謳う者   作:百日紅 菫

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愛を謳う

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 幼馴染のあいつの両親が亡くなったと聞いたのは、中学一年の秋だった。

 その年の12月から、あいつは学校に来なくなった。小学校の頃からいっつも同じクラスで、地味な奴だったのに、席が離れていても目に入っているのが普通で。あいつが学校にいないのを見たことなんて、一度も無かった。

 家も隣だったから、学校から出された手紙なんかを届けに、毎日あいつの家に行った。昔から仲が良くて、どっちの両親もアタシたちの事を自分の子供みたいに思ってくれていたと思う。

 莉嘉もあいつのことをお兄ちゃんって呼んで懐いてたっけ。

 だから、学校に行っても、あいつの家に行っても、町を歩いても、あいつの姿が無いという現実が信じられなかった。

 でも、中学二年の一学期末テスト。あいつのことを忘れるように勉強をしていたアタシの前に、あいつはいきなり現れた。

 誰もが憂鬱になる期末テスト当日。アタシが教室に入った時には、すでにあいつはいた。出席番号順に座るから、迷うことなく席に座ったのだろう。最後に見た時より、なんというか、存在感が薄くなっているように見えた。

 幸薄そう。

 誰かが笑いながら言っていた言葉が、とてもよく似合っていた。 

 触れれば壊れてしまいそうな彼に話しかけることもできず、三日間のテスト期間は過ぎ去った。

 それと同時に、またあいつは学校に来なくなった。まさか、学生のほとんどが嫌いなテストだけを受けに来たのだろうか。

 その後も、あいつは期末テストの期間になると、学校にその姿を現した。テストがある三日間だけは、家に戻っているようだった。

 そして、あいつがテストの期間だけ学校に来る理由が、ようやくわかった。

 中学を卒業した後、三年間アタシ達の担任だった先生が教えてくれた。

 「あいつには黙ってろって言われてたんだけどな、城ケ崎だけには教えておこうと思ってな。お前、すげぇ心配してたし」

 担任には、アタシが心配しているように見えていたらしい。

 担任と両親からの又聞きになるが、あいつは中学一年生の12月に義務教育だから学校には来なくてもいいと判断したらしい。そして、両親の遺産を少しでも残すために、地元である埼玉を離れ、茨城県で父親の妹夫婦がやっている農業や近所の喫茶店を手伝って、お小遣いという名のバイト代で暮らしていたらしい。元から住んでいたあの家のローンはすでにあいつの両親が払い終えており、水道光熱費なんかは、あいつの両親と仲が良かったアタシの両親が払っていたそうだ。

 そして、テスト期間の度に戻ってきていた理由は、進学の為。

 両親を失い、少ないとはいえ確かに申し出のあった親戚の扶養をすべて断ったあいつは、国からの助成金を貰えるらしいが、それでも将来を考えるなら高校は出たほうがいいと、担任が助言したらしい。その結果、出席日数や授業態度などがあまり関係ない、学力重視の私立高校を受験することに決めたあいつは、テスト結果という受験に唯一必要な成績を得るために、テスト期間だけこの埼玉に戻ってきたらしい。

 「んで、結果はオール満点。受験も無事主席合格で、返済不要の奨学金を貰って格安で東京の高校に進学を決めたよ。授業を受けずにあれだけの成績を出しちゃうもんだから、教員連中は立つ瀬がないよ」

 それを聞いたアタシは、教室で泣きながら写真を撮ったり、卒業アルバムにサインを書いている友人たちに見向きもせずに、あいつの家へ走った。

 教室の扉を叩きつけるように開き、卒業式直後で騒がしい廊下の人込みをかき分けて、三年間通った通学路を振り返ることなく全力で駆け抜ける。

 いつもは10分以上かける道のりを、5分足らずで完走し、自宅の前にたどり着く。運動部にこそ入っていなかったけど、体力にはそれなりに自信があるのだ。

 アタシとあいつの家の前に、アタシの両親とあいつが立っていた。

 「すみません。ただでさえご迷惑をお掛けしてたのに…」

 「いいんだよ。それより、本当にいいのかい?この家を売ってしまって」

 「……え?」

 息を切らしながら、三人の近くに寄ると、予想だにしない言葉が出てきた。

 売る?十数年を過ごして、あいつの両親との思い出が詰まったあの家を?

 「今の…どういうこと?」

 「美嘉…」

 「ねぇっ!どういうことなの!?」

 中学卒業に対する感慨深さも、全力疾走の疲れも、今まで一人で頑張っていたあいつへの言葉も。

 頭から全部吹き飛んで、アタシ達の思い出を壊そうとしている彼らに詰め寄る。

 「…この家を土地ごと売る。帰ってこない家に、価値は無いから」

 「価値って…でも、おじさんとおばさんと暮らしてた家なんだよ?」

 「父さんも母さんももういない。俺も出ていく。今まで維持費を払ってくれてた城ケ崎さんには悪いけど、売る契約ももう済んだ」

 「そんな…そんなことっ!」

 久しぶりに話したと思ったら、なんだそれは。

 いつから決めていたんだ。今まで何を考えていたんだ。何より、アタシ達の思い出は、そんなに簡単に売ってしまえるようなものだったのか。なにより、自分の両親と暮らしていた思い出の家を、なんで売ってしまえるのか。

 たくさんの思いと気持ちが溢れ出し、言葉にするよりも先に、体が動いた。

 乾いた音と、驚いた両親の顔。アタシを真っすぐに見据えていたあいつの顔は横を向いていて、アタシの右手があいつの頬を叩いたのが、後から分かった。

 フーッ、フーッ、と走った後の息切れとは違う、でもそれ以上の息苦しさがある。

 「お姉ちゃんっ!?」

 重苦しい雰囲気の中、三人を残して家に入ると、玄関にいた莉嘉がアタシを呼ぶ。いつもなら、どれだけ疲れていても返事をするけど、今日ばかりはそんな余裕はなかった。

 タンタンと階段を上り、引っ越しの荷造りを終えて段ボールの積み重なった自室に入る。

 実のところ、アタシも東京に引っ越すのだ。

 去年の暮に、モデルにスカウトされ、その仕事の都合と自分の学力を照らし合わせて、東京で一人暮らしをしながら、仕事と学校を両立することに決めた。

 だから、あいつが東京に行くと聞いたときは、素直に嬉しかった。一緒に都内にいるのなら、県が離れるよりも会いやすいと思ったから。

 でも、それも実家が残っているからこそ。思い出があって、それを共有してこそだ。

 それをあいつが一方的に捨てるというのは、アタシたちの絆が削られているようなものだ。

 もう一人の父と母。あいつにとっての実の両親という、大事な思い出と絆。

 このままあいつに謝ることなく、アタシもあいつも東京に行ってしまえば、もう二度と会うことも無いかもしれない。

 二人とも東京に行くけれど、どこの高校に行くかなど知らない。いくら東京が大きくないと言っても、何処にいるかもわからない人一人を探し出すのは難しいだろう。砂漠で砂一つ、とまではいかないだろうけど、森で木一本を探し出すくらいの難易度はありそうだ。

 それでも、アタシの足は動かなかった。

 今でも思い出す。

 中学最後の卒業式は、最悪の一日だった。

 

 

 

 

 「おーい、美嘉?大丈夫?」

 「え、ああ、ごめん。なんだっけ?」

 346プロダクション。巨大な城を彷彿とさせる事務所の休憩室で、ピンク髪のギャルとショートヘアのやけに大人っぽい女子高生が飲み物を片手に会話をしていた。

 カリスマJKモデルと名高い城ケ崎美嘉。人気アイドルグループ『LiPPS』のリーダーを務める速水奏。ファンが見れば卒倒するような、事務所では割とよく見る光景だが、いつもの雰囲気とは少し違っていた。

 「珍しいわね。美嘉がぼうっとしてるなんて」

 「あはは、ちょーっと疲れてるのかも」

 「そう?ならいいけど」

 困ったように笑う美嘉に、これ以上追及する必要もないと判断したのか、手に持った紅茶をこくりと飲む。

 「それより奏。帰らなくていいの?」

 時刻は8時を回っており、346プロ所属の学生アイドルたちは帰宅している。残っているアイドルもいるにはいるが、直近にライブを控えた者だったり、迎え、あるいは担当プロデューサーが送ってくれるのを待っている者だったりする。

 そんな数少ないアイドルに含まれる彼女たちはというと、

 「私はプロデューサーが送ってくれるらしいから。ついでにフレデリカもね」

 「そうなんだ」

 「美嘉は?一緒に送ってもらう?」

 「あー、私は…」

 頬を掻くふりをして、曖昧に言葉を濁していると、休憩室の扉が開いた。

 そこから入ってきたのは普段はつけているうさ耳を外し髪を結ぶリボンにしている、自称永遠の17歳、ウサミン星からやってきたアイドルこと安部菜々だ。

 「あ、美嘉さん!奏さんも一緒だったんですね!丁度良かったです」

 「菜々ちゃん。今日もバイトだったの?」

 「そうなんですよー。明日もシフトが入ってるから飲めなくて、って菜々は17歳ですからジュースなんですけどねー!」

 「そ、そうなんだ。それより、何か用があったんじゃないの?」

 もはや何がしたいのか。彼女にとって年齢は地雷でしかない。が、普段の会話から、彼女は地雷原の上でタップダンスをするのが得意なのである。中学生以下の純真無垢なアイドル達には分からないが、察しの良い学生や大人たちは、彼女が地雷を爆発させる度に苦心させられるのだ。

 「そ、そうでした。奏さんはプロデューサーさんが呼んでましたよ。仕事が終わったそうです」

 「あら、ありがとうございます。プロデューサーも先輩に伝言なんて…」

 「大丈夫ですよー。言っちゃ悪いかもですけど、美嘉さんを探すついででしたし」

 「へ。アタシ?」

 「はい。仕事が終わって仮眠しているので、迎えに来てあげてください、と店長が」

 その言葉を聞いて、美嘉はため息を吐く。

 「そっか、今日は早いんだっけ…。すみません、菜々さん。アタシもあいつも後輩なのに、こんなパシリみたいなことを…」

 「いえいえ、私も彼にはお世話になってますから。店長もバイトなのが勿体無い、なんて言ってますしねー」

 「あ、もしかして美嘉の幼馴染っていう男の子かしら?」

 346プロの事務所内には、一つのカフェがある。その名も346カフェ。社員の店長を含め、正社員二名とアルバイト二名からなる、規模の小さいカフェだ。しかし、大きさに反して利用する客は多く、混雑こそしないものの、客足が途切れることは無い。数ある346プロの芸能部門に所属するアイドルやモデル、社員たちの憩いの場となっている。かくいう美嘉と奏も常連客として毎日のように通っているし、バイトの菜々でさえシフトが入っていない時に利用している。

 「まぁ、ね。店長に迷惑かけられないし、アタシはそろそろ行くね」

 「ええ、またね。今度は幼馴染君との話も聞かせてもらおうかしら」

 「あはは、それは勘弁してほしいわ…。菜々さんも、ありがとうございます。じゃーね★」

 「お疲れさまでしたー、きゃはっ」

 プライベートでも自分のキャラを出すことに余念がないのが、今のアイドル。

 それはさておき、二人と別れた美嘉は、事務所一階にある346カフェ、その裏口にいた。関係者以外立ち入り禁止の札が貼られているが、それに見向きもせずにカフェの中へと入っていく。

 真っすぐ伸びる廊下には三つの部屋があり、それぞれ男子更衣室、女子更衣室、休憩室だ。

 美嘉は迷うことなく足を進め、休憩室の扉をノックしてから中に入った。

 「こんばんはー」

 「こんばんは、美嘉ちゃん。彼ならそっちで寝てるから、起こしてあげてね」

 長身でひげを生やした、見た目50代くらいの優しい笑みを浮かべたこの男性こそ、346カフェの現店長。土日祝日問わず、店にいない日を見たことがないと言われるほど仕事熱心な彼だが、その実態はコーヒーを淹れるのが楽しすぎるあまり、事務所近くの独身寮に引っ越し、給料が発生しない休日ですら自分のためにカフェに来る、趣味と実益を兼ねたワーカホリックである。

 実際、カフェに来る客と店員との、彼に対する評価は異なっており、他余名の店員からは総じて、コーヒーオタク過ぎて、むしろ気持ちが悪いと密かに思われていたりする。しかし、仕事熱心であることに変わりはなく、気持ち悪いと思われながらも、純粋に尊敬される人物でもある。店員が四人であるにもかかわらず、問題なくカフェを運営できているのは、彼がいるからだと言っても過言ではない。どころか、彼がいなくなったら、346カフェは途端に経営困難に陥るかもしれない。

 そんな店長の指示通り、休憩室の奥へ進むと、テーブルに突っ伏した男が静かに寝息を立ててた。

 小さな体の下には、一冊の参考書とノートが置かれており、手にはペンが握られている。どうやら仕事終わりに勉強していたようだ。それも、ちらりと見える文字列を見る限り、高校の範囲を超えている。ただでさえ偏差値の高い高校にいるのに、その分野すら終えているのだろうか。

 「ほんとに、もう…」

 自分だってバカじゃない。それどころか、ギャルはバカだというイメージを払拭するために、そして仕事と勉強を両立すると親に言った以上、学校でも上位の成績をキープしている。

 それでも、彼を見るたび、もっと頑張らなくてはと思ってしまう。

 あいつとアタシでは、環境も目指す場所も、何より抱いている目標が違うのに。

 「ほら、帰るよー。起きて」

 「…ん、ぁ」

 肩を揺すると、薄く目を開けてその細い身体を持ち上げた。

 寝不足の為か、ここ二年消えない隈と、肩に届くほどの長髪。普段は一つに縛っているが、バイトも終わり、気分を緩めるつもりで解いたのだろう。

 「ああ、美嘉か…終わったの?」

 「うん。そっちもお疲れ様」

 「アイドルに比べれば、大したことないよ」

 机に広げていた参考書とノート、筆記用具を鞄にしまうと、立ち上がって背筋を伸ばす。

 小さく見えていた身体は、美嘉よりも10センチほど高く、けれどちゃんと食事をしているのか疑問に思うほど細い。床屋に行くのが面倒で伸び続けた髪と、線どころか物理的に細い身体、隈があるけれど中性的な顔つき。街中ですれ違ったなら女性に見えるかもしれない彼こそ、346カフェ期待のアルバイター。

 そして、あの日決別したはずの、美嘉の幼馴染だった。

 

 

 

 中学生最後の日。あいつの頬を叩いた後、アタシの家族も東京に引っ越すことを知った。

 あいつが引っ越すことを知った後、父親が職場に異動願いを出したそうだ。業務成績が良かったために受理されたそれは、東京の職場への転勤。それに伴って、家族全員が引っ越すらしい。

 それを聞いたアタシの動揺は、推して知るべし、と言ったところだろう。

 兎にも角にも、あいつだけではなく、アタシ達一家も東京に引っ越すことになったわけだが、当然すぐに家族全員が住める家を借りたり買うことが出来る筈も無く。さらに言えば、3月に異動希望を出したところで、すぐに会社を異動できるわけもない。

 結局、高校一年生の間だけは、契約してあったアパートで一人暮らし。その後、次の年に一軒家で家族そろって暮らすことになった。

 妹の莉嘉も、友達と別れることに寂しさを覚えただろうけど、それ以上に東京という新天地に胸を躍らせているようだった。

 両親は私たちと同じくらいあいつのことを溺愛しているから、きっと東京でも世話を焼くのだろう。だから、高校二年になれば、家族が東京に来れば否が応でもあいつと再会するのだと思っていた。

 けどそれは勘違いで、自分の希望が多分に交じった予想でしかなかった。

 「あ、れ?」

 「…おはよ」

 高校の入学式、よりも前。引っ越して二日目の朝。

 アパートの一階にあるポストに手紙を確認しに行ったとき、目の前の道路に見慣れない制服を着たあいつがいた。

 「なんでいるの!?」

 「俺んち、奥のアパートだから」

 「ええ!?」

 アタシの住むアパートの裏手には、ここより少しボロいアパートがある。立地や築年数、セキュリティ面からアタシのいるアパートより家賃が安い。ちなみにアタシは、父のヒステリックにより、最新式の鍵が付いた、それ故に少しお高めの家賃のアパートに住んでいる。たかが一年とはいえ、東京というだけで家賃は割高だ。その上、最新のセキュリティともなれば…。考えるのは止そう。高校の勉強も、これから始まるモデルの仕事も頑張ろう。上位の成績とモデルとしての仕事で、小さいけれど親孝行としよう。

 「…んじゃ、おじさんたちによろしく」

 あいつはそう言って、歩いて行った。

 制服を見て分かったが、あいつが通う学校は全国的にも有名な進学校だ。全国模試一位の生徒が必ずいるらしい。

 だから分かったのだが、あいつが向かう方向と学校は確か違うはず。それに、入学式の日程にズレがあるのはわかるけど、にしても時間帯が速すぎる。まだ朝の6時だ。

 「ちょ、どこ行くの!」 

 だから、気まずさも忘れて呼び止めた。

 寝巻に上着を着ただけの恰好に、冬が過ぎ去ったばかりの早朝の風は堪える。

 「バイト先だよ。346って事務所にあるカフェのスタッフやんの」

 「346って…ええぇ!?」

 「近所迷惑だぞ」

 「うるっさい!ええ、なんで!?アタシのモデル事務所も346なんだけど!」

 「知らねぇよ。え、モデルやんの?美嘉が?」

 「スカウトされたの!ギャルモデルとしてね」

 「へぇ。まあ、いんじゃない?がんばんなよ」

 「え、あ、うん」

 少なくない驚きを与えたあいつは、少しだけ笑って歩き去っていった。

 その後ろ姿は、アタシと同じか、アタシよりも小さかった。

 

 

 

 「…はずなんだけどな」

 「どした?」 

 「ううん、なんでもない」

 カフェを出た二人は、346プロ職員用の駐車場にいた。目の前には125ccのバイク、手にはバイク用のヘッドセットが付いたヘルメットを持っていた。

 「にしても、あれだけ忙しそうにしてた中で、よくバイクの免許なんてとれたね」

 「忙しいって言っても時間は作れるし、難しいわけでもないからな」

 髪を下ろした二人は、傍から見れば女子二人だ。そんなカリスマギャルと女子擬きはフルフェイスのヘルメットを被り、バイクにまたがる。

 一年前から、二人はバイクで一緒に帰るようになった。

 彼がバイクの免許を取ってから一年が経過したことや、アタシの父に頼まれたこと、何よりアタシの仕事が忙しくなり、帰りが遅くなったことなど、様々な原因が重なり、このスタンスに落ち着いた。

 妹の莉嘉はと言えば、まだ中学生である為、遅い時間まで残らないようプロデューサーがスケジュールを組んでいるし、もし遅くなってもアタシ達の両親と面識のあるプロデューサーかアシスタントのちひろさんが家まで送ってくれている。だから、事務所に来た時の帰りは、いつもこいつと二人きり。

 二人で帰るために、態々アタシ専用のヘルメットまで買いに行った。

 彼の後ろに座り、細い身体に腕を回す。

 「行くよ」

 ヘッドセットから声が聞こえると同時に、バイクが動き出す。

 東京での移動手段は専ら公共交通機関だ。自動車を持っている家庭が、他県に比べれば少ない。そのためか、混雑していない道路を一台のバイクが走っていく。

 「ねぇ」

 「なに?」

 「アンタ、アタシのライブ見たことってあるっけ」

 「生では見たことない。この前テレビでやってたのは見たけど」

 「アンタんちテレビ無いじゃん」

 「莉嘉に誘われて美嘉の家で見たよ。おじさんとおばさんも一緒に」

 「何それアタシ知らないんだけど!?」

 「そりゃ居なかったし。美嘉が346の女子寮に泊まりに行った日だったかな?」

 「えー、マジかー…」

 「なに、ダメだったの?」

 「うーん、まぁ、別にいいんだケド…」

 ヘッドセット越しに他愛もない会話をする。その会話の内容は、本当に日常会話で、普段通りの彼らだ。

 しかし、美嘉にはどうしても聞きたいことがあった。

 今日一日気になって、だからきっと中学最後の日の事を思い出したのだ。

 「ねぇ」

 「ん?」

 さっきと同じ問い。

 「…お葬式、行ってきたんだって?」

 「…ん」

 少しだけ、声色が変わった。

 おじさんの妹さん。つまりこいつの叔母に当たる人物が、先日亡くなったらしい。

 その人は、こいつが中学生の時お手伝いと称してアルバイトをしたときにお世話になった人で、血がつながった唯一にして最後の親戚だった。叔母夫婦に子供はいなく、父方の祖父母も母方の祖父母も、こいつが物心つく前に亡くなっている。母方に兄妹は無く、本当の意味での最後の肉親だった。

 昨日から今日の午前中に掛けて、こいつは茨木に赴き、葬式に出てきたそうだ。

 これで、こいつは天涯孤独になってしまった。

 肉親は無く、帰る家も無い。

 きっともう、本当の意味での親しい人間は、アタシ達の家族だけ。

 「…大丈夫?」

 「うん。勉強にも仕事にも影響させるわけにはいかないし、おじさんたちにも迷惑はかけられないから」

 そうじゃない、って言っても、こいつには分からないんだろうな。

 アタシが、アタシ達が心配してるのは、そんなお金とか他人に掛ける迷惑じゃなくて、あんた自身の心の事だってこと。

 「そっか…」

 「それより、もっとくっついてくんないと危ないよ」

 「うん、わかった…」

 言われるがままに腰に回した手に力を入れる。言われてみれば、確かにこいつとの間に空間が開いていた。

 アタシ自身免許を持っていないから父から聞いた話になるけれど、バイクの二人乗りはバランスを取るのが難しいので、出来るだけ、しかし適度に二人がくっつかないと危ないらしい。

 そう、くっつかないと。

 普段は気にしない。けれど、話が途切れて、ふと気づいてしまった今。

 「っ!」

 よくよく考えてみれば、彼氏でもない男の子に自分の胸を押し付けている、この状況。しかもほとんど毎日。こいつは気にしていないようだけれど、一度気にしてしまったらもう気にしないなんてできない。

 「?どうかした?」

 「ううん!何でもない!」

 信号待ちがこれほど嫌になることもそう無い。

 きっとヘルメットの下は真っ赤になっているだろう。

 それからほとんど会話は無く、20分という普段なら短く感じる時間をどうにか乗り切った。

 アタシの家の目の前で止まると、車体を安定させてくれる。よっ、という掛け声とともにバイクを降りる。

 「ありがとね」

 「うん、おじさんたちによろしく」

 ヘルメットを脱いで、バイク脇に立って彼と話す。時間も遅いし、このまま近くの自宅であるアパートへ帰るのだろう。もう少し早く、ウチの親に連絡していれば、このままアタシの家で晩御飯を食べていくこともある。

 だけど、無理に引き留めるのも良くないし、今日はこれで解散だ。

 と思っていたのに、

 「あ☆お姉ちゃん!お兄ちゃん!」

バイクの音で気が付いたのか、先に帰宅していた莉嘉が玄関から顔を出した。二つ結びをほどいて、パジャマ姿を見るに、お風呂にはもう入ったのだろう。僅かに頬が紅くなっている。

 サンダルを履いてこちらへ駆け寄ってくると、アタシの腰にしがみついた。

 「お帰り!」

 「ただいま。それじゃ、また明日ね」

 「うん。莉嘉ちゃんも、またね」

 「えー!?帰っちゃうの?」

 「無理言わないの。こいつは明日も早いんだから」

 そう、こいつは学校に行く前にもカフェに顔を出して働いている。朝、バイクでカフェに行き、登校時間ギリギリに学校に行って、帰りは学校から直接カフェに行き、そこからアタシと一緒に帰る。

 346カフェにこいつと店長の姿を見ない日はほとんどない。そのくらい、こいつは働き詰めている。

 だから、ほんの少しの時間でも休ませてあげたいのだ。

 「ごめんね。また明日来るから」

 「でもでも!お母さんがお兄ちゃんの分のご飯もあるって言ってたよ!」

 「え!?また勝手に作っちゃったの?」

 「あー…。じゃあ、少しだけお邪魔しようかな」

 「ほんと!?やったぁ☆」

 そう言って彼はバイクのエンジンを切った。

 

 

 

 

 「これは受け取れない。ただでさえ普通の高校生としての暮らしを維持するのが厳しいのに、そうでなくても、返してもらおうなんて思っていないからね」

 「そうよ。あなたは私達の子も同然なんだから」

 「でも…いや、分かりました。ご好意に甘えさせてもらいます。けど、必ず恩返しはしますから」

 「うふふ、それは将来が楽しみね」 

 「ああ、そうだな。できれば孫とかが…いや、でも美嘉も莉嘉もあげたくないし…」

 「はぁ…。それじゃあ、今日はもう帰ります」

 「あら、美嘉に会っていかないの?」 

 「降りてこないってことは、今日は会いたくないんでしょう。また今度、美嘉の機嫌がいい時に来ますよ」

 そんな会話を、リビングのすぐ外で聞いていた。

 曇りガラスに影が映り、だんだんと濃くなる。あいつが近づいているのだと気が付いて、サッと物陰に身を隠す。

 「それじゃ、また」

 言葉少なめに家を出たあいつを見送ることなく、アタシはまた唇を噛んだ。

 リビングの灯りが漏れる玄関とは真逆の、階段下の物置近くにいるアタシは、その暗さも相まって幽霊のようだ。けどきっと、それは間違ってない。

 あいつに対する負い目がアタシの心を蝕んで、学校にいる時とも、モデルをやっている時とも違う、自身の暗黒面ともいえる感情が滲み出る。今のアタシは、ギャルやモデルどころか、普通の女子高生ですらない。

 「美嘉」

 そんなネガティブな感情で埋め尽くされているアタシの耳に、お母さんの声が入る。

 「…なに?」

 「まだ謝ってないの?」

 「……うん」

 東京に来て一年が経ち、埼玉に残していた家族も皆上京してきた。それまであいつと絡む機会は、それこそ毎日のようにあったけれど、ごめんの一言はいつも出てこなかった。

 原因はわかってる。

 謝りたいと思っているのと同じくらい、アタシはあの件にまだ納得がいってないのだ。 

 誰かに相談することもなく、いつの間にか消えていて、急に戻ってきたと思えば思い出を簡単に切り捨てた。

 アタシは、あいつの本心が知りたい。

 「あの子ね、泣いてないのよ」

 「え…?」

 お母さんがポツリと呟くように語る。

 「美嘉も莉嘉も、私だって泣いてたのに、あの子は泣かなかった。お葬式の時も、お通夜の時も。受け止めきれてないのかと思ったけど、それも違う。あの子は、自分が一杯一杯であることに気づいてないの。二人が死んだこと。自分のこれからの事。私達にかかる負担。色々な事を考えなくちゃいけなくて、だから二人の事を終わったこととして考えるのを後回しにしてる。あの子は、優しい子だから」

 知ってる。あいつが優しいことは、誰よりも知ってる。

 アタシが泣いてるとき、いつもそばにいてくれた。何を言うわけでもないけど、一緒にいてくれた。

 莉嘉に嫉妬したときも、友達だと思っていた子から嫌がらせを受けた時も。

 皆で楽しんでるときも、アタシの我がままに付き合わせた時も。

 いつだって、優しい笑顔で一緒にいてくれた。

 そうか。

 だからアタシはあんなに怒ったんだ。

 優しかったあいつが、急に怖くなったから。優しさを感じない声で、絶対にやらないと思っていたことを、他でもないあいつがやったから。

 けど、それにはちゃんと理由があった。

 強くて優しいと思ってたあいつは、アタシ達が思っていたより弱くて。でも生きるために必死で、強くなろうとした。

 その結果が、あの日に繋がった。

 結局、あいつの優しさに、アタシが甘えていただけなのだ。

 「だから、美嘉。あの子の事、嫌いにならないで」

 いつの間にか近寄っていたお母さんが、アタシの眼を覗く。

 「うん。嫌いになんて、なるわけない。今度はアタシが、あいつと一緒にいてあげるんだから」

 あいつが、いつか自分とおじさんたちの事に目を向けられるようになるその時まで。あいつの優しさが、自分に向けられるようになるその時まで。

 アタシが一緒にいる。一人に何て、絶対にさせない。

 モヤモヤが少し晴れたアタシは、外に飛び出した。

 あいつの後を追いかけて、追いかけて、その後ろ姿を見つけた。

 「ねぇ!」

 誰もいない住宅街の道路で呼び止める。

 「…美嘉?」

 まだアタシと変わらないような身長のあいつが振り返る。

 「あの時の事、ごめんっ!遅くなったけど、ずっと謝りたくて…。許してくれなくてもいい!けど、これからも一緒にいさせてほしいんだ!」

 頭を下げて、住宅街だということも忘れて叫ぶように訴える。

 言い切ったアタシの頭に、ぽんと手が置かれた。細い指が、アタシの髪を梳いていく。

 「別に、あんなの気にしてないよ」

 その言葉は、アタシが一年間待ち望んだ言葉で、抑えきれなくなった感情が涙となってあふれ出す。

 ぽろぽろと零れる涙を、指で拭ってくれる。

 そんな彼が、苦笑とともにこう言った。

 「それより、さっきの告白みたいだったけど、そう受け取っていいの?」

 「なっ…!ち、違うからね!?そういうんじゃなくて…!あ、いや、そうでもなくて…!!」

 一年間の気まずさは、思ったよりも簡単に無くなった。

 たかが一年。アタシ達が築いてきた十数年の絆に敵うはずないのだ。

 だからきっと、いつかはこの胸に秘めた想いが通じる日が来るのだろう。

 こいつとは、いつまでも一緒にいる。そんな気がするから。 

 

 

 

 「へぇ。美嘉ちゃんとあの子にそんな過去があったとはねぇ」

 「あの、見すぎです瑞樹さん…」 

 「あはは、ごめんごめん」

 346カフェで、アタシは瑞樹さんと楓さんとともにコーヒーを飲んでいた。音楽番組の収録後に、事務所に戻ったその足でカフェを訪れた。入店直後は何やらスタッフ同士で揉めていたようだが、今ではいつもの落ち着いた雰囲気になっている。一体何があったのだろう。

 「お待たせしました。チョコレートケーキと、ウイスキーボンボンです」

 制服にエプロンをしたあいつが、瑞樹さんと楓さんが注文した商品をお盆に乗せてやってくる。

 「ねぇ、さっきの騒ぎは何だったの?」

 ケーキとチョコレートの乗ったお皿を机に置くこいつに聞いてみる。

 「ああ、店長が休むんだよ」

 「店長が休むと何かマズいの?」

 「いや、店長が休まないからヤバいんだよ」

 「ん?どういうこと?」

 いまいち要領を得ないこいつを前に首を傾げると、何でもないというように、信じがたいことを言ってのけた。

 「ここ一年くらい店長休みとってなくて、労働基準法的にヤバいから態々美城専務が来て一、二週間の休みを取らせたんだよ」

 「いっ!?」

 「一年!?」

 「確かに、いつ来ても店長さんと貴方はいますよねぇ」

 「まぁ俺は学校あるので時間にすれば問題ないんですが、社員の店長は流石に…。でも店長は店長で仕事、というかコーヒー大好きのワーカホリックなんで、大人げなくガチ泣きしながら抵抗したんです。それであれだけの騒ぎになっちゃったんですよ」

 「お仕事が楽しいのはわかりますけどね」

 「まぁ悪いことじゃないですからね」

 あはは、うふふ、なんて緩い空気を醸して笑っているが、アタシと瑞樹さんはそれどころではなかった。

 トップアイドルと持て囃されるアタシ達でさえ、週に一回は休みがある。なのに、店長は一年も休みが無かったとは。確かにアタシも瑞樹さんたちもこのカフェを結構利用する。そして、思い返してみれば、いつでも、どの時間帯にも店長はカウンターにいた気がする。

 しかしそれでも、自分たちがいない時にはどこかで休みを取っているものだと思っていた。

 「いくら好きだからって、休まないなんて無理じゃない?」

 「そりゃそうよ。ていうか、私がカフェに来る時間って夜が多いからかもしれないけど、この子も毎日いる気がするんだけど」

 言われてみれば、バイクで帰るようになってから、一人で帰った覚えがない。それはつまり、アタシが事務所にいる時はこいつがいつもいるってことで…。

 「アンタ!」

 「うおっ。どしたの?」

 「アンタはちゃんと休んでるんでしょうね!?」

 「学校行ってるんだから休んでるよ。八時間近く無駄な時間過ごしてるんだから、そりゃ身体も休まるでしょ」

 「いや、そうじゃなくて…。あれ?どういうこと?」

 こいつの言葉に頭が混乱してくる。

 学校に行って、八時間近く無駄な時間を過ごしている?それはつまり、学校の授業が休憩になっているということか?超進学校の授業が、休み?前にこいつの成績を見せてもらった時、ほとんど満点の通知表と、一桁というか一位の順位しか見たことが無いのに?

 「えーっと、君は学校でちゃんと授業を受けてるの?」

 「まぁぶっちゃけほとんど寝てます」

 「嘘だよ!アンタめっちゃ成績いいじゃん!」

 「そりゃバレないように寝てるし、テストは基礎さえできてればその場で応用して解けばいいし」

 「でもこの前休憩室で勉強してたじゃん。家で勉強するくらいなら学校ですればよくない?」

 「あれは行政書士の試験受けたから自己採してただけ。色々受けすぎて、どの試験の採点が終わってないかわかんなくなっちゃってさ」

 絶句した。

 行政書士試験と言えば、合格率が相当低い国家試験だ。その名の通り、行政書士になるために必要な資格なんだろうけど、詳しいことはよく知らない。少なくとも、アタシの高校で受験したという人間は聞いたことが無い。

 こいつの言っている学校のように、偏差値の高い高校なら当然の様に受けているのだろうか?

 しかし、大人の瑞樹さんですら驚いているのだ。やはり普通ではないのだろう。

 というか、今こいつは何と言った?いろいろ受けすぎちゃって?

 「…あの、他にはどんな試験を受けたのか、お姉さん聞いてもいい?」

 「はぁ。とりあえず高校でとれる資格は大体。公認会計士とか、Iパスとか、受けられるもんはかたっぱしから受けましたよ。…っと、いらっしゃいませ」

 入店したお客さんの相手をしに、あいつはカウンターへと戻っていった。

 にしても、まさかあいつがそんなに凄い試験を受けているとは思わなかった。一体どこの大学に行くつもりなんだろう。やはり法律系だろうか。 

 そこまで考えて、はと気づいた。

 そういえばアタシ、あいつの進路の事、何も知らないや。

 あいつは一体、何を目指しているのだろうか。

 「美嘉ちゃん、瑞樹さん」

 チョコレートを食べていた楓さんが、鈴の音のような声を出した。

 「どうしたの?」

 「いえ。彼が休んでいるのか、さっきの会話で分かったのかな、と思いまして」

 「え?」

 言われてみれば、あいつは学校で休んでいると言っただけで、たくさんの資格を取ろうとしていると言っただけで。

 ちゃんと休んでいるのかについては、一切言及していない。何なら、バイト以外にも力を入れているようで、あいつの忙しさに拍車がかかっているような気さえする。

 そもそも、ここの店長が休んでいないという話だったはずなのに、いつの間にかあいつの方が休んでいないという話になっている。

 というか、菜々ちゃんもアイドルと兼業をしているし、346カフェはワーカホリックとかしか働けないのだろうか。定休日とか作ったほうが良くない?

 「…あいつ、今度強制的に休ませよう」

 ギャルとか、カリスマJKとか、そんな後付けの自分を削ぎ落した、素のアタシがそう決めた。

 

 

 

 

 あいつの忙しさが判明した週の日曜日。アタシはあいつの部屋があるアパートに向かっていた。

 休日にしては早い、午前7時。日が昇って間もないことと、冬の寒さが相まって、コートやマフラーをしてても耐え切れない。マフラーに顔を埋めて僅かばかりの抵抗を試みるが、その程度で凌げる寒さではない。

 「はぁ…」

 吐いたため息が凍り、視覚的にも寒さを訴えてくる。

 何故こんなにも寒い思いをしながらも、アタシがあいつの家に向かっているかと言えば、今日が久しぶりにアタシとあいつの休みが被ったからだった。というか、あいつが久しぶりに休みをとれたのだ。

 なにやら346カフェのガス点検とかで、今日一日カフェは工事関係者以外立ち入り禁止になったらしい。バイトの掛け持ちをしてそうでしていないあいつは、その忙しさで部活もしておらず、今日一日はなんの予定も無い。

 それを知ったアタシの両親が、見たことも無いようなテンションで、一日中世話をすると言って、そのお使いにアタシが駆り出されたのだ。

 態々休日に早起きして、普段は絶対に作らないような朝食を作っている母親を見たときは少しばかり引いた。ウキウキした表情で4時に起きたという父親を見てさらに引いた。寝ぼけ目を擦ってアタシが家を出る直前に起きてきた莉嘉を見て癒された。

 とにかく、うちの家族はあいつを溺愛していて、いつも一緒に住もうとか言っているほど。アタシは、チョット恥ずかしいし、最初は抵抗していたんだけど、あいつの部屋の惨状を見て、最近はそれもアリだと思っている。

 あいつの部屋には無駄なものがない。というか必要なものもほとんどない。特に、夏場は窓を開けて団扇か扇子で、冬は重ね着と毛布や布団を身にまとって厳しい気候に耐えている。要するに、あいつの部屋は外の気温とほとんど変わらない。だから、朝から家に連れて行って、ゆったりする、させるつもりなのだと昨日の夜に言っておいたのだが、携帯に連絡しても一向に出やしない。きっと寝ているのだろう。あのヤバいくらい寒い部屋で。

 「まったくもー。世話が焼けるんだから」

 数分歩いたところであいつの住むアパートに到着する。見た目からして古いアパートの一階角部屋があいつの部屋だ。

 アタシの両親に預けておいた合鍵を使って扉を開け、シンプルなワンルームに足を踏み入れる。廊下には簡易的なキッチンがあり、その後ろにカーテンで仕切られた空間がある。そこにはトイレとお風呂が別々にあって、廊下奥の部屋を含めたお風呂、トイレ、簡易キッチンだけが、あいつの今の家だ。

 外とほとんど変わらない気温の廊下を進み、唯一の部屋に入る。

 机と本棚、開けっ放しのクローゼットとベッドだけの部屋で、あいつは眠っている。掛け布団に頭までしまい込み、小さく小さく呼吸していた。じっと見なければ布団が動いているのもわからないほど。

 静かに歩み寄り、ゆっくりと掛け布団をはがす。

 人肌で暖められた熱が漏れ、代わりに入ってきた凍てつく寒さで小さく丸めた体をさらに小さくした。

 「ねぇ、そろそろ起きて。美嘉ちゃんが迎えに来てあげたぞー?」

 わずかに呻くこいつの肩を揺らすが、起きる気配はない。

 乱れた髪がこちらを向いている彼の口元に垂れているのを見て、それを払ってあげる。

 にしても、見れば見るほど女子に見えるなぁ。あたしと違って、ギャル系じゃなく、清楚系みたいな。こいつが女子だったなら、深窓の令嬢とか言ってさぞかし男子にモテたことだろう。

 「ん…」

 めくれたスウェットから細く白いお腹が見える。バイトを頑張っているせいか、少しだけ割れた腹筋と男なのにくびれたウエストが扇情的だ。男なのに。

 なんというか、エロい。

 よくよく見ればめくれたスウェットだけじゃなく、下着もちょこっと見えてるし、スウェット自体古いものなのか、くたびれた襟から僅かにのぞく鎖骨が見る者の性欲を駆り立てるようだ。

 「ごくっ…」

 渇いているはずの喉が思わずなってしまうほど、と言えば伝わるだろうか。

 とにかく、女子であるアタシにすら性欲を湧き上がらせてしまうこいつだが、見た目に反してこいつは男だ。目に毒過ぎる恰好をしているが、男だ。

 とにかく自分に言い聞かせて、頭を冷静に保つ。

 だが、そういう時にこそ、自分が望んでいない物事が起こるもの。いつだか学校の先生が言っていた、マーフィーの法則という奴だろうか。

 「…みか……」

 寝ているはずのあいつの手が、いつの間にかアタシの手を掴んでいた。

 そして、剥いだ布団の代わりの暖を取ろうとしているのか、華奢な女子のような見た目では考えられないくらいの力で引っ張られる。

 「うわ、ちょ、ちょちょっと待って!待って待って!」

 抵抗する間もなく腕ごと引き寄せられ、バランスを崩してベッドに倒れこむ。

 はたから見ればアタシがこいつを押し倒しているように見えるだろう。

 「すぅ…すぅ…」

 「……むっ」

 だが、こちらが慌てているのに、一切起きる気配のないこいつを見て冷静になる。

 それどころか、正直このまま襲ってしまいたいという欲望が、頭の中をぐるぐるとかき乱す。いくらこういう状況に慣れていないアタシだって、きちんと性欲はあるのだ。

 実際、アタシの手が意に反してこいつの頬を撫でている。すべすべの肌を堪能し、指が少しかさついた唇を撫でる。

 普段のアタシだったら、不本意だけれど顔を赤くして、テンパってしまうだろう。非常に不本意だけど。

 そんな癪だけれど、自他ともに認める初心なアタシですら狼になってしまう。

 これがキス魔の奏とかだったら、とっくにこいつは食べられているだろう。

 少し前までは普通の地味な男子だったくせに、東京に出たとたん女性ホルモンが活性化でもしたのだろうか。

 「んん…すぅ……」

 むかつくほど穏やかに眠るこいつに、少しばかり腹が立ち、このまま欲望に任せて襲ってやろうかという考えが過る。

 徐々に近づく唇に、胸の心拍数が上がる。

 火照る身体を、抱きしめるようにくっつけて、唇と唇が重なろうとした瞬間。

 「お姉ちゃーん!そろそろママとパパが限界だよー!」

 玄関の扉を開ける音と莉嘉の声が、熱に浮かされたアタシを現実に引き戻す。

 「うえぇぇええ!?」

 「お姉ちゃん?どうしたのー?」

 「うわぁああ!莉嘉!来ちゃだめだからね!?」

 「えー、なんでー?」

 薄い扉を、大きい声で話す。しかも、人の上で。

 それだけの音量で話せば、よほど眠りが深いか、無神経な奴でもなければ当然起きてしまう。

 どちらにも該当しないこいつは、予想通りうっすらと目を開け、覆いかぶさり、というか抱きしめているようなアタシに向かって、眠そうな声で言った。

 「…なにしてんの…?」

 「う、うるさいうるさい!アンタが起きないのが悪いんだからね!?」

 「へ?…あれ、ふとんは?」

 「きゃー☆お姉ちゃんだいたーん!」

 「莉嘉!?来るなって言ったでしょーが!」

 「だってー、気になったんだもーん」

 「あの、きんじょめいわく…」

 こうして、久しぶりの休日は騒がしく始まった。……欲情なんて、知らないから!

 

 

 

 まだ眠そうなこいつと莉嘉を連れて、家を目指す。距離も近いし、莉嘉もいるからバイクはこいつの家に置いてきた。

 来るときに感じた寒さは、恥ずかしくて火照る身体の熱で全く感じなかった。

 「ねぇ、怒ってんの?」

 「怒ってない!」

 「怒ってるよね?」

 「うん、怒ってるね」

 「怒ってないってば!」

 莉嘉と顔を合わせて、頭にはてなマークでもつけてそうな顔で示し合わせる。

 実際、アタシは怒ってなどない。ただ、あの場面を見られたことが恥ずかしいのと、あんな大胆にこいつを襲いかけたことが自分でも信じられなくて、結果顔が赤くなってるだけだ。

 それをこいつらときたら、少しも察してくれやしない。

 「…はぁ」

 身体の熱を吐き出すようにため息を吐く。

 「とりあえず急ご。お母さん、かなり気合入れて朝ごはん作ってたから」

 「おばさんのごはんはおいしいからねぇ。最近はカフェのパンとかケーキくらいしか朝は食べてなかったから楽しみだなぁ」

 「はぁ!?そんなん体に悪いよ!ちゃんと食べなきゃ!」

 「あ、莉嘉が毎朝作りに行ってあげよっかー☆」

 「嬉しいけど、莉嘉ちゃん朝弱いんじゃないの?」

 「そんなことないよー!」

 「あんた平日の朝は起きれないでしょ」

 「起きれるもん!」

 「まぁ俺も朝は早いし、なんならカフェのキッチンも借りれるから大丈夫だよ」

 そんな朝ごはん事情の会話をしているうちに、アタシ達の家に到着する。莉嘉は鍵もせずに家を出てきたのか、玄関の扉はすんなりと開いた。まぁ両親がいるし、防犯的には大丈夫だけど、この子は家に誰もいない時にも時々鍵をかけずに出るから、いつも家を出る時は鍵をかけろって言ってるんだけどな。

 普段なら軽く叱っているところだけど、今はこいつがいるしスルーしてあげるか。

 「ただいまー」

 「たっだいまー!」

 「お邪魔します」

 三者三様に声をかけて家に入る。

 朝ごはんのいい匂いがリビングから洩れ、食欲をそそる。まだ眠そうなこいつも、外を歩いていた時よりかは目に生気が戻ってきているような気がする。

 「ねぇ美嘉」

 「ん、なに?」 

 「あ、いや……美嘉んち暖かいな」

 「そう?」

 莉嘉は早々にリビングに行って、アタシ達はまだ玄関にいる。暖房が効いているリビングはともかく、冷たい外気が入った玄関は外よりマシとはいえ、寒いことに変わりはない。

 「うん。暖かいよ。ありがとね」

 そう言ってあいつはアタシの頭を一度だけ撫でると、先にリビングへ入っていった。

 「……あ」

 しばしの間、立ち尽くすアタシの耳に、あいつと莉嘉、両親の会話が漏れ聞こえる。

 リビングから聞こえる楽しげな声を聞いて、あいつの真意を理解した。

 あいつが言ったのは、気温のことなんかじゃない。

 家に帰れば「おかえり」と言ってくれる人がいることの幸せ。自分以外の誰かが、自分のために料理を作ってくれる、アタシ達にとって当たり前の優しさ。

 それらは、あいつが二度と感じることは無い、血のつながった家族だけの暖かさだ。

 いくら距離が近くても、結局は他人であるあいつが入ることができない、内輪の暖かさ。

 それを外からでも見られて、入れなくても意識してもらえることが、あいつにとっては何よりも暖かかったのかもしれない。

 「…バカ」

 それは、あいつに向けてではなく、自分に対する罵倒。

 「…覚悟、決めなきゃ」

 そして、アタシの人生最大の、下手をすれば二度とアイドルとしての活動も出来なくなるような。

 城ケ崎美嘉という人間の全てを決めるような大勝負への激励だった。

 

 

 

 いつもの数倍騒がしい朝食を終えたアタシたちは、アタシの部屋でのんびりと過ごしていた。

 朝食を食べても、まだ8時。冬の朝は、夏の昼間に匹敵するほど長い。

 暖房のきいた部屋で、ベッドを背もたれに二人並んでテレビを見る。録画してあった、莉嘉がレギュラーで出演している『とときら学園』だ。

 「へー、莉嘉ちゃんがスモック着てるの初めて見た」

 「最初は嫌がってたけどね」

 「目に浮かぶなぁ。そんで美嘉がキレちゃってるところまで」

 「えっ。…なんでわかったの?」

 「やっぱりキレたんだ」

 ふふ、と優しく笑う。 

 それを見て、アタシの顔はまた赤くなっているだろう。綺麗な黒髪と、最近はよく見るようになったこいつの笑顔。消え入りそうな薄く白い肌に、触れてようやくわかる、男子らしい筋肉。

 こいつを構成する全部の要素が、アタシのツボにはまる。

 アタシはいつからこいつに、こんなにも惹かれるようになったのだろうか。

 「あのさ。勉強道具取りに帰っていい?」

 照れて顔をそむけるアタシに、何の気なしに言う。

 「…ダメ」

 顔の熱が冷めやらぬまま、頭は冷静に言葉を吐き出す。

 「取ったら戻ってくるからさ。だめ?」

 「今日はお休みなんだからダメだよ」

 「えぇ…」

 そんなにやりたいならアタシの言葉なんて無視すればいいのに、動こうともしない辺り、こいつは本当に優しくなった。

 いや、違うかな。

 「そんなに暇ならさ、どっか出かけようよ!」

 「別にいいけど、どこ行くの」

 「んー、ゲーセンとか?そういえばアンタとプリクラとか取ったことないよね?」

 「まぁ、無いけど。別に取らなくても良くね?」

 「ダメだよ!」

 こういう流されそうで地味に頑固な奴は、勢いで押し切るに限る。

 朝ごはんを食べてから時間も経ったし、そろそろどこのお店も開く頃合いだろう。

 よっ、と声を出しながら立ち、壁にかけておいたアタシとこいつのコートを取る。

 「とりあえず、モールに行こっか!何でも揃ってるし」

 「…はぁ。わかったよ。ただ、寒いからコートは止めた方がいいよ」

 コートに袖を通しながら、ため息交じりに注意してくる。

 確かに、バイクで行くなら風を通すコートは止めた方がいいかもしれない。けど、いつも来ているバイク用の服はこいつの家にも置いてある。バイクを取りに行くついでに、今日はそっちを着ることにしよう。

 「とりあえず、アンタんち戻ろっか」

 幸い、莉嘉は凸レーションの二人と遊びに行っているし、文句を言うのは両親位だ。その両親も、晩御飯にこいつを連れてくれば問題ないだろう。

 小さいバッグに最低限の荷物を入れて、二人で部屋を出る。

 一、二時間前に歩いた道を歩き、こいつの家でバイク用の上着を着て、いつものように二人乗りで町を駆けていく。

 風を通さないとはいえ、元々寒い冬の外気で、身体がどんどん冷えていく。それでも暖かいと思えるのは、こいつに触れているから。

 数回信号に捕まり、ようやくたどり着いたショッピングモールはかなり大きく、アタシもまだ数えるほどしか来たことが無い。

 そういえば、奏がここで撮影したって言ってたな、なんて思い出しながら、バイク装備を脱ぎ、いつもより落ち着いたファッションを晒す。髪は下ろして、ギャル系ではなく、清楚系に決めてきた。対してこいつは、さっきまで家にいた格好とほとんど同じだ。なんなら、コートの上にバイク用の上着を着ていたらしい。元が細いから、多少着ぶくれしても標準体型が関の山なのだから、女子としては腹が立つ。

 とまぁ、地味なこいつと、派手さを抑えたアタシは、バイク装備をロッカーに入れてモールの中に足を踏み入れた。

 

 

10

 

 広くて、広すぎるモールを歩き回ったアタシたちは、モールの中庭にあるベンチに座っていた。

 既に日は沈み、晩御飯を家で食べることを考えればそろそろ帰った方がいいだろう。

 「さ、そろそろ帰ろうか。明日も学校あるし」

 コートに顔を埋めたこいつが立ち上がって、手を組み背筋を伸ばす。

 モールの中はまだまだ騒がしく、イルミネーションも無く、暗くて寒い中庭にいるのは、アタシ達くらいのものだ。

 「そう、だね…」

 「ん、まだ見たいものとかある?」 

 「…うん」

 アタシの前にしゃがんで、顔を覗き込んでくるこいつの問いに、頷いて答える。

 けれど、アタシとこいつの考えは違う。

 きっとこいつは、アタシがまだモールの中にある店に行きたいとでも思っているのだろう。いや、今の聞き方にああやって答えたら誰でもそう思うかもしれないけど。

 アタシが行きたいのは。アタシが見たいのは。

 「いよしっ!行こっ!」

 跳ねるように立ち上がって、しゃがんでいるこいつの手を取って、中庭から直接駐車場につながる通路に向かう。

 「うわ、っとと。あれ?帰るの?」

 「違うよ!もっと良いところに行くのっ!」

 腕を引っ張って、荷物を入れたロッカーに寄ってからバイクに乗る。

 こいつは行き先を知らないので、後ろからアタシがヘッドセット越しに道順をその都度伝えていく。

 休日の夜だけあって、大通りはメチャクチャ混んでいたけど、アタシたちのバイクは隙間を抜けて、30分とかからずに目的の場所にたどり着いた。

 「…ここ、勝手に入って大丈夫なの?」

 「大丈夫だよ。ここ、346の建物だし、プロデューサーに許可もらってるしね」

 「なんだ、許可もらってるならいいや。ていうか、いつの間に連絡してたんだ?」

 「ま、ちょっとねー。とにかく中入ろうよ!」

 背中を押して、体育館のような建物に入っていく。

 ここは、346が保有する音楽ホールで、席数が少なく、トップアイドルではなく、新米から中堅クラスのアイドル達のライブによく使われている会場だ。今の楓さんたちのようなトップアイドルも、新人の頃はここでライブをして、少なくても絆のある、一緒に進んでいけるようなファンを増やしていった。

 かくいうアタシのファーストライブも、実はこのホールで行った。

 新人であることも大きな理由の一つだけど、何より、アタシがプロデューサーに頼み込んだ。

 アタシの、アイドル城ヶ崎美嘉のファーストライブは、このホールでやらせてほしい、と。

 「ここ、俺も一回来たことあるよね?美嘉と一緒にさ」

 「お、覚えてたんだ…」

 「まぁ、美嘉のオススメのバンドだったからね。初めてライブ行ったし」

 高校生になって、中学の時のことを謝りすらしていなかった一年生の冬。当時好きだったバンドのライブチケットがたまたま二枚当選して、予定があったのがこいつだけだったから一緒に行った。

 けど、その時が初めてだった。 

 おじさんとおばさんが亡くなって、笑ったあいつを見ることがなくなった中学一年の秋以来。

 初めて、あいつが笑ったのを見た。

 盛り上がる会場と、熱狂する観客。心を打つ音楽に、心を震わせたあいつの笑顔。

 アタシの眼には、舞台に立つバンドと同じくらい、笑顔のあいつが輝いて見えた。

 「だから…」

 だから、346のアイドル部署から声がかかった時。自分を見てもらうだけじゃなく、歌って、踊って、誰かを笑顔にできる、誰かと笑顔になれるアイドルになれると知ったから。

 「ん、何か言った?」

 「んーん!何でもないよ!ホラ、あっちあっち!」

 誰もいないホールを、手を引っ張って歩く。

 目指す場所は、敷地のほとんどを占めるメインホール。

 アタシがアイドルとして初めて歌った場所。

 「誰もいないと、結構広く感じるなー」

 観客席の後ろから入ったアタシたちは、広々とした空間を静かに歩く。

 きっとこの静けさは、アタシの心臓と反比例している。

 これから起こることを考えて、アタシの心臓はライブ前なんて比にならないくらいドキドキしている。この胸の音が、少し前を歩くあいつに聞こえてるんじゃないかって、心配になるくらい。

 「………よし。アンタ、ちょっとここに座ってて」 

 「へ?」

 一番前の客席、そのど真ん中に無理やり押し込んで座らせる。

 困惑するあいつを無理やり言いくるめて押しとどめ、アタシは舞台右側にある出入口から外に出る。 

 細い廊下を一人歩き、舞台脇に向かう。

 グループアイドルなら狭くて出入りが混雑しそうな舞台袖にたどり着くと、そこには一人の男が立っていた。真っ暗闇の中、一人音響機材をいじる彼は、アタシがアイドルデビューしたときからの担当プロデューサー。

 「お、ようやく来たか」

 「プロデューサー、それ彼女に言ったらフラれるよ?」

 「はー?俺の彼女はそんなに心狭くないですぅー」

 「でもこの前プロデューサーが上げたピアス、微妙過ぎて付けるに付けれないって言ってたよ」

 「うっそだろマジかよ!?」

 漫才のようなやり取りも程ほどに、プロデューサーが操作する機材を後ろからのぞき込む。

 アイドルと言えど、歌って踊るだけじゃなく、自分たちが使う機材の操作方法だって学ばなくては、トップアイドルに何てなれないのだ。アタシ達のライブを支えてくれる人たちの気持ちを知って、感謝するから、もっといいライブにしようと思う。

 それが、トップアイドルへの道なのだと、いろんな人から教わった。

 「それよか、あの、女の子?あれ、男だっけ?」

 「あんな見た目でも男だよ」

 「マジかー…。とにかく、あの男の子が、お前の切っ掛けか?」

 「うん、そうだよ」

 「そっか。彼が、ね」

 舞台袖から、イスに深く腰掛けて、ぼうっと舞台を見つめるあいつを見る。

 プロデューサーには、アタシとあいつの関係を伝えてある。

 だからこそ、今日の手伝いを頼んだのだ。

 アタシがアイドルになった理由。アイドルを続けている理由。

 それは、たった一つの目標の為。

 目指している娘には悪いかもしれないけれど、トップアイドルなんて肩書は、副産物でしかないのだ。

 目標のための努力が、たまたまトップアイドルという結果をもたらした。ただ、それだけの事なのだ。

 だから今日。

 アタシは、一世一代の勝負を仕掛ける。

 夢を叶えて、夢を与える存在となった偶像が、現実だけを見て、夢も未来も過去も視ない人間の考えを壊すために。

 過去を見ようともしない、あいつを。

 未来の事なんて考えもしない、あいつに。 

 生きる価値があるのだと、知らしめるために。

 貴方が忘れて、封じ込めた感情を、アタシが引きずりだしてやるのだと。

 力を込めて、アタシはマイクを握った。

 

 

11 

 

 舞台中央を照らすスポットライトを目指して、舞台袖を出る。

 観客はあいつ一人。

 普段ならたくさんの観客の熱気で、真冬でもライブ会場は暖かい。

 だから、人が少ない会場は盛り上がるまでは寒いまま。今みたいに、あいつ以外誰もいない会場は、本当なら寒いはずなのだ。

 けど、がらんとしたこの会場で、アタシの体はライブ終盤のように熱を持っていた。

 緊張もある。興奮もある。

 どんなに大きなライブより、こいつ一人を相手にするほうが、何倍も、何十倍も、怖くて楽しみだ。

 「…ここは、アタシが覚悟を決めた舞台なんだ」

 あいつだけが座る客席に向かって、マイクを片手に語る。

 「アイドルとして、たった一つの目標に向けて走り出す覚悟を決めた舞台。だから、聞いてください」

 大したメイクもしてない。かわいいステージ衣装でもない。

 それでも、あいつの、貴方のためのステージ。

 今までの努力は、貴方のために。

 ステージに流れる曲に合わせて身体を揺らす。

 この日のために、発表することなく、ライブがあるときでも欠かさず練習してきた歌。

 プロデューサーにも、作曲してくれた人にも迷惑をかけたけど、今日ようやく、お披露目できる。

 たった一人のためだけに作られた、愛の歌。

 優しいピアノのイントロから始まった曲は、普段のアタシでは絶対に考えられないような、バラードよりの曲。

 だからこそ、どんな歌より、それこそ、アタシたちの代表曲で何回も歌った『お願い!シンデレラ』よりも、たくさん練習した。

 バイト終わりのあいつを待たせたりもしたけど、それも今日の、この時間のためだ。

 五分にも満たないこの歌は、愛を謳った歌。

 友達を大事に思う気持ち。たった一人の相手を想う気持ち。そして、家族を大事にしたいという想い。

 アタシの両親が、貴方を大事にしたいのは。

 莉嘉が貴方を慕うのは。

 アタシがいつでも貴方のことを考えているのは。 

 おじさんとおばさんが、いつでも貴方の前で笑顔でいたのは。

 「貴方に伝えるよ。愛している、この想いを」

 激しいダンスはしない。

 ただ、この想いを歌にのせて。

 

 たった一人のためのライブは、僅か4分36秒で幕を閉じた。

 あいつの顔を見ることも無く舞台袖に捌けると、そこにはプロデューサーと、何故か楓さんや瑞樹さん、奏に菜々さん。346カフェであいつのことを知った人たちが集まっていた。

 「ほら、これ」

 「あ、ありがと」 

 プロデューサーが真っ白なタオルを渡してくれる。たった一曲で、ダンスも踊っていないとはいえ、緊張からか、汗をかいていたようだ。

 首元を伝う汗を拭う。

 「早く行ってあげて。あの人のための歌だったんでしょう?」

 「いい歌だったわよ」

 「そうですね。心に染みるような歌でした」

 「な、菜々も、感動しましたっ!」

 「お前がやりたいこと、やりたかったこと。アイドルとしては、褒められたことじゃないかもしれないが」

 たった数分のために準備をしてくれたプロデューサー。

 機材の電源を落とすための操作をしながら、顔だけこっちを向いて、彼は言った。

 「城ヶ崎美嘉の本気を見れたことが、俺は嬉しかったよ」

 アイドルは、誰もが憧れる偶像だ。

 誰かのためではなく、皆のために歌い、踊る。

 皆に夢を見せ、皆の夢になる、皆の偶像だ。

 だから、誰か一人のために歌った今日のアタシは、アイドルとしては失格だった。

 けど、プロデューサーは、そんな本物のアタシを見れたことが嬉しいと言ってくれた。あいつのためだけに歌うアタシの本気が、よかったのだと言ってくれた。

 それだけの言葉で、どれだけ楽になったか。

 「……ありがと!」

 その言葉に、最大限の感謝を詰め込んで、アタシは駆けだした。

 狭い廊下をスニーカーで駆け抜け、静かな観客席に入る。

 プロデューサーがスポットライトを消したのか、非常灯の明かりだけが、暗い客席の光源となっていた。

 その暗闇の中で、僅かに聞こえる息遣いを頼りに足を進める。

 「…ねぇ」

 目が暗さに慣れてきた。

 視認できるほどに近づいて、彼の前に膝をつき、顔を覗き込む。

 いつもなら、すぐに返事をしてくれるのに、何秒待っても返事をしない。

 だから、息が当たるほどに顔を近づけた。

 そうして見えたあいつの頬を、一滴の涙が伝っていく。

 「…あ、れ。なんで…」

 うつむいていた顔をアタシから離れるように上げ、何度もコートの袖で拭う。けれど、涙は一向に止まることはなく、止めどなく流れ出る。

 今まで堪えていた感情が爆発したように、彼の意志に反してあふれ出す。

 そんな彼を見て、アタシは彼を抱き寄せた。

 アタシは彼の肩に頭をのせて、彼の頭をアタシの肩にのせるように抱きしめる。

 「泣いてもいいんだよ。堪える必要なんてない。おじさんたちを思い出して寂しくなっても、泣きたくなってもいい。大丈夫。アンタが辛い時には、皆が、アタシが一緒にいる。アンタは、一人じゃない」

 せき止めていた何が決壊したように、彼は泣き出した。

 おじさんたちが亡くなってから止まっていた涙が、ようやく動き出したように。

 ようやく彼は泣いたのだ。

 今だけを見て、過去を振り返ることなく、自分が傷つくことも厭わない彼は、ようやく自分と向き合った。 

 それを見て、アタシも泣いた。

 アタシのアイドルとしての時間は、この時のため。

 彼は、誰かに助けられたことを気にして、その恩を返すためだけに今を生きてた。

 おじさんたちが亡くなった時も、その現実から逃げるために、これからの事に目を向けた。それ以来ずっと、目を背けた現実から逃げ続けていた。

 それを責める権利は誰にもない。

 あの日のアタシは、それを理解していなかった。

 だから、感情を切り捨てたと思っていたあいつが、アタシと行ったライブで笑顔を見せたことが、何より嬉しくて、嫉妬した。

 そして、アイドルとしてあいつの気持ちを引き出そうとしているうちに、あいつの感情が止まっていることをようやっと理解した。

 「好きだよ。アタシは、アンタの事を愛してる」

 泣き続ける彼に、アタシの肩を濡らし続ける彼に、そっと呟く。

 止まっている彼の時間を動かしたい。

 そう思ったのは、アタシがずっと彼を好きだったから。

 昔から、地味で冴えないやつだったけど、いつでも一緒にいてくれた彼だから。

 アイドルになって、ただ一人、彼の為だけに頑張って、頑張って、ようやく手が届いた。

 

 その日、数年の時を経て、ようやく両親の死と向き合ったあいつは、子供のように泣き疲れて、アタシの思い出の音楽ホールで眠ってしまった。

 このまま夜を明かすことも考えたけれど、風邪をひいてしまうと思い、両親へ連絡した。

 バイクは置いて、目を赤くして眠っているこいつを運び、アタシのベッドに寝かせた。

 部屋を暖かくして、お風呂を終えたアタシも一緒のベッドに入る。子供のように眠る彼は、アタシがベッドに入るなり、アタシを抱きしめた。

 「なっ…!」

 最初こそ恥ずかしくなったものの、優しい表情で眠る顔を見て、自然とアタシも笑みがこぼれた。

 「おやすみ」

 彼は、周りに迷惑をかけて生きていると思っていた。自分の事より、誰かを優先していた。

 それは、彼を愛する人がいないという考えから。そして何より、彼自身が彼を愛していなかったから。

 けれど、彼を愛している人がいるということを伝えたかった。

 貴方は、皆に愛されて。

 何より、アタシがこんなにも愛しているのだと、知ってほしかった。

 この想いがあなたに伝わったかは分からないけど、アタシは伝えたよ。

 「好き」

 明日の貴方は、どんな顔をしてくれるのかな。

 でも、どんな顔をしていても、貴方の優しさは変わらない。

 貴方が自分を大事にしなくても、生きている価値が無いのだと思っていても、それでも生きていたのは、誰かへの優しさがあなたの心にあったから。

 アタシは、そんなあなたが大好き。

 

 

 城ヶ崎美嘉は、貴方の為に、アイドルになったんだ。


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