決して変わることのない誓。
どちゃっと、小さな体が落ちてくる。
焼け焦げたバルクの体から。赤いスパークが弾ける、ボロボロのバルクの体から。
どんな色も淡く映す銀色の髪。
空のように、澄んだ色をした瞳。
長い耳に、四本の指。
どこか覚束ない足取りで、俺の方にまで歩み寄ってくる、一人の少女。
「……ローグ」
少女は、愛おし気に俺の名を呼んだ。噛み締めるように、呼んでくれた。
「……フィーニャ……」
目の前に、バルクがいる。
目の前に、ミューがいる。
目の前に、フィーニャがいる――――。
「……懐かしい呼び方」
彼女は、そう微笑んだ。あの今よりもずっとずっと幼かった頃と変わらない表情で、その小さな頬を綻ばせる。
そうして、俺の方に手を伸ばした。指先の振るえた手でエスカドラの肉を掻き分けて、ぐっと俺の体を掴む。
「……ミュー、お前……」
「……ミュー、じゃなくて。本名で呼んでほしい。昔みたいに」
未だ上手く動かない俺の体を、抱き寄せながら。彼女は悪戯っぽく、そう囁いて。
エスカドラとの接続は既に断裂していたらしく、俺の体に張り付いていた肉の腕はたやすく剥がれ落ちた。チューブは簡単に千切れ、ポタポタと中の液体を滴らせていく。
そうして俺は、あの肉の空間からようやく解き放たれて。気付いた時には、彼女の温かい胸に包まれていた。小さいながらも確かな鼓動が、俺の鼓膜を優しく叩く。
「……フィーニャ。お前、どうして……」
「……生きてたよ、私。……勝てなかったの、あの子に」
口元だけの微笑で言葉を溢すフィーニャ。されど、少し悲しげにその眉を曲げた。
「あの後、頑張って戦ってみたんだけど。やっぱり勝てなくて、私は逃げた」
尻尾も千切れちゃった、と彼女は目を伏せる。
その目が指していた先には、少々短くなったバルクの尾があった。オーグ細胞の影響か少しずつ再生が始まっているものの、やはり短い。
「死ぬのは、やっぱり怖い。ローグと会えなくなるのは、本当に怖いよ」
「……生きてたんなら、それを教えてくれよ……っ」
半ば悪態を込めてそう言うと、彼女はその首をふるふると横に振る。
「だめだよ。だって、会いに行ったら……私はもう、素材だもん……」
――あぁ、やっぱり。
竜は道具。
竜は素材。
竜は資源。
この国では至って常識のそれ。常識故に、罪悪感もなしにミューを殺してしまうそれ。
彼女は分かっていた。完全結合した上で、人間のコントロールを失った上で俺に会いに来たらどうなるか。資源として回収されてしまうことなんて、百も承知だった。
だからずっとこうして、行方をくらましていたのか。流れ星と見間違うほど、天高くにいたのか。
「……ごめん。そうだな、そうだよな……ほんとに、ごめんな」
血塗れになったその手を彼女の頬に添えた。上手く力が入らなくて、小刻みに震えてしまう。血に塗れているせいで、彼女の白い肌を赤く汚してしまう。
それでも、彼女は嫌がる素振りなど見せなかった。心の底から安心しているかのような表情で、その柔らかい頬を擦り付けてくる。
「懐かしい……ローグの手。あったかい」
「……フィーニャ」
一体何日ぶりだろう。
何か月ぶりだろう。
それとも、年単位にも届いていただろうか。
本当に、久々な気がする。こうして彼女と触れ合うのは、まるで昨日のことのような気もするけれど。それでも、随分と久しぶりのような気がした。
ダメだ。頭が働かない。嬉しい気持ちと困惑する気持ちが溢れ返って、感情に名前を付けることが出来そうにない。
あぁ。この見えてる景色は、本物なんだろうか。
「……ローグ」
「んあ?」
むっとした顔で表情を満たしたフィーニャは、ぎゅっと俺の頬をつねった。両手でつねって、そこから優しく掌で包み込む。
「夢じゃ、ないよ。私、ここにいるよ」
「……俺の心読むなよ」
「えへ、なんかぼーっとしてたから」
相変わらず、何も見てないようでよく見ている奴だなぁって。呆れ半分ながらも安心してしまう。
確かに、ミューだ。
間違いなく、フィーニャだ。
いなくなってしまったはずの彼女が、いなくなってしまったと思っていた彼女がここにいる。
そうなると、湧いてくるのは別の疑問。
「フィーニャ。お前、どうして人の姿に……?」
尤もな疑問だった。
彼女は、バルクと完全に結合した。シンクロ率を最大値まで上げたのだ。であれば、彼女はバルクと一体化してしまった訳で。
「もう、もうその姿にはなれないんじゃなかったのか? どうして、どうしてバルクから出れたんだ?」
そう尋ねてみても、彼女はこてんと首を傾げる。
薄々予想はしていたが、やはり彼女はよく分かっていないらしい。
とりあえず出れた。彼女側の言い分としては、それに尽きる。
これじゃあ埒が明かないな。質問を変えてみよう。
「……結合してからは、どんな感覚だったんだ?」
「んーっとね……なんか、まどろみのような感じ。意識はあるんだけど、眠っている……みたいな?」
「微睡み……」
「でもね、あの空の雷ね。あれが当たった時に、急に目が覚めた。からだの違和感も、すごかった」
「雷……赤い色のか?」
そう尋ねると、彼女はこくんと頷いて。その響きには、俺も心当たりがあって。
あの雷雲に見えた白い影は、一体なんだったんだろう。俺たちが浴びたあの稲妻は――――。
「それでね。結合、解けちゃったみたい。たくさん、背中にチューブが刺さってたはずなんだけど」
するりとボロボロになった戦闘服を解いて、彼女は背中を露わにする。その白い肌には、痛々しい傷の痕があった。
少女の体には、あまりにも重いその傷痕。つくづく、俺がやったことを思い知らされる。
「……ごめんな」
「ううん。ローグが謝ることじゃないよ」
彼女は、優しい声でそう言った。はだけた服を肩までかけ直して、前留めをゆっくり締め始めて。そんな彼女の姿を見ながら、俺はもう一度その傷痕を思い浮かべる。
確かに、結合が解けていた。
バルクの肉とは、確かに繋がっていたはずだ。しかしそれは、今や完全に外れてしまっていた。空いた穴は、竜人の驚異的な回復力によって既に塞がれようとしていた。
これは、これは一体どういうことだろう。
「あの雷撃が……接続を無理矢理中止させた? それとも、機竜の回路を強制遮断させるほどの電力……とか?」
少し考えてみるけれど、まるで答えが浮かばない。ダメだ、情報が少なすぎる。
「ローグ」
「んおっ」
ひしっと、ミューが俺の腰に抱きついてきた。少し頬をむくれさせながら、俺の瞳をじっと見上げてくる。
無視しないで。こっちを見て。
なんだか、目がそう言ってるみたいだった。
「……悪い。ついクセが出ちまった」
そう言いながら彼女の頭を撫でると、あの懐かしい感触が手に走る。
絹のように柔らかな髪。その髪に包まれた、形の良い頭。撫でると小さく漏れ出る、彼女の可愛らしい声。
「あの雷な、俺も浴びたんだよ。そしたら途端に上手く動けなくなった。……まるで、異物を混入させられたみたいにさ」
「いぶつ?」
「あぁ。あれ、もしかしたら機竜の回路を阻害する性質があるのかも。ただの雷じゃないみたいだ」
その言葉を区切らないように、そっと彼女の頬に手を添えて。
「……でもまぁ、なんだ。こうしてミューと触れ合えたなら、悪いだけじゃなかった、な」
本音をうっかり溢してしまう。それを聞いては、彼女が嬉しそうに顔を綻ばすのを見て、俺はつい口を滑らしてしまったことに気付いた。
今日のミューは、よく笑う。微笑が最大限だったあの頃じゃなくて、初めて出会った時のような無邪気な笑顔。久しぶりに会ったことがそうさせるのか。それとも、ここには俺たち以外誰もいないことがそうさせるのか。
ミューとまた会えるとは思ってもみなかった。
本当に、奇跡のようだ。夢じゃない。現実だ。俺もミューも、まだ生きている。生きて、こうして触れ合えている。
心の底から願っていたけれど、でも絶対にありえないことだって。ずっとそう自分に言い聞かせていた。
でも、そうじゃなかった。そうじゃなかったんだ。
「…………」
いまいち表情が読み辛い顔で、ミューは俺から目を逸らす。俺が入っていたあの肉の塊を、じっと見た。
「……気になるか?」
「……うん」
こくんと頷く彼女の顔は、少し苦しそうだった。
信じられない、という色と、やっぱりという色。それらを溶かしこんだような、そんな顔。
「昔、一緒に竜機兵の特訓やったよな。覚えてるか?」
「……うん」
「あれからな、ミューがいなくなってからな。俺は最後の竜機兵を造ったんだよ。自分用にさ」
「ローグ……人間なのに?」
「あぁ、人間なのに」
そう言うと、彼女はその細い手を伸ばしてくる。俺の目元を擦るように、そっと。
「……目」
「……これは、その副作用」
「……自暴自棄に、なった?」
「……結構、な」
藍色だったはずのそれが、緋色になっている。古龍の血を摂取して、無理矢理適合させた結果だ。
エスカドラから外れた今、身体の負担は随分とマシになってきた。やはり、人の力であれを動かすのは無理があるんだろう。こうしてミューに出してもらわなければ、俺はどうなっていたか。想像するだけでぞっとする。
「――なぁ、フィーニャ」
「……なぁに?」
「空から、見てたんだろ? じゃあ俺が何をしたか、分かってるよな」
「…………」
切り出した言葉に、彼女はそっと目を伏せる。沈黙を選んだ彼女の心を受け止めつつ、それでも俺は言葉を繋げ続けた。
「……ミューは、俺のこと……嫌じゃ、ないか?」
「……え?」
そんな言葉は、考えてもなかった。そう言わんばかりに、彼女は素っ頓狂な声を上げる。
それでも、俺にとっては避けられない問い掛けだ。だって、何故なら――――。
「俺はさ、全部全部裏切ったんだ。国も、恩人も、全部。それで世界をめちゃくちゃにしちまった。本当に、本当にどうしようもない馬鹿だと思う」
言葉が溢れ出す。感情が、堰き止められない。
「竜機兵をさ、なくしたかった。もう、こんなものに誰も巻き込まれないようにしたかった。でも、結果はこれだ。俺はただの、ただの大量殺人者なんだよ」
――――だから、俺が気持ち悪くないのか?
少し赤い色が混じった涙が、瞳から零れ落ちる。
小さい頃の、母親の叱責を恐れながらも自分の行いを白状する瞬間。なんだかそれを思い出すなぁと、なんだか他人のように感じた。
そんな俺の言葉を前に、ミューは。ぎゅっと、その手を自分の胸に当てて。
「……たぶん、ローグのしたことは悪いこと。許されないことだと、思うよ」
彼女は、そうはっきり言った。ばっさりと、俺を悪だと言った。
頭の芯が冷たくなる。
分かってはいたが、そう指摘されると余計に苦しい。
動悸が荒くなる――――。
「でも」
きゅっと。
ミューは、その小さな手で俺の手を握った。
冷えたそれを、柔らかな温もりが包む。
「でも、私のために戦ってくれたのは……嬉しかった。世界を敵にしても、私の味方でいてくれて……本当に嬉しい。だって、世界は最初から、私にとっては敵だったから」
優しい表情。なんだかとても優しい顔だ。俺のことを受け入れてくれる、とても温かな表情だった。
吐き出される言葉には、それはそれは黒いものが詰まっていたけれど。でも俺を見る目は、本当に優しい色をしていた。
「竜機兵は、やっぱりこの世界にあっちゃいけないと思う。人が好きに命を造り出すなんて、自分を神様と勘違いしてるみたい。竜機兵は、そんな完璧なものじゃないよ」
「……だな。なんたって、心があるからな」
「うん。人間や竜人だけじゃない。竜にだって……心はある。人間の目には見えないかもしれないけど、みんな感情があって心があるの。だから、道具なんかじゃないもん」
「……そうだ。そうだよ、な」
この世界は、人間のものじゃない。人間とて、ただの生き物に過ぎないんだ。
それでもシュレイドは、世界は自分たちのものだと信じ込んでいた。全て支配して、自分たちの好きなようにコントロールできると確信していた。そして俺も、その一人だったのだ。
けれど、世界を占めるのはむしろ人間以外の存在ばかりだ。
竜も、牙獣も、古龍でさえも。みな心をもっている。彼らはただの道具ではない。ただの資源ではない。人間と同じ、生物なのだから。
「ローグのやったことで、この世界はどうなっちゃうか、私には分からない。でも、何もしなかったら、きっと何も変わらなかったと思う」
「何も……」
「うん……だからね、ローグ。あなたはそのつながりを断ち切ってくれたんだよ。私たちを、解放してくれたんだよ」
「……解放?」
「そ、解放。だから、だから。ローグがみんなの敵になったとしても、私は……私だけは、あなたの味方でいる」
そう言いながら、ミューは俺の襟をぎゅっと引く。昔と変わらない、しゃがんでアピールだ。背丈の低い彼女の、昔懐かしいその仕草。
それに応えて腰を低めると、視界が唐突に埋まる。彼女の柔らかい胸に、埋まる。
「……やっぱり私ね、この世界のことは……この国のことはどうだっていいの。ローグが、ローグだけいてくれれば、もうなんでもいい」
愛おしそうにそう言って。俺の両頬を包み込んでは、そっと顔を近づけてきて。
――――重なり合う、薄桃色。
「……フィー……ニャ」
「…………だって。だって、私は……ローグのことが、大好き……だから」
花が咲くような笑顔だった。
こんな、火山という武骨な世界の中なのに。あまりにも不釣り合いな少女は、柔らかな笑顔を見せる。照れくさそうで、それでいて満面の笑顔を描くその姿は、まさに火山に咲いた一輪の花のようだった。
あぁ、そうか。
あの時、あのシュレイド城で。
最後に溢した彼女の言葉。黒龍に掻き消されてしまった、あの言葉。
その続きは、これだったんだ。彼女の想いは、これだったんだ。
思えば、あの時聞けなかった言葉の先が知りたくて、ずっとずっともがいてきたような気がする。それをようやく知ることが出来て、なんだか強張ってた心がほぐされていくような、そんな気がした。
「……あー、そうだったんだなぁ……」
今度は、俺の方から抱き締めた。
その小さな腰回りが、すっぽりと腕の中に納まってくる。抵抗もなにもなく、ただひたすら俺に触れようとするかのように。彼女は、ぎゅっと俺に身を寄せてくる。
答えは、シンプルだ。
シンプル故に、複雑だ。
それでも、とっても温かい。凄く、凄く幸せな色をしているようにも見えた。
いつかの戦場で、俺はミューを他愛のない兵器と言った。
でも、本当に他愛のない兵器だった。
当て字なんかじゃない。他者への愛などまるでない。その感情は、ただひたすらに、俺へと向けてくれていたんだ。
俺は
相反しているようで、パズルのピースのよう。俺たちはまさに、それだったんだ。
「――じゃあ、そろそろいこっか」
「……え?」
一体どれくらいの時間、抱き合っていたかは分からない。
ただ唐突に、ミューのくぐもった声が響いた。
「こんな熱いとこに、ずっといるの? 他の場所にいこうよ」
「あ、あぁ……そう、だな」
もう、と言わんばかりにミューは笑う。
困ったように、それでいてしょうがないなぁと優しい微笑みを浮かび出して。ミューは腰に回していた手を解くと、俺の両手をぎゅっと掴んだ。まるでしばらく水に浸けたかのようにしわくちゃになったその手が、温もりに沈む。
「あの子は、どうするの?」
「あの子?」
「ほら、あのとげとげの子」
「あー……」
エスカドラは、静かに地に伏せていた。
もう動かないだろう。きっともう、目は覚まさないだろう。
ここまで付き合わせちまって、ごめんな。こんな場所で悪いけど、ゆっくり眠ってくれ。
せめて人の手が届かないこの場所で、もう人間に振り回されないように。
「ここが、あいつの墓だ。あいつはもう動かないから、ここでゆっくり眠ってもらいたい。ここなら、誰にも邪魔されないと思うから」
「……うん。ローグが、そう言うのなら。おやすみ、ね……」
ミューはやや不満そうに、それでも折り合いをつけるように自らを納得させて。そうして、横たわる巨体に向けてそう囁いた。
相変わらずだ。相変わらずの、優しい奴だ。
短い時間ながらも俺の半身となってくれたその存在に気に掛けてくれて、少しばかり報われたような気がする。あいつも、俺も。
「……でもさ、行くって言ったって、どうやって?」
「バルクが、いるよ。この子の力を借りれば、どこへだって行けるよ」
一方の、銀の機竜。
ミューの背後で、まるで眠っているかのように目を閉じる機体。
この世界で最初に生まれた竜機兵は、傷だらけでありながらもその風格は失っていなかった。溶岩の光を反射しては、淡い緋色を身に灯す。
「――そうか、そうだな。俺たちなら、どこへだって行けるよな」
「……どうせなら、行けるとこまで行っちゃおっか?」
そう、ミューが俺の手を引いて。
彼女の思わぬ誘いに俺は応じながら、ぎゅっと、その手を握り返した。
「あぁ。どうせなら、成層圏まで」
◆ ◆ ◆
空が見たかった。
あんな、最後の兵器に詰まったままの景色じゃなくて。ミューと一緒に、ミューが見ている景色を、俺も見てみたかった。
ミューは、優しく飛んでくれている。
あの黒龍の毒牙から俺を庇ってくれた時のような、内臓を全て置いていかれるような速度ではない。俺が、俺の体が悲鳴を上げないように。優しく、優しく飛んでくれている。
軽々と俺の体を抱き上げて、その翼から火を吹かすバルク。
以前と変わらないその仕草に、俺の心はどうしようもなく
頬を撫でる優しい風が、とても心地いい。俺ごと包む、ミューの緋色の炎がとても温かい。寒さも、突風も、熱い太陽光も。何もかも遮って、俺を守ってくれるその光。
本当に、温かいのだ。
「うっ……眩しっ」
唐突に、光が差し込んだ。
淡い色をした雲の、その出口の方から。
鋭い光が、瞼を貫くように差し込んでくる。
「クォ……」
「……もしかして、もうすぐ雲を抜ける感じか?」
心配そうに俺を見るバルクにそう尋ねると、機竜はこくんと頷いた。
そのまま、翼を展開。
重力に強く抵抗するように、大きく開いたその翼。轟々と音を立てながら火を吹く反面、上昇する速度は少しずつ緩慢になっていった。
ゆっくり、ゆっくりと。ミューは、ゆっくりバルクを上昇させる。
雲の色がさらに薄くなり、透き通った空の色が混ざり始めた。まるでわたあめの端のようなそれは、霧のように霧散していく。光が、徐々に徐々に強くなっていく――――。
火山を越え、雲を抜けて、天地が逆さまになって。
ようやく抜けた雲海を前に、世界は大きく、その目を開けた。
空は、夜明けを描き出している。
雲が、少しずつ白色に染まりつつあった。西の空には星が瞬いて、藍色の絨毯を大きく棚引かせる。しかし東から溢れる緋色の光を前に、その絨毯は少しずつ空の色に溶けていって。尾を引くその光の帯が、眩しい朝日を大地へと反射させた。
夜の藍色と、朝日の緋色。それらが反転して、成層圏を描き出す。
そんな光に包まれた世界は、何とも美しかった。全く別の色が同居して、なおかつ反転していくその様子は、本当に美しかった。
「……凄い。これは……言葉を失うな……」
ダメだ、何も出てこない。
ここで少し、気の利いたセリフでも言ってやりたかったけれど。どうも俺は、こういうのは向かないらしい。凄い、という言葉しか、口から零れ出てこなかった。
「クウゥ……」
「……フィーニャ、凄いな。お前の見ていた景色は、こんなに綺麗だったんだな」
手を伸ばして、その頬を撫でる。
機体越しに撫でたその手に、ミューは嬉しそうに喉を鳴らした。くるる、なんていう可愛らしい声が、この銀色の喉から聞こえてくる。
ミューは、ずっとここにいた。立場も居場所も、全て追われてしまって。そうして辿り着いたこの世界。ミューがずっと見ていた景色。
「……なんだ。世界も、悪くないじゃん」
一人だったら、もう何もかもどうでも良かった。
世界がとても汚く見えた。無くなってしまってもいいとさえ思ったこともあった。
でも、ミューが見せてくれた景色。この景色は、本当に美しい。
これをミューと、フィーニャと一緒に見られるんだったら、もう少し生きてみてもいいかもって、今はそう思う。
――――俺は最初に、色を疑った。
目に見えてる景色は、本当に本物なのかって。
人間の目にはこんな色に映るだけで、実際には全く違う色なんじゃないかって。
小さい頃は、ずっと考えていた。
色は、目を通って脳で処理する。実像ではなく、虚像でしかない。肉体という枷に縛られている以上、俺はきっと、本当の色というものを知ることはできないだろう。
だから。
だから、せめて。
この美しい景色が。フィーニャと一緒に見ているこの景色が。
実像であってほしいと、本物であってほしいと。
俺は心から、そう願うよ。
タイトル回収。
ロシアでは何百万か積めばジェット機による成層圏飛行ツアーができるらしいですね。ローグさん生身でそれやるの巻。
書きたかったシーンは、このミューの見ていた景色をローグが見るところ。これを見たいがために、この作品を書いたのでした。『藍緋反転ストラトスフィア』は、実はこういう意味でしたっていうね。
藍ストは、実質この話で完結です。次のエピローグは、後日談というか、歴史の整合性に努めたお話です。
よろしければ、最後までお付き合いいただけるとうれしゅうございますm(_ _)m