謳う者   作:百日紅 菫

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この話には暴力、性暴力の描写があります。
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恋を謳う

 1 

 

 一目惚れというやつを、初めて体感した。

 公園のベンチに座るその子は、少し汚れた紺色の制服を着ていて、真っ白な透き通る肌がとても目立っていた。冬の寒空にマフラーもコートも着ずにいるその子がやけに気になって、私は声をかけた。

 「あの…」

 「……」

 振り返ったその子は、ややウェーブのかかった黒髪と勝気な大きい瞳が特徴的で、控えめに言ってもアイドル並みに可愛いと思った。私が言うのも変な話だけれど。

 「高校生、だよね?もう遅いけど帰らなくて大丈夫?」

 「…関係ないでしょ」

 私の事を一瞥すると、すぐに視線を手元のスマホに落とす。ちらりと覗いたその画面にはメッセージアプリが開かれていて、時間やこの公園のことが書かれていてる。どうやら待ち合わせをしているようだった。

 彼氏さんとかかな、それなら自分が出る幕は無いな、なんて考えながら軽く謝罪を入れて公園を出る。

 それでも公園にいる子が気になって、公園を囲うフェンスを挟んで中を覗くと、その子の待ち合わせ相手が来たようだった。

 暗がりでよく見えないが、二人は少し話すと手をつないで公園を後にするようだった。その姿は普通の恋人のようで、私の取り越し苦労だったのだと少し安心した。

 二人が私の横を通り過ぎるまでは。

 「いやー、それにしてもこんなに可愛い子だとは思わなかったよ!ホテルでいいんだよね?」

 「はい。明日まで泊めてくれるならホテルでもおじさんの家でも」 

 「それじゃあおじさんの家にしちゃおうかな?」

 「それよりも、ちゃんとお小遣い下さいね?」

 「勿論だよ!君みたいに可愛い子だったら1万と言わずに2万でも3万でもあげちゃうね」

 反射的に、私はその子の腕を掴んで走り出した。

 恋人じゃなかった。さっき見たメッセージアプリも、見覚えが無かったのはそういうモノだったからだ。それに加えて、今手を掴んでいるこの子の手慣れた会話を聞くに、きっと今までもそういう事をしてきたのかもしれない。

 「えっ、ちょっ…!」

 「なっ、おい待て!」

 「いいから!走って!」

 この子が何処の誰かなんて知らない。そういう事をどういう気持ちでしているのかもわからない。

 けれど、未成年の子がするべきことではないし、それを見過ごす大人になりたくないと思うから、私は走っている。

 後ろから追いかけてくる気配がするが、ラクロスで鍛えた私と、手を繋いでいるとはいえ私のスピードに合わせられるこの子についてこれなくなったのか、いつの間にか追ってくる人影は消えていた。

 荒い息を吐きながら、私が所属している事務所近くで二人そろって膝に手をついて止まる。

 「はぁ、はぁ、大丈夫?」  

 「はぁっ、はぁっ、アンタ、何のつもり…?」

 「えっと、はぁ、さっきの人って、そういうサイトで会った人でしょう?」

 「それが何?」

 「何って、あなた未成年でしょう!」

 「アンタには関係ないでしょ」

 「関係ない、って…」

 確かにこの子とは何の関係もない。

 けれど、自分より幼い子が非行に走る瞬間を目撃して、そのまま無視するなんてことはできない。

 「てゆーか、アンタのせいで今日の宿が無くなっちゃったんだけど。どーしてくれんの?」

 「や、宿?お家に帰らないの?」 

 「……もういいや。また別の人探すか…」 

 そう言って私より少し背の低いこの子はスマホを取り出して、また夜の町へと向かっていく。

 きっともう一度、さっきのメッセージアプリのようなものを使って、見たこともない知らない人を捕まえるのだろう。

 さっきの会話から察するに、自分の体を対価にして。

 だから私は、引き留めた。

 見ず知らずの彼女を。

 身も心もボロボロにして、醜く足掻き、泥を啜り、その身を穢して、それでも強く生きようとする彼女を。

 「ねぇ、私の家に来ない?」

 

 

 

 

 2 

 

 「ただいまー」

 「…お邪魔します…」

 どうにか夜の街に溶け込んだ彼女を説得し、夜も更けた頃に私は彼女を連れて帰宅した。

 少し過保護な両親を持つ私の部屋はセキュリティも防災対策も万全な、ちょっとお高めのマンションだ。アイドルになる前は家賃のほとんどをお父さんが払っていたけど、アイドルになってからは自分で払うようにしている。そんな私の部屋にはそれなりの家電が揃っている。

 「とりあえず、お風呂に入っちゃって。その間に着替えと、貴女の制服洗っておくから」

 「え、いいよ別に。廊下で寝させてくれれば」

 「ダメだよ!ほら、お風呂沸いてるから」

 「うるさいなぁ…。てか今まで外にいたのに何で風呂出来てんの…」

 うちのお風呂はスマホで遠隔操作できる便利な代物です。

 それはともかく、ぶつくさ言いながらも脱衣所に入っていく彼女を見送って、私も自室に入る。私の服だと少し大きいかもしれないけれど、パジャマだし大丈夫だろう。

 私も部屋着に着替えて、彼女の制服を洗濯機に入れに脱衣所へと入る。幸い、明日は土曜日だし、私も仕事は休みだ。大学に少しだけ用事があるけれど、それも一時間で済むだろう。

 けれど、明日の予定を決めるより先に、彼女に聞かなければいけないことがたくさんある。

 「この制服も、汚れてるだけじゃないみたいだし…」

 少し匂うのは、きっと男の人のアレだろう。正直触りたくないけれど、洗濯してしまえば問題ない筈。ちなみにうちの洗濯機は新しいだけあって、制服でも型崩れさせることなく洗える優れものだ。

 脱衣所には着替えの下着とパジャマを置いて、今度はキッチンに入る。

 晩御飯を今から作るには遅いし、昨日の残りの肉じゃががあるからそれで我慢してもらおう。

 ご飯を炊いて、おかずを温めなおしているとリビングの扉が開き、私のパジャマを着た彼女が入ってきた。 

 「…お風呂、ありがと」

 セミロングの黒髪をいじりながら頬を赤くする彼女は、女の私でさえキュンとしてしまうような可愛さをしていた。

 「う、ううん。温まった?」

 「うん…」

 「よかった。それじゃあ、遅いけどご飯にしよっか。晩御飯、まだ食べてないよね?」

 「う、うん。でも私、アンタにできることなんて無いよ?」

 「お返しが欲しくてやってるわけじゃないから。でも、聞きたいことはあるから、それには答えてくれる?」

 「…別にいいよ」

 「うん!それじゃ食べよっか」

 楽しい食卓とはいかないけれど、それでも誰かと食べるご飯は美味しい。

 黙々と食べ続けること十分。テーブルの上にあったお皿の中身はきれいさっぱり消えていた。しかし、見た目通りというかなんというか、目の前の彼女はかなりの小食だった。おかずも少し手を付けた程度で、肉じゃがなんかはお芋とお肉とニンジンを一個ずつ食べて終わりにしてしまっていた。

 兎にも角にも食事を終えて、彼女に手伝ってもらいつつ食器を片し、私もお風呂に入ったところで、ようやく本題に入ることができる。

 「とりあえず自己紹介から始めよっか。私は新田美波。貴女の名前は?」

 込み入った事情がありそうな彼女の事だ、少し遠い話題から入ったほうがいいだろうと思い、名前から始まり学校や趣味、私がアイドルをしていることなんかを話していく。

 こうして話してみれば、最近の高校生と変わらない少女で、何となく渋谷凛ちゃんや速水奏ちゃんのような大人びた高校生という印象を受けた。学校では友達がいないそうだが、勉強はかなりできる方らしく、進路は私が通っている大学を目指しているらしい。

 しかし、私の遠まわしな会話に苛立ったのか、彼女はこう聞いてきた。

 「私が体売ってる理由が知りたいんじゃないの?」

 その質問に、私は首肯した。

 そうして語られる彼女の事情は、私の住む世界とはかけ離れたものだった。

 「まぁ、ただお金が必要ってだけなんだけどね。親と仲悪いから家にも帰りたくないし、だからお金もくれて家とかホテルを奢ってくれる人に、対価として体を差し出してるってだけ」

 「だけ、って…。いくら仲が悪いって言っても、ご両親が心配するんじゃ…」

 「するわけないよ。あの人達、私と血ぃ繋がってないし」

 彼女が言うには。

 現在のご両親は両方とも血がつながっていないそうだ。数えるのも億劫になるほどに両親の結婚と離婚を繰り返し見て、体験してきた彼女にわかるのは、今の両親とは血がつながっていなくて、その二人にとって彼女はいないほうが嬉しいものであるということ。

 だから、なるべく両親と会わず、迷惑もかけないように、自分の体を引き換えにして宿やお金を稼いでいるらしい。

 「で、でも、お金を稼ぐなら他のアルバイトとかあるじゃない?」

 「体売る方が高いから。今日はアンタのせいで収入なしだけど」

 「それは…ううん、やっぱりダメだよ」

 「ダメって。泊めてくれたり、食べさせてくれたりしたことには感謝してるけど、アンタにそんなこと言われる筋合い無いんだけど」

 彼女は何でもないことのように語るけど、私は一度見ている。

 数時間前、見知らぬ男の隣を歩いていた彼女がしていた、諦観と絶望の瞳を。そして、仄暗い瞳の奥に見えた、微かでも確かな輝きを。

 「確かに私が貴女に何かを言う筋合いは無いよ。でも」

 目の前の彼女は、今の自分に絶望してる。けど、未来には決して絶望していない。

 いつか今の自分が報われることを信じているんだ。

 だったら今、その手助けをするくらいしてもいいんじゃないだろうか。

 「貴女は今、辛くないの?」

 その言葉に、彼女は激昂した。

 「アンタに何が分かんのよ!こんな部屋に住まわせてくれるような家族がいて、アイドルなんて綺麗な仕事をしてるアンタに!選ぶ前から汚れてる事がどんなに惨めか知らないくせに!」

 木製のテーブルを叩いて立ち上がった彼女は、大きな瞳を見開いて、今にも泣きそうな顔をしていた。

 でもそれは、彼女の心の叫びでもあったように思う。

 私と彼女は違う。

 彼女から見れば私は恵まれた人間で、それは間違いじゃない。私が彼女の立場になっていれば、すでに心が折れていただろう。

 だからこそ、私は許せない。

 「うん。だからさ、教えてくれないかな、貴女の事」

 「…は?」

 懸命に生きているこの子の今が、こんなにも辛いものであるという事実が。

 「私と貴女が知り合ったのってついさっきの事じゃない?だから、教えてほしいな。貴女の今までの事」

 「なんで、アンタにそんなこと…」

 けれどそれも建前なのかもしれない。

 「私もさ、アイドルにスカウトされるまでやりたいことってなかったんだよ。でも、プロデューサーにスカウトされて、アイドルをやってみて、見える世界が変わったの。だから、貴女にとって私がそういう存在になれないかな?今までの事は変えられないけど、これからの貴方の人生で、貴女の支えになれる様な存在に」

 「い、いや、だから、私の問題はそういう事じゃなくて…」

 「大丈夫だよ。私こう見えても結構稼いでるから、一人くらい同居人が増えても」

 「え、いや、私、汚いし…」

 「汚くないよ。ほら」

 そう言って彼女の隣に回って抱きしめようとすると、彼女は椅子から転げ落ちるように逃げた。

 それを追うように近づくと、彼女はまた怯えたように逃げる。ようやく壁まで追いつめ、彼女の肩に手を触れた瞬間、先ほどの怒鳴り声とは比べ物にならない程の悲鳴を上げた。

 「さ、触らないで!」

 すると彼女は、打って変わったように震え始め、自分の体を抱きしめた。

 「どう、したの…?」

 震えながら、彼女は泣いていた。

 たった数時間しか経っていないからか、否、たった数時間だからこそ、短い時間でこんなにも印象が変化していく彼女の事を、私は掴めきれずにいた。

 最初は自分が汚れることをどうとも思っていない子だと思った。

 けれど、自立するために今の自分が汚れることを厭わない子だと感じた。

 でも、他人に体を差し出す彼女が、私に対しては触れられることすら嫌がるとは思いもしなかった。

 その理由は、彼女が嗚咽交じりに話してくれた、彼女の本当の悲惨な過去を知ることで理解した。

 彼女にとって三人目の父親は、彼女の二番目の母親と結婚した。それが、彼女が中学一年生の時のことだ。

 その男は、彼女の父親たちの中でも特に粗暴で、たびたび彼女と母親に手を上げることもあったそう。けれど、彼女にとっての本当の悲劇は、彼女に中学生離れした可愛らしさがあったことだ。

 この時点ですでに彼女の両親はどちらとも血がつながっておらず、さらに言うなら自分の子供という認識すらなかっただろう。

 だからこそ、その事件は起こってしまった。

 「うっ…ひぐっ……、あいつに、お、襲われて…」

 中学一年生の夏。血のつながりが無いとはいえ実の父親に、彼女は純潔を散らされた。

 「それからも、うぅ…何回か、犯されて、っ」

 彼女の、自分は汚れているという言葉。その過去が自分を縛り、それを惨めと思いながら生きる辛さ。それでも自分の未来を掴むために、その汚れを再び受け入れる覚悟。

 気づけば私は、彼女を抱きしめていた。

 「あ、だ、ダメっ!」

 彼女の私に対する高圧的な態度は、私に汚れてほしくないという優しさの表れだ。彼女が本当にお金の為だけに動いているのなら、こんなことにはなっていない。今思えば、お風呂に入るのを渋ったのも、廊下で寝させてくれればいいと言っていたのも、わたしがお風呂に入っている間に部屋の中を動いた様子が無いことも、私の部屋を、自分が動くことで汚したくないからだろう。

 「ダメじゃない」

 「ダメだよ!触らないで!あ、貴女まで、汚れちゃう…」

 「大丈夫だよ。大丈夫」

 「ダメ、だってば!」

 私を突き飛ばして後ずさる彼女を、私は押し倒した。

 「やめて…」

 仰向けになって倒れる彼女の上に覆いかぶさる。床に広がる彼女の綺麗な黒髪と、大きめのパジャマ故に零れる白い肌、お風呂上りの優しくもどこか誘惑するような香りが私を襲う。

 この子のどこが穢れているというのか。

 彼女の過去において、彼女の非が一切なかったとは言い切れない。私は当事者じゃなく、彼女を襲った人とは性別が違う。だから、その人にとって彼女がどう見えていたのか想像もつかない。

 きっと彼女はこれからもその過去に縛られて生きていく。

 それを知って、見知らぬふりをして生きていくなんて、私にはできない。

 だから私は、彼女にキスをした。

 「……んぅ!?」

 数センチも無い距離で目を見開く彼女を他所に、押し返そうとする彼女の腕を完全に抑えつけて、唇を押し付け続ける。その間も抵抗しようとする彼女だったが、だんだんと大人しくなり、遂にはくったりと力が抜けてしまったようだ。

 「ん、はぁ……」

 唇を離し、私と彼女を繋ぐ銀の糸を指で切る。

 そこでふと、私何してるんだろうと頭の片隅で考え始め、自分が抑え込んでいる彼女を見ると、お風呂上りでも見なかった程に頬を赤くし、目を回して気絶していた。

 どうにか冷静になった頭で状況を理解して、私が発した言葉は。

 「あっ」

 だけだった。

 

 

 

 

 3

 

 非難する視線がこうも痛いものとは知らなかった。背中を伝う汗が嫌に冷たく、罪悪感だけが膨らんでいく。

 「ミナミは」

 先頭で話を聞いていたアーニャちゃんが、眉尻を下げた純粋な瞳で見つめてくる。

 大変ですね、とか、私にできることはありますか、とか。心優しい彼女から、そんな優しい言葉が出るのを期待した私は、ようやく認めきれなかった自分の失態を悟った。

 「女の子が好きな人、ですか?」

 「くはっ…!」

 いや、わかってはいるんです。

 いくら彼女が私に触れても問題ないことを証明するためとはいえ、き、キスをする必要は無かったってことくらい。でもあの時は、流れというか、雰囲気でついしちゃったと言うか、私も初めてだったのにそうするのが必然に感じたと言うか。

 「うぅ…」

 「ま、まぁまぁ、外国じゃキス位挨拶って言うしさ」

 「それは頬にだよぅ」

 「そ、それで、その子は今どうしてるんですか?」

 一緒に話を聞いてくれていた李衣菜ちゃんと卯月ちゃんが話を反らしてくれる。

 私は今、シンデレラプロジェクトの皆とともに、旧プロジェクトルームにいた。今度のライブで、この13人とまた一緒にステージに立つからだ。明確に解散したわけじゃないが、全員が同時に同じ舞台に立つ機会が減ったことを多くのファンに指摘されたために、的確な言葉ではないが、短期復活ライブをするのだ。

 「まだ私の家にいるよ。昨日はお休みだったからどうにか説得して、着替えとか持ってきてもらって、当分は私の家にいると思う」

 「ふーん。一応、その子の親には話したの?」

 「うん。彼女の携帯を借りてね。電話して、何日か家に泊めますって言ったんだけど…」

 「だけど?」

 「その、別に帰ってこなくてもいい、って言われちゃって」

 「なっ、なにそれ!?」

 みくちゃんのセリフは、昨日の私が言ったものとまったく同じだった。

 彼女の言う通り、彼女の親は自分の子供だと思ってすらいない。むしろいないほうがいいと考えている。

 最早私の頭の中に、彼女をどうやって説得してお家に帰すかなんて考えは無かった。あるのはただ、どうやって彼女を養うか。

 「とにかく、彼女との生活が落ち着くまでは、居残りのレッスンとかが出来なくなるかもしれないから、先に事情だけ知ってほしかったの」

 「それは分かったけど、本当に大丈夫?その子、今までは知らない男の人の家に泊まってたんでしょ?その人たちが美波の家に来たりとかさ」

 凛ちゃんの心配はもっともだ。

 うちのマンションのセキュリティがいかに高いと言っても、中にいる彼女が鍵を開けてしまえば何の意味も無い。しかし、彼女の携帯を見る限り、連絡先を登録しているのは両親と学校くらいで、今まで会っていた人たちの連絡先は無かった。恐らく、アプリか何かで連絡を取っているのだろう。そのアプリも、昨日のご両親への電話の後に消させたので、今まであっていた人たちに彼女が連絡を取ることはできないだろう。

 そして何より、彼女がそういう事をしないという漠然とした、けれど心の奥で確信している理由がある。

 「それは大丈夫なんだけど、ちょっと困ったことがあってね…」

 「?それ以上に困ることなんてあるのぉ?」

 「うーん、今日私の家に来れる人っている?」

 その言葉に手を上げたのは、杏ちゃん以外の皆だった。きらりちゃんに無理やり連れてこられてはいたけれど。

 レッスンを終えて汗を流した私たちは、皆揃って私の家へと歩き始めた。

 事務所から私の家までは歩いて十数分くらいなので、適当な雑談をしているうちに到着した。鍵とナンバーロックを解除して自動扉を潜り抜け、階段を上る。私の部屋は4階にあるが、流石に14人もの人数でエレベーターに乗ると狭いし、途中で誰かが乗ってきたときに迷惑になるので、頑張って歩いてもらう。

 そうして到着した私の部屋の前で、私は深呼吸をした。

 「…自分の部屋、なんだよね?」

 「う、うん。そうなんだけど、つい…」

 兎にも角にも部屋に入らなければ意味が無い。

 扉を開けて、ただいまと声を掛ける。すると、部屋の奥からバタバタと音がしたと思うと、一人の美少女が飛び出してきた。

 ウェーブのかかった黒い髪と、太ももが眩しい短パンに少し大きめの真っ白なもこもことしたパーカーを着た彼女だ。初めて会った時とは真逆の優しい笑みと、紅くした頬がその可愛さをさらに増す要因になっている。

 彼女は私の前に来ると、両手の指を胸の前でくっつけて照れながらこう言った。

 「おかえりなさいっ、美波さん…」

 「た、ただいま」

 動揺しながらも、自然な笑みを浮かべる。浮かべるように努めてはいるが、どう見ても頬が引き攣っている様な気がする。

 「ね、貴女に会わせたい人を連れてきたんだけど、いいかな?」 

 「私に?美波さんの紹介なら誰でも会いますけど…」

 言い淀む彼女は、やはりまだ自分が汚れていると思い込んでいる。そして、そのことを気にしている。

 だからこそ、私は彼女達を会わせたいのだ。

 その思惑を感じ取ったのか、いや、彼女の場合は本能とか天然とかそういうものだと思うけれど。とにかく、私が紹介するよりも先に、彼女の前に出てきた。

 「ドーヴライディエン、アー、こんにちは、アナスタシアです。アーニャと、呼んでください」

 「え、あ、え?外国人?」

 「ロシア人と日本人のハーフです。よろしくお願いします」

 「あ…」

 差し出されたアーニャちゃんの真っ白な手を見て、彼女は硬直する。

 胸の前で行き場を失くした小さな手が、猫の手のように丸まっていく。心なしか顔色も青白くなって、声にならない空気が薄い唇から零れていく。

 彼女が右足を一歩、後ろに下げるのと同時に、アーニャちゃんは動いていた。

 「小さくて暖かい、可愛い手、ですね」

 真っ白なその手で、彼女の手を包み込む。

 その行為を、彼女がどれだけ望んでいたことか。

 私はきっかけに過ぎないんだ。彼女が享受する筈だった幸せは、これから今までの苦労に見合うだけ返っていく。

 一人きりで頑張り続けてきた彼女にまず必要なのは、彼女が信頼できる相手だ。

 「あ、や、あの…ありがとう、ございます……」

 「照れてますか?」

 「え、あの、はいぃ…美波さぁん…」

 「あはは。とりあえず、皆で中に入ってから自己紹介しよっか」

 彼女にとって、ある意味人生の分岐点にもなる女子会が始まろうとしていた。

 

 

 

 

 4

 

 結果から言えば、今回の女子会は大成功だった。

 全員の自己紹介から始まり、彼女の経歴に皆が怒りを露わにし、半日を通してどうにかこうにか彼女が皆と触れ合える程度には仲が深まった。

 中でもアーニャちゃんと杏ちゃんは彼女と意気投合していた。アーニャちゃんは気を使いつつも彼女から話を聞き出していたし、杏ちゃんに至ってはお互いの知識面で同調するところがあったのか、大学生顔負けの話を繰り広げていた。その杏ちゃんにつきっきりのきらりちゃんとも話したりと、最終的には全員と話していたけれど。

 「どうだった?」

 「どう、って…。皆良い人でしたけど」

 「ん~」

 ドリップしたコーヒーをマグカップに注ぎながら、キッチンに立つ彼女が間の抜けた顔で返事をする。

 リビングダイニングを隔てるように置かれたソファに座り、背もたれに上半身を肘を置きながら彼女を見ている私は、彼女の姿を見て言い淀む。

 二つの桜の花の意匠が施されたシンプルなデザインのエプロンに、アップにして白いうなじが眩しい髪型。軽く捲った袖と両手に持ったマグカップ。

 新婚、という言葉が頭に浮かぶ。

 「…?」

 不思議そうに首を傾げる彼女に、はっと我に返る。

 「あ、えっと、仲良くなれそう?杏ちゃんと色々話してたみたいだけど」

 「はい、双葉さんってかなり頭が良いみたいで、知識も幅広いですし」

 「あー、確かに」

 ありがとう、と言ってマグカップを受け取る。ミルクの混じった優しい黒を、息で軽く冷ましてから口に含む。コーヒー特有の苦みと、それを包み込んでくれる甘いミルクが口の中に広がる。

 「美味しい…」

 「ふふ、ありがとうございます」

 口元に手を当てて、ほわっと笑う彼女。

 絵になるとか、もはやそういうレベルじゃない。この絵画のようなワンシーンを醸し出している彼女を、一体誰が三日前まで非行に走っていたと思うだろうか。それどころか女子高生というのも信じがたい。美し過ぎる新妻なんて呼ばれてご近所の有名人になることすら簡単に想像できる。

 そして何より、そんな彼女とこれからも暮らしていく私の心臓がもたない。

 「そ、そういえば、会った時と大分雰囲気変わったよね」

 「ああ、そうですね…。学校では私の噂を知った人達から煙たがられていますし、会った人たちや家の人は言わずもがな。人間不信になっていたんだと思います」

 遠い眼をしながら語る彼女は、どこまでも自分を客観視していた。

 「でも、美波さんが、その…キス…してくれたから…」

 「うぐっ!」

 唐突に心の傷を抉られて噴き出す私。少し散ってしまったコーヒーを、彼女がティッシュで拭いてくれる。

 ゴホゴホとせき込みながらマグカップをテーブルに置く。一気に熱くなった顔を冷ますように頬に手を当てて、彼女から少しだけ距離をとる。

 「あ、あれは、なんというか、その、ごめん!」

 そして、頭を下げる。

 よく考えれば、当日は彼女が気絶し、翌日は彼女がこの家に住む準備で忙しく、ちゃんと謝っていなかった。いくらそういう事をしていたとはいえ、同性にされるのはまた違うだろうし、もしかしたら嫌すぎて気絶したのかもしれない。もしそうだったら少しショックだけれど、セクハラと言われればそれまでだ。

 「いえ!嫌だったわけじゃないんです」

 けれど彼女は、照れくさそうに頬を掻きながら言った。

 「むしろ、その、嬉しくて…。同じ性別の人にされるのは初めてで、私の事を受け入れてくれたみたいで。だから私、美波さんには感謝してるんです!生まれて初めて、私の事を考えてくれた人ですから」

 「…っ」

 思わず視界が潤む。

 親が変わり、家族が変わり、周囲の見る目も変わっていく。それが敬愛や友愛なら何ら問題は無いが、侮蔑や軽視になっていくことがどれだけ怖いことか。人を信じられなくなって、自分を穢されて、自分で自分のことを大事にできなくなって。

 その彼女を思う初めての人になれたことが、どれだけ嬉しいことか。

 会ったその日から、私は彼女に感情移入しすぎなんだと思う。

 その理由はわかっている。

 「それで、ですね…」

 指で目じりにたまった涙を拭きとり、正面から彼女に向き合うと、カーペットの上に女の子座りで座る彼女が意を決したような表情で顔を上げた。

 「わ、私、美波さんのことを好きになっちゃいました!」

 早口で紡がれた言葉は、昨日から私が恐れていた言葉で。

 なんとなく彼女の雰囲気からそれを察していた私が、その言葉を恐れていたのは、断ることができないだろうとわかっていたから。

 潤んだ瞳で真っすぐに見つめる彼女は、どこか期待と怯えを含んでいる。

 私が彼女に感情移入しているのは。彼女の告白を断ることができないと思うのは。

 彼女と出会ったその時から、私が彼女に惚れていたからだった。

 

 

 

 5

 

 「どうしよう……!」

 どうしようどうしようどうしようどうしよう。

 彼女の告白は嬉しいどころか、もし私が男の子だったらその場で、二つ返事でオッケーを出している。

 けれど、私も彼女も女の子で、彼女は家庭環境が複雑なうえに、私はアイドルだ。別に346事務所のアイドルに恋愛禁止といったようなルールも暗黙の了解もないし、なんなら美嘉ちゃんや美優さんはアシスタントさんたちと付き合っている、と思うし。

 さらに言うなら、今は特定の地域なら同性婚も認められている。向こうの家庭環境だって、今のようにこれからも同棲して関わらないようにすれば何の問題も無い。いざとなれば、そこそこ裕福なうちの家に逃げることだってできる。まぁ、付き合ったとして、私の家族が彼女を認めるかどうかは分からないが、私が強く言えばどうにかなるはず。

 そうなると、もはや問題は私の気持ちだけで、なんならそれも、一目惚れという形で解決している。

 これだけ条件がそろっていても尚、私は彼女に応えることができない。

 「……どう、したの?」

 「大丈夫です?」

 「どうしよぉ、美嘉ちゃぁん…」

 346カフェにて、妙齢のダンディな店長の淹れたコーヒーをカウンターに置いて突っ伏している私に話しかけてくれたのは、レッスンの合間に休憩に来た城ヶ崎美嘉ちゃんとその幼馴染であるアシスタントさんだ。

 「おお?よしよし、珍しいね」

 「新田さんは皆のお姉さんって感じだったからね。何かあったんですか?」

 美嘉ちゃんに泣きついた私を、二人が慰めつつ話を聞いてくれる。

 昨日彼女に好きだと告白された事。多少の問題はあれど、あとは気持ち次第であること。そして、私自身が彼女を好きであること。

 「なんか、大変なことになってるんだね…」

 「そうか?」

 一緒に悩んでくれそうな素振りを見せる美嘉ちゃんの隣で、アシスタントさんがなんて事の無いように声を上げた。

 「いや、そうでしょ。気持ちに問題がなくたって、お互いの家族とか周りの目とかもあるだろうし」

 「いやいや、問題は家族くらいだし、向こうの家族はほぼ放任状態なんですよね?だったら納得させるのは新田さんの家族だけでいいし、周りの目だって本人の口から言わなければ友達なりルームメイトなり、それこそ姉妹とかでも通ると思う。結婚するなら多少の不便はあるかもだけど、その程度でしょう」

 「それが大問題なんじゃん」

 「そうか?別に男と女が結婚するのだって色んな手続きが必要だし、こと不便さだけに重点を置くなら、男女で結婚するのも同性で結婚するのも同じだと思うけど」

 「そう、かな…?」

 「まぁ周りの目だけは本人の主観になるから何とも言えないけど…」

 高卒で就職した割には、大学生の私以上に物知りなアシスタントさんはそう助言してくれる。

 というよりも、いつの間にか論点が私と彼女が結婚する際の問題点になっている。

 結婚、か。

 仕事を終えて帰れば、昨日のようにエプロン姿の彼女が夕食を用意して、おかえりなさいと微笑んでくれる。二人でゆっくりとリビングでくつろぎ、お風呂で温まったら同じベッドで並んで眠る。休日には二人で手をつないでお出かけしたりして、と。

 頭の中で広がる幸せな結婚生活を振りきる。

 「てゆーか、美波ちゃんの気持ちが問題ないなら何に悩んでるの?」 

 そう。気持ちも、環境も、障害となるべき問題が私と彼女の間には存在しない。

 それでもなお、私が彼女の気持ちに応えられないのは。

 「…彼女の好きという気持ちは、私だから、じゃないと思うの」

 彼女にとって初めて彼女の事を心配して、考えて、認めた人が偶々私だった。だから彼女は私を好きになった。

 もしそうなら、きっと彼女の相手は私じゃなくてもいい筈だ。

 それこそ、あの場にいたのが私じゃなくても、例えばそれがアーニャちゃんでも、プロデューサーでも、どこかの知らない誰かでも、彼女に好かれるチャンスはあったのだ。

 家族の愛を知らず、穢れと恥辱を受け入れて、尚自分の未来のために努力し続ける、健気で強い彼女の初めての愛を受ける権利は、誰にでもあった。

 今の彼女の気持ちは、一過性のもので、言うなれば風邪のようなものだと思う。

 初めて自分を肯定してくれたから。

 自分を汚れていると知っても抱擁してくれたから。

 愛の無い両親に代わって、愛してくれそうだから。

 彼女が私を慕ってくれる理由はそんなところだろう。

 そして、そのどれもが、私じゃなくてもできたことだ。

 彼女は愛を知らない。私が彼女に当然の事のようにしてきたことを、他の誰もができることだということを知らない。

 「うん…やっぱり、優先すべきは彼女の気持ちだし、ちゃんと説得しよう」

 私が彼女を好きであることよりも、彼女が本当の愛や恋を探せる時間を得ることの方が大事だ。

 「話を聞いてくれてありがとう。また明日!」

 「え、ちょっ…!」

 「新田さーん…」

 二人をカフェに残して、私は意気揚々と事務所を出た。

 だから、私は知らない。

 残された幼馴染カップルの二人が顔を見合わせて溜息を吐いたことを。

 けれど、そんなことは些細なことで、この時すでにそれは起こっていた。

 私はその可能性にたどり着いて然るべきだったのだ。

 彼女を受け入れて、彼女の今までの経緯を聞いて、彼女が私と暮らすメリットだけに目を向けて、その可能性を考えることもしなかった。

 アイドルとして、事務所の人たちや関係者に守られて、彼女に忍び寄る危険性を想像することもしなかった。

 私の家なら大丈夫だと高を括っていたのだ。

 その日、彼女は帰ってこなかった。

 

 

 

 

 6

 

 夜中の12時。

 翌日に仕事を控え、いつもなら就寝している時間にもかかわらず、私はダイニングに座っていた。テレビも付けず、ただ玄関と繋がる廊下を遮る扉だけに注意して、彼女の帰りを待っていた。

 しん、と静まり返る部屋の中で、一つの音も聞き逃さないように集中する。

 帰ってきたときにはすでに彼女の姿は無く、彼女のスマホは寝室の枕の下に隠すように置いてあった。私の家に来てからも欠かすことなく行っていた勉強道具は机の端に寄せられ、急いで外出したようにも見える。

 「どこ行っちゃったんだろう…」

 ぽつり。

 零れた言葉に反応するように、玄関の方からがちゃりと鍵を開ける音が聞こえた。

 「っ!」

 弾かれたように立ち上がり、バタバタと足音を立てながら玄関へと向かう。 

 こんな時間まで何をしていたのか。どこにいたのか。せめてスマホを持って行って連絡をしてくれ、と。説教をして、抱きしめて寝てやる。

 そんなことを思いつつ、防犯のために掛けておいたチェーンロックを外そうと扉に近づくと、聞きなれない声が聞こえた。

 「…やっぱマズくねぇか…?」

 「…バレなきゃ問題ねぇって。あの女に加えて、あの新田美波とヤれるんだぜ。アイドルなんてヤってる動画の一つでもありゃ脅していくらでも口封じできるって」

 私は目を見開いて、動揺しながらもチェーンロックの確認をし、音を立てないように静かに、ゆっくりとリビングへと戻った。

 廊下を遮る扉を閉めると、急いでスマホを取ってリビングの電気を消し、ベランダへと逃げ込んだ。冬の夜は極寒で、何故ベランダに出たのかと聞かれれば、無意識の防衛反応だったのだと思う。

 震える手でスマホを操作し、親しいプロデューサーへと電話を掛ける。この時の私には、夜中に迷惑をかけるとか、プロデューサーが起きているかなんてことは微塵も頭になかった。

 ただ、自分の家に不審者が侵入しようとしている。それも、私の体を目当てに。

 その恐怖に駆られて、無心でスマホを耳に当てていた。

 数回のコール音の後、やや眠たげなプロデューサーの声を聞いた私は、とにかく現状を伝えようと口を動かした。

 「ぷ、プロデューサー!今、うちに不審者が来ていてっ、あの子もいなくて、きっとあの人たちに連れていかれたんだと思うんですけど…!」

 「に、新田?とりあえず落ち着け」

 プロデューサーの落ち着きのある声につられて、焦っていた心が少しだけ落ち着いた。

 「今、お前の家に不審者が来てるんだな?」

 「は、はい」

 「他に今来ている奴らの事でわかることはあるか?というか、まだ家には入られてないのか?」

 「あの子の鍵を使って部屋の鍵は開けられて、でもチェーンロックをしてるからまだ家には入られていません。あと、聞こえた声は二人分で、二人とも男でした…!」

 「新田は今どこにいるんだ?」

 「ベランダの鉢植えの陰に隠れてます」

 「……わかった。とりあえず事務所と警察に連絡して、すぐに向かわせる。途中でチーフアシと合流して俺もすぐに向かうから、そこに隠れてろ。危ないと判断したら、ベランダの仕切り版を壊して隣の部屋にすぐにでも逃げろ。あと、何かあればすぐに俺に連絡してくれ。後はお前と合流してからにしよう」

 「わ、分かりましたっ…!」

 ツーツーと通話の切れたスマホを両手で握りしめて、薄く開いた窓の方へと集中する。

 チェーンロックを外せずに手こずっているのか、まだ家の中には入っていないようだ。そこでようやく、私は現状を把握するだけの余裕が出てきた。

 プロデューサーの家は割と近くで、確か歩いて20分くらいだったはず。そこから急いで来てくれるとなれば、遅くても15分以内には来てくれるだろう。もしくは、通報してくれた警察が先に来るかもしれない。

 しかし、明らかにファンではなさそうな話をしていた彼らは、どうやって私の家に来たのか。

 その答えを、私は手の中に持っていた。

 自分のスマホを持つ手と逆の手に握られた、彼女のスマホ。

 少し古い型の彼女のスマホに、私は適当なメッセージを送る。すぐに彼女のスマホの画面にメッセージが届き、『アプリを開く』というボタンが表示された。一瞬だけ迷うも、すぐにそのボタンを押してメッセージアプリを開いた。

 この古いタイプのスマホは、こうしてロックがかかっていても裏技的な方法でロックをスルーすることができる。 

 申し訳ない気持ちを抑えつつ、スマホを操作しメッセージアプリやメールボックス、とにかく誰かと連絡した形跡を探す。

 そしてそれは、すぐに見つかった。

 「なに、これ」

 それは、脅迫文だった。自ら体を差し出せと。同居している私のことも騙して差し出せと。

 通話履歴も今日だけで二十回を超えていて、彼女の抵抗の痕が見られる。

 けれど、何より私が慄いたのは、その相手だった。

 寒くて、指先は震え、吐く息は白く、それでも頬を伝う冷や汗が私の驚きを如実に表してくれる。

 「お前ら!そこで何してる!」

 「くっそ!お前が手こずるから!」

 「うるせぇ!早く逃げるぞ!」 

 「…っ」

 遠くから聞こえる怒鳴り声に反応して体が跳ね、窓の隙間に耳を当てる。

 さっき聞こえた声は、間違いなくプロデューサーのものだった。十分も経っていないが、それほど急いで来てくれたということだろう。

 静かに部屋に戻り、最大限の注意を払いながら玄関へと向かう。外からは言い争う声が聞こえていて、けれど何かがぶつかるような音、端的に言えば暴力的な音は一切聞こえない。

 チェーンロックの隙間から廊下を覗いてみれば、二人の男性をジャージを着た眼鏡の男性が床に抑え込んでいて、それを後ろからスーツ姿の男性がスマホを耳に当てながら見ていた。立っている後ろ姿は見たことがある人で、振り返ったその顔は私が助けを求めたプロデューサーだった。

 プロデューサーは私の顔を確認するなり通話を急いで終わらせて近寄ってきてくれた。

 「大丈夫か?」

 「は、はい」

 「多分あの二人だけだと思うけど、とりあえず警察が来るまではロックかけて部屋に入っていなさい」

 「あ、あの!」

 優しく安心させてくれる声にそのまま従いそうになるけれど、左手に持つスマホの存在が彼女の危機を伝えろと、教えてくれた。

 「あの子が、いないんですっ!脅迫されて、私が行かないとあの子がっ!」

 「電話でも言ってたな。でも、もうすぐ警察が来てくれる。その子もだいじょう…」

 ぶ。

 その言葉を聞くよりも先に叫ぶ。

 「時間が無いんです!私が行かないと!」

 あの子を脅している人は、私を求めている。

 そして、ここに来た人たちを捕まえてしまったということは、私が脅した犯人の元へと行かないという事。その事実に、こんなことをする人が我慢できるとは到底思えない。ならばその鬱憤はどこへ向かうのか。間違いなく、その矛先は彼女へと向かうのだろう。

 それはダメだ。それだけは。

 ようやく闇の中から抜け出せそうな彼女を、再び闇の中へと戻してしまうことになる。 

 それも、最悪の闇に。

 「…しょうがない。チーフ、そいつらと警察の対応は任せていいか?」

 私の必死の形相を見て何かを察したのか、連れて来てくれたチーフアシスタントさんに声をかける。

 「はい、大丈夫です。そちらにも後から警察を向かわせます」

 「有能すぎて助かるよ。それで、その子はどこに?」

 顔だけをこちらに向けて、頼もし過ぎる言葉で答えてくれるチーフさん。

 兎にも角にも、私はチェーンロックを外して外に出る。外出した時の恰好でいたのが幸いした。

 家の鍵を色んな意味で信頼できるチーフに預けて、プロデューサーを先導する。

 

 向かう場所は。

 

 「あの子の家に」

 

 彼女を脅している相手は、今の彼女の父親だった。

 

 

 

 

 7

 

 街灯の灯りと月の光だけが照らす夜道をひた走る。

 彼女の家は私の家の最寄り駅の隣駅。だけど、終電はとうに過ぎ、プロデューサーも車を持っていないので、とにかく走って彼女の家に向かう。

 「はぁ、はぁ…いつから、その子と一緒に住んでたんだ?」

 「一昨日から、です」

 「そうか…」

 後ろで息を吐きながら、スーツのジャケットを脱いでいる。ワイシャツのボタンを一個だけ外し、ネクタイも緩めた。

 「……次からは、ちゃんと言ってくれよ」

 「!」

 あの子の事はプロデューサーには黙っていた。

 本来なら、身分もわからない子を、たとえそれが女の子であったとしても自宅に住まわせるのなら事務所に報告すべきだ。

 それでも私は黙っていた。

 ただそれは、決してプロデューサーを信用していないからとか、そんな理由じゃない。

 きっと彼女の事を言えば、プロデューサーないしアシスタントの誰かが彼女の素性を探るか、そこまでしなくても彼女の顔を見に来るくらいはするだろう。男性に対して情緒不安定な彼女に、たとえ信頼しているとはいえ男性と会わせるわけにはいかなかったのだ。唯一の女性アシスタントである千川ちひろさんは、彼女を私の家に迎えいれた前日から長期休暇に行ってしまっている。

 だからこそ、会わせることができない理由を語るより、最初から黙っていようと思った。

 理由を言ってしまえば、この事態を理由に彼女と引き離されると思ったから。

 「怒って、ないんですか?」

 「怒ってるさ。けど、それ以上に自分の不甲斐なさに嘆いてるよ。そりゃあ、素性もわからない子を居候させてるってわかれば、多少は調べる。でもさ、その調べるってのは身辺調査をするだけじゃないんだよ。新田が言ってくれれば、俺たちはそれを信じる。会わせられない理由があるなら、新田が伝えてくれたことを俺たちは信じるんだ。アイドルの安全は絶対だ。だけど、アイドルのことを信じることも、俺たちにとっては絶対なんだよ。でも、それを伝えられていなかったことが、俺は悔しい」

 「そんな…!私は信じてます!皆も、プロデューサーやアシスタントさんたちのことを信じてますよ!」

 「それはわかってる。けど、言葉だけを頭っから信じるとは思わないだろ?」 

 それは、そうだけど。

 「まぁ人としてそれは正しいことだけどさ、俺たちは新田がリスク計算もできないような奴だとは思ってないから。とりあえず今は、それだけ覚えていてくれよ。それ以上の信頼は、これから得ていくからさ」

 そう言ってプロデューサーは歩き出した。

 私はプロデューサーを信じ切れていなかったのか。

 いや、普通は人の言葉を何の根拠もなく信じるなんてできないだろう。それでもプロデューサーは、それができるように頑張るといった。私たちの言葉を、プロデューサーたちが何の根拠も確証も無く信じているのだと、私たちが信じられるようにすると。

 それは、どれだけ大変なことなのだろうか。

 基準もなく、結果だってあやふやで、途轍もない時間がかかる上に、その結果に対する保証は一つも無い。

 それでもプロデューサーたちは頑張ると言っている。彼らの努力に、私たちが応えてくれると信じていると、臆面するそぶりも見せずに言っている。

 そのセリフは。

 その気持ちは。

 その心は。

 自分だけを信じるのでもなく、相手だけを信じるのでもなく、自分と相手を信じているからこそのものだ。

 「私は…」

 私は、それが出来ていただろうか。

 私の気持ちと考えを、彼女の気持ちだと思い込んでいなかっただろうか。

 「おい新田。あの子の家はどっちだ?」

 「は、はい」

 こっちです、とプロデューサーを再度先導する。

 けれど、その言葉にさっきまでの勢いはなかった。

 

 

 

 

 8

 

 「ここです…!」

 私たちが足を止めたのは、家を出てから10分後のことだった。

 目の前にあるのは二階建ての一軒家で、表札は無く、ポストには大量の新聞紙が入っていて、入りきらなくなったのかチラシや手紙が地面に散乱していた。一台だけ止まっている車はスポーツカーのように平べったいもので、家の外装とは一切釣り合わない綺麗さがこの家に住む住人の性格を如実に表していた。

 「これは、ひどいな…」

 「とにかくあの子を助けないと。行きましょう」

 「待て待て待て!」

 狭い庭に足を踏み入れた私の肩を掴む。

 「なんですか!?早くしないと彼女が!」

 「それでお前も捕まったらどうすんだ!俺はチーフ程強いってわけでもないし、お前だって護身術程度しかできないんだろ?だったら、警察が来るまで待つか、せめてチーフが来ないことには確実には助けられないだろう」

 「っ…でも!」

 「でももくそもねぇよ。中にいるのが男一人だけならどうにかなるかもしれんが…。とにかく、今の俺たちにできることは、応援を待つこと。そして、この家の中にどれくらい人がいるかを確認することだ。男一人ぐらいだったら、俺だけでもなんとかなるかもしれないしな」

 プロデューサーの言葉は正論だった。

 ならばチーフを連れてくればよかったかと言われれば、それは私の家に来た二人を野放しにすることと同義だ。

 だからこそ、私たちは彼女の家の周囲を探り、薄く開いている窓を発見した。中を覗き見ると、そこはウォークインクローゼットのような、倉庫のような、そんな部屋だった。

 幸運だったのは、その部屋の近くに彼女がいることが分かったことだろう。

 「おい!あいつらはまだ帰ってこねぇのか!」

 「は、はい。連絡もとれません…」

 「チッ!せっかくアイドルとヤれると思って我慢してたのによぉ。とりあえずお前で始めとくか」 

 「美波さんには関わらないって約束だったじゃない!」

 「うるせぇよ。元々はお前が体売ってたのが悪ぃんだ。新田美波を巻き込んだのはお前だよ」

 「っ!」

 彼女が息を呑むのと、私が窓から身を乗り出そうとするのをプロデューサーが止めるのは同時だった。

 彼女は悪いことなんてしていない。

 これまで生きてきた中で、彼女に関わることで不幸になった人間がいたのか。それは私には分からない。未成年の体を買ったことで捕まった人がいたのかもしれない。

 けれど、そんなのは自業自得だ。

 私は聖人じゃないから、それを言う。

 確かに、もし捕まった人がいたとして、その人から貰ったお金で彼女は生きてきたのかもしれない。それでも、高校生の女の子をお金で買って、その体を弄んで、その末で捕まったのなら、私は一切擁護しない。そこに彼女への思いが多分に含まれた偏見だったとしても、私はこの考えを貫き通すだろう。

 たとえ、その経験があったから彼女が私を好きになってくれて、私と彼女が出会えたのだとしても。

 だからこそ聞こえた声に私は怒って、けれどプロデューサーに止められた。

 「落ち着けっ!」

 「もう無理です。プロデューサーは警察とかが来てから来てください」

 「お前が一人行ったところでなんも変わんねぇよ!」

 「少なくともあの子が襲われる時間は伸ばせます!それに、ここで傍観してるよりよっぽどいいです!」

 「俺にはお前の安全を確保する義務があるんだよ!」

 その必死の形相に少しだけ怯むが、それでも私の怒りは収まらない。

 目の前で襲われそうになっている好きな人を見て、一体だれが落ち着いていられるというのか。

 けれどその問答は、完全に悪手だった。

 「誰だ!?」

 窓の向こう側から、そしてさっき確認した玄関から二人分の男の怒鳴り声が聞こえた。

 その瞬間、私たちは肩を跳ねさせて、見開いた眼を見合わせた。

 そこにあったのは、驚愕と焦燥と、最大限の危機感。きっと私も同じだった。

 新田美波の人生史上、最も過酷で、これからの人生を決める、最も重要な15分が始まろうとしていた。

 

 

 

 

 9

 

 二人の男に前後を挟まれ、私とプロデューサーは彼女の実家へと足を踏み入れた。

 玄関には男物の靴が乱雑に散らかっており、家主の性格が窺がえる。リビングにつながる扉をくぐれば、僅かな腐敗臭が鼻につき、衣服が散乱し、その上で後ろ手をガムテープで縛られている彼女を視界に捉える。

 縛られているとはいえ、服が乱れていなかったことに安堵の息を漏らした。

 だが、その先のソファに座る男と目が合うと、すぐに緊張と怒りが私の心と体を支配する。

 いかにも高価なアクセサリー、誰もが知っている有名ブランドの服、吸っているタバコの煙が部屋に充満して、喫煙家のプロデューサーでさえ顔を顰めている。

 「ようこそ、新田美波さん。娘がお世話になっています」

 その男は優しそうな笑みを張り付けて、声を発した。

 聞けばどこにでもいる様な男性の声。けれど私はその声に全身を強張らせ、緊張をごまかすために握った拳に力が入る。

 「…初めまして。彼女を放してください」

 「別にいいですよ。これの代わりに貴女が私の物になるのなら、こんな女いくらでも、どこにでも捨ててやりましょう?」

 この男に抱いてるのは、どこまでも純粋な嫌悪。ただそれだけだった。

 目の前に座る男にとって、私や彼女は自分の欲望を満たす為だけの道具なのだと、たった一言声を交わしただけでわかる。

 今までどういう生き方をしてきたのかは知らないが、この家の惨状と、彼女から聞いた人物像、そして今。

 それだけでこの男の性格が推し量れた。

 どれだけ身なりを整えようが、内側からにじみ出る浅ましく汚らわしい本性は隠せない。

 「私は貴方の物になんてならないし、彼女も返してもらいます。もう二度と、私たちに関わらないでください」

 「…それは残念だ。ああ、とても残念でしょうがない」

 棒読みで言う彼は、私とプロデューサーを挟む二人の男に視線をやる。

 それに気づいて逃げようと思っても、すでに遅かった。

 「プロデューサー!」

 バットのようなもので後頭部を殴られたプロデューサーを、男に後ろから羽交い絞めにされながら視界に入れ、叫ぶ。

 プロデューサーの口から反射で漏れた短くも苦痛なうなり声に息を呑む。

 幸いにも倒れたプロデューサーの頭から血は出ていないが、それでも殴られた事実に変わりはない。早く病院に連れて行かなければまずいだろう。

 「放して!」

 脇から手を入れて抱きしめるように私を拘束する男を振りほどこうと暴れるが、やはり男と女。膂力の差でまったく振りほどけない。

 彼女が私の名前を叫ぶが、それすらも彼らにとっては面白いのか、下卑た笑みを浮かべるばかりだ。

 「やめて!何でもするからっ!美波さんには何もしないでよっ!」

 「あ?うるせぇな。大体、この女を巻き込んだのはお前だぜ?それを被害者ぶって喚いてんじゃねぇよ」

 「違う!悪いのは全部貴方たちよ!」

 「あーあ、ひどいこと言うなぁ。娘が知らない女の家に住むなんて電話がきて、聞き覚えのある名前だから調べてみたら、まさかまさかのアイドルときた。だから優しいアイドルにはお礼をしたかったのにさぁ」

 「はは、よく言うよ。それより、美波ちゃんマジでいい匂いなんだけど。手伝ってやったんだから、後で俺にも回してくれよ?」

 「使用済みでいいならな」

 「あー、ずりぃ!俺にも回せよ!それまではこっちで遊んどくからさぁ」

 「あ、この男の前で犯すのも面白くね?プロデューサーなんだろ?」 

 「そりゃいいな!」

 耳に入れたくも無い汚らわしい会話を楽し気にする彼らを、私は心の底から蔑視する。けれど、いくら心の内で思っても、抵抗すらできずに聞くことしかできないのなら何もかもが無意味だ。

 ソファに座っていた男がゆっくりと立ち上がる。全身につけたアクセサリーが不細工な音を立て、その男の一挙手一投足に嫌悪感が募る。

 その男は私に近づき、髪を一房持ち上げた。

 「…っ」

 「そんなに怖がるなよ。アンタが大事に思ってるあいつは、前から同じことをやってんだぜ?」

 耳元で、その男は呟いた。

 ふざけるな。

 心の中で燻ぶる怒りが再燃し、一気に燃え上がる。

 前からやっている?誰のせいだと思っている。

 今まで抱いたことのない感情が沸々と沸き上がり、私の心を塗りつぶしていく。

 ああ、彼女と初めてであった日。無遠慮に辛くないの、なんて聞かれた彼女はこんな気分だったのだろうか。

 自分のせいじゃないのに、まるで自分が悪いかのように他人から見られる。

 彼女は、その汚れさえも優しさで覆い隠していたというのに。

 ああ、認めよう。

 私は彼女が好きだ。

 その美しい黒髪も、透き通るような白い肌も、意志の強さを表す大きな瞳も、強がりに見える華奢な体も、自分の汚れを誰かに移さないようにとする優しさも、その為に人当たりが強くなってしまうところも、その上で自分が責められるとあっさり弱いところが見えてしまうところも、羞恥に染まる赤い顔も、私の事を好きでいることを隠し切れないところも、それでも自分の道を進もうと努力する彼女も。

 認めよう。

 勘違いだなんて思わない。自惚れでもいい。

 例えそうであったとしても、そんなものは私自身の努力でどうにでもしてやる。彼女が私の事を好きでなくなったときには、何をしてでも振り向かせて見せる。他の誰かに興味が移ったのなら、私だけに夢中にさせてやる。

 だから、私と彼女のこれからを守らせてほしい。

 「…彼女が汚れたのは貴方のせいです」

 「ああ?」

 「今彼女がこの家にいるのも、プロデューサーが倒れてるのも、私がここにいるのも、全部あなた達のせいよ!もう彼女に関わらないで!」

 後から思えば、あまりにも短慮だった。

 私の思いだった。彼らに対する、心からの思いだった。

 けれどそれは、その場で言うにはあまりにも短慮が過ぎた。

 「あ、っそ。そんなにあいつが大事か」

 表情を失くした男が目の前から遠ざかり、横たわる彼女に近づく。

 「何を…」

 「こいつが今までされてきたこと、いや、最近は自分からやっていたことを見て知れば、諦めてくれるのかな」

 「っ、やめて、やめてよ!」

 「おお?大好きな美波さんの前じゃヤりたくないか?そりゃそうだよなぁ。汚ねぇもんなぁ」

 彼女を無理やり座らせて、その服に手をかける。

 今までやられていたこと。最近は自らやらなければいけなかったこと。

 それは、もう二度とさせてはならない、彼女の闇だ。

 視界を真っ赤に染めながら、全身に力を籠める。それでも男の拘束を振りほどけず、暴れるだけになってしまうけれど、そうせずにはいられなかった。

 「触らないで!私が代わりになるから!やめて!」

 その言葉とは裏腹に、彼女の上着が剥がされていく。それを見ることしか出来ない自分がもどかしくて、目の前にいる彼女を抱きしめてあげられない自分の無力さが嫌で、私の視界がぼやけていく。

 たった15分。

 私とプロデューサーがこの家に入って、たったの15分。

 それだけの時間で、私は今まで触れたことのない人の悪意に叩きのめされた。

 私の知らない世界には、自分の欲望を満たす為だけに、他人を傷つけ、貶すことすら厭わない人間がいるのだと思い知った。

 それでも、そんな悪意に塗れて生きてきた彼女の闇には遠く及ばない。

 人の悪意に覆われて、それでもなお希望を見失わない彼女は、私なんかでは到底かなわないくらいに美しかった。

 だから。

 誰でもいい。

 なんでもいい。

 私が汚れたっていい。

 もう、彼女を傷つけないで。

 「へぇ?それじゃあ遠慮なく」

 「ダメだよ美波さん!私が……っ!?」

 男が私のシャツを引きちぎる。はじけたボタンが軽い音を立てて床に散った。

 彼女が叫ぶ。上半身は下着だけの彼女が叫び、悲痛そうな表情を驚愕へと変えた。

 後ろで大きな音が鳴る。壁を想いっきり叩くような、ドアを無理やり蹴破ったような、破裂音のような音だ。

 「あ?誰だ、アンタ」 

 私の肩越しに男が声を上げた。

 拘束されて振り向くこともできないが、ニュアンスから感じるに男の仲間ではないのだろう。

 一体誰だろう。

 強く瞑った目を恐る恐る開けて、出来るだけ首を回し、視線だけを後ろに向ける。

 そこにいたのは、小柄な女性だった。

 そのさらに後ろからは軽い足音と、規則正しい呼吸音。

 「はぁ、はぁ、早すぎです…」

 「当然じゃないですか。うちのアイドルが大変な目に遭っているんです、早く駆け付けるのは彼女たちを預かる身としての義務ですから」

 聞きなれた男女の声。

 一つはさっき聞いていた男性の声。

 もう一つは、ここにいるはずのない女性の声。

 「なんで…」

 その女性は若草色を基調としたコートを着ていた。

 ここにいるはずがない。疑問が頭をめぐり、驚きで硬直していると途端に体が軽くなる。

 「わ」

 拘束が解けてよろけた体を支えてくれたのは、長期休暇中で346事務所のアシスタントである、千川ちひろさんだった。

 

 

 

 

 10

 

 「ちひろさん、お休みだったんじゃ…」

 「はい。ですから昨日まで京都に行ってきました。後でお土産をお渡ししますね」

 「あ、どうも。…じゃなくて、どうしてここに?」

 その問いに答えたのはちひろさんではなく、後ろでプロデューサーの安否を確認しているチーフだった。

 「あの後すぐに千川さんに連絡したんです。ここの住所と今までの出来事を説明したんですが、まさかこんなに早く着くとは思いませんでしたが」

 「むしろこんなに遅くなってしまい、すみません。貴女たちアイドルを守るのが、私達の仕事なのに」

 「そんなこと…!」

 今回の件は100パーセント私が悪い。

 彼女を私の家に迎え入れたのも。

 そのことを事務所に報告しなかったのも。

 全部私の責任で、事務所側は何も知らなかったのだ。今日だって、こんな深夜にいきなり連絡して助けに来てくれただけで十分すぎる。その上で文句も言わず、むしろもっと信じてくれと言われたのだ。謝りたいのはむしろこっちだ。

 「とりあえず、後の話はこの人を大人しくさせてからですね」

 羽織っていたコートを私の肩に掛けて、ちひろさんは目の前の男と対峙した。

 「人の家に勝手に入ってゴチャゴチャとうるせぇなぁ…!せっかくだ、そこの女も一緒に撮影してやるよ。今から来る仲間と一緒に回して、ネットにアップして、身体を売らねぇと生きていけないようにしてやる」

 その男は、完全に怒っていた。

 あまりにも筋違いな怒り。

 私たちの側からすれば、逆恨みもいいとこだ。

 だからなのか、ただ一人正面から向き合うちひろさんは、毅然とした態度で言い返す。

 「貴方のしたいことは分かりました。ですが、こちらも大切なアイドルを傷つけられ、プロデューサーを傷つけられ、あまつさえその二人が守ろうとした人にまで苦痛を与えている貴方が許せないんですよ」

 「だったらどうすんだよ?言っておくが、俺ぁ空手をやってたんだ。お前も、そこの男もボコボコにしてやるのに十秒もいらねぇし、女だからって手加減もしねぇ。泣いて謝りながら犯すのも悪くねぇしな」

 「そうですか」

 淡々と言葉を返すちひろさんは、今まで見たことが無い程に怒っていた。 

 プロデューサーやアイドルを叱るような、私たちを見守る優しさからくるものではなく、単に大切なものを傷つけられたことから来る純粋な怒り。

 けれど、どうあったってちひろさんが目の前の男をどうこうすることはできないだろう。

 体格さもある。性差もある。普通なら、ここで前に出ているのはチーフの筈だ。昔武道をやっていたらしく、幼馴染の三船美優さんが言うには神童と呼ばれていたらしい。少し前まではとある事情から辞めていたらしいが、最近は昔通っていた道場に再び顔を出しているそうだ。

 だからこそ、不思議でしょうがなかった。

 互いの役割を、出来ることと出来ないことを把握しているはずのちひろさんとチーフが、今の立ち位置にいることが。

 「千川さん、この後警察来ますからね?」

 「ええ、わかっています」

 「…はぁ」

 チーフが言う言葉に、ちひろさんが返事をする。

 いつもの光景の筈なのに、どこか違和感を覚える。

 小さい歩幅で男に近づくちひろさん。後ろからではその顔が陰になって見えない。ただ、チーフの何も心配していない顔、というか、むしろ相手の男に同情している様な表情が、余計に混乱する原因になっている。

 そうしてちひろさんが男の目の前に立つ。ほとんど距離は無く、男の拳が振るわれればちひろさんはひとたまりもない。

 だから、その光景に目を疑った。

 男が拳を振るったと思った。

 だけど、次の瞬間には、ちひろさんの小さな足が男の頬に叩き込まれていた。

 「……え?」

 「……はぇ?」

 呆然とその光景を見ていた私と彼女の口から、気の抜けた声が零れる。

 スパァンッ、という小気味良い音がしたと思った次の瞬間には男が倒れ、この家に入って最大級の驚きに、声尾を発することも、ましてや動くことすらできなかった。

 そこでふと、とある疑問が頭を過ぎる。

 そういえば、私を拘束していた人は、いつの間に倒れていたんだろう。

 「あ、あの…」

 倒れ伏した男の前で、ゆっくりと蹴り飛ばした足を降ろすちひろさん。

 その光景を指さして、チーフに説明を求めた。 

 「…千川さんは、私が通っている道場の先輩で、師範代なんです。ただ、あの蹴りの具合だと、大分本気でやったみたいですね。それだけ怒っていたんでしょう」

 それは私達もですけど。

 そう言ってチーフはちひろさんの元へ近寄り、倒れた男の容態を見る。どうやら気を失っているだけのようだが、頬の腫れが痛々しく、この後来る警察への対応に苦労しそうだった。その下手人のちひろさんは、どうやらやり過ぎたと思ったのか、かなり焦って涙目になっていた。私としては感謝しかないので、ちひろさんが罰を受ける時には一緒に受けるか、少しでも軽くなるように直訴したいと思う。

 そして。

 「美波、さん…」

 チーフによって腕と足の拘束を解かれた彼女は、一目散に私の元に駆け寄り、座っている私の膝先に額をこするように座り込んだ。

 今の状況についていけていないのか、呆然とした瞳を次第に潤ませて、彼女は言った。涙を床に落としながら、何度も、何度も言った。

 「ごめんなさい…!」

 縋るように私のジーンズを掴み、濡らして、謝り続けた。

 「ごめんなさい、ごめんなさいっ、ごめんなさい…っ!私のせいで、迷惑かけて、ひどい目に合わせて、ごめんなさいっ!うぅ…ごめんなさい…っ」

 あぁ、彼女にまた傷を背負わせてしまった。

 私が彼女を助けたいから来たのに。彼女が責任を感じる必要は無いのに。そんなつもり、無かったのに。

 けれど、それをどれだけ言ったところで、彼女の罪の意識は無くならないのだろう。

 優しい彼女の事だ。

 言葉だけの許しなんて意味が無い。優しい彼女は、人の優しさをそのまま受け取れない。

 自分の責任と感じてしまった以上、彼女の謝罪には罰で答えなくてはいけない。

 それだけが、彼女が彼女を許せる唯一の道だから。

 「…うん。それじゃあ、私から一つ、お願いしてもいいかな?」

 「ひぐっ…はぃ…。もう、美波さんには関わらないですから…」

 「あー、そうじゃなくて」

 「?」

 ようやく見せてくれた彼女の顔は、今朝見た時の可愛い顔ではなく、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、乱暴に扱われたのか綺麗だったウェーブがかった黒髪もぼさぼさになっていた。

 可愛い人が、ダサい服を着ていたり、身だしなみに気を使っていなかったりすると、多くの人はがっかりしてしまうらしいが、全然そんなことは無かった。

 どれだけ汚くなろうが、どれだけ穢れようが、私は彼女が好きなままなのだろう。

 だから、私はお願いする。

 彼女の罪に対する罰として、お願いする。

 「私の、恋人になってよ」

 「……へ?」

 「普通の恋人にはなれないし、きっといろんな人から変な目で見られると思う。私がアイドルだから、誰かに恋人がいるって言えないし、なにより私の家族が許してくれるかもわからない」

 それは私にも言えることだけれど。

 「それでも、貴女が私の事を好きでいてくれるなら。もし、その涙が私の為に流してくれたものなら」

 彼女の顔を、優しく手で挟む。

 瞳から零れる雫が指を伝い、冷えた手に温もりを感じる。

 たったそれだけ、彼女の暖かさに触れただけで、心が満たされてしまう私は、きっともう彼女に惹かれ過ぎてしまっているのだろう。

 だから、一緒にいてほしいと思う。

 「私と、付き合ってください」

 生まれて初めての告白。

 場所のセンスも、ムードも、気の利いたセリフでもない。

 穢れて、汚れに塗れて、絶望の底に落ちてなお希望を見失わない彼女に、私は恋をした。

 出会って間もなく、互いの事を知るにはあまりに短い時間で、恋というには未熟なものかもしれない。

 愛を知らない彼女と、闇を知らなかった私。

 ちぐはぐだけど、簡単な道のりとはいかないけれど。

 それでもそこに想いがあるのなら。

 「…私、なんかじゃ、美波さんを幸せになんて…」

 「ううん。貴女じゃなきゃいけないんだ」

 「でも、今日だって巻き込んだのは私で…」

 「私が自分から来たんだよ。それに、幸せにしてもらおうなんて思ってないよ」

 「え…?」

 そう。別に、私だけが幸せになるために言ってるんじゃない。

 彼女の顔を少しだけ引っ張って、柔らかい唇に私の唇を合わせる。

 この前のような無理やりではなく、ただ触れるだけの優しいキス。

 「一緒に、幸せになろう。貴女が私を幸せにして。私は、必ず貴女を幸せにするから」

 どうかな、と首を傾げて尋ねる。

 すると彼女は、瞳に溜めた雫を一層大きくし、形のいい唇を歪ませて、それでも笑顔を作ろうとしているのか、さっきよりも顔をくしゃくしゃにしながら、飛びついてきた。

 「うぅぅう…っ!美波さんのバカぁ!」

 「バカ!?」

 「私なんて放っておいてくれればいいのに!」

 「…!」

 「…なるぅ…。美波さんの恋人になるよぉ…!美波さんの恋人にしてくださいぃ…」

 彼女を抱きしめて、背中を軽く撫でる。

 耳元で泣きながら喜びを感じさせる彼女に、ようやく笑みがこぼれる。

 ああ、ここが、私の腕の中が、彼女を安心させる場所になったのだと。彼女が本音を溢せる場所になったのだと。

 そう実感しながら。

 

 「……Immature love says “I love you because I need you.”」

 昔、意味も分からずに、母が歌っていたこの歌が好きだった。

 曲の雰囲気とリズムが、子供心に響いたのだろう。

 後から調べて知ったのだけれど、とある偉人の言葉を、母の知り合いが歌にしたのだという。その人は路上ライブでこの歌を歌っていたらしいけど、大成せずに別の仕事への道を歩いてしまったので、知っている人はごくわずかなのだという。

 けれど、私はこの歌が好きだった。

 愛と恋を謳った、子守唄のようなこの歌が。

 「Mature love says ”I need you because I love you”」

 泣き疲れたのか、私の肩で寝てしまった彼女を想い、謳う。

 私が一目ぼれして、彼女が私を好きになってくれて、それでも自分のせいでその気持ちに蓋をして。

 これまで彼女が歩んできた道は、泥にまみれた茨の道だった。汚れて、傷ついて、それでも進まなければ自分の幸せを掴めない。

 けど、これからは違う。

 辛いことも、大変なこともあるだろう。

 でも、一人じゃない。私がいる。皆がいる。

 だから、安心して進んでね。

 「I’m in love with you」

 あなたが挫けそうになった時。泣きたくなった時。辛いとき。嬉しさを共有したいとき。楽しさを伝えたいとき。

 何より、愛されていることを確認したいとき。

 あなたの恋人として、私が一緒にいてあげるから。

 

 

 数年後、私と彼女の関係が周囲に知れた時、とある記者にこう言われる。

 「新田さんは、同性愛者だったんですか?」

 その記者に、私が返す言葉を、今の私はまだ知らない。

 けれど、その思いは今この時から、ずっと変わらずに抱いているものだ。

 

 

 

 「違います。女性が好きで、女性しか愛せないわけではありません。男性が苦手で、男性を愛せないわけでもありません。私は、彼女という一人の人に恋をしたんです」

 


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