「くそっ! くそっ!」
強引にそれを払いのけようとする。
だが、小さな羽虫は、僕の腕の動作などものともしない。
頬の傷跡にたかってくる。
汗が噴き出してきた。
冷や汗だった。
体の体感温度がどっと落ち、背筋が凍る。
にもかかわらず、体は妙な熱に侵され、暑くてたまらない。
傷口がほてり、恐怖が心を浸してくる。
「うぁぁぁぁぁ!」
僕は叫び、頬の傷口を掌で覆った。
だが、その抵抗もむなしかった。
やがてしばらくすると、頬に強烈なかゆみを覚える。
もぞもぞと、皮膚の下で何かが蠢く。
虫だ。
芋虫だ。
あの芋虫だ。
そのごそごそと蠢く音が、頬のすぐそば、耳の奥底に届いて響くような錯覚に襲われる。
気が狂いそうだった。
「ひ、ひぎ、ひぎぎ」
奇妙な声を上げ、涙を流しながら僕は、頬の傷口から這い出して来る小さな芋虫を指でつまむ。
つぶさないように。
そっと。
つぶしてしまったら終わりだ。
あの悪臭が漂い、おそらくは“奴ら”がそれに誘われてやってくる。
一匹、二匹、三匹……。
そっと、そっと指でまさぐり、頬に張り付いた芋虫をはがしていく。
いったい、いったい何匹いるんだ。
見えない。
僕自身の目からは自分の頬が見えない。
僕の傷口は今、どうなっているんだ。
怖い。
怖くて仕方がない。
怖い。
拠り所。
拠り所だ。
心の拠り所。
日の丸。
日の丸のハンカチ。
日の丸をよりどころにしなければ。
僕は震える手で、ポケットをまさぐった。
すると、ポケットは空白になっていた。
ない。
そこに日の丸がない。
あぁ、なぜだ。
なぜないんだ。
僕は慌てて周囲を見当たす。
いつの間にか、日の丸のあのハンカチは土の上に落ちてしまっていた。
先ほどから気が動転してしまっている。
頬に沸いた虫に気を囚われて、いつの間にか落としてしまったのだ。
「は、早く。早く回収しなくては」
僕は、日の丸のハンカチに手を伸ばす。
それを握りしめた瞬間に、掌に何かをつぶした感触があった。
と同時に、強烈な悪臭が漂い始める。
なんということだろう。
頬をまさぐった時、僕の掌に、芋虫が一匹移っていたのだ。
そしてそれを、ハンカチを握りしめるときに、握りつぶしてしまった。
ガタガタと、足が震えた。
すぐにでも立って逃げなければならなかった。
だが、それができなかった。
もうそんなことをする気力が尽きていた。
僕は、おびえ、青ざめ、震え、日の丸のハンカチを握りしめ、その場から動けなかった。
すぐに“奴ら”はやってきた。
先ほどと同じだった。
唐突に、気配がして、そして気が付くと囲まれていた。
のっぺりとしたあの顔が僕を見下ろす。
「あ、あぁ……」
極限的な恐怖の中で、僕は記憶を失ってしまった。
※
目覚めると、違う場所にいた。
土を盛って作られた狭い部屋の端に寝かされていた。
薄汚れた毛布が体にかけられていた。
それは、ろくに洗われていないものらしく、汚らしかった。
だが、この世界に来てからほぼ初めての行為のようなものを感じた。
一体、だれが僕に毛布を?
それにここはどこだ。
僕は頭を押さえた。
頭痛がした。
どうなっているんだ。
思い出せない。
あの芋虫をつぶしてしまい、“奴ら”に囲まれたところまでしか記憶がない。
僕は誰かに助けられたのか?
それとも……あれらはすべて夢だったのだろうか。
異様に長い、最低な悪夢。
それならばどれほど良いだろうか。
だが……夢ではないことは確実だろう。
僕は室内を見回した。
部屋と呼べる代物ではない。
きわめて原始的な、土を掘り、手作業で作った穴倉だ。
こんな場所で目覚める状態が普通であるわけがない。
薄暗い室内に目が慣れてくると、いくつかの物品が目に入った。
まずは、部屋の隅に立てかけられた小銃。
三八式というやつだろうか。
それから、同じように隅に置かれた背嚢。
軍靴。
ヘルメット。
そして……壁に貼り付けられた日本国旗だ。
「また、国旗か」
僕はつぶやいた。
どうにもここは、兵士の部屋のように感じられる。
日本兵の潜伏部屋。
まさか、日本兵はこの世界で生きているのだろうか。
そして僕を“奴ら”から助けてくれたのだろうか。
同じ国旗を持つ人間のよしみとして?
それは……あり得るかもしれない。
もしそうだとするとそれなりに辻褄は合う。
この世界に転移した日本兵は、一部が生き残り、小銃を持って“奴ら”との抗戦を繰り返しているのではないのか。
もしそうだとすれば、なんと頼もしいことだろうか。
僕はうれしくなった。
心が温かいもので満たされ、興奮を隠しきれなくなった。
「日本万歳!」
そんな言葉が口をついて出そうになる。
だが、本当にそうだ。
その通りだ。
われ等が日本兵が、僕の同朋が、この異世界の地で、得体のしれない生物を相手に果敢に戦っている!
こんなにも、胸が熱くなることがあるだろうか!
そして彼らは、彼らの愛国心に基づき、窮地の同朋、この僕を救ってくれたのだ!
おそらくは命がけで!
僕の脳裏に、さっそうと現れ、“奴ら”を駆逐し、僕をこの場所まで運んでくれた屈強でさわやかな男たちの像が浮かぶ。
あぁ、あぁ。
何と勇ましいんだ。
なんと誇らしいんだ。
僕は、手の中に握ったままだった日の丸のハンカチを広げた。
それは、僕と日本兵を結ぶ絆であるように感じられた。
よくよく見ると、白地の部分に少し汚れがついていた。
あの芋虫の潰れた跡だった。
それは少し僕の気持ちを萎えさせたが、今のこの誇らしい興奮の前では些細なことであった。
激しい興奮の前で、体調不良はほとんど吹っ飛んでしまった。
僕は、のそのそと起き上がり、毛布をきっちりとたたんだ。
礼儀正しくあらねばと妙な使命感が心の中に灯っていた。
毛布を折りたたんでいる時、足音が聞こえた。
どうやら、僕を助けてくれた人々が帰ってきたようだった。
もしかしたら食料をとってきてくれたのかもしれない。
何はともあれ、同朋であることを強くアピールせねば。
僕は、満面の笑顔で、日の丸のハンカチを広げ、それを宙に掲げる。
やがて、足音が大きくなる。
ぬっと、一人の男が部屋の中に入ってきた。
その顔は。
恐ろしい程にのっぺりとしていた。