いつもポッケに日の丸を   作:忍者小僧

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いくら考えてもわからなかった。

答えは出なかった。

国旗とは何なんだ。

一体、それはどんな意味を持つというんだ。

わからない。

僕は首を振った。

古びた日誌を抱く手に、力が入っていた。

こわばる筋肉とは裏腹に、激しい脱力感と絶望があった。

『この穴倉には、もう何も答えがない』

そんな絶望感だった。

寄生され別人格へと変わってしまった日本兵と村木。

食料品として意識の薄明を漂う坂口。

誰ももう、正常には戻ってこない。

この世界で正常なのは僕だけだ。

誰も助けに来ない、誰も助けられない。

 

“僕はこの世界で、たった一人、正常な自我を保って生きていくのか?”

 

それは、気が狂いそうなほどつらい命題だった。

僕はこのまま、この世界で、日の丸一つをポケットに握りしめながら、誰とも話さずに誰にも理解されずに、ただ生きていくというのか?

そんな人生、拷問と同じではないか……。

 

「あぁ……あぁ……」

 

心が虚ろになり、衰弱し、あえぎ始めた。

胸の奥底からこみ上げるような嗚咽が生じた。

はじめ、誰の鳴き声だ?と不思議に思ってから、それが自分の嗚咽であることに気が付いた。

僕は泣いていた。

ただひたすらに泣いていた。

音に反応したのであろうか、“奴ら”の一人が、僕の穴倉を覗いた。

その表情からは何も読み取れなかった。

僕は立ち上がり、“それ”に向かって怒鳴った。

 

「畜生! 畜生め!」

 

僕の罵倒を“それ”は無表情に受け流した。

ただ黙って僕の眼前に立っていた。

僕はかっとなり、地団太を踏んだ。

やがて“それ”は去っていった。

“奴ら”は、僕が多少暴れても見過ごすことにしているようだった。

国旗を持っている僕を、仲間と思い込んでいるのだろうと思った。

彼らには、国旗しかないのだ。

アイデンティティが。

だが、僕は。

僕は彼らを仲間だなどとは認識できない。

僕のこの国旗は、村木から譲り受けたものだ。

確かに僕はこの国旗を心のよりどころにしていたが、それがすべてではない。

 

「くそぉ!!」

 

歯がゆかった。

悔しかった。

こんなもの一つ持っていたおかげで、『生かされて』しまった。

狂い切った世界でただ一人、正常のまま生き残ってしまった。

 

「あ、あは……」

 

口元がだらしなく緩んだ。

果てしないほどの絶望と怒りに身を任せ、それが過ぎ去っていくと、今度は言いようのない脱力感が僕を襲った。

僕は僕で、常軌を逸し始めていた。

寄生された彼らとは違う方法で。

自分自身の心の中にある狂気が顔をのぞかせるようだった。

そう考えると、人の正常とは何かがわからなくなった。

正常とは、社会規範や倫理、あの現実社会で生きやすいように整理され集積された処世術に過ぎないのではないのか。

狂う、と人は言うが、そもそも人の正常とは何なのか?

だらしなく口元を弛緩させてそんなことを思っていると、今度はとめどない悔しさの波が僕を襲った。

躁鬱だった。

僕は、とりとめのない悔しさに胸を抑え、歯ぎしりをして、土をつかんだ。

何度も何度も、土に向かって爪を立てた。

だが、やるせない悔しさは何の答えも出さなかった。

悔しさの波が過ぎると、また脱力感がやってきた。

 

そうやって、怒り、苦しみ、悔やみ、虚無の繰り返しの波に漂いながら、長い時間が過ぎた。

いったいどれぐらいの時間が過ぎたのだろうか。

頭がぼんやりとしびれ、よくわからなかった。

空腹で死んでいないことを考えれば、数日であったのかもしれない。

それとも、ほんの数刻だろうか。

おぼろげな記憶の中で、“奴ら”が幾度が食糧の時間を知らせてきたような気がする。

僕はそれを幾度も無視した。

そのたびに“奴ら”は、あの無表情で穴倉からすごすごと去っていった。

今僕はもう、何度目かわからない脱力感の波に沈んでいた。

体を大の字に横たえ、穴倉の壁面に張られた国旗を見つめた。

その時ふと、気づくものがあった。

 

“あぁ、同じだ”

 

人の心に浸透し、人のアイデンティティとなり、象徴となる、国旗。

人の心を突き動かし、争わせ、そして生かせもする、国旗。

これも一種の寄生虫じゃないか。

心に住み着く寄生虫。

そう考えると、妙に納得がいった。

村木は、もともと寄生されていたのだ。

日の丸という寄生虫に。

それはすでに彼の精神を犯し、心を作り替え、彼自身の中心となっていた。

彼は、最初から寄生されていたのだ。

この、シンプルで美しく、そして俗悪ですらある“ただのデザイン”に、彼の心は侵されていた――。

そんなことを思った瞬間、自分の中の心のねじが一つ回った。

僕は立ち上がった。

今は心の中に、国旗に対する憎悪が満ちていた。

こんなもの。

こんなものがなければ、村木と坂口が争うことはなかったかもしれない。

村木がおかしくなってしまうこともなかったかもしれない。

こんな世界に来ることもなかったかもしれない。

ポケットに手を突っ込み、そこに常に入れているあの国旗のハンカチを握った。

強く強く握りしめた。

捨ててしまいたい。

そんな気持ちが、頭をよぎった。

もうこんなものを持っていたくない。

それは、ある種打算的な考えでもあった。

僕は日の丸のハンカチによって生かされている。

これがあるから、この異世界で“奴ら”から守られている。

だが、こうやって一人生きていて何になる?

たった一人で自我を保ち、孤独・怒り・悔やみ虚無感などに苦しんでいる僕と、奴らの仲間入りをした村木、意識をほとんど失っている坂口と、どちらが幸せだ?

それは、この数日の心の渦の中でずっと見え隠れした命題だった。

僕の心はもう、ある種の限界に来ていた。

楽になりたかった。

生きている限り永遠に続く、この孤独から抜け出し、次の次元へと至りたかった。

そう、この世界においては。

寄生虫に侵された村木のほうが、僕よりもずっと高次の存在にすら見える。

こんな日の丸に生かされて一人自我を保つぐらいなら、もう、いっそ……。

僕は、息を大きくついた。

ここにきて、心臓が激しく脈打った。

どうする。

本当に、捨てるのか?

日の丸を?

一度それを選択すれば、二度と“僕自身”には戻れないぞ。

 

「くそっ!」

 

僕は叫んだ。

そして、心を奮い立たせる。

もう、だめだ。

耐えられない。

なまじ心を持ち、このまま生きていくことなんて耐えきれない。

しばしの逡巡ののち、僕は決心する。

――僕自身を、捨てることを。

 

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