歪む視界。崩れる自分の輪郭を繋ぎ合わせて"そこ"へ飛ぶ。
意識の片隅にある、安全な場所へと。
──────
──飛んだ。ふわり投げ出される身体。
薄らぐ思考を痛みが御し、なんとかそのまま昏倒というのは避けたらしい。重力のまま壁に寄り添いそのまま崩れ座る。
四方は今だ荒々しく覗く岩肌で、辺りにはひしゃげたタルや砕け散った氷の結晶が散乱している。あたかもこの部屋だけに氷嵐が訪れたかのよう。確かに。間違いない、最初に私が訪れた部屋だ。あの時思い描いた場所に違いない。
荒い呼吸と身体の震えを押さえつけ、素早く見回し安全を確認すると、次に自身の回復処置へ入る。
痛みはなく、ただ酷く熱い。酸が付着した部分は全て溶け落ちた為これ以上侵食されることはないが、今だ欠損面からは止め処なく血が流れ出している。その部分に左手のひらを合わせ。
「致命傷治癒」
呟く。すると緑の燐光が右腕を覆い、さらにその先の前腕や手まで光が形作る。流れ出ていた血が止まり、麻痺を伴う痛みに変わりだした熱さも和らいでいく。
傷や欠損は
自我が拡散してしまい、身体を監視できない死体は再生できない。傷や欠損を長時間放置してしまっていた場合、自我が変容した新しい身体を認識してしまう為再生できない。さらにエーテル病と呼ばれる、大気中のエーテルを過剰摂取したことによって引き起こされる身体の変化も再生できない。
例外は多々あり、今の自分のように負傷した直後でなければ基本的には回復できないという事だ。熟練の癒し手ならある程度まで遡り治療できるらしいが。
今の私の練度では再生は瞬時とはいかない。致命傷なら長くて半日ほど。あの日、不死者になった時はそうだった。
回復処置が終わり、掛かっていた英雄の魔法も解け、ようやく一命を取り留めたという安心感に再び意識がさらわれる。
──だめ。落ちる。
──意識のまどろみへ溶けていく。
暗く狭く、そして意識の奈落へ融け落ちた。
──────
夜、カーテン越しに伝わる月光が暗い室内を照らしていた。見間違うはずない、ここは私の部屋。ということは今いる場所は家なのだろう。
前後の記憶を洗い出そうとするも、もやがかかってまとまりがつかない。
──これは夢だ。
そう、私は家を出た。だからここは本当じゃない。本当の自分は回復処置を自身に施した後に、すぐ眠ってしまったはずだ。部屋を見渡すと壁を覆い尽くさんばかりの本棚と、その中に収められた魔法書や学習書。地面に散らばる数冊は何であったか。
──ここは牢のようで、籠のようで。
ここで私は世界に対する知識と魔法を得た。そして知ったからこそ自身の不自由さをも知った。自分の触れられる世界はこの家の中だけで、けれども世界はその数千倍よりもっと広い。その事実は私にささやかな絶望を与えた。そして同時に、世界に対する憧れも与えた。
ある日、お父様に数日家を空ける用事ができたと言われた。それを機と見て、家出を企てた。
その時に手伝ってくれたメイドがいて、年は同じぐらいで流れる金の髪が美しい少女。いつも身の回りの世話をしてくれていて、唯一気の許せる親友でもあった。彼女は私の状況を疎んでくれていて、危険とも知りながら私を外の世界へと導いてくれた。確かあの後も、私がふらっとネフィアに入るまでは──
直後、その先の死の記憶まで走査してしまい思考が途切れる。
──夢、醒めないなあ。
とりあえずとして、今自分が寝ている天蓋付きのベットから起き上がり、ドレッサーの鏡を開き自分の姿を見た。
白ではなく亜麻色の髪。青い目はそのままで、肌はより血が通っていて。
──かつての、私だ。
生きていた私。外を知らなかった私。そしてその鏡の中の口が動いて。
「莫迦なあなた。外に出なければ傷付かずに済んだのに。外に出なければ知らぬままで済んだのに」
私は何も話していない。それはひとりでに。
嗤う。私の声でありながら私じゃない悪意に満ちた貌とその声が。
「莫迦な私。外に出られて嬉しいでしょうね、楽しいでしょうね。けれど私は世界の無情に今だ気付かない」
──そんなこと。
「ある。ああ、なんて哀れなあなた。哀れな私。世界を見て、これ以上傷ついて、絶望するくらいならいっそあの場で死んでいれば良かったのに!あははははははは!」
憐憫と自嘲にも似た声音。なるほど、確かにこれは私だ。
私は心の底で、知っているだけで全てを見た気になっていた。それは家を出て払拭したつもりだったが、その結果が今回の負傷だ。死にこそしなかったものの、私は自分の力に傲慢し警戒を怠った。世界には人を容易に殺傷しうるモンスターが蔓延っているなんてとっくに知っていたはずなのに。
「あなタはワタし。アナたハわタシ。アナタハワタシダ!アナタハワタシダ!アハハハハハハハ!」
鏡の中の私は姿を黒い怪物へと変え、異形の雑音が混じる黒い声で嗤う。それは空間さえ歪めて辺りを黒く塗りつぶし、それは思考をも黒く染め上げた。
──────
酷い夢を見ていた気がする。寝汗が酷い。ただどことなく懐かしい気持ちでいた。時計を見ると丁度半日後ほど。
右腕は完全に復活していた。少し感覚にズレが残るも、それを意識して動かせば問題はない。
前回でスライムの特性は知った、そして見た。ならば今度はそれを踏まえた上で戦うまでだ。
怖くないと言ったら嘘になる。だが私はこの目で世界を見ると決めたのだ。こんな所で立ち止まってはいられない。
私は消えているランタンに火を着けてあの通路へ向かった。
殲滅したとはいえ、警戒は怠らず進み件の通路への扉を開いた。
まだ記憶に新しい、むせ返るほどの異臭。だが今はまだそこまで濃くはない。きっとスライムはこの先だろう。
物質感知の魔法を唱え、通路の先を走査する。そして──いた。そして今、肉眼でも見えた。
赤色が少しまじりながらも、青いゼリー状の体を震わせてそこにいた。きっとあの赤色は自分の血と右腕が融けているのだろうと考えてしまったが、ただでさえ異臭の中であるのに吐き気を加速させてしまうだけだから止めておいた。
そして私は先んじて、そして出来るだけ冷静に、魔法を唱えていく。
「アイスボルト」
白い極低温の直線がスライムを貫き、その背後の壁まで白く凍らせた。
瞬間、スライムに異常が現れる。アイスボルトを受けた部分がみるみると凍りついた。スライムは素早くその部分を切り離し、残った体でこちらへ向かってくる。
これこそが考えた対策。スライムといえど結局のところは液体だ。凍ってしまえばあとは砕けるしかない。スライムは一定体積以下になると活動を停止するという。それか核となる部分があの中にあるのではないかとも言われている。剣などの武器を使うなら、わざわざ何度も切り裂いたり叩き潰したりするしかないが、魔法使いならもっとスマートにできる。
「アイス、ボルトっ!」
冷静に、冷静に周囲の魔力が自分に逆流するのを防ぎながら。
スライムはみるみるその体を減らしていき、速度もそれに比例して遅くなる。それでも諦めずにこちらに向かうスライムに哀れみなど覚えない。殺さなければ殺されるのは自分だ。この詠唱を止める訳にはいかない。私が死なないために、諦めないために。
「...やった」
そして今、放ったアイスボルトが残った全てを凍らせた。最後に対酸性コーティングが施されたブーツで、飛び散らないように注意しながら踏み抜いていく。
──やっと、終わった。
一度は自分の右腕を奪った相手を、今は踏んで砕いている。心の中で黒い感情が沈殿する。けれどそれは見ないふりをして。
──だめ、もっと冷静にならないと。
目を逸らすように冷静に、より冷静にと努める。生死が関わるような時には常に合理的にならなくてはいけないと。何が死に直結するか分からない。その事を胸に秘め、仄かな感情を振り切り隠す。
そして私は通路のプチやスライムを倒しながらその奥の扉を開いた。
忘れてて急遽入れたなんて言えない。