最後の一歩【完結】   作:イーベル

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メイレイ

 (あい)からの罰を甘んじて受けた後、時間が丁度良い事もあって各自で大浴場に向かった。僕は一時間ほど大浴場を堪能してから、浴場からコーヒー牛乳を片手にロビーに出る。

 しばらく歩いて、空いていた竹で編まれたベンチに腰をかけた。ここなら逢が出て来た時に僕を見つけやすいだろうと思ったのだ。

 瓶の蓋を開けて、苦みよりも甘味が強い液体を口にする。冷えたそれが喉を通り抜けるたびに、火照っていた体がゆっくりと冷まされていく。この感覚が好きで、ついつい買ってしまうのだ。

 まあそれは置いておいて、せっかく一人なのだし、今回やるべきことについて整理しておこうと思う。

 なにも目的もなく逢を誘ったわけでは無いのだ。この温泉旅行を当てたことは偶然だったけれど、これから先にやる事は必然にしたい。

 まず僕の目的は彼女に改めて思いを伝える事だ。僕がこれからも逢と長い時間を過ごしていきたいという事を伝える事、端的に言えばプロポーズ。結婚の申し込みだ。

 僕の気持ちは固まっている。問題は無い。

 だけれど、彼女は、逢はどうなのだろう? 

 僕と一緒になってもいいと思ってくれるだろうか? 

 その答えは分からない。……当たり前だ。

 でも、だからこそ追い求めてきた。本気で向き合った。逢にとって僕がそういう人物になれるように。

 だから、後は確かめるだけなのだ。逢の気持ちを、この十年間の答えを。

「すいません先輩。お待たせしましたか?」

 下を向いていた僕を覗き込むように逢は問いかける。僕は「いいや」と首を振った。逢は「そうですか」と答えて僕の左隣に座る。

「先輩も買ったんですね。コーヒー牛乳」

「ん? 逢も買ったんだ」

「ええ、ほら」

 そう言って僕の目の前で、茶色の液体が入った瓶を振って見せる。纏っていた浴衣の袖がつられて揺れた。

 風呂上りの逢は僕と同じく浴衣に身を包んでいる。薄着になり、腰で閉めた帯の効果もあって、来ていた服よりも格段に体の凹凸がはっきりしていた。湯上りで赤くなった頬も相まって、色っぽさが増している。

 今思えばどうして僕は先にマッサージをしたのだろう。浴衣になってからなら、より逢の体温も、肌の感触も感じ取れただろうに……。今になってみると後悔しかない。

「先輩、どうしたんですか? さっきから難しい顔したりして」

「え、そう?」

「はい。私があそこから出てきた後と、たった今。少なくとも二回はそんな顔をしてました。何か考え事でもしていたんですか?」

 そう言われて僕は言葉に詰まった。どちらも考え事をしていたのには変わりない。ただ、一方は真剣な考え事だったのに対して、もう片方は卑猥な考え事だった。どちらにしろ、話すことが難しそうだ。

 結局、僕はどちらを話すわけでもなく、思うがままに口を動かして誤魔化すことにした。

「いや、逢がどんなふうに出てくるのかを考えてたんだよ。髪を結んでくるかもとか、浴衣はどんなふうに着てくるかなぁ……ってさ」

「そうですか。お期待に沿えず、すいませんね。髪はそのままですし、浴衣も先輩が想像していたようにエッチに着崩してはいませんから」

「そ、そんなこと言ってないじゃないか」

「あれ、違いましたか? 先輩の事ですから、てっきりそんな事を考えているんじゃないかと思ったんですが」

「……そんな事はないよ」

 エッチな事について考えていたのはあながち間違いではない。だからあまり強く否定できなかった。

「今の間は何ですか、先輩?」

「いや、特に深い意味がある訳じゃ無いよ」

「そうですか……。それで、どうですか私の浴衣姿は」

 逢は僕の目の前でくるりと一回転して見せた。浴衣の裾が、髪が、ふわふわと揺らめいて、何だか周りにいい匂いを振り撒いていそうだ。

「うーん」

「どうして悩むんですか」

「いや、どうやって表現したものかと思って」

 そう、困った事に彼女の可愛さを、愛おしさを上手く表現できるだけのポキャブラリーを持ち合わせていなかったのだ。こういう時に自分の語彙力の無さが恨めしい。

「別にいいですよ。一言でも二言でも。こういうのは行って貰う事に価値があるんですから」

「まあ、そうだね。言わないよりはずっといい」

 期待する逢を視界に捉えつつ、僕はから揚げにかけるレモンのように限界まで振り絞って続けた。

「かわいいよ、逢。魔法の鏡があったなら確認したいぐらいだよ」

「ふふっ、ありがとうございます。白雪姫に例えられるというのは光栄ですね。でも、少し困りました」

 顎に手を当てつつ、逢は僕を横目で見る。

「え、どうして?」

「だって、先輩。鏡に問いかけるのは王妃様ですよ。最後にひどい目にあわされちゃいます」

「あれ、そうだったけ?」

 小さい頃に美也に読んで上げたっきりだったから、すっかり忘れてしまっていたみたいだ。逢はそんな僕を見てクスクスと笑う。

「はい。肝心な所でちょっとドジ踏むのは先輩らしいですけど」

「ははは……」

「でも、先輩には王子様になって貰わないと困ります」

「え?」

 耳元で囁かれた。僕は思わず聞き返したけれど、逢は微笑むだけでもう一度は口にはしなかった。彼女は立ち上がって僕の正面に立つ。

「さて、先輩。部屋に戻りましょうか。お風呂も入り終わった事ですし」

「ちょっと待ってよ。逢、さっきのは――」

「そう何度も言いませんよ。言葉の意味は先輩が考えて下さい」

「そんな……」

 うなだれる僕に逢は「行きますよ」とだけ声をかけて歩き始めた。

 立ち上がって彼女の後を追うけれど、僕にはどうしてもさっきの言葉の意味を知りたくてたまらなかった。

 だって、本来見えないものを可視化できるチャンス。逢がどう思っているのか、本来見えないはずの答えを掴むことができる機会だったのだ。だからどうしても諦められなかった。

 僕は聞き出すための手段を求めて、思考を巡らせた結果目の端に捉えたある物を利用することに決める。

「なあ、逢」

「なんでしょう? さっきの話の続きならしませんよ」

「そうじゃなくてさ、あれ見てよ」

 僕は離れた所にあった物を指差した。そこには白線が引いてあり、ネットが張られている台。まばらではあるが、人がボールを打ち合っているのが見える。

「卓球台ですか」

「うん。旅館に温泉、それに続くものと言ったら卓球だよ。せっかくだし、やって行かないか」

「定番ですからね。良いでしょう。汗をかいても室内の方の温泉に入れば良いですし」

 意外にも逢は素直に僕の誘いに乗った。僕はラケットを二つとボールを借りると、逢の対面に陣取ってから声をかける。目的は勿論、逢を罠にはめてさっきの話の続きをさせることだ。

 ラケットを片手にプラスティックでできたボールを弾ませる。

「逢、せっかくだし勝負しないか?」

「勝負ですか? まあ、良いですよ。ルールはどうします?」

「じゃあ、六本先に撮った方が勝ちで、勝者は敗者になんでも一つ、言う事を聞かせられる命令権を得るって事でどうだ?」

「それでいいですよ」

 俺の罠、言う事を聞かせられる権利に対して間を開ける事無く頷いた。身体能力という名目、男女の差、それらを踏まえてもう少し考える時間があってもいいはずだ。僕に有利なのがまるわかりなのだから。

「良いの?」

「はい。だって先輩に負ける気なんてしませんから」

「後になって後悔しても絶対に聞かないから、なっ!」

 語尾を強めに言い切るとラケットを力強く振った。そこそこのスピードでボールが弾み、敵陣地に向かっていく。

 完全に不意を突いた。逢は完全に棒立ちだ。これで一本目は僕の物。

 そう、思っていた。

 でも、次の瞬間。プラスティックの軽い反発音。ボールが軌道を変えた。逢がラケットで打ち返したのだ。僕の逆サイドにボールが吸い込まれ、地面に落ちる。見事なリターンエースだった。

「全く、こんな事じゃないかと思ってました。卑怯な手を使いますね、先輩は」

「真剣勝負なんだ。卑怯も何もないだろう」

「ええ、そこに文句を言う気はありません。ただ、後で『ハンデをくれ』なんて言っても聞く気はありませんから、そのつもりで」

 逢はそう言って笑うと、ラケットを振るった。

 

  ▼

 

「私の勝ちです」

「そして、僕の負けか……」

 ストレート負けは回避できたものの、逢に完敗を喫した僕は、地面に両手を付いて敗北の苦汁を味わっていた。

 よくよく考えて見れば、逢はバリバリの運動部出身(それもエース級だ)であるのに対して、僕は帰宅部。さらに社会人になってまともにスポーツすらしていない。

 そこをしっかりと考慮すればこの敗北は必然だっただろう。美也を相手取るのとは訳が違う。

 敗因分析はさておき、問題は逢がどのような命令をしてくるのかという事だ。正直な所僕は負けることを想定していなかった。故に、どんな命令に対してもケアができていない。強いてその対抗策を上げるのであれば、

「さて、逢。いい感じに動いたことだし、そろそろ部屋に戻ろうか」

 こうして誤魔化すことだ。

 それを見た逢はいつものように手を合わせて微笑む。

「それもそうですけど先輩、いつまでそんな恰好をしているつもりですか?」

「ん? ああ、ゴメン。負けたのが想像以上に悔しかったからさ」

 逢の指摘を受けて僕は立ち上がって地面に付いていた部分を叩く。

「でも仕方無いです。だって、それだけ命令権が欲しかったんですよね。先輩は」

 逢は隣に移動して語りかけてくる。くっ……忘れていてくれなかったか。いや勿論逢がそんな単純な人間だとは思っていなかった。けれど、僕に残された最後の希望が儚く砕けて散ったのだから、悔しがらずにはいられない。

「負けは負けだ。逢は何を命令するの? 煮るなり焼くなり好きにしてよ」

「ふふっ、じゃあ、どうしましょうか? 先輩にしてもらいたい事が多すぎて悩んじゃいます」

 逢は僕を見ながらニヤニヤと口元を緩ませている。きっと彼女は悔しさに歪む僕の表情を見て、楽しんでいるに違いない。

 やがて逢は「よしっ」と小さく呟くと話を切り出した。

「この話は一旦保留にします」

「えっ、そんな」

「ルールには違反してませんよ。『いつ』なんて時間の指定はありませんでしたから」

「それは、そうだけど……心配で僕の身がもたないよ」

「今日中には消化しますから、それまで我慢してください」

「それなら、何とか」

 僕は胸を撫で下ろす。いつでもどこでも命令権に怯えるのはごめんだ。それが回避されたのは不幸中の幸いだった。

「じゃあ、戻りましょうか。先輩」

 僕はその言葉にうなずいて、ロビーを後にした。

 

  ▼

 

 部屋に戻ってしばらく待つと、待ちに待った夕食の時間がやって来た。旅館の仲居さんがそれらを机の上に並べて、僕たちは礼を言ってそれからお互いの対面に座る。

「すごいですね、先輩。何というか浮世離れしているというか……」

「浮世って、これは現実だよ、逢。でもまあ、言おうとしていることは分かるけどさ」

 たぶん、逢が言いたいのは普段よりも豪勢な食事だということなのだろう。家庭料理もいいけれど、こういった物が食べれるのはやはり、特別なときだけだ。

「以心伝心で何よりです。冷める前に食べちゃいましょうか」

「そうだね。じゃあ、頂きます」

「はい。頂きます」

 手を合わせてそう言うと、割り箸を割って料理に手を付けた。刺身の盛り合わせから一切れ取って、醤油だまりに付けて口に入れる。

「旨い!」

「御刺身ですか?」

「ああ、柔らかくて、口の中でゆっくり解けていく感じって言えばいいのかな。梅原(うめはら)のお寿司屋さんにも引けを取らないよ」

「梅原先輩ですか。何か、懐かしいですね。お寿司屋さんになったんですか」

 少し驚いたように目をバチクリと瞬きをした。

「あれ? 言って無かったっけ」

「はい。上級生の進路なんて、なかなか知る機会なんてないですよ。私が知ってたのは塚原(つかはら)先輩とか、水泳部の先輩たち、それと先輩ぐらいです」

「そっか、梅原は実家のお寿司屋さんを継いだんだよ。今度、逢も一緒に行こうか」

「それは楽しみですね。先輩、御馳走になります」

「僕が奢ることになってる!?」

「冗談ですよ」

 逢は口元に手を添えて、クスクスと笑う。僕はてっきり命令権を行使されたかと思ってびっくりしてしまった。逢は本当に僕をからかうのが上手い。

「それよりも先輩、ごはんよそいますよ。お茶碗貸してください」

「ああ、ありがとう」

「どれぐらいにしますか?」

「ちょっと多めでお願いするよ」

「はい。分かりました」

 逢は僕から茶碗を受け取ると、おひつからよそって僕に手渡した。僕は「ありがとう」と言ってから受け取る。

 それにしても、こうやって同じ食卓を囲んで、ごはんまでよそって貰うとなると何だか新婚の夫婦みたいだ。もし、そうだったらどれだけ幸せなのだろう。

 家に帰ると逢が居て、こうやって食事を共にして……考えただけでもなんだかドキドキしてきちゃうな。

 でも、これを夢物語にしないためにもいつかは言わなきゃならない。

 そう、いつかは……。

「先輩、どうかしましたか? ちょっと怖い顔をしてます」

「え、そうかな?」

「はい、眉間にしわが寄ってました」

 逢の指摘でふと思考の沼から抜け出す。相変わらず僕はポーカーフェイスが苦手らしい。でもここで馬鹿正直にいう訳にはいかないので、パッと思いついた適当な話を切り出した。

「どうしてこんなに美味しいものを作れるのかなって」

「それは、料理人の企業秘密じゃないですか?」

「まあ、そうなんだけどさ。もし知ってたら家での料理もちょっと美味しくできるかもしれないじゃないか」

 僕は適当に話を進める。逢は箸を運ぶ手を止めて、少し黙った後に僕に言葉を返す。

「先輩の言う事にも一理あります。でも、知ったところで実践できないってこともあります」

「実践できない? どうして」

「一般的なのは道具ですかね。例えば中華料理なら、厨房の火力や鍋ですとか、なかなか用意できないです」

 成程。僕は頷く。確かに用意がしづらいだろう。できたとしても大きなコストがかかりそうだ。逢は続ける。

「あとは……作り方を知っても、それを習得するまで継続できないって事もありますかね」

「継続できない、三日坊主になるってこと? まあ技術を習得するのは大変だけどさ、それは僕みたいな面倒くさがりだけで、逢なら何とかできたりしないの?」

「技術だけなら何とかなるかもしれません。でも、食事は別です。中華料理つながりでチャーハンにしますけど、先輩は毎日チャーハン食べたいですか?」

「いや、あまり」

「ですよね。それと外食のチャーハンって結構油使ってるんですよね。家庭料理なら使うのを躊躇っちゃうぐらいに」

 確かに。僕は頷きながら箸で焼き魚の身を解し始める。

「例外はあれど、作ったなら食べなきゃいけません。高頻度で沢山の油分を食べなければなりません。となると健康を犠牲にすることになります。だから、維持できない。実戦できない。してはいけない、ってところでしょうか」

 納得だ。確かに健康を考えるのであれば、維持してはいけない。こういう所でも逢の家庭的な感覚を感じ取れる。

本当に良いお嫁さんになりそうだ。まあ……恥ずかしくて口にしないけれど。

「だから、別に知らなくてもいいんですよ。自分の継続できる調理の仕方を知っていれば」

「……そんなものか」

「ええ、そんなものです」

 逢はそう話題を締めくくると、再び箸を動かし始めた。僕は解した魚の身を口へと運ぶ。噛み締める度に広がる旨味を味わいつつ、考える。

 知らなくてもいい。

 この単語が妙に耳についた理由。それはきっと、僕がさっきまで逢の心境を暴こうとしていたからなのだろう。

 知らない事を知ろうとする。これは当たり前なのだけれど、知らないでいても良いという発想もある。知らないからこそ、見えてくるものがある。

 僕は逢に拒絶される恐怖に怯えて、それから目を背けていた。だいたい、知ったところで何だ。ダメだと分かったら身を引くのか?

 それは、違う。

 分かった所で、僕の気持ちは変わらない。自己満足でも何でも、この気持ちを伝えなければ気が済まないのだから。だからこの件に関しては、知らなくてもいい。そう思った。

「やっぱり、逢はすごいな」

「先輩、何か言いましたか?」

「いや、何でもないよ」

 

  ▼

 

「ふうっ……あー気持ちいい」

「先輩、戻って来るなりだらしないですよ」

「僕は悪くない。布団が気持ちいいのが悪いんだ」

 食事を終えた僕たちは、もう一度浴場に行って汗を流して戻って来た。卓球をして汗をかいてしまっていたのもあって、そのまま寝るのは(はばか)られたのだ。

 その障害が取り払われた以上、敷かれた布団に寝っ転がる事に躊躇する理由なんてない。

「そういう所、先輩は子供っぽいというか、成長していないというか……」

「弟にそっくり、とか?」

「いえ、最近の郁夫は先輩より幾分も大人です」

「そんな……」

 高校時代からよく似ているだの、何だのと言われ続けてきたからショックだ。逢の弟はいつの間にそんな成長していたのだろうか。少し気になる所だ。

「でも僕だって昔に比べれば幾分かマシになってるよ。こういう所を見せるのは逢の前ぐらいだよ」

「それは……喜んでいいんですか。呆れればいいんですか」

「まあ、逢も寝っ転がれば分かるって。ほら」

 僕は上体を布団から起こすと椅子に座っていた逢の手を引っ張って、体制を崩させる。彼女の身体が布団に倒れ込む。野球で言う所のヘッドスライディングみたいだった。

「急に何をするんですかっ!」

「いや、逢にもこの気持ち良さを体感して欲しかったからさ。気持ちいいでしょ?」

「それはそうですけど……なんか気に食わないです」

 うつ伏せになっていた逢は腑に落ちないようで、プクーと頬を膨らませた。逢にしては珍しい仕草で、僕はそれをじっくりと眺める。

「何ですか」

「いや、拗ねた逢も可愛いなって」

「別に拗ねてません」

 いや、それ言って拗ねてない奴なんているのかな。少なくとも僕は見たことが無い。特に美也なんかはその典型例で、そう言いつつも態度は不機嫌なのを隠さないのだ。

 まあこの状況は九割方僕が悪い。軽度とは言っても不機嫌なままでいられるのは嫌だ。だから僕はある行動に出ることにした。

 四つん這いで逢に近寄ると、彼女の頭に触れた。手が前髪をかき分けると、普段は見えないおでこが見える。風呂上りだからなのか普段からなのか分からないけれど、サラサラとした感覚が手から伝わった。

「本当は僕だって、カッコイイ所とか大人っぽい所の一つや二つ、見せたいと思っているんだけどさ。慣れてないというか、得意じゃないんだよ。申し訳ないけどね」

「……知ってますよ、それぐらい。ここまで長い付き合いなんですから」

 逢は僕の手を振り払うこと無く、受け入れるとそう言葉を返した。その後に今度は僕の頭に向かって手を伸ばす。小さい手が前髪をかき分けて僕のおでこを晒した。

「でも、見せるのが得意じゃないだけで、カッコイイ所も大人っぽい所もいっぱいあるって事も知ってます」

「そっか。ありがとう」

 僕はちょっと力を入れて逢の頭をワシャワシャッと撫でた。逢の手が頭から離れて、僕の手を捕まえるために動く。

「ちょっ、やめてくださいよ、先輩。髪崩れちゃいますから」

「ああ、ゴメン。逢が可愛かったから、つい」

「悪いと思っているのなら手を止めたらどうですか!」

 一向に手を止めない僕に対して、逢は交戦する決意を固めたのか、鋭い目つきでこちらを睨む。威圧感としては『一人ぐらい殺ってやる』ぐらいの殺気を感じ取った僕は一瞬、撫でる手を止めてしまった。

 その隙に逢は僕へと詰め寄って、押し倒す。そのまま流れるように僕の腰の上に居座り、マウントを取った。両手首を掴んで、手を動かす事すら許さない徹底ぶりだ。

「先輩は忘れてませんか?」

「何を、かな?」

「私が命令権を持っている事です。これだけ私に好き勝手しておいて、何の報復も無いと思ったら大間違いですよ」

 そういわれて思い返すのはつい先ほどの『足裏マッサージ』なのだが、あの痛みをまた味わうのは流石に気が引けた。

「いや、その……逢、僕が悪かった。だから罰で使うのは勘弁してもらえないかな?」

「先輩はさっき私が『止めて』と言っても聞きませんでしたよね? 都合が良すぎませんか」

「それは、そうだけど」

「だいたい、命令権に拒否権なんて無い、ですよね」

 彼女はそう言って首を傾けた。目を細めつつ笑っている。悪戯を仕掛けるときの少年みたいな表情。僕はそれに屈して、目線を下げた。

 でも、思わぬ副産物が視線の先ににあったのだ。浴衣の帯が、緩んでいる。さっきのもみ合いになったとき引っかけたのだろうか? 顔にばっかり目が行っていてさっきまでは気が付きもしなかった。ということはもしや……。

 予感を確信に変えるために、腰の帯から視線を上へ戻す。首元。チラリと見える鎖骨。そして、普段は隠されている二つの果実は――見えそうで、見えない。

 くそっ! どうしてだ! あと少し、逢があと少しだけ動いてくれれば見えるのに……!

「先輩、どこ見てるんですか」

「えっと、ど、どこだと思う?」

「私の胸を舐めるように見てましたね。気が付かないとでも思いましたか?」

 ばっちり正解。女性というものはどうしてここまで視線に敏感なのだろう。僕は見られても気が付かなそうなものだ。

 しかし認めるのも嫌だったので、目線を完全に逢から外して黙秘権を行使する。

「だんまりですか。先輩のくせに生意気です。やっぱり『お仕置き』をしなければいけませんね」

 そう言うと逢は拘束していた両手を開放、代わりに僕に密着するように体制を変えた。足と足。お腹とお腹。胸と胸。それぞれがぴったりとくっついた。

 逢は軽量級で、乗られてもそこまで苦しくない。それでも、問題はある。浴衣越しに伝わる彼女の体温、女性特有の柔らかな身体。それらが僕の心臓のテンポをガンガンに上げてしまう。そしてこの状況なら、逢は当然この鼓動を察知しているはずだ。

そして顔に手を添えられると暴飲に向きを変えられて、目と目が合う。

「先輩、顔が真っ赤です。恥ずかしいんですか?」

「そんな事はない……よ」

「こんなにも心臓がドキドキしてるのに? まあ、いいです。これからもっと、恥ずかしくなって貰うんですから」

 

 お互いの唇が触れる。重ねるだけのキス。しっとりとした感触を味わったかと思うと、そこに別の何かが触れた。唇よりも温度が高く湿ったそれは僕の唇を割って、僕の口内に侵入する。

 歯の近くをなぞって、やがて僕の舌に触れた。一瞬戸惑ってしまったけれど、やがては僕も触れ返して、彼女を受け入れる。

 お互いの普段は触れることは無い部分に触れ合って行くうちに、自分と彼女の境界線がぼやけて行くような感覚に陥る。

 近すぎる視界はぼやけていて、自分よりも高いと思った体温はどっちがどっちなのか、そもそも差なんてあるのか、分からなくなった。

 でも、それが妙に心地よくて、ずっと続けていたい気分にはなったのだけれど、酸素を欲した身体がそれを許さない。

 名残惜しくはあったが、僕は自由になっていた腕を動かして、彼女の背中を指先でそっとタップした。一つになっていた唇が分かれて、お互いに乱れた呼吸で酸素を補充する。

 逢は身体を僕に預けたまま、耳元で囁いた。

 

「どう、でした……。ドキドキ、しましたか?」

「したけど、さ。ちょっと……別の苦しさが混ざってる」

「ふふっ、かもしれませんね。先輩、肺活量が低かったみたいですから」

 笑った彼女の息が耳にかかる。くすぐったいのを耐えて僕は話を続けた。

「そりゃあ、水泳部だった逢からすればそうかもしれないけれど、一般的だよ」

「だとしたら一般的じゃあ、物足りないです。私はもっと先輩と……したかったんですから」

「そっか」

 背中に回していた腕で彼女をより強く抱きしめる。存在がより強く、より確かに感じられるようになった。

「ねえ、逢。これで命令はおしまい?」

「違いますよ。これはお仕置きです。先輩が私の胸を盗み見てた罰です」

「じゃあ、まだ命令権は残ってるんだ」

「そう、なりますね」

 逢がそう答えると、しばらくの間沈黙が続く。その間感じられたのは、呼吸で上下する腹部が互いを押しあう感覚、心臓の鼓動ぐらいだった。

「ねえ、先輩」

「何?」

「命令の、件なんですけど……」

「……うん」

 

「もう一度、しませんか?」

 

 

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