浮き草と水のような偶然の出会い。
父さんが死んだのは、俺がまだ物心がつく前だった。
その頃の俺は、生きるとか死ぬとか、そんなのがよく分からなかった。自己中心の世界のど真ん中にいた。俺が生まれる前は、父さんも母さんもいなかったとすら思ってた。
なんで母さんが泣いてるかが分からない。
なんで、みんな黒い服を着てるんだろう。この砂みたいな、白いものはなんなんだろう。
今なら分かる。あれは骨だったんだと。火葬された父さんの、遺骨だったんだと。
だから、俺には父親との思い出というものがない。父親の顔も、俺の頭の中には残っていないんだ。どんな人だったのか、今ではもう知りようがない。
ただ、父はシュレイドで研究者として働いていたということは、母から聞かされていた。国の中枢を担っていたんだって、母は自慢げに話していた。遠方で何かを開発していた、くらいにしか、俺はその話を覚えていないけれど。
――その研究で、事故にあったらしいけど。
その話を聞いた俺は、母と俺を残して死ぬくらいなら、なんて感じていた。
父は、釣り好きな人だったらしい。俺が生まれる前や、生まれてからも。家族で河や湖に出掛け、釣りをする。そんな休暇を過ごしていたのだとか。
それ故、家には彼のコレクションが残されていた。
釣竿、リール、ルアーに魚拓。釣りに関する本から、自慢げな釣りの記録なんてものも。随分と大きいものを釣ったことを、でかでかと写真まで用意して飾ってすらいた。
それらは、まだ幼かった俺の心を奪った。その俺には想像も及ばない様々な道具を前に、俺は釣りというものに対して夢中になった。
図鑑で魚について調べたら、陸地では、というかこの砂漠の集落ではまず見られない世界があることを知ったのだ。
俺の故郷は、鉄に囲まれた息苦しい街。それに反して、魚たちは色鮮やかな世界を悠々自適に過ごしている。その様を想像すると、俺は居ても立ってもいられなくなった。
釣竿に糸を張り、リールを取り付ける。糸の先にはルアーがあって、魚がそれに食い付いて。狙って、待って、ここぞとばかりに糸を巻く。
真剣勝負の世界だ。そこには、ただひたすら真っ直ぐ向かい合う世界があった。
俺はそれに、ただひたすらに心惹かれたんだ。
「母さん! おれ、釣りしてみたい!」
そう母に言ってみれば、あの人は父のことを懐かしく思ったのだろうか。少し涙ぐみながらも、快く応じてくれた。
砂漠と言っても、付近にはオアシスがある。巨大な河が、荒れ地を遮ってすらいる。大陸西南部の砂漠地帯は、とてもとても広大だけれど。俺の住んでいたこの街は、まだ北の方――シュレイド王国の比較的付近にあったのだ。
休みの日には、オアシスに行って。お弁当をもって、俺は小さな釣竿を担いでいって。
ボウズの日ばかりだったけれど、それでも何だかとても楽しかった。父の本や母のアドバイスを基に、毎度毎度奮戦して。悪戦苦闘だったけれど、だったからこそ、初めて釣れた時は本当に嬉しかった。嬉しかったんだ。
「ローグ、釣れたわね! あなたはやっぱり父さんの息子よ」
それは本当に、小さな魚だったけれど。母がそう褒めてくれて、余計に嬉しかった。
それからだ。俺はそれから、本当に釣りに没頭した。来る日も来る日も、釣りのことばかり考えて。学校に行っても、俺の頭の中には釣りという言葉しかなかった。
そうやって、父の残したものを通して趣味に没頭していると。何だか父と会話をしているような、そんな気がして――――。
体が大きくなれば、親の同伴がなくても外出が可能になる。
十五を超えた頃には、一人で釣りに行くことも増えた。
魚によっては、特殊な時間帯に活発になるものもいる。そういう珍しいものを求めて、夜釣りに出ることも度々あった。
「……河釣り、したいな」
比較的安全なオアシスにそろそろ飽きを感じていた頃。
少しばかりの刺激と、新たなる獲物を求めて、俺は何となくそうぼやく。
夜釣りは好きだ。
夜釣りは良い。
暗く静まった外の世界と、ひんやりとした空気。星空と街の光がディレイを効かせて、まるで緩やかな水面のように流れていく。その光景に包まれていると、なんだかとても心が落ち着いた。
今日はなんだか、何もかも忘れられる気がして。
今日はなんだか、何かが起こるような気がして。
だから俺は、あえて河を選んだ。未だ慣れておらず、夜釣りもまだ挑戦していない河の方を、あえて選んだ。
この河は、随分と大きい。端から端までは、とても泳いでは渡れないだろう。流れも場所によって様々で、その分栄養も豊富だった。
オアシスではまず見られない、随分と大きな魚が目に映る。その様相に、思わず目を見張った。
「気分が上がるなぁこれは……!」
随分な大物だ。俺の腕の長さほどはあるんじゃないだろうか。
こんな凄いもの、親父の魚拓にもなかなかない。これを釣れたら、俺は親父を超えたって言い張れるかもしれない。
「よし……やるか!」
そう意気込んで、釣り糸を張って。
どのようなルアーの動きが注意を引けるか。どのように投げれば、より彼らに深く届くか。
竿の調子はどうだ。リールの部分は擦れていないか。
そんなことを一つ一つ確認しながら、俺はそっと竿を振る。重みのあるルアーが、ゆったりと宙を舞った。流れが穏やかな水面に跳ね、淡い水の音色が鳴り響く。
それから、沈黙。
川のせせらぎと、夜風の声だけが響いた。ただただ穏やかで、柔らかい。風がとても心地いい。
時折リールを巻いて、ルアーを少し揺らしながら。魚がかかるまで、待つ。ただその時を待って、ひたすら待つ。
「あー……」
ぼーっと空を見上げた。
やっぱり、星空が綺麗だ。田舎の数少ない取り柄の一つだろう。夜空を見れば、星の絨毯が広がっている。この光景は、街灯の多い都会ではなかなか見られないと思う。
もし釣れたら、どうしようか。
魚拓をとってみるのもいい。色んな人に自慢して回るのもいい。捌いて食べてみるのも、いいかもしれない。
最近、母が病気がちになってきた。体調もあんまりよくないみたいだ。一つ、これで精の付くものでも作れればいいのだけど。
「……でも俺、料理苦手だしなぁ」
あんまり料理をしたことはないし、してみても失敗した覚えしかない。無謀な挑戦だろうか。それとも、誰かの手を借りるべきだろうか――。
「……ん? 引いてる?」
不意に、腕に力がかかる。竿の先が、徐々に孤を描き始める。
「かかった! きたきたきた……!」
自分でも、口角が吊り上がっていくのが分かる。嬉しい。この瞬間がたまらない。
両脚を開いて、全身に力を込める。どんどん引っ張られる糸を、逆にこちらが引っ張り返すように。一対一の綱引き勝負だ。ただひたすら、相手の呼吸を読んでリールを巻いた。手に汗握る瞬間とは、まさにこのことか。
重い一戦だった。なかなかリールを巻き切れない。腕が軋む。相当な大物だ。俺が今まで出会った魚の中で、とびきり力の強いものだと思う。
釣りたい。
なんとしてでも、こいつを釣りたい。
大物を釣って、親父の墓に見せびらかしたい。
さぁ、巻け。どんどん巻け。あいつを削り切れ。あいつの全てを削ぎ落として、この水の中から出してやれ――。
「――――え?」
唐突に、足場が崩れた。
普段踏み慣れていないその足場は、思った以上に崩れやすかったようだ。ずるりと、その土の塊を勢いよく崩してしまう。右脚がすり抜けて、身体が宙を舞った。あの魚に引き寄せられるように、俺の体は宙を泳ぐ。
「あっ……」
釣竿すら離れた手は、もう何も掴むものがなくて。
慌てて振り回した足も、何も踏み抜けなくて。
ただひたすらに、水へと落ちた。どうしようもなく、水に引き込まれた。
河の中は、砂漠とは全く違う世界を見せてくれる。
月夜に照らされて、深い藍色を差した透明な景色。丸みを帯びた石がいくつも並んだ川底に、ゆらゆらと揺れる水草。自由気ままに泳ぐ魚の群れ。力強く水を蹴る、とても大きな魚。
凄い。
とても砂漠では見られない、俺がずっと夢見ていた景色がそこにある。こんな、自然のありのままの景色を見れるなんて、本当に凄い。
凄いけれど、俺は重大なことに気付く。
河には流れというものがあって、それはとても速く、とても激しくて。
――とてもじゃないが、泳ぐことなんてできないということだ。
「がぼっ……ッ!」
水面から必死に顔を出す。しかし、水面が激しく揺れて満足に呼吸が出来ない。顔を出す度に水が口になだれ込んで、その度に酷く
だんだん力が抜ける。必死に水を掻くけれど、身体はどんどん沈んでいく。顔を上げれる高さが、徐々に低くなっていくのが分かった。
冷や汗でもかいているような。頭の奥が冷たくなるような感覚が広がっていく。水の中だから、汗も何もないけれど。
ダメだ。もう、ダメそうだ。力が抜けていく。息が苦しい。頭が働かない。もう何も、何も見えなくなる。眼鏡も急流に流れて、景色も何も分からなくなってきた。
まさか、まさかこんなところで、こんなことになるなんて。ちょっと背伸びし過ぎただろうか。頑張り過ぎただろうか。
失敗、したなぁ。
でも、こうやって魚の世界に溶けていけるなら、それはそれで本望なのかもしれない。
そう思いながら、目を閉じた。
体の力を抜いた。
全身が水にされるがままに流されて、奇妙な感覚が全身を覆う。
ゆったりと、まったりと。何もかもスローに思える感覚の中で、俺は意識を少しずつ手放した――。
不意に走る、奇妙な感触。
柔らかいものが手に触れる。それはまるで、人の手のようだった。絡む指に少し違和感があるけれど、それは確かに人の手のよう。
なんだろう。
一体何が――――。
「…………」
ぼやけた景色の中に、一人の少女がいた。銀色の髪を月明かりに照らした少女が、じっと俺を見ている。俺の手を握って、何かに気付いたように頷いた。
それから、上昇。シルエットはとても幼い少女のはずなのに、俺の体を持ち上げながら彼女は泳ぎ始める。少しずつ、水面が近付いてきた。
――君は、誰?
「はぁ、はぁ……」
喉に流れ込んだ水を必死に吐き出して、何とか体を起こす。頭の奥がきんきんと鳴り響いて、とても苦しかった。呼吸も荒々しくて、本当に苦しい。
しかし、小柄な癖に俺を持ち上げた少女は、何とも涼しい顔をして俺を見ていた。長く伸びた髪がとても綺麗で、されど未だに繋ぎ続けていた手はとても小さくて。
どう見ても、七、八歳くらいの少女。俺にはそう見えた。
「はぁ……き、君は……」
「……大丈夫?」
「あぁ、うん……えっと、まぁ……」
頭が痛くて、言葉がまとまらない。何が何だか分からなくて、あやふやな言葉しか顔を出してくれなくて。
「――――フィーニャ!」
唐突に、低い男の声が響く。
「フィーニャ! どうした、何があっ――人間!?」
「フィーニャ! あんた、何して……」
背後から響いた声は、二人組の男女。まだ若い二人は、驚いた顔で俺を見る。
女性の方は、フィーニャと呼ばれたこの少女と同様に、美しい髪をしていた。その面影も、どこか似ているように見える。
「人間……人間がここに……」
「フィーニャ、お前まさか、人間を助けたのか!?」
「……うん」
そう、少女が頷いた。俺の手を繋いだまま、その小さな顎を縦に振った。
「苦しそうだったから」
「苦しそう……溺れて、いたのか……?」
「どうしよう……追っ手……かしら? 私たちが逃走したの、ばれてる……?」
「……いや、どうだろう」
男の方が、じっと河を見る。
その視線の先には、散乱した俺の釣り道具が見えた。俺と一緒にダイブして、そのまま河に持っていかれてしまった道具たち。それがどんどん、視界の奥に消えていく。
「……釣りをしていたのか? それに、まだ若い少年だ。追っ手……なんてことはないだろう。軽装すぎる」
「……お兄さん、王都の人?」
少女が俺に、そう尋ねてきて。それがどんな意図なのかは分からなかったが、俺は田舎の、ただの釣り好き少年だ。
だから、力の入らない首にものを言わせて、小さく横に振った。
「……じゃあ、安心だね」
息も絶え絶えの意識の中で、そう笑いかけてくれた少女。その優しい微笑みが、何より印象的だった。
◆ ◆ ◆
下流にある小さなオアシスには、数人の人影があった。
誰も彼も、耳が長い。手の指が、四本しかない。人間のような姿をしているが、人間とは少し違うようにも見える。
「……そうか。君は南の方の、あの自治区の人間なんだな」
「はい、鉄と砂しかないですけど」
「ぎこちない対応しちゃってごめんね。はい、お茶」
納得したように頷く男性と、謝罪しながらお茶を出してくれる女性。そのお茶を、空いている方の手で受け取りつつ、軽く会釈する。
もう片方の手はといえば。未だに、少女に握られていた。
「それにしても、フィーニャがそんなに懐くなんて。不思議よねぇ」
「全くだ。普段は人見知りなんだけどなぁ」
どうやら二人はこの子の親らしく、感慨深そうにそうぼやく。二人とも随分と若いというのに、親なのか。
「一体どうしちゃったのかしら」
「フィーニャ、彼のどこがいいんだい?」
なんだか棘のあるその物言いに、少女は少しばかり首を傾げて。
「……目?」
「目?」
出てきたのは、思いがけないシンプルな言葉。
「私を見る目が、とても自然な感じがしたの。変なものを見る目じゃないから、何だか不思議。この人は悪い人じゃないって思う」
そう少女が繋げると、彼女の両親は感嘆するような声を漏らした。
「そうか……うんうん。そうだねぇ……」
「確かに、そうね……。あぁ、本当」
「……目って、そんなもんなんですか?」
「視線というのは、思ったより感情がこもるものだよ。君も、私たちくらい長く生きてみれば分かる」
諭すような口振りだ。そんなに、年は離れていないと思うのになぁ。
言う前に呑み込んだその言葉。それを吐き出そうとした瞬間に、少女が俺の手をぐいぐいと引いた。
まるで俺を呼ぶかのようなその仕草。それに遮られ、俺は彼女の方へと顔を向ける。
「……どした?」
「あなたは、私が嫌じゃない?」
「……え?」
「気持ち悪く、ない?」
とても奇妙な問いだった。
この子は何を言い出すんだろう。たかだか十五年程しか生きていない俺には、彼女が何を言いたいのかが分からなかった。突拍子がなさすぎる。脈絡もなさすぎる。
――けれど。無視する訳にもいかず、俺はぐちゃぐちゃの頭をぎゅっと絞った。バラバラの言葉を、何とか繋ぎ合わせた。
「……気持ち悪くなんか、ないよ。それより、すっごく感謝してる。助けてくれて有り難う」
もう片方の手を添えて。両手で彼女の手を包み込んでそう言うと、彼女は驚いたように目を丸くした。
その目が、徐々に細くなる。花が咲くような笑顔。本当に、とても可愛らしい笑顔を浮かべてくれた。幼い少女のはずなのに、その笑顔は何だかとても美しくて。思わず俺は見惚れてしまう。
月夜に照らされた銀色の髪が、どこまでも澄んだ光を映していた。
◆ ◆ ◆
あの時の、月明かりの河の中。あの感覚が蘇る。
深い深い藍色。この肉に包まれて生まれた暗闇。
水面に映る月の光。装甲の割れ目から入り込む、外の光。
水を掻き分けて、俺の体を掴んでくれる小さな手。エスカドラの肉を掻き分けて、遮る壁を剥がしてくれる大きな手。
「うぉ……っ」
遮るものがなくなって、外の光と熱気が入り込む。
火山地帯だった。
どこを見ても、溶岩の海。未だに大地は活発な胎動をし、ところどころから火を吹いている。
あの彗星に導かれるままに、流れ着いたこの場所。もうエスカドラとの神経も途切れてしまって、一体どうやってこの場所に辿り着いたのかも分からない。周り全てが溶岩だから、ここはきっと火山地帯の深奥なのだろうけど。
そして、その彗星だ。何故か腕のあるその彗星は、あの巨体を持ち上げた。俺が溶岩に沈まないように、必死に俺の手を握ってくれた。
その彗星本人が、目の前にいる。ボロボロな体で、俺の前に立っている。
溶岩の光を浴びて、淡く輝く銀色の鱗。
まるで流線形のように鋭い線を描いたその体躯。
特徴的な翼からは、緋色の光が溢れ出て。槍のように長い尻尾は、優しく
その姿は、あの消えてしまったはずの光だった。手の届かない遠いところに行ってしまったはずの、あの小さな命。
「……そんな、嘘、だろ……」
カシャン、と音が鳴り響く。
全身が赤黒く焼け焦げていた。あの赤い稲妻を浴びたのだろうか。どこもかしこも傷だらけで、回路が断裂してしまっている。音も不協和音に満ちており、とても正常な状態とは言えないだろう。
――だが、何故かその胸が開いた。決して開かないはずのそれが、完全に一体化してしまったはずの『彼女』が、俺の前に現れたのだ。
あの昔懐かしい笑顔が、そこにある。
さながら、溺れた俺を掬い上げるような。
何もかも見失った子どもを、抱き上げるような。
そんな眩しい笑顔が、目の前に咲いていた。
「……フィーニャ」
意識してか、無意識か。
零れ落ちた。彼女の
「……ローグ」
ミューは。いや、フィーニャは。優しく、愛おしそうに俺の名前を呼んでくれた。
感動の再会編。
ということで、ミューさん復帰。はい、まぁ察しだとは思いますけど、しっかり生きており申した。良"か"っ"た"ね"ぇ"(´;ω;`)
ローグさんが昔溺れたという話は、実は彼女との出会いなのでしたの巻。あのあとローグさんは故郷に帰ることができましたが、ミューたちは竜人狩りに遭って一家離散してしまいます。そうして上京したローグさんと、再び再開する訳です。たぶん、二人とも何となく察していたけど、あえて切り出しはしなかったんだろうなぁと思います。そういう微妙な距離感が好き。尊い。
閲覧とうとりがとうしました!(意味不明)