「これはたぶん、出征の時の寄せ書きだろう」
「出征?」
「そう。日清だか日露だか第二次世界大戦だか知らないが。“勝ってくるよと勇ましく”の世界だよ。“水く屍”でもいいけどさ。そん時の村の人々の寄せ書きだわ、これ」
「どうしてそう断言できる?」
「中心部を見てみろ」
波状に書かれた幾多の名前の中心部に。
目を凝らすと、日の丸があった。
それはちょうど帽子をかぶった像の真後ろの位置であり、真面に血が飛び仕切る位置だからであろう。
血で汚れ、すっかり元の日の丸の名残を失いかけてはいたが。
よくよく見ると白地に赤を染め抜いた日の丸国旗に違いなかった。
国旗に連なって書かれた幾多の名前、そして軍事用ヘルメット。
たしかに、それはかつての“出征”を思わせる。
「それじゃ、俺たち以外に転生者は旧日本軍兵士か」
「可能性は高いと思っている」
「そいつは……生きているのだろうか?」
「わからんな。ただ、多分生きてはいないんじゃないか」
「というと?」
「ヘルメットは大事な、身を守る道具だ。捨てていくとは思えん。国旗ならまだしもな」
坂口の物言いに少しカチンときた。
自分でも意外だったのだが。
僕は、“国旗ならまだしもな”の部分に反応したのだ。
「おい、坂口」
「なんだ?」
坂口がへらっと笑って振り向いた。
僕は彼をにらみつけて言った。
「訂正しろよ」
「何を?」
「今の言葉だよ。“国旗ならまだしも”ってなんだよ」
「何って。そまんまの意味じゃないか。国旗を持っていて腹が膨れるのか。安全が保てるのか。ん? お前、なんだ、国旗を装備したら守備力アップか? 俊敏性+1か? ゲームじゃないんだぞ。こんなサバイバルな状況であれはただの布だろ」
僕は、ポケットの中の国旗を握りしめた。
あまりにも強く握ったので指が痛んだ。
よくわからなかった。
なぜこんなにイラつくのかが。
僕は、別に国旗に愛着などなかった。
好きも嫌いもない。
ただそんな程度の感覚だった。
だが、国旗をよりどころにした村木が死んで。
その国旗は僕に受け継がれて。
僕は今、それを握りしめて生きていて。
あぁ……よくわからない。
自分で自分の心の中がわからない。
どうして、僕はこんなにも。
この国旗を必要としているのだろうか。
「藤原。お前、村木に乗り移られたんじゃないのじゃ?」
冗談めかして坂口が言った。
僕は首を振った。
「そうじゃない。そうじゃないんだ。ただ、何かが。僕は、その。兵士は国旗を捨てないと思うんだ」
「馬鹿な。捨てるさ」
「どうしてだ」
「当たり前だろう。普通に暮らしていた青年が、いきなり上が始めた戦争のとばっちり食わされて。それで戦地に送り込まれるんだぞ。誰が国旗なんか大事にするものか」
「そうじゃない、そうじゃない」
「そうなんだよ。いいか、戦争ってのはな結局は国の上層部のエゴなんだ。やらなくていい戦争なんてゴマンとあるんだよ。それが国の上層部のメンツやら、政権維持やら、領土拡大の野心やら何やかやでおっぱじめられちまうんだ。それで現場で戦うのは誰だ? 国の上層部じゃない。ただの国民だった一介の兵士たちだ。生まれる国土を選ぶことのできなかったただの人間だ。代理戦争なんだよ。国の上層部が戦う代わりにやらされてる代理なんだ。兵士ってのは。代理の駒なんだ。命がけのな。だから。背負わされた日の丸なんて、ただの負債なんだ。押し付けられた重い足かせなんだ。そんなもんに寄り添う馬鹿がいるかよ!」
そうまくしたて、上気した頬をめんどくさそうに坂口は撫ぜた。
彼は何とも言えない表情をしていた。
僕は再び首を振った。
「お前の言うことも一理ある。だがな。そうは思わないよ。少し違うと思う。それは今、僕自身が実感している。こうやって、訳のわからない危機的な状況に唐突に放り込まれて。今僕たちは強行軍の兵士と同じだ。怖くてたまらない。不可解でたまらない。そうした中で僕は今確かに、この国旗が一つの心の支柱になっているんだ」
「それは違う、お前、根本的に違う。お前が言っているのは、アイドルや俳優に憧れてそれを心の支えにしているのと同じだ。無責任な無関係な他者だからこそそれを偶像として愛せるのと同じだ。戦争ってのはな、その国旗の象徴する国によって引き起こされているんだ。だからそこには濃密な関係性があるんだ。今の俺たちの状況は国家なんて関係ない。無関係だ。だからお前は無邪気に国旗を心の支えにできるんだ。藤原、お前は、国家によって徴兵されて唐突に戦地に投げ込まれた時、それでもその国家を愛せるか。その国家の国旗を心の拠り所になんてできるのか」
僕はゆっくりと首を振った。
否定でも肯定でもないつもりだった。
だが、その動作を、こちらの完敗の合図だと受け止めた坂口が笑った。
「ほら見ろ。間違えているんだ、お前はよ」
「わからない。わからないよ」
僕はぶつぶつとつぶやく。
その間も、ポケットの中の日の丸はずっと握りしめている。
それはもう、僕の掌の中で歪んでぐちゃぐちゃだろう。
日の丸は今は、真ん丸ではなく、楕円になっているかもしれない。
「ただ、その」
「なんだよ」
「例えば、国の責任で戦争を押し付けられたとして」
「あぁ」
「それでもその国を憎まず戦えるとしたら、すごいと思う」
その言葉に、坂口が無言になった。
彼はやれやれと溜息を吐き、それから軽蔑するような瞳で僕を見た。
「毒されてやがる。お前は精神的な奴隷だ」
唾を吐くようにそう言い捨てた。
「言い争って無駄な時間を浪費しちまった。俺たちは運がいいよ。“奴ら”にまだ見つかっていない」
僕はうなづいた。
それは単純な事実だった。
精神的な臨界点に来ている証拠なのか、このような場で大声で言い争ってしまった。
普通なら、考えられない間抜けな行為だ。
だが、僕も坂口も壊れ始めていた。
明らかに、常軌を逸し始めていた。
生きたい。
生き抜きたい。
そう思いつつも、心のどこかに、もうどうとなれという自棄が潜んでいた。
その自棄は、どんどんと膨れ上がり、僕たちの行動を狂わせていく。
もう終わらせてしまいたい。
こんなにも苦しい生き抜きゲームならば。
いっそ村木のように離脱したい。
そんな恐ろしい直情が不意に顔を出す。
「見つけたぞ! 猿どもだ!」
坂口が叫んだ。
彼の背後に、木で組まれた簡易な檻のようなものがあり、その中に数匹の動物がいた。
坂口は楽しげに雄たけびを上げた。
彼の表情は先ほど前よりもさらに先鋭的になり、攻撃的になっていた。
極限に近い状態で浮かび上がってくる人間の根の部分が剥き出しになっているのかもしれなかった。