「ああー、生き返るわあー」
お湯に肩までつかり、湯船の中で思いっきり足を延ばす。雨と海水で冷え切った身体が芯まで温められていくのを感じながら、漣は大きく息を吐いた。
「疲れました……」
「ほんとにね」
漣につられて潮と朧も息をつく。口には出さなかったが、響も小さくうなずいていた。
あれから嵐が止むのを待って、第七駆逐隊は鎮守府に帰投した。
一時間もかからずに、あれほど荒れ狂っていた海は何事もなかったように鎮まり、見上げればただ太陽だけが浮かぶ空が広がっていた。
心身ともに疲れて帰ってきた四人は、大淀への報告もそこそこ、塩まみれの身体を引きずって、入渠ドックという名のお風呂に直行したのだった。
「にしても、どこ行ったんだろ」
湯船のふちに首を預けて、漣がぽつりとつぶやいた。
なにがと言わずとも、三人とも漣の言わんとするところはすぐにわかった。
嵐の中、背を向けて去っていった駆逐棲姫は、確かに鎮守府の方角へ向かっていた。だから帰り道、どこかでまた遭遇するのではないかと四人は気が気でなかった。
結局、駆逐棲姫の姿はどこにもなく、気がつけば鎮守府が見えていた。
「海の中、でしょ」
〝深海〟に〝棲む〟艦の名の通り、かの異形の艦たちは普段は海の底にいると言われている。そして唐突に海面に現れ、侵攻してくるのだ。わざわざ浮上してくるのは、潜水艦型でもなければ、海中より海面に出た方がずっと速く航行できるからだろう。
だから、撃沈したのでもなく深海棲艦が消えたのであれば、それは海の底へ帰って行ったと考えるのが自然だった。
「まあ、そうなんだろうけど。出たり入ったり大変だねえ」
偵察機がなかなか発見できないのも、侵攻速度がゆっくりなのも、海の上と下を何度も行ったり来たりしているからだと思われた。
「ところで、あのとき潮はなにが気になったんだい?」
「ああ、なんか変な感じって言ってたっけ。なんだったのあれ?」
「え? あ、えっと、その……」
唐突な響の問いかけに、潮は一瞬きょとんとしたが、すぐにさっきの戦闘のことを思い出したようだ。
「えっと、わたしもよくわかんないんですけど、違和感が……例えばカレーライスを食べたら、カレー味のハヤシライスだった、みたいな……」
唐突に現れた謎の料理に、三人の頭上にはハテナマークが浮かぶ。
「ごめん潮、なに言ってるのかわかんない」
「ううう……」
うまく説明できずに落ち込む潮の顔がお湯に沈んでいき、ぶくぶくと泡を立てた。
「まあ、漣としてはですね、この」
いつの間にか潮の背後に回っていた漣はそう言うと、彼女の脇の下に両腕を勢い良く突っ込んだ。
「ひっ!」
「駆逐艦にあるまじき胸部装甲のほうが違和感がありますなー!」
威勢のいい声とともに、漣の開いた両手が潮の胸をむんずと掴み、思い切り揉みしだき始めた。
「ひゃぁぁぁぁーっ!」
「むむっ、またおっきくなったんじゃないか⁉ 姉妹艦として、これは入念にチェックしなければなりませんなー!」
潮がもがくほど、漣は力を入れてしがみつき、離れようとしない。湯船からは激しい水しぶきが上がり、水面が大きく波打つ。
「二人とも元気だね」
じゃれ合う漣たちを眺めながら、響がつぶやいた。心なしか、口角が上がっていた。
一方の朧は、いつもなら助け舟に
「もうやめてぇー!」
しばらくのあいだ、入渠ドック内には潮の悲鳴と漣の笑い声がこだましていた。
翌日、先日まではただのうわさ話だった駆逐棲姫の件は、第七駆逐隊の報告もあって、正式に大淀から各艦に通達されることとなった。
姫クラスの深海棲艦と久しく戦闘のない鎮守府はにわかに緊張感に包まれる——かと思われたが、わずか一隻、それも姫とはいえ駆逐艦ということもあって、昼頃にはほとんど話題にのぼることもなくなっていた。
一部を除いて。
「今どのへんにいるんかね」
部屋の窓から海を眺めていた漣が、誰に尋ねるでもなくつぶやいた。
艦娘たちの生活の場である艦娘寮。主に同型艦毎に部屋が割り当てられるが、特型駆逐艦のような姉妹の多い艦型には複数の部屋があてがわれる。部屋の内装や広さはいくつか種類があり、第七駆逐隊には畳敷きの四人部屋が割り当てられていた。
今日の第七駆逐隊は待機。非常時にはいつでも出撃できるようにしておく必要はあるが、鎮守府から遠く離れたりしなければ、基本的には自由時間だ。
自主トレする艦娘もいれば、おしゃべりやゲームに興じる者、ひたすらだらだらする者など、その過ごし方は様々。漣がすこし視線をずらせば、鎮守府内をランニングする長良型軽巡たちや、芝生に敷物を広げてお菓子を並べる睦月型駆逐艦たちの姿が目に入る。
「さあね。案外近くまできてたりしてね」
本気か冗談か、答える朧は連装砲を膝に抱えて、砲身を磨いていた。小さなちゃぶ台を挟んで、潮も自分の艤装の整備をしている。
装備のメンテナンスも艦娘の大事な仕事。大きく破損したり、どうやっても直せない故障があれば工廠へ持っていくが、通常の整備は各艦個人で行う。
漣も一緒に整備をしていたはずだが、いつの間にか手は止まり、窓枠に肘をついて外を見ていた。
「まあ来ててもおかしくはないよね。むしろまっすぐ鎮守府に向かってるのに、まだ来てないっていうのがおかしい」
すでに発見から三日。航行速度が非常にゆっくりだとしても、昨日の時点で鎮守府から三時間ほどの距離にいたのだから、とっくに到着していても不思議ではない。
「近くに来てたとしても、一隻だけでそうそう攻めてはこないでしょ。そもそも目的が攻撃なのかもわかんないんだし」
単なる偵察という可能性だってある。実際、鎮守府近海には、偵察らしき駆逐イ級の姿がたまに見られる。ただ、偵察を駆逐棲姫自ら行う理由を朧は見つけられていなかった。
もう一年も姿を現していなかった、ヒトの形をした深海棲艦。それが突如現れ、鎮守府へ向けて非常にゆっくりと近づいてきている。
それだけでも十分奇妙なのに、随伴艦を伴わずに単独行をしているのだから、不気味この上ない。だからこそ、ほとんどの艦娘はこの話を聞いてもいまいち現実味を感じていないのだ。
しかし、朧たちは違う。実際にその目で見て、砲火を交えた。それは紛れもなく現実だった。
「お、また偵察機」
プロペラの音を鳴らして、窓の外を彩雲が横切っていった。漣が窓の外を眺めだしてから十分ほどの間に、すでに三機の偵察機が飛んでいくのを見ていた。
「空母総出で偵察機飛ばしてるらしいよ。カタパルト持ってる巡洋艦も手伝ってるって」
朧がそう言う間にもプロペラの音が聞こえてくる。
「今朝艤装付けてる鳳翔さん久しぶりに見……潮?」
さっきからずっと黙り込んでいる妹の様子が変なことに気づいて、朧は声をかけた。
魚雷発射管を持つ手はぴくりとも動かず、その目は焦点が合っていないようでぼんやりしている。
異変に気づいた漣も窓際から離れて手を伸ばすと、潮の顔の前で上下に振った。
「っ!」
びくっと潮の肩が震えた。
「ぼーっとしてたけど、具合でも悪いの?」
「え、あ、いえ、そんなんじゃ」
きょとんとした顔で朧と漣の顔を交互に見た潮は、慌てて両手を顔の前で振った。
「ちょっと、考えごとを……」
そう言って、潮はうつむく。明らかにおかしな様子に、朧と漣は顔を見合わせる。
「考えごとって、昨日言ってたやつ?」
朧が尋ねると、潮は下を向いたまま小さく頷いた。
「昨日のって、カレー味のハヤシライスの話?」
「そ、それはただの例えで……」
漣の微妙に的を外した問いに、困ったような笑みを浮かべる潮。ただ、昨日は深く突っ込まなかった朧も、その話は気になっていたらしく、漣の後を受けて聞いた。
「その例えって、ニセモノっていう意味?」
「ニセモノ……とはすこし違って、ホンモノなんだけど、その、ちょっと違うもの、というか……」
質問したはいいものの、やはりよくわからない答えに、二人は眉をハの字に曲げた。
潮もうまく答えられないことなもどかしいのか、そわそわと落ち着かない様子。
「つまり……」
「あ、あー!」
しばしの沈黙の後、口を開いた朧を遮るように潮が声をあげた。
「も、もう三時ですね。なにかおやつを買ってきますね!」
そう言うと、魚雷発射管を脇に置き、立ち上がった。壁にかけられた時計の針は三時五分前を指していた。
「え、おやつならもう」
「いってきまーす!」
漣の制止も聞かず、潮はそそくさと部屋を出て行った。扉の閉じる音の後、ぱたぱたと廊下を駆けていく音が聞こえた。
「いっちゃった」
右手にちゃぶ台の下から取り出した間宮羊羹を握ったまま、漣がつぶやいた。じっと潮が消えていった扉を見つめている。
「すこし、気が動転してるのかも」
朧もまた、扉の方を見ながら心配そうに言った。
ここ二、三ヶ月の間、第七駆逐隊は敵艦との交戦機会がなかった。海に出ることはあっても、深海棲艦の数自体が激減していて、まず会敵することがない。それが急に駆逐棲姫という強敵と相まみえたことで混乱して、気持ちの整理がついていないのかもしれなかった。
「問い詰めたらかわいそうだし、潮が戻ってきても、もうこの話はやめよう。また話したくなったら話してくれるでしょ」
「ほーい。それはいいんだけど……」
と、漣は手にした羊羹をちゃぶ台に乗せた。
「これどうしよっか」
今朝、食事の後に朧が三時のおやつにと買っておいたもの。ちゃぶ台の下にあるお盆の上には、小皿とナイフ、楊枝も用意している。
「明日食べよっか」
ちょっと残念そうに笑って、朧は答えた。
それからほどなくして潮は帰ってきた。間宮羊羹を大事そうに抱えて。