前日、僕はなかなか寝付けなかった。なかなかに過激だった
それは逢も同じだったようで、僕たちはそろって寝不足気味。キレの悪い思考回路のまま朝食を頂いて、部屋に戻った。
布団はもう無くなっていたけれど、僕は畳の上に寝転がる。
逢は座椅子に座って、ぼんやりとこちらを眺めていた。瞼は落ちかけていて、船を漕ぎそうな頭を頬杖で支えている。そんな彼女に僕は声をかけた。
「ねえ、逢」
「……どうしましたか先輩」
「ちょっと眠い?」
返事が少し遅かった逢に僕はそう質問する。彼女は瞼を擦りつつ、ゆっくりと首を縦に振る。
「ええ、まあ。昨日はなかなか、寝付けなくて」
「そっか。じゃあ、僕と一緒だ」
「……奇遇、ですね」
「そうだね」
ポワポワとした応答をしている逢に比べれば、僕の意識はハッキリしている。どうやら彼女自身が僕よりも昨日の行為引きずって、寝付けなかったようだ。そんな昨晩の逢の姿を思うと、彼女がより可愛らしく、愛おしい。
「ねえ、先輩。今日はちょっと、散歩に行きませんか」
「散歩? 眠いならここで二度寝というのもなかなか良いと思うけど」
「ちょっと歩いたら、この眠気も晴れると思いまして。せっかくの旅行に二度寝は味気ないでしょう?」
「それもそうだね。じゃあ、そうしようか」
僕は提案に乗って、体を起こした。
「僕は一旦外に出てるから、その間に逢は着替えちゃってよ」
「先輩は着替えないんですか?」
「いや、着替えるけど、逢の後でいい」
首を振って、彼女の提案を断る。逢は帯を緩めながら立ち上がった。
はらりと襟が崩れて、彼女の胸元、そして下着がチラリと一瞬だけ見える。昨日はあれだけ待ち望んでいたのに、いざ見るとなると恥じらいが勝って、まともに見ることができなかった。水色だったことぐらいしか認識できていない。
逢は視線を逸らした僕に一歩近づいた。
「……私は、先輩にでしたら、見られても構いませんよ」
「まだ寝ぼけてるの?」
「そんなこと無いです。本心ですよ」
「そうか、寝ぼけていたのは僕の方だな。ゴメンよ逢。着替え終わったらまた言ってよ」
本当は聞こえていたけれどそう言って誤魔化した。僕は浴衣姿のまま背中を向けて、扉の方へ向かう。後ろで逢が何か言っていたような気がしたけれど、聞かない事にした。今はまともに顔すら見れる気がしなかったから。
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無事に準備を終えた僕たちは、コートを纏って外に出た。ハッと息を吐くと澄んだ空気の上に水蒸気の靄がかかる。水蒸気が昇る先にある空は、一面灰色。公園の砂場の中身を全部ぶちまけたみたいな色合いだった。
「どこに行こうか。逢は何か当てはあるの?」
「いえ、全くもってサッパリ、当てなんて持ち合わせていません。ノープランですよ」
「え? 目的があったから歩きに行こうって言ったんじゃないの?」
「逆ですよ、先輩。私は歩いて眠気を覚ますことが目的で、どこかに行きたい訳じゃ無いんですよ」
隣に立っていた逢はさっきよりもハキハキと僕の言葉に答えた。
それはそれで良い傾向なのだけれど、少し困る。目的の見えない行動は苦しいものがあるからだ。だから僕の方でその目的を考えて、一つ思いついたことを提案することにした。
「ねえ、逢。昼食は自分たちで調達する予定だったでしょ? だから、美味しそうな店を探すのを目的に行動するのはどうかな?」
「そうですね。異論はありません。では行きましょう」
「うん、行こうか」
僕は先に歩き始めた逢の後を追った。そして前後に揺れる手の平を僕の右手で攫うと、車道側に立った。
手を繋ぐことには慣れている。なにせ恋人になってから十年も経っているのだから、これぐらいは大したことでない。温かみ、感触から彼女が確かにここに居るのだと、気軽に確かめられる行為だった。
最初は驚いていたのか、やられっぱなしだった彼女も僕の手を握り返す。
「先輩の手、温かいですね」
「まあ、さっきまで中にいたから。それより逢の手は冷たいね。だから中で待ってて良いって言ったのに」
「先輩と早く外に出たかったんですよ。それに温かい室内だと待っている間に私が寝ちゃいそうです」
「そっか」
それは、それで見たかった気がする。ロビーでついうっかりと眠りこけてしまう彼女の姿は見なくたって、可愛らしいと断言できる。
それに今朝は慌ていて、寝顔をゆっくりと見る暇もなかったから、そのうちじっくりと拝見したいものだ。
「ところで、先輩。最近は運動していますか?」
隣の逢が『運動』について話を切り出して来た。それに対して僕は「いいや」と首を振る。
「やっぱりですか」
「どうしてそう思うのさ」
「昨日先輩と卓球したときに想像以上に動きが鈍っていたものですから」
まあ確かに、あそこまで一方的にやられてしまってはそう思われてしまっても仕方がないとは思う。でもそれよりも気になるの事があった。
「逆に逢はどうしてあそこまで動けるんだ? 僕と一緒で忙しいはずだろう」
「私は、先輩と違って怠惰じゃありませんので」
逢は得意げにそう言った。
「僕にはそういうけどさ。逢は何か運動をしてるのか?」
「ええ、勿論。なるべく移動に階段を使ったり、たまに温水プールに行ったりしてますよ」
「へえ、温水プールね」
「季節関係なく泳ぎに行けるので重宝しますよ。そのうち先輩も一緒にどうですか?」
「良いとは思うけど、逢について行けるかどうか心配だな」
「ついてこなくたっていいですよ。自分が継続できるぐらいの運動量が理想的ですから」
「継続は力なりってこと?」
「まあ、そういうことです」
逢は微笑んで頷く。それにつられて僕の頬も綻んだ。
それからも僕と逢は話をする。会社での事、最近はまっている事、そして最終的には当初の目的である『食べ物』の話に突入した。
「ねえ先輩。そろそろいい時間だと思いますけど。昼はどうしましょうか?」
「あれ? もうそんな時間か。どうしようか。逢は何か希望はある?」
「私は……そうですね。私はラーメンが良いかなって。先輩と歩いていたら、高校の帰り道を思い出しまして」
僕と逢は帰り道に定期的にラーメン屋に行っていた。ただ、就職してからは帰り道を共にすることも無かったし、一緒に行く夕飯は居酒屋やおでん屋さんだ。
だから、久々にラーメン屋に行くのもいいかもしれない。
「そうだね。じゃあ、ラーメンにしようか」
「はい。ありがとうございます」
「じゃあ、ラーメン屋を探さないとな」
僕は目線を上げて、周りをキョロキョロと見回した。どこかに目印が出ているのではないかと思ったからだ。でもそれを遮るように、逢が繋いでいた手を引いた。
「それならあそこに暖簾が出てますよ」
「え? 随分と早く見つけたな」
「実を言うと先に見つけたから、ラーメン屋の事を思い出したんですよ」
「ああ、成程。そういう事だったのか。じゃあ早く中に入ろう。ずっと外に居続けるのはしんどいしね」
逢は僕の言葉に「はい」と頷いて二人で暖簾をくぐった。
店主の挨拶の後、僕たちは席に案内された。店内にはそこそこの人数が押し寄せていて活気にあふれている。テーブルに置いてあったメニューを一つ手に取って、隣に並んでいる逢と一緒にそれを眺めた。
「逢は何にするんだ?」
「私は、醤油ラーメンですね」
「即決だね」
「ええ、ラーメンの中で醤油が一番研ぎ澄まされてますから。そういう先輩は何にするんですか?」
「僕は、まだ考え中かな」
「相変わらず優柔不断ですね」
「そんなことない……とは言い切れないな」
メニューに目を向けつつ、そう答える。逢が「ですよね」と頷いた。待たせる訳にはいかないのでなるべく早く決めることにする。
「じゃあ、僕はこの味噌チャーシュー麺にするよ。すいませーん」
僕は手を挙げて店員さんを呼ぶと逢の分を含めて注文をする。店員さんはそれをメモに取って、奥の厨房へと引き上げていった。大きな声でメニューを読み上げているのが聞こえる。
「じゃあ私、水取ってきますね。ここセルフサービスみたいですし」
「ありがとう、じゃあ頼むよ」
逢は席を立って、コップを二つ手に取ると、ピッチャーから水を注いでいた。それを眺めていると、彼女は何やら気になる物を見つけたようだ。視線がある一点で固定されている。その先に会ったのはブックラック。何か気になる本があったのだろうか。
彼女は水を注ぎ終わったコップを持つ前に一冊の雑誌を脇に挟むと、二つのコップを手に持って戻って来た。コップを二つテーブルに並べる。
「悪いね、逢」
「いえ、これぐらいは。それよりも先輩。これ、見て下さいよ」
脇に挟まれていた雑誌を取り出して、僕に見せつけてくる。
「観光ガイド?」
「ええ、この近くの事を書いてあるみたいです。昼食の後はどこに行くのか決めてませんでしたし、丁度いいでしょう?」
「そうだね。じゃあこれを参考に決めようか」
逢は早速ページをめくって、今いる場所付近の情報を発掘していく。
「商店街、は今居るこの通りか」
「そうですね、近くの山は秋だと紅葉が綺麗みたいですけど、今は季節が悪いです」
「となると、どこが良いかな……」
どこか良い場所を求めて地図に目を走らせる。トピックされている商店街、山、そして小さく書かれていたある場所が目に入った。
「逢、海岸なんかどうだ?」
「海岸? どこに書いてあるんですか?」
「ここだよ、ここ。小さくしか書いてないけど」
僕は地図に指を突き立てた。
「へぇ、海岸ですか」
「ここから近いし、海なら季節関係なくいい眺めが見れるはずだ」
「そうですね。じゃあ、そうしましょうか」
逢は頷くとパタンと冊子を閉じた。タイミングを見計らったように「お待たせしました」とお盆を持った店員が声をかけてくる。
僕の前には味噌チャーシュー麺、逢の前には醤油ラーメンがそれぞれ置かれた。最後に伝票を置いて店員は立ち去った。
立ち昇る湯気が僕の鼻腔をくすぐり、食欲を刺激する。一刻も早く麺を啜りたくなってきた。
「冷めないうちに早く食べようか」
「はい、じゃあ頂きます」
「頂きます」
手を合わせてそう言うと、割ばしを割る。僕の割り箸の割れ方はなんだか歪だった。
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「当たりだったね」
「ええ、特に麺とスープが良かったですけど、トッピングも粒ぞろいで、伊達に観光地で店を構えているわけでは無かったですね」
「うん、僕はメンマが気に入ったかな。あれはこれまで食べてきた中でも群を抜いて美味しかったよ」
「そうですね」
一通り感想を言い終わると、さっき観光ガイドで見た海辺へと足を向けた。暖房の効いていた室内から外に出たこともあって、外の空気がより一層肌寒く感じる。
遠くを眺めていると、水平線が見えて来た。一歩、また一歩と近づく度に、風が運ぶ潮の香りが強くなる。
「海に行くのもなんだか久しぶりです」
「僕もだよ。最後に行ったのはいつだったかな。大学の時以来かな。たぶん、逢と一緒に海水浴に行ったのが最後だ」
「私もそうですよ。いつかまた行きたいですね」
「僕は、あまり気が進まないかな……。逢は覚えてないかもしれないけど、ナンパしに来た奴らを追い払うのは大変だったし、何より逢の水着をまわりに見られるのはあまり好きじゃない」
「へぇ、私が取られちゃうと思ったんですか?」
「そ、そうじゃないけどさ……」
「じゃあ、やきもちですか? 可愛いですね、先輩は」
逢は顎に手を当てながら、クスクスと笑った。このままだとからかわれ続けそうだったので、僕は話題を逸らすことにする。目の前に迫って来た海を指差す。
「それよりも逢、ほら、もうすぐそこだよ」
「あ、本当ですね。早く行きましょうか」
逢は僕の手を引いて、足の回転速度を上げた。僕もそれに送れないように小走りになる。
住宅街を抜けて、視界が水平線に占拠される。テトラポットの横の防波堤に俺達は立つ。空は相変わらず曇り空。色合いがちょっとだけ黒っぽくなっている気がした。
「でも、やっぱり海は良いですね。波の音を聞いてると落ち着きます」
「そうだね。もし晴れていたら、水面がキラキラと光ってもっと綺麗なんだろうけど」
「はい、それだけはほんの少し、残念です」
そう言うと隣の逢は目を閉じた。きっと音に意識を集中させているのだろう。根拠はないけれどそう思った。
その間に僕は考える。
今回の旅の目的について。
彼女へのプロポーズについて。
明日はもう昼前にはここを出る。今日もこの後はどこに行くのかわからない。適当に散策するだろう。
だから、もしプロポーズをするのならこのタイミングが最良のはず。あとは僕自身が覚悟を決めるだけなのだ。
深呼吸をする。ラジオ体操の様に大げさなものではなく、静かにだ。逢に悟られるのはどうしても、嫌だった。
「……逢」
「なんですか、先輩」
「実は、さ。話したい事があるんだ」
「……はい」
心臓が耳元に移動したんじゃないかと錯覚するぐらいに、心拍音が大きくなる。口の中が乾燥して上手く動かない。話したい事はいっぱいあったはずなのに、それが、なかなか出てこなかった。
じれったいと思ったのか、逢は閉じていた瞳を開く。俺へと真っすぐな視線を向ける。
それを見て僕は覚悟を決めた。口にした最初の音から震えていて、カッコイイだなんて言えたものじゃなかったけれど、最後までそのまま言い切るつもりでいた。
「あ、あのさ――」
鼻先に触れた冷たい感覚。それに驚いて思わず僕は言葉を止めてしまった。感触の正体を確かめるために指で鼻に触れると、滴が指にくっついてくる。
そんな事を確認していたら、即座に雨が強くなった。雲の上でバケツをひっくり返したような激しさだ。
逢は即座に僕の手を取って、元来た道を走り始める。
「先輩、走りますよ!」
「えっ、ちょっと、逢」
「話は後で聞きます。それよりも風邪を引かないように早く戻りますよ! 走って下さい!」
先を行く逢に釣られて僕は走り出した。髪が湿気て、額にへばりつく。なまっていた身体はすぐにへばって、息が乱れる。
そして足が進む度に思う。あと数秒僕の決意が早かったら、この雨の中でも楽しく帰れただろうと。どうしてその数秒早くができなかったんだろう。どうして僕は、こんな肝心な所で……。
そんな自己嫌悪は油汚れの様にこびりついて、なかなか消えなかった。
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結果的に僕たちはグショ濡れになって旅館に帰った。部屋に備え付けてあったバスタオルで水分を拭き取っていく。
「それにしてもすごい雨でしたね」
「……ああ、そうだね。まさかこんなに激しく降って来るなんて思わなかった」
「風邪を引かないようにお風呂に入りましょうか」
「うん、そうした方が良いだろうね」
力なく僕は返事をした。気力はまだ完全に回復していない。今の自分をどうしても肯定する気にはなれなかった。
「じゃあ、先輩。大浴場に行きましょうよ。新しいタオルと着替えの浴衣、ちゃんと持って下さいね」
「悪い、逢。僕は大浴場には行かない。部屋の露天風呂に入るよ。ちょっと、一人になりたい気分なんだ。ゴメン」
「そうですか……分かりました」
逢はそう返事をして自分の荷物を持って、部屋の外に出た。申し訳ない気で一杯だったけれど、しばらく時間をおかないと普段通りの自分の様に振る舞える気がしなかったのだ。
水を吸って重くなった服を脱いで、持って来ていたビニール袋に突っ込む。一つタオルを持つと、部屋の露天風呂へと足を踏み入れた。畳のざらざらとした感触が木のすべすべとした感触に変わる。
シャワーの前に置いてあった鏡が裸の自分を映す。酷い顔だ。不機嫌丸出しなのがひしひしと伝わってくる。自分で見てもこれなのだから他人から見たら相当だろう。
こんな顔を逢に長い時間見せなくて良かったと、心から思った。彼女が戻ってくる頃には何とかしないといけない。せっかくの旅行なのだ。僕のせいでそれを台無しにしたくない。
取りあえず蛇口を捻って、シャワーヘッドから吐き出されるお湯で自分の顔を隠す。頭から下へ向かって身体を洗って、湯船に浸かる。
水面に顔が映ったけれど、波打っているからはっきりとは見えなかった。鏡と向かい合うよりも憂鬱にならずに済みそうだ。
長く息を吐きだして、意識を自分の心に集中させる。これから自分がどう振る舞うのかを考える為に。
プロポーズのチャンスを逃した。それをまずは受け止めるべきだ。僕は今回の旅行での目的を果たすことができなかった。
でも、それは失敗した訳では無い。まだ次のチャンスがある。……はずだ。そう、思いたい。
ならば、こんなところでうじうじとしている暇は無い。次のチャンスを作るために行動するべきだ。
だけれど、今の僕には、
「どうしたらいいのか、分からない……」
天井に向けて呟く。怖いのだ。失敗したときが。気分が今以上に沈み込むのが。成功したときの喜びよりも、鮮明にイメージできてしまう。
もし昨日の卓球勝負に勝てていれば手に入れられた答え、彼女の気持ち。それが、また知りたくてたまらなくなる。
「逢……」
「はい、何でしょう」
「へ? うわっああ!」
君は僕の事をどう思ってるの、そう続けようとした所を遮る声。直後、声の主が視界の端から急に正面に躍り出る。僕は驚いて身を引いた。バシャンッと体につられて水音が立つ。驚く僕を見て彼女は肩を震わせて笑った。
「ビックリしすぎですよ」
「え、いや、だって。大浴場に行ったんじゃ……」
「戻って来たんですよ。とても気になる事があったので。隣、失礼しますね」
僕の返事を待つことなく、バスタオルに身を包んだ彼女は湯船に身体を沈める。肩と肩が触れ合いそうな距離だった。
「……気になる事って?」
「先輩がさっき言っていたことですよ。私に、伝えたい事があるんでしょう?」
逢が首を傾げつつ僕に尋ねる。額に付いていた水滴を手の甲で拭った。汗なのかどうかは分からない。でも、僕が焦っていることは間違いなかった。遠くにあると思っていたチャンスが、たった今目の前に転がって来たのだから。
今度は逃さないように、慎重に言葉を選ぶ。
「そうだ。僕は、僕には……逢に聞いて貰いたい事があるんだ」
「……はい」
逢が隣で頷く。僕は飾らずに思うがまま、ゴールに向けて口を動かそうとした。けれど、緊張からか、頭が真っ白になる。ゴールへの道筋が途切れてしまった。
「……あれ、ごめん。上手く言葉が出てこないや。言いたい事はたくさんあったはずなのに……」
「大丈夫ですよ。ひとつひとつ、ゆっくり話してくださいよ。私、全部聞きますから。あの時の、先輩みたいに」
「うん、ごめん。ありがとう」
僕は目を閉じてから息を吸うと、逢の言う通りにゆっくりと話し始めた。
「僕と逢が付き合い始めたクリスマスから、もうそろそろ十年が経つんだ」
「そうでしたね。早いものです」
「あれから、何でもない普通の日が楽しくて、楽しくて仕方なかった。もう、逢の居ない日なんて考えられないんだ」
最後の一言のために一呼吸置いた。たぶん僕の人生の中で、最も緊張感のある台詞になるからだ。大事な所で噛んだりしたくはなかった。
「僕は、この日常を手放したくない。もっと、確かなものにしたいって、思ってるんだ」
「先輩……」
「だから逢、僕と……結婚してくれませんか」
手を彼女に差し出した。彼女を見るのが怖くて、目は閉じてしまっている。返事を貰うまでの時間でさらに緊張して、差し出した手が震える。
やがて、鼓膜に彼女の声が届く。それは言葉ではなかった。込み上げる何かを押し殺しているようだった。僕は瞼を開けて、彼女の様子を確かめる。
「……逢、泣いてるの?」
「泣いて……ませんよ。先輩の気のせいに決まってますっ」
逢はうつむいたまま語尾を強めに言い放つと、僕の身体へと抱き着いて来た。バスタオル越しに柔らかな感触と高い温度が押し付けられる。
彼女の身体を受け止めて、右手で頭をそっと撫でると、耳元で鼻を啜っている音が聞こえた。
「やっぱり泣いてるじゃないか」
「……先輩が、そう思いたいのであれば、勝手にすればいいです」
「じゃあ、そうするよ。それで、逢。返事は貰えるのかな?」
「もうしました。こうしている事がもう答えみたいな物です。本当に先輩は、鈍感なんですから」
「……悪かったよ。でもさ、知っての通り僕は臆病者なんだ。ちゃんと言葉にして伝えてくれないかな?」
そう言うと逢は耳元で「分かりました」と囁くと、少し離れて僕と向き合った。目元がほんの少しだけ赤くなっている。やっぱり逢は噓をついてたみたいだ。
「一度だけしかいいませんからね」
「……うん。分かったよ」
さっきの僕さながらに、逢は目を閉じて一度、深呼吸。そしてゆっくりと瞼を開けてこう続けた。
「私は先輩のお嫁さんになります。ちゃんと、
僕はその言葉に「勿論」と返した。彼女が再び抱き着く。胸の奥からじんわりと幸福感が溢れてくる。僕はそれにじっくりと浸った。
▼
逢に告白した翌日。
早めに朝食を摂った。今日は彼女の提案で、一つ追加で用事ができたからだ。旅館を出る前に家族へのお土産を購入して、二人で車に乗り込んだ。
途中に休憩を挟みつつ車を走らせて、今は輝日東に差し掛かったところだった。太陽は真上に差し掛かっていて、目的地に着くころには昼時になっているだろう。
隣で電話をしていた逢が携帯を閉じて、顔を外から僕の方へと移したのを横目で見た。
「先輩、両親と連絡取れました。大丈夫だそうです。今日は二人とも家にいると言っていました。だだ……」
「ただ?」
「紹介したい人がいるって言ったら、お父さんが不機嫌になったそうです」
「そ、そっか……」
どうやら早速ハードルが上がってしまったらしい。何だか胃が痛くなってきた。
「緊張してますか?」
「どうしてそう思うんだい」
「一瞬、口元が強張りました。先輩はそういう時、結構緊張してたりします」
伊達に十年近く僕と過ごして来た訳ではない。逢にはいろいろな所がお見通しだ。彼女に隠し事をすることはやめておいた方が良い。そう確信できた。
「……そっか。でも、いつかは乗り越えなきゃいけない。逢と一緒に暮らすためには避けられない道だからね」
「そう言ってくれるのは嬉しいですね。ここで逃げるようなら婚約を破棄していたところです」
「ええ!?」
僕は思わず視線を彼女の方に向けてしまった。彼女はそんな僕を見て微笑んでいる。
「冗談ですよ。それより前見て下さいよ、前。事故にあったら大変です」
僕は視線を元通りに目の前に戻した。
「……心臓に悪いこと言わないでよ」
「だいたい、先輩はもっと自信を持った方が良いです。私がそんな事で愛想を尽かすとでも思っているんですか?」
「そうじゃないけど、もしそうだったらって思うとさ……」
「はぁ、全く。それだったらとっくに見切りをつけて別れてますよ。先輩の言動に何度困らされたか……」
そんなに困らした覚えはない。そう言いたかったけれど、逢はいろんなところに気を配っていたりする。だから僕の知らない所でフォローしてくれたのかもしれない。そう考えると反論できなかった。
「あ、先輩。その交差点を右です」
「了解っと」
僕はハンドルを切って、彼女の指示通りに交差点を曲がった。
「先輩、見えてきましたよ。あの家です」
逢が指を刺した先には一軒家が見える。
「車はどうしたらいいのかな?」
「来客用にいつも駐車場を一つ開けているはずですから、そこに止めて頂ければ」
「分かった。ありがとう」
僕は逢の刺した家の前にたどり着くと、空いていたスペースに車を止める。車を降りて鍵をかけた。ヘッドライトが点灯するのを見届ける。
「じゃあ、行きましょうか」
「ああ、うん」
僕は頷く。そして家の門へと向かった。逢はその後を付いてくる。『七咲』の表札。その真下にあるインターフォンを僕はなかなか押せない。彼女はそんな僕に問いかける。
「押さないんですか?」
「いや、何か押しにくくて。妙な緊張感があってさ」
「でも、いくら待ったってなにも変わりはしませんよ」
「まあ、そうなんだけどね」
ノックの仕方みたく、インターフォンにマナーなんて無い。少なくとも僕は知らない。だから、考えたって仕方がないのだ。
「……先輩、何か変な事を考えてませんか? ちょっと顔がにやけてます」
「え? そうかな。確かに考え事をしていたけれど」
「……何についてですか?」
「ちょっと、インターフォンの押し方マナーについて」
「やっぱり下らない事じゃないですか」
「三回連打するのかを迷ったんだ」
「一回で十分です! 先輩は小学生ですか!?」
「冗談だって」
「そうじゃないと困ります!」
「はははっ」
「はははっ、じゃないですよ。もう!」
逢が全力で突っ込んでくる。僕の肩が二度ほど強く叩かれた。小さな痛みによって緊張がゆっくりと解けていく。痛みが引いた後、僕は覚悟を決めて、ゆっくりと息を吐いた。
「……じゃあ、行こうか」
「はい」
僕は一歩踏み出して、インターフォンのスイッチを押した。
『最後の一歩』 完
これにて完結です。最後まで読んで下さってありがとうございました。
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