坂口によって作り上げられたグロテスクな日の丸は、僕をさらに狂わせるのに十分だった。
僕は、いやいやと首を振り、叫んだ。
何を叫んだのかよくわからなかった。
そんな僕を、たじろぐように“奴ら”が見つめた。
“奴ら”の無表情に、初めて、何らかの意味合いが読み取れた瞬間だった。
“奴ら”のうちの一人が、僕に近づき、ジェスチャーをした。
それは“食べろ”と言っているようだった。
僕が反応しないでいると、“そいつ”は、実践して見せるように、坂口の肉に近づいた。
そして、彼の大腸から沸いた芋虫を、手に取り、食べた。
一匹食べると、こちらをまた見つめた。
僕は、首を振った。
「た、食べない。食べないぞ」
そして震える声で言った。
「と、友達を殺しやがって! この人殺し! 僕は絶対に食べない!!」
僕が食べないでいると、“奴ら”も同様に食べずに、坂口だった肉の塊を前に静止を続けていた。
“奴ら”は、僕を見つめ、坂口を見つめ、何も言わずに待っていた。
沈黙が下りた。
坂口はもう生きてはいなかった。
時折肉や臓物が蠢く音がするが、それはただ、芋虫が肉を突き破る音に過ぎなかった。
こと切れた坂口の肉体は、今まさに腐敗しようとしていた。
甘い匂いが鼻をくすぐった。
肉の腐る甘美な香り。
それはおそらくは僕の空想だった。
だが、一度そのような想像をしてしまうとダメだった。
異様な空腹を胃が感じ取り、キリキリと痛んだ。
締め付けられるようだった。
胃酸が逆流し、吐き気すら覚えた。
そういえば、何日も何も食べていない。
ここに至り僕は、一つの可能性に行き当たった。
まさか、“奴ら”は。
“仲間である僕が食事を拒否し続けるので、特別な食事を用意した”
のではないのか??
僕は、はっと息をのんで、“奴ら”を見た。
“奴ら”は、僕をじっと見つめていた。
食料に手も出さずに。
僕は……。
震える指で、自分を指さす。
ジェスチャーだ。
僕自身を指さしてから、腹を指さし、そして、坂口の遺体を指さした。
さらに、自分の口元を指さす。
目の前にいた“奴ら”の一人の瞳が。
射貫くような目で、僕を見た。
それはまるで肯定であるかのように、見えた。
「うぁ、うあああああああああああああああ!!!!!」
僕は叫び、突進した。
目の前にいた“そいつ”が僕に体当たりされ、地面に倒れこんだ。
僕はそこに馬乗りになり、“そいつ”を殴りまくった。
血が出る。
血が噴き出る。
羽虫が集まってくる。
だが、かまわなかった。
もう僕の心は麻痺していた。
恐怖も何も感じなかった。
そのような次元に僕はいなかった。
僕はこの瞬間、極限に捨て置かれた一兵卒のようになっていた。
極限の中で心は歪み、もはや平衡を失していた。
僕は、こぶしが擦り切れるまで、目の前にいた“そいつ”を殴った。
そして、“そいつ”が動かなくなったのを認識し、同時にもう一つ認識した。
僕が殴り続けた“そいつ”は、村木だった。
変貌した村木だった。
“奴ら”化が進むと、元の村木の顔立ちはどんどん失われていくらしい。
だが、頬骨やあごの形、肉付きなどに、ほのかな面影があった。
僕は立ち上がり、後ろを振り向いた。
残っている“奴ら”の中に村木はいなかった。
どうやら間違いないようだった。
僕は再び、村木だった“それ”に目を向ける。
“それ”は動かない。
死んだのかもしれない。
背筋に寒気が走った。
僕は、死なせた。
僕は、僕が原因で二人の同級生を死なせた。
思想にゆがめられた、二人の人間を。
僕は、ポケットの中の日の丸を取り出した。
それを広げると、自動反応の人形のように、残っていた“奴ら”が、敬礼をした。
いらいらとした。
本当に心底、いらいらとした。
僕は、指に力を込めた。
日の丸のハンカチが、僕のこぶしの血で汚れた。
羽虫が群がっていた。
ハンカチにも、僕のこぶしにも、倒れている村木だった男にも。
僕は、村木だった“そいつ”の顔に、ハンカチをかぶせた。
そして、そっと手を離した。
“奴ら”は動かなかった。
ハンカチを手放した僕に目をやらず、村木の顔にかぶせかけられた日の丸を見ていた。
僕は……走り出した。
獣道をやみくもに。
どこを目指すかもわからず。
手の甲が疼いた。
芋虫が、蠢きだしていた。
僕はそれをもう片方の指でつまみ、握りつぶす。
例の異臭が広がった。
今はもう、この異臭が懐かしかった。
この強い匂い、気が狂いそうなこの世界の匂いが、僕自身に張り付いている。
やがて、どのぐらいたったのかわからないが、獣道の途中で足がもつれてきた。
僕は、大きな樹木のそばに倒れこんだ。
体中から汗が噴き出していた。
口元がしびれ、頭にもやがかかっていた。
「そういうことか……」
もごもごと、口を動かすが、ほとんど言葉にならなかった。
「そういうことなのか……」
ひとつわかったことがあった。
坂口や猿のあの、麻痺したような状態。
あれはおそらくは、羽虫に植え付けられた卵によって生じたものだ。
いやあるいは、芋虫が吐き出している化学物質か。
それが血中をめぐり、生物の神経を、麻痺させるのだ。
僕の脳裏が、徐々に沈んでいく。
深い海の底に落ちていくようだ。
静かだった。
何の音も聞こえない。
森は、音を飲み込んで成長する生き物のようだ。
かすむような意識の中、ぽたりと足元に赤いものが落ちるのが見えた。
それは僕の手の甲から滴り落ちた血液だった。
あ、日の丸。
靄のかかったような頭でそんなことを考えた。
日の丸。
日の丸だ。
これは日の丸。
赤いもの。
赤い円形はすべて日の丸。
不思議だった。
それは意味を持たないただの形であるはずなのに。
どうして“日の丸”だと思うのだろう。
どうして“日の丸”だと思うことによって意味が生じるのだろう。
わからない。
頭が麻痺して、よくわからない。
意味とは何だ。
象形とは。
形はなぜ意味を表す?
日の丸を知らなければそれはただの円なのに、日の丸を知ってしまうとただの円でなくなってしまうのはなぜだ?
わからない。
わからない。
わからない、が頭の中で堂々巡りをしていると、“奴ら”が現れた。
僕がつぶした芋虫の異臭に導かれやってきたのだろう。
僕を取り囲むように、のっぺりとした顔が立っていた。
僕は、自分が終わることを感じた。
次回最終回です。