもくれない。

 その日、世界は終わるかもしれない。

 

「よっ、友奈。元気にしてたか?」

 

「あ、リュウくん……」

 

「ちーちゃんと若ちゃんもいたか。ほら、花とフルーツバスケット。見舞いの品な」

 

「……うん、ありがとう」

 

 竜胆は大社に呼び出されての病院検査にかこつけて、友奈の見舞いに訪れていた。

 千景と若葉が先客として病室にいて、竜胆が部屋に入る前から暗い空気があったのが、感覚で分かる。

 友奈もどこか元気がない。

 暗い空気が苦手で、率先して空気を明るくしていくのが友奈だ。

 彼女が暗い空気の一部になっているという時点で、とんでもない異常事態である。

 

 だが、今の竜胆に、友奈のそのあたりの異常を察知できるほどの余裕はない。

 

「……リュウくん、目が怖いよ」

 

「目?」

 

「ギラ、ってしてる。いつもは優しい感じなのに」

 

「目だけで人を分かった気になるなよ。俺はいつもと変わらないって」

 

 だが、心も体もズタボロで、体を起こすことすらできない友奈は、その状態から、竜胆の方の異常を察知していた。

 

「……難しいかもしれないけど、リュウくん、明日あるっていう戦いは休んだ方がいいよ」

 

「無理だな。俺しか戦える奴がいない。心配してくれたことは嬉しいよ、友奈」

 

「……」

 

 若葉にも千景にも他人の心情をじっくり慮る余裕はない。

 だからか二人は、友奈の言葉に少し驚いていたようだ。

 ティガしか戦えないこの状況で、ティガに休めと言った友奈が、とても変に見えた。

 

「俺は大丈夫だ。今は、前以上に、奴らが憎い。次は必ず殺せる」

 

 そしてすぐに、異常だったのは友奈ではなく、竜胆の方だということに気付く。

 友奈が竜胆の何を察したのかに、気付く。

 

「次は何が来ても逃さない。

 これだけの憎しみがあれば、きっと、何もかも壊せる。

 何もかも更地にできる。何も残さない。……この感情を制御できれば、まだ戦えるはずだ」

 

「敵を全部倒す、なんだ。全部守る、じゃなくて」

 

「……ああ、友奈の言う通りだな。敵を倒すより、守ることを優先して考えねえと」

 

 若葉はふと、前に千景が言っていたことを思い出していた。

 

―――ねえ、乃木さん

―――気のせいなら良いんだけど……竜胆君、最近少しずつ、口が悪くなってない?

 

 御守竜胆は、こういうことを言う男だっただろうか。

 

「頭がおかしくなりそうなくらい、奴らが憎い。

 これが、俺の力になってくれる。暴走さえしなければ、一人でも戦えるはずだ」

 

 友奈は息を飲み、若葉は何を言って良いのか分からなくなり、千景は声を張り上げた。

 

「竜胆君!

 自分の表情が見えてないの!?

 "それ"は憎しみじゃなくて! 悲しみよ!」

 

「―――」

 

「頭がおかしくなりそうなほど苦しいのは、憎んでるからじゃなくて、悲しんでるから!」

 

「敵を憎んでないとやってられないなら、同じことだ!」

 

「同じじゃない! 全然同じじゃないでしょう!

 敵を想うのと……土居さんを想うのは……全然違う!」

 

「っ」

 

「土居さんが死んだことから……土居さんを失って悲しんでいる自分から、目を逸らさないで!」

 

 ズブズブと、ズブズブと、竜胆の心の状態は悪化していく。

 そんな彼に、千景の言葉が手を差し伸べて、竜胆の言葉が、その手を払い除けた。

 

「ちーちゃんは自分も辛いだろうに、優しいな」

 

「……話を逸らさないで」

 

「でもな、優しさで守れるものって、あんまないんだ。

 優しさじゃ何も救えない。

 今の俺には、この憎しみが全てだ。

 憎しみを力に変えて、戦って、バーテックスを皆殺しにして……皆を守る」

 

 拳が砕けんばかりに、強く拳を握る。

 強く握られた竜胆の拳に、起き上がれもしない友奈の優しい手の平が触れた。

 

「違うよ。どちらかといえば、何も救えないのは、憎しみの方じゃないかな」

 

「……友奈、分かってくれ。今は、優しさの方は、必要じゃないんだ」

 

「タマちゃんの優しさに、救われた気持ちになってなかったなんて、言わせない」

 

「―――っ」

 

「ぐんちゃんの言葉に、何も思わなかったなんて言わせない」

 

「―――!」

 

「憎しみがあなたの全てだなんて、絶対に言わせない」

 

 友奈にはいつもの元気がない。

 いつもの明るさもほとんど失われている。

 酒呑童子使用の後遺症が、彼女からまだそれを奪い続けている。

 それでも彼女は、言葉を尽くした。

 

「友奈……そういうのはさ、放っておいてくれよ。

 こうと決めたこと否定されたら、そこからどうしていいか分からなくなるだろ……」

 

「放っておけないよ。友達なんだから」

 

 その言葉は、竜胆の心を打つけれど。

 

「……憎いんだよ、奴らが。自分が。

 こんな俺が生きてることを許してくれた、優しいタマちゃんやボブを、死なせた奴らが」

 

 それで全てを解決するには、今の友奈にはあまりにも光が足りなくて、今の竜胆の闇はあまりにも深すぎる。

 許すことが、優しさなら。

 彼がここに生きることを許し、幸せになることを望んでくれた人達は、きっと優しい人達で。

 

「許せることが優しさなら! 優しさなんて要らない! 許さない憎悪だけでいい!」

 

「リュウくん!」

 

「友奈はちゃんと悲しんでやれ! タマちゃんの死を!」

 

「……え」

 

「立ち止まって悲しんでやれ! うずくまって悲しんでやれ!

 それが人の当たり前で、当たり前の悲しみ方だ!

 ……だけど、俺は! 要らない! そんなものは要らない!

 悲しむために立ち止まるべきなら、憎悪に突き動かされて走り続けてやる!」

 

 友奈は、その悲痛を自分のことのように感じて、涙をこらえ。

 千景は、竜胆を幸福に連れて行くためにどうすればいいのかを考え、何も思いつけなくて。

 若葉は、自分が刻んだ竜胆の喉の傷が開いたのを見た。

 

 涙を流さない役立たずの目の代わりに、喉が血の涙を流していた。

 

「あいつらに! その全てに! ……()()()()()()()を、その重みを教えてやる!」

 

 肥大化した心の闇は、もはや制御できるようなものではなく。

 

 竜胆は友奈の病室を飛び出して行った。

 

「竜胆君っ!」

 

 千景がその後を追う。

 若葉は壁に背中を預け、ずりずりと背中を擦りながら座り込んでいく。

 尻が床に落ちた頃、若葉は頭を膝の間に埋めていた。

 

「……まるで、昔の私だ」

 

 今の竜胆と、昔の若葉は、どこかが似ている。

 少なくとも、若葉はそう思っている。

 

「復讐のためだけに戦い……憎悪に突き動かされ……周りが見えなくなり、自滅する」

 

 かつて若葉も、そうなりかけたことがあった。

 罪の無い人を殺したバーテックスを憎み、理不尽な殺人に対し報いを与えるために、一人でがむしゃらに敵陣に切り込み、敵を斬り殺し続けた。

 その果てに、仲間にも迷惑をかけた。

 

 若葉は自分の拳を見つめる。

 若葉はその手に竜胆の喉を切った時の感触を思い出し、昔の記憶を思い出し、そのせいか竜胆にズバっと何も言ってやれない自分を悔やんだ。

 

「そうかもしれない。でも、違うところもあるよ」

 

 友奈は自分の拳を見つめる。

 竜胆と打ち合った拳を見つめる。

 肉体の何もかもがグズグズで、感情の何もかもが垂れ流しだった、あの時の拳から伝わったものは確かにあった。

 暴走時の思念波を媒介にして、拳を通じ、友奈は竜胆に対する理解を深めていたのだ。

 

「リュウくんは今、悲しみと憎しみの間に境界が無いんだよ。悲しめば悲しむほど、憎いんだ」

 

「憎しみと悲しみが、同じだと?」

 

「前の若葉ちゃんはさ。

 罪の無い人をよくも沢山殺したな……って怒ってたよね。そう叫びながら戦ってもいた」

 

「……ああ。私は……人々を理不尽に殺した奴らに、報いを受けさせてやりたかったんだ」

 

「でもリュウくんは今、タマちゃんが殺されたことをきっかけに、怒ってる」

 

 球子の死を口にして、その悲しみを思い出したのか、友奈の瞳に涙がにじむ。

 

「リュウくんは、若葉ちゃんと同じだよ。

 罪の無い人が殺されたら、それだけでとっても怒る。

 全力で、見ず知らずの人を守っていこうと思える、若葉ちゃんと同じ人。

 でも……リュウくんがあんなに怒ったのは……友達のタマちゃんがああなったからで……」

 

「……」

 

「……罪の無い人が殺されたことに関しては、ずっと怒りを抑えてたんだ」

 

 名前も知らない、罪の無い人達が殺され、それで憎悪と復讐のため刃を握れるのが若葉なら。

 若葉と同じ素質を持っているのに、スタートラインで一般人を虐殺してしまい、若葉と似た心の過程を進めなかったのが竜胆だった。

 竜胆は最初から、罪の無い人を殺した人間だったから。

 

「『自分がそれに怒る権利はない』って……リュウくんは思ってたんだよ、たぶん」

 

 だからこそ、彼をどん底まで落とす絶望は、『罪の無い人』が殺されたことではなく、『敬愛した師匠で頼れる大人』が殺されたことでもなく、『大切な友達で守りたかった女の子』が殺されたことで発生した。

 

「リュウくんは自分が沢山殺してしまったから……

 バーテックスと自分に違いがあるのかって、思ってて……

 罪の無い人のために、本気で怒りたくても、その気持ちを抑え込んでいて……

 ……ボブと、タマちゃんのことで、もうどうしようもなく、抑えられなくなっちゃったんだ」

 

 生きていてくれ、と皆に対し願っていて。

 殺すな、と敵に対し叫んでいて。

 その願いは叶わなくて。

 仲間が殺されることで、その感情は爆発した。

 

「リュウくんは……タマちゃんが大好きだったから……」

 

 私も大好きだった、という友奈の心の声が聞こえるようだ。

 友奈の瞳から、涙が落ちる。

 

「自分が殺した人も、タマちゃんも、戻ってこないって、分かっているから……!」

 

 私だって分かってる、という友奈の心が、伝わってくる。

 少女の瞳は涙を落とす。

 

「皆に幸せでいてほしいって、タマちゃんに生きててほしいって、願いがあったから……!」

 

 リュウくんのその願いは私も好きだったのに、と心が叫ぶ。

 涙は止まらない。

 

「タマちゃんだって死にたくなくて、守りたくて、頑張ってて、それで、それでっ―――!」

 

「友奈」

 

 若葉はハンカチで、その涙を優しく拭った。

 

「……辛かったな。私も辛い。お前のその悲しみは、当然のものだ」

 

「タマちゃんだって……

 リュウくんだって……

 笑ってたのに……一緒に、日常で笑い合って、楽しかったのに……!」

 

 友奈の涙は止まらず、その涙が止まるまで、若葉は友奈の涙を拭い続けた。

 

(私……こんなに……感情を抑えられない子だったっけ……)

 

 友奈は、自分自身に違和感を持った。

 不安感、マイナス思考、自制心の低下、悲観的な思考の発生。

 全て、精霊の穢れが人にもたらす症状である。

 

 不安定な千景も、いつもの堂々とした心強き若葉がいないのも、友奈が明るさと元気さを失い悲観的になっているのも、全て原因は同じだ。

 

 そして、酒呑童子という飛び抜けて強力な精霊を使った友奈の精神状態は、他二人とは比べ物にならないくらいほどに悪化していた。

 そんな状態でも、友奈は変わらず優しく、他人のために泣ける女の子のままだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 走る。仲間から逃げるようにして竜胆は走る。

 千景を振り切り、病院の一角にまで逃げ切った。

 そこで、竜胆と同じように―――現実から逃げてここに来た、女の子を見つける。

 

 誰からも見つからない病院の区画を目指して移動したのなら、竜胆とその女の子が同じ場所に辿り着くのは当たり前のこと。

 その女の子の名は、伊予島杏と言った。

 杏は泣いていた。

 一人で泣いていた。

 誰にも見られない場所で、球子を想い泣いていた。

 

 球子の死に涙を流した量なら、杏がきっと一番だ。

 勇者の中で一番の泣き虫で、球子と一番に仲が良くて、女の子らしい繊細さで人の死や怪我にも敏感な、そんな彼女だから、とてもよく泣いていた。

 

 逆に球子は、仲間の死に一度大泣きはしても、以後大泣きはしないタイプである。

 球子がいれば、杏を一喝していただろう。

 いつまで泣いてんだ、とか。

 ウジウジしすぎだ、とか。

 そんなことを言って、杏を立ち直らせていただろう。

 けれどもう、杏をそうして立ち直らせられる者はいない。

 

 杏は泣いていた。

 服が涙に濡れているのが目に見えて分かるくらいに泣いていた。

 そして竜胆の足音が、杏の顔を上げさせる。

 

「……あ」

 

 目が合って、竜胆の声が漏れた。

 

 竜胆は先の戦い以来、杏と一度も顔を合わせていなかった。

 眠ったままの竜胆を杏が見た時はあったが、竜胆は起きてからずっと、杏を意図的に避けて動き回っていた。

 理由なんて語るまでもない。

 竜胆は、ずっと杏から逃げていた。

 

 だが今、とうとう杏と向き合ってしまう。

 杏は涙を流し、目を腫らし、心は精霊の穢れに満ちて、声は涙声でガラガラで。

 そんな状態で、口を開く。

 

「なんで私を守ったりしたんですか」

 

「―――」

 

 心抉る、杏の言葉。

 

「私達はいつも一緒で……一緒で……一緒でっ……だからっ……!」

 

 もしも、あの時の竜胆の行動が、間違いだったなら。

 

「片方だけ残されることが一番残酷で辛いって―――なんでそれが分からないんですか!?」

 

 間違いだったと、言われたなら。

 竜胆はもう、生きていられないくらい、心を傷ませる。

 

「こんな想いをするくらいなら あそこでタマ先輩と、一緒に死んでいた方が良かった……!」

 

 竜胆に何が言えようか。

 励ましの言葉なんて言えなかった。

 反論なんてできるわけもなかった。

 ただ、謝った。

 

「ごめん」

 

 杏が涙を流しながら、竜胆の横を駆け抜け、この場を去っていく。

 

 竜胆は一人立ち尽くし、繰り返し謝った。球子に、杏に、ボブに、謝った。

 

「……ごめんな」

 

 胸の奥が抉れるような、心の痛み。

 

 球子の死から逃げて、人々の向けて来る気持ちから逃げて、友奈から逃げて、その先には杏が居て、もう逃げるところなんてどこにもなくて。

 

 心が潰れていく、音がした。

 

 

 

 ―――バーテックスの次の襲撃まで、残り24時間。

 

 

 




 バーテックスが来ないので誰も死ななくて平和フェイズ
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