「む、村木……?」
僕の問いかけに彼は答えなかった。
矢が突き刺さったはずの額は、わずかな跡が残っているだけだった。
だがそのことが逆に、彼が撃たれたあの村木であることを物語っていた。
額に空いた穴の跡が残っている様子は、まるで仏像のような趣を彼に与えていた。
彼の後ろには、先ほどの“人に似た何か”が数人並んでいた。
まるで教えるように、後ろの“人に似た何か”がこちらを指さした。
無表情で、妙にのっぺりとした村木が、こちらに近づいてきた。
僕は思わず身構えた。
だが、彼は僕を通り過ぎた。
後ろで倒れてもがいている坂口のほうへと向かっているようだった。
坂口が、震える声で言った。
「や、やめろ。やめろ、村木。なぁ。同級生だろ。友達だろ」
その言葉が次第に呂律を失っていく。
「あ、あひぇ、くひが、うまひゅうごかひゃ……」
やがて、ほとんど動けなくなった坂口の傷口に、村木が口をつけた。
吸いだしている。
食べている。
あの芋虫を食べているのだ。
例の異臭が強くなった。
もしかしたら。
この匂いにつられて、“こいつら”は現れたのかもしれない。
坂口がこの場で芋虫を食べなかったら、見つからなかったかもしれない。
僕は唇をかんだ。
先ほどの自棄はここにきて逆に薄れ、どうにかして助かりたいという思いが強くなっていた。
僕は、口元を覆っているハンカチを撫でた。
村木のハンカチ。
今目の前にある、村木の日の丸のハンカチ。
「くそっ」
僕は叫び、その場に背を向け、走り出した。
哀れな坂口のかすかなうめき声はまだ耳の奥に届いていた。
だが僕は、彼を置き去りにした。
彼に“奴ら”が気を囚われているそのタイミングしか逃げ出すタイミングはないと思った。
僕は、彼を見捨てた。
犠牲にした。
走りながら、脳裏に、我々が村木を見捨てた時の映像が浮かんだ。
一人見捨てると、今度はまた一人見捨てることになる。
僕はあの時、心の奥底で、いつか坂口は僕を見捨てるだろうと思っていた。
だが逆だった。
見捨てたのは僕のほうだった。
“奴ら”は追ってこなかった。
矢も飛んでこなかった。
そのことも意外だった。
一か八かで走っただけだ。
後ろから矢で射抜かれる可能性も覚悟はしていた。
やみくもに獣道を走りながら、坂口との思い出を思い出した。
僕が就職してすぐのころ、慣れない営業職に悩んでちょっとした鬱に近い状態になっていると、か彼が飲みに行こうと誘ってくれたことがあった。
僕と彼は雑居ビルの3階の安居酒屋でビールを飲んで愚痴を語り合った。
その頃は彼もコールセンターのアルバイトを始めたころで、嫌な客のことをいろいろと語っていた。
「他人に文句を言って気を晴らすような幼稚な大人にはなりたくないぜ」
彼はしきりにそう言っていた。
それからしばらくして、彼は僕にライブのチケットを買ってくれと頼んできた。
「助けると思ってさ。な。客のノルマが足りないんだよ。俺だってこの間、愚痴を聞いてやっただろ?」
実に坂口らしい打算だった。
彼には直情的な部分と妙に打算的な部分と、純朴で理想主義的な部分とが入り混じっていた。
それはそれで人間らしくて僕は好きだった。
仕方ないと思ってライブに行った。
実は、坂口のライブを見たのはその時が初めてだった。
中学時代のかつてのいじめられっ子は、髪を派手に立ち上げて上半身裸になり、リッケンバッカーを弾き散らかし、暴れ狂っていた。
狭い地下のライブハウスが爆音で揺れていた。
いい音楽なのかどうなのかはよくわからなかったし、音割れしすぎていて正直メロディさえ聞き取りにくかった。
だが、不思議な爽快感があった。
ライブが終わるとすぐに対バン相手のバンドとステージを交代し、坂口は汗だくになりながらドリンクカウンターのあるチルラウンジへと移動した。
バンドメンバーや数人の客と談笑し、僕を見つけると手を振った。
「藤原。ありがとうな。来てくれて」
声をかけられてうれしかった。
小さなライブハウスなど来たことがなかったので、居場所がなくて困っていたからだ。
「悪かったな。無理言っちゃって」
「いや、いいさ」
そう答えたのは僕の本心だった。
「で、どうだった?」
「え?」
「え、じゃねぇよ。俺のライブだよ」
「うん」
「答えろよ」
「よくわからなかった」
「なんじゃそりゃ」
坂口がうへっと舌を出した。
「素人が理解してくれなきゃ売れないんだよなぁ」
そんな言葉をつぶやく。
「でもまぁ、よくわかんなかったけどさぁ」
「うん?」
「また来ようかなとは思ったよ」
そう言うと、坂口ががばっと抱き着いてきた。
「マジかよ!」
汗臭かったが、どこか僕は楽しかったのだ。
※
そんな過去が、今はもう、恐ろしいほど遠い場所に横たわっているように思える。
どうしてこんな。
どうしてこんなことになってしまったんだ。
僕は心の中で幾度も叫んで走った。
拠り所が欲しかった。
右手に、日の丸のハンカチをぎゅっと握りしめていた。
そうやって、真夜中の獣道をひたすらに走り。
幾度も幾度も足を囚われて転げそうになった。
転ぶわけにはいかなかった。
この世界では、傷を負うことが致命的だ。
あの羽虫にたかられてしまう。
だが、そうやって意識することでむしろ、足を掬われてしまうことがあるようだ。
足元に気を囚われすぎて僕は周囲をちゃんと見ていなかったのだ。
暗さで分からないところに、小枝があった。
それが僕の頬をかすった。
その瞬間、嫌な予感がした。
そっと頬を撫でる。
掌に、血がついていた。
「あ、あぁ……」
足が震えた。
僕はその場にへたりと座り込んだ。
羽虫がすぐに群がってきた。