いつもポッケに日の丸を   作:忍者小僧

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もうこれ以上どうしようもない。

ぼんやりと麻痺する頭の中で僕はそう悟った。

口をだらしなく開き、抵抗もせず木陰に座り込んでいた。

“奴ら”の一人が、僕をじっと見つめた。

その瞳は、どこか悲しげにも見えた。

悲しげな瞳をした“そいつ”が、しゃがみこんだ。

何をするんだろう?と思う間もなく、僕の手の甲にむしゃぶりついた。

“そいつ”は、僕の手の甲の芋虫を吸い出すように捕食し始めた。

その様子を、残りの数体の“奴ら”が、微動だにせず見つめていた。

それはまるで新鮮な儀式の行為にも見えた。

くちゃくちゃと音を立て、芋虫を歯がすり潰すごとに、濃厚なあの異臭が漂う。

だが、僕の鼻はすっかりと感度を失い、さほどの吐き気は起こさなかった。

あぁ、あの異臭だ、と思うだけだった。

僕は、自分自身のことよりも、坂口のことを考えていた。

芋虫にやられ、“奴ら”の食料となった坂口。

坂口の体験したことは、まさにこれだったのか。

苦しかっただろう、つらかっただろう。

僕もこれから、坂口と同じ運命をたどる。

解体され、死んでしまった彼の代わりになる。

これは罰なのだ。

僕自身の行動が引き起こした出来事への罰なのだ。

僕は交換可能な存在だ。

僕はこれから、坂口の代替え品になる。

僕たちは、複製可能だ。

“奴ら”に支配されたこの異世界では、“奴ら”以外の生物はすべて、食料を得るための苗床でしかない。

その機能においては、僕が坂口であろうと僕自身であろうと関係がない。

僕はもう、この世界にやってきた時点で、人間の立場ではなく。

プランテーションの家畜に過ぎなかったのだ。

 

そのようなことを夢うつつに考えるうちに、思考は途切れ始めた。

脳が擦り切れていくようだった。

血中の毒素が増し、考えることが困難になる。

僕は、意識を、失っていった。

 

 

そのまま、もう永遠に意識の薄明を漂うものだと思い込んでいた。

だから、再び自我が目覚めたことは意外といってよかった。

カメラのピントを合わせるように、世界と僕が呼応していく。

それには長い時間がかかった。

この、時計のない世界において、長い時間というものが実際的にはどれぐらいであったのかよくわからない。

それは主観に過ぎない。

しかし、あらゆる現象は所詮は主観の映し出した幻想にすぎないという考え方もある。

主観として長いと表現して、いったい何が悪いだろうか。

僕が、意識の再恢復を得た場所は、例の穴倉だった。

僕は例の穴倉に一人ぼっちで蹲って座っていた。

頭の中が混乱した。

時間が巻き戻ったのだろうかと思った。

穴倉から外へと連れ出され、坂口の解体を見たのは、あれは夢だったのか?

この薄暗い穴倉の中で弱った心が見せた悪夢だったのだろうか。

僕はため息をついた。

そして、ゆっくりと立ち上がった。

体は動いていた。

あの芋虫の毒素の麻痺は感じられない。

僕は安堵した。

夢だ。

夢だったのだ。

悲劇は起こっていない。

坂口は解体されていないし、村木を殴り殺してもいない。

状況はいまだ何一つ改善されていないが、あんなことが起こっていなかっただけでも幸せだ。

なんという僥倖だろうか。

外の空気が吸いたくなった。

気分を晴れやかにしたい。

行動自体を制限されているわけではないのだ。

この穴倉から這い出してみよう。

そう思い立ち、ゆっくりと歩を進めた。

穴倉の出入り口となっている汚れた布の前まで来たとき、なぜか唐突に足が動かなくなった。

 

「??」

 

無意識のうちに、足のつま先が方向を変えた。

僕は、90度ほど体の向きを変えて、壁に面した。

そこには、日の丸の国旗があった。

布に染め上げられた大量生産可能の記号。

それが、目に飛び込んでくる。

腕が自然に動いた。

僕は敬礼していた。

敬礼が済むと、再び足が自由になった。

いったい、どうしたことだろうか。

穴倉には、その国旗は以前から掲揚されていた。

これまでそんな行動をとろうとも思わなかった。

なんだというのだ。

僕の無意識は何をしているのだ。

僕は、不思議な気持ちになりながら、穴倉を出た。

外の空気は相変わらずむっとしていた。

肌にべたりと張り付いてくるような湿度。

そして恒常的に、この空気そのものに溶けて混じってしまったかのような異臭。

それらは相変わらずそこにあったが、一方でもう僕自身慣れてしまったのか、不快だとは思わなかった。

不快だと思わないことが恐ろしくもあった。

適応変化。

適応変化している。

僕は、右腕をポケットに突っ込み、いつものハンカチを触ろうとした。

不安症が染み出るごとに指に触れることが癖になっている。

だが。

僕のポケットに、ハンカチはなかった。

どういうことだ?

国旗のハンカチは?

あれはどこへ行った?

不安が、再び頭の中にあふれ始める。

落としたのか?

いつの間にか?

いや、待てよ、僕はあれを村木の顔にかぶせた?

違う、違う。

村木を殴り殺したのはただの夢だ。

僕は国旗を手放していない。

ならば、ならば僕の国旗はどこへ?

その時、目の前を横切る影があった。

“奴ら”二体だった。

僕はぞくりとした。

国旗を持っていないことがばれたら、どうなる?

なくしたことを知られないようにしなければ。

“奴ら”は、僕を一瞥しただけで、無表情のまま目前を通り過ぎて行った。

両手で、籠のようなものを抱えていた。

羽虫が群がっていた。

籠から、嫌な匂いがした。

身に覚えのある匂いだ。

それは……腐敗した、臓物と、血の匂いだろうか。

いやな予感がした。

心臓がどくどくと波打つのが感じられた。

僕は……“奴ら”の後を追いかけた。

“奴ら”は、僕が後ろからついてくることに何の興味も示さないようだった。

平然と歩を進めてゆき、やがて例の祭壇へとたどり着いた。

祭壇の、あの異形の石像の前に立つと、厳かな手つきで籠の中身をぶちまけた。

籠の中身は……臓物であった。

解体し、時間が経ち、腐り、虫に食い散らかされた臓物の成れの果てが、石像の上にべちゃべちゃと捨てられていく。

僕は胃の中がこみあげてくるのを感じた。

それは、すでに形を成していないが坂口だった。

そのことは心の奥底で本能的に理解できた。

どういう……こと……だ。

あの出来事は夢ではなかったのか。

坂口は。

やはり解体されてしまったのか?

僕は、震えながら、ポケットに突っ込んでいた右手を抜いた。

そして、手のひらを裏返し、自分自身の手の甲をじっと見つめた。

僕の手の甲には。

引き裂かれ、肉がせり出し、そののちに閉じた傷跡があった。

眩暈がした。

これは、村木を殴って生じた傷跡だ。

そこから羽虫に卵を産み付けられ、成長した芋虫が皮膚を突き破った痕だ。

そんな。

そんな馬鹿な。

ならば。

なぜ僕はこうして助かって。

“奴ら”にも攻撃されないでいる?

 

“奴ら”が振り向いた。

対面した僕の顔を、二体の“奴ら”がじっと見つめた。

あの切れ長の、引き裂かれた肉の奥に潜む眼球が僕を見つめた。

だが何もしてこなかった。

数秒間ののち、“奴ら”はどこかと歩いて行った。

僕は……へなへなとその場にしゃがみこんだ。

意味が分からなかった。

坂口が解体され、僕が傷を負い、芋虫に食われたのは悪夢ではなかった。

あれは現実だった。

僕は寝ていたのではなく、脳を麻痺させて混沌としていただけだった。

僕はおそらくは“奴ら”にこの集落へと連れ戻されたのだ。

しかも、長い時間が過ぎたように感じていたが、ほとんどタイムラグはないようだ。

あっても数日か、数時間か。

なぜなら、坂口の臓物の残りがまだ存在していたからだ。

 

 

その日の夜。

僕が穴倉に戻りふさぎ込んでいると、“奴ら”が入り口の布を開き、入ってきた。

先日のように、またついてくるように促された。

まるでループしているようだった。

抗うことはできなかった。

もはやそのような気力もなかった。

僕は、付き従った。

穴倉を出ようとしたとき、また自然に壁の国旗に向かって敬礼をしてしまった。

体が言うことを聞かなくなっている。

麻痺の後遺症だろうか……。

“奴ら”は、再び僕を祭壇へと連れてきた。

祭壇の前に、“奴ら”の男と女が並んでいた。

特徴的だった。

男は老いさらばえ、もうほとんど動けない様子だった。

一方で女は腹を大きく膨らませ、妊娠していた。

それが、僕があてがわれたあの女かどうかわからなかった。

僕は首を振った。

違う。

あれはほんの数日前の出来事だ。

もう孕んでいるはずがない。

女は、裸になり、股を大きく開いて寝そべっていた。

股間部に古い傷跡のようなものがいくつも残っていた。

“奴ら”のうち、手にナイフを持ったものが現れた。

それは坂口を解体したものかもしれなかった。

“そいつ”は、妊婦の恥骨結合上縁部にナイフをあてがい、慣れた手つきで切り裂いた。

“奴ら”には表情がない。

妊婦は腹を切り裂かれ、ビクンと震えたが、表情は何一つ変わらなかった。

例の羽虫がたかる。

だがそんなことも気にせずにナイフを持った“そいつ”は、妊婦の体をさらに切り裂いていく。

皮膚を切り裂くと、皮下脂肪組織が現れた。

柔らかいそれを切り裂くと、膜が見えた。

筋膜だ。

筋膜、腹直筋、腹膜と次々と切り裂いていく。

やがて、子宮の表面が露出した。

ナイフを持った“そいつ”は、何のためらいもなく、子宮の表面を開く。

卵膜を破ると、羊水があふれた。

“そいつ”は、ナイフを手放し、女の体の中に手を入れた。

胎児娩出。

ずりゅっと赤ん坊の頭が出てきた。

 

取り出された赤ん坊を見たとき、僕は違和感を感じた。

その違和感の正体に気が付いたのは、数秒後だった。

“奴ら”の赤ん坊が、勢いよく産声を上げたのだ。

産声。

声。

そんな馬鹿な。

“奴ら”は声を失っているのではないのか。

それどころか。

赤ん坊は豊かな表情をして、顔をしかめ、あふれんばかりの声で鳴き続けている。

その時だ。

ナイフを持った“奴ら”が、老いさらばえた“奴ら”の男の手首を切り裂いた。

動脈を切ったのだろうか。

血があふれだす。

いったい何をする気だ、と思う暇もなかった。

“奴ら”は、生まれたての赤ん坊の手首にもナイフを入れた。

激痛が走ったのだろう。

赤ん坊がはじけんばかりの声で泣いた。

そんなことは気にも留めない様子で、“奴ら”は、老いた男の手首の傷と、赤ん坊の手首の傷をすり合わせる。

それはさながら、極めて原始的な輸血のようにも見えた。

いや、事実それに近い行為だったのだ。

吹き出る血液を介して。

黒い小さな何かが大量に蠢き。

赤ん坊の傷口へと侵入するのを、僕は見た。

 

しばらくたつと、老いた男は動かなくなった。

出血多量によりこと切れたようだった。

妊婦も同じだった。

切り裂くことはできても、接合する技術を持たない“奴ら”は、妊婦をほったらかしにしていた。

腹を切り裂かれ、そのまま放置された妊婦もまた、ひくひくと体を痙攣させ、息絶えようとしていた。

そして、状態の変化は、赤ん坊にも顕れていた。

赤ん坊の泣き声が止んだのだ。

赤ん坊は、徐々に声を小さくしてゆき、やがて完全に沈黙した。

死んだのではなかった。

むしろ、どこまでも安らかに、あの“奴ら”特有の無表情へと変貌していた。

寄生が完了したのだ。

古い肉体から、新しい肉体へと。

 

“世代交代”

 

そんな言葉が頭に浮かんだ。

激しい慟哭に眩暈がした。

日本兵どもが、この異世界へやってきたのはいったいいつなんだ。

それはまさか。

遠い昔なのではないか。

彼らはこの世界で寄生され、世代交代を繰り返してきたのか?

寄生虫の依り代として。

この日本兵たちは。

いったい何世代目なのだ?

この異世界の時間軸はまさか。

我々の世界と同じなのか?

僕の脳裏に、あの古びた日誌や、薄汚れた日本国旗が浮かんだ。

それらは、古びているとはいえ、100年の時を過ごしているようには思えなかった。

一つの仮定が生まれた。

 

“この異世界の時間軸は、我々の世界の時間軸と同じだ”

 

この異世界は、僕たちが元居た世界のほんのすぐ横にある、並走した世界なのだ。

そこまで考えたときに、鋭い痛みが頭を走った。

脳が食いちぎられるような痛みだった。

なんなんだ、これは。

僕は、しゃがみこんだ。

叫びだしたいほどに頭が痛んだ。

だが、口が開かない。

言葉を発することができない。

ここに至り、ようやく僕は、一つの異変に気付いた。

 

“僕は、目覚めてから一度も言葉を発していないのではないのか?”

 

まさか。

まさかまさかまさか。

汗が噴き出し、背筋が凍り付いていく。

僕は震える指で、自分の頬を撫でた。

いやに硬い。

皮膚がカチカチに固まり、頬が従来よりも平らになっているような気がする。

嘘だ、嘘だろ?

そのまま指をスライドさせ、鼻筋に触れた。

それは、いやに低かった。

僕自身の鼻でないような気すらした。

僕は。

“奴ら”の顔のように、のっぺりとしたものに変容しつつある。

 

またもや激しい痛みが脳を揺さぶった。

脳が食いちぎられそうな痛みだ。

痛みの中で思い当たる出来事があった。

僕が村木を殴った時。

僕の手の甲は擦り切れ、血が噴き出していた。

皮膚が避けようとも村木を殴ることをやめなかった。

村木もまた、僕に殴られて血みどろになっていた。

そして僕は、“奴ら”と化した村木の血に触れることを厭わなかった。

血を介して“奴ら”の本質たる寄生虫が寄生するならば。

僕は、すでに……。

 

 

そこからの出来事は、すべてがぼんやりとした酩酊の中にある。

僕の体は、僕の自由を効かなくなり、僕のものでありながら僕のものではなくなっていった。

かといって、僕自身の自我がすべて消滅してしまうということはなかった。

僕は、自身を支配されながらも、変貌した、また別の僕であった。

かつて僕だけであった僕が極限まで薄れ別のものと混じった、新しい僕に生まれ変わったようなものだ。

今の僕は、僕自身でもあるし、別の何かでもある。

僕の複製コピー。

出来損ないの。

もう一つの僕へと複写する際にズレが生じて、元の僕ではなくなってしまった僕のようなものだ。

“奴ら”の寄生は、寄生対象の資質をほんの少し残していくらしい。

日本兵たちだった者たちは、彼らの資質に浸み込んだ国旗崇拝を、世代交代を経ても受け継ぎ続けている。

もはやその意味すらも分からなくなっているようだが、彼らは、今も壁に貼り付けられた薄汚れた記号へと敬礼を続ける。

無意味な動作。

だが、僕が“奴ら”に寄生された初期のころ、僕もまた、国旗への敬礼に抗えなかった。

それはなぜか、狂おしいほどに魅力的な行為のように感じられた。

なぜだろうか。

村木の血液に触れたことで、彼の資質が混じってしまったのか。

それとも、空虚で何もなかった僕が、異世界での生活を通して得た、たった一つの僕自身の資質なのだろうか。

僕にとっての日の丸は、別段、日本国の意味ではない。

記号としての日の丸は、もちろんわが故郷を意味するが、それはもう、僕の中で違うものになっている。

それは、僕の中で新しい意味を獲得した。

白地に赤く染め上げた赤い火の玉は、この異世界で懸命にあがいた僕自身だ。

30歳までぼんやりと生きてきた僕自身が、生まれて初めてあがき、悩み、闘った、濃密な数日間の象徴でもある。

寄生された僕が、別の僕自身へと変化したように。

ただの記号に過ぎない日の丸が、別の意味を持つのも良いだろう。

それが僕の中で膨れ上がり、大切なものになったことは事実なのだから。

自由を失い、意識のほんの一部となってしまった僕の中で。

日の丸の像は増幅を続ける。

それはやがて僕のすべてを飲み込み。

僕自身になりそうだ。

 

 

 

(完)

 




お疲れ様でした。
これでこの小説は完結です。
長くしかも特殊な作品をお読み頂き、本当にありがとうございました。

さて、少しだけ説明です。
異世界ラノベを書いてみたいと思い、あれこれと頭を悩ませました。
異世界とは結局なんなんだろう、と。
その時、連想したのは、小島信夫の「小銃」や「墓碑銘」或いは開高健の「ベトナム戦記」や「輝ける闇」といった体験者による戦争小説でした。
彼らは遠い見知らぬ国の戦地に送り込まれ様々な未知の体験をします。
これを異世界召喚と呼ばずしてなんと呼びましょう。
そこで、異世界とはいえ、いわゆるJRPG的な世界観ではなく、湿地帯。
そして主人公達はサバイバルを通して自己アイデンティティを模索することになりました。
戦地での自己アイデンティティの模索は、小島信夫が何度も描いてきてテーマです。
そこに、国旗・国家とミメーシス。
あるいは、主体と像・記号と複製といったテーマを盛り込んでみました。
産業革命以降、大量生産が可能になり、複製が社会に溢れることで社会通念が変化したことをヴァルター・ベンヤミンは写真を例にアウラの喪失として論じましたが、 複製可能という概念は、他のあらゆることにも適応可能です。
武器も偶像もイベントもなにもかもが複製可能になっていく社会で、人の意識や心の頼り方もまた変化しているのではないでしょうか。
そんなことを考えつつ、意匠・記号が含む意味が、受容者によって変貌していくことも少し考えてみました。
あくまでサバイバルものとしてスリリングさを忘れないようにしつつ、色々と考える行為を絡ませてみた本作ですが、皆様はどのように感じられたでしょうか。
少しでも楽しんでいただけたら幸いなのですが。
感想・叱咤・御鞭撻を、心からお待ち申し上げます。
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