謳う者   作:百日紅 菫

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夢を謳う

 1

 

 誰もが認めるトップアイドルの高垣楓と、ネットで話題になるさしわたという少年が出会ったのは、夜桜が美しい都内の公園だった。

 アコースティックギターの弦を一つずつ弾き、メロディだけの曲に合わせて歌う彼に見惚れていたことを、彼女はいつまでも忘れないだろう。

 公園に設置された一本の外灯に照らされて、淡く輝く桜の花弁が舞い散る中で歌う彼は、比喩ではなく妖精のようだった。

 そんな彼を見つけたのは、楓が和歌山から上京してきた当日だった。

 モデルの仕事のために上京し、事務所に比較的近いマンションへの引っ越し作業を終えた後。楓は隣人への挨拶をしていた。といっても、彼女の部屋は角部屋で、隣部屋は一つしかない。

 引っ越しそばを持って訪ねた隣部屋から出てきたのは、優し気な老夫婦だった。

 170センチを超える身長の楓を見たときはやや驚いていたが、それでも律義に挨拶をしてくれた楓に老夫婦は夕飯のおかずになりそうなものを何品かお裾分けしてくれた。

 酒を好む楓からすれば、これ以上ないくらいのプレゼントであり、花が咲くような笑顔でお礼を言った後に帰宅した。

 引っ越し祝いに、老夫婦からもらったおかずに合うようなお酒を買いに行こうと考えた楓は、夕日が沈んだ直後に部屋を出た。と同時に、隣室の玄関が開いた。

 「あら、どうかされましたか?」

 おかずをお裾分けしてくれたということは、老夫婦の夕飯の準備はできているのだろう。

 だからこそ、この時間帯に外出するとは思えなかった楓は、部屋から出てきたお婆さんに声をかけた。

 「ああ、高垣さん。いえね、孫がまだ帰ってきてなくてねぇ。そろそろお夕飯にしよう思ってるんだけど…」

 その言葉を聞いて、楓は頭で考えるよりも早く口を動かした。

 「お孫さんがいる場所に心当たりはありますか?今から少し出かけるので、途中で探してきますよ」

 「あらそう?悪いわねぇ」

 「うふふ、お互い様ですよ。美味しそうなおかずも貰っちゃいましたし」

 穏やかな嫁と姑のような会話は五分ほど続き、ようやく伝えられた場所は、マンション近くの公園だった。

 なんでも、子供がいなくなるような時間帯から公園に行くのが習慣らしく、目印は青いアコースティックギターを持った少年らしい。

 普段なら夕飯時には帰ってくるらしいが、余りに熱中しているときは今日のように遅くなってしまうのだとか。

 近くのスーパーで数個の缶ビールを買った楓は、言われたとおりに公園へと向かった。

 決して大きくはない公園には、ブランコと滑り台、いくつかのベンチが置いてあるだけで、近くに住む幼い子たちしか使わないような、住宅街の中にあるありきたりな公園だ。公園を囲むフェンスの近くには二本の大きな桜の木が植えられていて、公園の中心にある外灯が淡く照らしている。

 そんな桜の下にあるベンチに、彼はいた。

 聞いていた話では中学一年生らしいが、手に持ったアコースティックギターのせいか、男子にしては小さく見える。少し伸びた前髪をゴムで縛り、可愛らしいおでこが出ていることに少しだけ微笑んだ楓だったが、彼しかいない公園に足を踏み入れた途端、景色が変わったのを知覚した。

 薄暗く照らされていた桜は、月明りを反射したかのように輝き、散りゆく花弁は、薄暗い公園を幻想的な風景へと変貌させる。

 そんな景色を作り上げたのは、歌。

 ギターの弦をポロンポロンと一つずつ弾く彼の、優しい歌声だった。

 聞こえる歌詞は、彼の感情。

 何か嬉しい出来事があったのだろう。微笑みながら歌う彼は、何よりも幸せそうだった。

 聞いているだけで嬉しくなるようなその歌には、彼だけの言葉で作られた世界があり、けれど聞けばその世界に入り込んだような感覚に陥ってしまう。

 あまりにも幻想的な光景に目を奪われていた楓だったが、そんな彼女を現実に引き戻したのも、また彼だった。

 「…ごめんなさい。うるさかったですか?」

 ギターを奏でる手を止め、彼は申し訳なさそうな表情で謝る。

 ただでさえ小さい彼が頭を下げると、それはもう頭を下げるどころか、首を垂れるといったほうがしっくりくる光景だった。

 そんな彼に、楓は優しく声をかけた。

 「とても綺麗な歌でした。なんていう曲なんですか?」

 「え?えっと、曲名はないんです。思いつきで歌ってただけですから」

 「…思いつきで、あんな歌が?」

 それは純粋な驚きだった。

 人を感動させる曲は世の中に数あれど、即興の歌で人を感動させられる人間はどれほどいるのだろうか。ましてやそれが中学生の少年なんて言ったら、信じる人間はよっぽどのお人よしだろう。

 「それより、僕に何か御用ですか?てっきり注意しに来たものかと…」

 どうやらこの少年、以前にもここでギターを弾いて注意されたことがあるらしい。

 それはさておき、本来の要件を彼に伝える。

 「うふふ。私は高垣楓といいます。今日、貴方のお部屋の隣に引っ越してきました。お婆さんが、御夕飯だから帰ってくるように言っていましたよ」

 「え、すみません。お隣さんにご迷惑を…」

 「気にしないでください。代わりに、また貴方の歌を聞かせてもらってもいいですか?」

 「僕の歌、ですか?」

 彼は首を傾げて聞く。一緒に揺れる結んだ前髪のちょんまげが愛らしい。

 そんな彼に、楓は頷く。

 「ええ。少しだけしか聞いていないけれど、貴方の歌が好きになってしまったんです。貴方の喜びが伝わる、とても素敵な歌でした」

 ふふ、と優しく笑う楓の言葉には、一切の嘘偽りがない。

 だからこそ、楓の言葉は素直に伝わる。

 そして、意図せずとも楓の言葉は、少年の望む言葉に重なった。

 「……えへへ、それじゃあ、また聞いてください!えーっと、高垣さん…?」

 「ふふ、ぜひ聞かせてください。私のことは楓、と呼んでください」

 「よろしくです、楓さん」

 これが、彼と楓の最初の出会いだった。

 

 

 2

 

 「えー!?楓さん、さしわたさんと知り合いなの!?」

 芸能プロダクションの大手、346プロの事務所にある346カフェで、カリスマギャルとして名高い城ケ崎美嘉が叫ぶ。

 その正面には静かにコーヒーを飲む楓と、その隣に川島瑞樹が座っている。

 「というか、楓ちゃんの私生活って謎よね。私の家にはよく来るけど、楓ちゃんの家ってあまり行ったことないもの」

 「美嘉ー、他のお客さまが来たら声のボリューム下げてねー」

 「あ、ごめんごめん」

 カウンターの裏から美嘉を注意するのは、彼女の幼馴染。

 彼は都内有数の進学校を三年間主席、且つ全国模試でも一位で居続けるという驚異の成績で卒業し、教師陣からの大学進学の勧めをすべて断り、この346事務所への就職を決めた。

 アルバイトとして346カフェでアイドルと接し続けてきた経験もあってか、人手不足のカフェを手伝いながらも、いずれはアシスタントやプロデューサーとしてアイドル部署への配属も決まっている。ちなみに、その際の教育係はアシスタントの千川ちひろとなっている。彼女の優秀さは語る必要もないが、それ故に厳しい彼女の一面を知る者からは、やや可哀そうな視線を送られることもあるらしい。

 けれど、学生時代の経験から、彼は真面目に、けれど効率よく動く術を知っていた。

 そのせいか、彼とちひろの関係は周囲が思うほど悪くない。どころか、先輩後輩の関係にあっては、並みの運動部の関係性すら凌ぐ。 

 それに美嘉がやきもきしているのは、また別の話だ。

 閑話休題。

 美嘉が騒いだ理由は、一人の少年にあった。

 「ところで、その『さしわた』っていうのは名前なの?」

 「そうですよ。SNSで動画が上がってから、学生で知らない人なんかいないくらい有名なんです!路上ライブで、メディアにも出たことがないのに、人が集まりすぎて警察が出動したこともあるんですよ」

 「警察!?そんな凄い子と知り合いなの?」

 「知り合いと言いますか、お隣さんなんです」

 「お隣さん!?」

 美嘉と瑞樹は目を見開いて驚くが、楓にとっては、東京に出てきた時からの付き合いなのだ。何なら346のアイドルよりも付き合いは長い。

アイドルよりも付き合いは長い。

 そして何より、さしわたと呼ばれる少年が路上ライブで有名になった理由の一人でもあるのだから、ある意味さしわたの生みの親の一人と言っても過言ではない。

 だが、それを今言ってしまえば、目の前の二人はさらに騒いでしまうだろう。

 いつもお世話になっているカフェに、これ以上迷惑をかけられないと考えた楓は口を噤んだ。

 「……あ」

 振るえる携帯の画面を見ると、そこには話題の彼の名前があった。

 余りにもタイミングが良すぎる彼の連絡に声を漏らすと、騒いでいた二人の興味を引いてしまったようだ。

 「もしかして、そのさしわたって子から?」

 「ええ、まぁ」

 それを聞くなり、二人は楓を囲い込むように、楓の持つスマホを覗き込む。

 画面にはさしわたという名前と、今日の6時から駅前で、という文言が書かれていた。

 内容もそうだが、それ以上に、表示されている名前に疑問を抱いた。

 「楓ちゃん、知り合い、なのよね?」

 「はい」

 「じゃあなんでさしわたなの?え、さしわたって本名なの?」

 「違いますよ。さしわたという名前は彼が考えた芸名のようなものです。ただ、本名が漏れてしまうといけない理由があるので、彼と直接話すとき以外はさしわたという名前を使っているんです」

 「へぇ、なんか大変なのねぇ」

 そう。

 大変なのだ。

 彼と楓が知り合って、およそ3年。その間に、彼のことを知り、彼に憧れた。

 トップアイドル高垣楓の原点は、間違いなく彼だった。

 ファンと共に歩んでいけるアイドルを目指そうと思ったのも、そもそもモデルからアイドルに転向したのも。

 全ては彼に感化されたから。

 彼の歌に、心を突き動かされたからだ。

 だけど、楓に夢を与えた彼は、しかし自分の夢を追える環境にいなかった。

 彼自身は諦めていなかった。けれど、環境がそれを許してくれなかった。

 だから、楓は彼の背を押したいと願ったのだ。

 夢を与えられるだけの力を持つ彼の、叶わないと諦めた夢の先を見たいと。

 その未来を見れるのなら、何だってしてあげたいと。

 それを決意したのは、楓が新部署であるアイドル部署から勧誘を受けた、冬の日のことだった。

 

 

 

 3

 

 その日の歌は、虚しさの歌だった。

 ゆっくりと弾くギターに合わせて紡がれたのは、奇跡は簡単に起こるものではないこと。夢を叶えられるのは選ばれたものだけであること。そして、自身は選ばれなかったこと。けれど、だからこそ出来ることがあるということ。

 そんな虚しくも、希望を持つことを諦めない彼の歌を聞いて、楓は二つの感想を抱いた。

 一つは、変わることのない彼の歌に対する感動と、そんな歌を歌える彼への憧憬。

 もう一つは、疑問だった。

 彼の歌には、いつでも希望が混じっている。どれだけ悲しい歌だろうと、例え怒りの歌であろうと、彼の歌から希望が消えることはない。

 それは、言葉で伝えるだけでなく、時には表情で、時にはギターの演奏だけで、彼は何かを諦める必要はないのだと。希望を捨てることはないのだと、伝えてくれる。

 しかし、その日の歌には、そんな彼の優しい思いが薄い気がした。

 諦めないのではなく、別の道を探すのは、彼の本位ではないよう気がした。

 「…何か、ありました?」

 「え?いやぁ、えへへ。やっぱり、わかっちゃいますよね」

 彼の歌は、彼の感情そのものだ。

 感じた想いを、一言で伝えることができない彼の感情を、歌に込めて伝える。

 だからこそ、誰よりも彼の歌を聞いてきた楓には分かってしまう。

 「…今日、父さんが帰ってくるんです」

 

 それは、楓も聞き及んでいた話。

 彼の家には現在、件の老夫婦と、その孫である彼しか住んでいない。

 その事実を知った時、踏み込んでいいものかと悩んだ楓だったが、それは杞憂だったようで、彼のほうから教えてくれた。

 モデルの仕事終わりに彼の歌を聞いて、年の離れた姉弟のように並んで歩く帰り道。

 夕陽を受けて伸びた影を見ながら、彼は語る。

 「楓さんはもうわかってると思うんですけど、僕には母親がいません。二年前に病気で死んで、それから去年まではじいちゃんとばあちゃんと父さんと四人で、父さんが単身赴任になってからは三人で住んでます。母さんが死んだ直後は、本当に何もする気力が起きなくて、父さんに言われるがままに勉強だけしてました。そのおかげで、中学の勉強には困らないんですけどね」

 へへ、と笑う彼の表情は、けれど決して絶望などはしていなかった。

 「だけど、母さんの遺品整理をしてる時に、母さんが昔使ってたギターを見つけたんです」

 彼の母親は、NPOとして各国を飛び回り、音楽で人々の心を癒す仕事をしていたそうだ。

 時にはギターで盛り上がり、時にはピアノで優しく癒し、訪れた地域特有の楽器を教えてもらいながら心を通合わせる。

 お金やモノだけでは救えない人の心を、彼の母親は救うために各国を飛び回っていたそうだ。

 月の半分ほどしか会えない母親を、しかし彼は誇りに思っていた。

 そして、母親と会える少ない時間で、彼は母親から楽器を習っていた。

 その中で、最も得意で、最も母親に褒められたのがアコースティックギターだった。

 母親の持つ太陽のように赤いアコースティックギターと対照的な、青空のような蒼いギター。

 誕生日プレゼントとしてもらったそれは、今でも彼の愛用する、いわば相棒のようなものだ。

 「ふふ、優しいお母さんだったんですね」

 「はい。昔はただ母さんに褒められるのが嬉しかったんです」

 けれど、その母は死んでしまった。

 病気という、彼にはどうしようもない原因ではあったけれど。

 しかし、彼の母親が確かに遺したものがあった。

 死んでもなお、彼のことを心配するかのように、彼は母のギターと再会したのだ。

 「そのギターはもう僕には直せないから使えないんですけど、そんなギターに背中を押された気がしたんです」

 それから彼は、自身の感情を歌にして弾き語りをするようになったのだという。

 上達するまでに時間はかかったけれど、彼は諦めなかった。

 人の心を癒す音楽を奏でていた母親を目標に、彼は努力をし続けた。

 その努力は、美しく、誰が見ても健気に見えただろう。

 けれど、彼が母の死を乗り越えたのと同じように、彼の母親の死を経て、彼とは別の道を見出した者もいる。

 彼の夢を幻想だと切り捨てて、自身が信じる道を彼に歩ませようとする、彼の父だ。

 「父さんの言い分は、たぶん間違ってないです。勉強して、いい高校、大学に行って、良い会社に入る。それは難しいことだし、それを目指して努力している人たちがいるんですから、絶対に間違いではないんです」

 でも、と彼は続ける。

 「僕の目指す道は、それじゃないんです。父さんの示す道は、僕の目指す道じゃない。将来、父さんの言葉を信じてその道を歩かなかったことを後悔するかもしれない。父さんの示す道の先に、僕の本当の幸せがあるかもしれない。だけど」

 だけど、彼は自分の信じた道を進む。

 それは、誰かの言いなりになりたくないとか、父の示す道が嫌だからとか、反抗期の子供のような理由ではない。

 彼の信じた道が、彼の夢そのものだからだ。

 努力の末に叶えた夢も、夢のための努力も、彼にとっては欠かすことのできない、夢の一端。

 「父さんにも、言ってはみたんですけど、やっぱり納得してもらえなくて…」

 だからこそ、彼は父から逃げる。

 決して父の言う勉強を疎かにするわけじゃない。しかし、それ以上に大切なものを守るために、彼は逃げる。

 「…強いですね、貴方は」

 そんな彼の頭を、楓は撫でる。

 楓から見れば、彼はまだ子供で、母親の死を引きずっていてもおかしくない。

 それでも、母の、そして何より自分の夢のために頑張る彼は、輝いて見えた。

 逃げるなんてとんでもない。

 彼は、子供とは思えない強さと判断力で、自分の夢と戦い続けている。

 それでも、それだけの覚悟をもってしても、現実とは過酷で、残酷だ。

 「そ、そんなこと、無いです。夢をもって、努力をしても、僕は子供だし、じいちゃんもばあちゃんも母さんのことがあったから、本当は僕の夢を応援なんてしたくないんです」

 努力だけじゃ、夢は叶わない。

 彼の場合、環境が、彼の夢の道の邪魔をする。

 なら。

 彼にはどうすることもできないモノが、彼の夢を邪魔するのなら。

 彼の歌に惹かれ、彼の歌に込められた想いを、誰よりも知る私が。

 「私、アイドルに勧誘されているんです」

 「えぇ!?すごいですね!綺麗だし可愛いし、楓さんなら凄いアイドルになると思いますよ!」

 「ありがとう。でも、アイドルになるかは、迷っていたんです。二十歳を超えて、大学も卒業して、モデルではない仕事を探さなきゃいけない時期に、アイドルの勧誘を受けてしまって。けど、決めました」

 楓は立ち止まり、首を傾げた彼の目の前に屈みこみ、顔の高さを合わせる。

 やや童顔ながらも、美人であることに変わり無い楓の顔が近くにあるという事実に、彼は顔を赤らめた。

 「行きましょう」

 「え、え。行くって、どこにですか?」

 彼の手を引っ張り、歩を進める。

 目指すは、楓と彼が住むマンション。そして、彼の祖父母だ。

 困惑しながらも、楓の後を追う彼の頬は赤いままだった。

 数分後。

 彼と楓の前には、彼の祖父母がいた。

 ダイニングのテーブルを挟んで向き合う四人は、傍から見れば結婚報告をする息子夫婦に見えなくもない。それを断言できないのは、やはり二人の身長差が原因だろうか。まぁ、成長がほぼ止まった成人女性と、これから成長するであろう中学生男子ではしょうがないことだろう。

 そんな楓は、彼の祖父母に向かって、いつになく真剣な表情で話す。

 「おじいさん、おばあさん。お二人が彼の夢に肯定的でないことは分かります。彼のお母様のようなことがあれば、普通の道を歩ませたいと思うでしょうし、彼にはその道で上を目指せる才能もあると思います。けれど、彼に挑戦させてあげてはくれませんか。彼のファンとして、彼の歌に惹かれた者として、私は彼を応援したいんです」

 楓と老夫婦の付き合いは、引っ越し以来続いていて、それなりに長く、関係も良好だ。

 しかし、夫婦が彼女の真剣な表情を見るのはこれが初めてだった。

 だからといって、彼らも簡単に意見を曲げるわけにはいかない。

 勿論彼の母親のこともあるが、それ以上に至極真っ当な理由がある。

 彼の目指す夢というのは、不安定なのだ。

 当然どんな仕事に就いたところでリスクは存在する。

 それでも、愛すべき孫には可能な限り安定した道で幸せに進んでほしいと願うのが、家族というものだろう。

 「高垣さん。いつもお世話になっている貴女にこんなことは言いたくないが、貴女が言うことは孫にとっては嬉しいものだろう。けれどね、私たちからすれば責任を取る必要のない人間からの無責任な発言でしかないんだよ」

 「はい。ですから、彼の夢の責任は私が取ります。そして、彼の夢の道しるべに、私がなります」

 彼の夢を後押しするのなら。

 彼自身が諦めかけ、彼の家族すらも彼の夢を否定しているのに、彼に夢を追わせるのなら。

 その責任を、私が負うのだと。

 楓は言った。

 「今、私の所属している事務所に新設されたアイドル部署から勧誘を受けています。歴史も無く、一から始める部署です。そこで私が結果を出せたなら、彼の夢を応援してあげてください。そこで彼が結果を出せなくても、私が責任を取ります。だからどうか、彼に夢を、歌を歌わせてあげてください」

 それは決して、楓が負う必要のない責任。

 むしろ、メディアへの露出が増え、人生の転換期ともいうべきアイドルへの転向という決断に、自分の人生ではなく他人の人生の責任を乗せる人間が他にいるだろうか。

 それも、自分より5つ以上も下の、たまたま隣の部屋に住んでいた少年の人生の責任を負うと、その家族に言い切る人間がいるだろうか。

 けれど楓は断言する。

 彼の夢を誰かに伝えることができるのなら、きっと誰かの心を救える筈だと。

 彼の歌がここで潰えるのは、何よりも勿体ないと。

 その為なら、自分の人生を賭けていいと。

 何故そこまで彼の歌を大事にするのか、楓自身にもわかっていなかった。

 確かにアイドルという新天地に興味を惹かれていた。

 彼の歌に可能性を感じたのも事実。

 だけど、それ以上の何かが、楓を動かすのだ。

 「…高垣さん。なぜ、そんなに孫の夢を応援したがるんです?こう言っては何だが、君は他人だろう」

 そう。楓と彼は赤の他人だ。

 だけど、そこには確かに絆があった。

 最初は、彼の歌に惹かれた。

 そして、彼の歌に惹かれる理由を知った。

 ああ、そうか。

 楓は、ようやく自分の心にある気持ちを理解した。

 「そうですね…。理由は、特にありません」

 「は?」

 楓は理解した。

 この気持ちが、簡単には言葉にできないことを。

 そして、だからこそ彼は歌にするのだと。

 にこやかに微笑む楓に、老夫婦は呆気にとられる。

 それもそうだろう。孫の人生の責任を取ると言っている女性が、その行動に理由はないと言っている。

 「…はは、はははは!理由はないか。そうか。ははは!」

 「じいちゃん?」

 「よし分かった。お前はお前の夢を目指して頑張ると良い。高垣さんには、その責任を負ってもらおう」

 「いやいや、楓さんにだってやりたいことがあるんだから…」

 「ただし」

 彼の祖父は、言葉を切った。

 自然と彼も口を閉じる。

 楓と視線を合わせた彼の祖父は、真剣な表情で語る。

 「高垣さんがアイドルとして成功するまで、私たちにできることがあったら何でも言いなさい。この子の歌が聴きたければ聴きに来ていいし、いつでもご飯を食べに来なさい。家事が大変ならその子も私たちも手伝う。君が孫の夢の責任を負うというのなら、私たちは君の人生の責任を負う。そして」

 彼の祖父は視線を横にずらして、彼と視線を合わせる。

 「お前は、絶対に夢を叶えるんだ。中途半端なことはするな。途中で諦めるな。それは高垣さんに対して、最大限の侮辱だと思え。それをやったら最後、俺もお前を許さんからな」

 にかっと笑う彼の祖父は、どこまでも大人だった。

 楓の覚悟を認め、その上で彼の夢を守ろうとする楓すらも包み込む、大人の優しさ。

 その優しさに触れて、楓も顔をほころばせる。

 結局、この部屋に集まった人間は、誰もかれもが彼の夢を応援したいのだ。

 けれど、彼の祖父母は家族故に応援しようにもできず、そこに楓が現れた。

 単純に彼の夢を応援するよりも大変なのかもしれない。彼の夢の道だけでなく、楓の歩む道すらも応援することになってしまった。

 けれど、彼の夢を守ってくれる人間が現れたことに、その苦労以上の喜びを見出したのだ。

 ならば、あとは全力で彼と彼女を守るだけ。

 楓の最初のファンで、彼の二番目のファンは、彼の祖父母と相成った。

 「楓ちゃん、孫をよろしくね」

 「ふふ、任されました。可愛いですし、弟ができたみたいで私も嬉しいです」

 「弟じゃなくて楓ちゃんが嫁に来てくれてもいいんだけどねぇ」

 「いやいやいや!何言ってんのばあちゃん!」

 「あら、私では不満ですか?うふふ」

 「からかわないでください!」

 

 

 4

 

 金曜日の午後6時。

 定時で帰れた社会人や、土日前から遊ぶ学生が行き交う駅前の広場。

 普段なら混み合いつつも、人が流れるそこは、現在百人以上の人だかりで埋め尽くされていた。駅から出てきた人はその光景に驚き、その理由を知ると人だかりに参加していく。

 そうして集まった人々の中心に、彼はいた。

 膝まで隠れるような大きい長袖の真っ白なパーカーと、目元まで隠れる様なつば付きの白いニット帽。どう見ても体の大きさに合っていないが、女性に近い彼の体格に、それは不思議なほど似合っていた。

 しかし、それ以上に目を引くものがある。

 夕暮れの赤の中で目立つ、空色のアコースティックギター。

 蒼いギターを持つ全身白づくめの彼は、さしづめ空を漂う雲か。

 しかし彼は、そんな不安定でふわふわとした存在ではない。

 その証明の如く、彼は声を上げた。

 前語りは無く、自己紹介も無く、彼は歌い始める。

 ギターのない彼の歌声だけで始まった曲は、唐突に激しくなり、誰もが全身でリズムを取り始める。最初は足で地面を。次いで手を叩き始め。最後には、腕を振って、まるでライブ会場にいるかのように熱くなり始めた。

 彼の歌を知らない人も、心が知っていたかのように体が自然に動き、彼の歌に引き込まれる。

 彼の歌を知っている人は、さながらアイドルのファンのように声を上げて楽しんでいる。

 その光景に、楓は笑みを浮かべた。

 広場を一望できる、駅の二階に設置されたカフェのテラス。

 そこには帽子やサングラスで顔を隠した楓のほかに、さしわたに興味を持つ美嘉と瑞樹が広場を見下ろしながら彼の歌を聞いていた。

 「…なんていうか、こっちまで嬉しくなるような歌を歌うのね」

 「ですよね!こう、思っていても上手く言葉にできない気持ちを歌ってくれるから、こっちまですっきりするというか」

 彼女たちの感想を聞きながら、広場で歌う彼を見る楓は、どこか誇らしげだった。

 彼が夢を追えるようになったのは、他ならぬ楓のおかげだが、楓がアイドルとして輝けるのも、彼があってこそだった。

 「楓さん、なんか嬉しそうだね」

 「うふふ、わかりますか?」

 「そりゃわかるわよ。そんな幸せそうな顔しちゃってー」

 「幸せ…。そうですね。彼は、私の憧れでしたから」

 彼の夢の後押しをするためにアイドルになった楓は、アイドルという道の険しさを知った。

 厳しいレッスン。地道な広報活動。モデルという下地があってもなお、アイドルという新天地は楓に牙をむいた。同じ事務所内であるにもかかわらず、先行きが不透明な新規部署は事務所内でも煙たがられる。

 そんな過酷な新人時代に楓を癒してくれたのは、彼の歌だった。

 管理人に許可を取り、マンションの屋上で彼の歌を聴く。疲れた体に染みわたる彼の歌は、楓の好きな酒や温泉よりも、楓の心と体を癒してくれる。

 厳しいトレーニングに気分が落ち込む日もあった。

 見向きもされない自分に自信を無くした日もあった。

 それでも楓が頑張れたのは、彼の歌を聴いてきたからだ。

 夢へと続く道を諦めない彼の歌を聴いてきたから。

 自分のしてきた努力は、きっと何かに繋がるのだと謳ってくれたからこそ。

 楓は上を見て歩くことができた。

 辛くても、苦しくても、その瞬間に報われなくても。この努力は、経験は、必ず何かに繋がると信じることができた。

 そして、彼のようになりたいと思ったのだ。

 誰かを笑顔にできる彼のように。

 そして、誰かと一緒に笑える彼のようになりたいと。

 その願いを、楓は叶えた。

 高垣楓は、小さな少年に憧れた。少年に励まされ、小さな舞台で輝き始めた。その輝きは強くなり、遂には、誰よりも眩しい星となり、憧れた少年の道しるべとなる。

 「彼のためにアイドルになることを決めましたが、結局励まされていたのは私のほうだったんです。私がテレビに出るたびに彼は喜んでくれて、その喜びを歌ってくれました。私のライブには必ず来てくれて、凄かった、楽しかったって言ってくれるんです」

 彼の祖父母との約束は守られた。

 であれば、後は彼が彼の夢を追うだけだ。

 だからこそ、広場で歌う彼が、夢への道を歩き始めたことが自分のことのように嬉しい。

 特別やりたいことも無かった自分が、彼の夢を、自分の人生を賭けてでも応援したいと思った理由は、未だに言葉にできていない。

 けれど、彼の歌に感化されたことで、自分の夢を、一緒に歩ける仲間を得たことを、楓は何よりも感謝している。

 「いつか、彼のように言葉にできたらいいんですけどね」

 困ったように笑う楓は、その時がくればいいと本気で願っている。

 それが伝わったのか、美嘉も瑞樹も優しく微笑んだ。

 普段は駄洒落を言って掴みどころがなかったり、居酒屋で悪酔いをする楓だが、いつでも彼女は本気だ。

 「…あ、最後の曲みたいだよ」

 彼の路上ライブは多くても6曲で終える。

 太陽も沈み切り、地平線から漏れ出る日の光と、明るい街灯が広場を照らす。

 その中で、彼は初めて歌以外で声を出した。

 「今日は来てくれてありがとうございます。次が最後の曲ですが、今日はこの場所だからこその歌で終わりにしましょうか」

 彼の言葉に、聴衆の一人が「どんな歌ー!?」と声を上げた。

 「ふふ。ここの近くには、皆さんがよく知るアイドルが所属している事務所があります。その事務所の代表曲と言えば、これしかないでしょう!」

 音響機材はなく、音源は彼のギターだけ。

 それでも、彼の歌声の一音とギターの音だけで、彼女たちは理解した。

 それは三人が一緒に歌ったことのある、346事務所で最も歌われている一曲。新人アイドルの中には、この歌を聴いたからアイドルを目指した人間もいるほどの、346と言えばこれ、というほどに有名な歌。

 「お願い、シンデレラ。夢は夢で終われない」

 同じ歌、同じ歌詞なのに、楓たちが歌うそれとはまったく異なるその歌は、集まった人たちを熱狂の渦へと巻きこんだ。

 終いには、いつかの路上ライブのように近くの交番から警官が、駅からも駅員が数名出てきて交通整理をする始末。

 そんな騒ぎの中心にいたはずの彼は、早々にギターをケースにしまい込み、誰の目にも止まることなく渦中から逃げ出していた。

 上から見ていたはずの美嘉と瑞樹も彼のことを見失い、目を凝らして探す中、楓は下の騒ぎを見ることも無くコーヒーを飲んでいた。

 そんな彼女に近づく影が一つ。

 「楓さーん、帰りましょー」

 「お疲れ様です。確か、今日はおじいさんとおばあさんがいないんですよね」

 「はい。なので、晩御飯はどっかで食べてきなさいって言われました。楓さんはどうしますか?帰るなら一緒に晩御飯作りますよ?」

 「うふふ、それもいいですね」

 「待て待て待て待て待ちなさい!」

 家族か。そんな突っ込みをしそうになるほど親しげな二人に待ったをかけたのは、広場を見渡していた瑞樹だった。

 その視線の先には、先ほどとは打って変わって黒いパーカーに眼鏡をかけたさしわたが立っている。

 高校一年生にしては小さい身長が、隣に楓が立つことでさらに小さく見える。150センチくらいだろうか。

 というか、つい三分前くらいまで広場にいたというのに、いつの間にここまで来たのだろう。

 「君、さっきまであそこで歌ってたよね?どうやってここまで来たの?」

 身長差のせいか、幼い子を相手にするような口調で美嘉が聴く。

 「あ、城ヶ崎美嘉さんですよね!川島瑞樹さんも!初めまして。楓さんからよくお話をお聞きしてますー」

 「あ、うん、どうも。…じゃなくて、どうやってここまで来たの?服も変わってるし」

 楓と同様にやや天然が入った彼の喋りに釣られながらも、服装まで変わった彼に聞く。

 しかし、彼にとってはいつものことのようで。

 「普通に来ましたよ?服はリバーシブルになってて、全身真っ白な奴が黒い服になって人混みに紛れたら、もうわからないでしょう?」

 えへへ、と頭をかいて笑うさしわたに、美嘉と瑞樹はなるほどと頷く。

 確かにあれだけ目立つ服装からこの格好になっていればわからないかもしれない。

 そんな二人を余所に、楓と彼は今日の路上ライブについて話していた。

 「今日もいいライブでしたよ。『お願い!シンデレラ』を歌うことは知らなかったですけど」

 「サプライズです!皆も嬉しそうでしたし、何より僕が歌いたくなったので!」

 歌いたくなったから、であれだけ盛り上がる歌を歌われては、本家のアイドルである美嘉も瑞樹も立つ瀬がない。けれど、楓だけは違うようで、どころか普段の三割り増しくらいで嬉しそうな笑みを浮かべている。

 誰よりも、何よりも、自由に。

 それが彼の歌の、何よりの魅力。

 自分の感情を自由に表現する。簡単に言えてしまう想いも、上手く言葉にできない気持ちも、彼は誰にも縛られることも無く自由に歌う。

 だからこそ、彼の歌は心に響く。

 自分の言葉を彼が代弁してくれるから。自分が言葉にできない気持ちを代わりに歌ってくれるから。

 だからこんなにも、彼の歌は心に染みる。

 「ふふ。夜は食べに行きましょうか。私がよく行くお店があるんです」

 彼の頭を撫でながら、楓は飲み終わったコーヒーカップを持つ。

 慈愛に満ちた表情で彼を見る楓は、母や姉、大げさに言えば女神を思わせるような雰囲気をもって彼を連れ立つ。

 だが、そんな楓をまたもや止める者がいた。

 「ちょっと待ちなさい、楓ちゃん。よく行く店、ってまさか…」

 「あら、瑞樹さんも来ますか?せっかくなら美嘉ちゃんも来ます?」

 「え?行くって、何処に…?」

 彼の歌を除いて、楓が好きなものと言えば二つしかなく。

 心を満たされた人が、その喜びを飲食に繋げるのであれば、行く場所は一つしかなかった。

 

 

 5

 

 さしわた。高垣楓。川島瑞樹。城ケ崎美嘉。美嘉の幼馴染。三船美優。チーフアシスタント。片桐早苗。佐藤心。プロデューサーが二人に、アシスタントの千川ちひろ。他にも十数名。

 346事務所に所属する成人組と大学生組のアイドル、そのお目付け役に出動したプロデューサーとアシスタント数名が、事務所近くにあるこの居酒屋『常世の国』に集まっていた。

 美嘉や新田美波を始めとした大学生組は、いずれあるであろう飲み会なんかの予行演習という建前のもと、楓や早苗を始めとした調子に乗った成人組のアイドルに連行され、そのお目付けにプロデューサー。そして、そのプロデューサーの監視に、千川ちひろと美嘉の幼馴染というアシスタント二人が付き添うという、監視の監視が配備された結果、かなりの人数が集合している。

 この人数で居酒屋に押しかければ周囲の人を驚かし、迷惑になってしまうが、そこは飲みなれた、且つ常連の成人組の力をもって、『常世の国』を貸し切りにしていた。

 そんな中、騒ぎの中心である楓と、その隣に座るさしわたは目新しそうに店内を見回していた。

 どこを見てもアイドル、アイドル、その関係者。

 楓が所属している事務所のアイドルということもあって、彼は346事務所に所属しているアイドルの歌をほとんど網羅している。

 だからこそ、本物がいるという状況に興奮していた。

 「楓さん楓さん」

 ギターケースを自分が座る座敷の壁際に置いた彼が、楓の袖を引く。

 人が増えてきたからか、白いつば付きのニット帽を被った彼の前にはお品書きが広げてあり、初めての居酒屋で何を食べていいのか迷っている風だった。

 そんな彼に、常連の楓がアドバイスをする。

 「ここのオススメは枝垂空ですよ。店長が自ら仕入れに行ったくらいで…」 

 「かーえーでーちゃーん?未成年に飲酒を勧めるのは見逃せないわよ!」

 「はっ。未成年は熱燗アカン、ですね」

 「ふふ、アカンに決まってますよ?楓さん」

 成人の、しかもトップアイドルが未成年に飲酒を勧めかけるという事案を止めたのは、緑の制服を着こなした優しい笑みの、346事務所最強のアシスタント、千川ちひろだ。噂によれば、チーフアシスタントの彼と同等の働きをする上に、上司である美城専務にすら臆せず接するのは、アシスタントの彼女とチーフアシスタントの彼くらいのものだ。プロデューサーすら話すだけで緊張する専務を相手に立ち回れるちひろは、アイドル達からも大いに恐れらている。

 だが、アイドル側にもそういう人物は存在し、その一人が楓だった。

 悪魔と同等に恐れられるちひろの笑みにも臆さず、楓は笑みを浮かべまま言い訳を始めた。

 「冗談ですよ、ちひろさん。じょうだんでーす」

 「…はぁ。貴方も、呑んじゃいけませんよ?大人に勧められても、きっぱり断ってくださいね。何か言われたら私が止めますから」

 「は、はい」 

 自分とさして変わらないほどの大きさなのに、その威圧感にやや押されながら返事を返す。

 だがそれも一瞬のことで、店の喧噪と楽しげな雰囲気に、さしわたとしての心が揺さぶられる。

 メニューを注文し、品が出てくるまで、陽気な雰囲気に身をゆだねる。人によっては耳障りな騒音も、彼にとっては自分の、誰かの気持ちを歌うための材料でしかない。

 「……歌いたいですか?」

 体を揺らして、彼の頭に流れる曲が外に出たがっているのを察した楓が、小さく聞く。

 「はい。でも、ちゃんと歌えるのは明日か明後日になっちゃいますから、今は大丈夫です」

 いかに天才と言えど、ちゃんとした曲を即興で作れるわけではない。

 それに加え、歌が好きすぎるシンガーソングライターである彼でさえ、いつどこでも歌いたがる訳じゃない。TPOはちゃんとするし、楓と出会って以来、音の届かないマンションの屋上と、防音対策をした自室以外でギターを鳴らすことは無い。

 だからこそ、今も頭の中だけで曲の雰囲気だけを作り上げ、手は机に置かれた料理を口に運んでいる。

 けれど、そんな彼の本心も、楓は見抜いていく。

 席を外した楓は、カウンターの奥で料理を作る店長に声をかけ、一言二言話すと、すぐに戻ってきた。

 「このお店、防音になっているそうです。だから、ギターを弾いても大丈夫だそうですよ。へたくそだったら、追い出すって言ってましたけどね」

 「…へへ。それじゃ、歌ってもいいですか?」

 「勿論よ。さっきのライブだけじゃ、正直物足りなかったしね」

 向かいに座る瑞樹が頷くと、今度は楓の顔を見る。

 「お願いします。久しぶりに、近くで貴方の歌を聞きたいです」

 その言葉を聞くなり、彼はギターケースを開き、胡坐をかいてギターを膝の上に乗せた。

 自分の耳を頼りに手早くチューニングを済ませると、ポロンポロンと弦を弾く。

 「まぁでも、さっきの歌は出来上がってないので…」

 店内で数グループに分かれて騒ぐ346の人間を見渡してから、口を開いた。

 彼が選んだのは、彼の歌ではなく、城ヶ崎美嘉のソロ曲『TOKIMEKIエスカレート』。以前はシンデレラプロジェクトのニュージェネレーションの三人をバックダンサーにライブで披露したこともある曲。カリスマJKの名に恥じない、派手な衣装とポップな曲調が特徴的な、城ヶ崎美嘉の代表曲だ。

 そんな、居酒屋にはあまり似合わない曲が聞こえ始めた店内は、徐々に喧騒が鳴りやみ、いつも聞いているものとは違う曲に耳を傾ける。

 ポップに、けれど穏やかに。

 どこか引き込まれるような歌声に、一つ、歌声が混じる。

 「あなたは心に光る一番星」

 ここに二人のファンがいたなら、絶叫では済まないかもしれない。

 城ケ崎美嘉とさしわた。

 二人の歌声は、昔からユニットを組んでいたと言われても納得するほどにピッタリ合っていた。

 この時ばかりは、この曲は二人の曲となっていた。

 そして、さしわたの本日二度目のライブは留まるところを知らず、346事務所に所属するアイドルの歌をカバーする、両ファン卒倒もののライブと化した。

 自分の歌が流れるたびにアイドルたちはデュエットやトリオのように、彼と一緒に歌い始め、ここにいないアイドルの歌が流れると、プロデューサーやアシスタントの三人が互いやアイドルたちに囃し立てられながら歌う。

 ご飯を食べながら、お酒を飲みながら、心に染みる歌を聴き、時に楽しく歌い、上も下も無く、誰もが笑顔になっている。

 この店の名前である常世の国とは、海の向こうにある不老不死の理想郷。

 その意味とは少し違うが、それでも今この瞬間だけは、この店内は理想郷のようでもあった。

 「次で最後ですかね」 

 「そうですね。もうすぐ10時になりますし」

 楽しい時間というものは、早く過ぎ去るもの。

 未成年もいるのであれば、早々に切り上げて解散するべきだろう。

 しかし、店内はさしわたの唐突なライブによって盛り上がりすぎてしまった。

 だからこそ。

 いや、最初から最後の曲はこれにすると決めていたのか、さしわたは迷うことなくギターを弾き始めた。

 「盛り上がった最後は、これで締めにしましょう。ね、楓さん?」

 「…ふふ。そうですね」

 最後に選んだ歌は、高垣楓の代名詞『こいかぜ』だ。

 歌詞の通り、二人の歌声が狭い店内を風となって通り抜けていく。

 盛り上がりすぎた人たちの心を落ち着かせるように流れるその曲は、もはやただの歌ではない。

 彼の夢。

 楓が見たいと思っていた彼の夢の果てを思い浮かばせるような、美しくも身近に感じる優しい歌。

 まるでフィクションのように、歌に何かの力があるようにさえ思える。

 そして、気づけば皆、店の外に出ていた。

 締めの言葉も無く、けれど充足感に満ちたせいか、誰もが一言程度を交わして帰路に着く。

 それでも未成年はアシスタントたちが責任をもって送り届けるあたり、やはり仕事に関しては完璧だった。

 そして、最後に歌った二人はと言えば、二人並んで帰宅していた。

 同じマンションの隣部屋で、未成年の彼を楓が、女性である楓を彼が、お互いを守るように、けれど和やかに歩いていく。

 「それにしても、いつの間に皆の曲を覚えていたんですか?」

 「346事務所の出す曲は印象に残る曲ばかりですから。でも、やっぱり本物には勝てないですし、カラオケ大会みたいになっちゃいましたけどね」

 「そうですか?昔から一緒に歌っているようでしたけど」

 「あはは。それは嬉しいですけど、やっぱり僕の歌じゃありませんから。例えば、安部菜々さんの『メルヘンデビュー』なんかはあの人しか歌えないですし、『こいかぜ』だって楓さんが歌うからこそ響くんです。僕が皆さんの歌を同じように歌えているなんてことはあり得ないんですよ」

 「…それじゃあ、私と一緒に歌える曲を作ってくれませんか?貴方と二人で歌った時、とても楽しかったですし、気持ちがよかった。私と、貴方の、二人の歌を作ってくれませんか?」

 それは嘘偽りない、楓の気持ち。

 今まで一人でステージに立つことが多く、けれどそれを苦と思わない楓が言った、本心だった。

 「それは、いいですね。うん。それで、いつか一緒にライブができたらいいですね」

 「はい。いつか二人で、同じ舞台に立ちましょう?」

 そんな夢物語、とも言えない話をしている二人は、確かに幸せだった。

 夢へと続く道を、順調に歩み続ける二人。

 けれど、幸せがいつまでも続くわけではない。

 いつかは必ず、不幸が来る。

 二人はそれを、もっと先のことだと思っていた。つまるところそれは、突如来る不幸への対策も、心の持ちようも、一切の準備をしていなかったということに同義だ。

 だから、順調な道に突如現れた絶望という壁を、不幸という障害を前にしたとき、二人は立ち止まってしまう。

 

 翌朝。

 さしわたにとって何よりも大切な空色のアコースティックギターは、壊されて捨てられていた。

 

 

 6

 

 それに気が付いたのは、朝早くに事務所へと向かう楓だった。

 朝からスケジュールが埋まっている楓が、マンションの共用ゴミ捨て場の前を通り過ぎたとき、ふと視界の端に見覚えのある碧を捉えた。

 空の一部を削り取ったかのようなその色は、彼が、彼の母親から貰った愛用のギターの色そっくりだった。

 それに気が付いた楓は、ゴミ捨て場のネットを上げて、その碧の正体を確認した。

 そこには、数個のごみ袋に挟まれるように、ネックが折れ、弦が飛び出し、ボディに修復不可能なほどの亀裂と穴が空いた、彼のギターが捨て置いてあった。

 それを見た楓の感情は、動揺の一言に尽きた。

 何故、彼のギターがここにあるのか。

 何故、こんなにボロボロに壊されているのか。

 昨日のことを思い返しても、彼と部屋の前で、それも二人ともドアを開けた状態で「また明日」と話している時まで、彼はいつも通りだったはずだ。

 その記憶から導き出される結論はたった一つ。

 彼が帰宅した後に、何かがあった。

 それも、ちょっとやそっとのことではない。彼が大切にしているギターが、こんなにも無残な姿になるほどの、何かがあったのだ。

 仕事まで、まだ時間はある。

 細い手首につけられた小さい腕時計を確認した楓は、マンションの中へと踵を返す。

 朝も早いが、彼は祖父母のために朝食を作っていることもあり、この時間に起きていることは知っていた。時折、楓も朝食にお邪魔していることもあったため、もはや楓も彼も、お互いの一日のタイムスケジュールを何となく把握しているのだ。

 それはさておき、彼の部屋の前にたどり着いた楓は、迷うことなくチャイムを押す。

 数秒の間をおいて、ドアが開いた。 

 ガチャリと音を立てた先に立っていたのは、彼自身でもなく、彼の祖父母でもなく、しかし楓の知る人物だった。

 銀縁の眼鏡に、ピシッとしたスーツ姿。軽く整えられた清潔感のある髪型に、やや強面の男性は、彼が苦手としている、彼の父親だ。

 「おはようございます」

 「おはよう、高垣さん。こんな早朝から何か用かね?」

 「息子さんはいらっしゃいますか?昨夜は遅くまで連れ回してしまいましたから、顔を見てから仕事に行こうかと思いまして」

 するっと出てきた嘘は、楓の微笑みによって、まるで本当にそう思っているかのように聞こえる。ただそれが、彼の父親に通じるかどうかは別の話だ。

 「そのことなら気にしなくていい。息子には言いつけたし、あいつを叱るにはいい機会だった」

 「そう、ですか。それでは、息子さんはまだ落ち込まれて?」

 「いや、朝から外に出て行った」

 「そうでしたか。お家にいないならしょうがないですね。私も仕事に向かおうと思います。朝早くから申し訳ありませんでした」

 そう言って、彼の父が奥に引っ込み、扉が閉まるのと同時に、楓は速足でとある場所に向かった。

 楓と出会い、許可をもらってからは、彼はマンションの屋上で作曲やギターを弾いていた。

 しかし、それは毎晩のように楓がいるからだ。仕事終わりで疲れている楓を、態々外に出してまで聞かせることを忌避した彼の思いやりがあってこそ。

 なら、彼が一人になった時に向かう場所はと言えば、楓には思い当る場所が一つだけあった。

 今の時期なら、散った花弁が絨毯のようになっているだろう、思い出の場所。

 彼と楓が、劇的に、けれど静かに出会った、特別な公園だ。

 ただ、あの時とは致命的に違う点が一つあった。

 「…いた」

 出会った時と同じベンチに座る彼は、魂が抜けたような、という表現が嫌になるほどよく似合っていた。

 呆然と、虚空を見つめるように空を見上げる彼の手には、いつもの空色のギターではなく、数枚の紙を掴んでいた。バサバサと風が吹くたびに音を立てるそれには、一面にびっしりと何かが書かれている。

 桜の花びらでできた絨毯の上を歩いて、彼に近づく。

 「…大丈夫ですか?」

 「あ、楓さん…。おはようございます」

 普段から彼は、過剰に見えるほど感情が豊かだ。

 嬉しいことがあった時も、楽しいことがあった時も、悲しいことがあった時も、辛いことがあった時も。

 顔を見ただけで何があったのかわかるし、彼はそれを昇華して作曲している。

 だから、こんな彼を見るのは初めてだった。

 「そうだ。これ、昨日言っていた曲です。楽しみで、徹夜して作っちゃいました」

 苦し気に笑みを浮かべる彼が差し出してきたのは、数枚の楽譜だった。一枚の紙に数行の五線譜と歌詞が書かれているそれは、彼と楓が二人で歌うための曲であることが見て取れる。

 「あの後、すぐに作ってくれたんですか?」

 「はい。僕も、楽しみでしたから」

 その代わり、と。

 「父さんに怒られて、ギターを壊されてしまいました。えへへ…」

 その笑みは、悲痛だった。

 彼にとって、母の形見であるあのギターは、何物にも代え難い形あるモノだ。それが壊された彼の心境は、想像できるものではない。

 けれど、それを堪えて、楓に対して笑顔を見せるその姿に、楓もまた、悲痛を感じるのだった。

 「その譜面は楓さんにあげます。だけど、今回はちょっと、すぐには歌えそうにないです…」

 感情を歌にする彼が、感情に負けて歌うことすらできなくなっている。

 それは、普通の人から見ればただのスランプのように見えてしまうかもしれない。

 けれど、歌に夢を乗せている彼にとって、歌えなくなるということは夢への道を歩けなくなってしまったということに同義だ。

 挫折。

 ただ漫然と暮らしている者なら、何をその程度、と嘲わらっていたかもしれない。

 けれど、楓は知っている。

 彼がどれだけ本気なのか。

 努力が必ず報われるわけではない。だからこそ、彼は夢が叶うまで、いや。叶っても努力し続けるのだと。

 その努力のかけらを、そばで聴いてきたから。

 その夢への道を照らしたいと思ったから。

 ふらふらと立ち去る彼の背を見て、楓は決心した。

 それは、二度目の決意。

 一度目の決意は、彼の道しるべになること。

 夢への道を照らす為に、楓はアイドルになった。

 そして今。 

 彼とともに歌う楽しさを知った。

 彼が歌えないことに悲しくなった。

 彼が作ったこの手にある曲が、誰にも知られずに埋もれていくのが、耐えられなかった。

 だから、楓は決意し、行動を起こす。

 誰かと一緒に笑顔になる喜びを教えてくれた彼に、今度は自分が教えてあげるのだと、心に決めて。

 楓だからこそできる、楓にしかできない方法で。

 

 そして、二週間が経った。

 

 

 7

 

 ギターを壊されたことによる心の傷は未だに癒えず、心ここにあらずといった体の彼は、とあるライブ会場の控室にいた。

 数万人を収容することができる巨大なアリーナは、観客で超満員。

 明かりを落とし、始まった夢の舞台に、誰もが心を躍らせていた。

 それは観客側だけでなく、出演するアイドル達もそうだった。

 そんな中、彼は路上ライブをするときの白いパーカーを着て、高垣楓様と書かれた控室で天井を見つめていた。

 普段なら、満面の笑みで楓を応援していただろう。

 だが、今の彼には他人を気遣えるほどの余裕はない。

 母親を失い、その形見であるギターを失った。つい先日まで義務教育の中で生きていた彼にとっては、その事実を受け入れるのに時間がかかるだろう。

 しかも、母親を失ってもなお立ち直れたのは、形見のギターがあったからこそ。

 今回は、母親とのつながりを完全に断たれたも同然だ。

 それも、実の父の手によって。

 それでも彼が父親を恨まないのは、彼の父親が正しいと知っているから。

 相容れなくても、正しいと知っているから、彼は父親とぶつかることを避けてきた。

 だから、初めての父との衝突に、どうしていいのか分からないのかもしれない。

 「こんにちは」

 「…あ、こんにちは、楓さん。今日は呼んでくれてありがとうございます」

 「うふふ、来てくれてありがとう。今日は、貴方にプレゼントがあるんです」

 そんな彼に、楓ができることと言えば、前を向かせることだけだった。

 彼の道しるべとして。彼の道を照らす星として、彼に上を向かせることが、楓にできる精一杯。

 「プレゼント…?」

 「はい。それも、二つあるんです。その一つ目が、これです」

 控室の中にある衣装かけの奥から、大きな包みを取り出す。

 楓の腹あたりまであるそれは、おおよその形から何かわかる。

 彼からすれば、二週間前まで毎日手に持っていたのだから、楓の持ち方ですぐに何かを悟った。

 「これ…!」

 「ギターに詳しい友達に聞いて、貴方に似合うものを買ってみたんです。どうでしょう?」

 包みから顔を出したのは、真っ黒なアコースティックギター。ネックまで黒いそれは、やや青みを帯びており、例えるなら夜空の色が一番近かった。

 「なんで…どうして…?」

 「言ったでしょう?私が、貴方の道しるべになると。それに、それを受け取ってもらうのに、私の頼みを一つ聞いてほしいんです」

 「頼み?」

 「はい」

 黒いギターを遠慮がちに握る彼は、未だ以前のような眼を見せてはくれない。

 彼の夢は、自分の歌で、誰かと共に笑顔になること。そして、希望を失った人たちが、自分の歌を聞いて希望を、夢を持つようになってくれることだ。

 壮大な夢でなくていい。輝くような希望じゃなくていい。

 ただ、明日を生きる夢を、希望を、捨てないでほしいと願うことこそ、彼の夢。

 そして、亡き彼の母親が為しえなかった理想だ。

 彼は、彼の母親の夢を知らない。知っているのは、何をしていたか。ただ、それだけ。

 けれど、何も知らなくても、彼は母親の理想を夢見た。

 なら、その夢を目指す彼自身の夢は、希望は誰が支えるのだろう。

 楓は、彼の夢を聞いたその時から、彼の支えになると決めた。

 その理由は、言葉にすることが難しいけれど、それでも言葉にするのなら。

 「私と一緒に、今日の舞台に立ってください。私も、貴方の夢を支えるだけでなく、貴方の隣で夢の景色を見たいんです」

 彼の夢が、楓を救ってくれたから。

 別に、楓が苦しんでいたわけではない。将来に悩んでいてはいたものの、どうにかなるだろうと楽観的に考えていたのも事実。

 けれど、彼の夢は楓に夢を与えてくれた。

 今の楓の輝きは、彼がいなければなかった。

 そうしてたどり着いた高みで、楓はもう一つの夢を見つけた。

 「僕と、一緒に?」

 「はい。貴方のための道しるべである高垣楓は、ここで終わりにします。その代わり、貴方と一緒に、誰かの道しるべに、私はなりたい」

 道しるべ。

 奇しくもそれは、彼が楓と歌うために作った曲の、メインテーマでもある。

 黒いギターを見つめ、彼は沈黙する。

 夢。現実。母親。父親。

 何が正しく、何が間違っているのか。

 きっとその答えは、誰にも出せない。

 それでも前に進むのは、夢があるから。希望があるから。

 その手助けをしたいと思ったのは、何故だ。 

 「…最初は、歌って誰かが喜んでくれることが、自分にとっても嬉しかった。でも、母さんが死んで、身近な人で僕の歌を聴いても嬉しそうに笑ってくれる人はいなくなっちゃった」

 そんな時、幸せそうに自分の歌を聴いてくれる人が現れた。

 その笑顔が、とても好きだったから。

 そんな笑顔が、もっと広まればいいと思った。

 「うん。ギターを壊されたのは、もういい。父さんが、母さんのように歌う僕が嫌いなら、それでもいい」

 過ぎ去った過去ばかりを見るのは、もうやめだ。

 元から達観していたような少年だったが、もはや彼は夢を追うだけの少年ではなくなった。

 「ふふ、反抗期ですか?」 

 「えへへ、そうかもしれないです」

 萌黄色のドレスを纏うトップアイドルと、白いパーカーに黒いギターという、夜空のコントラストのようなシンガーソングライター、さしわたのライブが、始まろうとしていた。

 

 

 8 

 

 この二週間で楓がしたことは、ロックをこよなく愛するアイドル、木村夏樹に僅かばかりの師事を受けながらギターを購入したことと、もう一つ。

 冷徹なことで有名な、346事務所の専務である美城を説得したことだ。

 今回のライブで、楓自身をトリにしてほしいこと。そして、巷で有名なシンガーソングライターであるさしわたと共演させてほしいということ。

 両方の我儘を通すために、楓は好まない仕事をすることも視野に入れていたが、それは杞憂で終わった。

 「いいだろう。もともと君はトリにするつもりだった。当然、最後には全員で舞台に出てもらうが、それは構わないだろう?」

 「え、ええ」

 「それに、さしわたという少年に関しては私も聞いている。スカウトする手間が省けるのなら、むしろ有難いことだ」

 「あの、スカウトとはまた違うんですが…」

 「同じことだ」

 そんな、余りにもあっさりと快諾されたことに驚きながらも、楓は残る時間を、ただ一曲の練習に充てたのだった。

 

 

 色とりどりに輝くサイリウムを前に、さしわたは楽しみ半分、怯え半分といった顔でステージ脇に立っていた。

 「大丈夫です。貴方の歌は、これまでだって皆に届いてきたんですから」

 「…楓さん」

 「行きましょう」

 楓たちの前に歌っていた三船美優が、反対側のステージ袖へと捌けていく。

 誰もいないステージは、スポットライトの光すらなくなり、客席で光るサイリウムだけが星のように輝いている。

 そんな暗闇と、一分ほどの間をおいても、誰も出てこないことに対するざわめきが会場中に充満した、その瞬間。

 ポロン。

 たった一音。

 けれどその音は、一瞬にしてざわめきを鎮める。

 そして、その音に反応して、一筋のスポットライトが舞台の中央を照らした。

 誰もいないその空間に、再度ざわめきが起こりかけた瞬間。

 「夜空に輝くその星が」

 「夢へと続く道標」

 スポットライトが作る白い空間に、徐々に入ってきたのは、観客が待ち望んでいたトップアイドルの姿。

 そして、彼女が照らされたサークルの中央に立つと、アリーナのボルテージは一気に最高潮に達する。 

 アコースティックギターのメロディが流れる間、楓はマイクを握って観客に語り掛ける。

 「皆さーん。今日は集まってくれてありがとうございまーす。今日は、私の友人を連れてきちゃいましたー!」

 白い空間に、黒いギターが入ってくる。いや、白い服のせいで見えないだけだが、そこにはちゃんと、人がいた。

 このアリーナに、さしわたのことを知っている人間がどれだけいるのかわからない。

 けれど、そんなことは些事に過ぎない。

 さしわたとしての彼は、相手が誰であろうと、ただ歌うだけだ。

 自己紹介はない。彼は名乗らない。

 ただ、自分の軌跡を歌に乗せる。

 夢を追いかけ、挫折し、出会った一番星。

 桜舞う幻想的な風景で、人生を変えるほどの誰かに出会ったのは、なにも楓だけではない。

 彼も、楓と出会って人生が変わった。

 彼が一人だったのなら、夢への道は閉ざしていたかもしれない。

 その道を明るく照らし、彼に先んじて切り開いてくれたのは、他の誰でもない高垣楓だった。

 誰よりも輝く一等星。

 その輝きを道しるべに、ようやく彼女と同じ舞台に立った。

 互いが互いに憧れて、同じだけの喜びを、言葉にせずとも理解している。

 けれど、二人の夢は、そこで完結しない。

 自分たちの喜びを、誰かと共有したい。

 誰かが言えない言葉を、自分たちが。

 自分たちを含めた、誰かの想いを歌うことこそ、彼らの夢の果て。

 だからこそ、諦めないでと希う。 

 「暗闇を彷徨うあなたには」

 「その光が見えるだろう」

 夢を見ることは、決して恥ずかしいことじゃない。

 夢追い人は一人じゃない。

 夢を見続ける人間を、私たちは応援するから。

 「空に輝く、星導を」

 辺りを照らす二人の星は、心に巣くう暗闇を、明るく照らし出す。

 

 

 「どうかね、君のご子息は」

 「…諦めが悪いところは、彼女そっくりだ」

 「そうだな。そして、君にも」

 観客席後方の、VIPルーム。

 そこには、彼の父親と美城が、特殊ガラスの向こうで歌う二人を見ていた。

 「…わかっているんだ。彼女が死んだ原因が、世界中を飛び回っていたせいではないことくらい。だが、人々を幸せにしていた彼女が、何故不幸になる!誰かを笑顔にしたところで、自分に帰ってくるとは限らない!だから、あの子には夢を諦めてほしかったのに…!」

 それは、彼の父の本心だった。

 与えた分だけの幸せが帰ってくるとは限らない。時としてそれは、不幸となって自分に返ってくる。

 それを愛する妻の死をもって知った彼の父は、息子に同じ道を辿ってほしくないと願った。

 彼の夢で人々が笑顔になったところで、それが彼の幸せにつながるとは限らない。

 それは、息子を愛するが故の、父として当然の願いだった。

 けれど、彼の父は一つ、間違えている。

 「努力をすれば、必ず実る。私はそんな言葉が嫌いだ。何故なら、世の中には決して覆らない才能の差が、必ずあるからだ。だが、その言葉に別の意味を見出すものがいた。努力による結果ではなく、その過程をどれだけ楽しんだか。そして、その過程を経ての結果に自分が納得できるかどうか。君の息子は、その過程にこそ夢を見ている」

 そして、その結果は、目下に広がる光景を見れば一目瞭然だ。

 「夢が叶えば、それは幸せと言えるのではないかな?」

 「……また、負けてしまったか」

 それは、若かりし頃の記憶。

 有名な音楽家だった彼の母が、世界を渡り歩いて人々を笑顔にしたいと言った時のことだ。

 当然彼の父は猛反対した。彼女が提示した国の中には、いまだ紛争を続けている危険な国もあったからだ。

 けれど、彼女は頑として譲らなかった。

 それは、音楽がどれだけ人を笑顔にするのかを、実体験として知っていたことと、彼女の息子が聴くたびに笑顔になるからだった。 

 愛すべき息子の笑顔は、彼女にとって何よりの宝だ。

 だからこそ、そんな宝物を、世界に広げたいと考えた。

 「本当に、あの子は彼女に似ているよ」

 「その上、似たようなパートナーを見つけてしまったのだから、君には同情する」

 舞台の上には、出演していたアイドルたちが勢ぞろいし、その中心に、彼と楓が立っていた。

 アイドルの少女たちに比べれば、衣装は地味で、そもそも男であるから華やかさに関しては比べるべくもない。

 けれど、それを補って余りある輝きを、彼は放っていた。

 「皆さーん!今日は本当にありがとー!」

 「最後の楓ちゃんとさしわた君のライブには驚いてくれたかなー?」

 「驚いてる皆には悪いけど、もう一回驚いてもらおうかしら!」

 「いきますよー!」

 島村卯月の言葉に、ステージの巨大な電光掲示板にカウントダウンが始まった。

 減っていく数字に、観客だけでなく、楓と彼もくぎ付けになる。

 そして、ゼロになった時。

 現れた言葉に、二人は目を疑った。

 「ワールドツアーけってーい!!」

 「行くのはー、この二人!」

 スポットライトを受けたのは、楓とさしわた。

 「いやー、346に男性歌手が入ってきたどころか、楓さんと一緒にいきなりワールドツアーとは、私たちも驚いたよねー」

 「はい!でも、さしわたさんって元から結構有名でしたよね?」

 「うん。私も一回だけ駅前で歌ってるの見たことあるよ。凄いお客さんの数だった」

 アイドル達が思い思いにトークをする中、渦中のさしわたと言えば、ひどく混乱していた。

 そもそも346に入った覚えはないし、家族や学校の了承もなしに世界を渡るなんて、それこそあり得ないだろうと思う。

 けれど、隣に立つ楓が、あまりにも嬉しそうだったから。

 「ふふ、楽しみですね」

 たった一言。

 それだけで、周囲の柵も、誰かの思惑も、どうでもいいと思える。

 「はいっ!一緒に、行きましょう!」

 夢を歌い、夢を届けるシンガーソングライター、さしわた。

 彼の夢には、果てなど存在しない。

 この世界中の誰よりも、彼は自由に歌う。

 気持ちも、感情も、夢も、希望も、時には挫折だって。

 彼にとっては思いを届ける為のパーツでしかない。

 その名が示す通り、さしわたは、夢を謳い続ける。

 

 

 

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