選択肢は、二つだった。
単純に日の丸を捨て、その庇護を離れることで、坂口のようになるか。
あるいは、あの黒く澱んだ水を飲み、村木のようになるのか。
ここにきて、答えを出すことにためらった。
その理由は、単純な恐怖だった。
痛みの恐怖、得体の知れない物事を受け入れることの恐怖。
何らかの方法で意識を朦朧とされている坂口は、痛みも何も感じないのかもしれない。
だが、彼はあの芋虫を生み出す宿主として、日々“奴ら”に管理され、切り裂かれている。
一方で、奴らの仲間入りをした村木はどうだ。
彼の体内に恐らく巣くっている寄生虫。
それに巣くわれ、自分が自分でなくなっていくこと。
それはいったい、どのような体験なのだろうか。
体中を小さな虫に食われていくような感覚なのか?
鈍い、あるいは激しい痛みが、断続的に続くのだろうか?
徐々に支配され、この自我を失っていくのはどんな心地なのだろうか……。
そんなことを考え、しばし立ち止まっていた時、不意に穴倉の入り口の布が開いた。
「あ……」
振り向くと、“奴ら”が入ってきていた。
僕はたじろいだ。
おかしな行動をとろうとしていることを感づかれてしまったのか?
頭の中に、処刑という言葉が浮かんだ。
それから、アウシュビッツのような収容所の灰色の壁際で目隠しされて銃殺される自身の姿を想像する。
それは昔見た映画か何かの場面からの引用だった。
僕は首を振った。
馬鹿な。
“こいつら”はもっと原始的だ。
寄生され、銃を使うほどの知恵はなくなっている。
そもそもだ。
僕はまだ行動には及んでいない。
“こいつら”がそれを認知できるはずがない。
心の中を読めるのでさえなければ……。
だが、そうは思いつつも、冷や汗が出る。
僕はその場に立ち尽くし、“奴ら”と対峙した。
“奴ら”のうちの一人が、そののっぺりとした細い目で僕をじっと見つめた。
アジア人の目はアーモンドのようだとよく言うが、それはもっと細かった。
鋭利な刃物で肉をすっと裂き、生まれた亀裂の奥にビー玉でもはめ込んだような瞳だ。
彼が、手を挙げた。
そして、穴倉の外を指さした。
出ろと言っているらしかった。
僕は、従うことにした。
他にどうすることもできない。
今ここで下手に暴れても逆に捕らえられるだけだろう。
今は従って、何があるのかを見てから判断するしかない。
僕は、同意の意を含めて、小さくうなづいて見せた。
すると通じたのか“奴ら”はくるりと後ろを向き、穴倉から出ていった。
後について外に出ると、異様な匂いが鼻を突いた。
臭気。
それはしかし、あの芋虫のつぶれた臭気とは異なっていた。
あれは、地上で嗅いだことのないような異常な臭気だった。
今、鼻をつくこの匂いは、どこか違った。
嫌な匂い、おぞましい匂いであることに変わりはないが、全く未知の匂いではないという予感がする。
本能レベルで、僕はこの匂いを知っている。
これは、われわれ人間の……。
“奴ら”の後に従い、広場に出て、例の祭壇まで連れられたところで、目に飛びこんできた物体があった。
いや、それを物体と表現するのはあまりにも失礼であり、生命をないがしろにしているかもしれない。
それは尊厳を持つ一つの個体であり、まだ生きていたからだ。
だが、あまりにもおぞましく、もはや生物の枠をはみ出して『物』と表現するよりほかなかった。
そこにいたのは。
体を半ば解体され、血まみれの臓物と化し、しかし今だ顔面を残して生きている坂口であった。
僕は唖然とし、言葉を発することができなかった。
この世界へとやって来てから、大概のとんでもないものを見てきたつもりだったが、ここまでグロテスクなものは見たことがなかった。
それは人間の概念を超えていた。
坂口であり、すでに坂口ではなかった。
彼の体は、あの鋭利な刃物で分解されていた。
裸にされ、首筋から股間までがぱっくりと開かれ、皮と肉がすべてべろりとめくり開かれていた。
そして、開かれた体の内部の臓物が、一つずつ丹念により分けられていた。
腸は一度まっすぐに伸ばされてから波状を描くように配置しなおされていた。
まるで枯山水の砂のように波状を描く腸の上に、胃が乗せられ、その上に積み上げられるように心臓が乗っていた。
それらは、薄い神経で慎重に繋げられたままであり、いまだ活動しているらしく、ぴくん、ぴくんと痙攣して脈打っている。
おびただしい血が流れ、気が狂いそうな数の羽虫が群がっていた。
坂口の腸がひときわ大きくビクンっと動いた。
よく見ると、数匹の芋虫が腸を破って顔を出していた。
脈動して見えるのは、生きている証ではなく、今まさに大量の芋虫が彼を食らっているからなのだろうか。
いや、しかし、彼は確かに生きていた。
首から上はいまだ無傷であり、彼のその口元は、だらしなくもごもごと動いていた。
瞳もうっすらと開いていた。
口は、何かをしきりに言おうとしていた。
このような状態で、生きている/あるいは意識があるのは、“奴ら”の特殊な施術のためなのであろう。
恐ろしい。
これでは。
生き地獄ではないか。
そう思った時、坂口の目がグリンと動き、僕を見た。
僕を見据えた彼のまなこから、涙が伝った。
僕ははっとなり、息をのんだ。
胸が締め付けられそうだった。
僕が口を開き、坂口と言おうとした時、その眼球そばに刃物が入った。
“奴ら”の解体役が、見事な手さばきで彼の眼球を抉り出した。
切り離すつもりはないらしかった。
眼球は視神経で脳とつながったまま、頭蓋骨の目の窪みからひり出された。
涙が伝った後を、噴き出た血が覆い隠した。
羽虫が集まってきた。
口がぴくぴくと動いていた。
さすがにもう死ぬのかもしれなかった。
坂口が、脳をマヒされてあの状態になっていたことは想像がついた。
眼球が飛び出たことで、その脳にも羽虫がたかっていく。
羽虫は、羽音をなびかせ、彼の眼球の穴から、彼の頭蓋骨の中へと侵入していく。
そして、前頭葉に、大脳皮質に、小脳に、卵を産み付けていく。
がぼがぼと、坂口の口が血を吐いた。
泡も一緒に噴き出て、言葉にならない音が断続的に響いた。
僕はその時、噴き出る彼の血が、彼の解体された体の真下で、ある意匠を創りあげていることに気が付いた。
それは日の丸だった。
彼の真下には、巨大な布が引かれていた。
薄汚れて、真っ白ではなく、クリーム色になってはいたが、確かに白に近い布だった。
それは、“奴ら”にとって貴重なものに違いなかった。
その布に、何らかの方法で血の歯止めを作ることで、坂口の血だまりは、日の丸の形になっていた。
白に真っ赤を染め上げて。
あぁ、日の丸。