サイレンススズカがゲートを潜った!
そんな悲鳴めいた声が聞こえたのは3月2日の曇った日の午後、G2である報知杯弥生賞の時だ。
ゲートを潜った瞬間の声が周囲から聞こえた時の俺は、レース場のちょっとだけ高い場所にある観客席から柵を越えて落ちてしまっていた。
落ちるまでにいたった理由は、ゲートに収まったサイレンススズカをよく見ようとして身を乗り出し、柵を掴んでいた手がすべったからだ。
そんなかっこ悪い理由だったが、妹みたいなスズカの様子が心配になって慌てて立ち上がると100mほどの距離がありながらも彼女と目がばっちりとあう。
目があったスズカは、俺が無事そうな姿を見ると安心したふうに大きいため息をついたあと、係員に誘導されてゲートの裏側へと歩いていった。
元の場所へと戻った俺は、スズカに怪我がないか身体検査が終わって始まったレースを申し訳ない気持ちで見る。
全14人のレースにて5枠8番で出走するはずだったのに、問題を起こしたせいで大外枠である14番のひとつ隣から出走することになった。
レースが始まった時、精神が乱れていたのか前回のデビュー戦とは違って気持ちよいスタートではなかった。
ゲートが開いても出るタイミングが悪く、大きな出遅れで最後方から始まり、その後は後ろから2番目の位置で走る。
その後、外から追い込んで8着になった。
それは俺がいなければ違った結果、1着とかになれたんじゃないかと思う。
だから、レースを終えたあとのスズカが俺のほうへと優しい笑顔を向けてきたのが辛い。
逃げるようにしてレース場から家へと帰る途中、スマホにスズカから連絡が来たものの、その全部を無視した。
今日という日のために練習していたというのに、俺が結果を悪くしてしまった自身の罪悪感に立ち向かえなかったから。
もし話をしたら、今の兄と妹のような関係が壊れるんじゃないかと思って。
◇
そう思った翌日の月曜日。学校の授業が終わったあとの午後3時過ぎ。
気分が悪かったものの休まずに高校へ行ったが、テンション低いままに授業を終えてアパートに帰ってくる。
防寒着のコートは脱ぐも、制服である黒の学ランから私服へ着替える気力もなくて自宅のアパートの玄関で仰向けに倒れる。
天井を見上げながら考えるのは、レースの時にスズカを不安にさせたことだ。そのことで後悔と申し訳ない気持ちでいっぱいになっている。
昨日と同じ曇り空だったから、学校にいるときは空を見るたびに思い出してしまっていた。
ぼぅっとした時間を過ごしているとスマホにスズカからの着信がある。
スマホを手に取って画面に映る名前を見ながら着信が切れるまで待ち、切れた瞬間に安堵のため息をつく。
でも逃げてばかりじゃいられない。今すぐにでもスズカに電話をして謝らないといけない。
そして、これからも仲良くしていきたいと。
そう思っている俺は、首だけを動かしてスズカの色が濃くなった部屋の中を見る。
スズカと出会うまでは俺だけの物しかなかったが、出会ってからは時々泊まるということもあってスズカの私物がちょこちょこと増えていった。
お気に入りのこんぶ茶や歯ブラシやマグカップ、尻尾用のブラシに手入れ用の油などが置いてある。
スズカと一緒にいるときは気分が落ち着いていい。少しアホの子だけど、気を遣わなくてもいいから。かわいいスズカを見ているだけで癒される。
それにスズカが学校やトレーニング関係で落ち込んでいる時に励ますと、俺にもできることがあるんだという充実感がある。
ただぼんやりと生きているだけじゃなく、スズカがいるからこそ学校や料理の勉強にやる気が出て、日々の生活を頑張れる。
その結果はスズカを養っている気分になるんだけど。スズカにご飯を作り、勉強を教えてあげるというのは。
妹がいれば、こういう感じなんだろうなぁ……。
そんなことをぼんやり考えていると、俺の部屋にチャイムの音が響き渡った。
スズカが来たのかと思って勢いよく起きあがり、ドアののぞき窓を見る。
そこには緑色の耳カバーやカチューシャをつけた制服姿で、茶色のダッフルコートを着ているスズカがいた。
さっきまではスズカと電話するのにも悩んでいたが、こうやって目の前に来ているスズカを寒い外へと置いていくわけにはいかない。
俺は急いでドアを開ける。それと同時にドアノブを握る手に衝撃と何かがぶつかった大きな音が聞こえてくる。
ぶつかってからゆっくりドアを開け切ると、スズカがちょっとだけ涙目でおでこを両手で押さえていたからドアにぶつかってしまったんだなと理解してしまった。
「なんでドアのすぐ前にいるんだ」
「アキくんは部屋にいるかなって、のぞき窓から見ようとして……」
「外から見えないだろ、これは。チャイム鳴らしてから10秒も経ってないし、少しは待てないのか」
「だってアキくんに早く会いたかったんだもの」
あきれた声で言うと、小さな声で言い訳してきたスズカ。
スズカからの電話を無視していたというのに、文句を言うわけでもなく俺に会いたいというスズカがかわいらしい。
こんな姿を見せられると、何も言わずに無視していた俺が小さな男に見える。自分勝手な理由で拒否していただなんて。
「寒いから早く入ってくれ。帰ってきたばかりだから、ヒーターのスイッチはまだ押してないが」
「じゃあ体を温めないといけないから、私がふたりぶんのこんぶ茶を淹れてあげる」
そう言ってスズカは靴を脱いで部屋へと上がり、まるで自分の家のように棚からこんぶ茶の袋を見つけると、流れる動作でヤカンを掴むんでは水を入れて沸かし始めた。
週に2日ほど家に来ているのが5か月も続いているから、時々自分よりも家に詳しいことに驚くことがある。
いつかスズカの別荘のようにされそうだなと苦笑し、靴を脱いでスズカが脱いだように綺麗にそろえるとスズカの横を通り過ぎてオイルヒーターのスイッチを付けに行く。
後は脱いだ服や読んだ本が散らばっているのを片付け、ついでに丸いちゃぶ台を布巾で水拭きをした。そうしてから用意するのは座布団だ。
スズカ用に買った濃い緑色のと俺用の落ち着いた赤色のふたつだ。
それらをちゃぶ台越しに向かい合わせるように置くと、お茶が来るまで座って待つ。
その間、ぼんやりとしながら見るのは壁から麻紐で下げてあるスズカの蹄鉄だ。はじめは棚にしまっておこうと思ったが、ずっと見ていたくて飾るようになった。
もちろん錆びないように時々手入れをしている。
スズカの初勝利記念としてもらった蹄鉄をぼんやり眺めていると、スズカがマグカップ2つを持ってやってきた。
俺はこんぶ茶が入ったマグカップを受け取るとスズカは自身の座布団へと正座で座り、俺はあぐらをかいて座る。
座ったスズカはコート脱いで隣に置くと俺が見ていた方向を見た。
それが自身の蹄鉄だったのが嬉しかったらしく、小さく笑みを俺へと向けてくれる。
それだけで喜んでくれるのがかわいく、でもなんだか恥ずかしくなる。
オイルヒーターでまだ暖かくならない部屋で、スズカの視線から逃れるように熱いこんぶ茶を飲むと体の中から温かくなり、気分がよくなった。
お互いに言葉もなく、でもそれが嫌にならない静かな時間。こんな時間を続けていたいが、俺には言うことがある。
こんぶ茶を飲み終える頃には俺の覚悟は決まり、昨日やってしまったことを謝るのとスズカに罵倒されてもいいような心構えの準備ができた。
「スズカ、昨日のことなんだが」
「うん、とても心配したのよ。慌ててゲートから出てしまうほどに。
昨日、今日とアキくんは電話にでないから骨折でもしたのかなと思ったんだけど、今の様子を見ると大丈夫そうでよかった」
そう言ってスズカは俺を責めるのではなく、落ちてしまったことを心配してくれた。
安心したように笑顔を向けてくれるスズカに対し、俺は深呼吸をして気合を入れる。
「昨日は悪かった! ターフの上にいるスズカを見て興奮したあまりに身を乗り出して落ちたんだ。それが原因でスズカの精神に悪い影響を与えたんだって思うと、スズカからの電話を受ける気にはなれなくて……」
「私が負けたのは私が悪かっただけ。私の心が弱かったの。それが早いうちに気づけたから悪いことじゃないと思う」
「それは俺に心配かけないようにと言っているんじゃないんだよな?」
「私は走ることに関して嘘なんて言わない。アキくんは悪くない。
……だから、レース場に来れる時はまた見に来てね?」
不安な表情でそう言葉をかけられた俺は、ひどく大きい安心のため息をついた。
よかった。
スズカに嫌われていなくて本当によかった。
「もう見に来ないでと言われる覚悟があったんだが」
「そんなこと言わない。私のほうこそ動揺してみっともない走りを見せたから、嫌われたかと思ってた。……電話に出てくれなかったから、ずっと不安だったのよ?」
不満そうに頬をふくらませ、両手でちゃぶ台をぺしぺしと軽く3度叩いて怒っていますアピールをするスズカ。
お互いがお互いに嫌われていると考え、気持ちのすれ違いが怒っていた。でも俺とスズカのどちらもそんなことは思っていなく、むしろ心配をしていた。
「できるだけ見に行くよ。行けない時はスマホで見ることになるけど」
「それでいいわ。画面越しでもアキくんが見てくれているのがわかれば、私はたくさん頑張れるから」
「見ているだけで?」
「うん。アキくんがいたから今の私はいる。だからこそ、私の走る姿を見て欲しくて」
少し恥ずかしげに言うスズカがかわいくて、頭を撫でてしまいたい欲にかられて立ち上がるも、それよりも早くスズカが立ち上がる。
急にどうしたと思っていると、何も言わずに玄関へと行き、玄関のすぐ外に置いていたらしい段ボール箱を取ってきた。
両手で抱えるほど大きく、たくさん物が入っていそうな段ボール箱をスズカは嬉しそうに目の前の床へと置く。
その時、大きな音と共に置かれた段ボール箱によってフローリングの床がきしんだ音が聞こえた気がした。
「これは?」
「いつものおみやげ。トレセン学園や商店街で買ってきた野菜とお惣菜が入っているわ」
スズカはこうして俺の家に来る時、野菜を持ってくることがある。でもそれはビニール一袋分と言った少量だったが、重い音からしてこれほど多いのは初めてだ。
それにしても段ボールか。バッグに入れてくるとかの見た目に気をつけないのがスズカらしいというか気はするが。
女子力が足りないんじゃないかと思ったが、トレセン学園では物を運ぶのに段ボールのほうが一般的かもしれない。
音の重さに驚いているとスズカが自信ある笑みを浮かべ、褒めてというように表情や尻尾がそわそわとしているが俺はそれを無視すると、しゃがみ込んで段ボールを開ける。
俺に無視されたスズカの尻尾が顔や首筋に強く当たってくるのを耐えつつ中を見ると、鮮度がよい野菜とコロッケやとんかつなどの総菜が入っている。
「普段持ってくるのは野菜だけなのに、惣菜があるなんて……」
「驚いた? 野菜だけ買ってアキくんに料理してもらっていたけど、時々はこういうのを買ってもいいかと思って」
「ああ、驚いた。総菜といってもたい焼きやたこ焼きといった、おやつの詰め合わせかと思った」
段ボールのフタを閉め、感心した俺はスズカを褒めようと見上げたが、スズカは俺に目を合わせず、耳はばらばらと左右に動いて落ち着きがない。
この様子を見ると、どうやらおやつを買おうとしたらしいが、何かがあって総菜へと変化したみたいだ。
立ち上がって俺はスズカの頬を両手で押さえると、目を合わせるように顔の向きを向ける。
「最初はおやつを買おうとしていたんだな?」
「えっと、そう思っただけで買ってはいないわ」
「こうなった経緯は?」
「……商店街をうろうろしていたら心配されたのか、赤い耳カバーをつけたツインテールなウマ娘の子に買い物を助けてもらったの。なんでもここは地元だから任せてって言われて」
「次に会うことがあったら感謝しておかないとな」
これですっきりした。
どこかずれているスズカが最初から総菜なんかを買うわけがないから、理由がわかると安心する。
持ってくるおみやげも変わったものが入っている時がある。同じ野菜でもおかわかめ、アイスプラントといった一見してどう料理していいかわからないものが。
いつものスズカらしく安心した俺は頬から手を離して段ボール箱を持ち上げようとするが、結構重く、少しだけ気合を入れて冷蔵庫の横へと持っていった。
置いて戻ってきた俺は立っているスズカの前まで戻ってきたが、これからどうしようかと悩む。
ご飯を作るのにはまだ早く、テレビを見る気分でもない。だからといって寒い外へ用事もなく出かけたくもない。
「何かしたいことがあるか?」
「うーん……アキくんと話がしたい。普段のこととか」
「スズカがそれでいいなら」
話なんてのは普段からしているし、この時間なら遊びに行くこともできるから変なことを言うなぁと思いつつ部屋の壁に背を預けて座り、足を伸ばす。
そうするとスズカがやってきて俺の前へしゃがみこむと、俺の両足を掴んで横へと広げてくる。
何をするのかと思い、黙って見守っていると広げた足の隙間へと体を入れてきた。
俺の胸元へと背を預けて座る体勢。それはいわゆるスズカ専用座椅子のようなものになった。
こういう態勢をされると、スズカの女の子らしい体のやわらかさを…………感じない?
別にスズカに胸がないからというわけじゃない。それに胸は前にあるから関係ないし。体のやわらかさを感じないのは、レースに出るウマ娘だからこそ鍛えられた筋肉の体だからだと思う。
それでも男とは違って髪からはいい匂いがするし、間近で見るスズカの肌は綺麗だ。
真後ろから見ている今、安心した息をつくスズカの耳は横向きに倒れ、リラックスしているのがわかる。
俺の口元近くに耳があるのを見ると、やわらかそうな耳を口に入れたくなってくる。
そんな気持ちを理性でもって全力で抑えつける。さすがに耳を舐めるとかそんなのは変態じみた行為だ。
「アキくん、今の気分はどう?」
「え、あぁ、今か? 今は……スズカの肌はこんなに綺麗だっけとは思う」
スズカの動く耳に心を奪われていたが、そんなことは言わずに気になっていたことを聞く。
出会った頃は幼い印象だったけど、こうして後ろからとはいえ近くで見ると綺麗だなと思うから。
それでも不思議と心がときめかないのは女性として認識できていないかなと思う。
普通、こういうふうにくっつけば思春期の男子高校生としては興奮するはずだけど、まったくそんなことはない。
恋愛感情がないということもあるけど、まぁスズカは妹みたいなものだからか。
単に俺の好みが金髪巨乳の女の子ということもあるが。現実でそんな子は滅多にいるものじゃないから、理想という夢でしかない存在になっている。
「アキくんに綺麗と思われていたいから、スキンケアについて勉強したの」
「スズカが美人なのは見ていて気分がいいから、俺としては嬉しいけど」
「それならよかった」
俺へと振り向き、嬉しそうな笑顔を浮かべるスズカ。
その表情を見たら心の奥底から湧き上がってくる、謎の感情に整理をつけるために両手でスズカの頭をわしゃわしゃと撫でつけてしまう。
しばらくされるがままでいたスズカは俺が満足して手を離すと、手櫛で髪を整えた。
「ふふっ、まるで恋人みたいなじゃれあいね」
「兄と妹だろ、これは。他の人が見ても俺と同じことを言う」
「そうかしら?」
髪を直したスズカは体を俺へと向け、至近距離で見つめてくる。
上目遣いでまっすぐに俺を見てくる表情は何かを決意したかのような。
「私とアキくんはとても仲がいい関係よね」
「そうだな。でも、レースを邪魔した罪悪感がまだあって、ちょっとだけ距離を取ろうとも考えているんだ」
「そんなの私は気にしてないわ。だから距離を取らないで」
強めに言ってきたスズカは俺の背中へと腕を回し、壊れ物でもさわるかのようにそっと抱き着いてくる。
さっきの背中とは違い、胸がとても控えめなスズカのでも体に当たっているとわかるとドキドキしてくる。
緊張した俺がスズカの動きに反応することができないでいると、スズカは俺の耳元でささやいてきた。
「もうアキくんがいないと、生きていくのが苦しい体になっちゃったの」
抱き着き行為と意味深な言葉に深い理由を想像しそうでいると、さっと俺から体を少し放してはにんまりと笑みを浮かべていた。
「アキくんのご飯を食べないと心の疲れを癒せなくて。あと私の遊び場所もなくなると困るから」
「深い意味がありそうで驚いたぞ、この天然ウマ娘!」
スズカの肩を掴み、ガクガクと揺らしては大声でそういうことを強く言う。
一瞬だけエッチな意味かと思ったじゃないか。知らないうちにスズカの体になんかやってしまったかと驚いた!
「アキくんを驚かせることができて嬉しい」
俺だけドキドキして緊張したというのに、すっきりした表情をするスズカに腹が立って脇腹を全力でくすぐることにした。
スズカを笑わせ始めるが、同じようにスズカも俺にしはじめ、お互いに向き合って相手をくすぐりあうというワケのわからない状況が発生する。
それが5分ほど続いて息が荒くなるほど笑い、じゃれあったあとはふたりとも壁に寄り掛かって息を整えていく
「私にとってアキくんは大事な存在なの」
肩がふれあうほど近くにいるスズカは突然そんなことを嬉しそうにそう言った。
「そこまでか」
「うん。走るためにトレーナーやトレセン学園はあるけど、それとは別に私にはアキくんが必要よ」
「ご飯係で?」
「違うわ。私が変なことをすれば怒ってくれるし、甘えたいときは甘やかしてくれる。まるで少女漫画に出てくるシスコンのおにいちゃんみたいな」
「誰がシスコンだ!」
とても心外なことを言われたので、スズカのおでこへとデコピンを2度、3度と強く力を入れてぶちかました。
痛いことをされているのに、されるたびに楽しそうにしている。
まさかスズカはいじめられて嬉しいのかということが頭にちらつくも、その考えはしまっておくことにする。変な属性がついたと認識してしまうと、俺の苦労が増えるから。
「学校で嫌なことをされるのか?」
「私はアキくんと会うまでは人にそれほど興味がなかったから、怖がられていて」
「お前が怖がられる?」
この天然ウマ娘のどこが怖いのだろうか。
1人で歩かせるようなものなら、自分から電柱に突っ込んでいきそうなイメージがあるというのに。
「お昼ご飯に誘われても仲良くしようとしなかったし、威圧して追い返していたの」
「今でもか?」
「ううん。同期の子やチームの先輩とは仲良くできていると思う。タイキやフクキタル、フジキセキ先輩たちとも話をよくするようになったと思う」
スズカから始めて聞く、他のウマ娘の名前。今日になるまでチームのウマ娘の名前なんて聞くことがなかった。
厳しい女トレーナーの話はちょこちょこ出ることはあったが。
「アキくんが私に優しくしてくれたから、私もまわりの人に優しくしようと思って。アキくんは私にとって大切な存在だけど、アキくんは私のことをどう思っている?」
「スズカの助けになれているから嬉しいよ。スズカが家に来るたびにご飯は何を作ろうかと思うし、たくさん食べる姿を見るのは好きだ。リスみたいな小動物みたいで癒される」
「それならよかっ―――……小動物? 私が?」
ムスッとした顔をしたスズカが、隣から俺の伸ばした足の上へと乗ってきてにらんでくる。
普段はぼけーっとしているのに、今だけはレースみたいに厳しい顔になっていた。
小動物と言われるのに何か嫌な思い出があったみたいらしく、何か他の言葉に言いなおそうとするが何も思いつかずににらまれ続ける。
「アキくん」
「あぁ、なんだ?」
「私は猫みたいに愛らしい動物だと思うの」
「……なんだって?」
「だから本物の猫を相手しているみたいに頭を撫でるとか、褒めると喜ぶのにゃ」
「何を言っているんだウマ娘」
本人がウマ娘な女の子なのに、さらに動物要素を付け足すとは。
意外とかわいい、いや、変なことを言うスズカのほっぺたをぐにぐにと両手でもんでいると、こんなことをされているのに嬉しそうにしている。
うん、これなら犬っぽい。実際の犬もこうやってぐにぐにされても抵抗しないし。
そうやってほっぺたの感触を楽しんでいたが、1分ぐらいさわったら満足したスズカを開放する。
顔をさわれていたからか、スズカはなんだか赤くなっていて恥ずかしそうになっている。そのことを笑うと、俺の顔へと頭を近づけては耳でぺしぺしと俺の顔を叩いてくる。
それはくすぐったく、かわいらしい。
少ししてから俺の顔から頭を離し、けれど俺の足の上に乗っかっているスズカは真面目な表情をして言う。
「私をもてあそんだアキくんには罰を与えます」
「もてあそんだうちに入るのか、これは」
「私の寮まで迎えに来て、一緒に登校すること。アキくんは自転車通学だから、少し家を早く出るだけで間に合うはず」
トレセン学園の場所はわかるものの、寮となると詳しくはわからない。まぁ、寮なんだから学園に近くはあるんだろうけど。
行けなくはないだろうけど、でも俺の家を出てから寮を経由してとなれば結構な時間が経つ。
「寮の詳しい場所は?」
「あとで住所と待ち合わせする寮の場所を写真で送るわ。そうしないとアキくんが迷子になるから」
「別に待ち合わせ場所を間違えても、知らないウマ娘と仲良くなって一緒に登校するよ」
「そんなことをされたら、私は悲しさのあまりに隣の山まで走りに行くわ」
「なんで自主朝練をしようと考えるんだ、お前は」
「私はアキくんと一緒に登校したいの。ほとんど夕方にしか会わないから、起きてすぐに会いたくて。だから、そんないじわるなこと言わないで」
「わかった。言わない。でも、本当にあまえんぼうだなぁ、スズカは」
そう言った途端、恥ずかしげに俺の胸をぽすぽすと両方の手で軽く叩いてくるスズカ。
恥ずかしそうにする表情がかわいく、ずっと見ていたいなぁと思うも段々と力が強くなってきて痛いので長くは見れない。
両手を抑えようとするもスズカの力は強くてうまく抑えられず、バランスを崩して倒れてしまう。
そしてスズカは俺のすぐ横へと片手をつないだまま倒れていく。
その時に手をほどこうとするも、スズカは改めて手をつなぎなおしてはぎゅっと力を軽く入れて握ってくる。
それで手をほどくのをあきらめると、スズカはそれを見て嬉しそうだ。
「スズカはどじっ子だから、ずっと見ていないと危なっかしくて心配だ」
「だったらずっと私を見ていて。危なくないように」
「再会した時からずっと気にしている。料理を上手になろうと思ったのはスズカのためだし、半分ぐらいはスズカのために生きているかもな」
我ながら恥ずかしいことを言ったかと思っているとスズカは俺から離れて床を転がり、自身の顔を手で押さえながらバタバタと足が雑に動いている。
それが一通り終わると、顔を隠している指の隙間から俺のことをじっと見つめてくる。
「おにいちゃんのひとたらし。女泣かせ。おたんこにんじん」
「その雑な罵倒はなんだ。あと最後は初めて聞いたぞ」
スズカのいじけた姿を見て苦笑する。
友達や友人よりも仲がよく、恋人まではいかない。それは兄と妹のようなもので、出会った時から続く関係はとても居心地がいい。
だから俺たちはこれからも続けていくだろう。
時々スズカは兄と妹以上の関係を求めてくるけど、それはたぶん兄を慕うようなもので恋愛感情とは違うものだとは思う。
理由はないけど、それは友情だと思うから。