謳う者   作:百日紅 菫

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罪を謳う

 1

 

 この光景を、私は一生忘れることは無いだろう。

 教室の中心を囲うように倒れた机や椅子と、散らばったガラス。教室に入るための引き戸は廊下に倒れていて、その扉を壊したであろう机が重なっていた。

 教室の外には野次馬の生徒がたくさんいて、誰もが驚きと恐怖に顔を染めていた。

 ただ、何よりも忘れられないのは、教室の中心。

 五人もの教師に取り押さえられた少年。その足元には、十人以上の生徒が、頭から、顔から、身体の至る所から血を流して倒れ伏していた。

 聞こえる音は、野次馬のざわめきと、倒れた生徒の鳴き声。外から救急車のサイレンも聞こえていたと思う。

 教室内には鼻を塞ぎたくなるようなアンモニアの臭いと、流された大量の血による鉄の臭いが充満し、野次馬の先頭に立つ生徒は顔をしかめていた。

 その状況を作った張本人は、血に濡れた拳をだらりと下げて、死んだような瞳で取り押さえられていた。

 教師が何かを言っているようだが、その言葉は彼には届いていなかった。

 だけど、教師の一人が言った一言を聞いた途端、彼の瞳にもう一度火が灯った。

 「あとであいつらに謝るんだぞ。これはお前が悪い」

 その火は、怒りだった。

 何も知らない担任への怒り。倒れ伏した生徒と同じ存在である担任教師を、彼らと同じように床に沈め無くてはならないと言う怒りの使命感。

 彼は教師五人がかりの拘束を振りほどき、担任教師の顔面に鋭い拳を叩き込んだ。間髪入れずによろめいた担任の髪の毛を乱暴に掴み、床に顔面を叩きつけた。そして、とどめとばかりにその頭を踏みつけ、荒い息を吐きながら、彼はようやく止まった。

 一瞬の出来事に、けれどその惨たらしい景色を見せつけられた野次馬たちは悲鳴を上げ、教師たちは再度彼を抑えつけた。

 その後の事は、よく覚えていない。

 ただ、嵐のような彼の怒りと、台風にでも遭ったかのような教室の惨状が、記憶の壁にこびり付いて離れないのだ。

 その理由を、私は知っている。

 だって、彼を見捨てたのは私だから。

 彼の助けを求める声に、聞こえない振りをしたのは、他でもない私だから。 

 彼の怒りを忘れられないのは、その怒りの本来あるべき矛先が、私の筈だから。 

 中学卒業を目前に控えた二月。

 彼は私の前から姿を消した。

 

 

2

 

 「かんぱーい」

 金色のジョッキが四つぶつかり、キンという気持ちのいい音が響く。座敷の個室には私を含めて四人が座っている。先輩アイドルの高垣楓さん、川島瑞樹さん、片桐早苗さん、そして私、三船美優。

 いつもなら楽しい飲み会の席だけど、今日の私はどうにも楽しめなかった。

 居酒屋に入る前、どころか昨日の時点でお断りの連絡を入れていたくらいだ。

 なら、なぜここにいるのかと言えば、早苗さんに無理やり連れられてきたからだった。

 「ぷはぁ。それで?」

 一口でジョッキの半分を飲んだ早苗さんが、早くも私に聞いてくる。ただの飲み会が、私に関しての尋問会にシフトしているのは勘違いではないだろう。

 だけど、せめてもの抵抗として、聞き返してみる。

 「それで、とは?」

 「もー、すっとぼけんじゃないわよ!いつでも飲みに行くときはニヤニヤして楽しみにしてるくせに、今日は断るんだもん。そりゃ気になるでしょ」

 ですよね。でも、そんなにいつもニヤニヤしてたかな。

 「なにかあったの?」 

 「ええと、そうですね…」

 私は金色の液体を見て、言い淀む。 

 確かに『何か』はあった。というよりも、私は遭ってしまったのだ。

 「昔の知り合いに会いまして…」

 「……仲が悪かったんですか?」

 「いえ、仲は良かったと思います。二つ年下の男の子なんですけど、近所に年の近い子が二人しかいなかったのもあって、よく遊んでいたんです」

 外で遊ぶのが苦手な私に合わせて、家の中で遊べるゲームなんかをよくしていた。今思えば、身体を動かしたいのを我慢して、私に合わせてくれていたのだろう。年下なのに、とても気の使える子だった。騒いだり、うるさくするわけでもないけど、一緒にいるだけで楽しくなるような、そんな男の子だった。

 そんな彼は小学校一年生の頃から道場に通っていた。空手や合気道なんかを習っていたらしい。遊びで発散できない運動への欲求をぶつけていたのか、彼はみるみる強くなり、小学校を卒業する頃には、習っていた武道の多くで黒帯を持っていた。道場の中でも一二を争うくらい強かった彼は、けれど大会なんかには一切出たことが無く、彼の強さを知っていたのは私と彼の家族、道場にいる十人程度の人間だけだった。

 彼自身も、自己主張をするような性格ではないこともあり、何も知らない人から見た彼は、笑顔が絶えない優しい少年といったところだろう。

 実際、彼の優しさは底抜けで、困っている人がいれば躊躇なく助けに行くし、実際に助けるだけの力も持っていた。そして、怒ったところを見たことが無いくらい、いつも笑顔でいる。

 だから、だろうか。

 彼の強さを知っている人が、もう少しでもいれば。

 彼の強さを知る人が、彼の優しさに甘えなければ。

 あの事件は起こらなかった。彼の心は壊れなかった。

 「…彼は、中学に上がるなり、いじめに遭うようになったんです」

 原因は、いじめの主犯が好きだった女の子が、彼の事を好きになってしまった。ただ、それだけの事だった。

 中学一年生の校外学習で発覚したその事実に、いじめの主犯はすぐに動いた。

 中学は複数の小学校から生徒が集まってくる場で、その割合も千差万別。私たちの中学では、私たちの小学校から上がってくる子が極端に少なかった。私たちの家が、小学校の学区内ギリギリにあったから、しょうがないことではあるけれど。

 逆に、いじめの主犯側は小学校からの知り合いが多く、彼の情報が回るのも早かった。彼の、偽りの情報が。

 偽善者。

 それが彼を示す、たった一つの名前。

 百聞は一見に如かず、とはよく言ったもので、噂の実情を確かめようともしない人達のせいで噂は尾ひれがつきながら加速度的に広がった。それこそ、二学年も違う私にすら届くほどに。

 この段階で何よりも不幸だったのは、いじめの主犯の交友関係が広く、それなりに信頼を得ていたことだ。そのせいで、噂は噂ではなく、確かな情報として広まってしまった。

 けれどその噂に、彼の正しい情報など一切なく、常に浮かべている笑顔にすら裏があると言われているほどだった。

 そこから彼に実害が出るまでは早かった。むしろ、一か月も噂だけで済んでいたことに驚くほどに。

 靴や教科書が隠されたり汚されるのは当たり前。椅子に画びょうが張り付けられていたり、掃除中に水を駆けられることもあったらしい。苛めている側も、直接手を出すのはマズいと思っていたのか、暴力を振られることは無かったものの、学校中から敵とみなされ、攻撃される彼の心情は想像を絶するものだったろう。

 それでも、彼は挫けなかった。

 どれだけ陰口をたたかれ、いじめに遭おうとも、彼は学校に休むことなく、家や道場でもいじめに遭っていることを言わなかったという。

 だから、そんな強い彼が唯一弱さを見せられる私が彼を裏切ってしまったという事実が、どれだけ彼を傷つけたのか、私は知るべきだったのだ。

 彼の噂が広がり、実害が及ぶようになってからおよそ8か月。冬休みが開けて数週間が経った頃。

 私は、数少ない女友達と一緒に下校していた。三年間同じクラスで、そこそこ仲が良かった子だ。ただ、どんな話をしていたかはまるで覚えていない。

 覚えているのは、その下校途中に彼と出くわしたということ。

 そして、話しかけてきた彼に言ってしまった、残酷な答え。

 「…美優ちゃん、あの男子って」

 「う、ううん、知らない」

 知らない。

 私は怖かったのだ。

 彼との関係を知られることで、私に悪意が向くのが。

 当時の私は、その後彼に弁明するつもりではいた。近所に知り合いは彼しかいないから、いくらでも二人きりで話せる機会はあると思っていた。

 そんな考えは甘すぎたと、今でも後悔している。

 その日、彼の家に行っても彼はいなかった。両親に聞いても、帰ってきてすらいないと言う。その理由を、後になって知った。

 そして翌日、あの事件が起きた。

 学年が違う私は現場にいなかったから、事件の起こりや私が現場を見るまでの概要は彼の同級生からの又聞きになる。

 その日、彼はいつものように始業ギリギリに学校に到着した。いじめが始まってからというもの、彼はできる限り学校にいる時間を減らすために、朝は始業ギリギリに、帰りは終業後すぐに学校を出ていた。

 彼の椅子には接着剤で画びょうがつけられていて、机はベランダに出されていたという。彼の席は廊下側で、わざわざベランダから机を戻さなくてはならなかった。

 しかし彼は、嫌な顔一つせずに、淡々と机を戻す。

 その姿が、いじめる側の人間には生意気に見えたのだろう。

 机を運ぶ彼の足を払い、わざと転ばせた。机を持っている人間に対してすべきことではないし、実際彼は机を投げ出して床に転がってしまった。前日までの彼なら、何も言わずに、嘲笑にすら耐えていただろう。

 けれど、その日の彼は違った。

 数秒間床にうずくまったかと思うと、彼は投げ出した机の脚を掴み、彼を嘲笑っていた三人の男子に向けて机を投げた。

 苛められている人間とは思えない力で投げられた机は男子生徒の頭上を通り過ぎ、教室の窓ガラスを盛大に破壊した。窓ガラスが割れる音を、確かに私も聞いた。

 次に彼は、驚く男子生徒の鼻っ柱に鍛え上げた拳を叩きつけ、流れるままにいじめの主犯であった男子生徒三人を殴り倒したそうだ。否、彼はそれだけでは止まらず、倒れた男子生徒の頬骨が砕けるまで殴り続けたらしい。

 様々な武道を極めた彼にとって、一方的でなければ相手を辱めることもできない相手など、歯牙にもかけなかった。

 次に行動を起こしたのは、その惨事を見ていた周りの生徒だった。

 運動部系の男子を中心に、正義感の強い女子までが彼を止めようと動いた。

 けれど、それでも彼は止まらない。

 彼にとって、止めに来た生徒たちも、いじめの主犯と大差は無かった。

 それもそのはず。

 彼から見た周りの生徒は、いじめを見て見ぬふりをする、つまるところ、いじめを容認している存在だからだ。いじめを受ける側からすれば、いじめる人間も、それを見て嘲笑い、容認している人間も、断罪してしかるべき存在なのだ。

 そこからの彼は、まるで台風の様だったそうだ。

 男女の性差も関係なく、その場にある机と椅子を撒き散らし、鍛え上げた拳と蹴りを叩き込む。

 それはまさしく、暴力の嵐だった。

 痛みになく女子生徒、暴力に怯えるクラスメイト、血とアンモニアの水溜りに沈む男子生徒。

 破砕音に驚いて集まってきた生徒の群れにいた私は、その光景に恐怖でもなく、罪悪感を抱いた。それこそ、十年近く私を縛り上げるほどに。

 知らない。

 昨日の私が言ってしまった、四文字の言葉。

 その言葉が、無責任にも言ってしまった私の言動そのものが、この現状を作ったのだと。

 血に濡れたシャツと拳。

 疲弊していた彼を、最後の最後で追い詰めてしまったのは、私なのだと。

 「…さよなら」 

 諸悪の根源を、担任を含めて叩き潰した彼が教員に連れていかれるその時。

 彼はそう呟いた。

 がつん、と。

 本当に殴られたわけではないのに。本当に殴られた、教室で泣き喚く彼らの方が痛い筈なのに。

 私はその場に崩れたのだった。

 

 後になって知ったことだけど、彼の起こした事件は新聞の片隅に乗っていたらしい。

 いじめがあったという事実を把握していなかった学校側は責任を問われ、いじめの主犯であった生徒たちの保護者達にもその余波がいったそうだ。

 しかし、彼の暴力にもやり過ぎだと言う意見があり、事件は保護者と学校間での手打ちで終わったらしい。

 けれど、所詮それは子供の手が届かない大人の話。

 子供の世界では、一度起きた過ちはひたすらに影を引きずることとなる。

 事件の翌日から学校は休校になり、再度学校が始まった頃、彼は家族とともに引っ越していた。

 「それなりに仲の良かった両親たちは引っ越しの挨拶や、引っ越し先を教え合っていたみたいですが、それを知るのは私が高校を卒業する時期の事でした」

 高校三年生の一月。彼の家族からと思われる年賀状を見て、彼が東京に引っ越したのだと知った。

 けれど、それを知ったところで私にはどうすることもできない。 

 「…その彼と、再会したのね?」 

 「……はい」

 そして、その記憶を心の隅に追いやって、つまらない大学生活をやり過ごし、入りたくも無い会社でOLをして、そうやって辿り着いたこのアイドルという夢のような仕事で、私は自分の犯した罪と向き合うことになった。

 きっとこれは罰なのだ。

 自分の犯した罪から逃げた罰。

 つまらない時間を、無為な時間を過ごすだけで、彼への罪悪感から逃げ続けた自分への罰。

 「どこで会ったの?まさか、道端ってわけじゃないわよね?」

 「それが、その…」

 話を聞いている最中もお猪口を置かなかった楓さんが、何かに気づいたように声を上げた。

 そして、きっとそれは当たっている。

 「もしかして、新しく来たチーフアシスタントの彼ですか?」

 「え」

 先日、アイドル部署の助っ人として、346プロの総務部からやってきた年以上に若く見える男性。隣で紹介していた武内プロデューサーと比べても、いやに若いのが特徴的だった。

 だけど、それ以上に彼の名前を聞いて、私は血の気が引くのを自覚した。

 「…そうです」

 彼こそが、私の罪。

 

 

3

 

 彼がアイドル部署に来てからというもの、部署全体の騒がしさというか、仕事に追われるプロデューサー達の姿を見る機会が格段に減った。なんというか、以前までは定時を過ぎても帰らず、聞くところによれば日が変わるまで残業していた人たちもいたそうだが、今では定時で帰宅する人も増え、仕事をする姿にもどこか余裕を感じる。

 それも、時季外れの人事異動で別の部署からやってきた彼の功績だろう。

 くたびれたワイシャツにシンプルなデザインのネクタイを締めた彼。赤いアンダーリムの眼鏡の奥には濃い隈があり、それを隠すようにぼさぼさに伸びた黒髪が、記憶の壁に張り付いた彼に重なった。

 私より二つ年下、ということは現在24歳である彼は、およそ20代の働きとは思えないほどの働きぶりでアイドル部署の激務をこなしていた。

 チーフアシスタントという立場は、プロデューサーとアシスタントの中間のような立場らしく、プロデューサーの仕事を補佐し、同じ仕事をするアシスタントの統括役とも言える。つまるところ、別部署から移動してきた、アイドル部署の仕事にすら慣れていない彼が、アイドル部署で最も忙しい立場にいるのだった。

 実際、異動して数日の間、彼のいる部屋はお城のような巨大な事務所で最後まで灯りが点いていた。

 最近では定時ピッタリになると、アイドルやプロデューサーを残して帰るけれど、翌朝は誰よりも早く事務所にいる。

 それに加え、前の部署で相当頼られていたのか、態々アイドル部署に来てまでアドバイスを求める人たちもいる。 

 けれど、目に付く彼の表情は、いつでも変わることなく無表情だった。

 そんな彼に、私は未だに声の一つも掛けることことができていなかった。 

 「ねぇ、アンタいつ話しかけんのよ?」

 「うぅ、早苗さん…」

 彼が働く部屋の前で燻ぶる私に、態々ついてきてくれた。否、無理やり引っ張ってきた早苗さんがジト目で睨んでくる。10センチ以上身長差がある為、睨むと言うよりは上目遣いになっているし、年上とは思えない可愛さを含んでいるけれど。

 「もうすぐ6時になるけど、定時になったら彼帰っちゃうんでしょ?」

 「そうみたい、ですけど…」

 朝早くからこの部屋で書類の処理を始める彼は、プロデューサーやアシスタント、トレーナーさんと業務関係の話をするとき以外は、基本的に部屋から出ない。時折、アイドルの送迎なんかを頼まれて外に出ることはあっても、6時以降はアイドル部署から姿を消す。

 そんな彼と、6時以降も仕事をし続けるプロデューサーやアシスタントを見て、言葉にこそしないけれど彼に不信感を抱いている子もいるらしい。

 特に真面目で自分に厳しく、何より未成年の子たちは、その傾向が強いように思う。

 だけど、元OLの意見としては、残業なんて本来するものではないし、毎日毎日残業を続けるアイドル部署が異質なのだ。まぁ、他の企業との兼ね合いや、アイドルに対しての社員の数が足りていないせいもあるのだろうけど。

 とにかく、最初は夜遅くまで働いていた彼が、定時で帰っているということは、彼の仕事は終わらせているのだ。責められる謂れはどこにもない。

 「ていうか、いっつも見てるだけで、若干ストーカーっぽいわよ」

 「うっ」

 「いい加減、見てるこっちがイライラしちゃうから、さっさと話してきなさい」

 そんな働き者の彼に比べ、ここ最近の私は腑抜けていた。

 練習中も、取材中も、撮影の時でさえ彼の事を考えてしまい、トレーナーに怒られることも多かった。 

 そんな私を見かねたから早苗さんは私をここに連れてきたのだろう。

 「大体、昔の事をちょっと謝るだけじゃない。こんなでっかい企業に就職してるんだし、案外向こうも気にしてないかもしれないわよ?」

 そんな風に励ましてくれる早苗さんを見たその時、目の前の扉が開いた。

 静かに開く扉に反して、出てきた部屋の主は何事かを話していた。

 「はい。今から向かいます。ああ、いえ、問題ないです。え、それはマニュアルの62ページに…はい、とにかく今から行きますので、そちらで」

 彼は私たちの姿を見ると、電話を耳に当てながらも頭を下げ、別部署がある方へと歩いて行った。

 その手にはスマホの他に小さいノートパソコンがあり、服装もジャケットを脱いでワイシャツにネクタイだけのラフな格好だった。シャツの第一ボタンも外し、ネクタイを緩め、アイドル部署にいる時は下ろしている前髪をヘアピンでとめている彼は、およそ普段の彼からは想像もできないほど仕事ができる風体だった。いや、普段も見えないくらいのブラインドタッチでキーボードを叩いたりしているけれど、今の姿はビジネスマンとか、そう。プロデューサー、のようだった。

 「…行っちゃいましたね」

 「てか、あの分だと帰りそうにないわよね?定時帰りの男って話は嘘なのかしら」

 私と大差ない身長なのに、瞬く間に廊下から消えた彼を見て早苗さんが呟く。

 兎にも角にも、当初の予定を達成できなかった私たちは、自分たちのプロジェクトルームへと引き返した。

 「にしても、さっきの誰との電話だったのかしらね。マニュアルとか言ってたし、前の部署の後輩とか?」

 前の部署、と聞いて私は一つ思い出した。

 そういえば、彼の前の部署にプロデューサーがいた、という話を聞いた気がする。

 成年組のアイドルの中でも、よく飲みに行く私達の面倒を見てくれているプロデューサーが、アイドル部署ができる前にいた部署で後輩だった、らしい。

 彼と直接話すよりも、プロデューサーに私の知らない彼を聞いてからの方が話しやすいかもしれない。

 そんな考えが過ぎり、私は階段を上った。

 

 

4

 

 「あいつはすげー奴だよ。ぶっちゃけ、高卒って聞いて嘗めてたけど、この事務所で一番有能なのはあいつだな。ただ、あいつは有能すぎる。教えたことはすぐにできるようになるし、頼んだ仕事は俺がやるより速く、正確に終わらせる。そのせいで一時期、前の部署の仕事があいつに集中したんだ。何が悪かったっていやぁ、仕事を集中させた俺らが悪いんだが、それを感じさせないくらいあいつは完璧に仕事をこなしちまった。分からないことはあいつに聞け。できないことはあいつに任せろ。俺がアイドル部署に引き抜かれる直前にゃあ、そんな考えが部署内で充満してた。だから今回、アイドル部署に異動する事になって、あっちの部署は大慌てだ。あいつが回した決裁は上司ですら中身を見ないし、分からないことを聞いた奴らは言われるがままにやっていただけ。実質あいつ一人で回してた部署になっちまってたんだからな。こないだまで、あいつずっと執務室にこもってたろ?俺も聞いて驚いたんだが、数えきれないくれぇある業務を、一つ一つマニュアルにしてたんだとよ。ちらっと見せてもらったけど、かなり細かく書かれてた。ありゃ、永年保存されっかもな。んで、今度はこっちの部署の仕事が終わってから、向こうの助っ人にも行ってるんだと。行かなくて良いっつったんだけどな…」

 つまるところ、彼は今2つの部署で仕事を抱えている状態なのだ。

 その話を聞いて私がどう思ったかと言えば、またか、の3文字だけだった。

 またか。

 またなのか。

 手段が違う。彼を貶めるわけでもない。むしろ、彼を信頼して頼っているのかもしれない。

 けれど、これは。

 彼に対するいじめ以外の何物でもないではないか。

 「ここでも、なんですか…」

 「……美優さん」

 プロデューサーの執務室に来る途中で会った楓さんと瑞樹さんを含め、前回飲みに行った4人で、彼の話を聞いた。

 その実情は、大手プロダクションの闇とも言うべきものだった。

 「だからある意味、あいつにとっては美城専務からの救済措置、向こうからすれば遅めの処罰ってとこだな。実際、今の引継ぎさえ終わればあいつの仕事量も減るし。チーフアシスタントって立場はあいつに向いてると思うしな」

 それを聞いて、ようやく私は胸を撫でおろした。

 向こうの部署の人たちに悪気が無かったのだとすれば、今の忙しさが終われば彼の仕事もアイドル部署の仕事だけになるのだろう。後腐れも無く、昔のように、何も悪くない彼が逃げることも無い。

 そして思うのだ。

 やはり、私は関わるべきじゃない、と。

 仕事上で話す機会もあるだろう。けれど、それ以上に踏み込むべきじゃない。

 私の謝りたいという気持ちは、私の我儘だ。そして、彼に謝ると言うことは、彼にとって辛い過去を彼に思い出させるということ。

 それなら、彼に謝るよりも、私が関わらないようにした方が、彼にとっては良いだろう。

 私の中には罪として傷が残り続けるけれど、罪への罰としては丁度いいかもしれない。

 あのたった一言を一生忘れないことが、私が彼にできる唯一の償い。

 そう決心した私は、しかしすぐに考え直すこととなる。

 「…アンタ、あの子に関わらないようにしようとか考えてないわよね?」

 隣にいた早苗さんが、怒気を含んだ声で聴いてくる。

 「でも、私と会うことで彼が昔を思い出すなら、それは…」

 本末転倒。そう言う前に、早苗さんの怒声が私の耳を貫いた。

 「確かに昔のアンタがしたことは許されることじゃないわよ!あたしが彼だったら顔を見たいとも思わない!けどね、それはアンタが謝らなくてもいい理由にはならないのよ!いい!?人ってのは傷つけあわなきゃ生きていけないの!でもそれは、傷つけた後に謝って、仲直りするからでしょ!アンタがしようとしてることは、昔彼をいじめてた奴らと同じことなの!もしアンタがそれをやるってんなら、あたしはアンタを許さないわよ!」

 胸倉を掴まれて、壁に追いやられる。

 元警官の早苗さんの拘束を、普通のOLだった私が振りほどけるわけもなく、為されるがままだ。

 私は、壁に押し付けられたまま、怒りの火をその目に灯す早苗さんに、絞り出した様な声で聞いた。

 「…なんで、早苗さんがそこまで、怒るんですか…?」

 その質問に、早苗さんは一瞬の間を置くことなく答えた。

 「そんなの決まってんじゃない。あたしは悪党と友達になった覚えは無いのよ」

 ああ、彼女は言ってくれるのか。

 彼を裏切り、あの事件の本当の元凶とも呼ぶべき私を。

 悪党ではないと。いじめの主犯であった彼らとは違うのだと。

 「アンタが逃げたことは、正しくないけど、間違ってない。当事者じゃないから無責任な言葉になっちゃうけど、過激ないじめに遭ってる子と関わらないってのは、同じ子供の防衛法としてはひどく正しいんだから。だけど、本当に彼を思うなら、逃げた先で誰かに頼るべきだった。彼を助けてって、美優も声を上げるべきだったのよ。まぁ、それをする前に彼の方が動いちゃったんだから、しょうがないことではあるけど。いじめの問題は難しいけど、アンタたちの件で言うなら、いじめの主犯が一番の悪党。そんで、アンタたちは対応が悪かった。我慢するだけ。逃げるだけ。それじゃ、誰も救われないわよ」

 早苗さんは私の胸倉から手を放し、襟元を直してくれる。

 「だから、今度こそ間違えないで。アンタは、美優は彼を思える優しくて正しい女なんだって。美優の過去を知っても、あたしが胸を張って友達だって言える女になりなさい」

 そう言う早苗さんは、私が社会に出て出会った誰よりも正しく、格好良かった。

 その強さが、昔の私にあれば。

 そんな思いが頭を過ぎるけれど、頭を振って飛ばす。

 早苗さんの強さを求める必要はない。

 ただ私が、誰に対しても胸を張って、自分の思う正しさを貫けるようになればいい。

 彼がいじめに遭っていた時、本当は助けたかった。

 足がすくんで動けない自分に、心底失望した。

 だけど、私は変われる。

 胸を張って、自分は三船美優なのだと。

 あの時助けることはできなかったけど、それでも謝ることはできたんだって。

 未来の私が胸を張って生きられるように、私は成長する。

 「…私達、蚊帳の外?」

 「そうですね。ガヤにもなれてませんね」

 「何なら事情を知らない俺が一番訳わかんないんだけど。君ら何しに来たの?三船さんは彼と知り合いなの?」

 「うるさいわね!女同士の友情に水差すんじゃないわよ!」

 「うぅ、すみません…」

 

 

5

 

 「かんぱーい!」

 四色のグラスがカチンと音を立てる。机の上には枝豆や唐揚げをはじめとして、色とりどりなおつまみが置かれている。

 「ぷはぁっ!やっぱ仕事の後はこれよねー!」

 「明日はお休みですし、たくさん飲めますね」

 「楓ちゃんは次の日が休みじゃなくても飲むでしょ」

 「うふふ」

 前回とは違い、和気藹々とした雰囲気で始まる恒例の飲み会。店の角の座敷に陣取る私たちは、完全に悪酔いしていた。

 私の変化の兆しを祝う飲み会と銘打っているものの、やはり根底にあるのは酒好きの欲望なのかもしれない。

 それでも、私も今日の出来事が嬉しくて、これから頑張る自分へのご褒美と称して飲んでいるのだから、他の三人と変わらない。

 「にしても、今日の早苗ちゃんは格好良かったわねー。早苗ちゃんが男だった完全に惚れてたわ」

 「元警察官舐めないでよー?」

 確かに今日の早苗さんは格好良かった。

 まさか大学を卒業して、転職までした先で青春みたいなことをするとは思わなかった。

 思い出して、少しだけ恥ずかしくなったので、羞恥心を流し込むようにサワーを飲む。フルーツ系のサワーはスッキリとした甘みと酸味を同時に運び、少しだけフワッとした感覚に襲われる。

 いつも以上にお酒を楽しみ、三十分も経たないうちに楓さんのダジャレが止まらなくなってきたところで、楓さんのお世話をしていた瑞樹さんが何かに気づいた。

 入り口を注視する瑞樹さんの視線を追うと、入ってきたのはスーツを着た二人の男性。

 先に入ってきた男性は目つきが鋭く、どこかで見たような顔だった。その後に続いて入ってくる男性は、彼に比べて小さく、赤いアンダーリムの眼鏡が特徴的で、やっぱり見たことのある顔だった。

 というか、プロデューサーと彼だった。

 「…んぐっ!?」

 「なにやってんのよ!」

 遅れて反応した私は、飲んでいたサワーをのどに詰まらせた。

 隣に座る早苗さんが驚きと必死の表情で背中を叩いてくれるけど、当の私はそれどころではなかった。

 喉が詰まって息ができないせいもあるけれど、それ以上に、彼に謝る決意をしたその日に彼と会う決意はしていなかったからだ。

 「あら、プロデューサーにチーフさん。お二人で呑みに来たんですか?」

 瑞樹さんが手を振って、近づいてきた二人に声をかける。

 「お前らは呑みすぎだろ。まぁ、新田を連れて来てないから別にいいけどよ」

 「あの時は美波ちゃんから連れてってほしいって言われたのよ。それより、チーフさんと二人?一緒に呑んであげましょうか?」

 「…けほ、けほっ」 

 ようやくサワーが流れ、落ち着いてきたところに、今度は瑞樹さんが爆弾を投げてきた。

 ただでさえ顔を合わせるだけでも緊張で酔いが飛ぶのに、一緒に呑むなんてことになったら、もはやお酒どころじゃない。

 だけど、それは杞憂だったようで。

 「馬鹿か。お前らと呑んだら俺の身がもたんわ。その点、こいつなら絶対酔わねぇし、むしろ俺が酔いつぶれても大丈夫だからな」

 「酔いつぶれた先輩は置いて帰りますけど」

 「なんでそういうこと言うんだよ!呑んでもいいけど、帰ってこなかったら殺すって奥さんに言われてんだよ!」

 「じゃあ潰れないでくださいよ」

 「馬鹿言うな!お前のペースで飲んでたらこいつら以上にもたねぇよ!」

 何やら言い合っているが、とにかく彼らは私達とは一緒に呑まないらしい。良かった。

 「チーフさん、かなり呑めるの?」

 「そうですね。まぁ、人並みくらいには」

 「嘘つけ。こいつはザルだぞ。酔ってるところなんか見たことねぇし」

 その後、瑞樹さんとプロデューサーが少し話して、彼らはカウンターに座った。じっと見ていると、プロデューサーが普通のジョッキでビールを頼んだのに対して、彼は見たことも無いような大ジョッキのビールを頼んでいた。

 この時は知らなかったけれど、この居酒屋の店主は彼の知り合いで、彼の為に特別に用意してあるらしい。

 そして、驚くべきことに、彼はその普通のジョッキの2、3倍はあろうジョッキの半分を一気に飲み干していた。

 その後もちらちらと彼らの方を、楓さんを除いた三人で見ていたが、彼がお酒に強いと言うのは本当らしい。

 プロデューサーがビールのジョッキを一つ空にする間に、巨大ジョッキと日本酒、サワーにウォッカのロックを呑み、それでもなお、トイレに行く際の足取りは普段通りで、一緒に呑んでいるプロデューサーがかわいそうに見えるほどだった。

 それから一時間。

 夜の9時を回った頃、プロデューサーは完全に酔いつぶれ、私たちの席でも楓さんと早苗さんが潰れていた。私は彼が気になってしまうせいでいつもよりゆっくり、途中で普通のジュースを飲んだりしていたから。瑞樹さんは、普段から自制できているし、その上楓さんの面倒を見ながらだったので、酔いつぶれることは無かった。

 しかし、彼はひたすらにジョッキやお猪口を傾け、水でも飲んでるのかと疑うほど呑んでいた。

 それでもなお、酔っているようには見えない。

 「ほんとに強いのね。ていうか、強すぎない?」

 「そうですね…。そろそろ、私たちもお開きにしますか?」

 「そうね。楓ちゃんは私の家に泊めるから、早苗ちゃんの方お願いできる?」

 「はい。それじゃあ、お会計だけ済ませてきますね」

 そう言って、机に置かれているはずの伝票を探すが、どこにも見当たらない。

 「…あれ?瑞樹さん、伝票持ってますか?」

 「そういえば、見てないわね」

 二人で座敷の中を探すが、影も見えない。

 これだけの量の注文なら、伝票は一枚じゃ収まらない筈だし、そもそも持ってきてもらっていた覚えがない。

 近くを歩いていた店員さんに声をかけ、お会計をしたい旨を伝えると、とんでもない答えが返ってきた。

 「伝票、ですか?それなら、あちらのお客様がまとめて払うとのことでしたので、こちらのお席には持ってきていませんよ?お知り合いの方なんですよね?」

 そう言って指し示すのは、カウンター席に座って潰れているプロデューサー。隣に座っていたはずの彼を探すと、レジでお会計をしていた。その手元には、数枚の伝票があり、明らかに二人分ではない金額を財布から出していた。

 会計を終えた彼はカウンター席に戻り、プロデューサーを背負って私達の元にやってきた。

 「タクシーを呼びましたので、お二人を連れて来てもらえますか?帰る方向は高垣さんと川島さん、片桐さんと三船さんが一緒でしたよね?」

 「え、ええ。楓ちゃんは私の家に泊まるし、早苗ちゃんも美優ちゃんの家に泊まるから…。それより、奢ってもらっちゃったようだけど、いいんですか?」

 「はい。先輩名義で接待交際費の経費にするらしいですし」

 「仕事中じゃないのに経費で落ちるの?」

 「落ちません。というか、自分のところで決裁止まりますし」

 「あら、ひどいのね」

 「素面で言った先輩のせいです」

 彼はプロデューサーを背負いなおすと、私たちの準備ができたのを見計らって店を出た。

 続いて私達も店を出る。後ろからは、ありがとうございましたー、と聞き取りにくい声が聞こえた。 

 外には二台のタクシーが止まっていて、彼が運転手と話をしている。

 「それでは、私は先輩を送り届けるので、これで。お疲れさまでした」

 「あ…」

 住宅街の方へ歩いて行く彼に、私は声を漏らす。

 結局、一言も話せなかった。

 早苗さんをタクシーに乗せ、開いたドアの陰から彼の背を見る。彼より10センチほど大きいプロデューサーを背負い、尚且つ浴びるほどのお酒を飲んでいるはずなのに足取りは確かで、プロデューサーが信頼して酔いつぶれるのも納得ができる。

 置いて帰るなんて言っていたけど、きちんと送り届けるところを察するに、彼の優しさは変わらないままなのだろう。

 だからこそ、今ここで声を掛けなければいけない気がした。

 これから変わる私の第一歩を、今踏み出さなければ。

 その直感は正しくて。

 「あの!」

 「…はい?」

 「わ、私のこと、覚えて、ますか…?」

 出てきた言葉は、ずっと聞きたかった言葉。

 けれど。

 「…三船さんのこと、ですか?」

 返ってきた言葉は。

 「部署に来てから初めてお会いしましたよね?それ以前にお会いしたことは無いと思いますが」

 私が望んでいた言葉ではなかった。

 その言葉は、見え始めた希望に罅を入れるには、十分すぎた。

 

 

6

 高校卒業を目前に控えた一月。

 中学での出来事を忘れられずにいた私は、仲の良い友人を作ることも無く、推薦で大学を決めて、ただ卒業式が来るのを待っていた。

 何をするでもなく、非生産的な日々を送る毎日。この時すでに、今の私が出来上がっていたのかもしれない。

 そんな時、私は見てしまった。

 毎日、後悔するだけの日々を送っていた私を、正真正銘の地獄に叩き落した、一通の葉書を。

 午前中で終わる授業を受けて、お昼ごろに帰ってきた私の眼に入った葉書。

 それは、毎年両親が隠している葉書で、私が早く帰宅してくることを知らない両親が隠し忘れたものだった。

 「これ…」

 書かれた住所は東京。

 差出人の名前は、彼の父親のモノだった。

 震える手で葉書の裏を見てみれば、上半分には彼と両親が映った写真が、下半分には彼の父が書いたと思われる文章が書かれていた。

 そこには、彼の家族の近況が書かれていて、仕事や生活は安定しているようだった。

 けれど、写真に写っている彼と、最後に書かれている文章は、私を絶望のどん底に落とした。

 彼は、あの事件以来笑っていない。

 写真に写っている彼は、私でも知っている東京の進学校の制服を着ていて、その表情は何も感じていないかのような無だった。

 私が好きだったあの笑顔は、もう彼の中には存在しない。

 「私の、せいだ…」

 視界がにじみ始めた時、私はあることを思い出した。

 事件の前日。

 私が言ってしまった残酷な一言を謝りに彼の家を訪ねた時、彼は家にいなかった。

 いじめに遭い、私が拒絶し、その翌日に暴力事件が起こった。

 その前夜に家に帰らなかった彼が、向かった場所。

 私は、一つだけ心当たりがあった。

 スクールバッグを投げるように部屋に置いて、私はすぐに家を出た。

 昼下がりの住宅街を駆け抜け、近所の公園を通り抜け、目指す場所は私が小学生の頃に数回しか踏み入ったことが無い場所。和風建築と併設された、彼が通っていた道場だ。

 何故三年も経って道場の事を思い出したのかは、自分でも分からない。事件直後は混乱していたし、その後もあの一言を引きずっていて、事件の前夜のことを忘れていたのかもしれない。

 だからこそ、思い出したのは奇跡だと思ったし、彼が事件前夜に行ったであろう人に会わなければいけない気がした。

 彼が通っていた道場の師範さん。彼が道場のことを話すときは、決まって登場していた人だ。

 家族以外で彼が相談する人は、師範さん以外考えられなかった。むしろ、何故思いつかなかったのか。

 大きな和風建築にたどり着いたとき、私は塀に手をついて肩で息をしていた。もともと体力があるほうではない私にしては、それなりによく走ったほうだと思う。

 ようやく息が整ったところで、通用口の隣に設置されているインターホンを押した。押してから、何を話せばいいのか考えていないことに気づいた。

 「な、なんて言えば…」

 「はい、どちら様でしょう」

 「あ、えっと…!」

 「…ん?」

 カメラ付きのインターホンの前で一人慌てていると、インターホンの向こうにいる人が何かに気づいたのか、声をかけてくれた。

 「君は…。少し、待っていなさい」

 「へ、あ、はい…」

 ぷつん、とインターホンが切れる音がした数秒後、引き戸が開く音がして、目の前の通用口が開いた。

 「やはり君か。私のことは、彼から聞いたのかね?」

 「あ、いえ…。ただ、彼があの日の前に話した人に、ついさっき思い当って…。あなたが、師範さん、なんですか?」

 「ああ、そうだ。入りなさい。彼のことを、聞きに来たのだろう?」

 出てきた老人は、和服姿に白髪で、大きかった。身長ではなく、ぴんと伸ばした背筋と堂々と歩く姿に、本当に老人なのかを疑ってしまう。

 そんな老人の後を追い、私は屋敷の中へと足を踏み入れた。

 「あの子は天才だった。小学生にして既に、道場の中で敵うものはいなく、手合わせの時はいつも私が相手をしていた。だからこそ、あの夜にあの子が来たことに、私も驚いた」

 芝生の庭にある池を見ながら、師範さんは語る。

 「あの子は優しい子だった。自分の強さをひけらかすようなことは決してせず、いつでも笑顔で道場の皆にも愛される、そんな子だった。身につけた力で誰かを傷つけることは絶対にしない。あの子のおかげで、道場にはいつでも笑顔があふれていた」

 知っている。

 私も、彼の笑顔が好きだったから。

 「彼は、あの夜、何を話したんですか…?」 

 「……」

 師範さんは苦しそうに口を噤んだ後、苦々しい表情で言ったのだ。

 「あの日、あの子は自分を破門にしてほしいと言ってきた。この道場にいたという事実を、消してほしいと」

 「…なんで、そんなことを?」

 「私も当時は分からなかった。やんごとなき事情で道場を辞めるのなら、それは仕様がないことではあるが、この道場にいたという事実を消す理由にはならない。しかし、あの事件を聞いて理解した。あの子がどれだけの決意をもって私のもとに来たのか。そして、あの決断すらも、あの子の優しさ故だったのだと」

 師範さんは語る。

 あの日の前日にあった、事件の予兆を。事件が起こることを知っていれば、わかりやす過ぎて説明もいらない話を。

 「あの子の強さは本物だ。腕っぷしの強さもそうだが、何よりも心が強い。あの聞くに堪えないいじめを受けてもなお、10か月もの間耐え忍んだ。私なら、一か月も経たないうちに手が出るだろうね」

 力なく笑う師範さんは、つまらない冗談だったな、と言って続けた。

 「そんな体も心も強く優しいあの子が、苦渋に満ちた表情で道場を辞めると。自らのことを忘れてほしいと言った。それはつまり、あの子がいたという事実があれば、この道場の不利益になるということだ。どこまでも優しいあの子の、子供ながらに私への迷惑を考えての行動だったのだろう」

 池の水面を見つめていた師範さんが、唐突に歩き始めた。

 来なさい、という言葉に従い、師範さんの後を追う。

 向かった先は、併設された道場だった。

 「…あの事件で、彼が暴力を振るったからですか?」

 「ああ…。あの子がいじめの復讐に拳を使ったのであれば、否が応でもこの道場の名に傷がつく。例え、責任を追及されなくても、道場に通う者たちの心にしこりを残すだろう。だからあの子は、この道場を去った。だが…」

 師範さんが見上げた道場の壁には、この道場に通う人たちの名札が付けられていた。

 そして、その一番端っこに、彼の名前があった。

 つまりは、そういうことだろう。

 「……彼は、ほかに何か言っていませんでしたか?」

 「言っていた。だが、あの子との約束だ。誰にも言わずに、墓までもっていくと。すまないが、教えることはできない」

 師範さんはあの日の事を全部話し終えたのか、私を通用口まで送り届けてくれた。

 空は紅く染まり、住宅街の向こうには大きな夕陽が沈みかけていた。

 気を付けて帰りなさいと、通用口を隔てて師範さんが言ってくれる。

 ただ、見送ってくれた時の、優し気な、それでいて寂しそうな表情が、忘れられなかった。

 

 

7

 

 「お、おはようございます…!」

 「おはようございます、三船さん」

 彼が異動してきてから二週間。

 相も変わらず、彼は多忙だった。

 前の部署の引継ぎは終わったのか、時折人が来るくらいにはなったが、それ以外に彼は自ら仕事を増やしているようだった。

 ある時はシステム部門で宣材写真のアップやステージの宣伝ホームページの作成の手伝いを。

 ある時はトレーナーさんとともにレッスンの内容を考案し。

 またある時は、ステージ設営の現場監督すら務め上げていた。

 そんな彼に、アイドルが直接会う機会は思いのほか少ない。

 アイドルの直属の上司ともいえるプロデューサーは当然のこととして、そのプロデューサーを専属的に補佐するアシスタントさんたちなら会う機会はある。

 しかし、チーフアシスタントという立場の彼は、プロデューサーとアシスタントの補佐であり、纏め役だ。その業務にアイドルが絡むことはあれど、直接相対するのは彼ではない。その上、彼自身が増やしたであろう仕事のせいで、最近は外に出ることも多い。

 だからこそ、今日のような機会は珍しかった。

 「美城の第四ホールでしたよね。私は隣の第五ホールでステージ設営の監督をしますので、お送りします。先輩は先に行ってしまったようですし」

 たまたま彼の仕事と私のライブ会場が近く、時間まで被った為に、彼の運転する車に乗って二人で会場近くまで行くのだ。これが緊張せずにいられるだろうか。少なくとも、私には無理だ。

 「は、はい…!」

 初ライブと同じくらい緊張しながら、346の社用車に乗り込む。いつも乗っている車なのに、彼が運転している車だと思うと、何やらいい匂いがする気さえする。というか、実際に花のような香りがする。

 「あの、この香りは…?」

 「緊張しているようでしたので、落ち着く香りを、と思いまして。アロマテラピーがお好きなんですよね」

 「知っていたんですか?」

 「所属しているアイドルの公表プロフィールは把握しておかないと、プロデューサーやアシスタントの皆さんのフォローはできませんから」

 彼は何でもないことのように言うけれど、346に所属するアイドルの数は業界一だ。アイドルの名前と顔を覚えるだけでも、相当なファンでもない限り難しい。

 それだけでなく、私の趣味に合わせて緊張を解してくれようとする辺り、勤勉で優しくて、あの頃の彼のままだ。

 だから私は、彼に踏み込むことを決めたのだ。

 私の事を覚えてなくても。昔の事を忘れ去ったのだとしても。

 彼の優しさに甘えていたあの頃の私と決別し、彼に嫌われたとしても、私の思いを伝えるのだと。

 「…私、昔から家で大人しく遊ぶ子だったんです」

 会場までは、1時間近くある。

 彼の傷口を抉るようで、こちらまで嫌な気分になるが、自分が傷つくことは厭わないと決めたのだ。彼を傷つけることになっても、彼への想いを伝えると、そう決めたのだ。

 「近所に年の近い子は一人しかいなくて、よく一緒に遊んでいました。優しくて、小さかったのに男女の性差も気にして、私に合わせて室内で遊んでくれたり、外に行くときも私が無理をしない範囲で気遣ってくれました」

 彼は無言でハンドルを握る。

 私は過去を語る。

 「小学生の時は、毎日のように遊んでいましたね。一番思い出に残ってるのは、私が小学五年生の時のクリスマスです。私が風邪をひいてしまって、家族ぐるみのクリスマスパーティに出れなかったんですが、夜中になって、二つ年下のその子が私の部屋に来たんです。何かと思って聞いてみたら、クリスマスパーティに出れなかった私のために、二人だけでクリスマスパーティをしよう、って言ってくれて。夜中に子供二人で夜通し話して、次の日の朝に夜更かししたことがばれて怒られて。でも、私にとってはすごく嬉しいことだったんです。だけど、その日のうちに私の風邪が移ってしまって、彼が風邪をひいてしまって。今度は私が彼の家に行って、彼と一緒に寝てしまってまた怒られて。体が重くて辛かったことも、楽しい声が聞こえているのにそこにいない自分が悔しかったことも、彼の行動一つで嬉しい思い出になったんです」

 窓の外を流れゆく景色を見ながら、当時のことを思い出す。

 私よりも小さい彼が、親に隠れて暗い部屋に来てくれた時のことを。

 彼がいるだけで、私の心は跳ねるのだ。

 「…だけど、中学生のころ、その彼がいじめに遭っていたんです」

 少しだけ、車のスピードが上がった気がした。

 「彼は耐えて、私は見て見ぬふりをしました。彼とは学校どころか、近所に住んでいるのに家ですら顔を合わせませんでした。だけど、高校三年の一月、友達と一緒に帰っている途中に話しかけられたんです。きっと、いじめに耐えかねて相談しに来たんだと思います。でも、一緒にいた友達に聞かれたんです。知り合いか、って。私は、知らないと答えました」

 そして、あの事件が起きた。

 「その時の事を、私は一日たりとも忘れたことはありません。その一言のせいで彼が暴力事件を起こしたこともそうですが、誰よりも彼の優しさを身に染みて知っていた私が彼を拒絶したという事に愕然としたんです。彼と知り合いだということで自分がいじめられるかもしれない。そんな恐怖もありました。だけど、結局私は、自分が可愛いだけの、子供だったんです。それも、ついこの間まで」

 突然現れた貴方。

 そして、私を悪ではないと言ってくれた年上の友達の彼女。

 きっと師範さんのことを思い出したのも、偶然じゃないのだ。

 私が変わろうと思ったから。

 傷ついても大丈夫だと。傷つくよりも怖いことがあるのだと。

 早苗さんに教えてもらったから。

 「ごめんなさい。今更謝ったって遅いけど、私の罪がなくなるわけじゃないけど、ずっと謝りたかった。知らないなんて言って、ごめんなさい」

 あの事件からおよそ十年。

 私の中で燻ぶり続けていた、後悔の一言とは別の、彼に言いたかった一言は、それまでの苦しみからは考えられないくらい自然に出てきた。

 ああ、ようやく言えた。

 プロデューサーには無茶なことを頼んでしまったけれど、必要なかったかもしれない。

 そんな安堵とともに、私は彼の方を見た。

 昔の事を掘り返してまで謝る私に、怒っているだろうか。呆れているだろうか。もし、喜んでくれているのなら、それよりも嬉しいことなんて、きっと無いだろうな。

 だけど、顔を上げた先に見えた彼の表情は、無だった。

 そうだ。何を自惚れているのだ、私は。

 どんなに私が謝ったところで、私の自己満足であることに変わりはない。

 車の振動が止まり、ずっと黙っていた彼が口を開いた。

 「三船さん」

 「は、はい…」

 「着きました。先輩が待っていますよ」

 その言葉には、私から早く離れたいという気持ちが混ざっているような気がした。

 そうだ。

 彼に嫌われるとしても、謝ると決めたのは私だ。

 分かっていたことではないか。喜んでくれることなんて、ありはしないのだと。彼を裏切ってしまったあの時に、私はとっくに彼に見限られていたのだ。

 それでも、再会して普通に接してくれたのは、彼がアイドル部署のチーフアシスタントで、私がアイドルだからだ。

 だから、この結果に悲しむ資格は、私にはない。

 謝れたという事実で、私は少しだけでも救われたのだから。

 「…ありがとう、ございました」

 「いえ、仕事ですから」

 彼は私が降りたのを確認した後、スタッフ専用駐車場へと向かった。

 普段なら緊張しながらも楽しみなライブステージも、今日ばかりは、楽しめそうになかった。

 

 

8 

 

 「はぁ!?何も言われなかったぁ!?」

 「はい。…でも、謝れただけでも良かったです。早苗さん、背中を押してくれてありがとうございました」

 彼に謝れたのは、早苗さんのおかげだ。あの時の言葉が無ければ、今日の車の中だって無言で無駄にしていただろう。

 だけど、彼女は。

 彼の事をあまり知らない、それどころか、仕事でさえあまり関わらない彼女が。

 「チーフはどこにいんの!?」

 「うわっ、なに?あいつ?」

 「さっさと答えなさい!美優!アンタはあの曲の準備してなさい!」

 早苗さんはプロデューサーの腕を引いて、会場の外に出ていった。

 最初の出番はシンデレラプロジェクトの子たちなので、早苗さんと私の出番には時間があるが、それでもライブ直前に外に出ていく人は普通居ない。

 そんな彼女を、しかし私は止められない。

 ただ茫然と、走り去っていく二人を見ているだけ。

 どのくらいそうしていたのか分からないけれど、気づいたときにはライブは始まっていて、私もステージ衣装に着替えていた。

 今の私の気持ちと同じ、真黒で、飾りの少ないドレス。薄いメイクのせいで、私の赤い髪が嫌に目立つ。

 ふと視線を上げれば、ステージの中継映像が目に入った。輝くような笑顔で、楽しそうに歌い踊る彼女たちを見て、ノイズがかった頭で考える。

 もし、彼がいじめられていなかったら。

 もし、私が昔から強かったなら。

 もし、彼の助けを求める叫びに、私が手を伸ばせていたなら。

 きっと私は、ステージに立てていなかったとしても、彼女たちに負けないくらいの笑顔で今を生きていけたのだろう。

 そして、それは彼も同じ。

 悪かったのは、いじめていた彼ら。私と彼は対応が悪かっただけ。

 早苗さんはそう言ってくれたけれど、たった一つの間違いが修復不可能な傷を残すことだって、当然あるのだ。

 私は、それをしてしまった。

 彼との関係は、これでおしまいだ。

 だけど、良いじゃないか。

 未来の私がするであろう後悔を、一つでも減らせたのだから。

 謝ることすらできないままだったら、死ぬまで死にたくなるかもしれなかったんだから。

 「……これで、よかったんだ」

 ため息とともに吐露したのは、諦めの感情で。

 これ以上、彼と私の関係は前進も後退もしないことを、確信した言葉だった。

 けれど。

 「よかないわよ!っはぁ、はぁ」

 零れた言葉に反応したのは、息も絶え絶えな早苗さんだった。

 「早苗さん…?」

 「諦めるのが速すぎるわよ!はぁ、はぁ、ちょ…待って…」

 「ええ…」

 困惑しながらも冷たいお茶を用意して、早苗さんに飲ませてあげる。

 私よりも小さい身長で、私よりも大きい胸を持つ彼女が息を切らせている姿は、同性の私にとっても目に毒だが、とりあえず楽屋のソファに座らせる。

 すると、楽屋の外にもう一人やってきた。

 「はぁ、はぁ、俺も、年かな…。とりあえず、呼んできたぜ」

 「はぁ、えっと、誰を?」

 「ああ?あいつに決まってんだろ。珍しく三船が我儘言うから何かと思ってたけど、あいつの為の歌だったんだな」

 「え」

 何やら話がかみ合っていない気がする。

 一体、早苗さんとプロデューサーは何を考えて、何のために彼を呼んできたのだろう。

 その答えを、落ち着いた早苗さんが教えてくれた。

 「アンタが、どんな謝り方をしたのかあたしは知らないけど、あれだけ思い悩んでた友達が、ようやっと絞り出した謝罪を無碍にするなんて、あたしが許せないのよ!だから、聞かせてやりなさい。美優のあの歌は、きっとあの子の心に届くから」

 ああ、私が諦めてしまった感情を、彼女は私よりも大事にしてくれるのか。

 彼女の言葉に、何度励まされたのだろう。

 彼女の気持ちに、何度背中を押してもらったのだろう。

 そして、彼女の言葉で簡単に頑張ろうと思えてしまう自分は、どれだけ単純なのだろうか。

 彼と再会してから、落ち込んで、覚悟を決めてを繰り返し、何度も何度も思い悩んだ。

 ようやく謝れたと思えば、結局は自己満足だと気づいて。

 それでも。

 「…押し付け合い、なんですよね」

 「そうよ」

 人との関わりは、どんな関係であれ、等しく自分の意志の押し付け合いなんだ。

 私の謝りたいという気持ちも。

 彼の思い出したくないという気持ちも。

 早苗さんが私を励ましてくれる、その理由さえも。

 自分の思いを相手に押し付けているだけなのだ。

 だから、本当に伝えたい気持ちがあるのなら。

 無視されてもなお、自分の意志を押し付けろ。

 「早苗さん。プロデューサー。ありがとうございます。私、行ってきますね」

 「ええ、行ってらっしゃい。偶像の三船美優じゃなくて、嘘偽りない、気持ちを押し付けるだけの普通の人間の三船美優として、思う存分ぶちまけてきなさい」

 「アイドルがアイドルに言う言葉じゃねぇな…。ま、我儘を押し通して作った歌だ。好きに歌って来いよ」

 「はい!」

 黒いドレスを身に纏い、最後の決意をもってステージに向かう。

 そこにいる、彼に想いを押し付けるために。

 

 

9

 

 光り輝くステージの前には、たくさんのファン。

 いつもなら彼ら彼女らと一緒に笑顔で楽しく歌うだけ。

 けれど、今日は、今日だけは違う。

 目の前の彼らのための歌じゃない。

 だから、言わなければならないのだ。

 「今日は、皆さんに謝らなければならないことがあります」

 楽しげに揺れる色とりどりのサイリウムが徐々に止まっていく。

 「今日歌う新曲は、皆さんのために歌う曲ではありません。私が、私の気持ちを、意志を、我儘に押し付けるための歌です。私が犯してしまった罪を忘れないために、そして、これからの決意を、ただ一人の人に伝えるための歌です。だから、ごめんなさい。こんなに大きな舞台で、こんなにも私たちの、私の歌を楽しみにしてくれた人たちを裏切ってしまって、本当にごめんなさい」

 スタンドマイクの横に立って、深く頭を下げる。

 これは、ファンに対する裏切りだ。

 皆の偶像たるアイドルが、ファンの前でたった一人のために、自分の気持ちを押し付けるために歌うなんて、あってはならない。

 だけど、舞台の床を見つめる私の耳に届いたのは、罵声なんかではなく、大きな歓声だった。

 驚きの表情でゆっくりと顔を上げれば、色とりどりだったサイリウムは水色とピンクの二色に染められ、大きく振られている。

 そして、かろうじて聞き取れる歓声の中には、気にしていないという声や、私の我儘を聞きたいという、今の私には過ぎた言葉が混ざっていた。

 あまりにも優しいファンの反応に涙が出そうになるが、もう涙を流すわけにはいかない。

 辛くて出る涙も、悲しくて出る涙も、嬉しくて出る涙も、私自身は経験した。

 でも、それを経験していない人を、私は知っている。

 全部を一人で抱え込んで、自分が一番辛いのに、自分のことより他人のことを優先して。

 自分の辛さを押し殺して、笑うことも、涙を流すこともやめてしまった彼のことを、私は知っていた。

 「みんな、ありがとう…っ!私の我儘を、聞いてください」

 その歌は、私の気持ち。

 その曲は、私の意志。

 私が、私の意志を押し通すために歌う、私から彼へのメッセージ。

 静かに流れる音楽に合わせて、歌う。

 初めに唄うのは、過去の過ち。

 私が犯した、取り返しのつかない罪の詩。

 罪を嘆き、罪に潰され、自分にとって都合の悪いことを、自分への罰とした、愚かな自分を謳う。

 ふと視線を感じて舞台袖を見ると、そこには彼がいた。

 「君の背中を見つめるだけの、自分が何より嫌いでした」

 何よりも、誰よりも辛い思いをしていた貴方は、けれど知らなかっただろう。

 あの時の私が、どれだけあの一言に絶望していたか。

 その絶望は、貴方が受けた絶望に比べれば、取るに足らないものだっただろう。

 だけど、そんなものは関係ない。

 重要だったのは、絶望した理由だ。

 「ただ只管に強く優しい、貴方が何より好きでした」

 考える必要も無いくらい、単純な理由。

 大好きだった貴方を。昔から見ていた貴方を。誰よりも貴方の優しさを知っていた私が裏切ってしまったから。

 だけど、私を、私と貴方の事を思ってくれる友達のおかげで、私は変われたんだ。

 あの絶望を乗り越えて、貴方に気持ちを伝えられるように、強くなったよ。

 「私の罪は消えない。けれど、貴方への想いも消えることは無い。だから、ずっと見ていてください。罪を償う、その日まで」

 貴方が私を嫌いでもいい。

 それでも私は我儘を貫き通すから。

 私は貴方を愛してる。

 それが伝わったのなら、それでいい。

 私の我儘で作られた5分7秒の曲は、静かな歓声を受けて終わりを告げた。

 輝くサイリウムを横目に、私は舞台袖に立つ彼の前に立つ。

 今でも少し怖いけれど、前ほどじゃない。 

 ステージ裏の暗闇の中で彼と視線を合わせると、彼は静かに涙を流していた。

 前髪をヘアピンで留め、この一週間ほどで見慣れた彼の仕事スタイルは、動きやすさを優先していた。それは、彼が必要以上に仕事をしたがる故の恰好。その理由は、今なら簡単にわかる。

 余計なことを考えたくないから。昔の事を思い出したくないから。

 だから仕事に没頭する。

 その結果が、仕事人間の彼の姿だ。 

 そんな彼が、涙を流した。

 そこで私は思い出したのだ。

 彼が一度だけ流した涙の事を。

 あの事件で、彼が教師に連れていかれるその時。全てが終わったと呟いた彼は、確かに泣いていた。

 「…三船、さん」

 頬を伝う涙を拭うこともせずに、彼は私を見つめる。

 その瞳は、いつもの彼とは思えない程に弱弱しく、だけど、伝えたいことがあると物語っていた。

 スタッフが慌ただしく駆け回る中、私は彼の言葉を待つ。

 ステージの音も、ステージ裏の音も聞こえなくなった、彼と私だけの世界で、私が聞いた言葉は。

 「美優、姉のことが、好きだった、よ…」

 幼い子供のようにたどたどしく紡がれた言葉は、私の想像をはるかに超えるものだった。

 「…ほぇっ!?」

 「はいはい、後は人がいないとこでやってなさい。次はあたしの出番なの」

 「わ、早苗さん!?」

 予想だにしない返答に、明らかに赤面しているであろう私の肩に手を置いたのは、派手な衣装に着替えた早苗さんだった。

 彼女は私とすれ違うその瞬間に、耳に口元を寄せ、こう言った。

 「良かったわね」

 「……はいっ!」

 

 

10

 

 ホールの外に出た私たちは、星が輝く夜空の下で向き合う。

 冬ではないにしろ、夜ともなれば気温は下がる。黒いドレスだけでは寒いと思ったのか、歩いている最中に渡してくれた彼のジャケットを私は羽織っていた。

 ワイシャツだけの彼は、眼を赤くしながらも、私の事を見てくれていた。

 「…三船さん。ごめんなさい。本当に謝るべきは、私の方なんです。貴女が謝る必要なんて、なかったんです」

 「そんな…。私は、貴方に謝れたのなら、それで…」

 「違うんです。そうじゃないんです」

 彼は、私から視線をそらし、空を見上げた。

 そして、彼は語る。

 私の主観ではない、あの事件を。

 あの事件が起きた、本当のきっかけを。

 

 あの事件の前日。

 私が彼に言ってしまったあの一言は、私にとっての罪だったけれど、彼にとっては違ったらしい。

 あの日、私は彼が私の事を待っていたのだと思っていた。8か月に及ぶいじめに耐え兼ねて、憔悴したから私に相談しに来たのだと思っていた。

 だけど、彼と私が出会ったのは偶然だったのだ。

 偶然出会ってしまったからこそ、彼は無意識に声をかけてしまったのだと言う。

 仲の良かった、けれど彼の状況と私の弱さゆえに会うことができなかった私に会って、零れてしまった。

 そして、あの言葉を聞いて、私は彼がその一言に絶望してあの事件を起こしたのだと思った。

 けれど、本当は。

 「私が絶望したのは、貴方があまりにも辛そうな顔をしたからです」

 「え…?」

 「あの時、私が話しかけてしまったことで貴女の笑顔が失われたことが、私にとっては何よりも絶望すべきことでした。そして、貴女にそんな顔をさせてしまう自分が、どれだけ惨めな場所に立っているかを自覚したんです。けれど、私は解決する手段をたった一つしか持っていなかった。今思えば、短慮に拳を使っただけですが、それでも三船さんの表情を見て、決心しました。ああ、三船さんの責任にしようとしている訳じゃないです。あの事件に関しては、原因が何であれ、全て私の責任です」

 彼はへにゃ、と力なく笑う。

 「けれど、あの状況を壊すと言うことは、もう後には戻れないということ。あの時の私は、短絡的な考えの中でもそれを理解してました。だから、通っていた道場の師範に破門を頼み込み、両親にも引っ越しを求め、貴女の前から消えようとした」

 けれど、私と彼は再会した。

 私は罪と向き合うことを決意し、彼に謝ることを決め、自分の意志を押し付けた。

 しかし彼は。

 「貴女が私を思い出さなければいいと思った。チーフアシスタントという立場は、アイドルである貴女たちに一番関わらない立場だから、好都合だと思いました。貴女が私を思い出すことなく、貴女の笑顔を守れる立場にいられるのなら、どれだけ嬉しいことか。だからこそ、貴女が昔の話を始めた時、私は346を辞める気でいました。貴女があの事件を後悔してくれていることも、一切責任の無い貴女が謝ってくれたことも、私にとってはこれ以上ないくらい嬉しいことだったけれど、同じくらい、貴女に背負わせていたものの重さを知りました」

 私の謝罪は、私の自己満足と同時に、彼に私が感じていた罪を知らせてしまう行為だった。

 なら、何故。

 事務所を辞める覚悟さえさせてしまった私の歌を聞きに来てくれたのか。

 その答えは、あまりにも簡単で。

 「片桐さんと先輩が、言ってくれたんです」

 私を置いてライブ前に出ていった二人は、隣のホールでステージ設営の現場指揮を採っていた彼にこう言ったそうだ。

 「アンタねぇ、昔の事でうじうじ悩むのも大概にしなさいよ!昔の事を切り捨てたような顔して、アンタが一番引きずってんじゃないの!美優の言葉を聞かないふりして、今から目を背けるアンタが、あの子の覚悟を踏みにじるな!」

 「おい、事務所の奴しかいねぇとはいえ、アイドルが胸蔵掴むのは絵面悪ぃぞ。…ま、未だに事情を把握しきれてねぇんだけどよ。三船には三船の事情があるように、お前にもお前なりの気持ちと事情があるんだろうよ。だけどさ、結論を出すのはまだ早ぇんじゃねぇか?あいつが珍しく我儘通して作った曲を聞いてからでも遅くねぇと思うぞ。あいつの我儘を聞いて、お前の我儘も言ってやりゃあ、どういう結論にしろ納得できんだろ」

 あの二人は、そんなことまで言ってくれたのか。

 彼が私の歌を聞いてくれた、それだけでも嬉しいことなのに、その裏話を聞いて私たちの事を心配してくれる二人の優しさに泣きそうになる。

 「だから、私も…僕も我儘を言いたい」

 口調を変えた、否。以前の彼に戻ったような話し方の彼は、先ほどまでの優しく、儚げな表情から一変し、仕事をしている時よりも真剣な表情をしている。

 唐突に近くの街灯が消え、一層暗くなった。

 風がざあっ、と音を立て、ドレスの裾と降ろした髪が靡く。

 視界を遮るように揺れた髪を耳に掛けるように手を動かしたその時、彼の小さな口が言葉を紡いだ。

 「昔から、貴女の事が好きでした。あの日から、貴女の事を忘れた日なんて一度だって無かった。だから、これからは、貴女の近くで、貴女の笑顔を守らせてほしい。辛いものを見せて、責任と罪を背負わせて、貴女の覚悟すら踏みにじった俺がこんなことを言うのは虫が良すぎる話で、そもそもこんなことを言う権利すら無いってこともわかってる。だけど、もう、貴女の笑顔を見れないのは、耐えられないんだ…っ!」

 一度止まった涙が流れ出す。 

 ああ、君も、私と同じように苦しんでいたんだね。

 あの事件を後悔して。

 君と会えない時間に苦しんで。

 再会した時の喜びを押し殺して。

 お互いの笑顔を守ろうとした。

 ただ、守るための方法が違っただけ。

 私は逃げて、友達に出会って、覚悟を決めた。 

 君は一人で頑張ることを決めて、関わることを辞めようとした。

 私と君は、似た者同士。

 だから、君が思っていることは、私も考えていることで。

 答えなんて、決まっていた。

 「私も、君に会えないのは辛くて、耐えられないよ…。だから、これからは、私の傍にいてほしい。貴女の笑顔を、一番近くで見させてください…!」

 暗がりで、彼の半身は陰になっている。

 その彼の胸に、躊躇うことなく飛び込む。彼のジャケットを羽織り、正面から彼を抱きしめると、全身を彼に包まれているようで、心の底から安心した。

 流れる涙は留まることを知らず、彼のシャツを濡らしていく。

 そのお返しとばかりに、大して身長の変わらない彼の涙が、私の肩を濡らす。

 およそ十年に及ぶ罪悪感は、罪の象徴であった彼自身によって解かれていく。もう、私を苦しめるものは無いのだと、これからは彼の近くで幸せを享受していいのだと。

 今までの苦しみは、これまでの葛藤は、この時の為にあったのだと。

 私たちは、不幸だった。

 運に恵まれず、環境に恵まれず、感情に鈍かった。

 だけど、だからこそ、今までの不幸を、不運を、今日の、これからの幸せの為にあったのだと。

 もう、昔の事を笑って語らっていいのだと。

 そう信じられる涙を流せることが、こんなにも幸せなのだと。

 ようやく私たちは知ったのだった。

 





 満月が照らす静かな墓地に、一人の老人が立っていた。
 和服に身を包み、老人らしからぬ体格の彼は、顔に刻まれた皴が無ければ老人にすら見られないであろう彼は、一つの墓石の前に佇んでいた。
 それは、彼の親族が眠り、いずれ彼自身も入るだろう、彼の親族の墓石。
 そんな墓石の前で、彼は煙管から煙を揺蕩わせ、輝く満月を見ていた。
 見る者が見れば、墓場に佇む幽霊に見えるかもしれない彼は、一人呟く。
 「破門、か」
 肺に吸い込んだ煙を吐き出し、ゆったりとした動作で、墓石の前に座り込む。
 「破門になぞ、するものか。君があの事件を起こした本当の理由を聞いて、私は君を誇りに思ったというのに」
 紫煙と満月に思い浮かべるのは、幼い彼が、武家屋敷の通用口で言った言葉。
 その一言で、彼の名前は道場に刻まれることとなった。
 「……中学生が言うには、あまりにも酷な言葉だよ」
 再度煙を肺に入れ、満たされたところで吐き出す。
 片手に煙管を持ち、墓石の前に置いたお猪口を掲げる。
 日本酒が注がれたお猪口の水面に満月が映る。
 「彼と、彼の守りたかった彼女に、乾杯」
 一気に呷り、彼は立ち上がる。
 その脳裏には、数年前の一幕が映し出されていた。

  

 「本当に、名札を降ろしていいんだね?」
 「はい。長い間、お世話になりました」
 「…君ほど聡明で、優しく、才気に溢れた少年は、もう現れることも無いだろう。そうまでして君がしたいこととは、一体…?」
 「難しい話じゃないんですよ。とってもシンプルで、たった一つ、やらなきゃいけないことがあるだけなんです」
 「それは、君の為か?」
 「…誰かの為、とかじゃないんです。ただ、僕が、僕自身を許せない。美優姉の笑顔を守れなかった僕自身への、罰なんです」
 「子供を守るのは大人の仕事だ。君が責任を感じる必要はないさ」
 

 「そうかもしれません。でも、義務とか、責任とか、そんなのは関係ない。大好きな人には、ずっと笑っていてほしい。愛している人には幸せでいてほしい。僕の事が枷になるのなら、僕はいなくてもいい。ただ、美優姉のことが、何よりも大切なんです」

 

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