いつもポッケに日の丸を   作:忍者小僧

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その世界は、僕たちが知っている世界とは異なっていた。

まず目が覚めた瞬間飛び込んできたものは、圧倒的な悪臭だった。

魚醬を煮詰めて煮詰めて、そこにさらに人糞だの小便だのを混ぜてから蒸発させたような、そんな強烈な臭いを知覚して僕は飛び上がってしまった。

鼻腔を匂いがくすぐるごとに吐き気を覚え、事実僕たちはその場にげぇげぇと吐いた。

僕の隣には坂口と村木がいた。

彼らも同じようにこの世界に飛ばされたようだった。

 

「なんなんだ、この匂いは」

 

坂口が叫ぶ。

だがそんなこと誰にもわかるはずがなかった。

我々は周囲を見渡した。

それは、泥のような川の淵だった。

粘土を溶かしたような濁った水がすぐ背後に流れている。

湿度が高く、蒸し暑い。

頭の中をゆでたタオルで殴られたような感覚があった。

川の反対側は、森だった。

日本の森とはかなり違っていた。

観葉植物のような葉の厚い木々が生い茂っている。

時折、動物が動く音がした。

森の奥がどうなっているかはわからなかった。

 

「あ、あぁ、あぁ」

 

村木が青ざめた表情で口をもごもごと動かした。

何かを言おうとしても適切な言葉が出てこない様子だった。

彼は、結局言葉を止め、うつむいた。

その様子は、中学生時代のあの薄暗く内面的な村木であるように感じられた。

 

「どうする?」

 

僕は茫然と呟いた。

 

「どうしようもないな」

 

坂口が言った。

 

「あれか。流行の異世界転生だ」

 

彼もまた、子供のようなことを言った。

危機的な状況になると、人間の知性は減退するのかもしれない。

僕はため息をついた。

 

 

結局のところ、我々は歩くことにした。

ここにいてもしょうがないという結論に達したからだった。

泥のような川に沿って、獣道のようなものがあった。

ここが一体どこなのか、この世界は何なのか。

少しでも情報が得たい。

そんな考えが頭をよぎった。

だが、この考え方はあまりにも甘かったのではないかと我々は次第に後悔することになった。

というのも、便利な現代生活に慣れ切った僕たちの体力は、蒸し暑いこの世界での長時間の歩行に向いていなかったからである。

一番最初に息切れしたのは村木だった。

小太りでいかにも不健康そうな彼は、一時間ほど歩くと、もう息も絶え絶えになってしまった。

だらだらと汗を流し、涙目になる。

 

「喉。喉が乾いた」

 

酒をしこたま飲んだ後だということも影響していた。

やがて彼はその場にしゃがみ込んでしまった。

 

「もう一歩も歩きたくない」

「ふざけるなよ」

 

坂口が言った。

 

「どんだけ迷惑をかければ気が済むんだ」

「あぁ?」

 

村木が睨み返した。

 

「俺がどんな迷惑をかけたっちゅうねん」

「お前が暴れて、気が付いたらこの世界にいた」

「俺のせいかどうかわからんだろうが」

「明らかにお前のせいだ」

 

にらみ合う二人。

僕はため息をついた。

 

「水、か……」

 

呟いて、すぐそばの川を見た。

泥のような川。

 

「飲めるんだろうか?」

「やめておけよ。腹を下したらどうする?」

「でも、このまま喉が渇いていくと……」

「雨だ。雨が降るのを待つしかない」

「雨……」

 

僕は空を見上げた。

 

「雨……降るんだろうか」

 

川があり、湿度があり、雲がある。

雨が降ることは間違いがないだろう。

だが、その頻度が分からなかった。

 

「雨を待つか?」

 

坂口が、村木をにらみながら言った。

 

「頼むわ。もう、限界や」

 

村木が降参のように両手を挙げた。

その手を。

一本の矢が貫いた。

 

「!!!!」

 

村木が転がる。

のたうち回って苦しんだ。

何が起こったのかわからなかった。

見ると、村木の手のひらに石でできた矢じりが刺さっていた。

 

「何だ? どこからだ!」

 

坂口が叫んだ。

その瞬間、もう一本矢が飛んできた。

それは我々には届かず、川に落下した。

 

「川に落下した。向こう岸だ」

 

僕は言った。

それと同時に村木が立ち上がり、走り出した。

 

「何やっている!」

 

坂口が叫んで後を追う。

僕も後に続いた。

村木は逃げようとしているようだった。

そのあとは、矢は飛んでこなかった。

10分ほど全力疾走で獣道を駆けると、体力の限界に達し、我々はまた転がるように倒れこんだ。

 

「はぁ、はぁっ」

 

熱い。

うだるような湿った熱気が、体を包んでいる。

体力を奪われる。

僕は犬のように舌を出した。

荒く息をして、水が飲みたいと思った。

隣では、村木が、無言で手のひらを見つめていた。

 

「どうした? 痛むのか?」

 

僕の言葉に、村木が我に返ったというように息をのんだ。

 

「こ、こ、これ……」

 

彼が開いて見せた手のひら。

つぅっと血が滴る傷口に、無数の羽虫が群がっていた。

 

「ひぃっ!」

 

僕は思わず声を上げた。

 

「あぁ、あぁぁぁぁぁ!」

 

その段になって、ようやく村木も自らの手をぶんぶんと振り回す。

すると羽虫は飛んで離れるのだが、またすぐに寄ってきた。

坂口が言った。

 

「気にするな。血に寄ってきているだけだ。肉を食われるわけでもない」

 

そして、先を指し示した。

 

「行こう。また矢が飛んでくるぞ」

 

その言葉に、村木は慌てて立ち上がる。

僕も後に続いた。

 

先ほどのように全力では走らないが、とにかく前へ進む。

坂口が言った。

 

「この獣道。よくよく考えたら人がいる証拠だよな。当たり前のことに気が付かなかった」

「道があることに慣れすぎたんだ」

 

僕は答えた。

 

「あぁ。そして、もう一つ。そこにいる人々が我々に友好的とは限らないってこと。そのことにも思い当たらなかった」

 

僕は答えなかった。

それは、今やわかりきっていることだったからだ。

しばらく歩くと、後ろから村木が声をかけてきた。

 

「あ、あの、二人とも」

 

僕たちは振り向いた。

 

「ちょ、ちょっと、見てもらえへんかな?」

 

一体何なんだ、と、彼の拡げた手のひらをのぞき込む。

 

「か、かゆい。痒いねん、さっきから。もぞもぞするっていうか……」

「怪我が化膿してきたのか?」

「わ、わからん。わからんねんけど」

 

その時。

皮膚の傷口が動いた。

 

「??」

 

正確には、盛り上がった。

そして。

彼の手のひらの傷口が引き裂かれ、幾匹かの小さな芋虫がはい出してきた。

 

「な、なんだこれ!」

「う、うわぁぁぁぁぁ」

 

まさか、先ほどの羽虫に卵を植え付けられていたのか?

だとしても、なんてスピードで成長するんだ。

こんな。

さっき羽虫がたかってから10分も経っていないのに。

僕の懸念と同じことを思ったらしく、坂口がつぶやく。

 

「どうやらこの世界、俺たちの世界とは時間の速度とか、いろいろと違うのかもしれんぞ」

「そ、それどころやないがな、それどころや」

 

村木が叫んだ。

 

「き、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いいぃぃ」

 

手をぶんぶんと振り、取り乱す。

やがて彼の視線は、泥の川へと向かった。

 

「手、手ぇ。手ぇ、洗わんと!」

「あ、やめろ、村木!」

 

静止は間に合わなかった。

村木は川へと走っていき。

泥のように真っ黒に濁った川面に手を沈める。

 

「あぁ、あぁぁぁぁ!」

 

狂ったようにごしごしと水中で手をこすっているのが分かった。

そんな彼の額に向けて、一本の矢が放たれた。

 

「あっ」

 

言葉にもなりきらない一言を発して、村木があおむけに倒れる。

彼の額には矢が突き刺さっていた。

しばし、痙攣のように彼の体が動いた。

しかしそれはすぐに止んだ。

 

 

僕と坂口はお互いの顔を見合わせた。

顔を見合わせただけで、お互い村木を助けに行く気持ちなどないということが分かった。

 

「助けるか?」

 

坂口が僕に問いかけた。

 

「いいや」

 

僕は曖昧に首を振った。

仕方がないじゃないか、という気持ちがあった。

多分村木はもう死んでいる。

死んでいないにしても助けに行くのはリスキーだ。

リスキーすぎる。

こちらの命の危険までさらしたくない。

自分の命と、村木の遺体を回収することとを天秤にかけると、当たり前だが自分の命のほうが重かった。

僕がその場を立ち去ろうとすると、坂口がしゃがみ込んで何かをやっていた。

 

「どうしたんだ?」

 

問いかけると、彼は手に持っていたバッグを見せた。

 

「これ。村木のバッグ。あいつ、置いていきやがった」

「あきれたな。村木の奴、あれだけ息苦しいって言いながらバッグを捨ててなかったのか」

「よほど大事なものが入っていたのだろうよ」

「お金か? んなもの、この世界で無価値だろう」

「まぁな」

「それで?価値のあるものを物色中か?」

「いいや」

 

坂口が顔を上げずに言った。

 

「まぁ、村木もかわいそうな奴だと思ってな。なんか形見ぐらい、持っててやろうと」

「……それもそうか。死んじまったもんな」

「違うよ」

「ん?」

「死んだことじゃなくてさ。あいつの内面というか、人間性がな。空しいなって」

「ふぅん」

 

僕はよくわからなかった。

すると坂口が言った。

 

「見ろよ。このバッグ、ろくなもんが入ってない。財布だってほとんどすっからかんだ。金なんてなかったんだよ」

「みたいだな」

「後生大事に持っていたかったのは、これかもなぁ」

 

そうつぶやいて、丁寧に折りたたまれた白いハンカチを取り出した。

例の、広げると日の丸になるハンカチだ。

 

「ほらよ」

 

坂口がそれを僕に放り投げた。

 

「持っといてやれよ」

「お前が持てよ」

「俺はそういうのは、持ちたくないんだ」

 

僕は仕方なく、それをポケットに入れた。

それを見届けて、坂口がつぶやいた。

 

「そのハンカチ。村木にとっては本当に心の依りどころだったんだろうなぁ」

 

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