第五種接近遭遇(偽)
八坂真尋の目から見て、空は赤かった。なにもこれは時刻が夕方というわけでもなく、ましてや彼が疲れ目、かすみ、充血しているわけでもない。ならば何かと言えば、純然たる事実として彼の視界の光景はそれ以外の何物でもない。
住宅街、息を切らせながら走る真尋。何をそんなに急いでいるのかといえば、ときおり彼が振り返る背後にある。彼から一定距離を保ち、何かが、彼に接近している。それはおおむね大人の男性ほどの体躯の大きさをほこり、四肢と頭を持つシルエットをしていたが、根本的な造形からして人間のそれではない。詳細なシルエットこそ赤い夜空のせいで見えないまでも、どこか悪魔的なそれを連想させる、頭蓋から生えた角と背部から生えた翼である。
直視してはいけない――――、真尋の中の本能的な何かが警告する。それが何を指し示すか連想することができるほど、今の彼に余裕はない。夜道、突如として現れた「それ」に接近された時点で、彼は全力疾走をしていた。それの顔に目など確認こそできなかったものの、しかし何故か「それ」が自分の存在を狙いすましたように見たことに、真尋は自覚的であった。
「なんだよ、なんなんだよアレ! 今どきライダーの怪人とかでも、もっとかっこいいデザインしてるだろって!」
卑近な言葉を上げることで現実感のなさと危機感に混乱した自分を落ち着けようとしているのか、しかし真尋の言葉に呼応するかの如く、背後で声が上がった。それは一言でいえば何かしらの獣の声であったが、音が複数重なり合った、何か人体の重要な器官と共鳴して破裂でもさせかねないような叫び声であった。恐怖感にかられる。一瞬振り返り、背後に「それ」の影を確認したまま真尋は走る。
再び声が上がる。上がった声に、真尋の脳裏には何故かふたたび「それ」の姿が見えた。一瞬しか見ていなかった「それ」の姿が、なぜかこと克明に、徐々にその真価を顕にしていく。己自身が「それ」を見たとき、全容そのすべてを把握するよりも前に逃げ出したと真尋は思っていた。何故逃げ出したのかということについては、得体のしれない怪物のようなものが目の前に現れたからだと、その程度の認識でいた。だが実態は違う。彼は「それ」を見て、あまりの風体の有様にその姿を瞬間的に忘却していたのだ。
それの姿は、ある意味で悪魔よりもひどい有様である――――人間でいう顔があるはずの個所はかつてそれが存在したかのような
「この、くそッ」
脳裏に焼き付いたそれを思い出してしまったせいか、足を縺れさせながらバランスを崩しかけた真尋は、しかしてそのまま直進せず横の狭い路地に入った。単純に道が狭ければ自分を追う「それ」を撒けるかという判断があったわけではない。混乱しているため判断に全く余裕がなく、直感的、反射的にそう動いてしまっただけだ。だからこそその進行方向が行き止まりであることに悪態しか出てこない。眼前の単なるコンクリートの壁を殴り飛ばすが、出血と激痛に顔をゆがめる。いや、その痛みのせいでむしろ真尋は多少冷静さを取り戻した。
「なんでだ……! なんでオレがこんな目に――――ッ」
そしてついに、真尋は「それ」を直視してしまった。己の背後にいるだろうそれを振り返った瞬間、真尋は動くことさえできなくなって、そのまま後ろに倒れこんだ。完全に腰が抜け、ぱくぱくと、水中の魚が地上で呼吸をできずもがくように声も出せない。真尋にはわかってしまったからだ。さきほどまで真尋が不快に感じていた音の正体が「それ」の咀嚼音であったことに。人間の顔の輪郭のみをそったような溝のある顔のようなそれが、縦に開き、捕食動物らしい鋭い牙をのぞかせ玉虫色の唾液を飛ばし叫ぶその有様は、とうてい一介の男子高校生が許容できる域にない。
「――――――――――――」
絶叫を上げる。誰か助けてくれと声を上げる。しかし彼の意に反し、体は言うことを聞いてくれない。もはや真尋に抵抗するすべはない。いや、そんなもの初めからなかったに等しい。一体何がどうあればこのような狂気的な名状しがたき怪物を前に平静でいられるものか。霊長類を騙る人類という種族が実際のところ単なる宇宙の塵芥が一つであると再認識させるに十分すぎるその異様たる威容を前にもはや真尋はただの畜生でしかない。振り上げられた長い爪も、びちびちと表面の痙攣する筋繊維が固まりのごとき腕も、もはや彼は正常に認識することが出来ないほどに混乱し、そして正気を失っていた。
空を見上げる。赤く正常な判断を失った狂った世界を前に、這いずることさえかなわず彼は叫ぶ。いや、吠える。そこにはもはや感情も理性的な判断も何も乗っていない、ただただ恐怖からの絶叫に他ならない。未知なる眼前の「それ」に対する恐怖。それそのものに対する恐怖と、それに何かされる恐怖とが折り重なったそれは、しかし誰にも聞き届けられることなく――――――――――。
「"Where there is Cosmos, Chaos lurk and fear reigns――――, But by the insanity story have been told ferret ,mankind was given hope of fake..."」
何事か呪文のごとき女性の声が聞こえると同時に、肉を割き骨を陥没させたような音が鳴った。はっとしてみれば、眼前の「それ」が縦に裂けた口を大きく開き絶叫を上げている。それも一目で原因を納得させられた。「それ」の頭頂部からは、明らかに紫色の、おそらく血液に該当するだろう何かが噴水もかくやという程に溢れ噴出し続けていた。あふれ出た血液のようなそれが天高くマグマ噴火のごとく舞い散り真尋にも降り注ぐ。鼻をつく濃縮された乳製品のごとき匂いで鼻をやられながも、真尋は見た。
ぐらりと体を傾けて倒れ伏した怪物の向こうに居たその相手は、一目でおそらく十人が見て十人とも美しいと形容することが出来るだろう容姿の女性だった。年は二十代後半だろうか。首に赤いマフラーを巻き、黒い革のライダースーツをまとった姿。身長は真尋より高くシルエットはグラマラス。左腕肘より下に無数の時計めいた装置をつけ、腹部には中央のバックルが淡く輝くベルトには懐中時計のようなものがチェーンでつながれている。膝まで届くほどに長く艶やかな形容しがたいほどに美しい髪。まるでこちらを見下すような無表情が印象的で、そして非人間的な恐ろしさを真尋に抱かせた。
「語るに及ばず言うに及ばず、仕込みは十全にはしているものの中々スリリングなことになってしまっている感じですねぇ」
ふとその超越者がごとき表情に人間的な色が灯り、にこりと向けられたほほ笑みはたいそう可愛らしいと形容できるだろう。少なくとも真尋の趣味の顔形ではある。しかしてそれに何かしらの反応も返せず、ぱくぱくと、やはり声が出せない彼。
「まぁ、ちょっと待っててください。――――ほら、逝っていいよ」
真尋に向けていた笑みをすぐさま非人間的なそれに変貌させ、彼女は怪物の頭上に刺さっていた何かしらの金属のそれ――――一般的に言えばバールであるが、それを抜き、振り上げた。紫色の血液とともに先端になにかしら、怪物の角の根元が刺さったのか共に抜き放たれる。それを気にせず容赦なく、彼女は怪物の頭部に振り下ろし続けた。あまりの光景に声が出ない真尋であるし、しかしてそれ以上に胸元にこみあげてくる嘔吐感を抑えようがない。
やがて、直接的な表現を回避するのであるならば、くちゃくちゃに、ぐちゃぐちゃに、ズタボロにされたその肉片を蹴り飛ばし、腕時計のような装置を外して真尋の左腕に取り付ける彼女。ひんやりとした年上の女性の指の感触に一瞬気が動転しそうになるが、しかしそれ以上に取り付けられた装置が気になった。それは一言でいえば小さな十面ダイスを二つ並べたものを円盤状のそれに取り付けたような道具である。そのダイスが、突如からからと回転を始めた。やがて何周かすると、真尋の脳裏に、96、という数値が思い浮かぶ。それと同時に、ぜいぜいと今まで出ていなかった声がいきなり発声できるようになった。まるで金縛りが突如解けたようなその有様に愕然としながら、目の前の有様を視界から外しつつ彼女を見上げる。
「あ、アンタは――――?」
その問いかけに彼女は少し思案するような顔になって。
「きざまれた時計、夢まぼろしの霧に消える――――うん、夢野霧子とでもお呼びください」
にっこりと笑いウィンクしたその彼女は、しかしどうしても偽名を名乗っている印象がぬぐえなかった。