GoGoがんばれ!ヘイローちゃん 作:竹林の春雨
「ここが、練習用のコース……さすが天下のトレセン学園。壮大ですわね……」
学園内でも一際、青空が広く感じる会場。
さすがに実際のレース場よりも狭いが踏みしめる芝ひとつとっても、しっかり足を包み込むような感触を返してくる。
自然が多いせいか、肺一杯に空気を吸うと草木の匂いが立ち込める。
都会の中にあってもどこか安心できる雰囲気がそこにはあった。
キングヘイローは実家でも芝コースを良く走っていた。
だからこそ分かる。キチンとプロ意識を持った職員が忠実に仕事を行っているのが。
「走ったら凄く気持ちよさそうな芝だよねぇー」
「ええ、完璧に管理されたコースですわ。走るのがもったいないくらい」
「じゃあ走るの止めて散歩でもしてみる? ピクニックするのも良いかも!」
「日曜日の朝ならそれも良いかもしれませんが、こういった場所を全力で駆けたらさぞ気持ちいいか――マヤノ先輩の方が分かっているのではなくて?」
「そうだねぇー。マヤノは普段はダートばかりだったけど、芝も良いかもーって思ってる。これから走るってだけでも胸がワクワクしてたまらないもんっ」
体操着に着替えたキングヘイローとマヤノトップガンは、併走トレーニング開始前までの僅かな会話を楽しむ。
ブルっと少し震える。
怖気づいたのではなく、武者震いに近いものだ。
観客席も完備している。
事情は分からないものの多くのウマ娘たちが休憩時間なのかくつろいでいた。
キングヘイローたちがやってきたのはトレセン学園内にあるコースのひとつ。
トレセン学園は芝、ダート、
とはいえ常に自由に使えるわけではない。
各チームには規模や実績などに応じて練習時間が決められている。
もちろんそれはただの意地悪でやっているのではない。
ダートなどは土を
ウッドチップもウマ娘の強靭な脚力に耐えられず、砕けてしまうため常に整備しなくてはならない。
しかもウッドチップは特殊な加工を行っているため、雨が降ると汚染された水が流れだしてしまう。
管理するだけでも非常に面倒が多い設備だが、骨への負担を抑えたまま、筋肉に負荷を与えられる施設とあって非常に便利で人気も高い。
こういった各練習施設は順番待ちになりやすい。
そういった事情もあってキングヘイローといえども、ちゃんとした芝コースで走ることになるのは実家から出て以来だった。
高揚する自身の気持ちを抑えるように、手をグーパーさせたり、身体の各所の柔軟に励む。
マヤノトップガンも楽しげな顔をしているものの、やはり先輩。小柄ながら普段とは明らかに違う雰囲気を
その纏うものが何なのかは実際のところキングヘイローにも真の意味では理解できていない。
ただ分かっているのは、
(お母様たちと同様の空気――実戦を積んできたウマ娘。まだ格が違う、ということ。でも負けるつもりは毛頭ない……勝つつもりで勝負する。何故なら、私がキングヘイローだから!)
尊敬する母から貰った名前。
偉大なる祖母、ヘイローと王を意味するキングを合わせた大切な名前。
キングヘイローにとって、それは何よりも拘るべきもの。
左手で前髪を払う。
そうするとどこまでも遠くを見渡せる気がする、好きな動作。
気合は十分だった。
併走トレーニングに関しては坂戸トレーナーから詳細な指示は貰っていない。
ただ一言、「楽しいレースをするといい」とだけ伝えられただけだ。
つまり全力で走れということだろうと彼女は受け取っていた。
マヤノトップガンを改めて観察する。
こちらの視線に気付いたのかニッコリと笑みを返してきた。
しかしその瞳の奥には純粋な友好とは違う色が混ざっている。少なくともキングヘイローはそう感じていた。
「マヤノ、先輩はもちろん――」
「んんー? もちろん全力でやるよ。だってそっちの方が楽しいでしょっ♪ ヘイローちゃんも、そういう目をしてるしっ」
「ふふっ、そうですわね。いらぬ心配でした」
「別にいーよぉー」
馬鹿な心配をしたものだと肩を竦める。
キングヘイローにとってレースとは神聖なもの。全力で、全開で、お互いの意地をぶつけ合う場所。
手を取り合って二人三脚でもするかのような関係はいらない。
お互いにぶつかり合いながら切磋琢磨するからこそ前へ進める。
遠くで坂戸トレーナーがスタッフたちと話し合っていた。
直に始まるのだろうと察せられた。
――もう言葉は必要ない。
スタッフの一人という福山という男性から簡単な説明を受ける。
「芝コース、1700m、左回りのレースとなります。距離に関してはマヤノトップガンさんの次レースが中京1700mのダートコースなので、それを想定しています。芝なのはキングヘイローさんを
「ご配慮いただきありがとうございますわ」
「うんうん、マヤノも芝も楽しそうなだなぁーって思ってたからオッケーだよ」
「ありがとうございます。自分がフラッグを上げたらスタートです。では、位置に付いてください。内側がキングヘイローさん、外側はマヤノトップガンさんとなります」
「「はい!」」
スタッフは邪魔にならないようコースを区切っている内ラチを潜って向こう側にいく。
さすがに普通の人間がウマ娘のスタートに巻き込まれると危険との判断だろう。
福山はゴール板の方にいるスタッフに向けて旗を振り、準備完了を告げる。
どんな様子かは遠くで分かりづらいが、向こう側も了承したのだと察した。
スタッフはフラッグを下に構える。
「位置について――」
スタート前特有のピリピリした空気が肌を刺す。
遠くの観客席からも視線が集中しているのを感じる。
「よーい――」
グッと足を踏みしめ、全神経を前方に向ける。
聞き逃さないよう耳にも気を配ることは忘れない。
息を飲む。
春先の陽光が包み込むトレセン学園の一角で、やっと始まる。
「スタート!」
旗が上がり、スタートが告げられる。
「――――っ!!」
その瞬間、ズドンという衝撃が少女の全身を襲う。
もう何度も味わっているスタート食後の空気抵抗だ。
ウマ娘は時速6、70kmでの走行が可能。しかも瞬発力もあるため、バイクのアクセルを全開にしたときよりも強烈な負荷が襲い掛かる。
とはいえウマ娘なら誰もが慣れている感触だ。
意に介さず、進み続ける。
走り慣れた芝の上をキングヘイローの身体が前へと突き進み、マヤノトップガンの前を往く。
1バシン――およそ2.5mと規定されている差を付けることができた。
完璧なスタートと言っていいだろう。
(このままぶっち切って、駆け抜けさせて貰いますわよ――――っ!?)
自分の思った通りに状況が動いていると確信しかけたキングヘイロー。
しかし瞬時に異常を察知する。
風を、肌で感じた。
今、自分の身体が受けている空気抵抗ではない。
ふんわりと肌を撫でるような感触――しかし一直線に隣から突き抜ける意思を持った風。
異常の正体が何なのかはすぐ理解できた。
明るい栗毛の髪が後を引くように右側を過ぎ去っていく。
小さな身長に加え、首を下げた低姿勢の姿はまさに地面スレスレで、縫うように走っている。
――――マヤノだって簡単に負けないよ?
そんな言葉を掛けられた錯覚を覚える。
キングヘイローをあっさりと抜いた突風――マヤノトップガンは3バシン差ほどを付けて前方を走っていた。
距離としては一軒家の端から端までより、もう少し前くらいの距離。
瞬足という他なかった。
(――ぐっ!? さすが先輩ということですか! でも、まだ!)
両脚に力を込めて、あらん限りを力をつま先に集中する。
彼女だって伊達にトレーニングを重ねたわけではない。
幼少期から自分なりの肉体を鍛え上げたのだ。
特に瞬発力にはそれなりの自信があった、のだが。
「縮まらない!?」
自分が加速している自覚はハッキリしている。
全身を襲う空気抵抗は増していた。
自身の茶褐色の髪が激しく波打つ。
既に限界ギリギリのスピードでの疾走。
なのに距離が縮まらない。
自分よりも小柄な少女。しかし力強い脚で地面を蹴り上げ続けている。
それが意味しているのは簡単だ。
(確かにまだ3ハロン――600mを超えたばかり。でも、まだ速度が上げり続けるなんて!?)
かつて母親たちの前で自身の走りを見せた時もあった。
あの時よりキングヘイローも成長し、動きにも磨きをかけた。
トレーニングは毎日欠かさない。
勉学だって怠らない。
礼儀作法だって真剣に取り組んできた。
彼女は常に全力で事にあたり、相応の成果を積んできたつもりだ。
もちろん自惚れているわけではない。
世の中、誰にでも自分より優れている者はいるだろう。
マヤノトップガンという少女も、彼女なりの
だがしかし、
(……こんなにも、開きがあるなんて)
レースは中盤から終盤へと差し掛かる。
左のコーナーを曲がり始め、身体は左へと傾く。
はっはっはっと息が上がり始める。
心臓は既に嫌な鼓動を上げっぱなし。
全身から汗が噴き出て、早くも溜まった乳酸が疲労を訴えかけてきた。
普通ならもう少し余力があったはず。
しかしキングヘイローのスタミナが枯渇し始めていた。
なぜなら最初から全速力だったからだ。
そうしなければ3バシンどころか、圧倒的な大差を付けられて勝負にならない。
――やはり上には上がいるのか。
キングヘイローも馬鹿ではない。
世界が自分の都合の良いようにできているなんて子供染みた妄想はしない。
強者はあるべくしてある。
シンボリルドルフはその典型だ。
彼女の勝利の裏で、いったい何人のウマ娘たちが苦渋を舐めてきたのか。
そういった歴史もまた勤勉な彼女は学んできた。
だからこそ、努力は人一倍こなしてきたつもりだ。
自分がその一人にならないために。
それなのに、
(為すすべなく敗北する――それが私の運命だって言うの!?)
既にゴールがある最後の直線――最終コーナーに到達しつつあった。
残りは5、600mくらいだろうか。
未だにマヤノトップガンとの差は縮まらない。
いや、何とか3バシン差で維持できているというのが現状だ。
全速力を続けて脚も疲労状態。
振り上げる両手も徐々に上げるのが億劫になる始末。
――格の違いを見せつけられて終わるのか。このキングヘイローが……キングの名を知らしめるなどと思っていた自身が。
全力で走っても未だに差が追いつかない。
「くそっ」と短く舌打ちしたくなりそうな
ジリ貧のまま良いところもないまま敗北。
それで終わるかと思われた。
しかし、
「っ!?」
突如、歓声が沸く。
内心でびっくりしつつも、キングヘイローはチラリと声のした方を見た。
観客席からどよめきがしている。
何名か分からないがおそらく100名以上はいるだろうと思われる観客席。
なぜ彼女たちが驚いているのか。
分からないまでも、彼女の鋭敏な聴覚が風の音に混じった声を、何とか拾い上げる。
「
「坂戸トレーナー直々に指導を受けている方に新入生が追従できるの!?」
「どっちも凄く速いっ!」
他者の視線が自分に集中しているのを感じる。
そして称賛の声も多く混じった。
キングヘイローはそのとき初めて理解する。
そして薄っすらと口元が緩む。
――そうか、マヤノトップガンは強いウマ娘か。
――ならば自分が勝利すればどれだけ注目を集められるのか。
――自身の証明は勝つことでしかできない。
――だったら、やることは決まっている!
疲れている。状況は最悪。勝ち目などない。
到底届かないと思っていた状況。
瞳に光が戻り、歯を強く噛み締める。
理性が訴えかける弱気な感情全てを彼女は――キングヘイローは、意図的に遮断した。
そんな想いを何と表現するか。
「まだあああっ! こんなところでぇっ!! 負けるわけにはいかないっ!!!」
「うわわわ!? ヘイローちゃんすっごーい!」
ぎゅんと一息に加速する。
驚愕するような声がマヤノトップガンから発せられた。
風を全身で受けて負荷が高まる。
しかし、それでも尚、前を駈け続けようと意地にも似た信念で走り続けた。
この瞬間のキングヘイローは面倒なことなど一切考えていなかった。
――負けず嫌いなだけだ。
そう自虐的な考えがよぎる。
本当にただ負けたくないという一念のみ。
身体が悲鳴をあげているはずなのに、何故か高揚感に包まれたまま、駆け続ける。
気付いたら、あんなに遠かった小さな背中は視界から消えていた。
右側を併走している雰囲気だけを感じる。
おそらく自身が出した全力――それは今、このレースで発揮できている。
最高速度を超えた走りができている。
無茶をしていると分かってはいるが止まらない。止められない。止まってはいけないとキングヘイローは考えていた。
無茶をした先に何があるかも理解している。
しかし全力疾走の疲れか、それとも動き過ぎた反動での酸素不足か。
もほや脳内すらぼんやりと薄曇りがかかり始めた中で薄っすらと考える。
(……
併走トレーニングではあるが、キングヘイローは確かにこのとき、自分の限界を突破できた走りができているという自覚があった。
ならばあとは勝利するのみ。
顔を上げ前方を見据えた。
無理やりにでも腕を上げ、何度も訴える脚の疲労感を強引に振り払う。
気持ち前傾姿勢を取りながら、マヤノトップガンを抜き去って勝利する。
その栄光の道は霧がかった脳裏でも描けていた。
そう脳裏では。
――――ごめんね、ヘイローちゃん?
残り200m。
不意に語りかけるような声を聞いた。
全力で駆け続ける自身が本当の意味で、その声を捉えたかは分からない。
疲労が限界を突破した末の幻聴かもしれない。
ただ甘ったるい声がキングヘイローへと投げかけられたように感じた。
申し訳ないような、でも全力で今を楽しいと感じているような弾んだ声。
――――私も絶好調だから、先に行くよ。
届いたはずの背中。
勝てるはずだった背中。
しかし瞬時に抜き去っていく背中。
描いていた脳内の勝利への道は霧の中へと消えていく。
ただ栗毛の弾丸と化した少女がゴールへと駆け抜けていく姿だけは、ハッキリと両目で捉えていた。
☆
そんな2人のレースぶりを見ていた坂戸トレーナーは唖然とした様子で見ていた。
椅子から勢いよく立ち上がったことに他のスタッフが驚いているが気にする様子もない。
測っていたはずのストップウォッチを押すのすら忘れて二人を見つめている。
「まさか、そんな……まるであれは…………っ」
震えた手を前を伸ばすような動作だった。
まるで別の光景を見ているような、そんな動き。
老いたトレーナーの目に何が映っているのかは分からない。
呼吸すら忘れかけていたほどだったが、ハッと意識を取り戻すと、先ほどの妄想を振り払うように坂戸は頭を振る。
「――いや、歳を取ると変なことを思い出すのはいけないのう。それに、
「坂戸さん、なにか気になることでも?」
「……老眼でな、ちょっと良く見ようと立っただけじゃよ。さて、行くかのう」
坂戸の突然の行動に周囲のスタッフが怪訝な表情をしていたものの、いつもの好々爺した様子で適当に誤魔化す。
これはただの併走トレーニングに過ぎないと
あんなものは何処にでもよくある光景。
どこぞのレースに関連付けるなど無茶にもほどがあった。
そんな自身の考えをくだらないと一蹴しながら、坂戸トレーナーはゆっくりとゴール板を超えた二人に声を掛けるべく向かうのだった。
☆
「はぁ、はぁ、いやぁーヘイローちゃん凄かったねっ! はふぅ……マヤノびっくりしちゃった。あと200mほど脚を溜めて使われたら危なかったよぉー……はぁっ」
「はぁっ、はぁっ……………っ」
汗をかき、運動直後で血の巡りが良くなっている頬を紅潮させたマヤノトップガンは無邪気な笑顔でキングヘイローを称賛する。
実際、タイミングさえ良ければ先にゴールしていたのはキングヘイローだった可能性はあった。
ただレース慣れしていない彼女では、いつ仕掛けるかというタイミングをまだ理解しきれていない。
対してマヤノトップガンは既に6戦ほど真剣勝負のレースを行っている。
経験の差という他ないだろう。
称賛を受けているキングヘイローはただ膝を付いて俯いたままだ。
当初はすぐに立ち止まるのも身体によくないと、覚束ない足取りで周囲をフラフラと歩いていたが、現在は力尽きて両手を付いている状態。
汗の量はマヤノトップガンよりもかなり多く、酸素が足りないと肺がずっと空気を要求している。
しばらく応答のないまま息を落ち着けようとしていた。
そんなキングヘイローの傍にいた彼女だったが、不意に激しく上下させていた肩がゆっくりになっていく。
その様子に息が整ったのかと思ったマヤノトップガンが声を掛けた。
「……そろそろダイジョーブ? ヘイローちゃん」
「ぐ――」
「ぐー?」
「ぐぐぐぐぐぐぐぐぎぎぎぎぎぎぎぎっ!」
「ど、どうしたのっ!? なにかものすんごぉーく、歯ぎしりしてるけど!?」
「悔しいから
キングヘイローは負けず嫌いだった。
それも筋金入りの。
だからこそマヤノトップガンに一時とはいえ追いつけたとも言えるが、結局負けてしまった。
練習だろうが何だろうが、勝ち負けの付くのもので負けるととにかく悔しい。
それがどうしようもないものでも、凄く悔しくなる。
子供っぽいという自覚はあったが、それでも三つ子の魂百までとでもいうのだろうか。
こればっかりは生来のモノなのでどうしようもなかった。
しばらく
マヤノトップガンに改めて向き直ると、少しだけバツが悪いように視線を逸らす。
そしてそのまま握手を求めるように手を差し伸べた。
「……その、ありがとうございましたわ。完敗、としか言えませんでした」
「えぇー、全然そんなことないよっ。ヘイローちゃん凄かった! 最後は追い抜かれると思ったもん」
「親以外の、地元の同年代には負けたことがなかったのだけれどね。……初めての敗北ですわ」
「それじゃあマヤノがヘイローちゃんの初めてを貰ったことになるんだねっ♪」
「……その言い方は誤解が生じそうなのでやめてくださいまし」
「んー?」
呆れつつキングヘイローが手を出すと、相手も小さなで右手を掴み、ぶんぶんと上下に振る。
握手というには乱暴だったがお互い特に気にした様子はない。
すっかり打ち解けた様子だった。
「それにしても、自分で限界の更に先を行けた感覚があったうえで差を付けられるとはね。内容としては実力差を見せつけられたようにしか見えませんわ」
「でも次からは、その限界を超えた力を引き出せるようになるんでしょっ。なら、むしろもっと良くなるってことだよぉー」
「そ、そうかしら。……そうですわね、まだキングヘイローの伝説は始まったばかり。幸先が良いということですわね! おーっほっごほごほっごほぅ!? …………ごほっ、う、運動直後の高笑いはやめた方が良さそうですわね……」
純粋な称賛に気を良くしたキングヘイローは気分が高揚していたこともあって、高笑いをするも盛大にせき込む。
胸を抑えながら少し気分を落ち着けていると坂戸トレーナーがゆっくりとした歩調でやってきた。
「どうだねキングヘイローさん。全力で走った気分と言うのは」
「爽快ですわね。それにマヤノ先輩と併せていただいてありがとうございます。また一歩自分の理想とする走りに近づけた気がします」
「マヤノもねぇー、とぉっても楽しかった! また芝コースで走りたいなぁー」
キングヘイローは礼儀正しく頭を下げる。心からの感謝だった。
マヤノトップガンも釣られたのか勢いよく頭を下げた。
そんな彼女たちに坂戸は穏やかな笑みを崩さない。
「そうか、2人とも得るものがあって良かったわい。……どうやら、少しくらいは頭の迷いが晴れたようじゃの」
「迷い? ……あ」
元々はキングヘイローのチーム選びに悩んでいた最中に、坂戸から併せトレーニングをしてみないかという話だった。
すっかりそのことを忘れていたことに苦笑する。
単純な自分が少し可笑しかった。
おかしかったついでに、こちらからも提案しようと考える。
「坂戸トレーナー」
「なんだい」
「もしよろしければ、そちらのチーム<レヴァティ>に入らせてください。お願いします」
綺麗な姿勢で頭を下げるキングヘイロー。
マヤノトップガンと言う強者もいる。
長い歴史を誇る老舗という看板、チームは最大規模、スタッフと施設の充実、そして老練のトレーナー。
もう迷うことはない――このチームだと彼女の直感が囁いていた。
もし後で間違ったと思っても後悔はないだろう。
そんな彼女の申し出に、いち早くマヤノが喜色を浮かべてはしゃぎ出す。
「ヘイローちゃんも入ってくれるのっ!? マヤノはサンセーサンセー大賛成だよ! ねっねっおじーちゃん、決定だよね!」
「そのこと、なんじゃがな」
坂戸は少し悩んだ様子で口ごもる。
その様子にキングヘイローは顔を上げつつ困惑する。
もしかして入部拒否かもしれないという可能性が沸いたからだ。
実際、チーム加入の判断をする権利はトレーナー側にある。
駄目と言われたらまだ振り出しに戻ってしまう。
そんな不安な表情が出そうになったとき、坂戸は髭をなぞりながら口が開く。
「うむ、オッケーじゃ」
「わーい、おねーさんの加入だぁー!」
「今の溜め、必要ありませんわよねっ!? あとおねーさんと言わないでくださいまし」
両手をバンザイしながらマヤノトップガンが無邪気に喜ぶ。
その横で不安になって損したと肩を
「しかしだ、キングヘイローさん。その決定はあくまで保留としておいた方が良い」
「保留、ですか?」
真剣な口調に戻った坂戸は保留という選択肢を用意してきた。
穏やかな雰囲気とは違う。
細目の坂戸では瞳を見ても感情が
ただ本当に真剣な、しかし眉を下げて話す姿はどこか哀愁も感じさせる。
なぜそんな顔で話すのかキングヘイローには分からなかった。
「……とかく若者は一度した決定に固執しやすい。そうして自身の決断に執着した結果、後々になって間違いだったと気づく場合もある。特にその決定が大きければ大きいほど迷いと後悔は肥大してしまう。現に儂はそうやって自分の選択に、あとから大いに後悔してしまったという若者を見たことがある」
「それは、チームの移籍という選択肢も忘れるべきでない、ということでしょうか?」
「そうだ。チーム<レヴァティ>は歴史と規模はあるものの、やはり他のチームに比べて劣る部分も多い。特にキングヘイローさんは勝利への執念が強い。ならば強者が多いチーム<リギル>を率いる東条ハナトレーナー――彼女の元で練習するのが最適だと儂は思っておる」
「…………」
「だから額面上は加入としておくが、本加入は冷静に考えてから決めて欲しい。老骨のくだらない拘りかもしれんが、頼む」
通常、強いウマ娘の加入はチーム側としては願ったり叶ったりで、もろ手を挙げて喜ぶのが普通だ。
実力者が入れば、他の者にも良い手本になる。
マヤノトップガンとキングヘイローがお互いに良い刺激になったのが良い例だ。
更にトレーナーはウマ娘の実績で評価されることが多いから尚のこと。
そしてキングヘイローは自身がウマ娘の中でも上位の実力を持っていると信じて疑わなかった。
実際、新入生の中でキングヘイローと肩を並べられる者は少ない。
だからこそ、彼女の加入を喜ぶどころか、暗にチームをすぐ離れても良い――そんな風に取れる言動をする坂戸トレーナーの意図は分からなかった。
ただそこまで頼まれたら頷くしかない。
「……分かりました。まずは仮入部の気持ちで入らせて貰いますわ」
「えぇー! 本加入で良いと思うのにぃ―。おじーちゃん、普段はそういうこと言わないよね?」
「キングヘイローさんのことを考えてのことじゃ、分かってくれマヤノ。それにうちは元々、移籍推奨のチーム。他の子も入ったり、他所へ移籍しているだろう?」
「ぶすぅー……」
坂戸トレーナーの言動にさすがのマヤノトップガンも不信感を抱いたのか、不満そうな声を挙げる。
ただ諭すような口調でも、唇を尖らせて無言の抗議をしている。
そんな彼女に対してゆっくりと頭を撫でながら、
「わかっておる、自分に付いていける速いウマ娘が欲しいのじゃろう。今、他チームと交渉して有力そうな子の目星は付けておる。もう少ししたら一緒に走れるかもしれんから我慢してくれ」
「ほんとっ! 嘘ついたらハリセンだよぉー! あと芝のレースしたい!」
「わかったわかった。次のダートが終わったら探しておこう」
「わーい」
「ハリセンって地味に痛いことしますわね……」
「それにしても」とキングヘイローは呟く。
たった一日なのに凄く濃い日だった気がした。
老練のトレーナーに、実力上位であろう先輩。そして老舗のチームに、規模だけはやたら大きい。
焦っていたはずなのに変化が激しい一日だった。
これからどうなっていくのか。
それは誰にも分からない。
しかし当初は焦っていたばかりの心境は穏やかな感情に様変わりしていた。
やっと始まるのだ。
トレセン学園での本当の戦いが。
ふぅと軽く息を吐ているとマヤノトップガンと坂戸トレーナーが自身を見ていた。
そして小さな少女が満面の笑みを浮かべながら手を差し伸べる。
「ようこそっ、チーム<レヴァティ>へ!」
「しがない爺トレーナーじゃがよろしく頼むよ、キングヘイローさん」
「……ええ、よろしくお願いしますわ。マヤノ先輩、坂戸トレーナー」
手を取り合ってそのまま歩き続ける。
笑顔で語るマヤノとそれに応対するキングヘイロー。
そして穏やかな表情で、それを見守る坂戸トレーナー。
彼女たちの物語は、静かに降り注ぐ夕陽の中、ゆっくりと始まる。